ノイタミナのポピュラリティ―アニメが持つ広がりと可能性

岩下 成美

目次

第一章 はじめに

第二章 ノイタミナ小史

第一節 枠の成り立ちと初期作品の特徴

第二節 『東のエデン』以降

第三節 枠の二段化とノイタミナのポピュラリティ

第三章 ノイタミナの設計

第一節 枠のブランド化

第二節 一クール十一話のドラマ性

第三節 オタクのカジュアル化

第四節 放送局の拡大、枠の統一化

第四章 ノイタミナと表現としてのアニメ

第一節 「アニメ的センス」とハイブリットな表現

第二節 映像表現としてのアニメ

第五章 実験枠としてのノイタミナ

第一節 疑似プロダクションとしての役割

第二節 FLASH、アヴァンギャルド

第六章 おわりに

注、参考文献

 

第一章 はじめに

今や日本が世界に誇るアニメ文化。その中でも、一九六三年から放送された日本初のTVアニメシリーズである『鉄腕アトム』(手塚治ほか 一九六三―一九六六 手塚プロダクション)に始まる、いわゆる「TVアニメ」の制作本数は二〇〇六年にピークを迎え、年間で二七九ものTVアニメが制作されるに至った。(注一)この近年における異常なまでの制作本数は、深夜アニメによる影響が大きいと言えるが、一方でその過剰な制作体制は質の維持を困難にし、作品の打ち切りも目立つようになっていた。

そのような粗製乱造の感が否めない状況の中、常にクオリティの高い作品を世に送り出し独特の存在感を放ち続けているのが、フジテレビ系列の深夜アニメ枠、ノイタミナである。今日のアニメ文化を考察する上で欠かせない存在となった同枠は、二〇〇五年四月の放送開始から二〇一二年現在で八年目を迎え、二四時台からという浅めの深夜枠を活かすことで、王道作品から実験的な作品まで、個性豊かな作品を世の中に送り出している。

またノイタミナは放送枠に特定の名称を付けブランディングすることに成功し、原作のある作品だけではなくオリジナル作品を継続的に送り出しているという点においても、アニメの常識をひっくりかえすという意味の込められたアニメーション(Animation)の綴りを逆さに読むノイタミナ(noitamina)という枠名のように、TVアニメの在り方を変えたと言っても過言ではない。さらにノイタミナは、日常的に多くのアニメ作品に触れている人を主なターゲットにしている作品が多い深夜枠において、比較的一般層向けの作品を放送していると認識をされており、同枠はアニメの裾野を広げる最前線であるということが出来るだろう。

本論はノイタミナの変遷、文脈を追い、現在のアニメ文化のおかれた環境を考慮に入れた上で、ノイタミナがどのようにして現在のようなポピュラリティを得たのかを考察すること、また制作者インタビューの中で見受けられる「ジャンルはドラマで、表現手法がアニメ。普通の人が観られるアニメが作りたい」(注二)という発言に着目し、深夜アニメにとって表現手法としてのアニメとはいったいどのような意味を持つのか、二〇一二年現在までに放送されてきたノイタミナ作品群を「表現技法としてのアニメ」という視点を通して分析することで、アニメが持つ広がりと可能性について論じることを目的としている。

では先ず、ノイタミナ枠設立から現在に至るまでの変遷を、その特徴を踏まえながらまとめてみたい。

 

第二章 ノイタミナ小史

第一節 枠の成り立ちと初期作品の特徴

初めにTVアニメの枠とは、特定の時間、曜日に放送されるテレビ放送枠の事で、これはブランドという点においても、『フランダースの犬』(黒田昌郎 一九七五 日本アニメーション)や『あらいぐまラスカル』(遠藤政治ほか 一九七七 日本アニメーション)で有名な世界名作劇場をイメージすると分かりやすいが、世界名作劇場のように特定の企業による提供を意識させるものではないことは指摘しておきたい。

ノイタミナ立ち上げ当時の広報資料には、次のようなアナウンスがあった。

 

「1、誰もが楽しめるもの/2、来週が気になる展開/3、話題性が作れるものをコンセプトに『まるで連ドラのような』アニメを毎回お送りしていきます」(注三)

 

このアナウンスに加えて関係者のインタビューでは、「アニメで月9を目指す」(注四)という事が繰り返し述べられている。

また、関係者のインタビューにおいてもっとも注目すべき点は、先にも述べたように「ジャンルはドラマで、表現手法がアニメ。普通の人が観られるアニメが作りたい」ということであるが、これについては後の章で詳しく述べたい。

ノイタミナの第一作目は、羽海野チカの同名漫画を原作とする『ハチミツとクローバー』(カサヰケンイチ 二〇〇五 J.C.STAFF)で、二作目の『Paradise Kiss』(小林治 二〇〇五 マッドハウス)も有名少女漫画を原作としており、これは普段アニメを見ない層に向けて間口を広げると言った意味で、原作の知名度を利用することに成功したと言えるだろう。また原作が少女漫画にカテゴリーされる作品であることから、F1層と呼ばれる二十歳から三十四歳の女性をターゲットにした作品を放送するための放送枠であると注目されることが多いが、これは特定のターゲット層を狙ったというよりも、普段アニメを見ない人をターゲットにするために試行錯誤した過程であると言った方が適切であり、これは関係者インタビューや後の展開からも読み取ることが出来る。(注五)

三作目にあたる『怪―ayakashi―』(東映アニメーション 二〇〇六)は三つのストーリーからなるオムニバス形式の作品であり、その三話目にあたる『化猫』は、日本画や和紙をモチーフにした前衛的なビジュアルを用いている。この実写映像ではありえない映像表現を用いた作品が当時のノイタミナにおける最高視聴率五.〇%(注六)という目に見える形で結果を残したことで、ひとまずドラマをアニメで表現するうえでアニメである意味を確立したと言えるだろう。また表現方法には捻りを加え、ストーリーは捻りを加えた方向に走らずという方針は、今後のノイタミナ作品にも大きく影響している。

加えて『怪―ayakashi―』の中の『天守物語』の監督は、一九九一年に社会現象ともなったテレビドラマである『東京ラブストーリー』(一九九一)の演出として有名な永山耕三が担当し、脚本には同じく『東京ラブストーリー』の脚本を担当した坂本裕二が登用されている。(注七)他には『四畳半神話大系』(湯浅政明 二〇一〇 マッドハウス)で脚本を担当した上田誠、『つり球』(中村健治 二〇一二 A-1 Pictures)のシリーズ構成を担当した大野敏哉など、後々においても実写経験の豊富な人材の登用はノイタミナの特徴のひとつとして挙げられるだろう。

その後ノイタミナ枠は『獣王星』(錦織博 二〇〇六 ボンズ)『ハチミツとクローバーII』(長井龍雪 二〇〇六 J.C.STAFF)『働きマン』(小野勝巳 二〇〇六 ぎゃろっぷ)『のだめカンタービレ』(カサヰケンイチ 二〇〇七 J.C.STAFF)等の原作物を中心としたラインナップを展開し、枠としての存在感を持つようになる。墓場鬼太郎(地岡公俊 二〇〇八 東映アニメーション)は水木しげるの原点ともいうべき貸し本時代の作品であり、一九六〇年代の日本を舞台とした本作の持つシニカルかつ混沌とした雰囲気は、これまでに映像化された子供向けの鬼太郎にはない、深夜枠ならではのアニメであると言える。またノイタミナが原作として扱うのは漫画だけではなく、図書館戦争(浜名孝行 二〇〇八 Production I.G)はノイタミナ初の文芸作品を原作とした作品である。そして古典からは『源氏物語』を元にした『源氏物語千年紀 Genji』(出崎統 二〇〇九 トムス・エンタテイメント/手塚プロダクションがアニメ化されており、『宝島』(出崎統 一九七八―一九七九 東京ムービー新社)や『劇場版エースをねらえ!』(出崎統 一九七九 東京ムービー新社)で著名な出崎統が監督を務め、同一画面上に数人の表情を同時に見せる「画面分割」や画面外から斜めに光が入る「入射光」等の「出崎節」と呼ばれる演出技法も随所に見て取ることが出来る。

 

第二節 『東のエデン』以降

『東のエデン』(神山健治 二〇〇九 Production I.G)はノイタミナ初の完全なオリジナル作品であり、TVアニメシリーズの『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(山健治 二〇〇二 Production I.G)で有名な神山健治を監督に迎え、キャラクターデザインは『ハチミツとクローバー』の原作者である羽海野チカが担当した。『東のエデン』以降のノイタミナはそれまでのラインナップと比較すると、オリジナル作品を多く放送するようになる。これは枠としての知名度がある程度の高まりをみせ、オリジナル作品を続けて放送する土台が出来たことによって可能になったと言える。また開発ユニットであるAR三兄弟によって、アニメーションの綴りが逆転しノイタミナの綴りになるという象徴的な番組冒頭のジングル画面が制作されたのもこの時期である。(注八)加えて一般層への広がりは、二部に渡る劇場版が製作されたことからも読み取ることが出来る。

『東のエデン』以降のノイタミナは原作の無いオリジナル路線を強め、オリジナル作品である『東京マグニチュード8.0』(橘正紀 二〇〇九 ボンズ、キネマシトラス)は首都東京に突如として襲いかかる未曾有の大震災を描いたシミュレーション的な作品であり、実写では予算のかかり過ぎるシチュエーションや特に今日においてはショッキングなタイトルは見る者の覚悟を問うものであり、これも深夜アニメだからこそ放送出来た作品であったと言える。

その他にもオリジナル作品では、監督に『らき☆すた』(山本寛 二〇〇七 京都アニメーション)の監督や『涼宮ハルヒの憂鬱』(石原立也 二〇〇六 京都アニメーション)の演出で著名な山本寛、ストーリー構成に批評家で作家の東浩紀をむかえ、現代社会を極端にしたシステム社会と拡張現実をテーマとした『フラクタル(山本寛 二〇一一 A-1 Pictures)や、『(中村健治 二〇一一 竜の子プロダクション)、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(長井龍雪 二〇一一 A-1 Pictures)などのように、明らかにアニメ作品に多く触れているファンを意識した「アニメっぽい」ビジュアルや設定を活かした作品も多くラインナップするようになる。

また原作物としては『さらい屋 五葉』(望月智充 二〇一〇 マングローブ)、『海月姫』(大森貴弘 二〇一〇 ブレインズ・ベース)、『うさぎドロップ』(亀田幹太 二〇一一 Production I.G)、『NO.6』(長崎健司 二〇一一 ボンズ)のような人気作家による知名度のある原作物や放浪息子(あおきえい 二〇一一 AIC Classic)などの個性的な原作を持つ作品も放送するようになる。小説原作としても、実写を素材とした映像を有効的に使用した『空中ブランコ』(中村健治 二〇〇九 東映アニメーション)や、色彩やキャラクターのディフォルメなどのビジュアル面において前衛的な『四畳半神話大系』(湯浅政明 二〇一〇 マッドハウス)ように個性の強い作家による作品も制作された。

 

第三節 枠の二段化とノイタミナのポピュラリティ

二〇一〇年四月からのノイタミナは、これまで三〇分枠だったものが一時間枠になり、週に二本ずつ放送することになる。(注九)これによって一クールの作品だけではなく二クールの作品を放送しても、年間におけるラインナップを減らすこと無く実験的な作品を放送する環境を整える事が出来たと言える。また枠が二段になったことは、一般性を持った作品とコアなアニメトレンドに寄せた作品を同時に放送することを可能にし、その組み合わせによって、一クールという器にとらわれず全六話を二話ずつ三回に分けて放送した『テルマエ・ロマエ(谷東 二〇一二 DLE)や全八話の『ブラック★ロックシューター(吉岡忍 二〇一二 Ordet、サンジゲン)などの変則的な構成の作品や、『ドラマ版 もやしもん』(岩本晶 二〇一〇 白組)のように実写ドラマまでもが放送された。一方で従来の深夜アニメとしての特徴が色濃く表れた作品として挙げられる『ギルティクラウン(荒木哲郎 二〇一一 Production I.G)は、キャラクターデザインや設定を見てもその雰囲気が際立った作品であり、SF、ロボット、学園物などの物語の要素としてのガジェットを活かした作風であることから、近年の深夜アニメの流れに則った作品であると言うことが出来るだろう。また『UN-GO(水島精二 二〇一一 ボンズ)は『東のエデン』に続き劇場版が制作された作品であるが、作品放映中にあえて本編の前日譚である劇場版を上映するなど、従来の手法とは異なる発表形態が取られた。『つり球』(中村健治 二〇一二 A-1 Pictures)は『化猫』、『モノノ怪』(中村健治 二〇〇七 東映アニメーション)、『空中ブランコ』、『C』に続く中村健治作品であり、実験的でありながらもアニメらしさを持った作風からは、同枠との相性の良さを伺わせる。

第一節からの流れをまとめると、ノイタミナ枠創設初期においては『ハチミツとクローバー』や『のだめカンタービレ』に代表される著名な原作を持つ作品に重きを置き、日常的にアニメ作品に触れる機会の多い人だけではなく「普通の人」をターゲットにすることを目標とし存在感を得たことが、継続的にオリジナル作品を放送する土台となり、その後のラインナップにおいても原作物とオリジナル作品のバランスを取ることで人気、大衆性といった意味においてポピュラリティを持った枠となるに至ったと考えられる。また初期の一般性を狙った作品においても、『怪 〜ayakashi〜』の中の『化猫』のように、表現に関しては自由度を高めに設定していたことで『空中ブランコ』や『四畳半神話大系』などの個性的な作品を放送することができ、枠の二段化以降はより自由度の高い作品を放送すると同時に、ポピュラリティを維持する事が可能になったと読み取る事ができる。そしてこのノイタミナ枠のバラエティに富んだ作品群はまさに日本のアニメの多様性を象徴していると言えるのではないだろうか。そしてこのようにポピュラリティのある枠で、多くの実験的な作品を継続して放送されている点は、ノイタミナ枠おいて最も評価されるべき点であると筆者は考える。

次の章では、現在のアニメ文化の置かれた環境を踏まえて、ノイタミナの設計という点からさらに具体的に分析したい。

 

第三章 ノイタミナの設計

第一節 枠のブランド化

放送枠に特定の名称を付けブランド化を試みそれを定着させたことは、ノイタミナ最大の特徴として挙げられるだろう。しかしアニメを放送する枠は様々あり、その中でも深夜アニメかつ特定の名称がついたものとしては、原作のないオリジナル作品を制作することをコンセプトに立ち上げられテレビ東京で放送されたアニメノチカラや、ノイタミナと同じくフジテレビ系列で放送されたNOISEが挙げられる。あるいは朝日放送では新たに「水もん」という放送枠を設けており、これはノイタミナと同様の効果を狙ったものであることがインタビューにおいて述べられ、このタイトルをAR三兄弟が手掛けていることからもそれを伺い知ることが出来る。(注一〇)

アニメノチカラでは三作品が制作され、その全てがオリジナル作品という挑戦的な企画であり、これは『機動戦士ガンダム』(富野喜幸 一九七九―一九八〇 日本サンライズ)や『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明 一九九五―一九九七 ガイナックス)などの日本のアニメ文化にとって転換点となった作品がいずれも事実上のオリジナル作品であったことを彷彿とさせる。しかしある程度の人気と認知度を期待できる原作物と比較すると、オリジナル作品であることの壁は高く、放送されたのは三作品のみとなっており、枠としての継続は難しいものであったと考えられる。これに対してノイタミナは、放送初期の段階で原作物を中心とした作品を放送することによって、枠自体の存在感を獲得し、オリジナル作品を継続して放送する地盤を築く事が出来たのだといえる。

特定の名称は無いものの、日本テレビ系列で放送されている火曜深夜のアニメ枠も独特の雰囲気を持つ枠である。一九九七年に『剣風伝奇ベルセルク』(高橋直人 一九九七―一九九八 OLM)でスタートした同枠は、ギャンブルを扱った『闘牌伝説アカギ』(佐藤雄三 二〇〇五-二〇〇六 マッドハウス)やサスペンス系の『DEATH NOTE(荒木哲郎 二〇〇六―二〇〇七 マッドハウス)など、「週刊少年ジャンプ」に掲載される作品から麻雀や賭博をモチーフにした作品まで幅広く放送されている。同じく日本テレビでは、矢沢あいの同名少女漫画を原作とする『NANA』(浅香守生 二〇〇六―二〇〇七 マッドハウス)がアニメを放送する時間帯としては珍しい二十三時台に放送されており、これもアニメであるよりドラマという点が強調されていることから、ノイタミナとのコンセプトの近さを感じさせる。(注一一)

しかしアニメノチカラや日本テレビの深夜枠は特定の制作会社による作品が多い事に対して、ノイタミナは特定の制作会社だけではなく、多様な制作会社によって作品が制作されており、このことはノイタミナの多様な作品のラインナップや枠の二段化を支える一因であると考えられる。

NOISEは二〇〇八年一〇月から二〇〇九年九月までフジテレビで放送され、『ミチコとハッチン』(山本沙代 二〇〇八―二〇〇九 マングローブ)『リストランテ・パラディーゾ』(加瀬充子 二〇〇九 david production)『青い花』(カサヰケンイチ 二〇〇九 J.C.STAFF)の三作品を放送した後に姿を消した。担当プロデューサーのインタビューにおいて、ノイタミナが「アニメで月9」を目指したのに対して、NOISEは二三時台から放送される深夜ドラマを意識したコンセプトを持つと説明がなされており(注一二)、これは『ミチコとハッチン』のアニメには珍しい南米を舞台とする捻りの効いた設定などに表れていると考えられる。しかし『リストランテ・パラディーゾ』は『さらい屋五葉』のオノナツメ、『青い花』は『放浪息子』の志村貴子が原作者である点や、『ミチコとハッチン』ではキャラクターのファッションデザインに注力している点など、ノイタミナと比べるとコンセプトの近さを感じさせる。そしてこのコンセプトの近さは、NOISE枠が廃止された翌年に、ノイタミナ枠が一時間編成になった事に関係していると考えられる。つまりノイタミナが二枠化したことによって、本来はより深い時間帯に放送されていた捻りのある作品も放送出来るようになったことから、そこに吸収されたと考えると分かりやすい。ここにもノイタミナ枠がポピュラリティを持ちながら、捻りの効いた作品を放送しているということが見て取れる。

 

第二節 一クール十一話のドラマ性

「ジャンルはドラマで、表現手法がアニメ」である事を目指したノイタミナにとって、『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』はアニメでドラマをやることが結実した作品であると言える。

『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』は、物語の舞台モデルとして使用された埼玉県秩父市に多くのファンが訪れ、放送終了後も同市においてファンイベントが開催されるなど反響の大きかった作品で(注一三)、二〇一三年には劇場作品の公開も予定されている。(注一四)加えてこの作品の中で注目すべき点は、一般的に一クールとは十二話で構成されている事を指すが、さらに短い1クール十一話という制約の中で、いかにドラマを描いたかという点にある。

そもそも一クールという長さは、言わば「帯に短し襷に長し」という指摘のなされる中途半端な形であり(注一五)、一年間を通して放送される4クールの作品と比べると、作品に物語の本筋とは離れたエピソードを盛り込むなどの遊びを持たせることも難しい。

その結果、方法論のひとつとして非常に捻りの効いた作品が求められ、その代表には、SFや魔法少女物という要素を取り込みながらループものという構造をとったことで、物語にジェットコースター的展開を持たせヒットした『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之 二〇一一 シャフト)等が挙げられるだろう。

またそれとは違った方法論としては、登場人物と関係性を濃密に描くことが挙げられる。登場人物と関係性を濃密に描き、この複雑な感情を持たせることは、視聴者にドラマを見たという実感を与えると考えられるからだ。その点において『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』は、幼い頃に亡くなったはずのヒロインが、ある日突然、実体を持たない形で見えるようになるというアニメらしい現実離れした設定の中で、不登校になった高校生の主人公とヒロインの死によってそれぞれが心にトラウマを抱えた友人達の間の綿密な人間関係とその再生を描き、先に述べた社会現象に近しい結果をもたらしたと言える。

これらのことから『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』は、「話題性が作れるものをコンセプトに『まるで連ドラのような』アニメ」を目指したノイタミナのひとつの到達点であると言える。

 

第三節 オタクのカジュアル化

オタクのカジュアル化という現象は、ノイタミナ枠を論じるにおいて欠かすことの出来ない現象である。

 

「誕生から50年たったテレビアニメなど、マニア向けと見られていたコンテンツが時間をかけて身近な文化として定着してきた。そこにAKB48やいくつかのアニメ作品が一般向けにヒットしたことが重なる。その結果ファンであると公言しやすくなり、カジュアルなオタク層が可視化された」(注一六)

 

これは評論家の宇野常寛の言葉であり、例を挙げると、アニメ等の会話をすることに対してネガティブな感情が薄れているといった点や、一九九五年に放送された『新世紀エヴァンゲリオン』に始まる「エヴァンゲリオン」シリーズに代表される作品が、アニメとは関係のない分野において様々なキャンペーンに使用されている事や、アニメ作品の舞台となった実在する土地や施設をファンが訪れる「聖地巡礼」に対して、その経済効果を求めた自治体が積極的に取り組んでいる事などが挙げられる。

特にオタクがカジュアル化したことは、男性ファンの多いイメージのあったアニメやアイドルなどのコンテンツに女性ファンの増加、あるいは可視化、顕在化をもたらした。そして「女子アニメ」と称した特集をする雑誌も頻繁に刊行され、その多くが女子アニメとしてノイタミナを扱っている。(注一七)これはノイタミナ枠が普段アニメを見ない人をターゲットとする為に一般性を獲得しようとする過程で、少女漫画を原作とした作品を多くラインナップしていたことが効果的に働いた結果であると言える。

 

第四節 放送局の拡大、枠の統一化

近年におけるライブや劇場作品の人気は、消費者が受容体験を重視するようになった結果であり、アニメを含めたコンテンツにも大きな変化をもたらした。

ヴァルター・ベンヤミンは『複製時代の芸術作品』(一九三六)の中で、「いま、ここに在る」という一回性により「アウラ」という、分かりやすく言いかえると作品のもつ「重み」のようなものを持ちえたが、複製技術の発達により映画や写真が登場したことで、芸術作品が「いま、ここに在る」という一回性を失い、「アウラ」も喪失したと指摘した。(注一八)このことは近年においてはCDやDVD等のパッケージと作品の関係に置き換えることが出来るだろう。特に深夜アニメはパッケージの売り上げから利益を上げようとする仕組みを取っている為、よりベンヤミンの指摘した状態に近いといえる。しかし近年においてDVDやCDなどのパッケージの販売数は低迷している。そのような状況の中で、その場に行き楽しむライブエンタテイメントの人気や映画館等の大型スクリーンで行われるライブビューイングの普及は受容体験の重要性を再認識させるものであるといえる。また映像作品であるアニメは音楽との相性が良いため、今後もこのような受容体験を重視した作品は増え続けるのではないかと考えられる。

情報環境研究者の濱野智史の指摘によると、近年、ニコニコ動画に代表されるインターネット上の動画サイトでは、動画を視聴する際に、まるで複数名で同時に視聴しているかのように錯覚させる設計がなされている。(注一九)それに加えてツイッター等のソーシャル・ネットワーク・サービス、通称「SNS」の台頭により、視聴と同時進行でインターネット上にコメントを書き込む「実況」という、ライブ感のある楽しみ方がコンテンツの受容の仕方として見受けられる。その結果、視聴者がコメントのしやすい、いわゆる「ネタ」を提供するような作品が増えている事は事実であり、日頃から深夜アニメ等を好んで多く視聴している一部の中のさらに一部の言わば隙間市場に向けて、内容を求められるままに、過剰なまでに作品に反映させていると読むことも出来る。

しかしその中で、ノイタミナ枠の放送局の拡大と枠の統一化は、作品の内容に関係なく、まさに共感すること、同時体験をすることを可能にしたのではないかと考えられる。

内容を変える事ではなく放送形態をかえ、より広くかつ同時に受容体験させることは、マスメディアとしてのTVアニメにこそ出来る仕組みであり、細分化によってその存在意義を問われつつあるマスメディアにおいて、アニメを放送する重要な意味をもつ出来事であるといえる。

 

第四章 ノイタミナと表現としてのアニメ

第一節 「アニメ的センス」とハイブリットな表現

表現としてのアニメという視点からノイタミナ作品群を読み解く前に、アニメ表現の特性について考えたい。これはアニメ評論家である藤津亮太によって、奇しくもノイタミナが始まる前年である二〇〇四年のアニメ表現に関して、かなり示唆的な指摘がなされているので少しまとめておきたい。(注二〇)

アニメ表現上において最大の特性を挙げると、一点目は、描き手の「目」と「イマジネーション」と「手」を経ることで、現実を紙の上に再構築する点にある。その過程で描き手が現実の中から表現に必要な情報を一本の線の形で取りだし、複数枚の絵として表現する。この抽象化と分節化のプロセスを経ることにより、完成した絵は現実より少ない情報量で「もっともらしさ」や「実感」を醸し出すことが出来る。アニメーション映画監督の高畑勲のいう「よく知っていることをクッキリとした形に定着して、再印象させる力」がこれにあたる。そして描き手の「目」と「イマジネーション」と「手」を経て抽象化と分節化されるプロセスによって、動きに官能性を持たせることができる。二点目は「アニメ的センス」、あるいは「アニメ的感性」というべきもので、「必殺技の名前を叫ぶ」的な様式や、歌舞伎の表現技法である「見得」似た決定的瞬間を止め絵で見せる演出法のことを指し、加えて美少女、ロボットの登場は、極めてインスタント化された「アニメ的センス」ということが出来るだろう。

二〇〇四年の作品で具体例を挙げると、3DCGをふんだんに使用した押井守監督の『イノセンス』(押井守 二〇〇四 Production I.G)において、劇中に登場する人形はあえて手描きによるもので、手書きである事によって恐ろしくも美しい官能的な存在として描かれ得たと言える。逆にフル3DCGで制作された『アップルシード』(荒牧伸志 二〇〇四 デジタル・フロンティア)は「3Dライブアニメ」という手法で、3DCGをアニメ風に見せることで画面を作り上げている。あるいは実写映画であっても『キューティーハニー』(庵野秀明 二〇〇四)やアニメ版を踏襲してデジタル技術を駆使した『キャシャーン』(紀里谷和明 二〇〇四)のように、「アニメ的センス」を実写作品の中に取り入れた作品が多く、メディアを問わず「アニメ的センス」というべきものが散見されるようになったことで「アニメ」という器のありかたそのものが揺らぎ始め、その再構築のためには「セル画調に描かれた立体キャラクターを、アニメーターが動かす」というスタイルがひとつの様式を生み出す可能性を秘めていると考えられる。

「アニメらしさ」や「アニメっぽさ」は確かに存在しており、アニメっぽさの濃淡によって「アニメらしさ」や「アニメっぽさ」や日常的にアニメ作品に多く触れている人向けの作品か、そうでない人向けの作品かをある程度判断することができる。そして、実写とアニメの融合や「セル画調に描かれた立体キャラクターを、アニメーターが動かす」こと、あるいは2Dアニメと3DCGを効果的に使い分けるハイブリットとでもいうべき表現法は、ノイタミナ作品においても多く見受けられる。

ではこの「アニメ的センス」とハイブリットな表現というキーワードを通して、いくつかの特徴的な作品を読み解いてみたい。

『空中ブランコ』は奥田英朗の同名小説を原作とするアニメ作品で、原作は舞台化や実写ドラマ化されている。そしてノイタミナ枠で放送されたアニメ版は、中村健治監督による映像表現が際立った作品である。その最たるものは登場人物の感情の起伏により手書きアニメと実写素材を使ったパートが入れ換わる仕組みで、これは湯浅政明監督の二〇〇四年の劇場作品である『MIND GAME(湯浅政明 二〇〇四 STUDIO4)の中でも見受けられる手法ではあるが、このアニメ表現の中で実写表現を使用するというハイブリットな表現法を深夜枠のアニメ作品で採用したことは、表現の幅において今後のノイタミナに大きな影響を与えたと考えられる。また作中で原作においては小太りの中年男性として描かれる主人公の精神科医である伊良部が、登場する場面によって子供、青年、クマの着ぐるみと姿を変えて描かれたことは、掴みどころのない伊良部の行動や作中で心を病んだ登場人物の心境を表現する上で、アニメという表現を上手く利用した点として挙げることが出来る。

『ドラマ版 もやしもん』は、アニメ放送枠であるノイタミナ枠で実写ドラマを放送するという、視聴者の意表をついた試みであったと言える。これは先にも述べたように、ノイタミナ枠の立ち上げ当初のインタビューに見受けられる「ジャンルはドラマで、表現手法がアニメ」というコンセプトを飛び越えて、単に実写ドラマを制作してしまったかのように思えるが、実はこの『ドラマ版 もやしもん』はアニメ的センスを生かした作品であったのではないかと考えられる。

特に『もやしもん』にとって象徴的なキャラクターである様々な菌は、アニメ版においてもドラマ版においてもCGで表現されており、作中においてCGで表現された菌と主人公の掛け合いは、アニメ的センスが活かされたと言える表現だろう。

また『空中ブランコ』にみられるアニメ表現と実写表現によるハイブリットな手法を念頭に置くと、このドラマもまた実写表現とアニメ表現のハイブリットな手法のひとつであるとも考えることが出来る。

『坂道のアポロン』(渡辺信一郎 二〇一二 MAPPA、手塚プロダクション)は小玉ユキの同名少女漫画を原作とした作品で、作中では各話ごとに挿入される演奏シーンが見どころのひとつであり、この演奏シーンは実際に演奏している映像を元にアニメーターの手によって描き起こされたものであった。(注二一)しかしピアノを演奏するシーンの主人公の手元は手描きの作画で表現することは難しく、CGと手描きの作画が使い分けられており、これはハイブリットな表現の間における違和感の無さを追求したパターンであると言える。

『ブラック★ロックシューター』の生い立ちは、イラストレーターであるhukeが二〇〇七年に発表したキャラクターが発端となり、二〇〇八年に同キャラクターを使用した楽曲がインターネット上で話題となったことに遡る。その後、フィギュアなどのキャラクター商品が人気を呼び、二〇一〇年にはオリジナルビデオアニメ化され、これはまさにインターネット上の文化が育んだ今日的な作品、キャラクターであると言える。

そのテレビシリーズである『ブラック★ロックシューター』においては、作品世界の表現方法も今日的でハイブリットなものであった。それは主人公たちの日常を描く表世界のパートは通常通りの手描きの作画で表現され、ブラック★ロックシューターたちのいる「虚の世界」である裏世界のパートはセル画調の3DCGで表現されるということにある。具体的には、表の世界での日常描写には繊細な表情の描写が得意な手書きの作画が使用され、アクションシーンを中心として描かれる裏世界においては書きの作画では表現することの難しい複雑な形状をしたキャラクターを、3DCGを使用することで縦横無尽に動き回らせるといったもので、世界の構造が表現手法の違いによっても表現されていると言える。また裏世界において使用された3DCGが、3DCGでありながらもセル画調であることは、別世界でありながらもリンクした二つの世界を上手く表現している。

一般的にCGを使うことはそれによる省力化を狙ったものであると思われがちだが、違和感なく作中でハイブリットな表現を使う為には、フルコマで出来上がったものを4コマに変換する作業が必要となるなど、むしろアニメーターの「目」と「イマジネーション」と「手」を経ることで再構成されるプロセスを経た画面に近づける作業が必要となり、まさにアニメ的センスを活かす新たな場であると捉える事ができる。また『ブラック★ロックシューター』では表と裏の世界のパートをそれぞれ二つの別のスタジオが担当しており、制作体制としても新しい試みであったことが分かる。

これらのことから、深夜アニメにおいても常に映像表現としての挑戦がなされていることが窺い知れる。またノイタミナがそのような実験的な作品を放送することが出来る場として機能していることも付け加えておく。

 

第二節 映像表現としてのアニメ

ノイタミナ作品群のなかでも『モノノ怪』や『墓場鬼太郎』は、『アニメは越境する』に収録されたマーク・スタインバーグの「デジタル・イメージの諸次元」という最新デジタル技術とアニメの批評研究の方法的動向について論じた文の中で、興味深い指摘をされているので、これもまとめてみたい。(注二二)

日本のアニメで3DCGを使用する場合、はフル3DCG作品として制作されるのではなく、CGI(コンピューター上での作画)による映像と手描きの2Dの映像の、先にも述べた言わばハイブリットな手法においてデジタル技術が使用されることが多い。その中で『墓場鬼太郎』や『モノノ怪』におけるデジタル表現、特に『墓場鬼太郎』の貸し本の古臭い雰囲気を画面に醸し出す為、あるいは『モノノ怪』の中で使われた雨の表現や皺の表現の為のデジタルなフィルターやイメージのレイヤーの使用は、「萌え」要素とオタク消費を特徴づけているキャラクター中心主義を掘り崩す効果をもっていると言及されている。

筆者はこの論を引用することで、萌えや癒しと映像表現の快楽について優劣をつけるつもりはない。これはコンテンツの消費や受容に注目されがちな深夜アニメについて、映像表現に焦点を当てることで、深夜アニメをひとつの作品として論じる事が可能になるのではないかと考えたことによる試みである。言い換えるならばアニメにおける映像表現に目を向けることで、深夜アニメを萌えや癒しを過剰にもりこんだサプリメント系の作品であると単純に否定するのではない、違う読み解き方が出来るのではないかという発想の元の試みである。

『放浪息子』は志村貴子による同名漫画を原作とする作品で、「女の子になりたい男の子」と「男の子になりたい女の子」を中心とした、思春期の少年少女の不安定な心情と関係性の機微を描いた作品である。作中では特殊な映像処理を用いることで、原作漫画の表紙を意識した水彩画のような繊細な表現を可能にし、キャラクターに柔らかな質感を与えている。そして背景の多くは写真を元にしたレイアウトを使用しているが、ただ単純に実写的な背景を使用することで作品にリアリティを持たせるのではなく、キャラクターの柔らかな水彩画風のタッチに合わせてぼかしや奥行きを付け、登場人物と隔たりなく一体化することで、美麗な背景というだけの存在ではなくドラマの舞台として機能している。また『放浪息子』を制作したAIC  Classicはこの作品で日本映画テレビ技術協会の「映像技術賞」奨励賞を受賞している。(注二三)

これに対して高校生である主人公と登場人物たち友情と成長を描いた作品である『つり球』は、エフェクト処理を出来る限り抑えることで素朴なセル調を意識しており、中村健治作品に特徴的な色彩の鮮やかさの際立つ作品だ。とりわけアニメである事を強調するようなセル画調は、作中における宇宙人や秘密結社の登場など、「アニメらしさ」を体現していると言えるのではないか。また単色で塗られたいわゆる「ベタ塗り」の輪郭線が強い背景とも上手く融合していると言えるだろう。

 

「未来のアニメは、デジタルなイメージ化の進行と、その実験的な使用を通じたイメージの変容の中にある」(注二四)

 

これは先に引用した「デジタル・イメージの諸次元」の中の一文である。第四章で触れた作品群は、どれも映像表現に少なからず作品のテーマに合わせた試行錯誤がなされており、深夜アニメでも、このように表現のレベルに着目することは、作品を読み解くにおいて意味があると主張したい。

 

第五章 実験枠としてのノイタミナ

第一節 疑似プロダクションとしての役割

ノイタミナが放送枠として優れていると評価できる点のひとつに、クリエイターのマッチングを挙げたい。これは例えば、神山健治作品における羽海野チカのキャラクターデザインである。この有機的な繋がりは、次の作品制作に大きく影響する事を考えると、まさに疑似的なプロダクションとして機能しているといえる。

原作者もあえてアニメ化することは大変だと述べている(注二五)『四畳半神話大系』において、湯浅政明監督を登用したことは、日常的にアニメ作品を多く視聴するファンには認知のある監督が一般に認知される機会を提供することになったと考えられる。加えて『四畳半神話大系』がメディア芸術祭賞のアニメーション部門でTVアニメーションとしては初の大賞に選ばれると言った結果を残している事は(注二六)、ノイタミナ枠の存在に価値を見出す点のひとつである。

また『ギルティクラウン』や『ブラック★ロックシューター』において楽曲を担当したsupercellは、作曲家やイラストレーターが集うクリエイター集団で、主にニコニコ動画等の投稿型動画サイト上で活躍することなどから現在のインターネットカルチャーにおいて象徴的な存在である。そのsupercellの登用は、インターネット上で活躍していた気鋭のクリエイターとマスメディアとの接点となる新しい場を設けたということが出来る。

 

第二節 OP、ED映像という場

『うさぎドロップ』の制作陣インタビューの中で「折角のノイタミナ作品ですから、オープニングやエンディングも本編の一部ではあるものの、ちょっと変わった手法でやってみてもいいのでは」(注二七)と述べられている通り、ノイタミナ枠では特徴的なオープニング・エンディング映像を使用することが多い。そしてオープニング・エンディング映像がただの飾りではなく、様々な映像表現に挑戦することが可能な貴重な場として機能している事を示している。

例えば『うさぎドロップ』のエンディングにおける劇団イヌカレーの登用は、その端的な例として挙げることができるだろう。劇団イヌカレーテレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』のプロダクションデザインで有名な映像制作ユニットで、暗い色彩の印象が強い切り絵調の映像やデザインが特徴的である。しかし『うさぎドロップ』のエンディングにおいては、子育てを題材にした本編にマッチした絵本のような世界観の映像を仕上げている。さらには徐々に成長するリンドウの花など、本編のストーリー進行に合わせて、全話数において違ったエンディング映像を作り上げており、そのステンドグラスをイメージさせる切り絵調の映像は、ユーリ・ノルシュテインの切り絵アニメーションの手法にも似た、独特の雰囲気を醸し出している。

『東のエデン』のエンディング映像は、紙を素材としたコマ撮り手法で撮影されており、本編の持つ社会派としてのシリアスさと、羽海野チカによるデザインのもつ柔らかさを引き立てている。またペーパークラフト的な立体感と躍動感は、作中で「この国を正しい方向へ導く」ために様々な困難に阻まれながらも東奔西走する主人公である滝沢のイメージを巧みに表現している。

もちろんこの映像表現の多様さは、第一作目の『ハチミツとクローバー』のオープニングから見られるものであり、CMクリエイターであった野田凪によるインパクトのあるコマ撮り表現は、美術系大学という舞台を連想させる役割を果たしている。

TVアニメ作品のオープニングやエンディング映像は映像作家にとって、音楽作品のプロモーションビデオの制作に匹敵するマスカルチャーとの重要な接点であり、社会との繋がりを意識した作品が多いノイタミナ枠においては、ことさら重要な要素である。しかし、一本のアニメ作品として、オープニングやエンディングまで視野に入れて言及されることは少ない。ひとつの作品、あるいはテクストとして捉える上で、オープニングやエンディングについて触れないことは、不十分なことであると言えるのではないだろうか。加えて、オープニングやエンディング楽曲についても、前述した通り、今日のアニメ作品の受容体験を生む重要な要素だといえる。

 

第三節 FLASH、アヴァンギャルド

ヤマザキマリによるベストセラー漫画を原作とした『テルマエ・ロマエ』は、ノイタミナとしては初のFLASHアニメで、FLASHアニメの旗手であるフロッグマンが所属する制作会社DLEによって制作された。従来FLASHアニメはインターネットでの配信をメインとしたものであり、普通のアニメ作品と比べデータ容量が少なく、比較的簡単に制作を一人でも行うことが可能である。またインタラクティブ性が強いという特徴を持ち、まさにWeb2.0の象徴ともいえる存在であった。(注二八)これを三〇分枠のTVアニメに導入し、全三部という構成で放送したことは、前述した1クールという括りの「帯に短し襷に長し」の状況に拘らない新しい形をもたらしたと言えるだろう。そしてFLASHアニメのもつキッチュさを前面に押し出した『テルマエ・ロマエ』は、古代ローマ人が現代にタイムスリップするというコメディとしての原作の面白さをコンパクトに分かりやすく伝えることに成功している。

 以上のように、一般層への広がりをもつ同枠において実験的な作品を多く制作出来ることは特筆すべき点であり、筆者が最も枠の価値を見出している点である。まさにアニメの可能性を広げる最前線ということが出来るだろう。

 

第六章 おわりに

本論で明らかになったように、ノイタミナ枠がいくつかの要因によってポピュラリティを獲得し、オリジナル作品や実験的な作風をもつ作品を継続的に放送出来るようになったことは、単に「普段アニメを見ない人」にアニメの間口を広げるだけでなく、映像表現として優れた作品に触れる機会をもたらしている。このことは視聴者のみならず、クリエイターにとっても実験的な作品に挑戦できる場として機能していることは言うまでもないだろう。

また本論で繰り返し引用した「ジャンルはドラマで、表現手法がアニメ」という点に関して、アニメという表現でドラマを描くことは可能であり、特に原作の無いオリジナル作品においてもそれが可能であることは、アニメについて論じるにあたり、大きな意味を持つと考えられる。

さらに日本のアニメ文化のもつ大きな特徴である多様性は、ジャンルや制作本数の多さだけではなく、映像表現としての豊かさにおいても言えることである。しかしアニメーションのなかでも日本で独自の成長を遂げたアニメは、基本的には商業作品であることから、特定の劇場作品などを除いては消費のされ方について論じられる場合が多い。だが深夜アニメを表現という視点で眺めてみることで、それが作品のテーマに合わせて常に試行錯誤を繰り返し、新たな表現を生んでいることが読み取れる。また逆に、表現からもその作品の持つテーマについて読み解くことも可能であることが分かる。つまり深夜アニメにおいてもアニメという表現を含め総合的に論考することで、現在のアニメ文化や表現の深層に切り込む可能性を秘めていると言えるだろう。

これらのことからもノイタミナ枠は、まさにアニメの持つ可能性と広がりを提示しており、この枠が今後どのように機能してゆくのか、その役割を見失わないことに期待したい。

 

 注

(注一)「アニメ産業 TVで年間約200本放送」(朝日新聞 二〇一一年七月六日 夕刊)三頁

(注二)「アニメージュ8月号」(徳間書店 二〇〇七年八月)一二二頁

(注三)「創 二〇〇五年一月号」(創出版 二〇〇五年一月)六八頁

(注四)「GALAC 二〇〇六年一〇月号」(放送批評懇談会 二〇〇六年一〇月)一六頁‐二三頁

(注五)「GALAC 二〇〇六年一〇月号」(放送批評懇談会 二〇〇六年一〇月)二一頁

(注六)「アニメージュ8月号」(徳間書店 二〇〇七年八月)一二三頁

(注七)「「ノイタミナ」大人のスタイリッシュアニメ」(読売新聞 二〇〇六年二月一六日 東京 夕刊)一九頁

(注八)川田十夢『AR三兄弟の企画書』(日経BP社 二〇一〇)七九‐八〇頁

(注九)「日経エンタテインメント! 二〇一一年一二月号」(日経BP社 二〇一二年一一月)四〇‐四一頁

(注一〇)「新しい言葉になればいいな」(朝日新聞 二〇一二年一〇月一日 夕刊)四頁

(注一一)「GALAC 二〇〇六年一〇月号」(放送批評懇談会 二〇〇六年一〇月)一七頁

(注一二)「洋泉社MOOK オトナアニメVol.13(洋泉社 二〇〇九年八月)六〇‐六一頁

(注一三)「アニメファン 秩父へ続々「あの花」の舞台 マップやグッズも」(読売新聞 二〇一一年八月四日 東京 朝刊)二七頁

(注一四)『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』公式サイト(www.anohana.jp/)(最終アクセス日 一二月一四日)

(注一五)藤津亮太『チャンネルはいつもアニメ―ゼロ年代アニメ批評』(二〇一〇 NTT出版)一五六‐一五七頁

(注一六)「日経エンタテインメント! 二〇一二年一〇月号」(日経BP社 二〇一二年九月)十九頁

(注一七)「別冊spoon.vol3 女子アニメ2010」(プレビジョン 二〇〇九年一二月)一‐四五頁

(注一八)多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(現代岩波新書 二〇〇〇)二〇‐二一頁、四〇‐四三頁

(注一九)濱野智史『アーキテクチャの生態系―情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版 二〇〇八)二二四‐二三〇頁

(注二〇)「美術手帳 二〇〇五年三月号」(美術出版社 二〇〇五年三月)七一‐七三頁

(注二一)アニメスタイル編集部「月刊アニメスタイル002」(スタイル 二〇一二年一一月)五六‐五九

(注二二)マーク・スタインバーグ「デジタル・イメージの諸次元」『日本映画は生きている第6巻 アニメは越境する』(岩波書店 二〇一〇)五三‐八二頁

(注二三)多摩永遠「「放浪息子」 日本映画テレビ技術協会「映像技術賞」奨励賞をAICが受賞」(animeanime.jp/article/2012/08/21/11179.html)(最終アクセス日 二〇一二年一二月一四日)

(注二四)マーク・スタインバーグ「デジタル・イメージの諸次元」『日本映画は生きている第6巻 アニメは越境する』(岩波書店 二〇一〇)七七頁

(注二五)「spoon.6」(プレビジョン 二〇一〇年四月)一六頁

(注二六)「大賞に初のTV作品 メディア芸術祭」(朝日新聞 二〇一〇年一二月九日 朝刊)

(注二七)アニメスタイル編集部「月刊アニメスタイル第6号」(スタイル 二〇一二年二月)九七頁

(注二八)長谷川文雄、福冨忠和編『コンテンツ学』(二〇〇七 世界思想社)六六‐六七

 

参考文献

「洋泉社MOOK オトナアニメVol.8(洋泉社 二〇〇八年六月)

「洋泉社MOOK オトナアニメVol.13(洋泉社 二〇〇九年八月)

「洋泉社MOOK オトナアニメVol.17(洋泉社 二〇一〇年八月)

「洋泉社MOOK オトナアニメVol.19(洋泉社 二〇一一年二月)

「洋泉社MOOK オトナアニメVol.23(洋泉社 二〇一二年二月)

アニメスタイル編集部「月刊アニメスタイル第1号」(スタイル 二〇一一年六月)

アニメスタイル編集部「月刊アニメスタイル第6号」(スタイル 二〇一二年二月)

アニメスタイル編集部「月刊アニメスタイル002」(スタイル 二〇一二年一一月)

「美術手帳 二〇〇五年三月号」(美術出版社 二〇〇五年三月)

藤津亮太『チャンネルはいつもアニメ―ゼロ年代アニメ批評』(二〇一〇 NTT出版)

黒沢清、四方田犬彦、吉見俊哉、李鳳宇『日本映画は生きている第6巻 アニメは越境する』(岩波書店 二〇一〇)

長谷川文雄、福冨忠和編『コンテンツ学』(二〇〇七 世界思想社)

多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(現代岩波新書 二〇〇〇)

濱野智史『アーキテクチャの生態系―情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版 二〇〇八)

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房 二〇一一)

東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社現代新書 二〇〇一)

東浩紀編『別冊思想地図 メディアを語る』(コンテクチュアズ 二〇一二)