怪獣の棲む世界観―『ウルトラQ』のアンバランス・ゾーン

川田菜摘

 

目次

第1章 はじめに

第2章 怪獣ブームの源泉

第1節 日本に棲みついた怪獣

第2節 怪獣王・ゴジラ誕生

第3節 世界のツブラヤ・ウルトラシリーズ

第3章 『ウルトラQ』に見る怪獣の姿

第1節『ウルトラQ』の特異性

第2節『ウルトラQ』における怪獣の定義

第3節『ウルトラQ』のアンバランスさ

第4章 アンバランス・ゾーンに棲む怪獣たち

第1節 未来からやって来た怪獣

第2節 過去へ帰る怪獣

第3節 アンバランス・ゾーンとはどこなのか

第5章 おわりに

参考文献


 

第1章 はじめに

 「特撮」といえば「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」などのヒーローものをその代表として挙げる人も多いであろう。実際に、ヒーローもののマーチャンダイジングによる経済効果は計り知れず、「特撮」という分野全体の人気は増しているととることもできる。しかしながら、子供あるいは一緒に見ている大人まで誰もが楽しめるジャンルとしてあった特撮は今では「2.5次元」と表現されるようにオタク向けの作品群として限定的に存在していることも否めず、サブカルチャーの変遷とともにその世界観の系譜も急激に形を変えてきている。ポストモダンの発現とされる70年代とそれ以前を分かつ時代の流行には一体どのような違いがあるのか、その歴史を辿ることで、それはすなわちサブカルチャーの歴史を辿ることになるのではないであろうか。

本稿ではその黎明期にあたる1960年代に特に大きな流行として存在した「怪獣ブーム」に着目し、我々のそれに対する感じ方の変遷を考察してゆく。「怪獣ブーム」とは、「妖怪ブーム」「スポ根ブーム」「変身ブーム」など同時代のマンガ、アニメの影響を受ける以前に確かに存在した文脈なのであるが、それ単体では残念ながら衰退してしまったといわれている。ではなぜ怪獣は当時隆盛を誇っていたのであろうか、そしてなぜ現代において安住の地を失ってしまったのであろうか。まず「怪獣ブーム」以前の系譜からその発現までを観察し、その流行の必然性または特殊性を含む特徴を客観的に捉えていく。

次に、社会現象と化した怪獣そのものの特徴を探るために、「怪獣ブーム」の中心的な担い手となり日本の特撮を支えてきた円谷プロダクションを中心として、また数ある作品のなかでも最初期の作品である『ウルトラQ』(1966)に焦点を絞り、怪獣という言葉に日本人が抱くイメージについて考察するとともに、それがいかに変化していったかを考察することで、ブームの隆盛から衰退について探ってゆきたい。

特にブームの衰退については、単純に流行が目まぐるしく変化したという観点にとどまらず、物語消費や表現形態が具体的にどのように流行に当てはまらなくなったのかを考察することで、ポストモダンについての切り口とし、怪獣に対して現代の我々が抱く現代的な感性についても論証してみたい。

 

第2章 怪獣ブームの源泉

第1節 日本に棲みついた怪獣

 「特撮」すなわち特殊技術撮影は、本来ロケーションの経費削減や実現不可能な破壊・災害シーンを再現するための代替品として機能していた。広いくくりでいえば、背景との合成やミニチュアの登場だけでも、それは特撮シーンということになる。日本においては戦前から、主に戦争映画の飛行・爆撃シーンなどにそれらが使われていたようである。特撮の神様と称される円谷英二の携わった作品ひとつをとっても、『ハワイ・マレー沖海戦』(1942)をはじめ軍部によって実際の映像を提供されなかったために後付けで用意したものとしての特撮シーンが多く登場している。

あくまで映画の演出としてサブの役割を果たしていた特殊技術だが、アメリカにおいて早くもそれらが主役としてスクリーンに登場することとなる。ウィリス・オブライエン監督『ロスト・ワールド』(1925)では、ストップモーションによって現在は存在しない恐竜たちが画面内を闊歩する様子が生き生きと描かれている。しかし彼の代表作として最も有名なのは『キングコング』(1933)であろう。この作品に影響を受け、彼に唯一弟子入りをしたレイ・ハリーハウゼンは『原子怪獣現わる』(1953)などを発表、彼らの魂が後のスティーヴン・スピルバーグ監督『ジュラシック・パーク』(1993)などに受け継がれることとなる。

 そして、これらの作品は日本にも大きな影響を与えた。とりわけ『キングコング』は、当時まだ「怪獣」という言葉はあまり用いられていなかったものの、現在でいう「怪獣映画」の先駆けとして映画館を観客で賑わせた。当時「怪獣映画」といえば映画ファンからすると俗物的で最下層の表現形態とされていたようであるが、それには音楽でいうロックンロールのように、既成概念の破壊と驚きと自由があったのである。事実、巨大な猿が暴れる様子には迫力があり、かつどういう仕掛けによる演出なのかが非常に興味深かったために、観客が途絶えることはなく繰り返し上映された。そのフィルムを研究用として所持していた者もいたほどである。それが、円谷英二その人である。

 

第2節 怪獣王・ゴジラ誕生

 2013年現在では所謂「クール・ジャパン」の一端として日本の特撮技術及び作品は世界からも注目を浴びているが、はじめはやはり海外の技術へ追いつけ追い越せといったある種の模倣によって発祥したのである。海外からの「怪獣映画」輸入に影響を受け、日本でも大怪獣映画が製作される運びとなる。プロデューサーの田中友幸は、『原子怪獣現わる』の影響もあり、「人間が造りあげた水爆という文明の利器により、また人間が作った東京というような大都市、つまり人間が人間のために復讐されるという理念」を映像化したいと考えていた。[]

そこで依頼を受けた円谷が当初固執していたのは巨大なタコのモチーフであったが、最終的には当時の流行もあって海外の怪獣映画のような恐竜スタイルの怪獣が誕生することとなる。そして日本初の特撮「怪獣映画」に登場したのが、かの有名な『ゴジラ』(1954)である。

余談であるが、『キングコング』登場時には「怪物」「巨獣」などの宣伝文句がほとんどであったのを、マスコミが「怪獣」の語をイコール「ゴジラ」とでもいうように多用することによってゴジラを表象とする「怪獣」は日本全土に広められることとなる。古いものを辿れば日本においても江戸時代には『奥州会津怪獣絵図』(1782)などにその語が用いられており、魑魅魍魎の類を表現していたのであるが、その後はネッシーや雪男などの「未確認生物」としてのニュアンスを強くしていった。しかし現代のような、巨大さまたは強大さをもつ破壊的存在としての「怪獣」の語を確固たるものにしたのが紛れもなくゴジラなのである。

 以来、各映画会社は「ゴジラに続け」と言わんばかりにこぞって怪獣映画を製作する。『ゴジラ』と同じく東宝制作の『空の大怪獣ラドン』(1956)、『モスラ』(1961)、大映制作の『大怪獣ガメラ』(1965)、日活制作の『大巨獣ガッパ』(1967)、松竹制作の『宇宙大怪獣ギララ』(1967)などがそれにあたる。またこの頃、外貨獲得のための怪獣映画製作促進を目的とした、社団法人日本映画輸出振興協会が発足され、いよいよ海外から日本へではなく、日本から海外へと怪獣は進行方向を変えるようになる。怪獣は日本にとって、やって来るものから創るものとなったのである。

数多くの怪獣映画が日本で制作されたが、それでもシリーズ数や、映画のみにとどまらないグッズやイベント等における活躍の場から考えるならば、やはり怪獣王は「ゴジラ」であろう。例えば、本編とは全く関係のないビクターから発売されたレコード「ゴジラさん」や、デフォルメされた「ゴジラくん」なるキャラクターが活躍するテレビゲームなどがゴジラグッズとして発売されていた。また、ゴジラ松井に代表されるように、ニックネームとしてその名前が用いられるケースも多く、いかに人々の間で一人歩きをし、アイドル化していったかが分かる。怪獣のアイドル化はしばしば批判の対象となるが、しかしアイドル化がなくただ怪獣のままであれば、それが真の人気なのかはともかくとしてシリーズの存続までには至らないであろう。生き延びるためには、怪獣のままでいることなく、可変的であらねばならないのが怪獣王としてブームの頂点に君臨するための条件である。

 

第3節 世界のツブラヤ・ウルトラシリーズ

 スクリーンを暴れまわり人々を賑わせた怪獣たちであるが、1960年代には東京オリンピックによるテレビの普及率の向上などから映画というメディアそのものが斜陽の時代に差し掛かり、活躍の場も狭まりつつあった。そこで、はやくからテレビというメディアに注目していた円谷は1963年に「円谷特技プロダクション(現在の円谷プロダクション)」(以下「円谷プロ」)を設立、フジテレビやTBSと特撮テレビドラマの制作に乗り出す。

しかしフジテレビとの共同企画であった『スーパーマン』(1956)風のヒーローものをモチーフとした『WoO』は制作段階で頓挫、そのアイデアのみがのちのウルトラシリーズに流用されることとなる。アメリカで放送されていた『トワイライト・ゾーン』(1959~1964)にインスパイアされて企画されたミステリー色の強い『UNBALANCE』も、やはり「ゴジラ」の印象が強い「世界のツブラヤ」がテレビに登場するからには目玉として毎週「お茶の間に怪獣を」登場させるという方針に切り替わったため、現在の『ウルトラQ』(1966)のような怪獣路線で落ち着くこととなった。プロデューサーであった栫井巍は「怪獣ものでシリーズを通してほしい、そして、荒唐無稽でなくて奇想天外にしてくれ」と指示したのである。[]

これに対し当の円谷本人は、「ただ怪獣映画だけが私のイメージとして人びとに記憶されている。私はこれをふしぎに思うし、また不満でもある」という感覚もあったようである。[]

しかしそのようなTBS側の判断が功を奏し『ウルトラQ』は大ヒット、その人気は、裏番組であった手塚治虫のアニメーション『W3』(1965~1966)が放送時間を移動せざるをえなくなるほどであった。

『ウルトラQ』の放送枠である日曜夜七時、武田製薬がスポンサーを務める通称「タケダアワー」では既に『月光仮面』(1958~1959)や『隠密剣士』(1962~1965)などの特撮ヒーロー番組が何篇か放映されていた。また、日本初の巨大ヒーローとしてさきに『マグマ大使』(1966~1967)の放送も始まっていた。そうであるにも関わらず、円谷プロといえば、を通り越して巨大ヒーローといえば、という確固たる地位を築いたのは『ウルトラQ』から『ウルトラマン』(1966~1967)に続いて脈々と引き継がれる「ウルトラシリーズ」である。その最たる特徴として、毎週違った怪獣が登場するという点がある。先行作品としての『ウルトラQ』から引き継いだ部分も大きいであろうが、他のヒーロー番組のように全話共通の敵が登場するよりもバリエーションがあるため、テレビを見つめる子供たちがその登場を楽しみにしていたことは想像に難くない。バリエーションという点でいえば、マーチャンダイジングの視点でも怪獣図鑑やソフトビニール人形の販売及び着ぐるみを貸し出してのイベント開催はウルトラマン本人を超える主戦力であった。TBS管理部の岡崎潔は『ウルトラQ』の時点で製作費を回収するためにも怪獣のマーチャンダイジングを考案し、それでも長らくの間は赤字が続いたのであるが、70年代初頭にはヒーローとの相乗効果で黒字となっている。

この『ウルトラマン』に始まるシリーズは断続的ではあるものの2013年9月12日には「最も派生テレビシリーズが作られたテレビ番組」としてギネス記録に認定されるまでに同一シリーズのまま成長を遂げている。[]

円谷プロの世に放ったヒーローはウルトラ戦士だけではなく、『ミラーマン』(1971~1972)、『ジャンボーグA』(1973)など他にも多く制作、放映されていたのだが、いずれも続編が延々と続いてゆくほどのヒットにはならなかった。その原因としては「ウルトラマン」があまりにも有名なばかりに、良くも悪くも「二番煎じ」のような印象が強かったことが考えられる。70年代になると『仮面ライダー』(1971~1973)の放送も始まっていたため、変身ヒーローの人気も2分してしまったのである。また、ヒーローもの以外にも『マイティジャック』(1968)、『怪奇大作戦』(1968)などのメカや人物描写を主体とした特撮ドラマも何本か制作されているがこちらも一部のファンを残すのみで存続までには至らなかった。少々大人向けであったために、子供はあまり夢中にはならず、グッズ展開なども困難であったのである。

このように一口に円谷プロと言っても様々なジャンル及びシリーズがあり、「ウルトラシリーズ」においてもそうした多様性があることに変わりはない。「ウルトラシリーズ」は第1期から第4期までに分けて考えられる場合が多く、とりわけ昭和の終わりにあたる第2期から平成のウルトラマン誕生を境とした第3期までの間には約15年のブランクが開いたことや、新たに特撮のみならずコンピュータ・グラフィックス(以下CG)が導入されたことなどから大きな差が生まれている。また、ほとんどそれに沿うかたちで怪獣ブームも再燃を繰り返している。『ウルトラQ』のようなSFアンソロジーも、シリーズの継続というよりはリメイクのような形で『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』(1990)、『ウルトラQ dark fantasy』(2004)、『ネオ・ウルトラQ』(2013)が制作されたのみであるため、「ウルトラ」という名称ではあるものの、基本的には「ウルトラマンシリーズ」と「ウルトラQシリーズ」で分けて考えるべきであろう。

ちなみに変身ブームの火付け役は『仮面ライダー』であるとされ、円谷ヒーローとは異なり「変身」という掛け声を繰り返し用いたことによる影響が大きいのではないかと思われる。「ウルトラシリーズ」が「変身ブーム」に加担することの少なかった理由は、皆が変身ヒーローよりも怪獣の登場を重視した「怪獣ブーム」としての位置づけであったためである。

 

第3章 『ウルトラQ』に見る怪獣の姿

第1節『ウルトラQ』の特異性

 先に述べた通り、『ウルトラQ』は半ば実験的な番組として制作された。放映後の反響はもちろんであるが、それは制作の段階でも様々な驚きに満ちていたはずである。

当初アメリカの『トワイライト・ゾーン』のようなSFアンソロジーとして制作された今作は、『UNBALANCE』という仮題であったということもあり、少々その名残が残っている回が存在する。「これから30分、あなたの目はあなたの体を離れて、この不思議な時間の中に入っていくのです」という石坂浩二の有名なナレーションは、ランダムに挿入されているわけではなく、初期に制作された『UNBALANCE』時代のものにのみ入っているらしいのである。[]

『ウルトラQ』は全話制作終了後に順番を変えて放送したため、近年の作品に多く見られる、放送後にその反応を見て方針を変更するようなことはなく、全体の流れというものが本放送には存在しないのであるが、一話から順番にではなく、『UNBALANCE』から『ウルトラQ』へと辿ってゆけば、大まかな「怪獣路線」の変遷について読み取れるのではないだろうか。

 まず全話に共通する大きな特徴として、ヒーローが登場しないという点がある。特撮といえばヒーローというのは現代であれば当たり前の概念であるが、そもそも特撮テレビ番組がほとんど存在しなかった時代であるから、そのこと自体に斬新さはそれほどなかったはずである。「怪獣路線」が特徴的であることに変わりはないのだが、テレビ怪獣の登場に関しても国産初の怪獣が『月光仮面』第三部「マンモス・コング」に既に登場しており、『怪獣マリンコング』(1960)や『ナショナルキッド』(1960~1961)においても数十話連続ではあるが怪獣が登場したため、初めての試みというわけでは決してない。

しかしながら、『ウルトラQ』には連続性がないため、同じヒーローや同じ怪獣が何度も出てくるわけではなく、逆に言えば次に何が出てくるのかが楽しみになるというアンソロジーならではの魅力が最大限に発揮されている。おそらく、数ある『ウルトラQ』の特徴のうち、もっとも他との差異が大きい部分はこの点であろう。ある程度お決まりの登場人物は存在するが、基本的に主人公は固定されていない。全作品に共通する要素はタイトルバックなどの番組としての枠組みのみであって、音楽や作風に至るまで全てがある意味で無秩序であった。しかしそうした無秩序さが、全話に共通して存在したからこそ統一感を持つことができたということもできる。毎週異なった昂揚感が衰えなかったという点では、毎週決まったヒーローないし怪獣が登場するよりも新鮮味があったのではないだろうか。他の作品と比べて、『ウルトラQ』は1話見逃してしまってもストーリー上は全く問題がないのであるが、その回にしか登場しない最初で最後の怪獣を見逃してしまうことになるのである。その意味では、1話見逃した時のリスクは連続ものよりもむしろ大きい。それまではどんなに短くとも1年に1回程度しか現れなかった怪獣が、映画館に連れて行ってもらえなくても家のテレビで毎週見られるようになり、手軽にはなったが、しかし感覚としては年に一度見られるか見られないかという貴重さが残っていたのであろう。怪獣及び円谷の知名度は『ゴジラ』の時点で高まっていたに違いないが、テレビだけでなく主に講談社の少年誌にも怪獣図鑑などの特集が度々盛り込まれたため、メディアミックスの点でも成功していたといえる。録画機器のなかった当時としては、怪獣を記録あるいは記憶する重要な媒体として紙媒体のものは多分に機能していたのである。こうして怪獣は誰の目にも映り誰の手にもとれるようになり、「怪獣ブーム」が始まったのである。

 しかし、本来「怪獣ブーム」を作ろうとして制作された番組ではなかったということは、さきに述べた通りである。例のナレーションの入っている『UNBALANCE』の作品は、意外にも怪獣が登場する話がほとんどなのであるが、特に注目すべきは試写の時点で発表された第3話「マンモスフラワー」、第22話「変身」、第25話「悪魔ッ子」に加えて、最も怪獣路線から離れていたとして本放送に組み込まれず再放送でのみ最終回を飾った第28話「あけてくれ!」の4作品であろう。

これらのうちで一般的な観点からみて最も怪獣路線の強いものは「マンモスフラワー」である。都会の真ん中に古代の巨大植物「ジュラン」が姿を現すという奇譚は、植物というモチーフの珍しさを除けば怪獣ものの類型ともいうべき形をとっている。また、人間の血を吸う設定などには海外のホラー映画のような印象も受ける。[]

しかし「変身」では、人間そのものが巨大化するストーリーであったため、その「巨人」を怪獣と捉えれば立派な怪獣ものであるが、それを人間と捉えることもできる点ではあまり怪獣路線とはいえない。[]

さらに、「悪魔ッ子」に登場し怪獣図鑑などにも記載されている「リリー」はこの話のヒロイン的役割を果たしている人物の二重人格が具現化したものである。巨大化などをせず、幽体離脱のようにしてしか存在できない「リリー」を果たして怪獣と呼べるであろうか。高度な合成技術により白く発光しながら歩き回る子供の精神には怪獣に対して以上の恐怖すら感じるが、どちらかといえばオバケに近い存在である。[]

「あけてくれ!」に登場する「異次元列車」は、現実から逃げだしたくなった人を異次元に連れて行くという特殊性はあるが、空を飛んで走行するとはいえ見た目は我々が普段目にすることのできる普通の列車である。[]

こうして並列すると怪獣路線を無視したもののようにも思えるが、いくつかの脚本は実際にキャンセルして制作・放映していたため、わざわざキャンセルをせずに残したということはこれらにも怪獣路線としての要素が隠れているはずである。これらは初めから『ウルトラQ』として制作された作品と比べると、怪獣のようなものの登場にきちんとした道理がある作品群である。のちに作られたものだと仕方なしに登場したせいで動機もなにも分からない怪獣も少なからず居るのであるが、『UNBALANCE』の作品群に発生する怪獣のようなものは起こるべくして起こった事件とでもいうべき背景が描かれている。『UNBALANCE』を含めての怪獣のようなものを、『ウルトラQ』ではいかにして怪獣ならしめたのであろうか。多種多様な存在である怪獣を定義することは困難な作業であるが、少なくとも『ウルトラQ』における定義さえつけておけば、その幅広さゆえに全ての怪獣に当てはまる世界観についても考察できるであろう。

 

第2節『ウルトラQ』における怪獣の定義

「怪獣路線」というテーマを考えていくなかで興味深いのは、『ウルトラQ』には怪獣らしい怪獣が登場しない話も少なからず存在するということである。勿論巨大生物や等身大の宇宙人などが登場する話がほとんどであるが、図鑑に載せたりグッズにするには無理のある現象が多発しているのである。しかし、一般的な概念で怪獣ではないようにも感じられたとしても、怪獣図鑑に記載がある以上それを「怪獣」として捉える必要がある。では、『ウルトラQ』における「怪獣」とは、一体何を指す言葉なのであろうか。

 『ウルトラマン研究序説』の中では、あくまでウルトラマンと対峙することを前提としてはいるものの、怪獣に関する分類が行われている。それは以下のようである。

 

 ①純然たる地球生物としての「怪獣」

  ②ペットとしての「怪獣」

  ③宇宙から来た「怪獣」

  ④侵略的意図をもった「異星人」

  ⑤一種の人間[10]

 

この分類ではウルトラマンがこれらの怪獣を倒すことの是非について問われており、本旨から離れてしまうため詳しくは触れないが、興味深いのは後のふたつに「怪獣」の語が用いられていない点である。また、人間も地球の生物と考えて捉えるならば、大まかに①、②、⑤の地球に棲んでいた生物か、③、④の宇宙その他外来の生物かというシンプルな分け方をすることができる。『ウルトラQ』に登場する「怪獣」の多くは地球に棲んでいた生物であるが、ここでひとつ疑問が浮上してしまうのである。いくら「怪しい」とはいえ、地球上に生息するのならば「猛獣」や「珍獣」と何が違うのかということである。初めて姿を現した未知の生物を「怪獣」と呼んでしまっては、全ての生物が怪獣であり、怪獣でなくなってしまう。また、外来の種の場合も、生態系の外の生き物というだけであって、地球も宇宙のなかのひとつと考えれば、どこからが外来なのかという疑問がいつまでもつきまとうこととなってしまう。すなわちこの場合、怪獣の生息地や出身は、とりわけ『UNBALANCE』における怪獣を定義づける上であまり関係ないことが分かる。

 しかしながら、『ウルトラQ』全怪獣に共通の要素を考えていく上で重要なこととして、それらの怪獣そのものは急に発生したのではなく、初めからどこかに存在していて、地球の秘境あるいは宇宙からたまたま現れただけにすぎないということが挙げられる。ここに、遠藤徹『怪獣学原論への助走:マイケル/パンク/怪獣』内の怪獣の構成要素の考察を加えてみたい。遠藤は怪獣の特徴として、「混合性」「過剰性」「多様性」の3つを挙げている。ここでいう「混合性」とは、哲学者ノエル・キャロルの述べた「空想の生物を造りだすための四つの原理」を参照している。

 

  1)融合(fusion)

  2)分裂(fission)

  3)巨大化(magnification/massification)

  4)恐ろしい換喩(horrific metonymy)[11]

 

これら四つの条件を満たせば物語のなかで怪獣を生み出すことができると定義されているのであるが、遠藤はここで最も重要な要素は「融合」であるとし、「悪魔ッ子」のような「分裂」はひとつの中にふたつという意味で「融合」と同義だとしている。私は更に、「変身」、「マンモスフラワー」に見られる「巨大化」も巨大さと生物の融合という意味で「融合」に含めてよいように思う。「恐ろしい換喩」に関してはあくまで従属的なものとされているので、この場合「怪獣」の構成要素は「融合」ひとつをとって考えることができる。こうしてすべての要素を「融合」として捉えた際に、ようやく『ウルトラQ』全怪獣共通の要素としての「混合性」が成立するのである。それは仮面ライダーシリーズに登場する生物と生物の融合した「怪人」のような「混合性」ではなく、「あけてくれ!」のように生物あるいは物体とありえない現象や不条理といったような、いわば世界と融合したバランスとアンバランスの「混合性」である。これにより、『ウルトラQ』において怪獣の「混合性」を考える場合、その生物としての特殊性よりも融合した現象のほうが重要であり、現象以外は全く重要ではないといっても過言ではないことが分かる。いかに毎週異なる怪獣が登場しようとも、あるいはそれらしきものが登場しなかったとしても、そこに「怪現象」が融合している点ですべて共通している。また、「過剰性」は本編で描かれていたわけではないが、あまりにも時間も説明も不十分であったために正体不明の存在のまま話が終わってしまうという、放送時間の30分内に収まらなかった点に認めることができる。その証拠に、この時代の怪獣図鑑等には明らかに本編と関係のない特徴や能力が解剖図のようにして記載されていた。「多様性」は言うまでもないであろう。

 ここでもう一度はっきりと定義しておくならば、『ウルトラQ』において「怪獣」とは、生物や物体の出自を問わない、「獣」としての要素を無視した「怪現象」のことである。『ウルトラQ』及びそれ以前の『UNBALANCE』には「獣」が登場しない話は多々あったが、バランスの崩れた「怪現象」が発生しない話はひとつもなかったのである。

 

第3節『ウルトラQ』のアンバランスさ

 では、『ウルトラQ』の無秩序でしかしファンを固定する統一感は具体的にどういうものであろうか。「空想科学シリーズ」と銘打たれているように、SFをベースとしたどこか先見的なストーリー性は独特なものであると現在でも高い評価を受けている。しかし、全話共通してSFかというと、ファンタジーやホラー要素が強く、むしろ昔話のようなニュアンスをもつものも少なくない。さらには、ハッピーエンドの話とバッドエンドの話、そのどちらともとれる話など、実に多様性のある物語構成となっている。怪獣を倒すことが必ずしもパターンとして適切なわけではなく、そもそも人間のせいで現れてしまった怪獣も多いため、倒したとしてもまた現れるに違いないという恐怖感や、あるいは倒さない方が良いのかもしれないというオフビート感覚に襲われることも少なくない。このような怪獣の立ち位置は『ウルトラマン』以降のヒーロー番組であってもしばしば登場するが、ウルトラマンを活躍させなければいけない「ウルトラマンシリーズ」と比べると、正義を描かなければならないという規制は弱かったため、怪獣の自由度は高かったように思われる。

しかしどんな内容の物語であっても、最後には必ず「終」の文字が画面に登場する。実はこれが、意外にもこの作品群の世界観を繋ぎとめているのかもしれないのである。当時、大抵の映画やテレビ番組の最後には「おわり」や「END」などの終了を意味する文字が並んでいたため、これはとりわけ珍しいことではない。どちらかといえばありきたりな手法であったとさえいえるであろう。しかし通常ならば視聴者の誰もがもう終わりだと分かったタイミングで「めでたしめでたし」として登場した文字であるのに対して、『ウルトラQ』の場合にはそれがなければ終わりだと分からない「つづく」雰囲気があるのである。その理由は、世界観があまりにも強固であるがゆえに、30分を過ぎてもそれが消えずに残ってしまうというからではないかと考えることができる。

大塚英志の『物語消費論』では、世界観はすなわち大きな物語と同義であるとされていた。「ビックリマンチョコレート」と「仮面ライダースナック」の小さな物語の消費形態の違いを例に論じる中で、大塚がこの2つの例を比較する論点は主に原作の有無であったが、ここでは世界観すなわち大きな物語にまでより深く掘り下げて少々引用をしておきたい。[12]

「仮面ライダースナック」も「ビックリマンチョコレート」も、お菓子としてではなくその付属品が人気であったことは共通しているが、世界観の構築の仕方に違いがあるというのが大塚の主張である。こうした違いは、これらのお菓子及び物語の消費のみに当てはまるものではなく、とりわけ二次創作の分野において重要な差となってくる。微かな差ではあるが、先行する大きな物語に便乗した「仮面ライダー」型のものなのか、小さな物語だけを提供することで背後に大きな物語を彷彿とさせる「ビックリマン」型なのかは特撮という分野の中の更なる細分化にも関わってくるであろう。

まず、単純に考えれば「仮面ライダースナック」における怪人カードのように、ウルトラ怪獣は原作の存在するキャラクターである。大きな物語の存在がテレビやその他のメディアで伝達され、我々はその断片としての小さな物語である怪獣を消費する。ウルトラマンに倒されるか、あるいはもといた場所に戻されるなどの然るべき処置をとられる存在として、怪獣たちには大きな物語が保障されている。また、戦争あるいは災害を描いた特撮作品も、実際にあった出来事の再現である場合は原作の存在するものとしての登場にすぎないであろう。

しかし『ウルトラQ』に登場する怪獣の場合は、原作は存在するが名目上だけのものであり、実際に短編集としての『ウルトラQ』が原作足りえるのかと考えると非常に曖昧な概念でしかないことが分かる。『ウルトラQ』に登場した怪獣ではあるものの、では原作の『ウルトラQ』とは何なのかを『ウルトラマン』などと比較して考えたときに、そこには一見小さな物語しかないのである。これは『ゴジラ』などにおいても同じことであり、商品化したキャラクター消費という意味では人気に便乗した原作ものということに変わりはない。しかし怪獣というキャラクターに先行するヒーローないし物語はあったのかを考えると、実は怪獣ものの場合は怪獣そのものが小さな物語の背後に大きな物語を背負うかたちとなっていることが分かる。ここで先の例をもう一度用いると、「仮面ライダースナック」とは異なり「ビックリマンチョコレート」の場合は、先行した原作がない代わりにシールひとつひとつの小さな物語をつなげると背後に大きな物語が現れるという仕組みがあり、それが人気を博した理由であった。すると「ビックリマンチョコレート」と同じように、小さな物語しか存在しないかのように見えた『ウルトラQ』の中、あるいはそのストーリー構成ではなく怪獣そのものの延長線上に大きな物語が実は存在していたと考えてみることができるかもしれない。

延長線上というといささか抽象的ではあるが、要するに30分経って番組が終わったあとのことである。そこにあるのは現実ただそれのみであるので、本来であれば夢から醒めたように、物語の世界観との区別がはっきりと発生するところである。それは大きな物語の強度が高ければ高いほど現実とのギャップに晒されるといってもよい。しかし、『ウルトラQ』の「終」には、まだ見たいのにもう終わってしまうという物足りなさはもちろんのこと、不気味な余韻を与えるという効果もある。怪獣はまだ生きているのではないか、また現れるのではないか、隣にいるのではないか、自分が怪獣になってしまうのではないか、そうした不安感が不思議と離れないのである。夢から醒めるという感覚がないということは逆説で考えるならば、夢と思っていたそれこそが目が醒めた現実の世界であったということになりはしないであろうか。怪獣たちは各々小さな物語を持ち寄っては、我々の住むこの世界そのものを大きな物語として、我々と同じ地平で暴れているのではないであろうか。我々はテレビの中のフィクションを眺めているつもりが、怪獣という小さな物語の背後に存在する大きな物語であるこの世界、すなわち自分自身の姿を眺めていたのである。『ウルトラQ』はそうした特徴が特に顕著であり、大きな物語の不在をこの世界で補足するという最大のリアリティーをもった世界観を構築し得ている。そしてその大きな物語は、この世が終わりを迎えない限り途絶えることはない。その意味で、『ウルトラQ』は一体も怪獣を倒さなかったのである。また、後にTVシリーズが2作続いているのも、事実上『ウルトラQ』は大きな物語つまりこの世界にさえのっとっていれば『ウルトラQ』のような怪獣あるいはシチュエーションという小さな物語をいくらでも創作することができる、n次創作の無限にできる作品であるからである。『ウルトラQ』には最終回は存在しない。それは「怪獣ブーム」に理論上は終着点が存在しないということにもなる。視聴者は皆、その「終」に物語のつづきを見始めるのである。

 

第4章 アンバランス・ゾーンに棲む怪獣たち

第1節 未来からやって来た怪獣

 現実世界そのものは、大きな物語として半永久的なものであろう。しかし、特定の社会や年代にそれを絞って物語を構築した際にはどのようなことが起きるであろうか。大きな物語の永久性はフィクションであれば失われることはないが、現実に完璧な永久はあり得ないために、最も強固でありながら最も脆弱な現実あるいは現代という世界観による物語構造についても論証する必要がある。

例えば、我々は東京オリンピックの開催を2020年に控えることとなったが、この数字に驚嘆した特撮ファンも多いのではないであろうか。これは『ウルトラQ』第19話「2020年の挑戦」というサブタイトルと同じ数字である。[13]

この話に登場する怪獣「ケムール人」は、高度に医療が発達し500歳にまで到達した未来人で、しかし老いには逆らえなくなったため、地球にやってきては人間の若い肉体をさらって自らの出身地へ送り込むのである。劇中では語られなかったが、ケムール人の出身は「ケムール星」であり、未来人というからには未来から、これは劇中でも2020年から来たと語られている。単純に恐怖の宇宙人とその事件のモチーフとなった年代ということだけでも不気味であるが、それ以上に我々が妙な感覚に襲われるのは、あの頃の未来が、現在あるいは過去になりつつあるということである。

このことは「怪獣ブーム」の衰退と何か関係があるのであろうか。約五十年前の作品『ウルトラQ』のなかでフィクションとして語られた未来は、一体どれだけのことが夢のまま終わり、どれだけのことが実現あるいは過剰に膨れ上がって暴走し始めているのであろうか。ヒーローの描く理想はいつまでも理想のままであるかもしれないが、それに対峙する現実や課題つまりは「怪獣」の未来は、思い描いたままになったのであろうか。『ウルトラQ』において怪獣は「怪現象」であった、つまり「未来からやって来た」というよりも「未来に現れた」という感覚のほうが近い。「かもしれない」というアンバランスさが鍵となるのであるが、具体的な年代を設定することによって未来感を醸せるとともにいつかそれを追い越してしまうというデメリットもある。ことによると、「かもしれない」は思い過ごしであった、と考えることが可能となってしまうのである。

こうした時代を追い越す感覚は八本正幸の『怪獣神話論』中にては「設定された未来をいつしか自分が通り越していることから生じる、逆デジャ・ヴュ」と表現されている。[14]

「逆デジャ・ヴュ」が起きてしまうともはや、未知のものであるはずの怪獣に対して既知の感覚しか抱けない。怪獣本来の恐怖というより、違和感が生じてしまうのである。

「ゴジラ死す」というキャッチフレーズがそのまま怪獣ブームの衰退を表現しているような雰囲気のある『ゴジラVSデストロイア』(1995)であるが、公開同年に阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などが発生することによって、いくら我々の世界観を借りているとはいえスクリーンの奥で暴れる怪獣に対してよりも、現実に起こる悲惨な風景のほうにより怪獣的な動機を感じざるをえない時代となっていることを思い知らされた。また、同年には『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)の放送がスタートし、世界が終わった後の物語が描かれることのほうが圧倒的に多くなってゆく。すなわち、世界はすでに一度終わってしまっているのである。怪獣がそれらを破壊することよりも先に、我々が自身の手で破壊することによって、未来が訪れてしまったのである。 

そうした状況の中でも、緊張感を保ち続けている「怪現象」も存在する。「怪現象」というからには、その発生には必ず因果関係が存在するのであるが、原因がすでに存在しているにも関わらず結果がまだ訪れていない状態であれば、その先見性は状況が続く限りいつまでも緊張感を保ち続ける。

例えば『ウルトラQ』第11話「バルンガ」には、いわゆる破壊型の怪獣ではなく地球上のエネルギーを吸収するだけにすぎない「バルンガ」という怪獣が登場する。この怪獣は地球に帰還するはずであった土星探査ロケットのサタン1号が起こした墜落事故の際に一緒に飛来したとされ、劇中では「風船のオバケ」などと呼ばれている極めて謎めいた宇宙生命体である。[15]

その存在を唯一20年前に発見し、学会で発表するものの爪弾きにされてしまった奈良丸博士はその存在を「バルンガは怪獣ではない。神の警告だ。」という印象的な台詞で表現している。最終的には国連が宇宙に人工太陽を打ち上げたために、そのエネルギーの大きさにつられてバルンガが地球を去ることで物語は完結する。しかしその対策が永久のものでないことは誰の目にも明らかである。人工太陽のエネルギーを食い尽くしたバルンガは、本来のエネルギー源である太陽に矛先を向けるであろうから、「太陽がバルンガを食うのか、バルンガが太陽を食うのか」は誰にも分からない。要するにバルンガは死んではいないため、いつまたこの地球がエネルギー不足に見舞われるかも知れないのである。バルンガが東京上空にいる間、長い停電の中で登場人物たちは自転車で移動をし、自家発電をし、生活そのものが混乱を極めるとともに都会の喧噪からかけ離れた「静かな朝」を迎える。その光景を見て我々は、バルンガの現れたエネルギー不足の世界がアンバランスなのではなく、エネルギーに頼り切った現在の生活こそがアンバランスなのではないかという感覚に陥るのである。これはエネルギーに頼る生活をする限り、終わりなくその強迫観念は強まってゆく。バルンガの生存に関していえば、再来の可能性は高まるばかりである。

しかし、特定された年代になっても原因すら存在しない場合、または既に因果が完結したが何も問題がなかった場合、特に後者の場合は「怪現象」は単なる「現象」になってしまうため、既知の感覚しか味わえないこととなる。また、「2020年の挑戦」のように仮に具体的な年代を設定しなくとも、社会情勢や当時の事実に関するちょっとした発言あるいは行動で、これは昔の話なのだと、未来の話ではないのだと覚めてしまう部分は否めない。例えば、バルンガの影響で連絡が取れなくなったことを強調する場面では、黒電話が登場している。また、飛来したきっかけが土星探査ロケットであるというのもいずれ古臭くなってしまう危険性が高い。

当時にとっての未来が、いつまでも未来であるとは限らない。未来が現在となる恐怖には勿論であるが、それ以上に未来は過去となりこの先は起こり得ないという安堵に我々は導かれてしまう。未来に現れる設定を、何年たっても未来のままに保つのは非常に困難なのである。未来は過去になるのを恐れ、なかなか現代に現れようとしない。「逆デジャ・ヴュ」の発生は、未来を舞台に設定する上で防げるものではない。すると危機感を保ち続ける作品を作るためには、我々は未来に起こるかもしれない惨劇を防ぐことではなく、過去に起きた惨劇を繰り返さないことをそのメッセージに据えなければならない。その点で最も成功していると思われるのは『ゴジラ』であり、「ゴジラ」は原爆の恐怖を伝えるものとして、未来の恐怖というよりは過去の惨劇として描かれていると私は思う。のちの『ゴジラVSヘドラ』(1971)では公害、『ゴジラVSビオランテ』(1989)ではバイオテクノロジーというように、対峙する現実問題をこれほど常に変化させてきた怪獣はそう多くないであろう。しかしそんな「ゴジラ」でさえも、2014年に公開を控えた海外版を除けばシリーズ存続の兆しはなく、すでに死したものとなってしまっている。[16]

未来から過去へ送るメッセージは永遠には持続しないため、怪獣たちは過去から未来へ、それもある一点で結末を迎えてしまう未来ではなく未来永劫響き続ける警鐘を鳴らさなければならないのである。

 

第2節 過去へ帰る怪獣

初代『ゴジラ』に原点回帰するかたちで公開された『ゴジラ』(1984)の公開当初のキャッチフレーズは「1954年のゴジラに帰れ」であった。彼ら怪獣が再び恐怖の存在として君臨するには、もはや過去を真似ることが最たる得策となってしまったのである。怪獣は既に過去のもの、古いものと化しつつある。商業的な観点から怪獣映画の放映が数えるほどしかなく利益が少ないということもあろうが、それ以上に我々の精神的な感覚として、怪獣なんてもう古いという概念が染みついているのではないであろうか。現在はリバイバル的なブームもあって敢えて昔ながらの特撮を駆使した作品もいくつか制作されはているが、2012年の「特撮博物館」開催からも分かるように、特撮はもはや「博物」と化してしまった。怪獣の背負う大きな物語も未来のものではなくなってしまっているが、それ以上に深刻なのは、特撮怪獣という表現形態が次々と塗り替えられ、未来が過去へと追いやられる速度が年々加速していることである。

怪獣たちの鳴らした警鐘には未来に向けてのものでありながら、その物語性の云々に関わらず、特撮という「技術」に依存する部分の多いジャンルであることもあり「古さ」が簡単に含まれてしまう。怪獣すなわち現象の生じる可能性は時代が進歩すればするほど拡大し、先見性すら通りこした「逆デジャ・ヴュ」状態であれば爆発的に高まっているという焦燥感は今だからこそ感じることができる。しかしながら「子供騙し」という感覚が、当時最新であったとしても現代においては過去の産物となってしまった特撮技術に想起されてしまう部分もまた否めないのである。また現在の特撮はCGが主流となっているが、いかに精巧なCGを駆使しても本物に見える映像を作り出すことは難しい。いくら偽物とはいえ特撮による破壊が1回性のものであることに対して、CGその他の技術には反復性があることは我々の実感として大きいであろう。このように皮肉にも映像技術が進歩しすぎたために、影や煙で一部が見えなかったりピントが合っていなかったりといった予想外さに込められたリアリティーまでもが損なわれてしまったのである。あるいはCGすらもう古い技術と化しているため、誰も騙されてはくれないのかもしれない。もはやゲームやアニメーションにも多用されるCGは特撮にのみ登場する特殊技術ではなくなっており、特撮は特撮だけがもつ「特殊」性を失ってしまったのである。

怪獣が実在として存在し得る時代は終わってしまったのであろうか。少なくとも現存する多くの作品に関してはそうであろう。この先本物と区別のつかない技術が新たに生まれたなら怪獣は再び息を吹き返すかも知れないが、しかしその怪獣がまた古くなってしまうのも時間の問題である。

その怪獣が怪獣たりえるには、我々は騙され続けなければならない。そして仮に偽物だと知った上で対峙したとしても、本気で騙された時と同じ驚きや恐怖を抱かなければならない。

その点で興味深いのが、第20話「海底原人ラゴン」に登場する「ラゴン」である。[17]

ラゴンはかつて地球を支配していた怪獣あるいは旧人類で、人間と等身の大きさであるため、幾度かミニチュアを使っている場面や海底火山の爆発に特撮を駆使している場面はあるものの、基本的には大怪獣がミニチュアの街を破壊するような特撮シーンは登場せず、ただ人間と着ぐるみとだけが登場する珍しいケースである。この話には舞台となる岩根島が地盤の影響で沈むのではないかと推測する石井博士が登場し、ラゴンの卵がそうした中で海底から地上へと転がってきたのではないかという奇想天外な発想で事件を捉えている。映像制作そのものの古さも含まれにくいことに加えて、その物語性にも地震が起きる度に警鐘が鳴り渡るような永劫性がある。ラゴンは先に島に上陸してしまった卵の母親で、それを探すために多少の破壊はしたものの、取り戻すなり静かに海の底へと消えてゆく。ラゴンのそうした母性に共感できるのは、ラゴンは我々であるということを誰もが薄々感じているからである。この話に沿っていえば、岩根島が地震によって沈むのは前兆にすぎず日本も沈没するという災厄を我々よりも先に被ったのがラゴンであり、我々もラゴンになってしまうのだということをその後ろ姿に認めざるを得ない展開となっている。怪獣は過去から未来へと咆哮しなければならないことは先に述べたが、それはこのように過去に実際にあった出来事として戦争や災害の資料映像のように存在しなければならないということである。その古さが価値を失うどころか希少なものとして重宝されなければならないが、しかし今のところ特撮という技術は古さに価値を失っている部分が大きいのである。「海底原人ラゴン」でいえば、ラゴンの雌親が着ぐるみであることは人間らしさが溢れているという観点から目をつむるにしても、卵及びそこから生まれる子供の偽物としての違和感は拭いきれない。その点だけが非常に惜しい作品で、それはおそらくどんなに本物そっくりに作った人形やCGであっても、それが偽物であるということに我々は安心を得ようとしてしまうのである。

我々が新たなバランスを得れば得る程、アンバランス・ゾーンに潜む彼らは迫害をされ続ける。特撮というジャンルの怪獣1体1体の命は画面内ですぐに倒されてしまうように、時代の中であっても決して長くはない。怪獣たちはただ種族としての存続を目指すしかなく、偉大な祖先として語り継がれるほかないのである。

 

第3節 アンバランス・ゾーンとはどこなのか

 「怪獣もの」は基本的に単発の作品にしかならない。シリーズが28作品も続いているゴジラ映画ですら、毎回新しい怪獣との対決形式に依存せざるを得なかった。ウルトラシリーズのようなTVシリーズでは特にそうした特徴が顕著で、毎週異なった怪獣が登場しなければ番組として価値が低いとでもいった風潮がある。それはブームの波に乗ることができた作品とそうでない作品との差を見れば明らかなことであろう。彼らは小さな物語しか表面的には持ち合わせていない。人間やヒーローにとって、怪獣を倒すことは最終的な物語の結末ではなく、いくつかある過程のうちのひとつでしかない。倒せない怪獣や、倒さなくてよい怪獣が現れた場合にはなおさらである。だからこそ怪獣に魅了された者は図鑑でその背景を知りたがり、人形や自分の肉体を使っていわば怪獣の二次創作をして遊び、怪獣はまだ生きているかあるいはまた現れるに違いないと期待するのである。それはすなわち、我々がこの世界に起こる数々の現象を知りたがり、その中で生き、希望あるいは絶望を抱くことに他ならない。ひとつひとつの怪獣は死んでしまっても、大きな物語としての我々の現実がそこにあるならば、「怪獣」という存在そのものは確かに生き続けるであろう。『ウルトラQ』で後世に語り継がれるという意味で生存に成功した怪獣たちも、30分という極めて小さな物語にとどまらず、あるひとつの大きな物語に生存圏を得ていたのである。『UNBALANCE』という世界観は、何にとってのアンバランスかと言えば、我々人間にとってのアンバランスである。人間にとってバランスの崩れた世界が存在する限り、彼らも息をひそめながら存在し続ける。テレビの中のヒーローたちはいわば完璧な秩序の体現者であり、フィクションの存在でありテレビの中の存在である。彼らには、この世界ではなくそれぞれに架空あるいは理想の大きな物語が設定されているためである。しかしながら怪獣たちは、我々の完璧などない無秩序な世界に、決して活躍はせずとも、姿を現さずとも、そうしたアンバランス・ゾーンの中に棲んでいるのである。人類を奮い立たせる存在としての怪獣に対峙して初めて、我々はこの世界のバランスを知るのである。

 『UNBALANCE』は怪獣ブームの火つけ役の作品というよりも、怪獣にとって棲みやすく人間にとって居心地の悪い世界観そのものである。この世界を題材とした怪獣もの全てに脈々と流れる血であり、過去と未来の狭間で薄れつつも確かに受け継がれてきた物語である。受け継がれる以上は流動的なものであって、断固として変容を許さない概念などではない。その時代において最も迫真であるためには、その時代ごとに変化することが必要不可欠である。我々の世界が無常であるように、アンバランス・ゾーンもまた固定的なものではない。純血種として過去のままであることなく、むしろ混血を繰り返し薄めながらも絶やさないことが、矛盾するようではあるがアンバランスさを保つ唯一の方法なのである。怪獣ブームは衰退したと思われる点も多々あるが、当代的な新しいアンバランス・ゾーンが展開されることを期待してみたい。

 

第5章 おわりに

 ヒーローに対してよりも、怪獣に対してのほうが感情移入しやすいという人も多いのではないであろうか。破壊に対する羨望と、不思議なものを知りたいという興味と、弱者としての哀愁と、いつ本性を現すかもしれない恐怖と、存在そのものだけではなく我々が抱く感情さえも無秩序である。そんな彼らにはどこか親近感があり、愛嬌すら見え隠れしている。それは我々が無秩序で理不尽な現象に対して理解が及ばず、許せないと思うからこそである。もし我々がそうしたものに対抗したいという意志を持たなければ、怪獣の登場に対する需要などはなくなってしまうからである。そうした背景のため、彼らは常に、理想の裏返しとしてしか存在できない。そんな彼ら自体にというよりも、彼らが出現し得る世界のほうに我々は苛立ちを感じ、心のどこかで怪獣を応援したくなるのである。そんな感情はしかし、現代に至っては非常に薄れているように思われる。近年の怪獣は、完全な敵役としてか、妙に感情移入を強要してくる主役として登場するようになった。しかし『ゴジラ』や『ウルトラQ』において、怪獣は確かに見どころのひとつではあったが、主人公はあくまで人間であった。人間が「怪現象」に立ち向かう姿こそが「怪獣もの」の真の魅力である。怪獣を人間に代わって倒してくれるヒーローが現れてから、我々は「怪獣もの」の主人公を失ったのではないであろうか。誰かがなんとかしてくれるからと、目の前の問題を自分の問題としてとらえなくなってしまったばかりではない。もはや現象に、怒りも悲しみも感じることなく、ただ流されるように諦める風潮がとりわけ3.11震災後に強くなったように思う。我々が怪獣に感情を抱き、怪獣を倒そうとしなければ、対象としての怪獣は現れないであろう。それはテレビ画面やスクリーンにという意味だけではなく、我々の精神の拠り所としてもそうである。怪獣が現れなければこちらも倒すことができないが、我々が望むならば、むしろ彼らは倒されるために我々の前に現れるであろう。その時に怪獣と向き合える時代がこの先再びやってくることを、切に願っている。

 「怪獣ブーム」は、文化史というよりも精神史として捉えたほうが良いのかもしれない。世界観というのは、作り手が丹念に築き上げなければならないのは勿論であるが、我々受け手にとってもただ享受するだけのものではない。シナリオとして構築された大きな物語は作り手の占める部分が大きいが、この世を大きな物語とした場合にはその世界観を構築したのは巡り巡って我々ということになるのである。ただそこにある現象を、作り手はただひとつの切り口で表現しただけにすぎない。わずかに角度を変えるだけで、そこには別の物語が広がることであろう。だからこそ作り手だけではなく我々が、いわば全人類の手によって怪獣を創造してゆける想像力を持つことでそれは可能となるはずである。仮に時代遅れやネタ切れといった感覚が生ずるとすれば、それは我々が怪獣たちの大きな物語すなわちこの現実にそういった思いを抱いているも同然である。怪獣は架空の存在でありながら、現実の体現者であった。現実味のない現実ではなく、怪獣への視線はより迫真性を帯びた現実を直視することに繋がっているのである。「怪獣ブーム」とは「超現実ブーム」といっても決して過言ではないであろう。超人ではなく超現実そのものが主役たる特撮怪獣は、もう二度とブームにならないのであろうか。そうではないと、本稿では怪獣たちの可能性に期待したい。彼らが闊歩し、咆哮し、そして我々がそれに対して葛藤し、勝敗どころか生死を懸けて挑む姿をもう一度見られる日が来ることを信じている。



 

 

[] 高橋敏夫『ゴジラが来る夜に 「思考をせまる怪獣」の現代史』(集英社 1999)

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[] 『ウルトラQ』第22話「変身」

[] 『ウルトラQ』第25話「悪魔ッ子」

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[10] SuperStringsサーフライダー21『ウルトラマン研究序説』(中経出版 1991) 

[11] 遠藤徹「怪獣学原論への助走:マイケル/パンク/怪獣」(同志社大学「言語文化」3号 2000年8月)

[12] 大塚英志『定本物語消費論』(角川書店 2001)

[13] 『ウルトラQ』第19話「2020年の挑戦」

[14] 八本正幸『怪獣神話論 PCCブックス 3』(青弓社 1998)

[15] 『ウルトラQ』第11話「バルンガ」

[16] Godzilla 2014 Film By Gareth Edwardshttp://www.godzilla-movies.com/(2013年11月23日閲覧)

[17] 『ウルトラQ』第20話「海底原人ラゴン」

 

参考文献

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