Last up date:2011/02/10

定窯調査2000年8月


2000年8月の終わりに北京を訪れ、孟祥傑先生の手をわずらわせて憧れの定窯址を訪れました。
北京から、高速道路を曲陽にむけて3時間、国道を1時間余で霊山につき、さらに道なき道を1時間ほど彷徨して目指す澗磁村につきました。




 


定窯址は、昭和16年4月に小山富士夫先生が発見された宋代の名窯です。

村の農道を5分ほど走ると、みどりの草に覆われた台地が広がります。これが窯址なのです。
窯跡の歴史を示すプレートもなく、まして特別の囲いなどもありません。ただ道端に土塀のように盛り上がった土の中に、果てしもなく窯道具や陶片が堆積し、露呈しているのです。





窯道具や草に足をとられながら、台地にのぼると、目の前にレンガ造りの村が見えます。
そして夏草の間に、白い骨のようなサヤや焼けた窯土に混じって紛れもない定窯の器の破片が散乱しているのです。
かつて、小山先生が、戦火をくぐって捜し求めた光景が、目の当たりにあるのだと思うと感無量でした。
半世紀以上も昔のことですから、あたりの風景はすっかり変わってしまっているに違いありません。


窯址の調査も、馮先銘先生を中心に、数次にわたって徹底的に行われたと聞きます。
それにもかかわらず、広大な定窯はかつての面影を失っていないように思われたのです。



ごつごつした素焼きのサヤは、いまでも日本のあちこちで使われているものと変わらないようで、懐かしい気がしました。
孟先生や同行の友人たちと、いくつか小さな破片を拾い集め、しみじみと眺めてみました。
長い間、土の中にあり、雨風にさらされていたので、定窯独特の柔らかい味わいは失われたものが、ほとんどでしたが、土や高台や釉薬の調子が具体的にわかるのが何よりでした。
釉の流れを示す「涙痕」も確認できました。


1時間ばかり、散策したあと、村の入り口の文物保管所を訪ねました。
門をたたくと若い係員が出てきました。彼は、自分でもロクロをひいて、定窯の名品のレプリカを作っていました。なかなか優れた腕前なので感心しました。
彼が、御手本にしている名品の文様の型紙や、陶片を見せてくれました。型紙は、自分でトレースしたもので、大変な努力がいったと思います。
陶片は、窯址で私たちが見たものより大きめで、すばらしい上がりのものばかりでした。

若い係員は、保管所の鍵を持っていませんでしたが、幸いなことに暫くすると年配の責任者がもどってきました
彼は、簡単な鍵を開けて、2室の保管室を見学させてくれました。
完品はわずかでしたが、見事な品物ばかりでした。発掘された資料のうち、優品は北京などの然るべき研究施設に収められてしまっているのでしょうが、貴重なコレクションです。
特に、薄手の天目の美しさには、目を奪われました。

写真の撮影許可がおりなかったのは残念です。
左の写真は、保管所の入口付近にある、倉庫の内部です。
ここにも未整理の発掘品が収められています。
手前にある、無骨な緑釉の陶片は、定窯の歴史を知る上で興味深い品だと思います。



澗磁村にかぎらず、この地方一帯は、石炭の産地で、いまも道端に堆く石炭を積み上げ、作業をしている人達を見かけます。
この石炭を利用して、レンガを焼く窯をいたるところで見ます。
こうした風土が、定窯をそだてたのでしょう。
3時半頃に村を出て、また道なき道をたどり、北京についたのは8時を過ぎていました。
わずか1日の調査でしたが、かけがえのない旅でした。
同行してくれた北京の友人たちに深く感謝しています。

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