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船木亨著 メルロ=ポンティ入門 冒頭部分


1 哲学に入門する

 

 哲学ということで、多くのひとが「人生の教え」といったものを、イメージしている。ところで、この本のタイトルは、『メルロ=ポンティ入門』である。メルロ=ポンティに「入門」したいと少しでも思いついた読者は、メルロ=ポンティにおいて、人生はどのように教えられるのだろうか、と関心を抱いておられるかもしれない。

 「門を入る」とは、どういうことであろうか。それは、人生の奥義をえるべく、その道を歩みはじめることであろうか。

 「門」というものが、そもそも「人生とは何か」についての重大な契機を暗示している。F・カフカの小説に、ひたすら門を開けてもらうことを待ち続ける男の短い話があった。問い方が悪ければ、なかに入ることすらもできないのである。

 鳥居など、宗教的なものについて、思い浮かべてみてもらいたい。鳥居をくぐると、そこは神の降臨する聖なる空間であって・・・

 と、ここまで喋ったとき、

 「 ―――そこまでの意味はないですよ。」

と筑摩書房の編集長は、あっさりといった。

 このひとは、いつもあっさりと否定するのである。新宿ゴールデン街で飲んでいたときも、わたしが「メルロ=ポンティの『知覚の現象学』をはじめて手にしたとき、こんなにずばりと本質をついた哲学書があったのかと、手に汗握りながら、一晩のうちに読んだんです」と語っていると、かれは即座に、

 「船木さん、あれは下巻が随分あとになって出たんだから、そんなことはないですよ。そうやって自分を神話化しちゃいけないな。」

 と、こともなげに、ささやかなわたしのエピソードの実在性を否定してくれたものである。

  ―――わたしは、下巻が出たときに上巻と一緒に買って読んだんです。確かに「手に汗握って」というのは、冬だったのでストーブの上で手をかざしながら読んだせいもあるでしょう。それは、少し誇張があったかもしれませんがね・・・

 

哲学の難しさ

 その件はともかくもである。入門についての話のときは、さすがにわたしも、

 「けれども、哲学というのは、入門するようなものではないんです。」

 と食下がった。

 哲学は、概して難しいとして敬遠されている。

 就職面接に行った学生から聞いた話だが、在籍学科の名前を聞かれて、「哲学科です」というと、「難しいことをやっているんですね」といわれ、それで会話はいきづまってしまうそうである。 ―――あとは気まずい沈黙。

 「ほかの学科だったら、卒論についていろいろ質問されるんですけどね。」

 と、その学生は不満そうな顔つきで説明した。

 誤解のないようにいっておくが、哲学科だからといってとくに就職率が悪いわけではない(ほかの学科とおなじ程度に悪い)。

 それにしても、哲学を遠ざけて、哲学とはどのようなものか尋ねてみようとすらしないひとびとに対して、どういってやればよいのだろうか。何が悪くてこうなってしまったのか、わたしは密かにリストを作っているのだが、ここで披露してあえて敵を作ることはしないでおこう。

 で、わたしの知るところ、そのように教えてくれた学生が、卒論でそれほど難しいことをやっていたようには思えなかった。

 確かに哲学にも、難しい部分はある。認識論的問題や形而上学的問題は、いかにも難しい。メルロ=ポンティも、後期においては、とくに形而上学的問題に関わり、『見えるものと見えないもの』(みすず書房)という草稿を遺している。

 こちらはこちらで、それをなんとか解釈しようとしている幾多の論文の方が、原文よりもさらによく分からないといった体の難しさがある(何のための論文なのだ)。原文は、「見る」ということを巡って、人間経験を根底から理解させなおそうとするすばらしい文章の連続からなっていて、訳すのがもったいないくらいであるが。

 哲学のこうした難しい部分は、さすがにテキストを少し読んで分かるというわけにはいかない・・・十年くらいはかかる。

 入門書を読んでいる読者は、そのことをよくご存じであろう。だからまず入門書を読んでみようと思われたのであろう。

 とはいえ、数学や物理学のようなほかの学問と同様、そうした種類のことは、入門書を読んだだけで分かるようになるというわけにもいかないのだ。

 

倫理学

  そのようなことをいってると、読者に嫌われてしまうかもしれない。哲学は、難しいとされながらも、真剣に読めばかならず理解できるはずだ、そう、どこかしら信じられていたりするからだ。

 すなわち、哲学とはいえ、所詮おなじ人間が、書斎のようなところで腕組みして考えたことだ。人生の意味や経験の価値について、それぞれがかれらとおなじだけの資料はもっている。しかも、人生について教えてくれようというのだから、(すべてのひとに人生がある以上)だれにでも分かるように語られてしかるべきだ、というわけである。

 そのように考えるひとは、多分、哲学を倫理学と取違えておられるのである。

 それだけではない。さらに倫理学を「人生の教え」と取違えておられるのである。

 西欧哲学にも倫理学があるが、それは世界的に見ればひとつの倫理学にすぎない(とわたしは考えている)。日本の伝統的思想はもとより倫理学的であって、確かに「人生の教え」たらんとする思想が多かった。だが、それもひとつの倫理学にすぎない。わたしは、二十年以上倫理学の研究をしてきたが、倫理学の領域も含意も随分と広いのである。

 それでは、倫理学とはどのようなものか ―――と話しはじめると、『メルロ=ポンティ入門』という題名の本ではなくなってしまう。そこで、少し話は飛ぶのだが、わたしはこの本でメルロ=ポンティの倫理学について書いてみよう、という結論に達したのである(随分飛んでしまった)。

 というのも、わたしは(忘れていたが)メルロ=ポンティに対して、ずっと、かれの倫理学を問いただしながら生きてきたのであった。そしてわたしもまた、哲学に対しては、わたしが知りたいことを、そしてわたしが分かるかぎりで分かることをこそ尋ねていきさえすればそれで十分ではないかと、密かに考えているのではあった。


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