コメディ・シチュエーション

石江槇

 状況主義者(シチュエーショニスト)なんて関係ない。これはコメディ・シチュエーションだ。   ―ジョン・ライドン

目次
  深夜、港で
  あなたの牧場の酔っぱらった馬たちは今とても優しい夢を見ている
  宇宙よ、ちょっとでいいから俺のものになってくれ
  仕事
  ハッピー・アワー
  ポーチで/希望を込めて

深夜、港で

 ここにいるとあの出来事を思い出すな、と彼は言った。
あの事件――事件ってほどでもないけど。俺たち、何歳ぐらいだったっけ?思い出せないけど、とにかく俺とお前が二人で遊んでてさ、基地のあの辺、フェンスのあたりを歩いていて、すごく暑い日だったな……バカみたいに暑い日だった。ゴムのいやな臭いがしてたな。それで、二人で、ちょうどあのぐらいのとこで、金網の奥に拳銃を見つけたじゃん、ほら、思い出した?それでさ、二人とも興奮して、これは男を上げるチャンスだ、とかなんとか言って、金網をよじ登って越えて、惜しかったよな、あとちょっとだった……銃を手にするところで見つかっちゃって……パトカーがいっぱい来て、昔のアメリカ映画のワンシーンみたいだったな。フリーズ、とか、ドンムーブ、とか言われて……そのへんからからあんま記憶ないんだけど、なんか取調室みたいな、ロッカールームみたいなとこ連れて行かれてさ、あの……なぜか覚えてんだけど、グーンって呼ばれてた……あの白人にさ、色々聞かれて。日本語うまかったよな、あいつ。まだ若い感じでさ、煙草ふかして。だらしない感じの奴で。部屋には俺らだけで、あいつはずっとこっちを見つめてきて……すごい怒られるんだろうな、とかもしかしたら殺されんのかな、とか思ってたら、「お前ら、拳銃欲しいのか?」って聞いてきてな、俺はビビっちゃって、「欲しくありません」って言ってさ。そしたら、「欲しかったらやるよ」って言ってきて、無表情で。今思えば、あいつ、ちょっと頭がいかれていたんだろうな。年齢的にベトナムに行ってたとは思えないし、いや……うん、イラクもまだだったけど、まあ、慢性的にああいうのはいるんだろうな。

「お前ら、人を殺したことがあるか?」
「……ないです」
「俺はある」
「……」
「俺は、郵便配達人を殺したんだ。昔、お前らぐらいの年齢の頃」
「……」
「よくある、お馴染みのやり方だよ。あらかじめ配達人の来るルートを調べておいて、あんまり人目に触れない、ここだ、というところの郵便受けに爆薬を仕掛けるのさ。開けたらドカン、といくやつをな。友達にやたらそういったことに詳しい奴がいてね。だけど、あれは事故だった。故意じゃなかった。ただ、仕掛けた爆薬の量が少し多かったのと、配達人の当たり所が悪かったっていうだけだ。もろに……もろにいったからな、あれは。顔なんて、見れたもんじゃなかった」
「で、この話にはオチがある。その事件のずっと後で、俺の親父は職を失って、いろんなことをした挙句、最後に郵便配達人になったんだ。息子がぶっ殺した郵便配達人に。そこしか雇ってくれなかった。皮肉なもんだよな……それである日、疲労と寝不足と二日酔いでへろへろの朝に、やっとのことで一日分の郵便物の仕分けが終わったと思ったら、局長にダイレクト・メールの束をどっさり渡されて、それで、切れてしまった。終わりだ。ぶっ壊れちまって、倒れて、もう立ち上がることさえできなくなってしまった。そのすぐ後に親父は死んだよ。自殺だった。毎晩眠っていたベッドの天井の梁にロープをかけて首を吊ったんだ。なぁ、全てはそんなもんなんだと思わないか?」
「まあ、でも、猫を殺した数のが多いかもな。戦場を合わせても。昔、俺ん家の近所で猫を殺すのが流行ったんだ。むごい、汚い遊びさ。野生、飼い猫関係なしに、とにかく殺すんだ。で、その数が多い奴が勝ちだ。自己申告だと数をごまかす奴がいるから、ちゃんと証人をつけてな。チームで獲物を追い詰めるんだ。俺は犬を飼っていたから、有利だった。犬は人間みたいに隙を作らない。獲物を発見したら、路上で、壁の上で、優雅にたたずむ猫を発見したら、追っかけて、袋小路に追い詰めて、犬をけしかけ、疲れさせて……いろんな方法を試したよ。棒で殴ったり、落とし穴なんてのもあったな。とにかく、それができない奴は男として認めてもらえなかった」
「ある時、その、家の犬が行方不明になったことがあった。俺は猫を仲間内で一番殺していて、でかい面をしていた。それが気に食わない奴がいたんだろう。数日後、犬は家の近くのゴミ箱にいるのが見つかった。もちろん殺されていたよ」

延々と――延々とそんな話ばっかり聞かされて。なぁ、それに気味悪いのは、話の途中、ずっとあいつの左目だけから涙が流れてたんだよな。俺は心底怖かったよ。お前は平気そうな面してたけどな。トラウマになったよ――人間って、こんなになるんだな、って。
 それと、後で知ったんだけど、あいつの名前、あだ名かな?グーンっていうのは、あっちのスラングで「間抜け」って意味があるらしいぜ。ああ、ホントさ、あいつは、とんでもない間抜け野郎だったよ……でもさ、悪い奴じゃないと思うんだ。そう思わない?悪い奴じゃないんだ……きっと。

あなたの牧場の酔っぱらった馬たちは、今とても優しい夢を見ている

 ズーと一緒に自宅でジャッキー・チェンの映画を見ていた。『デッド・ヒート』。床には空になった酒がたくさん転がっていた。アサヒ・スーパードライが半ダース、コロナが四本、両親が山梨でしこたま買ってきた白ワインが二本――みんな用済み。画面では、ジャッキーが日本のパチンコ屋で悪党相手に大立ち回りを演じているところだった。しらふで見ても大したものだが、酔っぱらっているときに見るジャッキーのアクションはほんとに素晴らしい。人間じゃないようにすら思える。もう隣のズーなんてさっきからすごい、すごいとしか言ってない。
「すげぇ!ほんとにすげぇぜジャッキーは。神だよ!神様だ!」
 ジャッキーは台をぶっ壊しながらパチンコ屋をところ狭しと駆け巡る。ふと、その手のひらに赤い印がついているように見えた。あれは――
「だ!」
 俺は画面を指差して言った。
「ああ、そうだ!それだ!」
 ズーは拳を握り締め同意したが、ほんとにわかってんのか?
「聖痕(スティグマ)だよ、ズー!我らがジャッキーは本物だったんだ!キリストの私生児は香港にいたんだ!」
「え?ああ、ああ、すげぇぜ!しゃれになんねぇ!」
「今のとこ巻き戻そうぜ!」
「だめだ!良いとこなんだから!」 
「いいだろ!すごいもん見たのかもしんねぇじゃんか!」
 俺はリモコンをズーから強引に奪い取り、さっきのとこまで巻き戻した。だが。
「なんだよ!なんにもねぇじゃん!」
 聖痕(スティグマ)は跡形もなく消えていた。
「うるせぇな!さっきはあったんだよ!」
「せっかくの流れが……」
「わかったよ!でもあったんだよ!あったんだ……さっきは……そういうもんだろ?」
「ったく」
 とズーは言った。

「トイレ行くわ」
映画の途中だが、俺はトイレに行くことにした。何回も行っていたので、ズーにまたトイレかよ、と言われた。生理現象なんだからしょうがない。自分じゃどうにもならないものだ。
 小便をしたが、予定を変更して大もした。酒を飲んでいると、やたら便通がいい。幸せな気分だった。

部屋に戻ると、ジャッキーは、加山雄三に何かの礼を言っているところだった。ズーは、携帯を持ちながら立ちつくし、呆然としているところだった。ズー?
「どうした?何かあったのか?」
「タムラー……」
 ズーは俺を見た。その表情は、酔っぱらっているんだか覚めているんだか、よくわからなかったが、真剣だってことだけはわかった。
「カモが死んだ」
「え?」
「カモが死んだ」
 カモが死んだ。

 俺は世界で一番美しいものは恋愛と動物だと思う。そして、世界で一番突然起こるものは、友人の死だと思う。
 カモは、俺の、俺とズーの小学校からの友人でジャンキーだ。最近はそこまでつるむ仲でもなかったが、家も近いし、大切な友人にかわりはない。カモは大体いつもラリってて、大体いつも危なそうな女といた。あいつの連れている女を見て、リストカット、という単語が頭をよぎらなかった事は一度も無い。生活力のある奴で――もっとも、それはドラッグをいかにして手に入れるか、という意味でだが――関内に独自のヘロイン・ルートを持っていたらしい。らしい、というのは全部奴から聞いた話だからだ。俺はドラッグはやらない。ズーもやらない(ズーはアルコールに魅せられている)。
 あいつがいつか死ぬとは思っていたが、こんなに早いとは。二十一歳。まぁ予想としては当たっていた。二十一か二十七だと思っていた。二十一はシド・ヴィシャスが死んだ歳だし、二十七はジミ・ヘンドリックスとカート・コバーンが死んだ歳だからだ。
 あいつはいつも危ない橋を渡っていたから、そのうちの一つが倒壊したんだろう。それにしても突然過ぎる。さっきまであんなにハッピーだったのに。
いや、そうでもないかな。

 葬式に行った。会場は周囲を工場に囲まれている場所で、やたら空が暗かった。真っ黒な人々。前向きな要素なんて何にもないように思えた(当たり前だけど)。ズーはずっと黙っている。
 焼香をあげる列に並んでいる時、友達のリカと話した。リカの話によると、カモの死因は窒息死だったらしい。ドラッグをやりまくってラリって、自分の吐いたものを喉に詰まらせて死んだそうだ。息ができなくて死ぬってどんな気持ちなんだろうか?
「ねぇ、見て」
 リカが一段と小さな声でそう言った。
「何?」
「あれ」
 リカが視線を向けた先には、一人の女がいた。確かカモの彼女だ。一人列から離れたところで、こちらをジッと睨んでいる。少し茶色がかったショートヘアに、真っ黒な、ほんとに真っ黒な洋服で、右手にはなぜかコンビニ袋を持っている。
「怖くない?何あのコンビニ袋。すっごい危ない空気が漂ってんだけど」
 その目は、一点を見つめて、瞬き一つしない。俺は今まであんな目を向けられたことがない。憎悪とか狂気とか、そんなものを超えた目だ。死んだカモをあの世でもう一回殺しそうな目だ。そしてこの世で、俺達の誰かを殺しそうな目だ。
 焼香は最低だった。俺とズーはお辞儀のタイミングとか儀礼的な事がまったくわからなくて、他の人のやるのを横目で見ながらやったので、どうもワンテンポ遅れてしまう。全然覚えていない学校のラジオ体操みたいだった。しかもズーがあからさまに酔っ払っていて、酒の匂いをぷんぷんさせていたので、周りの連中からずいぶん白い目で見られた。
目、目、目。ズーの目にはうっすらと涙があった。それはカモが死んでから、初めて見た涙だった。

 俺達は仲間と桜木町の『WHITE SPORT』という店でカモの追悼会をした。カモはぶっ飛んでいたので、たくさんの話すネタがあった。それは男娼をやっていただとか、チャイニーズ・マフィアと交流があっただとか、うそみたいな話ばっかりだった。ズーは酒をひたすら飲んでいた。俺も飲んでいたが、ズーは飲み過ぎだ。俺は止めようかと思ったが、ズーの思いつめた顔を見るとそんな気も失せてしまった。
「なあ、ズー」
「んん?」
「あー、ほどほどにしとけよ。飲むの」
 それが限界だった。
「そうよ」
「そんな飲んでたら、中毒になってすぐ死んじゃうよ」
 とリカが言ったが、リカも実際相当飲んでいた。考えてみれば、リカは近しい人を亡くすのはこれで二人目なんだった。一人目は前の彼氏だ。エイズになって、トキソプラズマだかなんだか、脳がグジュグジュになる病気で死んだ。リカとはしばらく会わないうちに、部屋でヘドに顔をうずめて死んでいるところを発見されたそうだ。リカはエイズ検査は陰性だったが、今でも鏡で自分のリンパ腺が腫れてないか見てしまうらしい。仲間の一人、ナカジマを見る。こいつはバイク狂だ。こないだ酔っぱらって事故を起こして腕を折ったが、死ぬことは絶対ない、と信じている。サクマは最近病的に痩せてきた。
 なんてこった、と俺は思った。みんな死んでしまいそうなやつばっかりじゃないか。俺だって怪しい。多分確実に、ズーと同じアル中への道を進んでいる。 糞より臭いっていう胃の血を吐いて、激痛のなか死ぬんだ。
 突然、ズーが立ち上がった。
「どうした?」
 と俺は言った。ズーはどう見ても酔っぱらっていた。目は腫れて、髪の毛はぐしゃぐしゃだった。
「詩を書いたんだ」
「え?」
「カモに書いたんだ。追悼の詩だ。せめてものはなむけだよ。読ませてくれ」
 俺たちはみんなあっけにとられていた。誰もがズーを見た。が、ズーは構わず、脱いで横に置いておいたボア・ジャケットのポケットから一枚の紙を取り出し、広げた。そしてそれを一目見てから、グラスに残っていた酒を飲み干し、口元を手で拭い、詩の朗読を始めた。それはだいたい、こんな詩だった。

  僕たちは共に遊んだ
  幼かったころを覚えているか
  君が僕の上に乗りお馬さんごっこをした
  本気で喧嘩もした
  いろんな所に行った
  いろんなものを分けてもらった
  幼かったころ
  今は皆大人になって
  殺し合おうと思ったら、それも出来る

君は僕らを置いて行った
大人になったんだ
また会えたら
僕は君の馬になる
美しい馬に
本当の馬になって
君を連れていく
僕たちは大人になったんだから
(ここで、今思いついたかのようにヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『ヘロイン』を歌いだす)
  Heroin, be the death of me
  Heroin, it’s my wife, it’s my life……
  僕達は馬だ
  酔っぱらった馬
  僕達に痛みは無く
  恐れもない
  君がやって来るまで
  僕らは待っている
  みんなを救ってくれ
  時が来たら
  君を乗せていく
  君を乗せていく
  僕らは酔っぱらった馬

 神様、と俺は思った。あなたはこんな奴を連れて行ってしまうのか?

 会が終わって、家に帰ってすぐに俺は布団に入り、眠ろうとした。そういう気分だったのだ。俺は咳をした。めちゃくちゃ寒い。もう一枚毛布が欲しい。咳が止まらない。足を見ると、左右違う靴下を履いていた。なんかこう、肺炎で死ぬホームレスの最後の夜のようだ。俺はスタンドの電気を消す。暗闇。最近は真っ暗にしないと眠れなくなってきた。慣れてしまったからか?恐怖。この先何十年もこの慣れの時間が続くと思うとぞっとする。咳が止まらない。心臓の鼓動みたいだ。心臓の鼓動みたいに止まらない。辛い。眠れない――俺は居間に行き、母親の薬箱から頂いてきた睡眠薬をいくらか飲んだ。
 朝が来たが、どこかに行く気はしなかった。体がだるい。ずいぶん寝てしまったようだ。パジャマを着たまま、だらだらして、飯を食って……いつもと変わらない朝。
 少しすると、呼び鈴が鳴った。俺は何かを期待してドアに駆け寄り、開けた。
「はい?……ああ、お前か」
そこにいたのはズーだった。ズーは重そうな酒屋の袋を持っていた。こころなしか、この前より量が増えているように見えた。
「ジャッキーの映画見ようぜ」
 とズーは言った。俺は、入れよ、と言った。

 二千年もの間に、俺達の運は使い果たされてしまったのかもしれない。
 もう新しい大陸なんて残ってはいないのはわかっている。
だが、だとして、俺達はやれることをやるだけだし、それはズーの詩にも明らかだ。あれには、意味が、とても建設的な意味が込められている――
 競走馬がみんな酔っ払っていたら、あなたはどうする?

宇宙よ、ちょっとでいいから俺のものになってくれ 

  十一月二十日

例えば、夜というものはいつも白々しくない。ただそこにあるだけだ。静かで、豊かで。だが我々はそうはいかない。ほとんどの場合我々は常にどやしつけられている。何に?父性なるもの?違う。もっと得体の知れないものだ。私たちの父親はみんな死んでしまった。良い意味でも悪い意味でもだ。今は過保護の時代と言えるかもしれない。私たちが日々テレビやなんかから受け取る現実のイメージは、本当の現実からは遠く離れている。だから、皆は剥きだしの、生の人生や、感情に直面すると、ショックを受ける。まるで役に立たなくなる……そんな時に我々は、何か縋れるものを掴み取る。それがどんなにいかがわしいものでも、ありったけの力を込めて……

こんなくだらないことを書いていると、いつの間にか深夜の一時になっていた。リカはまだ帰って来ていなかった。十二時には帰ってくるという約束だった……一体どこに行っているんだ? 俺はパソコンを閉じ、彼女のために作ってあった氷入りの白ワインを手にとって、飲んだ。ひどく薄かった。少しシャツにこぼした……すると、自分がまだ着替えていないことに気付いた。まだジーンズを履いたままだ。俺のおろしたてのA.P.Cジーンズ。まだ糊が付いていて、固い。前のボタンがガチガチで、満足に小便も出来ない。それに、白のコットン・シャツ。俺は一人前の男といえるのか?
電話がかかって来た。家の電話だ。
「もしもし? リカ?」
「タムラーか?」
 男の声だった。
「おあ、失礼。どなた?」
「俺だよ、タムラー。ケンジだ」
「おお、ケンジか。なん……どうした。珍しいな」
「夜遅く、すまないね」
「ああ、いいよ。まぁ暇だったし。で、どうした?」
「実はさ、今度の選挙のことなんだけど」
「うん、それを、この時間に?」
「ちょっと、是非応援して欲しい人がいるんだ」
「応援って、何だ? 念じていればいいのか」
「是非投票して欲しい人がいるんだ」
「誰?」
「うちの父親の知り合いの人なんだけど、年金や雇用対策に力を入れている、素晴らしい人なんだ」
「ふーん。お前の父親って、いつもハムカツ食ってるよな。ほほえましい……」
「茶化さないでくれよ。大事な話なんだ」
 ワインを見ると、氷がほとんど無くなっていた。なかなか飲める酒だったのに、もったいない。
「で、その人、ちょっと選挙区外なんだけど、俺が一緒に行くから」
「そっか。でも悪いな」
「え?」
「お前、宗教入ってるだろ?」
「うん。でも」
「俺も入っててさ」
「そうなの?」
「ああ、だから宗教上の理由で、お前の支持政党には入れられないんだ」
「何教なの?」
「悪魔崇拝だよ」
「え?」
「悪魔崇拝だって。サタニズムだよ。知らない? アントン・ラヴェイって」
「俺をからかってるのかい?」
「違うよ。実在する主義なんだ。ベジタリアンみたいなもんだよ」
 沈黙が訪れた。彼が、こっちを見極めようとしているんだろう。本気なのか、それとも侮辱されているのか。
「わかった」
「何が?」
「とにかく、また話す。今度、フットサルでもしようぜ。俺、地元でチーム作ってるんだ」
「わかった。俺、野球が好きだけど、頑張るよ」
そこで彼は受話器を置いた。
一時十五分になった。俺は暇になって、部屋の書棚から適当に本を取り出した。インディアンの作家の本だった。それから、隅の方にかけてあるリカの洋服が気になったので、眺めた。人が選んで買ったモノを見るのは楽しい。その人間がどうゆう奴かわかる気がするからだ。そして、ああ、リカはセンスが良いとは言えなかった。ピンク色の裏地のベージュのトレンチコートは、後ろやポケットの部分にやたらめったら羽根のようなカッティングが入っていて、デザイン過多だった。緑色のバッグ。ビニールみたいな素材。エグい。虫みたいだ。デザイナーは何故これらの素材を、そっとしてやることが出来なかったのだろう。紫の毛玉で出来たシュシュ……
俺は何かを待つ時間を有意義に過ごせたためしがない。
電話が鳴った。
「もしもし」
「もしもし?タムラー?」
「リカか?」
「他に誰がいるのよ。あのさ、今駅のとこまで来たんだけど、迎えに来てくれない?」
「ええ。歩いて来れるだろ」
「無理よ。超気持ち悪いの。さっきも吐いちゃった」
 リカはウェ、と喉を鳴らした。
「飲んでるのか」
「うん。とにかく早く来て! 死ぬ! 駅の前の横断歩道のとこにいるから!」
 バチッと、電話は切れた。俺はやれやれという感じで――まったくだよ、格好つけてゆっくりと椅子から立ち上がり、ボタンを全部開けてずり下がっていたジーンズをまたきっちり履きこみ、適当なセーターを着て、出掛ける準備をした。水っぽいワインを飲みほし、セルの眼鏡をかけた。鏡を見ると、そこにはどうしようもない間抜けな顔が映っていた。髪は乱れ、目は落ち窪んでいた。雨に濡れた小汚い犬みたいな顔だ。でも、悪くはない、と思った。悪くはない。俺は駐車場に向かった。

 駐車場に行くと、アパートから管理人の老婆が現れた。この人は毎晩こんな時間に現れ、俺にやさしく笑顔を向ける。この日もそうだった。俺は、今晩は、と挨拶をした。
「星を見るのが好きでねえ」
 と老婆は言った。
「星を見てると、人間なんてほんと小さなもんだと、思うのよねぇ」
 俺はそう思わなかった。
「うるさくして、すいません」
「いいのよ、そんなこと。そんな小さなことなんて、私たちが生きていられるこの幸運に比べたら、本当に大したことないんだから」
 管理人はまた微笑んで、全知全能みたいな喋り方をした。
「はあ」
「まだあなたは若いんだから、色んな経験をするチャンスがあるんだから、本当に気にすること無いのよ」
「はい、俺、駐車代だけはしっかり払い続けます」
「そういうことを言っているんじゃなくて……」
俺は管理人に背を向け、友達と共同で買った車に乗り込み、駅に向かって発進した。

 駅には、ほとんど誰もいないようだった。もう真っ暗だ。俺は駅前のバス乗り場に車を止め、リカを探した。静かな夜だった……時たま通る電車が光と音と振動を辺りに投げかけては去って行った。俺は駅へ昇る階段の途中に、透明なプラスチックのカバー越しに誰かが寄り掛かっているのを見つけた。リカだった。彼女は花柄のワンピースに、ベージュの上着、茶色いブーツという格好で、階段の隅に腰掛け、顔を伏せていた。見るからに弱っていた。
「リカ」
 俺は階段の下から呼びかけた。彼女は頭を一度振り、それから俺を見下ろした。とても綺麗だ――と俺は思った。
「……遅いよ」
「意外と遠くて。大丈夫か?」
「ダメ。立てない」
俺はリカの手を取って、立たせようとした。でも彼女は全く体に力が入らないみたいで、痛い痛い、と言うだけで、動こうとしなかった。
「おい。帰るぞ」
「立てない」
「ええ、ったく」
 俺は彼女の一段下に下がり、彼女に背中を向けた。
「おぶってくから」
 リカは何も言わず、俺の背中に体を預けてきた。
「お前、割と軽いな」
「吐いたからね。たくさん」

 家に着くと、もう二時近かった。俺はリカをベッドまで運んで、横にならせた。
「風呂入る?」
「いい。朝入る」
「そっか。着替えるか?」
「着替えさせてよ」
 俺はリカの洋服を脱がせて、寝巻を着させた。
「化粧落として」
「どれで?」
「そこにあるやつ、コットンで」
 俺は不器用な手つきながら、なんとか彼女の要求に答えていった。こうしてリカに言われるがままになってると、付き合う前のこと、彼女に気に入られようと、どんなくだらないことでも何でもやったことを思い出す。普段だったら気にも留めないような音楽だってたくさん聞いたし、苦手なテーマパークにも随分付き合った。人生で初めてホラー映画も見た。
それはそうと、彼女の体を弄っているうちに、興奮してきた。素直に打ち明けることにした。
「なあ、俺、ちょっと興奮してきたんだけど」
リカは答えてくれなかった。ただ、化粧の落ちた、少し印象の変わった目で俺を見て、軽蔑しているような視線を送ってきた。俺はこれ以上何か言うのは止めることにし、とりあえずニッコリ笑っておけばいいや、と思い、そうして、冗談だよ、と言った。

電球が切れたように、リカはすぐに眠ってしまった。俺は何だか世界でたった一人残されてしまったような気がして――虫の声も、車の音もしない、異様な静けさを感じて――窓の外を見た。いつもと変わらぬ夜がそこにはあった。今夜は良く晴れていて、月と星が良く見える。俺は考えた。俺が信じるもの。俺が何回もやるもの。俺が縋るもの、縋ってきたもの。流れ星が来たら俺が真っ先に願うもの。
その時、類まれなる瞬間が訪れた。夜、夜なる宇宙、宇宙なる夜は、俺をその目で見たのだ。俺はそれに視線を合わせた。涙が出てきた。夜は発光し、その銀色の腹を俺に見せた。俺はそれに触れた。途端に、俺は起きた。俺の手が起きて、足が起きて、内臓が起きて、消化器が起きて、それから頭が起きた。それは、頬笑みだった。宇宙の大いなる優しさだった。巨大な霊感。詩と冗談が目一杯つまった形の無いコズミックなアイディアを俺は受け取った。……まあ、一般的に言えば、それはただのたくさんの流星だったんだけど――獅子座流星群と言うやつか、こんなところで見れるなんて思っていなかった――そう、人は自分が見つけたものを必要以上に大事にしてしまう。真理だと思ってしまう。
俺はすぐに部屋に戻って、ノートパソコンの電源を入れた。待てない。ワードを立ち上げ、日記の続きを書きだした。三行空けて、俺は詩を書いた。幻想と現実とユーモアと痛みについての長い詩を。俺はかつて、詩人になろうとしていたのだ。そうして出来た作品は、支離滅裂で、とても読めた代物じゃなかったけど、俺にとっての黙示になった。

さて、たった今、静かだった外の世界に、新聞配達がポストに朝刊を入れる音が鳴り響いた。もう朝になる。あと二、三個特別なことを言ったらもう今日は眠ることにしよう……うん、でも、思い付かないな。

仕事

 申し分ないほど完璧な朝、俺は車に乗って町外れに向かっていた。運転席にはサバ。サバは真っ黒で真っ直ぐな短髪をキッチリとセットし、紫色のセーターに白いボタンダウン・シャツを着込んでいた――彼にとってカジュアルとは口に出すのも憚られる概念であり、例えば俺がレザーシューズでも履いていようものなら、必ずそのディティールについて一言言わずにはいられなかった……「そういう装飾がついたシューズってのはその服装には合わないだろ。よく考えないと」それに対して俺はと言えばボロボロの茶色のネルシャツにクタクタのコーデュロイパンツという格好だった、人間はどこまで立派になれるのか?                        ……しかし、今日のサバは最初に「仕事するぞ」と言って以来何も俺に言ってこない。カーステレオからはレディオヘッドが流れていて、トム・ヨークがお馴染みの気が滅入るファルセットを駆使して歌っていた。一体どういうつもりなんだ?
「なあ」
「もっと、こう、気分が良くなる曲無いわけ?」
 サバはちょっとこっちを見ると、黙ってステレオを操作した。新しい曲はダンスっぽい曲で、まあ、朝聞くものじゃない気がするが、さっきよりはマシだった。
「ああ、これ、聞いたことあんな、CMで。何だっけ?このバンド」
「フランツ・フェルディナンドだよ」
「ああ、聞いたことあるな……うん」
 季節は今にも燃え尽きそうだった。国道を変なところで曲がってから、俺には馴染みのない風景が続いていた。早朝で、少し寒くて、俺は自分の薄着を後悔した。それから、何だか気持ち悪くなって来た。昨日飲み過ぎたってのもあるけど、半分以上は車酔いだった。
サバについてもうちょっと説明すると、彼は一つのグループには必ず一人いるいわゆる「出来る奴」というタイプの人間で――よく気が利き、容姿も良く、子供のころから一緒の俺も随分助けられてきた。彼は今桜木町のバーで働いていて、まあそこの店長がどうしようもない、だらしない奴で、最近ではサバが実質的な経営を一手に引き受けているのだった。
「なあ」
「うん?」
「窓開けていいか」
「ああ」
「ちょっと俺、吐きそうなんだよ」
「もうすぐ着く」
「吐いちゃうかも、ここで」
「もう着く」
「ホントに?あと何分?」
「十分ぐらい」
「いや、俺、耐えられねえよ、うん、もうここまできてんだよ。喉まで」
 サバはこいつの馬鹿さ加減にはもううんざりだよ、という表情を浮かべて俺を見た。適当なところで車を止めてもらって、俺は吐いた。

 車がついた先は倉庫のようなところだった。といっても倉庫街ってわけではなくて、辺りは普通の町だったし、目と鼻の先には老人達のゲートボールにはぴったりって感じの公園もあった。倉庫の上にはアパートみたいな普通の居住スペースがあって、誰かが生活している匂いもちゃんとした。
「行くぞ」
サバは車を倉庫の裏に停め、後ろのドアを開けた。それから倉庫の側面にまわり、一つのシャッターの前に立ち、辺りを見渡してから、一思いに上げた。鍵とかしてないわけ?と俺は聞いたが、サバは謎めいた微笑みを返すだけだった。
倉庫の中は舶来のものでいっぱいだった。ビール、ウィスキー、菓子、ミネラルウォーター。どれもこれもサバの店で以前見たことがあるものばっかりだ。
「ここ、お前んとこの倉庫なのか?」
「ああ、とりあえず、俺が言ったやつ、車に運んでくれよ」
 俺はなんだか釈然としない気持ちで、とりあえず仕事をやることにした。

 俺の働きは、まあ及第点を与えてもよかったと思う。サバの支持に従いながら、色んな商品を車に積んだ。久しぶりの肉体労働だ。割と楽しかったけど、でも、やっぱり疲れた。喉が渇いたし、倉庫の舞い立つ埃で咳が出てきた。
「なあ、これ、ちょっと飲んでいいか?」
 サバの返事はなかった。彼はちょくちょく外に出て、何やら見て回っているみたいだった。じゃあしょうがない、俺は近くにあった段ボールを探って、一本酒の瓶を取り出し、飲んだ。甘ったるい酒だった。
「何やってんだ?」
 サバが帰って来た。俺をじっと見て、それから目線を逸らした。俺は急に自分が全ての間違いを司る神様の息子みたいになった気がして、ちょっと恥ずかしくなった。でも俺は止まらなかった。好奇心の赴くまま、外国の珍しそうな菓子や、水、明らかにアルコール度数の高そうな酒など、なんでも開けて、試してみた。サバは初めの方こそ、それぐらいにしとけよ、とかどうとか警告を発していたが、俺が強化ワインを手にしたころから、何も言わず、冷めた目で俺を見るだけになった。彼はとにかくこの仕事が何事も無く終わり、俺みたいなどうしようもない馬鹿とは早くおさらばしたい、と思っているようだった。
 そうだ、急に思いだしたことがある。かつて、こいつとは一人の女性を巡って争ったことがあったのだった――そこで俺は、手痛い敗北を喫した。かなり落ち込んだ。クソ、そのことを考えたらイライラしてきた。やつの直線だけでできた顔を見るのが苦痛になってきた。
「サバ」
「何だ」
「一つ聞きたいことがあるんだけど」
「ああ?」
「ここ、お前のとこの倉庫じゃないんだろ?」
 俺はそう言った。これはさっきからやたらそわそわして、外を何回も見に行っているサバの態度から用意に想像出来ることだった。騙しやがって。俺はとにかく、こいつに打撃を与えたくてしょうがなかったのだ。
「そうだよ」
 サバはアッサリと白状した。こう言った奴の眼は、奇妙な落ち着きを見せていた。
「だよな」
「だったら何だよ?」
 そうだ、だったら何だって言うんだ?。俺は文字どおり何も言えなくなり、ただ聞いただけ、という風を装うために、強化ワインを時間をかけてぐいっと一口飲んだ。それから、サバに「飲むか?」、と聞き、瓶の口を奴の方に向けた。
「いらねえよ。早く運べ。もう行くぞ」
 とサバは言った。 

 口があったら文句を言っていただろう、サバの車は積載量を明らかに無視され軋んだ音を立てていた。マスター・サバはお構いなし、って感じで後ろのドアを荒っぽく閉め、しかも何か引っかかっていたのか、軽く蹴りを加えた。ひどい奴め、俺だったらもっと丁重に扱っている。車でも、女でも。俺は何者をも平等に愛する男だからだ。
車に乗り込んで、時計を見ると、ここに来てからまだ大して時間は経っていなかった。それでも窓から辺りを見渡しても誰もいないのは奇妙だった――まさしく街はまだ眠っていたか、それかもう死んでいたかのどちらかだった。
「サバ」
「何だよ?」
 サバはシートベルトを締め、律義にミラーを確認し、ギアをドライブに入れた。少しピリピリしているようにも見えたが、何とか無事に仕事が終わって、内心はホッとしているようだった。
「疲れたな」
「ああ、全てに疲れたよ、俺は」
「そんなこと、言うもんじゃない」
「どういう意味だよ、そりゃ」
 車が静かに動き出した。

「お前は、これからどうすんだよ?」
 サバが言った。
「これからって、今日?それとも人生?」
「めんどくせえな。じゃあ両方」
「今日はそうだな、地元に戻って、何かするよ。また、飲むかも知んないけど。俺、最近、寂しいんだよ」
「まったく、お前はお気楽だよな」
「そんなことはないけどな。俺だって、色々あるんだよ」
「そうか」
「あ、給料、給料っつーか今日の仕事代は?」
「うちの店に来たら渡す」
「うーん俺、あそこ苦手なんだよな。洒落過ぎてて」
「じゃあ来なくていいよ」
「ええ、いじわるするなよ……それで、じゃあ、お前はどうすんだよ。これから」
「……俺は、個人的には、こんなところで終わる人間じゃないと思ってる」
「まあ、そうだろうな」
「最近、ひどくないか?横浜。西口とか」
「ああ、ありゃ、最悪だ」
「ドンキが出来てから、何かおかしくなったよな。昔は、もうちょっとマシな人間がいた」
「うん」
「地元もさ、老人ばっかりでな。もう、終わってるよ、あの街は」
「ああ」
「本当のクズっていうのは、自分がクズだって気付けない――」
「じゃあ、俺は違うかな」
 俺がそう言うとサバはこっちを振り向いて少し笑った。それから、すぐに前を向き直し、話を続けた。
「そんなやつばっかりだ。どいつもこいつも。お手軽な、用意された、何の未来もないようなクソ快楽にどっぷり心まで浸かって、何一つ考えないで、時間を無駄にしている。醜くて、そう、見た目も醜ければ服装も喋り方も歩き方も醜い奴ばっかりだ。あいつら、生きても死んでも何の価値もない、ただの糞袋だ。俺はああはならない。俺は騙されないし、自分をごまかしたりもしない。陳腐な言い方かもしれないけど、俺はもっと上に行く。俺には意志がある」
ああ、と俺は思った。こいつは、何てユーモアと怒りに満ちた、良い奴なんだろう。俺は、こんなに物事に対してはっきり言うことなんか出来やしない。俺は自分を恥じた。俺には言うことなんて、意見なんて何もないし、決まった立場も無いときてる。

 そして結局、この日は俺の人生のなかでも最良の一日になりつつあったのだ。俺は彼を愛していたし、動物も愛していたし、果物だって愛していた。そんな気分が一日中続いた。俺は家に帰って、少し眠ってから、近所のバーに出掛けた。バーではお馴染みの連中がお馴染みの表情でお馴染みの飲み物を飲んでいた。全ては俺が前にこの店を訪れた時から一ミリも変わっていない。何だろう、それはまるでコメディの一場面を見ているようだった。それで、今日は運良く笑える場面に出くわしたみたいだ。

それから少したった後、サバは大手の印刷会社に仕事が決まり、東京に行って会わなくなった。もう一人仲が良い奴がいたが、そいつは旅行でモロッコに行って帰ってこなくなった。それでここも随分寂しくなった。残っているのは俺と、もう一人、ひどくチャーミングだけどひどい酒飲みのズーって奴ぐらいになった。
俺は少し前から、ずっと原因不明の咳が止まらず、苦しんでいる。咳をし過ぎて、近頃では喉が切れて、血が出るようになってきた。辛いので、いつも酒を飲んでは小便ばっかりしていた。酒場の窓からも、家の窓からも、仕事先の窓からも、外を覗くと見えるのはいつも同じ、埃と塵で出来た世界。それがまた喉元に迫って来ては、俺にちょっかいを出していたのだ。だが、それでもまだ俺は毎朝起きて手つかずの一日が目の前に転がっていても文句なんて言わなかったし、第一、そんなに深刻に物事を考えたりはしないし、そもそもこの世に本当に声を荒げるべきものなんて何一つないと思っているぐらいだし、まあ、何とかやっている。
そんなわけで、俺は出来れば三百歳ぐらいまで生きたいと思っている。きっとそうなることだろう。

ハッピー・アワー

 その頃は俺の人生の中でも一番愚かしく、そして一番愛らしかったと言える時期だった。俺はまともな仕事を持っておらず、横浜の国道沿いにある幽霊フラットの一室を不法占拠して暮らしていた。そしてしょっちゅう近所の『フラワー・マン』というバーに行ってはだらだらと、通り過ぎる時間を横目に見ながら、酒を飲んで過ごしていた。どうしてこんなにわかりやすい、キャッチ―な人生に身を落としていたのかというと、この時の俺はちょうどエステティシャンの彼女に振られて気分が落ち込んでいたからで、なんとかそんな自分の心を癒してくれるシンプルな構図が必要だったからなんだと思う。彼女はとても包容力のある人だった――体系も少しぽっちゃりしていて、何より、顔全体が輝くような、大きな、素晴らしい笑顔を持っていた。まるっきり完璧な宇宙の優しさって感じで……俺は彼女にまだ未練を感じていた。だから俺はいつか彼女がこの店に突然現れて、こんなドツボから俺を救い出してくれるなんてことが起きてはくれないかと、少し期待してもいた――ロマンス。だけど今はもう二千年代だし、過去の経験から鑑みても、そんなことは考えるだけ無駄だということは分かってはいた。
そう、それで、ちょうど俺がハートランド・ビールを頼もうとして、店主に無い、と断られ、ギネスを頼もうとして、無い、と断られ、結局エビスを頼むというお馴染みになった儀式の最中、ドアが開いて、ハトが入って来たのだった……ハトは俺を見るなり、
「タムラー、酒おごってくれよ」
 と言った。
 ハトはこの頃、もっとも俺が親しかった友人だ。彼は近くの小さなテニスコートの管理人をやっていて、えらく暇をもてあましていたので、よく二人でつるんでいた。もっとも大半は、酒場で飲んだくれていただけだったが、でも、そうでなくてもこいつは普段から酔っぱらっているようなものだった……ハトはことあるごとに俺に、コートを訪れるテニス選手への憎悪を口にした。
「こんな郊外のテニス選手は」
「臭すぎるんだよ……特別。それに、最悪なのは、シャワーの後だ。排水溝にめちゃくちゃ大量の毛が絡んでるんだよ……ありゃないぜ、ホント。吐き気ってのは、ああいう時のために、取っておくべきだな」

 ある日のこと、俺とハトはまたも『フラワー・マン』にいて、二人とも古着で買ったチョコレート・ブラウンの五十年代風スーツを着込んで(こういうくだらないことが大好きなんだ)、道路に面したテラス席で酒を飲んでいた。何もかも持ち去られた、二度と使われないボロ倉庫みたいな一日。人生なんてラッカー・ペイントされたゴムタイヤだ……で、ハトが言った。
「こないださあ、うちのコートに」
「ああ」
「大人数で来やがってさあ、テニス選手が」 
「うん」
「アホみたいな数でよ、うち二面しかないってのに、それで、まあそれはいいんだけどさ、帰り際に文句言ってきたのよ」
「何て?」
「更衣室のシャワーが一個しか使えないって」
「何個あるの?」
 ハトはつまみのナッツを一握り掴み、しばらく見つめた後、口に放り込んだ。
「うーん、いっぱい」
「いっぱいねえ」
「でも、ほとんど壊れてんだよ」
「直せよ、業者でも呼んで」
「いや、直したいんだけどさ、俺、雇われた時にそういうの出来るって言っちゃったんだよね。技師的なことさあ。だからちょっとどうかなっていう」
「なるほど」
 その時、俺は道路を挟んだ向こう側の道にある岩盤浴の店から、見覚えのある気がする人間が出てくるのを見かけた――彼女だろうか?さっき言っていたエステティシャンの。なんだか俺は、ひどくゆっくりと自分の心がじっとりと濡れていくような感じを味わった。俺は平静を装いながらテーブルからやや身を乗り出し、もっとよくその人物が見えるように努力した――だが女はこっちを気に掛ける様子もなく、手にした白いトレンチコートを羽織り、足早に奥の道へ消えて行ってしまった。女はロールアップしたジーンズを履いていて、髪の毛は黒っぽかった。体系は彼女そのものか、ややほっそりしている感じ……顔ははっきりとは見えなかったが、なんにせよ、よく似ていたと思う。
「なあ、おい」
 俺がボーっとしていると、ハトが言った。
「それで、どうすりゃいいと思う?」

 金曜の夜。『フラワー・マン』はいつもと変わりなく、静かに金を食い潰している。この店のユニークなところは、こういったバーとかに特有の、排他的な内輪感というものがまったくないところだ。もちろん常連客はいる。だが、見たところ彼らはお互いに奇妙に距離を置き、それぞれが抱えるややこしい人生というものにまったく関わらないようにしているように思える。店主もそんなぐあいだ。ここでは誰もが他の誰かのことを知りもしないし、知りたくもないのだ。だから必然的にここで俺らの相手をしてくれるものは時間だけだった――それは秒針が音を立てて伝えるこれからの、あの時間と、我々がかつて過ごした、今ではもう手の届かぬ場所に行ってしまった、ノスタルジックなあの時間――の二種類があった。そう、ここで俺は何もかもを思い出し、また体験し直し、そしてまた忘れていったのだった。窓の外、道路を流れる車のヘッドライトが、我々を一瞬だけあっちに照らし出して、また去っていく。俺はビールをもう一杯注文する。この店は七時から一時間だけハッピー・アワーをやっていて、その時間内では普段の半分の値段でビールを一杯飲むことが出来る――安いビール、楽しい時間、その幸せな瞬間、それはここにいる人間達の唯一の共通認識だった。
 俺の意識はいつしか過去へと遡っていった……過去、そう、君がいたころは、洒落にならないくらい素晴らしかった。大して金は無かったけど二人とも美しいシャツを着ていた、あのキッチンで、それで充分だった……だけど俺たちはあまりにも時間を無駄にし過ぎたみたいだ、あまりにも。
「おまたせ」
 店主が俺の席にビールを運んで来て、ついでに耳寄りな情報を教えてくれた。
「そういえば、こないだ言ってた白いトレンチコートの女、昨日見たよ」

 不可解な一日。久しぶりに地元の奴と会って、俺が住んでいるフラットの架空の住所を利用した怪しいビジネスに誘われて、そんな気分でもないから断って、また『フラワー・マン』に。隣には今日初めて喋った男。彼はこのバーで結構見る顔で、年は見たところ俺よりだいぶ上、たまに緑色のスリッパを履いていて(多分近くにある病院のものだと思う)、憑き物が取れたっていうのはまさにこういうことを言うんだろうなっていう顔をしている。この愛嬌のあるアル中はさっきから、(多分だけど)病院でのただ一つの許せない出来事をおれにずっと繰り返し語っていた。
「毎日毎日、どんな時も、あいつら、俺の穴にしか話しかけてこないんだ」
 何だって?それはまるっきりふざけているようでもあったし、えらく高尚な皮肉のようにも感じられた。どうも、彼には親近感が沸く……そうだ、何を見ても見えるものは自分自身なのだ――という説を採用するなら、彼は俺の隠された部分、理解しがたい生活の哲学の現れなのかもしれない。俺も一席ぶちたい気分になった。
「なあ、おっさん。俺のくだらない話聞いてくれない?」
「何だ?」
「どうやったって、何したってこれ以上良くはならないっていうのがわかってる、というのは悲しいよな。でも、だからってこれから益々悪くなる、悪くなる一方だっていうことはあり得ないんだと思うんだ」
「何で?」
「良さと悪さってのは同じ性質じゃないってことだよ。わかる?要するに良い人生っていうのは素敵な人工物、神様が見落としたバベルの塔みたいなもんで、積み上げていくものなんだけど、一方で悪い人生っていうのは海みたいなもんなんだ……浅いも深いも無い、っていうね」
「何言ってんだ?」
 俺は多分そろそろ現れるんじゃないかと思って、窓の外を見た。すると、やっぱり彼女は現れた。
 スロー・モーション――まるで時間が半分になったみたいだった……彼女はまた白い、アイコニックなトレンチコートを着て、黒いサングラスをしていて……軽やかに、ゆっくりと店の前を通っていった……俺は透明な店のガラスと黒いレンズ越しに彼女の眼を見た。彼女も俺の眼を見た。長い時間……そのまま、彼女は通り過ぎた。
「俺の穴」
 隣の男がうめいた。 

 虫の知らせ、とは良く言ったもので、どうも最近ほんとに腹の中に虫がいるみたいにざわざわと、落ち着かない気分を感じている。そろそろこの生活を変えるべき時に来ているのかもしれない。たとえ人生というものがここ(・・)からどこ(・・)か(・)へ、ではなくてここ(・・)からここ(・・)へ、というものに過ぎないにしても、ずっとこんなところでグダグダしているわけにはいかない。

「お前、あんまり俺に奢らせるなよ」
 ハトが言った。
「酔っぱらってる時は、何て言うか、コントロールできないんだからさ、俺も金無いんだよ」
「普段の時もコントロール出来てないじゃねえか」
「え?」
「いや」
「お前、顔に影が……何言ってるかわからないぞ」
「ああ?ああ」
「何だよ、ボーっとしやがって。恋煩いか?」
「違うわ」
「ったく」
 ハトはゆっくり伸びをすると、背もたれに体を預け、欠伸をした。
「俺、今日はこの辺にするわ。明日早いし」
「何だそりゃ」
 ハトは立ち上がり、椅子に掛けたレザージャケットを手に取り、金を置いて、だらだらと帰って行った。まるで夢みたいな顔をしていた。ハトがいなくなると俺は何だか手持無沙汰になって、自分と付き合うのに飽き飽きした気分になった。あんまりビールを飲む気もしなくて(ハッピー・アワーだっていうのに)、ここに来て初めて、誰かと深く関わりたい、と思った。
 そう思って四十六秒後に、宿命の小さな音を立て、店のドアが開いた。
 彼女だった。彼女は例の白いトレンチコートを着て、また、黒い大きなサングラスをかけていた。それはあんまり似合っているとは言えなかったが、滑稽ってわけでもなかった。彼女は真っ直ぐに――店の連中の視線もまるで意に介さず、現役の肉食動物みたいに優雅に、俺のテーブルに向ってきて、俺の向かいに座った。
「えーっと」
 俺は落ち着いた、経験豊富な風を装おうとしたが、そんな柄じゃなかった。
「タムラー君でしょ?」
「お?ああ、そう」
「妹と付き合ってたよね?」
「妹?」
 彼女は頷き、もったいつけてサングラスを外した。それはつまり、そういうことだった。
「ああ、なるほど」
「タムラー、タムラーねえ。変な名前。私、何て呼べばいい?」
俺は、こんな出会いを生み出した、奇妙に捻じ曲がった自分の運命に笑わずにはいられなかった。
「何でも」
「何でも、呼びたいように呼んでくれればいいよ」

この世界には人生を完璧に理解するための、大事な何かがたくさん用意されている部屋があって――そしてそこに通じる秘密のドアはいつも俺の/あなたの後ろでスウィングしている。でもそれに気付くことはきっと一生出来ないのだ……一生。

ポーチで/希望を込めて

「ほら、あれ」
 と言って、ヨシタカは道の奥を指さした。そこには、うちの高校の制服を着たやつがスポーツ・バッグを肩にかけて歩いていた。見た顔だ。
「おお、あれ、誰だっけ?」
「うちのバレー部の今のエースだよ、鳥越って名前で」
「ああ、あいつか。兄弟の」
「そうだ、二人してエースで、すごいらしいぜ」
「全国行ったっけ、今年は」
「行った行った。二回戦かな?あいつら、どっちか、大活躍してさ、実業団が目ぇつけてるらしいぜ」
「まじかよ」
 まじかよ、って気分だった。昨日の酒が残っていて、気持ち悪いったらない――俺とヨシタカは、俺んちのポーチの椅子に腰を降ろし、通りを眺めていた。ヨシタカは無謀にもビールを飲んでいたが、俺はダイエット・ペプシを飲んでいた。まったく、酒を飲むと、四回に一回はこんな気分になる。飲むペースが速すぎるからだ。昨日だって、仲間内で一番飲んでいたのは俺に違いない。
「じゃあ、あいつが今の我が高校の期待の星ってわけか」
「そうだな。変な風にならなきゃいいな」
「だな」
 鳥越、の兄だか弟だか、はすぐに行ってしまった。サバがふざけて言った。
「あいつ、あいさつも無しか。大先輩に対して」
「何が。あいつが俺らのこと知ってる訳ないだろ。卒業して何年たってると思ってんだ」
「わかってるよ」
「そういえばさあ」
「ん?」
「ほら、俺らの時さあ、鎌田っていたじゃん。すげーでかい奴。あいつどうなったの?」
「ああ、鎌田?なあ、ビールまだあったっけ?」
 ヨシタカは空いたビールの缶を片手でほんのちょっと潰し、顔の高さにあげた。ごちそうさま、という具合に。もう何年も見ている、お馴染みの癖だ。
「ああ、たしかまだあるよ。ダース買いしたんだ。冷蔵庫行ってこいよ。ついでにペプシも頼む」
「太るぞ」
「うむ」
 ヨシタカは網戸を開けて(ひどく軋んだ)、家の中に入っていった。俺はまた道を見つめた。座っているロッキン・チェアーを少し揺らした。気持ち悪い。日焼けした腕の皮を剥く。何も言うことはないし、考えることもなかった。近所のフラダンス教室から音楽が聞こえる。いつもと全く変わらない日だった。
「お待たせ」
「おかえり」
 ヨシタカが手にビールとダイエット・ペプシを持って帰ってきた。
「鎌田は、今たしかキリンのさ、ビールのね。ビア・ガーデンで働いてるよ。国道の奥にあるやつ」
「ビア・ガーデンか。あいつ、バレー続けなかったのか」
 鎌田は俺らが高校生だったころのバレー部のエースだった。縦にも横にも恐ろしくでかく、恐ろしく喧嘩っ早い奴だった。やつも鳥越同様、実業団から目をつけられていた、という話で、俺とサバはバスケ部だったから大して絡んだことはなかったが、当時は誰もがやつに期待していた。性格はどうあれ、すごい選手だった……俺とサバが見に行った県大会の準決勝で、忘れもしない、あいつは一試合の得点数の大会新記録を出したんだ。誰一人あいつを止められなかった。何枚ブロックが来ようがおかまいなし。とんでもない威力のそのスパイクは、撃ったら撃ったっきり、返ってくるってことがなかった。
「ああ、結局は、ただのチンピラだったってことだな。どっかのチームに入ったけど、すぐに問題起こして辞めたらしい。酒も大好きだったらしいしな」
「そうか」
「ああ。だから、鳥越には――」
「変なことにはなってほしくない」
「うん」
 ヨシタカはビールを開けて、一口飲んだ。冷えたビール。今日はとても暑い日だ。太陽が容赦なく俺たちを照らしつける。道行く人は誰も彼も汗だくだった――老人ばっかりだ。最近若手をあんまり見ない。少子化ってやつか。俺たちの国はどうも盛りを過ぎているように思える――助かりたいと、ぼんやりそういう風に考えることもある。何から?
救世主は確かにやってきたはずだ。だけど、俺たちは随分疑り深くなってしまったし、内臓を痛めつけ過ぎてしまったせいで、それに気付くことはできなかったのだ。
「幸せな家庭」
 とヨシタカが言った。
「苦労して買ったマイホーム」
 と俺は言った。
「恐ろしくブサイクな子供たち」
「日曜大工」
「三つ揃えの高いスーツ」
「死期を逃した両親の介護」
「ブクブク太る」
「汗臭い」
「髪の短くなった、センスのないおしゃべりな妻」
「子供にも疎まれて」
「同期の出世」
「デカいテレビ」
「下らないテレビ番組」
「低コレステロール、塩分は控えめ」
「選挙の度に裏切られる」
「手に負えない有権者のアホさ」
ヨシタカは飲んでいたビール缶を投げた。それはみごとな軌道を描き、ゴミ箱に入った。全てはあるべき場所に収まって行く。彼は下を向いた。そして、
「いつか、二人で店をやろう。なんか、バーでも、なんでもさ。俺達、アホみたいに傷つきやすいから、店にはあんまり角ばったものは置かないでさ。カウンター席と、テーブル席を少し。あと、」
 と言った。
「いいな、それ」
 と俺は言った。
 俺たちはずっと、ずっと、最後までこうやって安っぽい希望を諳んじて生きていくんだ。それはきっと楽しい。