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船木亨著『ドゥルーズ』

清水書院

はじめに

 


 「今世紀は、いつの日か、ドゥルーズ主義の時代とされるだろう」と、ミッシェル・フーコーは述べています。かれは、少し慎重に「いつの日か」といういい方をしていますが、それにしても、これは絶大な評価です。だれかの時代と呼び得るような哲学者の名は、哲学史上でもたちどころに数えおわってしまいます。ソクラテス、プラトン、デカルト、ヘーゲル・・・。
 しかしながら、フーコー自身のほかの著述からすると、この表現には複雑な印象を受けざるを得ません。哲学は、普遍的な真理を探究する営みです。だれか哲学者の時代というのは、その哲学者によって真理への道筋が拓かれたという意味でありましょうが、フーコーは、「人間は死んだ」と宣言して、各時代の代表者によってそれぞれの時代が説明されるといった歴史観を否定し、時代それ自体が終焉したのだと考えていたのです。ですから、「ドゥルーズ主義の時代」といういい方を、単純に「新たな哲学の幕開け」であるとは読めないように思われます。
 ドゥルーズ(Gilles Deleuze 1925-1995)自身は、これは一種のしゃれなのだといっています。そもそも、フーコーのこのことばの意味は、現在はいまだ「ドゥルーズ主義の時代」ではないということでもあります。時代それ自体が終焉するとすれば、「ドゥルーズ主義の時代」は、永遠に到来しないということなのかもしれません。ですから、フーコーは、その表現によって、ドゥルーズの思想に真理や預言を見ているというよりは、なんらかの独特の期待を込めているということではないでしょうか。
 では、どんな期待でしょうか。決してふれないではすまされないドゥルーズの話題の著書、『アンチ・エディプス』(河出書房新社)────この書物でも中心的に取扱います────の序文において、フーコーはつぎのように語っています。
 「『アンチ・エディプス』を、新たな理論的典拠の決定版として読むのは、誤りであろう。新たな見解や驚くべき概念が噴出してくるなかで、いわゆる『哲学』を探し求めてはならない。『アンチ・エディプス』は、現代版のヘーゲルというわけではないのである。・・・私は、『アンチ・エディプス』は倫理学の書であるといいたい。フランスで書かれた最初の倫理学の書であると。」
 ヘーゲルは、すべてを説明しつくす哲学を発明しました。それに対し、倫理とは、人間が正しく生きるべき指針を与えるもの、ないしはそこで人間が根本的に安らぐことのできる場所を指しています。フーコーが『アンチ・エディプス』を「倫理学の書」と呼ぶわけは、そのなかに「生活の手引」が書かれているからだといいます。
 それは、おそらく世の中を上手に泳いでいくための手引ではありません。あるいは、ひとり賢者になるための手引でもありません。それはまた、決して、西欧文明が求め続けてきた「よい社会」を形成するのに、市民がなすべき行動の理性的基準ではありません。その文明のなかで、それでも個人であるということを一心に見つめなおそうとする実存的生活でもありません。
 フーコーが求めていた「倫理学」は、フーコーの著作を読むかぎり、それらのいずれでもないが、しかし、われわれに生活の指針を与えてくれるようなもののことです。その指針を、フーコーは「非ファシスト的生活への指針」といい直しています。ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?われわれにとって重要なことは、理性的であるか否かということよりも、少なくともファシストでないかどうかということなのです。
 フーコーのいう指針は、『アンチ・エディプス』のなかでは、「逃走線」とか「ノマディズム」とかいうことばで表現されています。それがどのようなものであるのかについては、いずれ本書のなかで明らかにしていくとして、ここのところに「フーコーの期待」が表現されているということだけは、指摘しておきましょう。
 したがって、もはや、真理探究の孤高の営みとしての哲学が問題ではありません。「ドゥルーズ主義の時代」ということで、従来の意味での哲学的時代区分を想像すべきではありません。だいたい、フランスではすでに一九三〇年代から、「哲学」がおわったということが、ささやかれていたのです。
 哲学がおわるとは、一方では、大哲学者たちの過去の遺産から解放されたということでもありますが、他方、よるべき決定的な根拠がなくなっていることを意味しています。そのことによって、現代フランス思想は、全体的に、ラディカル(急進的根本的)であらざるを得ないような方向性を与えられてきたといえるかもしれません。
 そのような危うげな雰囲気は、現代文明の核心を衝いているのでしょうか、それとも、単なる見せかけのものにすぎないのでしょうか。人口爆発・エイズ・オゾン層の破壊など、人類のつぎの世紀の見通しにおける悲観的なトーン────人間がどんどん生れながらばたばたと死んでいく時代のイメージ────は、現実的な危機の予測であるという以上に、哲学なき時代に漂う、文明についての一般的不安といったものを表現しているように思われます。
 では、そのうえで、「現代(近代=モダン)」がおわるということが、どういう意味であるか考えてみてください。時代区分そのものが、近代になってはじまりました。いつの時代でも、ひとは自分の生きている時代を「現代」と考えていたわけではありません。自分が生きている時代を、劣っていた過去の時代と優れた未来の時代の通過点に位置づけ、文明のあるべき究極の姿を目指して努力する人間にとってこそ、近代(現代)ということばが意味をもっていました────その点を、わが国の「近代化」についても考えてみてください。
 それゆえ、現代がおわるとは、人類がつぎの時代に移行するということではありません。正確には、それは、つぎの時代に向かって駆立てられるような人間の生活がおわるということなのです。それは、何万年と同じことを繰返していた石器時代の人間のように、新たなシリコン・チップの石器時代において、人間は「時代なき世界をただ生きる」ということなのかもしれません。
 フーコーは、時代の終焉について語り続けたのですが、そのうえで「ドゥルーズ主義の時代」ということを述べるのは、おそらく、ドゥルーズの諸著作が、終焉についての新たな出発の扉を開いているといいたいのです。終焉の始まりとは、何と奇妙ないい方なのでしょうか。そして、何と謎めいたいい方なのでしょうか。
 そのような不思議な思想を、わたしはこの書物によって、これからできるだけ分かりやすく説明していこうと思っています。
 それにしても、現代フランス思想のさまざまな翻訳書をちょっと読んでみれば、そこで使われていることばたるや、フランス語のままのカタカナでないとすれば、聞いたこともないような漢字の組合せであって、よく分からないけれどもさぞかしすごいことが語られているのだろうと思わされてしまう類のものです。
 ですが、ことばにとらわれないようにしてください。哲学は、ことばの知識ではありません。それは、その過程を通じて得られる知識から区別される何ものかのことです。それらの知識は、知識として取扱われるときには、すでにほかの学問になっています。その知識が有用であるから知りたいというのであれば、その学問を学べばよいのです。
 ある哲学者の思想を学ぶことは、知識を学習することではなく、ましてや世界についてのある実在的なイメージを描くことではありません。同様に、世界はすべて幻想であるとか、すべては運命によって定まっているということこそ、最も避けなければならない結論です。それらは、ものごとを明晰にすることの反対だからです。
 明晰であるということがどういうことであれ、哲学とは明晰であろうとし続けることです。それを学ぶには、結局、経験的事実や常識的知識と対決しながら、どこへ連れていかれるか知らないままに、その哲学者の思考についていくしかないのです。
 ですから、わたしがこれから書こうとしているこの書物は、もしドゥルーズを読まないでもドゥルーズの哲学について語れるようになるためのものだとすれば、いわば「余計なお世話」にすぎません。ですが、せめてドゥルーズという哲学者の本を────すでにたくさんの翻訳が出版されているのですから────手にとってみたいと思うようになる、そのきっかけになったらと願って、わたしもまた、この書物で哲学の道をたどりなおしてみたいと思います。


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