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船木亨著 デジタルメディア時代の《方法序説》―――機械と人間のかかわりについて はじめに


 今後IT化が進んでいくと、ユビキタス・ネットワーク社会が到来するといわれています。その意味は、いつでもどこでもインターネットにアクセスできて、必要な情報を即座に入手するとともに、遠隔操作で機械を自在に作動させ、生活を一層便利にすることができるということのようです。こうした発想は、生活ばかりでなく、個人の社会的組織からの解放にも向かいます。情報の偏在によって生じていた旧来の制度のさまざまな弊害や、地域性や身体的制約や人間関係の桎梏から解き放たれ、ひとびとは平等にいつでも情報を得て、それによって自由に、安価で高質で安全に仕事の競争をすることのできる環境が生じてくるというのです。

 しかしまた、このことが生みだす人間生活と社会情勢の変化は、ひとびとに深刻な動揺を与えているようにも見えます。情報ばかりを追い求めて、何が自分に本当に必要かを見つめないひとびと、機械にふりまわされて自分らしい行動が何かを見失うひとびとが増えてきました。親鸞風にいえば、ひとびとは「情報の広海に沈没し、機械の大仙に迷惑して」います。実際、機械ばかりを相手にしていると、非人間的な行動を平気ですることができるようになるのかもしれません。人間関係は機械的になり、切れやすく、あたかもリセットするかのように自殺したり、人を殺したりしてしまうひとびと、あるいはネット上で人格を多重化し、これまで社会的には受容されてこなかったあやしい欲望を公然と追求しているひとびとがいます。

 今日いよいよ発展しつつあるインターネットとケータイとデジタル家電と監視カメラとICタグ、その他もろもろのデジタル機械類が融合して一大情報ネットワークとなる未来において、世界がこの情報ネットワークに蔽い尽くされていき激変する環境のなかで、人間精神はどうなってしまうのでしょうか。

 

 本書において、わたしは、今後のデジタル化の過程がもたらす人間経験の変容について手探りしていこうと思います。そのなかでいやおうなく問題にせざるをえなかったのは、「歴史」とは何か、「ことば」とは何か、「メディア」とは何か、「オリジナル(起源)」とは何か、「情報」とは何か、「機械」とは何か、「現実」とは何か、「実体」とは何か、「科学」とは何か、「真理」とは何か、「精神」とは何かといったような哲学の基本的諸概念でした。

 デジタルメディア時代に近づくにつれ、近代においては明確に定式化されてきたこれらの概念が次第にほどけはじめ、ことごとく曖昧になってきます。概念とは時代のひとびとの無数の問と答の結び目のことなのですが、デジタルメディア時代において、どのように近代の諸概念が危機に瀕し、どうようにしてそれらをたてなおしうるのか―――現代の情報諸機械とその歴史について調べながら、わたしには、そのことを論じる必要があると思えてきたのです。

 哲学は、過去の哲学者の書いたことと、そこに出てくる抽象的概念相互の関係についての話ばかりをすると思われているかもしれません。しかし、わたしは哲学の最も重要な仕事は、生きている時代の意味を解読し、そこでひとびとが潜在的に志向しているものが何であるかをあきらかにすることではないかと思います。近代哲学の父、デカルトもまさにそのような意味で『方法序説』を書いたのではないでしょうか。わたしがそれに準じるものを書こうというのはおこがましいですが、せめてその姿勢で、現代の社会が向かっているものの根本的な問題性をあきらかにしたいと思っています。

 そのように大げさにいわずとも、現代の社会が向かう方向のあやうさについては、多くの哲学者がすでに警告を発しているではないかと思われるかもしれません。しかし、「警告」を発するのは、かれらが近代の理念に準じているから、それにのっとってでしかないと思うのです。確かに近代的理念のひとびとにとって、現代の状況は反啓蒙、迷妄化です。とはいえ、危険の可能性を警告するばかりでなく、こうした歴史のあらたな方向がなぜ不可能ではないかを、だれかが論じるべきではないでしょうか。

 

 実に現代の技術は、一切の機械のデジタル化を推進しているように見えます。デジタル化によって情報ネットワークが生まれ、どんなデータもたちどころに流通し、変形されて集積され、その膨大さによって世界のごときものが生まれてきます。なるほどこうした過程は戦争や環境破壊によって簡単に転覆されてしまう体のものですから、この未来を精密に描きだすことにあまり意味はありません。しかし、むしろこうした趨勢のただなかにおいて考えられることとして、そのとき、人間経験はどのように変化していくのか―――これが、本書のテーマです。自由で平等な理性的主体が新しい技術を使いこなしていく方法についての解説は多いのですが、そうした主体の経験自体もこの状況のもとで変化し、その基準としての人間と世界の関係がこれまでとは別のものになってしまうとき、それをどう肯定、ないし否定したらよいのでしょうか。

 人類がアフリカを出発して十数万年といわれますが、その間、どの時代どの社会の人間も、基本的にはおなじ普遍的な問を問い、話せばわかる相互理解のもとにあったとするのは、想像力の豊かさというよりも、単にその欠如です。時代ごとに世界の捉えかたも変わるとすれば、すべての時代の人間のありかたを順に並べていく共通の平面のようなものはなく、ほんの数十年前に生きた人間が前提し命をかけたこともすでにリアルに感じられないという現実から推すならば、数十年後の人間たちが、思いもよらぬ生きかた感じかたをしうるということを受け容れる方が、ずっと想像力を要すると思うのです。

 ここで、誤解のないように申し述べておきますが、わたしはこうした議論を通じて、社会がデジタルメディア時代に向かうことを推進したいわけでも、それに反対しているわけでもありません。学問なのですから、好き嫌いや、まして自分の実践を正当化するといったことからは、距離をおかねばなりません。どのような根拠、どのような意味で書くかを意識する「学問性」が重要なのです。ですから、IT化政策に賛成のひとも、それに反対のひとも、この本を読んで、それぞれ考えるきっかけにしていただければと思いながら書きました。あるひとにとっておぞましく感じられるおなじ箇所が、別のひとにとってはわくわくさせられるというように読めるかもしれません。いずれが正しい読みということはなく、両方の立場のかたがたに読んでいただくことができたら、わたしもこの本を書いたかいがあったというものなのです。


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