キャラクターと人形―『ローゼンメイデン』から見る「人形」の「キャラクター」―

                                   鎌田 行春

 

目次

第一章       はじめに

第二章       キャラクターと人形

第三章       私的人形の機能

第一節    「ペーパーウェイト アイ」における人形の描写

第二節    隠蔽された人形の「不気味さ」

第四章       複数志向と単数志向の対立

第一節    複数の身体を持つということ

第二節    雪華綺晶と水銀燈の対立

第五章 終わりに

注釈・参考文献

 

第一章 はじめに

本論では漫画作品であるPEACH-PIT『ローゼンメイデン』の考察を基盤に置き、「人形」というモチーフによって「キャラクター」という概念について考察・分析することを目的とする。

『ローゼンメイデン』は幻冬舎「月刊コミックバーズ」で二〇〇二年に連載を開始し、掲載誌を移しつつ今現在も集英社「週刊ヤングジャンプ」で連載が継続している。コミックバーズでの連載は二〇〇七年五月に終了し、二〇〇八年に週刊ヤングジャンプにて連載が再開された。なお作品タイトルの表記について、コミックバーズ連載時の表記『Rozen Maiden』とヤングジャンプへ連載が移行した際に変更された表記『ローゼンメイデン』が存在するが、本論では後者を用いることとする。また、メディアミックス作品にTVアニメーション作品『ローゼンメイデン』(二〇〇四年 監督、松尾衡 制作、ノーマッド)『ローゼンメイデン トロイメント』(二〇〇五年、同)、特別編の『ローゼンメイデン オーベルテューレ』(二〇〇六年、同)の三作が制作され、さらに再びアニメーション化することが発表されている。他にはノベライズやTVゲーム化、また集英社「りぼん」でスピンオフ[]作品『ローゼンメイデンdolls talk』(二〇一二年〜 原作、PEACH-PIT 画、かるき春)が連載中。『dolls talk』はローゼンメイデン本編の登場人物たちの日常を描いた作品であり、本編からキャラクターを取り出して、所謂「日常系」[]として再構成したものといえる。

 『ローゼンメイデン』を考察していくにあたって、まずは本編のあらすじを説明しよう。

主人公はひきこもりの中学生・桜田ジュン。そのもとに奇妙なダイレクトメールが届いた。そのDMに何の気なく返信したところ、ローゼンメイデン・第五ドールの「真紅」が届く。真紅を含めた七体のドール「ローゼンメイデン」シリーズたちの目的は、アリスゲームと呼ばれるバトルロイヤルに勝ち残り、究極の少女・「アリス」となることである。アリスとなり、彼女らドールズの製作者であるローゼン、通称「お父様」の愛を手に入れることが彼女らに課されたバトルロイヤルの勝利の報酬である。ほとんど自動人形として自律して動くローゼンメイデンたちだが、彼女たちは基本的に人間との一対一の契約に頼らなければ十全に動くことができないゆえに、彼女らはそれぞれ人間のマスターと契約関係を持つこととなる。第一義にこの必要性から人間が求められているという意味で、このバトルロイヤルにおいて、人間は脇役に過ぎない。

コミックバーズでの連載分においては、序盤はアリスゲームに積極的な水銀燈と、真紅ら主人公サイドとの戦いを描き、後半で新たなドール「雪華綺晶」の参戦によって全ドールが窮地に追い込まれたところで連載が終了した。

時を置いて再開されたヤングジャンプでの連載では一転して、物語冒頭でのジュンがDMに別の返信をし、そのうえで時が流れ大学生になっている、というパラレルワールドへと場面が転換する。ひきこもりを脱して大学にも行き、アルバイトもするという標準的な大学生になっているジュンはしかし、中学生時代にひきこもっていた過去が無ければ、と後悔しつつ日々を過ごしていた。そんな中、アルバイト中に「週刊少女のつくり方」という謎の雑誌の創刊号を見つける。思わず持ち帰ると、なぜか毎号が家まで配達されるようになる。毎号集め組み立てれば「ローゼンメイデン第五ドール・真紅」が完成するのだという。無目的だった日々に、「人形を完成させる」という目標が出来たジュン。人しかし、突然雑誌は休刊してしまう。だが、そこに中学生の自分を名乗るメールが届き、真紅を作ってくれと頼まれる。ここから、大学生のジュンはローゼンメイデンたちのバトルロイヤルに巻き込まれていくことになる。

物語上で指摘しておくべき点として、一つにアリスゲームというバトルロイヤルをその物語の中心としていること、もうひとつに多重世界のモチーフが採用されていることである。

前者のバトルロイヤルは宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(二〇〇八年 早川書房)で論じられたサヴァイヴ系的決断主義の要素が色濃く表れていると言える。宇野の論を引用すれば「サヴァイヴ系」「決断主義」とは以下のようなものとなる。

 

  「たとえ無根拠でも中心的な価値観を選び取る」「相手を傷つけることになっても対象にコミットする」といった「決断主義」の潮流を大きく後押しした。理由はひとつ。「そうしなければ、生き残れない」からだ。これらの「事件」に象徴される時代の気分は、そんな「サヴァイヴ感」に彩られていた。

 

そして、宇野の想定するこのような社会の潮流、「時代の気分」を反映した構造を共有する作品が、決断主義的なサヴァイヴ系ということになる。具体的な作品の例としては、高見広春『バトル・ロワイヤル』(一九九九年、太田出版)や原作、大場つぐみ、画、小畑健『DEATH NOTE』(二〇〇三年 集英社)などが挙げられる。その中でも特に、サヴァイヴ系的要素を持つ作品の典型例としてしばしば挙げられる『仮面ライダー龍騎』(二〇〇二年 監督、田崎竜太)と『ローゼンメイデン』は多くの類似点が見受けられる。あるいはこのことも本作の構成要素のひとつとしてサヴァイヴ系という要素を取り出すことの正当性の補助になるだろう。 

本稿ではサヴァイヴ系としての『ローゼンメイデン』の物語の構造を見ていくことも可能だが、『ローゼンメイデン』におけるサヴァイヴ系的要素の指摘と、その構図を用いた物語の整理については村上裕一『ゴーストの条件』(二〇一一年 講談社)において既になされており、特段付け加えるべき点は見当たらない。そのうえ、前述したように本作品は未だ連載中の作品であり、この方向の分析は先読みゲーム化してしまうおそれが強い。ひとまず、ここでは『ローゼンメイデン』がサヴァイヴ系的バトルロイヤルをその物語の骨子として有していることを確認しておきたい。

二つ目の多重世界のモチーフについては以下の通りである。物語冒頭のDMの選択肢に対する選択によって分岐が発生していることからも、この多重化した世界の設定は美少女ゲームを思わせるものとなっている。大学生となったジュンの世界はしばしば真紅らに「分岐の可能性を失った世界」と呼ばれ、そのことは大学生ジュンの行動にも影響を与える。このパラレルワールドにおいてはローゼンメイデンという存在そのものがあらかじめ存在しない。ゲームになぞらえて言い換えるならば、掲載誌を移してからの『ローゼンメイデン』、所謂大学生編とは、選ぶとそのまま物語が終わるような、本作が美少女ゲームであったならばバッドエンドに直結する選択肢を選んだ「その後」の世界を描いたものである。

このように選択肢によって多重化し、「巻き返す=やりなおし」モチーフを含んだ世界を描いている点において、東浩紀に引き付けて言えばコンテンツ志向メディアである漫画にありながらゲーム的想像力に開かれているということができるし、他方で村上裕一は『ゴーストの条件』で本作について「美少女ゲーム的想像力すら射程に入れている」とする。村上の「美少女ゲーム的想像力」とは基本的に以下のようなものを指す。

 

  美少女ゲームの本質とは、万能の主人公がトラウマを抱えたヒロインたちを所有するかのように癒していくゲームなのではなく、主人公が万能であるがゆえに問題を抱えたヒロインたちによってむしろ奪い合われている、ということにある。即ち、攻略されているのはヒロインではなく、むしろ主人公であり我々だということである。

 

些細な違いを述べるなら、美少女ゲーム的想像力においては、ヒロインの欲望こそがループの原因であり、物語のループ構造はその欲望によって成り立っているとする。本作において物語にゲーム的要素を持ち込むに至った要因、具体的にはパラレルワールドの設定を必要とした原因は少女の「欲望」ならぬ「闘争」であるアリスゲームである。この闘争の最終目的、言い換えれば勝利報酬が「お父様の愛を得る」ことにあるため、一見ここでもやはり最終的にはドールたちの欲望につながっているように見える。しかし、この闘争それ自体は参加者全員にとって「究極の少女に孵化する」ための手段でしかない。ゆえに闘争それ自体を自己目的化したバトルロイヤル参加者は本作には存在しないし、これは登場しえない。もし仮に、シンプルなバトルロイヤルのルールが保持されたままこの闘争が終結したならば、闘争は欲望と事実上直結しており、よってローゼンメイデンにおいても物語を美少女ゲーム的にしているのは、やはり少女の欲望である、と言うことが可能になる。とはいえ、このアリスゲームという闘争のシステムそれ自体のありようについての疑問、極端なものではゲームの勝利条件、さらには勝利報酬の自己解釈をも行われる事態も発生している。この「自己解釈」については後に述べる。本論において行うのは、以上で述べた物語構造の上で登場する、人形かつキャラクターである登場人物の分析である。

 

 第二章 キャラクターと人形

そもそも「キャラクター」と「人形」というこの対置自体、かなり奇異に見られても仕方ないだろう。よって、この点からはじめよう。

 まず本論におけるキャラクターという言葉の定義についてだが、特別に但し書きなどのある場合を除いて、一般に用いられるのと同様の、虚構の登場人物全般を指し示すこととする。

 キャラクターについて、人形という隠喩を用いてその特性を述べた論を紹介しよう。一つは更級修一郎「ギャルゲーにおける人形表現」(二〇〇五年五月 青土社)に見られる二次創作観、もうひとつは先ほども触れた村上裕一『ゴーストの条件』で展開された論である。一つずつ見ていこう。

 更級の論においては、「二次創作」を特定の作品のキャラクター・物語を構成要素レベルで解体し、個人のニーズに合わせ再構成・カスタマイズする行為として見たうえで、その意味で「美少女フィギュア」を二次創作の一パターンとする。そして、物理的に実体をもつ美少女フィギュアに対して、例えば同人誌のような、物理的な実体を持たない形式を「既存の美少女キャラクターを究極の理想像にカスタマイズしていく妄想上の人形遊びとしての二次創作」とまで断じる。つまり、キャラクターや物語という非実体的な要素を用いた「人形遊び」こそが二次創作である、と規定する。この根拠として更級は「極論すれば、ユーザー側は最適化された「萌え」要素だけで構成された美少女キャラクターを求めている」と述べている。以上で引用したような更級の「二次創作」観は東浩紀のデータベース論や斉藤環のオタクの愛着物に対する所有の方法についての記述に依拠している。後者についてはより更級の論との繋がりが深いので、検討が必要だ。

どういうことか。斉藤曰く「オタク」においては「マニア」が切手等を蒐集するのとは異なり、仮にアニメであればアニメを構成するセル画をすべて所有したとしても、アニメ作品それ自体を完全に所有することにはならない。つまり、オタクは独自な手段による愛着物の所有の方法を持つのだという。それでは、オタクはどのような方法でその愛着物を所有するのか。それは虚構を素朴に実体化するのではなく、現実と虚構を混合するのでもなく、ありものの虚構(たとえば、流通する物語、キャラクターなど)を「「自分だけの虚構」へとレヴェルアップすることだけを目指す」のだという。そして、レヴェルアップを目指す営みの具体例とはパロディ、二次創作の営みにほかならない。更級の論は明らかにこの斉藤の論と類似しており、基本的には彼の問題意識に基づいて斉藤の議論を発展させたものとして読むことができる。

ここでは更級の問題意識に依る諸々の言葉遣いについては触れないことにしよう。本論において重視するのは更級の二次創作について人形という隠喩を用いている点であり、ここで見るべき部分は、人形という語の用いられ方である。ここではキャラクター、あるいはより広く物語全般に対して、自在に組み替え再構成する、更級の言うところの「ノイズを排除する」ことを「人形遊び」と名指しているわけである。そのことを東浩紀に引き付けて言い換えればデータベース消費的なオタクの振る舞いということになる。そして、斉藤によればこの「人形遊び」こそがオタクたちの愛着物の所有方法である、ということになる。そして、ここで見えてくるのは「人形は、またキャラクターは所有可能な対象である」ということではないか。

もう一つは村上裕一『ゴーストの条件』での、キャラクターという概念の定義である。人形は人間の形状を模したものであるが、その点キャラクターは人間の魂を模したものである、というもので、村上曰く「人類が生み出した最大の人形」こそがキャラクターである、という主張だ。

確かに、素朴に想定される人形とはたんに人間を模した形状の物体と呼んでも構わないかもしれない。しかしその上で、人形には人間の模倣物、言い換えれば人間の換喩的存在であると同時に、人形それ自体というテーマも持つ。人形は人間の似姿という以前に人形それそのものである、という発想は、人形師・四谷シモンがベルメールから得た思想でもある。

加えて言えば、人形は身体観の模倣物でもありうる。身体観の表象としての人形というテーマは原作漫画よりむしろTVアニメーション版ローゼンメイデンにおいて触れられている。というのも、TVアニメ版ローゼンメイデンは物語の展開や設定の細部が原作とは異なっており、特に大きな変更点として第一ドール・水銀燈の腹部の関節が欠損し、がらんどうになっているという設定が追加されている。この設定は、ビスクドールではしばしば手間のかかる制作を省力するため、服から出た部分のみ、例えば顔や手のみがビスクで作られる、といったことのオマージュであると同時に、ある種の文化的身体観の表れであると言えよう。アニメ版水銀燈はその欠損したボディにもかかわらず、加えて当初はローゼンメイデンでさえない未完成品だった(『ローゼンメイデン オーベルテューレ』)にもかかわらず、その一員となる資格を得ている。ローゼンメイデンであるということはすなわち究極の少女を目指す闘争に参加することと同義である。水銀燈は欠損を抱えており、よって闘争の参加資格がないと思われていた。しかし、水銀燈は欠損した存在のままバトルロイヤルの構成員として肯定されているのである。

そう、身体は平等ではない。身体とはすでにつねに文化的な身体観の影響下に置かれている。ビスクドールの例を考えれば、明らかに服から露出しない部分は劣位であり、ゆえにそのような部位は作りこまれることがない。水銀燈のボディの欠損が欠損のままで肯定されたことで、TVアニメ版には少女の身体についての問題が含まれている。

TVアニメ版において特異な、欠損を負った身体を持つのは第一ドール・水銀燈だが、原作漫画において特異な身体を持つ、というよりも「身体を欠損した」人形として登場し、しかもそのことをポジティブに解釈しているのが第七ドール・雪華綺晶である。雪華綺晶の特殊な成り立ちの分析については他章で詳しく述べる。

 

第三章 私的な人形とその機能について

第一節 『ペーパーウェイト アイ』における人形の描写

本節では、ローゼンメイデンにおいて登場する人形たちの置かれている身分を分析するため、『ペーパーウェイト アイ』(二〇一一年 作、田沢孔治 画、さかもと麻乃 メディアファクトリー)という漫画作品を取り扱う。これもまた、人形というモチーフを描いた作品だ。

ペーパーウェイトアイは「ローゼンメイデン」と比較したとき、制作者の分身・鏡像としての人形というテーマや、人形を造るという行為そのものを前面に出している作品だと言える。ローゼンメイデンが半ば自律化した人形を主に描いているのに対して、ペーパーウェイトアイにおいては人間の鏡像的な存在であることから脱し、自律化する人形というモチーフは物語の終盤付近で多少描かれるにとどまっている。ペーパーウェイトアイとローゼンメイデンを比較すれば、ローゼンメイデンにおける人形描写においては分身・鏡像としての人形というモチーフは随所で描かれているにもかかわらず、かなり控えめで、加えて言えば大変「無害な」ものに見えてくる。

これは一見、奇妙な事態ではないだろうか。ペーパーウェイトアイの人形たちにはローゼンメイデンの「契約」に相当するような人間に深く依存するような設定が少ない。たとえばその例として、作中では自動人形の一体に「動けるなんて知らなかっただけ」と語らせている。にもかかわらず、本作の人形は創り手である主人公のありように深く縛られている。ペーパーウェイトアイには主人公・マリエの作った、また作中制作する人形が複数体登場するが、そのいずれも創り手であるマリエのトラウマの表象であったり、あるいは創り手と似た顔をしていたり、マリエの「身代わり」となる役割を果たしたりする。つまり、そのいずれも鏡像・分身としての人形なのだ。

一方でローゼンメイデンのドールたちは「あたかも単独者」(村上裕一)のようである。確かに、ローゼンメイデンにおいても所有者の鏡像的な人形としての描写もたびたび行われる。しかし、それとは別個にそれぞれの人形が独立して個性的で特徴的な身体(ボディ)を持つことが明示されている。ペーパーウェイトアイの人形が、しばしばマリエのトラウマの具現である身体に苦しみ、不全感を露わにするのとは対照的だ。ペーパーウェイトアイの、マリエに作られた人形の多くは、その身体が既にマリエの存在に強く束縛されている。

また、ローゼンメイデンのドールたちの最大の目的でありその存在意義に等しいバトルロイヤル・アリスゲームにおいても、人間はあくまで脇役である。にもかかわらず、ドールたちは人間との契約なしに満足に自律できない。それは力の供給をマスターとの契約関係に必ずしも依存していない水銀燈と雪華綺晶においても同様である。人形が眠りから目覚めるためには人間に薇を巻かれる必要があるからだ。この二作品ではいずれの場合においても共通して、人形の自律・目覚めには人間が必要とされている。 

この二作における人形の差は、単純にデザインの差としてその図像から感覚的に理解可能なものだと思われるが、球体間接人形としての彼女らキャラクターの描かれ方に注目すればこの差はより明確になる。

 ひとつひとつ見ていこう。『ペーパーウェイト アイ』における、特に敵役となる人形たちは、作中冒頭での展覧会の観客、一般人でたまたま来たカップルに「ぶきみ」「こわい」と語らせているとおり、この創作人形たちは玩具的人形、あるいは個人的な人形という要素が薄い。一方、本作でほとんど唯一マリエの味方となる人形「マジェンカ」は極めて私的な人形である。製作者である主人公自身が展覧会に出さなかった理由を「個人的人形であるから」と語っていることからも、この二者のあいだには明らかな差異が存在するものとして描かれている。すなわち、公に向けた表現としての創作人形、いわば公的な人形としての人形と、私的で、言うなれば玩具的な人形「マジェンカ」が明確に区別され描かれていることも本作の特徴であろう。ただし、この二つの区分はもちろん明確に質的な区分を持つものではない。このことについては本作ラストでマジェンカが純粋な「理想の自分」などではなく、製作者たる主人公の一つの本性の表象でもあった、という展開においても、この区分には厳密な区分は無いことを示していると言えよう。ペーパーウェイトアイでは制作者と人形の距離が非常に近い。いや、本作では人形はほとんどそのまま人間と直結していると言ってもいい。最も制作者の(トラウマ)表象という点から離れた人形である最後の人形「パンドラ」さえ、主人公たちの身代わりとなる役目を負っている。

さて、翻って『ローゼンメイデン』における人形たちは、基本的にはすべてがマジェンカ的な、私的な人形といっていいだろう。彼女らはすべてにおいて公的な領域ではなく、人形の持ち主との閉鎖的で親密な空間に存在する人形としてある。彼女らの戦闘のほとんどは「nのフィールド」と呼ばれる異空間において行われるため、現実の人間社会とは関わらない。ほとんど唯一の例外として、第三ドール・翠星石がジュンと共に学校というあきらかな公的空間に現実に訪れるシークエンスがあるが、やはりそこでも開かれた空間で人形が他者とコミュニケーションするようなことは一切ないし、その描かれ方はコメディである。まずはここで、ローゼンメイデンにおける人形は私的人形としての要素が強いことを確認したい。そして、ほとんど自動人形として自律しているローゼンメイデンたちに人間との関係を持つことを強い、私的人形とさせているのは指輪の契約という設定に依っている。

では、ここまで確認なく使っていた「公的人形」「私的人形」というのは、そもそもどういうものなのか。これを説明するため、田中圭子が人形師・恋月姫について述べた節を引用しよう。

 

それまでの球体間接人形は四谷シモンの作品に代表される視覚優位の可動性、つまり動くようなイメージを提示するものであった。それに対し、恋月姫の人形は実際に触れ、動かすことの出来る玩具性を重視している。(中略)多くの人形愛好者は私的な空間で人形と向かい合ったとき、「あの子」と呼び、友人や家族に接するように人形に接する。それは「作品」として接するのとは大きく異なる。彼女にとって人形とは、芸術作品を志向するものではなく、「生きていると思って作っている」という。

 

 補足を加えると「視覚優位の可動性」「動くようなイメージ」とは、具体的には四谷シモンのぜんまい仕掛けで実際に部分部分が稼働する自動人形を経たのちの、象徴的に「球体間接という機構同様に「動く」ということを暗示する身体」のような表象を指している。このような可動性の文脈において見たとき、恋月姫の重視する「実際に触れ、動かす」ことに重大さが宿るわけだ。

ここで、先ほどの公的人形は「芸術作品を志向する」人形に、私的人形はそのまま恋月姫的な「玩具性を重視」した(「あの子」と名指されるべき)人形と対応している。

ローゼンメイデンにおいてドールがいずれも私的人形である意味は大きい。ひきこもりである主人公・ジュンの成長、さしあたって「外へ出る」ことに際して、「友人や家族」のように接する対象である人形が大きな役割を果たしている。これについては、PEACH-PITインタヴュー「『ローゼンメイデン』、ドールたちに託すもの」(二〇一〇年一二月 ステュディオ・パラボリカ)で聞き手の今野裕一が「人形を持っているから人と話せるという方もいますね。人形が、扉開けてくれるんですね。人形が扉を開けてくれる世界、そんな現実にもある世界が『ローゼンメイデン』に描かれている」と語るように、ここでは自動人形という特殊な身分のローゼンメイデンたちが、自律したとしても私的人形の機能を失わずにいることを確認することができる。また、同様に私的人形としての要素が強い「ペーパーウェイトアイ」のマジェンカの役割も、謎の洋館に監禁されたマリエを「外へ連れ出す」ことであった。私的人形は私的領域にあって、所有者を公に志向させうる。

ただ、私的人形がその機能のひとつとして「扉を開ける」からといって、たとえば公的人形がしばしば「箱」や「枠」で人形をオブジェ化することを想起し、公的人形が「監禁する」「閉ざす」という二項対立と読まれることは単純な誤解だ。そもそも人形のプリミティブな形態として私的人形があり、むしろこの土台あってこそ公的人形があると考えたほうが正しい。工芸としての人形、私的な人形の所有という基礎のあった上で、公的な、「芸術作品を志向する」人形文化の潮流が生まれている。ここにあるのはあくまで対立関係ではなく方向性の違いだ。

さて、ここまでの『ペーパーウェイト アイ』に登場する人形と『ローゼンメイデン』の人形の比較によって、私的人形の機能のひとつとして「扉を開いてくれる」というキーワードを得ることができた。この事実それ自体はいわば「虚構の物語に支えられ現実を豊かに生きる」といったものと同種の、他愛のない一つの真実である。しかし、ここで問題になるのは、ローゼンメイデンたちは人形であると同時にキャラクターであるということではないか。キャラクターは私的人形としての機能を発揮することも可能であることは確認したが、それとは別個にキャラクターそれ自体でもある。

再び前掲したPEACH-PITのインタヴューから引用するなら、「人形も自分のためだけにそこにいるのではなくて、アリスゲームという使命があっていつかは動かなきゃいけない」「それは人間のテーマともかぶる」(えばら渋子)。これはローゼンメイデンの人形たちが人形でありながら、キャラクターでもあるがゆえの事態である。このことについては後に述べる。

 

第二節 隠蔽された人形の「不気味さ」

論をローゼンメイデンに戻そう。ペーパーウェイトアイと比較したとき、ローゼンメイデンにおいて人形の描写は総じてポジティブだと言える。つまり、一般に言われるような人形の「不気味さ」といった面の描写は相対的に見てそう多くない。ローゼンメイデンの登場人物においては人形を恐怖するような描写は非常に少ない。ローゼンメイデンにおいて、ペーパーウェイトアイで展覧会の人形を「ぶきみ」と感じたような人間は登場しない。これは第一にローゼンメイデンの登場人物の人間の多くがローゼンメイデンのマスターに占められていることに起因している。ローゼンメイデンのマスターとは(その質問の意図が不明で、ほとんど偶然のように見えたとしても)人形の所有を「決断した」人間である。つまり、本作においては人間のほうがあらかじめ人形によって選別されているのである。しかし、ドールらの「契約によって、指輪を通じ人間から力を拝借する」という設定それ自体は、しばしばジュンから言われているように、所謂「呪い人形」そのものではないか。いっけん、ここでの人形と人間の関係において、人間には得がない。しかし、この「呪い人形」というセリフは作中でシリアスなものとして扱われない。

ローゼンメイデンたちの「呪い人形」的要素を成立させているのは指輪に依る一対一の契約関係である。そして前節で見てきたように、ほとんど自律人形であるかのようなローゼンメイデンにおいて、彼女らが私的人形となっているのはこの指輪の契約という一点に集約されている。その意味で、本作において隠蔽されているホラー要素とは、私的人形との親愛関係と表裏一体の事態なのである。本作の人形についての描写は、前掲したインタヴューでえばら渋子が語るように、人形の陽の面、私的人形の親愛関係を主軸に設定されている。[]現に、ローゼンメイデンという物語は基本的にポジティブなものだ。

しかし、ここで行われているのはむしろ「不気味さ」の隠蔽ではないだろうか。まずは前述したように、いわば舞台設定の段階から人形を不気味だと感じる人間は参加することが無いように設計されていること。本作では加えてもう一つの手段によって「不気味さ」を処理している。

具体的に、ローゼンメイデンにおいて人形が不気味や恐怖の対象として描かれる際の例を見てみよう。物語初期のジュンはしばしば、真紅らに対して「呪い人形」と名指しする。しかし、その際にはシリアスさのないデフォルメ調でコメディとして描かれる。別のドールとマスターの関係においては、水銀燈と柿崎めぐの例がある。ほとんどとりついて殺すと言っているような意味の脅しをかける水銀燈の言動に対し、めぐはむしろそれを無邪気に喜ぶ。めぐは不治の心臓病に侵され、いつ死ぬともわからぬ身であり、死を望んでいたからだ。両者に共通しているのは、恐怖なりネガティブさは完全に脱臼されていることである。つまり、ローゼンメイデンにおいて人形の不気味さは、それを全く描かないという手段によってではなく、むしろ描き、そのうえで脱臼することでより強力に隠蔽する結果を生んでいるといえよう。

だが、そのような「脱臼」の中にあって、なお人形の不気味を描いたストーリーも存在する。前述したように本作は人形のポジティブな側面を描く比重が大きい。また、物語の主軸は人形同士のバトルロイヤルであり、人間は脇役である。さらにはドールらには人間に危害を加えない倫理がある程度共有されているようである。よって必然的に、人形によるホラーはストーリーのメインにならない。しかしそのような物語の中でも、人形の不気味、ホラーが他よりも突出して描かれている部分がある。物語序盤の、第六ドール・雛苺の描写だ。ここには脱臼されなかったネガティブさが残されている。

詳細を見ていこう。真紅と雛苺が対立しアリスゲームを開始するが、ドールの中でもひときわ幼いキャラクターである雛苺はマスター・柏葉巴から過剰に生命力を吸い取り、巴は「媒体として人形に近くなりすぎ」、人形と同化し消滅する危機に直面する。結果として雛苺が契約の指輪を解除することで危機を逃れた、という一連の流れである。この中で重要な描写に、「人形に近くなりすぎた」巴のその姿は、雛苺とまったく同一の姿で描かれることが挙げられる。ここで描かれているのは文字通りの意味での人形との同一化である。つまり、人間は人間であるままで人形と同一になることはできないし、同一化することは消滅することと同義である。また、人間が消滅しても人形は残るということだ。しかし、残った人形は力を失う。指輪によってかろうじて私的人形であるローゼンメイデンは、その保障である指輪を失い契約が解除されると、その時点でのバトルロイヤルの参加資格を失う。私的人形は人間との関係性の中にのみその存在がありうる。

また、人形との同一化という点から、人形とマスター(=所有者)の接近という観点から見てみよう。本作の「人形は自分と似たありようのマスターと契約する」「マスターの心はドールの心」というのは、現実のわれわれにとっては逆転した事態だ。人間が人形に自己投影し自己同一化することで、結果として人間と人形の距離が接近するのではなく、人形が、いわばみずからのキャラクターに近い人間とマッチングしている。本作でしばしば強調される事実に、人間と人形の時間性の違いがある。つまり、人間は単一の終わりある生を送り、その中で成長するが、人形はそれと異なる時間性の中を生きている、というテーマだ。ここでは成長しない、変化しないキャラである人形たちと、成長するキャラクター、特に主人公であるジュンが対比されている。人形の中でも主人公格に相当する真紅を見ても、彼女独自のバトルロイヤルを戦う、という方針を示してから、それが具体的に指し示すところを明言するまでには長い時間が空いた。このことからも真紅は、そして人形にはスタンスのブレが非常に少ないものとして描かれている。真紅が己のスタンスを明かすまでに、ジュンは不登校から脱して登校を始めるまでに至っていることと比較すればこれは明らかだ。漫画の表現の上で見た時、いっけん区別できない、つまり同様に「記号」で描かれている人形と人間の差異を意識的に重大なものとして描き分けている。それゆえに、物語前半において愚直なまでにバトルロイヤルを遂行しながら、次第に態度を軟化させバトルロイヤルに疑問を持つようになった水銀燈の行動は注目に値する。本作で最も「人間的に」描かれている人形は水銀燈だといえる。彼女については四章第二節で詳しく述べる。

 

第四章 複数志向と単数志向の対立

第一節 複数の身体を持つということ

 人形であり、キャラでもある本作の人形たちの中でも際立って特異な身分を持つのが雪華綺晶である。彼女は他のドールのような物理的実体を持たず、バトルロイヤルで争奪される「勝利条件」であり、ドールたちの本質を担保する結晶「ローザミスティカ」をも求めない。かわりに彼女が求めるのは、思念体である彼女の存在を維持するための他ドールのマスター(「苗床」と呼ばれる)たちと、彼女独自の解釈によって勝利条件として設定した、他のドールのボディである。どういうことか。

 雪華綺晶は設定上、他のドールのような指輪によるマスターとの一対一の契約関係のみならず、他ドールのマスターをも必要とする。そうしなければ、物理的実体、つまり人形のボディを持たない思念体である雪華綺晶は存在を維持することさえ困難となるのだという。その意味で、雪華綺晶は思念体という存在の形式それ自体によって、他のドールたちでは必然的に営まれる私的人形としての一対一の関係、親密な関係の玩具としての人形という様式をあらかじめ持ちえない存在として設定されている。

また、ここで問いが生まれる。そもそも身体を持たない剥き出しの思念体である雪華綺晶は、果たして人形と呼べる存在なのだろうか。ごく単純に言って、それはただの思念体、意識体として名指しされるべきものではないのだろうか。それは「人形」という語彙を用いるべき存在なのだろうか、という単純な問いである。身体を持たない存在である雪華綺晶は「nのフィールド」でのみ存在している。そして、しばしば作中で描かれるようにnのフィールドにおいては安定した自己イメージを持っていない存在はあやふやな像で顕現することになる。逆に言えば、明確な図像を伴う雪華綺晶は「強度あるイメージ」のみの存在だと言える。あるいは作中においても、雪華綺晶がそもそも人形とは呼び難い存在だとして「ガラクタにすらなれない哀れな幻影」と罵倒される。水銀燈が雪華綺晶を罵倒したこの台詞は、雪華綺晶はそもそも人形なのかという疑問をその当人にぶつけたものと言えよう。雪華綺晶は人形と名指すことができるのか。雪華綺晶がある部分で人形が持つ一つの機能を完全に失っているように見えるのは必然と言えるかもしれない。

他方、バトルロイヤルの勝利条件であるはずのローザミスティカを求めない彼女の行動原理については既に村上が詳細に触れているので、ここで引用する。

 

このドールだけは物理的な身体を持っておらず、ドールたちの魂、アイデンティティとも言うべきローザミスティカだけを与えられて生まれた。(中略)彼女は倒錯し、本質たるローザミスティカではなく「無機の体」を欲するようになった。そうすれば彼女は「どんなドールにも着替えられる―/私は幾つもの私になる―」と言っている。つまり、驚くべきことに彼女は、人形の人形になりたがっている。[]

 

人形の人形になりたがっている、というのはあまりにも的確に雪華綺晶の行動原理を言い表している。ここで、暫く視点を「人形」に移してみよう。そもそも今日の日本における球体間接人形という形式それ自体、澁澤龍彦らが紹介したハンス・ベルメールを、人形師・四谷シモンたちが取り入れた形式から始まる潮流である。そして、ベルメールにとっての球体間接人形という様式は、際限なく組み替え可能である球体間接を利用することで、身体の部位の、とりわけ性器の移行可能性を示唆する試みであり、身体のアナグラムの試みである。ここでベルメールによる球体間接の活用を想起してみれば、際限なき交換可能性を志向している雪華綺晶こそが他のどのドールよりも「人形的」とさえ言えてしまうかもしれない。このような人形のパーツの交換可能性について、村上裕一は次のように論じる。

 

  この綾波の奇妙な両義性――傷つけられているにもかかわらず無傷であるというような――は、キャラクターの人形的な本質に触れている。人形の傷は修理・交換可能である。あるいは、人形は本質的に傷つかない。『ローゼンメイデン』ではむしろそれが逆手に取られて、本来交換可能なはずのパーツが交換不可能なものとして描かれることで、各ドールの固有性が強調されていた。[]

 

もはや説明不要かもしれないが、文中の「綾波」とは『新世紀エヴァンゲリオン』(一九九五年 監督、庵野秀明 原作、GAINAX)シリーズのヒロインのひとりである「綾波レイ」のことである。ここで論じられている「綾波の両義性」とは、彼女がしばしば包帯を巻いている、といった外傷のイメージとともに現れ、しかし包帯を解いた下は無傷である、等の表象を指している。以上で引用した村上の文章は斉藤環『戦闘美少女の精神分析』(二〇〇四年 太田出版)において綾波レイを論じた部分を承け、そこに「キャラクターにおける人形的普遍性」を見出したものだ。多少付け加えるなら、綾波レイは包帯といったような物理的外傷のイメージだけでなく、トラウマを持ったかのようなキャラクター性を持ちながら、実際にはトラウマとなる過去それ自体をあらかじめ持たないクローンとして設定されている。つまり、村上は綾波の「空虚な外傷」を指して人形=キャラクターは傷つかないと述べ、ここではその例に綾波レイの包帯など物理的外傷を挙げているが、このキャラクターの性質は物理的外傷のみならず心的外傷といった種類の「外傷」も含むことになる。

大塚英志は「まんが・アニメ的リアリズム」という言葉を用い、記号であるにも関わらず傷つき、死ぬ身体を描く、手塚治虫を祖に持つ戦後日本まんがの様式を指した。[]逆に言えば「まんが記号説」のようにキャラクターを記号と見做したならば、そこに傷や死は無縁であったはずである。端的に言えば、ミッキーマウスは死なないし、傷つかない。あるいはここで村上が述べている「キャラクター」という語を検討するため伊藤剛の「キャラクター/キャラ」の区分[]を用いて考えるならば、ここで村上に論じられている「本質的に傷つかない」キャラクター=人形とは「背後にその「人生」や「生活」を想像させる」ような「キャラクター」ではなく、「キャラ」の定義に近いと言えよう。こうして見たとき「人形(=キャラクター)は本質的に傷つかない」という村上の論は正しい。斉藤が言うように「キャラクター」が人間の隠喩的存在であるのに対して「キャラ」は人間の換喩的存在であり、人形もまた人間の換喩的表象だからだ。ただし、人形とキャラクターを殆どイコールの関係で結ぶ論理が完全に妥当であるならば、という保留を要する。

「各ドールの固有性が強調」されていることは、それぞれの人形にパーソナルカラーが設定されていること(そして、当然だがそれぞれのカラーは重複しない)、多かれ少なかれ特徴的口癖を持つなどの「キャラ」の強さを見ても明らかである。そもそも、図像的・キャラ的な各ドールの固有性こそが、雪華綺晶が他のドールのボディを求める理由であった。雪華綺晶がそのパーソナルカラーとして白=無色を与えられていることは言うまでもなく象徴的だ。

それでは、どのような手続きによって「本来交換可能なはずのパーツが交換不可能」となっているのか。設定の上では「マエストロ」と呼ばれる神業級の技能なくしてローゼンメイデンの制作はおろかパーツを組み上げることは不可能であり、よって人形たちの傷は通常の手段では修復不可能なものとされる。さらに言えば、本作ではごく普通の人形の修復さえも、本質的に不可能なものと設定されている。「究極の少女・アリス」という曖昧な像(作者の二人も「アリス」像のすり合わせは行っていないようだ)[]を目的とするバトルロイヤルを宿命づけられている人形たちにとって、そのような修復不可能な傷はそのままアリスとなる資格から限りなく遠のく(であろう)ことを意味する。本作では人形の外傷が修復不可能なものとされるがゆえに、人形を傷つける行為は重大なものとなる。したがって、作中での人形へ傷つける行為の描き方を見ていこう。なぜなら、そこには同様の「傷」であっても全く対照的な描写が含まれているからだ。

作中のふたつの人形の、人形による「解体」を挙げる。ひとつは水銀燈による解体行為であり、もうひとつは雪華綺晶による解体だ。前者の解体行為は有意味な解体であり、対して後者の解体は無意味的な解体である。

まず、水銀燈による解体は物語最初期の「クマのブーさん」ぬいぐるみの解体、そして真紅の右腕を?ぎ取るという例がある。水銀燈による人形の解体は一貫して相手に対する明確な意味を持つ。具体的には、水銀燈の解体には相手を貶める意味合いが含まれている。真紅の右腕については扉絵でも象徴的にその意味が描かれている。右腕という部分の喪失がその全身を無価値な「ジャンク」とされた、アリスとなる資格を失ったと語っているようなものだ。やはりここでは人形は基本的に修復不可能なものとして描かれているし、水銀燈の側から見れば明確に真紅を貶めるためにこの解体を行っている。

対して、もうひとつは雪華綺晶による解体である。雪華綺晶は第四ドール・蒼星石のボディを解体したうえで「まかなかった世界」に送り付け、大学生のジュンに組み立てさせている。雪華綺晶がそのボディを用いて実体化するためだ。こちらにおいては解体場面や手段などは劇中において直接的に描かれることはなく、また雪華綺晶自身もその解体について特段語ることはない。状況だけが、雪華綺晶は蒼星石のボディを解体したという事実を示している。右腕を失い「不完全に」なった真紅に対する水銀燈の哄笑とは完全に対象的に、雪華綺晶には、たとえば蒼星石を貶めるなどの意図は一切存在しない。雪華綺晶にとってこの解体行為はただ純粋に自身の都合上、まかなかった世界で実体化するために必要だったために行った解体でしかない。雪華綺晶にとって解体することは相手を貶めることにならない。なにしろ、解体しジュンに再構成させたボディを雪華綺晶本人が依り代として使用するのだから。

このような雪華綺晶の解体は「本質」を持ち、かつ求める他のドールからは嫌悪されるが、以上のような人形の解体が大きな意味を持たないという雪華綺晶の認識はドールたちを球体間接人形として見たとき単純に正しい。球体間接という様式はそもそも解体し、再構成するためのものであった。少なくともベルメールにとって、球体間接は必要性に応じて選択された様式という色合いが強い。であれば、雪華綺晶の解体行為が非難される謂れはないはずだ。だが事態はそう単純ではない。ここにはいくつか問題がある。まず、球体間接という様式は組み替え可能性と同時に別の活用方法にも開かれていること、彼女らは純粋な球体間接人形ではなく、球体間接人形のキャラクターであることだ。

 

雪華綺晶について別の側面を考察するため、ここで暫く視点をローゼンメイデンから離し、同じくPEACH-PIT作の『しゅごキャラ!』(二〇〇六年 講談社)に移してみたい。タイトルにも「キャラ」と冠されているように、本作は全体的にキャラクターの主題が色濃いPEACH-PIT作品の中でも強くキャラクターについての主題が前面に出ている。それゆえ興味深い部分は多々あるが、さしあたって参照するのはこの作品の根幹となる設定である「しゅごキャラ」を用いた主人公たちの変身である。簡単に説明すれば、この変身は「なりたい自分」の姿が凝縮された存在であるしゅごキャラを憑依させることで行われる。岩下朋世「誰が変身しているのか?」(二〇一二年八月 青土社)で指摘されているように、しゅごキャラでの変身によって際立っているものは、変身している主体自身のキャラクターである。ひとつ付け加えることがあるとすれば、そのことは端的に主人公の名前「あむ」に示されている。最終話においてモノローグで語られるように、あむ=amであり、「「am」のうしろにどんなことばがきても主語の「I(アイ)」はぜったいかわらない」。本作の変身の様式それ自体は多重人格的な表現と言えるが、やはりこの点をみても最終的には複数的な様相を志向していない。

視点をローゼンメイデンに戻そう。そもそも雪華綺晶の目的はなんだったか。それは彼女の自己解釈したアリス=究極の少女になることであり、そのための手段として他ドールのボディを得ようとしている。そして、複数のボディを得ることで、思念体である彼女が「人形の人形に」(村上裕一)、「いくつもの私」になること。これが、雪華綺晶が独自に設定したバトルロイヤルの勝利条件だった。さらに、この「いくつもの私」とは、ただ衣装を着せ替えるという以上に雪華綺晶自身を変化させる。雪華綺晶は「無垢さ」「愛しさ」「気高さ」等と各ドールの特徴、あるいは言い換えれば「キャラ」を列挙し、それに「着替える」ことが「いくつもの私」になることだと言っている。つまり、ここで行おうとしている「着せ替え」とは多重人格化のことにほかならない。雪華綺晶においては、身体が複数となることが、「いくつもの私になる」こと、すなわち多重人格化することと同義の事態となっている。このことは『しゅごキャラ!』のあむ自身がその変身を経ることでより一層キャラクターとして際立っていくのとは対照的で、雪華綺晶はボディへの憑依=変身を経ることで別のキャラクターへと変貌する。他のドールが「本質」に拘ることとも、また変身する主体の単数性が保障されているあむの変身とも異なり、雪華綺晶は複数的であることを志向している。

そして、雪華綺晶のこのような多重人格的なアリス解釈は、キャラクターの問題と直結している。ほとんど直接的な意味で、多重人格的であるということはキャラクター的だということである。

どういうことか。斉藤環『キャラクター精神分析』(二〇一一年 筑摩書房)によると、多重人格事例において交代人格は「かなり素朴で深みのない、それこそアニメキャラに喩えたくなるような、輪郭のはっきりした人格単位」であり「むしろキャラクターそのもの」だという。そして注目すべきは「それぞれの交代人格が、みな個性的な身体を持って」おり、かつ「「一つの身体」に「一つの人格」というルールが守られ」「身体は、あたかも一人用の乗り物(ヴィークル)のような空間としてイメージされている」。その「個性的な身体」なるものの例として斉藤が挙げたのは「口調や声のトーン、姿勢や表情の変化」「嗜好(甘い物、喫煙など)や知覚の変化」などだ。

前述したように雪華綺晶は多重人格的な存在になることを志向しているわけだが、その手段として「ボディを得る」ことが必要条件となることに注目したい。ここには一つの転倒がある。多重人格では交代人格のそれぞれが個性的な身体を持つことを確認した。多重人格においては人格の複数化が複数の特徴的身体を生むという事態を招くが、雪華綺晶は逆の手順を踏んでいる。つまり、個性的身体、ここではローゼンメイデンのボディを得ることで多重人格化しようと試みているのである。

 

第二節 雪華綺晶と水銀燈の対立

さて、前節では雪華綺晶というキャラクターについて詳細に触れてきた。前節は雪華綺晶について村上裕一が論じなかった部分を検討したものである。

村上は雪華綺晶を他ドールと比較したとき「思想的に考えれば分がある」、つまり他のドールが理想とするのが神学的であるのに対して雪華綺晶の理想である多重人格的アリスは「否定神学あるいは散種的」とする。また仮に雪華綺晶がその目的であるボディの収集=多重人格化の完了と、思念体である自身を維持するための人間が十分に得られたならば「人形などではなく、まさに「化け物」と呼ぶのがふさわしい」「(※引用者注:今後の物語の)展開にかかわらず、雪華綺晶の描いてみせた「化け物」のイメージの価値は全く減じられない」として高く評価している。

 雪華綺晶が「人形などではない」ことについては同様の認識を前述したが、では本当に雪華綺晶は手放しで可能性として見做すことができる存在なのだろうか、という問いがここで生まれる。この問いを検証するため、本節では雪華綺晶と完全に対照的な一体の人形を分析する。それは前節においても「解体」について雪華綺晶と対比して多少触れた第一ドール・水銀燈である。そもそも、水銀燈と雪華綺晶はその設定や図像からも完全に対照的な存在でありながら、かつ類似した存在として描かれている。例えば、第一ドールと第七ドールという、最初の人形と最後の人形であること。水銀燈のパーソナルカラーである黒と、雪華綺晶のパーソナルカラーである白。対照的パーソナルカラーを持つが、しかし名前に含まれる「銀」と「雪」はそのイメージにおいて隣接している。これらは図像や設定の上での、単純に明らかな事実だ。

それらに加え、詳細に触れなければならないのは、まず一つに水銀燈と雪華綺晶は互いに「契約」関係に無い人間からであっても、有無を言わさず力を得ることができるという類似した設定を持つことである。確認したように、ローゼンメイデンは基本的に私的人形である。そして、その私的人形性は指輪の契約関係によって成り立っている。しかしこの二体の人形は、必ずしもそのような人間との契約関係を必要としない、他のドールよりもさらに自律的な人形として設定されている。あるいは人間からある程度自由だと言ってもいい。水銀燈の台詞に「姉妹の絆もマスターの絆も最後にはぜんぶぜんぶ引き千切られてしまう…/私たちは/絶望するために生まれてきたの」とあるように、水銀燈が物語前半でバトルロイヤルを積極的に推進する役割を果たしたのは、人間との関係性が相対的に見て弱いことも要因のひとつである。

そして、水銀燈と雪華綺晶が共通して持つ類似した設定の、些細だが大きな差異が問題となる。前述したように、二者ともに人間から意のままに力を得ることが出来る。マスターとの契約関係に必ずしも縛られないということは、他ドールにおいては交換不可能な人間との関係性が、この二者にとっては交換可能となっており、それゆえこの二者は私的人形の機能を失っている。

ただし、実体を持たない雪華綺晶においては存在の維持のためにより多くの人間を必要とするのに対して、実体を持つ水銀燈はその必要がない、という差がある。つまり、水銀燈には水銀燈のまま私的人形となる選択肢がある。そして現に、雪華綺晶によって交換可能な「苗床」、というよりは手駒として利用されている水銀燈のマスター「柿崎めぐ」を、交換不可能な自分のマスターとして救出しようとしている。ここで明らかに、私的人形である必要のない水銀燈でさえ、私的人形への道を辿っている。

こうして水銀燈と比較したとき、雪華綺晶には雪華綺晶のまま私的人形となる手段がない。だが、ドールたちの闘争の、そもそもの目的について思い出していただきたい。彼女らがバトルロイヤルを戦うのは(勝利条件の解釈の相違はあれ)自らの作り手である「お父様」の愛という勝利報酬を得るためである。つまり、雪華綺晶は雪華綺晶のままでいる限りにおいて私的人形に成り得ないが、唯一私的人形となるチャンスがあるとすれば、それはこのバトルロイヤルを勝ち抜き「アリスになる」ほかにはありえないように見える。村上はこのバトルロイヤルについて「そもそも最後に一人しか残れないのは「お父様」が一人しかいないからに他ならない」としている。これは彼の論である美少女ゲーム的想像力の構図を踏まえた見立てだが、しかし物語内の描写を見ればこれは多少異なっている。正確に言えば「お父様」は「アリスとしかお会いになるつもりはない」存在としてある。ここで、当初のバトルロイヤルの目的である「お父様」の単数性が保持される限りにおいて、勝利条件が「ローザミスティカを集めること」であれ「全ドールのボディを得ること」であれ、結局最後の一人こそアリスであり、すなわち最後の一人のみが勝利報酬である「お父様」の愛を得ることが出来ることになる。その場合村上の上記した認識は全く正しいことになる。しかし、勝利条件が錯綜しつつあるバトルロイヤルにおいて、この「奪い合われる」お父様が単数性を保持しつづけることが果たして可能だったか。つまり、雪華綺晶は自前で勝利報酬を、偽の/私の「お父様」を作り出した。にもかかわらず、複数の「お父様」が存在したとしても、バトルロイヤルは続く。少女の闘争は村上の予想よりも強固なものだったようだ。

雪華綺晶のこの行為と対比関係にあるものとして、水銀燈がジュンを「お父様」と誤認するシークエンスが存在する。そう、「誤認」である。水銀燈においては「お父様」は完全に単数で交換不可能であり、そのことに疑問を挟む余地はない。このことは水銀燈に限らず雪華綺晶以外のすべてのドールに共通の認識である。

ところで、水銀燈がジュンをお父様と誤認したのはジュンがお父様と同様に「マエストロ」だからである。そして、雪華綺晶によって「お父様」とされたのは、そんなジュンに「なりたい」と思う鳥海だった。ここでは二重に虚構が用意されている。第一に、鳥海はローゼンではない。第二に、鳥海はローゼンメイデンのマスターであるジュンに「あこがれている」人間にすぎない。つまり、鳥海はローゼンでも、それに類似したスペックの人間としても設定されていない。すなわち、雪華綺晶が偽の/私のお父様とした鳥海はローゼンの「複製」ではない。もし仮に雪華綺晶がその「お父様」にローゼンの複製としての役割を求めていたならば、単純にジュンを選ぶのが合理的だ。鳥海はその判断基準に立ったとき、控えめに言って複製の複製であり、元の「お父様」であるローゼンからは程遠い。つまり、ここで雪華綺晶が選んだのはローゼン的でない、まさしく自ら選択した「お父様」であると言うことができる。

雪華綺晶による勝利条件の自己解釈のみならず、勝利報酬を自ら作り出すというこの混乱した事態そのものが驚くべきことだ。しかしそれ以上に重要なのは、幾度も見てきたように、そもそも人形という呼び方が妥当かどうか疑わしい雪華綺晶さえ、ここで私的人形に成ろうとしていることである。

 

第五章 おわりに

最後にローゼンメイデンの作品構造自体を見直すため、ここで再び村上が『ローゼンメイデン』の作品構造について述べたものを引用したい。

 

  虚構の中に人間が登場していると考える限りにおいて、そこに起きているのはむしろ隠蔽である。キャラクターは人間そのものではないからだ。しかし、自分が人間ではなく人形あるいはキャラクターだという自己認識を持った存在たちが物語を生きるにおいて、作品は我々の現実と等価値なものとなる。[]

 

そして、以上で述べているような「隠蔽」なき作品として『ローゼンメイデン』を挙げている。確かに、ローゼンメイデンでは自分自身が人形であることについて自己言及することが少なくない。そしてまた、ローゼンメイデンは自身が人形であることを自明なこととして捉え、バトルロイヤルについてもその認識は同様である。その意味で、どのドールも「お父様」という存在に対する客体である。

前節で見てきたように対照的な水銀燈と雪華綺晶だが、雪華綺晶は自身ともっとも対照的な水銀燈を選んでひとつの「協力」を持ちかけている。潰し合いが原則である限り、バトルロイヤルにおいて協力関係は成立しづらい。だが、参加者すべてが同一の勝利条件を目指すがゆえの潰し合いであり、見てきたとおり異なる勝利条件を設定した雪華綺晶は他者と協力しうる。雪華綺晶が水銀燈に持ちかけた「協力」関係とはどのようなものか見ていこう。雪華綺晶が、自身のもうひとつの目的であるローゼンメイデンのマスターを、つまり水銀燈のマスターである「柿崎めぐ」を貰うかわりに、水銀燈にローザミスティカを差し出すというものだ。一見ウィンウィンの関係に見える取引である。水銀燈に限って言えばマスターはある程度交換可能な対象であり、ゆえにマスターの資質を持つめぐを特別に守る合理的理由は少ない。しかも、めぐはその病により水銀燈と契約したとしても命を落としかねない。にもかかわらず、水銀燈は雪華綺晶の申し出を拒絶し、結果は決裂に終わった。前述したように、水銀燈もまためぐを交換不可能なものとして、私的人形となることを選んだからである。

この決裂の意味することはなにか。先に触れた村上の、物語における「隠蔽」に立ち戻ってみよう。そこでは「人形あるいはキャラクターという自己認識」とある。水銀燈も、その他のドールも皆自分自身が人形であるという自己認識を持ち、ゆえに「我々の現実と等価値」とすることは妥当と考える。では、そのような村上の見立ての世界に立ったとき、雪華綺晶はキャラクターに相当するのではないか。雪華綺晶は「人形の人形に」なろうとしているというのは正しいが、正確に言えば雪華綺晶とは「人形になろうとしているキャラクター」だと言える。そして水銀燈と雪華綺晶の「決裂」をこの構図に置き換えた時見えてくるのは、人間とキャラクターの協力関係の決裂だ。

そして、雪華綺晶もまた私的人形的な方向へ志向していること、つまり人間との関係性を欲望する存在であることは述べた。そして、今まで見てきたようにキャラクターである雪華綺晶は人形になることを自らの勝利条件と設定し、その達成を欲望している。ここで注目すべきは欲望そのものではなく、その欲望を成立させるための手続きだ。雪華綺晶がその欲望を達成するためには、まず第一に、自らを存続させるための数多くの人間が「苗床」に、その「苗床」獲得のための駒として「めぐ」が、ボディの制作者として鳥海という偽の/自らの「お父様」、またドレスのデザイナーとして金糸雀のマスター「草笛みつ」が必要となっている。雪華綺晶が人形になるためのこの過程において、雪華綺晶以外のローゼンメイデンが、ローゼンというひとりの天才人形作家一人によって作られたことと対比できる。雪華綺晶以外のドールはローゼンひとりによる「制作物」だが、もしも雪華綺晶がこのまま鳥海によって人形として成立したならば、雪華綺晶は数多の人間がその成立にかかわる「製作物」に近い存在となろう。そして、キャラクターは無数に二次創作され、複製されることによって、より「リアルに」なる。ここには多数の人間が必要になる。

そして先に触れたように、斉藤環によればこの二次創作の営みこそがオタクの、いや、人間のキャラクター・物語を所有する様式であった。だが、雪華綺晶の成立に関わっている人間たちは、「愛着物」の所有欲望に駆られて進んで雪華綺晶の苗床や、あるいはボディの制作に勤しんでいるのか。つまり、雪華綺晶にはキャラクターに、また二次創作についての批評が隠されている。雪華綺晶が自身の欲望を成立させるための努力の過程において、人間はほとんどゲームの駒そのものだ。ボディを制作する鳥海は自らをジュンだと誤認しているし、草笛みつはコミカルな描写ながら強制的に働かされている。また、めぐも病気の治癒と引き換えに多くの「苗床」を得るための手駒となっている。そして無数の「苗床」は、物理的には意識不明に陥っている。雪華綺晶の、キャラクターの欲望の後ろには無数の人間が横たわっている。

雪華綺晶にせよ他のドールにせよ、ローゼンメイデンにおいて暗示されているのは「人形は所有不可能である」ということである。雪華綺晶以外のドールでは、人形が「子供時代の象徴」的な存在として描かれることによって、永遠の所有を否定されている(そう、人形は教育玩具としての役割も持つ)。雪華綺晶の場合にはいっけん、偽の「お父様」として設定された鳥海によって雪華綺晶が所有されているように見える。しかし、この二者の関係で優位に立っているのが雪華綺晶であることは明白だ。むしろ本当の「お父様」ではない鳥海は、キャラクターである雪華綺晶によって所有されつつある。

そう、人形は所有できないし、これはおそらくキャラクターにおいてはより顕著なものとなりうる。確かに、人形は人間の鏡像となる。しかし、それは完璧な鏡像ではないし、人形と完全な同一化を遂げることはできない。このことは第三章二節で取り上げた雛苺と巴のストーリーにおいても暗示されていた主題である。つまり、人形は人間を所有できないし、人間は人形を所有できない。そしてキャラクターにおいては逆に、その欲望によって人間を所有しうる。人間はキャラクターを所有したと「誤認」することしかできないのかもしれない。

 



1 スピンオフとは、既存の作品(所謂「本編」)から派生した作品を指す。

2 「空気系」とも呼ばれる。いずれの用語においても、美少女キャラクターの他愛ない日常を描くことをメインとする作品を指す。

3 えばらは同時に、「陰の面も忘れないようにしていきたい」と語っているが、むしろ本作において表れているのは、意図するしないにかかわらず私的人形の両面性は顕れるという事実ではないだろうか。

4 前掲『ゴーストの条件』より

5 同右

6 大塚英志『キャラクター小説の作り方』(二〇〇三年 講談社)より

7 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』(二〇〇五年 NTT出版)より

8 前掲「『ローゼンメイデン』、ドールたちに託もの」

9 前掲『ゴーストの条件』より

 

参考文献

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大塚英志『キャラクター小説の作り方』講談社 二〇〇三年

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暮沢剛巳『キャラクター文化入門』NTT出版 二〇一〇年

斉藤環『戦闘美少女の精神分析』太田出版 二〇〇〇年

斉藤環「人形愛と女性の謎」ステュディオ・パラボリカ 二〇〇四年一〇月

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斉藤環『メディアは存在しない』NTT出版 二〇〇七年

斉藤環「身体のラメラスケイプ」NHKブックス 二〇〇九年一一月

斉藤環『キャラクター精神分析』筑摩書房 二〇一一年

更級修一郎「ギャルゲーにおける人形表現」青土社 二〇〇五年五月

師茂樹「一般キャラクター論のために」青土社 二〇〇八年六月

新城カズマ『ライトノベル超入門』ソフトバンククリエイティブ 二〇〇六年

新城カズマ『物語工学論』角川学芸出版 二〇〇九年

鈴木國文「越境する玩具」青土社 一九九一年一二月

原作、田沢孔治 作画、さかもと麻乃『ペーパーウェイト アイ』メディアファクトリー 二〇一一年

田中圭子「日本における球体間接人形の系譜」同志社大学 二〇〇八年三月

藤田博史『人形愛の精神分析』青土社 二〇〇六年

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宮本大人「漫画においてキャラクターが「立つ」とはどういうことか」小峰書店 二〇〇三年

村上裕一『ゴーストの条件』講談社・二〇一一年

四谷シモン、榊山裕子(聞き手)「秋葉原に電脳遊郭を! 新しい人形論のために」青土社 二〇〇五年五月

四方田犬彦『「かわいい」論』筑摩書房 二〇〇六年

PEACH-PIT『ローゼンメイデン』幻冬舎のち集英社 二〇〇二年〜(連載継続中)

PEATH-PIT、今野裕一(聞き手)「ローゼンメイデン ドールたちに託すもの」ステュディオ・パラボリカ 二〇一〇年一二月