新井 浩太
目次
第一章 はじめに
第二章 群像劇とは
第一節 群像劇の定義
一、手法・ジャンルとしての群像劇
二、意味から見る群像劇
第二節 群像劇の受容と展開
一、各メディアによる群像劇
二、ライトノベルにおける群像劇
第三章 成田良悟作品と群像劇
第一節 成田良悟
第二節 成田良悟の作品
第三節 成田良悟作品と群像劇
一、成田作品と群像劇との比較・考察
二、これまでの前提と成田作品の魅力
第四章 おわりに
第一章 はじめに
有史以来文学は様々な形で表現され、今日まで受け継がれて来た。その中でも最たるものが小説であり、近世、近代、そして現代へ至るまでに、そのジャンルは続々と多様化し、今でも枝分かれが進んでいる。そんな細分化が進む現代文学のジャンルのひとつに、群像劇がある。もともとは「グランドホテル方式」と呼ばれ、映画手法として用いられ始めたジャンルであるが、その効果や目新しさは映画界のみならず多方面で作家や作品そのものに影響を与えてきた。近年でも、三谷幸喜監督『THE 有頂天ホテル』(東宝系、二〇〇六)やローランド・エメリッヒ監督『デイ・アフター・トゥモロー』(二十世紀フォックス、二〇〇四)、伊坂幸太郎『ラッシュライフ』(新潮ミステリー倶楽部、二〇〇二)など、各媒体から大ヒットとなった作品が数多く存在する。本論ではまず、群像劇というジャンルについて考察していく。これを論じるにあたり、群像劇というジャンルは名前こそ知られているが、明確なジャンルとしての線引きはまだされておらず、定義がはっきりとしていない。そのため、群像劇の定義を仮定し、本論における群像劇の意味を明確に据えることをまず目的とする。
その仮定を踏まえたうえで、各媒体における作品の群像劇的特徴、特性について考えてゆく。その中でも、ライトノベル作家・成田良悟の作品について特に詳しく取りあげ、考察していきたいと考える。氏の作品は、ライトノベルという媒体でありながら、これまで執筆したすべての作品が群像劇であるというある種異色な経歴のライトノベル作家である。代表作のアニメ化などもあり、非常に人気の高い成田作品はどのように考え創られてきたのか。そして最終的には、氏の持つ作品の魅力ならびに群像劇とライトノベルとの親和性、そして読者たちが魅了されるその理由に迫っていきたい。
第二章 群像劇とは
第一節 群像劇の定義
一.手法・ジャンルとしての群像劇
はじめて群像劇というジャンルが登場したのは、一九三二年にアメリカのメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社によって制作された映画『グランド・ホテル』(監督:エドマンド・グールディング)においてである。「グランドホテル方式」という名を残すまでに至ったこの作品は、舞台劇をもとにして作られ、当時としてはまったく斬新なストーリー展開が話題を呼び、大ヒット作品となった。この作品のヒットを受けて、以降映画において、そして更に小説やドラマ、ゲームと多岐にわたって群像劇の手法が取られることになっていった。『グランド・ホテル』はその名の通りホテルを舞台の中心とし、登場人物たちの人生模様が描かれている。ベルリンの一流ホテルに集った落ち目のバレリーナ、企業の社長、借金漬けのコソ泥男爵といった、個性ある人々が同時間に交錯し、ストーリーが進んでいく。舞台としての場所の転換はなく、ホテルのみを基点として話が進められており、そこで登場人物たちが動きまわる、というのは一九三〇年代当初の映画界においては非常に革新的なことであった。今現在、世界中においてこの形式を元にした作品が数多く世に生み出されているという点からも、この作品の斬新さと先見性を見てとることができるだろう。
一ジャンルとしてこれを契機に次々と模倣した作品が登場し、今日の作品群へと繋がることとなる。
二.意味から見る群像劇
次に、インターネット上における群像劇の解説から、本論における群像劇の定義を考察していく。第一章で述べたように、群像劇というジャンルそれ自体は明確に確立されているわけではなく、あくまで一つの方式として捉えられている側面が強い。加えて手法としては比較的新しいものであるため明確な定義が存在せず、それについて論じられているものも少ない。そのためここでは、各解説から群像劇の特徴・特性を見出し、本論における群像劇の定義を決定づける。
まず、インターネット百科事典「Wikipedia」では、次のように述べられている。
グランドホテル方式とは、映画において同一時間及び同一の場所に集まった複数の人物の行動などを、同時進行的に一度に描く作品の手法のことである。映画『グランド・ホテル』によって効果的に使用された為、この名が付いている。群像劇、群集劇、アンサンブル・プレイとも呼ばれる。(略)特定の場所で共通した事件が起き、それに巻き込まれた人々のそれぞれの行動や言動などを、ストーリーを交錯させつつ描いていく。[1]
続いて、インターネット百科事典「はてなキーワード」においては、次のように述べられている。
「それぞれの物語」を持った複数の登場人物によって進行していく創作物の総称。大雑把に「大きな事件とそれを取り巻く人々」を描くタイプ(事件や状況が主役の話)と、「○○で◆◆な青春群像を描く」と形容されるような個々の登場人物に焦点を当てていくタイプ(主役級の人物が複数存在する話)に大別できる。単に個別の物語を集めただけであれば、それは「オムニバス」と呼ばれる形式である。群像劇と呼ばれる場合、それらの物語の間になんらかのつながりが存在していることが前提となっている。例えば、それらの物語がより大きな物語の一部をなしているとか、直接的に影響(作用・反作用)を与え合っているとか、時間と空間が共通しているので否応なく関連性が発生するとかである。[2]
最後に、オンライン百科事典「ニコニコ大百科」においては、次のように述べられている。
群像劇とは、映画・演劇・小説などで使われるストーリー手法のひとつ。グランドホテル方式、アンサンブル・プレイ、群集劇とも呼ばれる。群像劇には以下の二つのパターンがある。
一、同一の世界観や舞台においてそれぞれ別の人物による完全に独立した短編がいくつも同時進行しているもの。例えばひとつの学校内の複数の人物を別個に描くものがこれに当たる。
二、一と同じく、同一の世界観や舞台でそれぞれ別の人物による独立した複数の物語がつむがれるが、一見バラバラなエピソードに見える複数の人物のストーリーが、全体を通して知ることで一つにまとまり本当の姿を現す手法のこと。[3]
以上の解説から、まず群像劇には大別して二つの区別がつけられると考えられる。「人物を中心に描くもの」と「事柄を中心に描くもの」である。前者は登場人物に焦点を当てて個々のエピソードを描いていくため、そのエピソードを越えて人物と人物とが次々と交錯を重ねていくわけではなく、ストーリーはほぼ独立したまま完結することが多い。個ではなく集団としての人々を捉えることにより、最終的にそれらが一つのテーマに帰結していくのがこちらの特徴といえる。青春群像劇、などと呼ばれるように、「群像」ということばの本来の意味に近い用法で用いられている群像劇であるといえる[4]。一般的に使われる「オムニバス」と呼べるジャンルに近いものであるとも考えられる。
逆に後者は事件を中心とし、その回りに人物が配置されているような構造である。描かれる人々の行動はその物語の大きな事件に準拠しており、加えてその事件はきわめて距離や時間が近いケースが多く、前者のパターンにくらべて人物が交錯する機会は増すと考えられる。群像劇に多い災害や宇宙人の侵略など、パニックものの作品では特にその傾向が顕著である。バラバラだったエピソードが折り重なっていき、最終的に大きな事件に影響を及ぼすようなパターンもこちらのケースである。ここでは後者の「事柄を中心として描くもの」を主眼に捉え考えていく。
事件を中心とした場合、ストーリーは前述の通り大きな事件が物語全体を取り巻く大きなテーマと成り得る。複数の登場人物のバラバラなエピソードを描くためには、扱われる大きな事件の規模もそれなりに大きくなくてはならない。はじめから登場人物たちが知り合っているような小規模な事件では、たとえ距離や時間が近しいケースに合致していても、交差による新たなストーリーの展開は生まれ得ない。神の視点たる視聴者あるいは読者のみがその全容をつかめるほどの、大きな事件をテーマに取り扱ったほうが、より明確にかつ分かりやすい手法を取ることが出来ると考えられる。
また、キャラクターについては、その数が多くなる場合がほとんどである。もともと、人と人との交差が物語を生み出して行く形式であるため、基本的には人物は多ければ多いほどストーリーの内容は深くなっていく。もちろん一本の作品にするためには終わりを設けなければならず、また映画ならびに舞台手法と考えれば適度な時間内に収めなければならないため、およそ平均的には十から二十名前後の登場人物がいるパターンが多い。そして、キャラクターにおける大きな特徴として、主人公となるキャラクターが存在しないことが挙げられる。一般的な作品においては、物語の根幹に関わる主人公の存在が必要不可欠であり、物語の核の一つであるといえる。しかし群像劇においては、複数いる登場人物のバラバラのエピソードが交差を繰り返すことによりストーリーが展開されるため、主人公格のキャラクター一人に焦点を当ててしまうと、これもまた適切な容量の内に収められなくなってしまう。大きな核としての主人公の存在、というよりも、登場人物たちが集まってはじめてそこにキャラクターの核が生まれるといえる。いわば全員が主人公ともいえるこの形態は、群像劇ならではのものである。こうした理由から、群像劇においては通常の作品と比較すると、登場人物への感情移入がしづらくなるという難点もある。これを避けるためにも用いられているのが、前述した大きな事件である。登場人物への感情移入がしづらい分、ストーリーの大きな事件を感情移入のしやすいもの、つまりは悲劇的ないしネガティブな題材を取り扱っている事が多い[5]。これにより、登場人物のパーソナリティーがどのように描かれるかにかかわらず、視聴者ならびに読者を感情移入させやすくすることができるため、群像劇における大きな事件とキャラクターの関係性は理に適っているものであると言える。
これまでの考察から、本論における群像劇の定義を、「何らかの大きな事件を主軸とする同一性・同時性を持った舞台において、その事件に関わる複数の登場人物たちのエピソードが集まり、それらが最終的に大きな事件へ影響を及ぼすストーリーの形態」とする。もちろんこの定義に当てはまらない群像劇作品も存在するが、本論における群像劇の定義は、前述のものを採用し以後の考察に用いるものとする。
第二節 群像劇の受容と展開
一.各メディアによる群像劇
群像劇の定義が定まったところで、次に各メディアによる群像劇作品の特徴・特性について考えてゆく。第一章で述べたように、群像劇の形式を取る作品は元来用いられた映画作品のみに留まらず、他の畑の作品にも越境している。ここではその内から、映画、アニメーション、ゲーム、小説、そしてライトノベルにおける群像劇について考えていく。
まず、映像ジャンルである映画とアニメーションについてである。この二つの特徴としては、やはり視覚的な面で創意工夫を凝らしやすいという点が大きい。 また、たとえ同室内での出来事であったとしても、カメラの視点を変えていくことによって、視聴者の側には同じ室内でも全く異なった印象を与えることが可能となる[6]。通常は見ることのできない、ホテルの部屋と部屋との断面を移し、二部屋の様子を同時に映す、などといった技法により、視聴者は物語上の神の視点を視覚的に得たまま、群像劇の模様を理解できる。扱われるテーマも大きな事件であるケースが殆どであるため、例えば銃撃戦や爆発、衝突といった事故、世界の崩壊など、映像技術を用いればビジュアル面で大きな効果を使うこともでき、インパクトを付随させることも可能である。
次にゲームにおける群像劇であるが、こちらも基本的には映像ないし画像が付随されるため、基本的な面では映画やアニメーションに近しいものであるといえる。だが、映画やアニメーションにはない大きな特徴として、プレイヤー自身によって操作ができる、というメリットがある。自らがプレイヤーを操作するタイプのゲームにせよ、テキストを読み進めていくタイプのゲームにせよ、未完のストーリーに対して自らが手を加えることによってストーリーを進めていく、という仕様は、ゲームならではの特徴である。複数ある選択肢の中から、プレイヤー自身が自分でその先の行動を選択するため、その後どのような交差が成された群像劇となるかは、そのルートを選択したプレイヤーの数だけ存在するといっても過言ではない。自身の選択した行動が、後にプレイする別のキャラクターに影響を及ぼすようなパターン[7]もあり、ゲームのプレイヤー自身がストーリーの中に入り込むかのような状態は、通常の技法では難しい、登場人物への感情移入を行い易くさせているとも考えられる。これにより大きな事件の悲劇性やサスペンス性に頼らなくても良い場合も生じるため、製作においてはかなり振れ幅に余裕があり、自由なものを作りこんでいけるという特徴がある。
そして小説における群像劇であるが、これはこれまでの媒体とは異なり、視覚的に頼る方法はほぼないと言ってよい。登場人物の多い群像劇において、文章表現のみで複数の人物を書き分け、読者に分かるように描写しなければならないため、それなりの文章技量が要求される。前書きとして人物名と簡単なプロフィールが添えられているものもあるが、あとは文中で説明しなければならない。そういった意味では群像劇は小説には難しい手法だと思われるが、逆に視覚的部分が弱いことを逆手に取り、叙述トリックのような形で書き分ける事が可能である。群像劇において肝となる大きな事件について、各人の行動をその時間通りに書く必要は全くない。一時間、一日、はては一年の時系列を敢えてずらして書くことによって、最後のどんでん返しへのより大きな伏線とすることが可能である。こういった部分に時間を割かなければならない時間が生じるためか、小説における群像劇作品は完結に時間が掛かる、または一作当たりの話が長いことが多い。
二.ライトノベルにおける群像劇
続いて、ライトノベルにおける群像劇において考察する。ライトノベルとは、一般的な定義では、マンガ的あるいはアニメ的なイラストが添付された、中高生を主要読者とするエンターテインメント小説である[8]。一九七〇年代に端を発して以来発展しその認知度を高めて来、二〇一二年現在ではそのレーベル数は五十近くにまで及んでおり、日本のサブカルチャー産業において一大市場を築いているジャンルの一つである。本論で取り扱う成田良悟もこのライトノベルにおける作家であるが、ここではその前提としてのライトノベルにおける群像劇作品について考えていく。
ライトノベルにおける群像劇作品としては、上遠野浩平『ブギーポップ』シリーズ[9]、川上稔『境界線上のホライゾン』[10]、入間人間『僕の小規模な奇跡』[11]、『六百六十円の事情』[12]などが挙げられる。『ブギーポップ』シリーズは一九九七年当時に電撃文庫において過去最高の発行部数を叩きだした、ライトノベルの転換期を呼び込んだ大ヒット作であり、『境界線上のホライゾン』は二◯一一年、一二年に二度のアニメ化がされた人気作である。また入間人間のこの二作品も、既存のライトノベルとはやや異なった、「ライトノベル的なもの」と呼べる場所で発表された話題作である。このように、ライトノベル界においては、後述の成田作品も含め、群像劇作品がその少なさに対して確かな記録、記憶に残る形で人気作としての地位を獲得している。その理由は何であろうか。
ライトノベル作家である新城カズマは、自身の著書『ライトノベル「超」入門』において、次のように述べている[13]。
ドラマの結論から人物が規定されるのではなく、キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先してゆく。創り手とユーザーの双方に「ああいうタイプ」についての共通理解さえあれば、これは十分立派に機能します。共通理解を成立させるには、どうすればいいか。これも簡単です。性格を、わかりやすく外見や持ち物に対応させてしまえばいい。記号化というやつです[14]。
これは言い換えればすなわち、ライトノベルは物語の媒体というより、むしろキャラクターの媒体としての性格が強いということになる[15]。これに関しては、評論家の斎藤環も自著の『キャラクター精神分析』において、
おそらくキャラクターは、物語のジャンルや文脈を決定づける。しかし、それは同時に、物語がもはや単線的ではありえないことも意味している。現代の物語において優位なのは、もはや固定されたストーリーラインではない。常に優先されるべきはキャラの属性と関係性のほうなのだ。それさえ一定に保たれている限り、そこから紡がれる物語は無限となる。
と述べている[16]。これらの論述から、ライトノベルにおいてもっとも重要視されるべきはキャラクターであり、キャラクター如何によって、その次のストーリーやジャンルが定められていくと考えられる。この場合、キャラクターを第一とするライトノベルと、群像劇というジャンルとにおいて、疑問が生じることとなる。
群像劇は「大きな事件をストーリーの主軸とする」ジャンルである。当然描かれるべきは登場人物よりも事件であり、そちらの方へ比重が傾くべきであるが、ことライトノベルにおいては、キャラの強さが重要視されている。確かに、『ブギーポップシリーズ』や『境界線上のホライゾン』においては、その舞台設定もさることながら、登場するキャラクターたちの説明や描写がかなり細やかになされている。両作がメディアミックス展開されたのも、キャラクターの強さがあればこそであったといえる。この場合、事件を第一と置く群像劇と、キャラクターを第一と置くライトノベルとで、その根幹をなすべき重点が重なってしまっているように感じられる。キャラクターの強さがあり、加えてライトノベルの特徴であるイラストによって、事件の部分も映画やアニメのように、視覚的な補完を加えて補強している、という考え方もできるが、群像劇のメインとなる大きな事件よりも、キャラクターの強さの方が勝ってしまい、結果それによって事件や舞台が限られてしまうケースもあり得る。この疑問について、次章でライトノベル作家である成田良悟を取り上げ、考察していく。
第三章 成田良悟作品と群像劇
第一節 成田良悟
成田良悟(一九八〇〜)は、二〇〇三年に『バッカーノ!』で第九回電撃ゲーム小説大賞の金賞を受賞しデビューした、ライトノベル作家である。自身が影響されたこともあり、作品のほぼ全てが群像劇の手法をとっており、『バッカーノ!』『デュラララ!』シリーズのメディアミックス化なども相まって、ライトノベル作家の中でも人気の高い作家である。自身の作品だけでなく、他作品のスピンオフ、コラボレーションやリレー小説企画などの執筆や、最近ではTRPGの要素を取り入れた新たなプロジェクト、「RRF」に参加するなど、活動の範囲は多岐にわたっている。弱冠二十二歳で受賞作『バッカーノ!』を書き上げ、今現在もペースを緩めること無く刊行を続けている、新進気鋭の作家である。
第二節 成田良悟の作品
成田がこれまでに執筆した作品は全て長編のシリーズものであり、全五タイトルのうち四タイトルのシリーズが現在も続刊中である。二〇〇三年に刊行された『バッカーノ!』は、禁酒法時代のアメリカを舞台に、古の錬金術師たちが作り上げた不死の酒をめぐって繰り広げられる、不死者と人間たちとの物語である。続いて二〇〇四年には、『デュラララ!!』が発表された。打って変わって現代の池袋を舞台に、都市伝説と噂されている首なしライダーにまつわる話に、様々な人物、思惑が重なっていく作品である。これら二つの作品がそれぞれアニメ化されており、特にアニメ『バッカーノ!』においては、成田が執筆の際参考にした映画[17]のオマージュが盛り込まれており、また小説作品をアニメで描くということで、描写方法の変更がなされている。
これらの他に、「越佐大橋シリーズ」である『バウワウ! Two
Dog Night』、『ヴぁんぷ!』、『世界の中心、針山さん』がそれぞれ刊行されている。これら五つの作品の第一巻は、全て二〇〇三〜二〇〇五年の間に発刊されており、以降はそれぞれの作品が互いに出版されていき、現在でも「越佐大橋シリーズ」以外の四タイトルが未完結である。成田作品の長編五作品は全てが群像劇であるが、それぞれに若干の差異が設けられている。舞台ひとつを例にとって見てみると、『バッカーノ!』『デュラララ!!』『ヴぁんぷ!』『針山さん』はそれぞれアメリカ、池袋、ドイツ、所沢と、実在の場所をモデルにして書かれている。しかし「越佐大橋シリーズ」のみ、新潟県と佐渡ヶ島の間に架けられた橋の、そのまた間にある島、と言った具合に、架空の地が舞台として設定されている。これに関して成田は、『活字倶楽部』内でのインタビューで、
はじめは池袋みたいな実在する街を舞台にするつもりでした。でもたとえフィクションでも、実在する街を破壊したり、拳銃を持った人がたくさんうろついているような、悪徳の街のごとく描くのは抵抗があって。(略)ならば実在しない土地にしようと、佐渡ヶ島と新潟県の間に架けられた巨大な橋・越佐大橋の中央に人工島を作り、これなら何をやってもOKだぞと考えました。
と述べている[18]。実在の資料があればこそ、そこへフィクションとしての何らかの変化、ここでは破壊や悪徳の街といった要素を付け加えることも一見容易そうに思えるが、成田はそれを避けた。これについては、他の作品においても暴力や諍いなどは描かれている。しかし、何かしらの施設や器物の破壊を描く場合は、実在する街の中に、さらにフィクションの空間を創りだし、そこで破壊が行われるケースが多い。これは虚構の中の虚構、もしくはたとえ現実であってもそこへ虚構を作り出すことにより、「大きな事件」をよりスケールの大きなものに感じさせよう、という狙いがあるのではないかと推測できる。登場キャラクター数が多く、ストーリーが本題に入るまでが長引きがちな群像劇において、読者を引きつけるにはそのテーマはわかりやすく、かつ大きいものであればなお良い。それを満たすために、現実ではなく虚構の中で破壊を描くことで、その存在感がさらに増されていくものと考えられる。
第三節 成田良悟作品と群像劇
一.成田作品と群像劇との比較・考察
成田作品と群像劇との関係においては、ストーリーとキャラクターとが切っても切れない効果を生み出している。ここでは中でもその関係性が高いといえる『バッカーノ!』『デュラララ!!』を例に上げ、考察していく。
まず『バッカーノ!』の舞台となっているのはアメリカであるが、その次代が巻によっておおまかに三つの時代に区切られて書かれている。第一作が一九三〇年代のものから始まり、そこからあくまで同じ世界設定において、一七〇〇年代の過去編と二〇〇〇年代の未来編の二つが誕生することとなる。ストーリー中の時代が大きくずれ込んでしまっているにもかかわらず、長編の群像劇作品として現在もストーリーが続いている要因には、キャラクター設定の存在が欠かせない。『バッカーノ!』における群像劇を形作る大きな事件は「不老不死の酒」であり[19]、そこに登場するキャラクターたちも、この不死の酒に関わっているキャラクターが多い。酒を飲んだことにより不老不死となったキャラクターたちが存在し、彼らが通常ではあり得ない数百年という時代の差のなかでも登場することにより、大きな事件を中心とした群像劇の繋がりはより太くなっているといえる。
ストーリー面においては、特に群像劇の要素が活かされているエピソードの一つに、『バッカーノ!1931鈍行編』と『バッカーノ!1931特急編』の二冊が挙げられる。シカゴからニューヨークまでを走る大陸横断特急列車の中で、各客車に乗ったそれぞれの乗客たちが描かれるストーリーとなっている。列車という閉鎖的空間の中で、大別して四の乗客グループが複雑に絡み合う様子は、まさしく群像劇と呼ぶに相応しいものであるが、この作品についてはこれに留まらない仕掛けが用意されている。それが『鈍行編』と『急行編』に分けられた二冊である。分冊になっているが、これはストーリーが続きものでも、または全く別の事件を扱ったものでもない。この二冊で描かれているのは、全く同じ列車内の全く同じ人々であり、起こる事件も全く同一のものでなる。ここで異なっているのはキャラクターの視点であり、『鈍行編』と『急行編』ではそれぞれ異なった視点で事件が進んでいる。ある程度の同一性、同時性舞台が必要であり、人物関係以外の点で物語が狭くなってしまいがちな群像劇において、成田は小説ならではの手法を用いる事により、『バッカーノ!』の世界観により広がりを持たせることに成功したといえる[20]。
キャラクターについては、『デュラララ!!』を例に挙げて考えてみたい。現代の池袋を舞台とする『デュラララ!!』は、上京してきた一見平凡な高校生、竜ヶ峰帝人が、その日に都市伝説として噂される首なしライダーを目撃したところから話が始まる。冒頭の物語のみ見ればこの帝人が主人公のように思えるが、後に登場するキャラクター達はより個性的な人物がほとんどであり、やはりこれも類にもれず一つの群像劇である。しかし、成田はこの作品において、首なしライダーである張本人、セルティ・ストゥルルソンが主人公の物語であると述べている[21]。明確な主人公は存在しない場合がほとんどである群像劇において、なぜ彼女は主人公と明言されているのだろうか。その答えは、彼女そのものが群像劇における「大きな事件」であるからであると考えられる。セルティの正体は欧州の妖精デュラハンであり、失った頭部についても、実は池袋内に存在している。この彼女の首を巡って、第一巻の物語は紡がれており、キャラクターとしての彼女の存在は、群像劇における事件そのものなのである。こうした場合であると、事件そのものである彼女が他のキャラクター達と接触、話を重ねあわせて行くため、群像劇という形式においては、非常に事件の関係性をわかりやすく且つ高いキャラ性を維持したまま物語を進行させることができるといえる。そして、「事件の中心」たる彼女がストーリーの中央にいることで、それを囲む周りのキャラクターたちのキャラの強度も、比例してそれに耐えうるものになっていったと考えられる。『デュラララ!!』におけるキャラクター人気の高さには、事件=キャラクター、とした成田の工夫が背景に存在している。『デュラララ!!』以外をとってみても、『ヴぁんぷ!』『世界の中心、針山さん』にも主人公が存在するが、これら二作の主人公も、事件の渦中に必ずおり、事件の元凶であるないし強力なキャラ性を持っている。記号化されたキャラクターと大きな事件との融合は、ライトノベルにおける群像劇ならではのものであるといえるだろう。
二.これまでの前提と成田作品の魅力
最後に、これまで述べてきた群像劇についての疑問ならびに考察と、成田の作品とを比較し見てみる事で、はじめに挙げた成田作品と群像劇との関わりならびに魅力について探って行きたい。小説において、ことライトノベルという媒体において、成田が群像劇を用い、どのようにこれまで数々のヒット作品を生み出してきたのだろうか。その背景には、やはりライトノベルならでは、と考えられるものが根付いていることがわかる。そもそも成田本人は、ライトノベルの印象について、次のように述べている[22]。
デビュー間もない頃、担当編集者さんに「ライトノベルについてどう思う?」と聞かれた時に、「自分の小説を本にしてもらえる上に、キャラクターの絵まで描いてもらえるなんてすごくラッキーじゃないですか!」と答えましたが、なんて素晴らしいシステムだと思っていたので、電撃文庫でデビューできて嬉しかったです。
このように、ライトノベルという媒体そのものには非常に好意的な態度を見せている。事実、イラストが付随されたことによって、文面のみであった群像劇にキャラクターとの融合という新機軸の試みを行ったわけであり、読者が魅了された要因の一つであると間違い無くいえるだろう。
ライトノベルにおける群像劇として考えた場合には、第二章で出た大きな事件とキャラクターの強さとの力関係に問題がある。これに関しては、前項で述べた通り、成田は大きな事件とキャラクターとの融合によって、それをマイナスではなくプラスのものへと昇華させている。ただし、これはあくまで『デュラララ!!』を中心とした場合の話であり、成田作品すべてにこれが当てはまるとは言いがたい。そこで持ち上がるのが、成田本人の創作の環境である。自身の創作行為について、成田はインタビューで次のように述べている[23]。
私はデビュー前からプロットを作らないタイプで、大まかな設定を決めたら勢いでキャラを動かして、それが結果的にうまく物語にまとまるという書き方をしています。(中略)企画書やプロットをしっかり作りすぎると、登場人物の動ける振り幅が狭くなり、自縄自縛になりそうで。特に私の小説には、現実には絶対いなさそうな突拍子もないキャラクターがたくさん出てきます。そういうキャラを重視して書かせていただいている物語なので、自由に彼らが動ける余裕を作るためにも、できるだけプロットは立てないようにしています。
一般的な手法であれば、創作においてはまずプロットを作り、そこからストーリーを構成し、最終的に具体的な描写へと入っていく、という流れがセオリー[24]とされており、創作におけるハウツー本等でもプロットはかなり重きを置かれている。物語全体の流れを把握したうえでストーリーの中へ踏み込んで行く事ができる、いわば骨組みのようなものなのだが、成田はそこを立てないようにしている、と述べている。これはまさしく「キャラクターが勝手に動き始める」状態であり、本人もそれは述べている[25]。自身でストーリーの骨組みを作らなくても、キャラクターが成田の頭の中で動き絡み合い、ストーリーが交差していく、という作業が自然と行われているのだ。ただキャラクターを考えただけでは、プロットの代用となるほどキャラクターが動きまわるとは考えにくい。前項の内容も踏まえると、ライトノベルであるからこその利点によって、それだけのキャラの強度を得ているものと考えられる。その利点の一つは記号化により作品からの越境が可能であるという点、そしてもう一つがイラストである。特に成田の場合にはイラストの影響は顕著であるといえる。成田作品を担当するイラストレーターはヤスダスズヒト、エナミカツミの両名であるが、この二人とのストーリーないしイラストの打ち合わせは、ほとんど行わないと成田は述べている[26]。そればかりか、本来とは逆に二人のイラストから成田がインスピレーションを受け、それらを新作の設定に活かし、新しい物語やキャラクターが生まれることもある[27]。こういった現象は、まさしくキャラクターの自律化[28]といえることであり、このような概念が顕著になる以前から、成田のキャラクター創作におけるノウハウの一つとして存在していたといえる。
背景や時代の点においても、成田は次のように述べている[29]。
ある程度資料を調べた後は、大胆に嘘をついています。(中略)『バッカーノ!1931』にもそういう嘘があって、作中に出てくる大陸横断特急という列車は、車体構造や最高時速は文献通りですが、実は当時の機関車って数十キロごとに停車して石炭や水を補給しなければいけなかったんです。(中略)資料をしっかり調べているからこそ、堂々と嘘も書けると考えているところがあって。昔、ある作家の方が読者投稿企画の本でおっしゃっていた「資料をしっかり調べれば、自分の文章に自信を持つことができる。堂々と書ける」という言葉が私の中に響いていて、事前に資料を読み込むのは大切だと思うようになりました。
ストーリーの基軸である舞台設定や時代背景については、入念な考証を行ない、それらがしっかりと固まったところで、大きなフィクションの世界観を投じていることがわかる。現実と何ら変わりない池袋の街を舞台に、首なしライダーにまつわる都市伝説を描いた『デュラララ!!』や、作者の地元に近い所沢を舞台としながらも、巨大ロボットや幽霊、魔法少女らが入り乱れる『世界の中心、針山さん』などは、その粋たる例といえるだろう。狭まりがちになる群像劇の舞台を前にして、しかし綿密な下調べがあるからこそ、そこに大きなフィクションを無理なく投入することが可能であり、結果そこで動くキャラクターたちも噛みあわせやすくなる。キャラクター至上のライトノベル界において、どこか浮きつつも確かな存在感を放っている背景には、フィクションを描くためのノンフィクションが充分に考慮されているという点が大きいといえる。
これらをまとめて考えると、成田作品が創られる環境というものは、非常に自由なものに感じられる。何でも型にはめようとせず、自分なりの方法で作り上げた物語であるからこそ、群像劇という形態とライトノベルの本質とが結果として見事に絡まったものといえる。キャラクターの性質がドラマの形に優先し、帰結してゆく、というのがライトノベルにおける機能であったが、成田の場合にはそれで終わりではなかった。無意識のうちに記号化したキャラクターが越境するより前に、成田の描く世界を創りあげて行ったのである。それが結果として固定されていない、予期せぬ得意なストーリーラインを編み出し、人気に繋がっているものと考えられる。
ライトノベルが持つ本質そのものと、成田がこれまでに培ってきた群像劇に基づく感性、そして何よりも自由な創作環境が合わさったことにより、この作品は多くの人々に受け入れられ、愛されるべきものとなったのであるといえる。
第四章 終わりに
本論では群像劇というジャンルとライトノベル作家、成田良悟について取り上げ、その関連性、親和性について探ってきた。映画技法として端を発した群像劇は、七十年余りを経て今現在、日本におけるサブカルチャーの中心にまで入り込んできている。「大きな事件」を中心とする個々のエピソードの積み重ねと、そのエピソードに登場するキャラクター一人ひとりの強さとが、相乗しライトノベル界にもまるで一九三二年のアメリカさながらの旋風を巻き起こしたことだろう。成田はその屋台骨といえる存在として、自身の独特且つ自由な作風から、今日のサブカルチャー評論やキャラクター論で論じられる事柄を、いち早く行なっていた内の一人であるといえる。その独創性は時折、ライトノベル読者から「非ライトノベル的」と呼ばれることもある。しかし成田はそれを否定し、ジャンルに対する区分けそのものについて語っている[30]。
私はライトノベルから一般層と言われてもピンとこなくて、読んで楽しいかどうかが全てだと思っています。もともとライトノベルは何を書いても良い、最初から開けきった媒体だと思っています。「ライトノベルとはこういうものだ!」と言って壁を勝手に作り始めたら、その壁の分だけ土地を失うわけで、損だと思うんですよね。(中略)ただ、ライトノベルに関しては壁とか囲い分けをしない方が得なんじゃないかな、と。
純文学のように、壁で囲われたことによって内部で発展を続け、今日語られる文化を創りだしたケースももちろんある。しかし、成田がライトノベル界にいる限りは、成田作品に群像劇の自由を奪う壁が立つことはないであろうと考えられる。壁を作らず、自由にキャラクターを動かすことによって生まれるストーリーこそが、成田におけるライトノベルの、小説の、文学本来のポテンシャルといえるだろう。
ライトノベル業界において、デビューを勝ち取る方法は現在では投稿によって新人賞を獲得し、デビューするという流れが大半を占めている。こうした状況下で、登場キャラクターが多く、且つその上で規定の枚数に収めなければならない群像劇は、ライトノベルの世界にはあまり向いていないのでは、という声もある。また、同時間同舞台性のエピソードが集約し、一つの大きな物語となる群像劇の形態そのものが、今ではもう新しみのないものとなってしまい、今後下降線を辿ってしまう可能性もある。しかし、それでも他のジャンル群を比べればまだまだ新興のものであり、これからも多くの可能性を秘めているジャンルであるといえる。実際述べたように、ライトノベルとの関わりをはじめ、一般小説やゲーム、アニメといった世界にも確固たる地位を築き始めているといえる。文学ははるか昔から現在を経て、後の未来へも続いて行く。その過程において、大きな一歩を踏み出した群像劇の行く末は、成田作品のみならずすべての作品について、期待して見守ってゆくことが出来るだろう。
[1] 「インターネット百科事典Wikipedia グランドホテル方式」
〈http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E6%96%B9%E5%BC%8F
〉 (二〇一二/一二/〇九
アクセス)
[2] 「インターネット百科事典 はてなダイアリー 群像劇」
〈http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%B2%C1%FC%B7%E0〉 (二〇一二/一二/〇九
アクセス)
[3] 「オンライン百科事典 ニコニコ大百科 群像劇とは」
〈http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%BE%A4%E5%83%8F%E5%8A%87〉 (二〇一二/一二/〇九 アクセス)
[4] ぐん‐ぞう【群像】一、多くの人々の姿。「青春―」
[5]殺人事件、大事故、戦争などといったものなど。
[6]一例として、三谷幸喜脚本・中原俊監督『12人の優しい日本人』(ニュー・センチュリー・プロデューサーズ、一九九一)が挙げられる。陪審員となった十二名の登場人物が、ひとつの部屋の中で犯人が有罪であるか無罪であるかを議論する。舞台は一室のみでありながら、カメラワークの操作や陪審員たちの交差等によって、物語序盤と終盤で登場人物に対する視聴者の印象がまるまる変わってしまう。
[7] ソニー・コンピュータエンタテインメントが二〇〇三年に発売した『SIREN』などでうかがい知ることが出来る。プレイヤーがその舞台でゲームの攻略等に関わる何かしらのアイテムを獲得した場合、その後、別のキャラクターが同じ舞台に来ても、アイテムはすでに拾われているため無くなっている。逆にはじめにプレイヤーがアイテムを拾わなかった場合、その後のキャラクターがアイテムを入手できるようになっている。
[8]東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生〜動物化するポストモダン2〜』(講談社現代新書、二〇〇七、p27)
[9]上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』(電撃文庫、一九八八)
[10]川上稔『境界線上のホライゾンT』(電撃文庫、二〇〇八)
[11]入間人間『僕の小規模な奇跡』(メディアワークス文庫、二〇〇九)
[12]入間人間『六百六十円の事情』(メディアワークス文庫、二〇一〇)
[13]新城カズマ『ライトノベル「超」入門』(ソフトバンク新書、二〇〇六)
[14]前掲『ライトノベル「超」入門』(二〇〇六、p135)
[15]前掲『ゲーム的リアリズムの誕生〜動物化するポストモダン2〜』(二〇〇七、p36)
[16]斎藤環『キャラクター精神分析―マンガ・文学・日本人』(筑摩書房、二〇一一、p123)
[17] ガイ・リッチー監督『スナッチ』(SPE、二〇〇〇)
[18] 「特集 成田良悟」(活字倶楽部、新紀元社、二〇一〇年六月号、三七頁
[19] 「禁酒法時代のアメリカを舞台に、常識はずれのキャラクターが、不老不死の酒をめぐり、時空を超えて繰り広げる、前人未到の群像劇」アニメージュ「あにめ始めました物語第二十六回」(徳間書店、二〇〇七年八月号、一一一頁)
[20] 「原作の『鈍行編』『特急編』は、同じ出来事を視点を変えて描いた、裏表みたいな作品なんですが、アニメの場合は視点を変えることは出来ないので、内容はシャッフルして同時に語られていくことになります」(前掲、アニメージュ「あにめ始めました物語第二十六回」)と成田本人も語っている。
[21]一巻あとがきより。成田良悟『デュラララ!!』(電撃文庫、二〇〇四、三四五頁)
[22]前掲「特集 成田良悟」(三四頁)
[23]前掲「特集 成田良悟」(三四頁、三五頁)
[24]榎本秋『ライトノベルを書こう!』(宝島SUGOI文庫、二〇〇九、八〇頁)
[25] 「作家さんの間では「プロット派」と「ライブ派」とよくいいますが、私は典型的なライブ派だと思います。(中略)私は小説を書いている時の感覚を言葉で表すと、「キャラクターが勝手に動く」が一番しっくりきます。」前掲「特集 成田良悟」(三五頁)
[26] 「描写と大きく違うとき以外は、指示を入れることはほとんどありません。」前掲「特集 成田良悟」(三五頁)
[27] 「お二人が背景に描いたチョイ役のキャラを気に入って、いきなり次の巻の主役にしたこともありますよ」前掲「特集 成田良悟」(三五頁)
[28]前掲『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2~』三八頁において、東が提唱した。アニメやゲームからキャラクターだけ引き抜き、異なる設定のなかへ投げ込んで作られた作品であっても、消費者は受け入れてしまう。そのようなキャラクターが越境する状態を指す。
[29]前掲「特集 成田良悟」(三五頁)
[30]宇野常寛「サブカルフロントライン 第四十七回」(小説現代、二〇一〇、六月号、一五〇頁)
参考文献リスト
一、成田良悟『BACCANO! バッカーノ! シリーズ』(電撃文庫 二〇〇三、〇二~)
二、成田良悟『バウワウ!―Two Dog Night(越佐大橋シリーズ)』(電撃文庫 二〇〇三、一二~)
三、成田良悟『デュラララ!! シリーズ』(電撃文庫 二〇〇四、四~)
四、成田良悟『ヴぁんぷ! シリーズ』(電撃文庫 二〇〇四、五~)
五、成田良悟『世界の中心、針山さん シリーズ』(電撃文庫 二〇〇五、一〇~)
六、飯田一史『ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略』(青土社 二〇一二)
七、山中智省『ライトノベルよ、どこへいく−一九八〇年代からゼロ年代まで』(青弓社 二〇一〇)
八、斎藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』 (筑摩書房 二〇一一)
九、榎本秋『ライトノベル文学論』 (NTT出版 二〇〇八)
一〇、新城カズマ『ライトノベル『超』入門』 (ソフトバンク新書 二〇〇六)
一一、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』 (NTT出版 二〇〇五)
一二、東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』 (講談社現代新書 二〇〇一)
一三、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生〜動物化するポストモダン2〜』(講談社現代新書 二〇〇七)
一四、野本由起「一般文芸×ライトノベル キャラ立ち小説が今面白い!」 (ダ・ヴィンチ 二〇一二、 八月号 一五二~一五三頁)
一五、宇佐美尚也「ラノベ編集部に訊く“次の一手”ライトノベルは終わらない」(ダ・ヴィンチ 二〇〇八、四月号 二八~三一頁)
一六、「特集 成田良悟」(活字倶楽部 二〇一〇、六月号 三四~三七頁)
一七. 宇野常寛「サブカルフロントライン ラノベという回路を用い、小説本来の面白さを追求する!」(小説現代 二〇一〇、六月号 一五〇-一五一頁)
一八、「特集 ポストライトノベルの時代へ」(小説tripper 二〇〇五 六~六九頁)
一九、「特集 ライトノベル最前線」(小説tripper 二〇一二 六〜三三頁)
二〇、成田良悟「あにめ始めました物語 二六回 成田良悟 『バッカーノ!』永遠の命を手に入れた、キレた奴らが繰り広げる、奇妙でバイオレントな群像劇!」(アニメージュ 二〇〇七、八月号 一一一頁)