その他(教育・研究)
第05回 (2002.06.13)
【 秩父・奥多摩山地の岩塊流(がんかいりゅう) 】
苅谷愛彦・三枝 茂(1993)季刊地理学、45,254-265.
三枝・苅谷(1994)季刊地理学、46,173-175.
三枝(1993)季刊地理学、45,266-268.などにもとづく。

【図0】
山梨県塩山市の北にある小烏山(こがらすやま;1403 m)や、 同市から奥多摩に通じる青梅街道柳沢峠(1470 m)東方の山地には谷を埋める岩塊流が多数分布します。 岩塊流は巨礫が集まり線状-帯状をなすもので、面状に広がると岩塊斜面とよばれます。 分布高度が約 1000-1500 m である本地域の岩塊流は樹木に覆われ、現在形成されているようにみえません。 しかし高山帯や極地域では周氷河作用によって岩塊流や岩塊斜面が形成されつつあるため、 化石化した岩塊流・岩塊斜面は過去の寒冷環境の指示者とみなされることがあります (小口、1992 地理学評論 62;小泉武栄、1998 岩波新書 541 など)。 図は小烏山南面の岩塊流(標高約 1000 m)です。1992年12月。

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【図1】
それでは、本地域も過去に高山帯のような環境におかれたと考えてよいでしょうか。 それが正しいなら、周氷河帯下限は現在より約 1500 m (気温換算約 9 ℃)も低下したことになります。 一方、本地域を含め、関東山地の岩塊流が周氷河性であることを疑う意見は以前からありました (岩田、1987 日本第四紀地図解説など)。 なぜなら、岩塊流は周氷河環境と必ずしも関係ない大規模崩壊や土石流でも形成されるからです。 岩塊流を使った古環境論では成因の判定が重要であるにもかかわらず、 一部(清水、1992 地理学評論 62)を除き、本地域の岩塊流の成因を吟味した研究はありませんでした。 図は小烏山の岩塊流を覆うサワラの大木です。1988年6月。

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【図2】
私たちは岩塊流が周氷河性かどうかを検討するため、 小烏山や柳沢峠周辺の岩塊流の分布を把握することにしました。 本地域の斜面の多くにはカラマツやヒノキが植林されていますが、岩塊流の上は土壌を欠くため、 植林できずに放置されています(図3)。そのため岩塊流と周囲の斜面の植生は明確な対照として空中写真でも、 また現地調査でも容易に識別されます。 とくに小烏山周辺の空中写真は岩塊流部分を残して樹木が伐採された直後(1976年)に撮影されたので、 岩塊流だけを簡単に判読できました。この結果、岩塊流の大部分は谷底に分布し、 尾根まで達するものや岩塊斜面はほとんど存在しないことが判明しました。 これは、岩塊流の成因を考えるうえでとても参考になります。図は苅谷・三枝(1993) の図1 を改作したものです。

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【図3】
小烏山の南に分布する岩塊流です(図2左上付近;下図は色反転処理画像)。 谷底に広葉低木が、周囲の斜面に針葉樹の植林がみられます。 岩塊流が周氷河性なら、風あたりの強い尾根上の裸地や岩壁で岩塊が生産され、 それが斜面上を滑動して谷底に徐々に集積したことになります。 その際、谷底まで達しなかった岩塊は斜面上に残っていてもよいことになりますが、 そんな岩塊は皆無といってよいほど見つかりません。 もちろん、全ての岩塊が谷底に達するのに合わせて周氷河環境が消滅したとも考えられません。 ここで、私たちは岩塊流の分布に再度着目しました。 当時(1990年代前半)は「後氷期開析前線(遷急線)」という概念(故羽田野誠一による)が よく取り上げられていたこともあり、私たちも遷急線を抽出することにしました。 遷急線は、基本的に斜面崩壊で形成されるので、それと岩塊流との位置関係が把握できれば 岩塊流の成因に迫れるのではないか、と考えたのです。1992年5月。

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【図4】
予想どおり岩塊流の多くは遷急線より下位に存在していました。 岩塊流の側方の谷壁に複数の遷急線が存在するのは珍しくありませんが、 逆に尾根から谷底の岩塊流まで遷急線を挟まず斜面が円滑に続く例はほとんどありませんでした。 これは、間接的ですが遷急線の形成後に岩塊流が生じたことを示します。 遷急線の形成前から岩塊流が存在していたら、 遷急線の形成に関与した崩壊物質が岩塊流を埋める(覆う)ことも期待されますが、 そうした例は見つかりませんでした。それでは、遷急線と岩塊流はどのように結びつくでしょうか。 その鍵は現在の崩壊斜面にありました。この図にあるように、 現崩壊地では表層風化層からコア・ストン(風化を免れた新鮮な岩塊)と風化鉱物粒(マサ)が一体となって 谷底に供給されています。この場から鉱物粒だけが洗い出されたらどうなるでしょう。 岩塊が谷底に集積して岩塊流状を呈するのではないでしょうか? 実際、この崩壊地でも下部に萌芽的岩塊流が存在しています。1992 年 5月。

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【図5】
崩壊物質から細粒物質が流され、巨礫だけが残って岩塊流に発達するとの考えは、 岩塊流が遷急線より下位の谷底にしか存在しないことをうまく説明できます。 土石流堆積物中の細粒物質が洗い出され岩塊流になるるとの意見もあります(清水、1992;既出)が、 この説は岩塊流より上流側の集水域が狭い(つまり土石流が発生しにくい)場合には適用できません。 その点、崩壊の反復で岩塊流が成長するとの考えは、尾根直下の岩塊流の発達も説明可能です。 もっとも、これは一つの仮説であって十分検証されていません。 私たちは検証のための野外実験を準備していましたが、無期延期状態です。 なお、羽田野さんは「後氷期」という年代観を用語に盛り込みましたが、 私たちは遷急線の時代論に関する証拠を見つけられませんでした。 小烏山では岩塊流に連続する斜面物質から約7200年前の炭片が発見されたので 完新世に岩塊流が生じたと主張しましたが、資料は1点だけなので今後も検討が必要でしょう。 2002年6月(六本木峠付近からみた多摩川源流)。

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【図6】
岩塊流の起源は多様であり、初生後に別の作用で二次移動している可能性もある ---- 明らかに周氷河作用で生じた岩塊斜面に連続する岩塊流以外は、 即座に寒冷気候の指示者とするのは避け、その成因を慎重に検討すべきでしょう。 これが本研究を通じて得た感触です。 最近、柳沢峠や小烏山を再訪し、岩塊流の多くは周氷河性でないとした私たちの見込みは 基本的に間違っていなかったことを再認識しました。 一方、当時は積極的に扱わなかった岩盤崩落型地すべりによる岩塊流形成の可能性についても 検討すべきと感じました。2002年6月(柳沢峠付近の森)。

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小烏山:
JR中央東線塩山駅から自動車で25-35分。
上記論文の記載露頭の多くは現存するが、植被が密で観察はやや困難。

柳沢峠:
JR中央東線塩山駅から自動車で25-35分。
大菩薩嶺への登山道沿い(六本木峠-丸川峠間)で岩塊流が顕著。


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