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木鐸社『ランド・オブ・フィクション

────ベンタムにおける功利性と合理性』の序文と目次

             船木 亨(c)

 

 

 

 

 


 最近話題になっている生命倫理や環境倫理においては、功利主義的思考をどう取扱うかは、避けて通れない主題である。ところが、現代の英米の研究者たちは、特になにがしかの原典に参照することなく功利主義を論じることができると前提しているふしがある。そして奇妙にも、多くの研究者たちが、功利主義を批判することを通じて自分の論証を確立しようとしてきた。「奇妙にも」というのは、現代には、明確に功利主義の立場を主張する思想家がほとんどいないにもかかわらず、功利主義の批判者が頻出しているのだからである。

 かれらの仕事からは、普通のひとびとが功利主義的に思考することを懸念してはいるが、論敵としての功利主義が首尾一貫した議論であるかどうかについてはあまり関心がないということが窺い知れる。かれらは、功利主義を批判することを通じて、はじめて自分の思考を見出だすことができるのであるが、かれらの思考をあわせて検討した場合、かれらのいう「功利主義」が、自分たちの思考の反対物を取纏めた単なるキマイラ(空想上の怪物)でしかないかもしれないということに、思い及んではいないように思われる。

 教科書的にいえば、功利主義の創始者は、ジェレミィ・ベンタム(1748-1832)である。しかし、功利主義は、ある意味でイギリス伝統の思考様式であって、思想史においては、一八世紀にこうした思想が現われてくるまでのいくつかの系譜が描きだされてきた。その系譜次第で、功利主義が何であるかが分かれてくる。功利主義といっても、必ずしも一様ではないのである。だが、わたしは、「功利主義」ということで、ベンタムの思想を取上げたい。わたしは本書において、功利主義一般というよりも、ベンタムにおける功利主義、「ベンタム主義」の哲学を、その形而上学からふまえて明らかにしたいと企てているのである。

 ベンタムは、通常、イギリスの伝統的発想と大陸の近代合理主義思想の双方にまたがって、功利主義思想をはじめて明確にした哲学者であるとされる。だが、その思想の全体を見てみると、かれの功利主義には、ベルクソンやニーチェ、C.S.パースの先駆者に位置づけられるべき哲学があり、フロイト的、マルクス的、ソシュール的な発想が含まれていたとわたしは思う。

 残念なことに、そうしたかれの哲学は、いまだよく知られていない。そのわけは、功利主義的な発想に馴染んでいる当地のひとびとに、ベンタムが従来の功利主義的発想を定義するときに、そのことを通じてこれを乗超えようともしていたということが見えなかったからではないだろうか。また、近代に対するラディカルな批判者としては、早く生まれすぎたということもあろう、JSミルをはじめとするベンタムの継承者たちの理解がついていけなかったところがある。それゆえ、ベンタムには哲学がないなどという誤解が、最近まで力をもち続けた。だから、わたしには、かれの哲学がどのようなものであるかということ以前に、そもそもかれには哲学があるのだということを示すだけでも、重要なことだと思われた。

 ところで、一部には、ベンタム主義は、近代西欧哲学の最も醜悪な部分を代表する思想であると考えるひとたちがいる。たとえばケインズは、「蛆虫ベンタム」という呼び方までしている。そうした哲学を、なぜいまさら明らかにしなければならないのかと思われるかもしれない。

 だが、その醜悪さは、はたしてベンタム自身のものであろうか。ベンタム主義がメジャーであった数十年のあいだに、ベンタムの思考は近代西欧哲学の基本的枠組を駆足で逸脱していった。かれは、近代西欧哲学が最初から進みつつあった方向として、人間精神を科学的技術的な対象にすることについて、とりわけ徹底していた。そのために、ベンタム主義はしばしば精神科学へのラッダイト運動に曝されてきた。

 むしろわたしは思う、ベンタムが嫌悪されるのは、おそらくは一種の近親憎悪によって、そのひと自身の思考のなかにどうしてもベンタム主義的なものが紛れこんでしまっているからではないか。ベンタムを嫌う思想家は、未開人のあいだに暴力や乱婚を見出だした「文明人」と同様に、自分のなかの醜悪さをそこに投影し、そのことを自分が醜悪でないことのアリバイにしようとしているのではないか。

 わたしは、醜悪と見られるベンタム主義こそが、逆に、西欧近代の最良にラディカルな批判だったのではなかろうかと考える。ニーチェが指摘したように、乗超えとは、反対側に回ることではなく、むしろ同一の方向で徹底することでしかないとすれば、その意味で、ベンタムは、近代西欧哲学を真正面から乗超えようとしていたのである。

 わたしがベンタムを気にするようになったのは、たまたま、かれが思想史上において最高にマイナーな哲学者になっていることを知ってからである。歴史に埋もれてしまったりは、決してしていない。マイナーでありながら、「否定されなければならない」という点ではメジャーな哲学者として、ベンタムは思想史に厳然と屹立している。

 多くの哲学は、思想としてはメジャーでありながら、人間のあり方としてはマイナーである。それなのに、功利主義は、思想としてはマイナーではあるが、人間のあり方としては、とりわけ現代において、いよいよメジャーなものになりつつあるような気がする。このような哲学を、思想という枠組のなかにおいて、もう少し明らかにしなければならないと、わたしは考えるようになった。

 だが、ベンタムは、哲学を研究する際の基本的枠組からはどうにも捉え難く、また、テキストがあまりに断片的なので、それをどのような哲学として出現させるかは、もっぱら読み手にかかっているようなところがある。だから、最初から、ベンタムを哲学の乏しい社会改良家としてしまう意見もあるのだが、ベンタム自身は、「やむを得ないながら奥義のようなものがある」と述べていた。つまり、はっきりとは書き残さなかったが、かれ自身が意識していた「知られざる哲学」があるわけだ。現代の著名な法哲学者であるHLAハートも強く要請しているように、「ベンタムは読まれなければならない」のである。

 それにしても、ベンタム哲学を解明しようとすることは、あたかもジグゾーパズルを組立てているかのような大きな困難に直面させられることを意味する。しかも、そのジグゾー片が決定的に不足していて、完全な絵になることが、最初から期待できそうにもないのである。それゆえ、これを適当なジグゾー片によって埋めることもやむを得ないように思われるのだが、そのために、わたしは、通常行われるように、あまり思想史的文脈を使用しなかった。

 思想史的文脈とは、人名や書名、その他の文辞的記録を標識としつつ、思考を河の流れのように示す研究手法である。これによると、どんな思考も、当時の時代と社会の思考の一支流として位置づけられることになる。だが、そのような河の支流としては、ベンタム的思考は、ワジ、すなわち砂漠のなかでいつのまにかその水脈を絶ってしまう河のようなものに見えた。そして、その水源が伏流水となって、思想史的には捉えがたいさまざまな現代思想のデルタ地帯を潤しているのだというように思えてきたのである。

 そこで、わたしは、回顧的錯覚と呼ばれるかもしれないが、わたしの知っているいくつかの現代思想から借りた論理によって、不足しているジグゾー片を補うことにした。したがって、わたしの描きだそうとしているベンタム像が、ほかのひとが試みれば多少は異なった絵になるかもしれないことは承知している。しかしながら、わたしは、少なくとも文献的には、ベンタムが決していわなかったことをいったことにしたりはしていないし、つけ加えている部分は明らかにしているつもりである。

 わたしの意図としては、ベンタム的思考を新しいカバー・バージョンによって表現し、ともかくも読者に、考えやすい思考について考えていただくことの喜びを共にすることにあった。それが、一方では西欧近代の意味を少しでも暴露する道であるとともに、現代の縺れた倫理的状況に一条の光を投げかけることになるはずだからである。

 さて、本書でわたしが論じようとしている中心的なことがらは、副題にあるように、ベンタムにおける功利性と合理性の関係である。よく知られているように、ベンタムは、人間を快を求め苦を避けるだけの存在であるとした。もし文字通りにそれだけなら、かれは功利主義といった「思想」を主張することすらできなかったであろう。思想を主張するには、知性が必要である。それゆえ、ベンタムは、どこかに知性に関する理論を用意しており、合理的と呼ばれる現象について何らかの考えをもっているのではないかと思われた。

 そのような問を追って、わたしはかれの言語哲学、「フィクションの理論」に踏みこむことになったのだが、それこそ、以前から研究者のあいだで話題になっていた、ベンタム思想を解読する鍵だったのである。そして読者は、言語における知性の探究のなかで、────本書の標題であるが────、世界とは「ランド・オブ・フィクション(虚構の国ないし虚構の大地)」であるという、ベンタムの謎めいた主張に出会うことになるであろう。そこから、ベンタム功利主義の、まったく新しい読み方が姿を現わしてくるのである。


   目次


 

第一部 こころ──────能力の批判

第一章 感性的存在

    1 「豚の哲学」とはどういう意味か

    2 法は恐怖の感情の活用である

    3 言語の堆積が法を産みだす

    4 言語のなかの知性

    5 理性の原理」と「功利の原理」

第二章 情念のオペレーション

    1 計算するのは情念である

    2 意図は行動に対応しない

    3 意図は行動の原因ではない

    4 心的諸能力は言語でできている

    5 人間のこころはフィクションである

第三章 サンクション

    1 行動は時間である

    2 モーション・アクション・パッション

    3 行動の一貫性はサンクションによって与えられる

    4 自然あるいはフィジカルサンクション

    5 快苦の原子

 

第二部 ことば──────意味の批判

第四章 声と権力

    1 言語の起源にある完全命題

    2 ことばは功利性による

    3 現前の欲望

    4 語が感官を通じて経験に関連づけられるやり方

    5 ことばはフィーリング

第五章 記号とフィクション

    1 記号とコミュニケーション

    2 語と観念は一対一に対応しない

    3 表象オペレーションvs. 連合オペレーション

    4 ランド・オブ・フィクション

    5 虚構的実体

第三部 こと──────真理の批判

 

第六章 意志論理学

    1 情念と言語

    2 ことばの正しい使用法

    3 技術科学の中心には論理学がある

    4 観念を明晰にする方法

    5 ベンタムの形而上学

第七章 幸福学

    1 われわれが理性的であるとはどういう意味か

    2 情念あるいは知性の根源的劣性

    3 合理性と真理について

    4 最大幸福のためには最大ディシプリン

    5 最大幸福はネガティヴな真理である

 

結び

あとがき

索引


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