「ガンプラ」―組み立てられる物語とキャラクター

河原塚晃芳

 

第一章 はじめに

第二章 「ガンプラ」とは何か

第一節 プラモデルの歴史―プラモデル以前の模型

第二節 プラモデルの歴史―プラモデルの誕生

第三節「スケールモデル」

第四節 「キャラクターモデル」

第五節 「ガンプラ」の誕生

第三章 「ガンプラ」の消費

第一節 『MSV』―物語としての「ガンプラ」

第二節 『プラモ狂四郎』と『SDガンダム』―キャラクターとしての「ガンプラ」

第三節 「ガンプラ」のアップデート

第四節 「ガンプラアニメ」の出現

第四章 おわりに

付録、注釈、参考文献

 

第一章 はじめに

 本論は、株式会社バンダイから販売しているテレビアニメ『機動戦士ガンダム』をはじめとするガンダム作品に登場する「モビルスーツ」や「モビルアーマー」と呼ばれる機動兵器のプラモデル、通称「ガンプラ」におけるユーザーの消費を、大塚英志の「物語消費」や東浩紀の「データベース消費」の観点から論じていく。

テレビアニメ「機動戦士ガンダム」は以下のようなあらすじとなっている。 

 

「宇宙世紀0079、宇宙に建造されたスペースコロニーと呼ばれる巨大な6個の人工都市へ、増えすぎた人口を移民させるようになって、半世紀が過ぎようとしていた。国境のない空間は、それぞれひとつの行政区間として限られた自治権を持ち、それぞれサイド16というネーミングで識別されて人類の第二の故郷となっていた。だが、7個目のスペースコロニー『サイド7』が完成して間もなく、相対的に多数となったサイドの人間と地球に残った人間との対立が表面化し始めた。事を起こしたのは革命家ジオン・ダイクンの共和国設立の意志を継ぐことを主張するザビ家独裁下にあるサイド3であった。ところがザビ家は巧みに世論を誘導して『ジオン公国』による独立へと目標をすり替えてしまったのだ。ザビ家は地球連邦軍に対して独立主権を主張して人型軍事兵器モビルスーツを中核とする機動部隊で電撃戦を仕掛けた。ジオン側は連邦軍のサイドのほとんどを破壊し、瞬く間に地球の半分を占領してしまった。しかし、連邦軍はガンダムの開発に成功したことで反撃の糸口をつかむのであった。決め手に欠く戦局は長期化の様相を呈したが、ザビ家の崩壊とガンダムの所属するホワイトベースの活躍により、事態は収束へと向かうのであった。後にこの戦いは『一年戦争』と名付けられて歴史に刻まれた。」[i]

 

 

 日本サンライズ(現サンライズ)によって制作され、名古屋テレビをキー局に一九七九年四月に放送開始された『機動戦士ガンダム』は全五十二話の予定だったが、放送途中の四十三話で打ち切りとなってしまう。これは番組スポンサーであるクローバー社から発売されたダイカスト(亜鉛合金)製玩具 1の売れ行きが極端に低く、そのためにクローバー社がスポンサーから降りてしまったことが原因である。しかし、玩具が売れなかったからといって作品に人気がなかったわけではない。『機動戦士ガンダム』は当初、玩具のメインターゲットであった低年齢の児童よりも『宇宙戦艦ヤマト』のアニメブームにより増加した十代~二十代のアニメファンからの人気が強かった。その後、番組終了後の一九八〇年三月からの再放送や一九八一年三月の『機動戦士ガンダム』、同年七月の『機動戦士ガンダム・哀戦士編』、一九八二年三月の『機動戦士ガンダム・めぐりあい宇宙編』と三度に渡る映画化などによって人気は益々上昇した。ガンプラは、放送終了後にプラモデルの商品化権を取得したバンダイによって一九八〇年七月に発売した「1/144 RX-78ガンダム」 2を始めとして次々とシリーズ展開を行い、一大ブームとなった。それから一九八五年には続編の『機動戦士Zガンダム』や二〇一四年十月放送中の『ガンダムビルドファイターズトライ』と『ガンダム Gのレコンギスタ』など、断続的ではあるが、ガンダムシリーズとして現在も新作が作られ続けている。そして、新作が発表されるたびに商品展開として登場するモビルスーツのガンプラが作られる。ガンプラは発売開始から三〇年経った二〇一〇年には、累計生産数量四億個を超えるという驚異的な記録を打ち立て、今なお更新され続けている。

 『機動戦士ガンダム』という作品が人気の出た理由はいくつかある。

 まず、第一に『機動戦士ガンダム』の世界観が年代記という形態をとっている点が挙げられる。「宇宙世紀」という架空の歴史を生成することで、展開される物語は壮大な未来史の中にある一場面にすぎないとすることで物語に奥行きを与え、さらに背景にある細かな設定や根拠となる科学的な考証により、マニアの心をつかんだ。また、番組終了後も、物語世界を拡張していくことが可能という思わぬ誤算を産んだ。いわゆる「ガンダムサーガ」の誕生である。ガンダムサーガというリアルな虚構の歴史の存在は、大塚英志が『定本物語消費論』で述べているように「大きな物語」が欠落し「虚構の歴史」で代替するようになってしまった一九八〇年代の想像力とは密接につながっていると考えられる。このことについては、第三章にて詳しく述べていく。

次に、兵器として設定されたモビルスーツに魅力があった。『機動戦士ガンダム』以前のいわゆる「ロボットアニメ」に登場するロボットとは異なり、モビルスーツは兵器として設定されている。ザクは戦車や戦闘機といった実在の兵器のように量産された兵器として描かれ、その発展型として登場する「グフ」「ドム」「ゲルググ」などのモビルスーツの詳細なスペックや開発史が明確に設定されている。 3その設定が第二次世界大戦での兵器開発史と相似していることや、ナチス・ドイツを思わせるジオン公国、「ソロモン攻略戦」や登場人物の「カイ・シデン」など、戦後の子どもの娯楽であった「戦記もの」の雰囲気とその伝統を引き継いでいると考えられる。そうすることで物語の中の戦争にさらなるリアリティを与えた。

そして、主人公の「アムロ・レイ」をはじめとする登場人物たちが戦争という現実に巻き込まれつつも、多感な十代を生きている姿。随所で描かれている食料に関する描写など、キャラクターが生きていることを強く訴えた。また、アムロのライバルとなる「シャア・アズナブル」をはじめとするジオンのエースパイロットたちの存在も作品の人気に一役買っている。

これらの点から、架空の物語にリアリティを付与し、説得力を持たせたことが『機動戦士ガンダム』が人気を生んだと言えるだろう。

これまで『機動戦士ガンダム』という作品に対して論じているものは数あるが、ガンプラについて論じているものは今柊二の『プラモデル進化論』や猪俣謙次,加藤智の『ガンプラ開発戦記 -誕生から大ブームまで- 』のように商品としての経済的な効果や技術の進化についてのものが多く、その消費の特異性については触れられていない。

 ガンプラは、『機動戦士ガンダム』をはじめとするガンダムシリーズの商品として消費されるだけでなく、ユーザー独自の塗装や改造を施すことで、本来の作品には存在しないキャラクターを生み出すことができる 4。これは実際に存在する自動車や戦車などの縮尺模型である「スケールモデル」では中々起こりにくい現象である。スケールモデルでは、元になった実物が存在し、その実物に近づけることに力が注がれている。ガンプラは、『機動戦士ガンダム』に存在する宇宙世紀という架空の歴史を背景に商品化をしている。ガンプラはその物語を消費するという形で展開し、描かれていない部分を想像したユーザーによって、オリジナルのガンプラが作成されている。そして、ガンプラで作られたオリジナルのキャラクターが、ガンダムの世界に組み込まれることで物語を付与され、また消費されていく。つまり、ガンプラというメディアを通してユーザーが物語やキャラクターを生み出し、プラモデルの中でガンダムの世界を消費しているのである。

 『機動戦士ガンダム』に始まるガンダムシリーズのメディア展開のひとつとしてのガンプラ。そのガンプラ特有の消費のされ方について、プラモデルの誕生から順に追いつつ論じていきたい。

 

第二章 「ガンプラ」とは何か

 

第一節   プラモデルの歴史―プラモデル以前の模型

 ガンプラについて論じるためには、まずプラモデルがどのように成立し、受容されていったかを説明する必要があるだろう。日本で初の国産プラモデルが発売したのは一九五八年のことである。ガンプラが誕生したのが一九八〇年と約二〇年間にどのようにプラモデルが発展していったのか。

 現在、模型と言えばプラモデルを連想する人が多いように思われる。だが、プラモデルの誕生以前よりも模型は存在していた。プラモデルのメーカーの多くが元は木製模型やブリキやセルロイド製の玩具のメーカーであったことも含め、まずはプラモデル成立以前の歴史について触れていきたい。

 模型とは、実際の事物をまねて作られたものという意味である。日本は古くから土偶や埴輪のような呪物や副葬品など、人間は事物を小型にかたちどる「模型の文化」というものがあった。小さな箱の中に家や橋、草木などを置いて庭園や山水を模した箱庭はその典型的な例と言えるだろう。箱庭の文化は後のジオラマ(情景模型)に思想は受け継がれている。そのほかにも、からくり人形や一八五四年にペリーが手土産として蒸気機関車の四分の一の模型をもってきて実演してみせるなどの時代を経て、一八七九年前後に東京築地挽町の「日の出屋」という「鉄道模型」を扱う店が蒸気エンジンやモーターなどを販売したのが、日本の商業用模型の始まりという。

 次に現れたのは、当時最新の乗物だった飛行機の模型である。ライト兄弟の人類初となる飛行操縦の五年後の一九〇八年には、野辺地四郎という船員によってアメリカから模型飛行機が持ち込まれ、それを模して作ったものを神田今川小路の「?屋」(ののやと読む)で販売したのが始まりとされる。他にも、浅草馬車道で石川邦次郎兄弟が、神田駿河台で田島稲津が「福寿堂」を開店するなど、この年には複数の模型飛行機の店が開店した。このころの模型飛行機は、「ライトプレーン」というゴム動力がついた一本棒の胴体に翼を付けた簡単な形式だったが、数年のうちにA字型と呼ばれる双プロペラ式のものや銅線で胴体と翼を作り、薄い羽を二重に張った針金飛行機などが登場し、改良が続けられた。また、当時の模型飛行機の値段は一円二〇銭で、現在の感覚で数千円~一万円と決して安いものではなかった。

 日本に本物の飛行機が到来したのは、「ののや」の開店から二年後の一九一〇年の一二月のことであった。徳川好敏工兵大尉と日野熊蔵歩兵大尉による動力飛行機操縦実演が行われたのだ。東京代々木練兵場での五日間の実演を、三十万人以上の人間が見物したと言われている。このイベントの成功により、翌一九一一年には模型飛行機が爆発的な流行を迎える。模型や飛行機に関する書籍も多く出版され、新聞社や前述した福寿堂などの模型屋主催による模型飛行機の競技大会も開催され、ブームを盛り上げた。競技大会が行われたことが、後に完成度や技術を競うプラモデルのコンテストにつながっていく。また、日本各地に誕生した模型飛行機の愛好者たちの集まりや同好会が模型ファンの礎となっていった。

 その後、模型飛行機は大正時代になるとブームが次第に沈静化していったが、その間も従来のゴム動力のほかにエンジン搭載機が登場していたり、ゴムを角胴の中に入れて空気抵抗を減らして単プロペラのトラクター式構造に改良した機体が登場するなど、技術革新は続けられていた。

昭和になると再び模型飛行機にブームが訪れる。一九二七年アメリカのリンドバーグの大西洋横断無着陸単独飛行成功や一九二八年の帝国飛行協会主催の第一回全日本少年模型飛行機競技大会の開催など、大々的なイベントによりファン層を拡充していった。そして一九三〇年、リンドバーグに刺激を受けた「報知新聞社」がドイツから水上飛行機「ユンカース」を購入し、「報知日米号」と名付け、飛石伝いに太平洋横断飛行する計画を立てた。その水上飛行機の模型を、浅草田中町の寺島仙太郎夫妻が作成して売り出したところ人気となり、それを端に昭和初期の第一次模型ブームが起こった。その頃のブームを表す逸話として、寺島の営む模型店に出入りしていた模型マニアがその設計図を手直しして新聞社に持ち込んだところ、新聞紙上に図面が掲載されたという話がある。また、一九三七年に国産の新鋭偵察機「神風号」で東京、ロンドン間の連絡飛行に成功した「朝日新聞社」も神風号の組み立て模型を配布していた。だが、官民有識者による「国策上重要な航空知識普及に効果のある模型飛行機なのに、模型商人の営利目的にのみ使われている」という批判の声が挙がったことや過剰生産による競争激化も重なり、またしてもブームは去ってしまった。

 ブームとしての模型飛行機は下火になったが、その原因でもあった業界への批判や乱立した同業者間のトラブルなどに対して業界としてまとまる必要を感じ、一九三三年に東京で「八日会」という親睦団体が結成された。八日会は模型飛行機を普及させるために、軍や文部省に模型飛行機を通じての国民教育の必要性を強く訴えた。軍事教育と後に到来するであろう航空機時代へ対応するための総合教育の一環という、二つの教育目的で提言された。その後、太平洋戦争勃発直後の一九四二年、文部省より「模型飛行機教育課程」が実際に公布され、学校教育として初等教育から高等教育まで模型飛行機が指導された。

 ここまで説明してきた模型飛行機は、ゴムなどの動力を用いて飛ばすことを目的にしているが、一方で博物館などの展示や観賞用として作られた「ソリッドモデル」という実物の飛行機を縮小させた模型も存在した。当初はソリッドモデルという名前は馴染まず、「標本縮尺模型」や「実態模型」と呼ばれていた。最初は木製であったソリッドモデルも一九四〇年頃には、セルロイドが模型パーツの素材として使われるようになると、エンジンやプロペラ、旋回機銃などの部品がより精密に作れるようになり、ソリッドモデルの人気も高まった。また、飛行機以外では艦船などもソリッドモデル化されていた。観賞目的としてのソリッドモデルの存在は、後のプラモデル、特に実在の戦車や艦船を縮小させたスケールモデルの原型と言えるだろう。

 

第二節 プラモデルの歴史―プラモデル誕生

 世界で最初のプラスチックモデル・キットは一九三六年イギリスで生まれた。飛行機のエンジニア出身のチャールズ・ウィルモットとヨセフ・マンソルの二人が一九三〇年に設立した模型飛行機の販売会社であるIMA(International Model Aircraft)社が、「ペンギン」シリーズという名前で販売したのが最初と言われている。「ペンギン」という名前の由来は、IMA社がこれまで販売していた模型飛行機は、ゴム動力やエンジン付きなど実際に飛行するモデルだったので、それに対しての「飛ばない」飛行機ということで飛ばない鳥=「ペンギン」と名付けた。このキットは七二分の一スケールで、一九六〇年代のスケールモデルのようなパーツ構成とデカール[ii]や接着剤に塗料までセットされていたという。「ペンギン」シリーズはイギリスの爆撃機や戦闘機を発売していった。このほかにも、一九五六年にイギリスのエアーフィックス(Airfix)社も七二分の一スケールの「スピットファイアMk.Ⅳ」など飛行機の模型が中心であった。イギリスで誕生したプラスチックモデルは、第二次世界大戦後にアメリカでブームとなる。アメリカは飛行機だけにとらわれず、自動車、軍艦などもキット化していった。海外で生まれたプラスチックモデルは、戦後しばらくは輸入された商品しか日本国内には存在せず、一個単価も高価であった[iii]

初の国産キットが誕生するのは一九五八年、マルサン商店の「ノーチラス号」である。マルサン商店は、石田直吉が一九二三年に設立した幻灯機やブリキ玩具を取り扱っていた石田製作所をルーツに持つ。一九四〇年に直吉が他界し、一九四五年三月一〇日の東京大空襲で石田製作所がなくなった後、石田晴康と弟の實、晴康に義弟の荒井康夫の三人で一九四七年にマルサン商店を創業し、一九五〇年には株式会社として玩具メーカーとして本格的なスタートを始める。

 一九五〇年代になると、マルサン商店はブリキ製玩具の大手メーカーとなっていた。国外への輸出に目を向けており、一九五三年のキャデラックやシボレー・ベルセア、メルセデス・ベンツなどのブリキ製玩具で国内外の評価を高めた。そして、その当時社長であった石田實は一九五七年に商談と視察のために渡ったアメリカでレベル社のプラスチックモデル・キットを見つけた。石田はそのいくつかをサンプルとして持ち帰り、製品化を検討し始めた。プラスチック製品は、インジェクション(射出)成型という方法で成型されるのだが、当時の日本の玩具業界にとってプラスチックの成型やその金型の作り方は未知のものであった。それから一年がかりでの開発の末、一九五八年一二月に四種類のキットを発売する。その一つが、先述の「ノーチラス号」である。

一九五四年に竣工された世界初の原子力潜水艦を三〇〇分の一スケールでキット化したものではあるが、これは石田がアメリカから持って帰ってきたレベル社製のノーチラス号のコピーであり、マルサン商店のオリジナルではなかった。なお、同時に発売された他のキットは「1/25 ダットサン1000」、「1/100 PT212哨戒水雷艇」、「1/200 ボーイングB-47ストラトジェット」だが、このうち「1/25 ダットサン1000」は神田淡路町にあった和工社が、日産自動車のダットサンのノベルティ用に作製したものをマルサン商店が買い取り、ラインナップに加えたのだという。そして商品名として「プラモデル」と名付け、そのネーミングを商標登録した。その後「プラモデルと呼べるのはマルサンだけ」という有名なキャッチフレーズを生み出し、キャンペーンを行っていった。そう、この段階ではプラモデルはマルサン商店が自社商品に付けた名称であって、現在のように日本のプラスチックモデル全般を指す言葉ではなかった。それがどのようにして現在のように使われるかについては、後で述べることにする。

かくして、マルサン商店は国産プラスチックモデルの開発に成功し、発売に至った。しかし、その売れ行きは芳しくなかった。中間問屋に未完成品や壊れたといったイメージを持たれ、取り扱いを敬遠されたこともあり、発売から数か月の売り上げは月一〇万円にも満たないという結果であった。そこで、マルサン商店は大きな賭けに出る。当時まだ新しかったテレビを使った宣伝を行うことにしたのだ。いわゆる、メディアミックスである。しかし、プラモデルの売り上げに対して、テレビには月二五〇万円もの費用が掛かる。そのため、テレビ宣伝費用はプラモデル以外の玩具の売り上げから持ってこざるを得なかったという。そうして、マルサン商店は新興の民放局であった「フジテレビ」で一九五九年六月から日曜日の朝一〇時からの三〇分番組、『陸と海と空』のスポンサーとなる。模型好きであった人気落語家の三遊亭小金馬(現、金馬)が司会をし、その日の話題にゆかりのあるゲストと飛行機や自動車や船にまつわる世界のトークが繰り広げられ、高視聴率を記録した。そして番組の効果もあり、放送開始後の一九五九年秋にはマルサン商店のプラモデルは生産が間に合わないほどの人気となった。やがて、マルサン商店のプラモデルの知名度を大きく上げた『陸と海と空』は、その後に参入してきた多くのメーカーが利するだけで宣伝費がかさむという判断により二年で終了となった。番組終了時には、マルサン商店のプラモデルのラインナップも三十点近くまで増えており、プラモデル業界で確固たる地位を確立した。

こうして、プラモデルは日本中に広く知れ渡るようになった。後続のメーカーも次々に参入し、第一次のプラモデルブームが起こったである。

 

第三節 「スケールモデル」

 一九六〇年代になると、木製模型を作成していたメーカーとブリキ製玩具を造っていたメーカーなど多くのメーカーが、まだ新しい産業であったプラモデル業界に参入してきた。その理由としては、先述の『陸と海と空』の人気と日本のプラスチック工業の発達、そして、戦前の玩具の素材として多く使われていたセルロイドの不買問題が考えられる。一九五四年、ニューヨーク市消防局が日本のセルロイド製玩具は発火性が高く、危険であるという声明を出した。このため、アメリカで日本製セルロイド玩具の不買運動が起こり、この動きを知った日本のデパートからもセルロイド玩具が撤去されていった。そのため、日本の玩具業界はセルロイドに代わる素材として、プラスチックに目を付けた。

 一九五九年に日本模型の発売したプラモデル、「伊号潜水艦」は、ゴム動力で自動浮沈するギミックで大ヒットとなった。「伊号潜水艦」のヒットで、以降のゴム動力や電動の潜水艦キットの多くは自動浮沈装置が組み込まれていた。当時の子どもにとって、プラモデルも決して安価ではなく、買ったからには遊べなくてはいけなかった。ただ飾るだけでは満足できなかったのだ。しかし、鑑賞用としてのプラモデルの楽しみを多くの子どもたちに教えるきっかけとなる動きが起きる。

  一九六〇年、三共製作所から飛行機の「ピーナツ」シリーズ、三和模型から戦車の「M」シリーズが発売されたのだ。

「ピーナツ」シリーズは、胴体に左右一体の主翼と尾翼を接着し、そこにプロペラ、風防、主脚を取り付けて、国籍マークのデカールを貼るというシンプルな構成で、第一弾の零戦をはじめとして「No.4 F-51D ムスタング」、「No.17 震電」のように主に第二次世界大戦の飛行機を中心とした百五〇分の一の統一スケールによるミニキットシリーズで、価格は三〇円であった。これはマルサン商店の「ノーチラス号」が二五〇円なのに対して、廉価で集めやすかった。また、種類も六十種類と豊富なことに加え、販売場所もそれまでの玩具店やデパートではなく、駄菓子屋や文房具屋を中心にしたことで子どもが集めやすく、人気となった。

三共製作所の「ピーナツ」シリーズが空のプラモデルで人気を博したなら、三和模型の「M」シリーズは陸である。「M」シリーズは、「マイクロタンク」の略で、鉄道模型のHOゲージ[iv]に合わせた縮尺にしていた。「M-48」のようなアメリカ軍の戦車や戦闘車両の全二〇種類ほどのラインナップで、値段は五〇円前後とこちらも廉価であった。

この二つのシリーズが与えた影響について、今柊二の『プラモデル進化論』で以下のように述べている。

 

 「さて、この両シリーズ(「ピーナツ」シリーズと「M」シリーズ)が模型史上、重要な存在であるのは以下、四つの理由がある。

まず、第一に統一スケールとスケール表示を行った点が挙げられる。大人向けの模型には戦前からスケール表示があったが、玩具の世界では鉄道模型を除いてほとんど存在していなかった。「どうせ子供のものだから、縮尺のサイズなんか関係あるまい、しょせん大きいものが好きだろう」という大人側の偏見があったのだろう。しかし、子供はいつの時代も「カッコイイ」ものを求めている。特に男の子にとっては、そのカッコイイものの範疇に「大人っぽい=リアルなもの」という重要な項目があるのだ。プラモデル自体、それまでは存在しなかったリアルさを再現できる玩具だったが、統一スケールもまた、そのリアルさを構成する一条件となっていたのだ。子供だって、B29より大きなゼロ戦はいやなのである。

第二に、種類の豊富さがある。統一スケールの登場は、「そのスケールに縮小された世界」を再現することを可能にした。つまり同スケールのプラモデルをコレクションして、「自分の世界を構築できる楽しさ」を子供たちは発見したのである。そのためには、世界を構成する部品であるプラスチックモデル種類が豊富でなければならなかったが、両シリーズはその条件を満たしていたのである。

第三に、低価格だったこと。経済力のない子供たちがコレクションするためには、低価格でなければならない。この両シリーズとも、価格は三〇~六〇円であり、子供にも手の届く値段だった。今でいえば三〇〇~六〇〇円程度であろう。この当時、子供たちの経済状態も激変期であった。高度経済成長時代の初期に突入し、給与所得者つまりサラリーマンが増加し、さらには都市部の膨張と経済情勢の変化にともない、農村地域が都市化していた時代でもある。このため多くの保護者に定期的な現金収入が確保され、金銭的な余裕が生じ始めた。自然と子供たちにも定期的な小遣いが与えられるようになり、以前よりは多くの子供たちが恒常的に小金を持つようになっていたのだ。それより昔、日常的に金銭を持っている子供は限られた存在であった。

そして最後に、作成の簡便さが挙げられる。両者ともプラモデルキットとしては非常に作り易かった。なんと「M」シリーズではキットによってはすでにパズル式のスナップフィット[v]も導入されていたのだ。そのため、子供たちは両シリーズの作成を通じ「モノを作る楽しさ」を理解するようになった。これらの楽しさを知り、成長した子供たちが、後に来るスケールモデル隆盛期の推進力となる。」[vi]

 

以上の点は、後の時代のプラモデルに影響を与えた。特に、統一スケールである点と種類が豊富な点は、複数集めることで世界観を構築して物語を作り出すという消費の仕方を活発にした。そのような消費のあり方は後のガンプラにも通じているといえるだろう。

この低価格帯のキットのヒットを受けて、マルサン商会や緑商会などのメーカーも低価格帯のプラモデル市場に参入したが、その後のメーカー間の熾烈な過当競争による倒産やプラモデルそのものの精密化、高度化が進んでいき、次第に市場から消えていった。

多数のメーカーが市場に参入し、模型業界が活発になったとき、ある問題が起きた。プラモデルの名称使用の問題である。プラモデルという名称は、既にマルサン商店が商標登録していたのは先述した通りである。プラモデルという新天地を開拓したという自負のあるマルサン商店にとって、他のメーカーが後から来て居座るのは面白くなかったのだろう。一九六〇年には「プラモデルと呼べるのはマルサンだけ」のキャッチコピーでキャンペーンを行いつつ、『日本模型新聞』(ジートッププレス発行)紙上で、登録商標、商品名「プラモデル」の名称使用についての侵害の警告を頻繁に行った。他のメーカーや小売店などで、プラモデルという名称は使えない状態がしばらく続いた。しかし、マルサン商店が一九六七年に倒産すると、商標権を玩具模型問屋の大手であった三ツ星商店が買い取り、それを一九七五年に日本プラスチックモデル工業協同組合に譲渡した。プラモデルの商標権を組合が管理することでこの問題は解決した。また、株式会社ブンカの保有していた「プラホビー」の商標権も無償提供された。そして、翌年には模型業界の連合組合である全日本模型協議会から、「官公用にプラスチックモデルの呼称を一般には愛称としてプラモデル、プラホビーの呼称を併用する」という旨が公表されることで、プラモデルという呼び名が現在のようにプラスチックモデル全般を指す言葉として使用できるようになったのである。

プラモデルが隆盛し、様々なものがプラモデルとなっていくが、その中心は兵器であった。本来、子どもというのは武器や兵器が好きなものだが、その当時の兵器のプラモデル人気は世相を強く反映したものであったと今柊二は『プラモデル進化論』内で触れている[vii]。戦後しばらくの間は、戦争の悲惨さを描いた戦記ものは存在したが、冒険活劇じみた懐古調の軍事物は求められなかった。戦争に国民がうんざりしていたのだ。しかし、米軍による日本の占領が一九五二年に終わると、旧軍を懐かしむ表現が解禁された。その流れで、戦争というものを直接経験していない世代の子どもたちは「情報としての戦争」を経験することとなる。「情報としての戦争」が展開されていったのが、「戦記漫画」や「兵器プラモデル」であった。戦記漫画で読んだ戦争を、そこに登場した兵器のプラモデルを作ることで相互に補完しあい、よりリアルな世界観を構築することができたからである。

一九六五年頃、模型業界を賑わかしていたのは、「スロット・レーシング」であった。一九五〇年代にイギリスで生まれ、アメリカで人気を博したスロット・レーシングはコースの路面に溝があり、それの上を車体底面部分に溝にガイドが用意された模型が走るというもので、鉄道模型の原理を応用して作られたものである 5。一九六四年の一一月に東京の後楽園に日本初の営業用サーキットが出来ると、その半年後には全国一〇〇カ所以上の営業用サーキットが作られるほどのブームとなった。しかし、このスロット・レーシングブームも一年ほどで終焉を迎えてしまう。レースを行うサーキットが「風紀上よろしくない」として小中学校で問題になり、出入りが禁止になったこととマニア層の増加により、お金をかけて改造したマニアたちばかりが勝つようになり、新規層が育たなかったことが原因とされている。

スロット・レーシングの存在は、プラモデルの消費のスタイルに変化をもたらした。プラモデルをはじめとした模型は、「組み立てる」という楽しみが終われば、完成品を見て「空想する」という楽しみがある。例えば、戦車のプラモデルなら、その戦車が活躍していた第二次世界大戦下のヨーロッパ戦線で、自分が作った模型が活躍することを空想する。模型完成後の「空想世界による遊び」という個人的な領域での想像力を、スロット・レーシングは共有させた。自動車の模型を走らせることで「空想世界による遊び」を現実化させたことに加え、他のレース参加者と本物のレースをしているように錯覚させる「仮想現実」を共有させることが出来たのだ。

 1/35戦車」シリーズや「ワールドタンク」シリーズなどの戦車モデルやスロット・レーシングで高い技術力を持っていた田宮模型(現タミヤ)は、説明書に戦車の誕生秘話やその活躍を掲載しはじめる。この情報の掲載によって、模型完成後の「空想世界による遊び」によりイメージしやすい環境を作り上げた。

やがてユーザーから田宮模型に対して様々な要望が出されるようになる。戦車のプラモデルに合わせたサイズの人形が欲しいという要望が多く、その結果作り出されたのが一九六八年九月発売の「ドイツ戦車兵セット」であった。 6三五分の一スケールの戦車のプラモデルに合わせた兵士の人形である。この商品のヒットにより、戦場の主役である戦車以外のキットにも需要があることを田宮模型は確信する。こうして田宮模型は、人形や小車両、火砲といった戦車以外のモデルを「MM(ミリタリー・ミニチュア)」シリーズとして、シリーズ化した。「MM」シリーズ

は単体でも十分に楽しめたが、シリーズを集めていくことで、自分の作った「戦場の世界」を充実させ、人形や車両の組み合わせによるジオラマ(情景模型)の作成が行われるようになった。前述した模型完成後の「空想世界による遊び」を実体化させたのだ。ジオラマが盛んになったことで、田宮模型も一九七〇年より「情景写真コンテスト」を、一九七三年には「MM」シリーズを素材とした「人形改造コンテスト」を行い、ブームを促進した。コンテストが行われたことで、プラモデルを作る人、いわゆる「モデラー」という存在が注目されるようになる。技術の熟練とセンスの良さがものをいうジオラマ作りを行う過程で、学校のクラブや同好会、模型店などに研究会やサークルを作り、情報を共有するようになった。そして、田宮模型の発行する情報誌や模型雑誌を通して全国的なつながりを持つようになっていった。

かつて、模型飛行機が模型飛行機大会で全国的なつながりを持ったように、コンテストを通してモデラーは繋がっていった。そして、そのつながりの中でジオラマによる模型完成後の「空想世界による遊び」の実体化という仮想現実の共有化も行われていったのである。

 

第四節「キャラクターモデル」

 キャラクターモデルとは、スケールモデルのような実物を縮尺した模型ではなく、漫画やアニメ作品などのキャラクターを模型化したものを指す。

 一九六〇年一一月、今井科学によって、「鉄人28号」がキット化された 7。これが日本最初のキャラクターモデルとされている。『鉄人28号』は、光文社発行の雑誌「少年」に一九五六年から連載された横山光輝の漫画作品で、旧日本軍が戦争末期に開発したロボット「鉄人28号」を、金田正太郎少年がリモコンで操縦して、敵と戦うという物語である。「鉄人28号」の発売以降、今井科学はキャラクターモデルを次々と発売していった。

その中でも、特に人気となったのが『サンダーバード』のプラモデルシリーズである。『サンダーバード』は、一九六四年にジェリー・アンダーソンが制作したイギリスの人形特撮作品である。舞台は、二一世紀。一国家では解決できない大事件が起きると、ジェフ・トレーシー隊長率いる「国際救助隊」、通称「サンダーバード」が太平洋上にある秘密基地から、ジェフ・トレーシー隊長の五人の息子たちが操縦する一号から五号までのビークル・メカが出動して事件を解決していくという物語で、一九六六年にNHKで四月から放送された。この年は、『ウルトラQ』や『ウルトラマン』などの特撮作品が放送され、特撮・怪獣ブームが起きていた年でもある。その中でも『サンダーバード』は強い人気を誇っていた。その人気について、猪俣謙次は以下のように述べている。

 

  「『サンダーバード』人気の源は劇中に登場する未来感あふれるビークル・メカの数々だった。実在感を感じさせる丁寧な特撮描写がビークル・メカのカタチに説得力を与え、機能にリアル感を与えた。誰もが科学技術に大きな夢と未来を描けた時代である。人命救助をテーマにした上質の物語絡んで、『サンダーバード』は強烈な記憶を子供たちに刻んだ。」[viii]

 

 今井科学は一九六六年六月には『サンダーバード』の版権を取得。一二月には、番組の中でも特に人気の高かった「サンダーバード2号」を発売する。ゼンマイ動力で動き、番組の設定同様にボディ中央のコンテナが外れて中から小型のビークル・メカを発進するギミックが内蔵されていた「サンダーバード2号」は、大ヒットとなる。番組終了後も『サンダーバード』人気は衰えることなく、あまりの売れ行きに今井科学はシリーズ化を決定し、一九六八年までに四二点ものプラモデルが発売された。しかし、今井科学は『サンダーバード』に代わる商品として、『キャプテンスカーレット』と『マイティジャック』のプラモデルを商品化していったが、番組の人気は奮わなかった。キャラクターモデルは、作品の人気に売れ行きが左右されやすい。過剰生産による大量の在庫を抱えた今井科学は経営に行き詰まり、一九六九年七月に倒産してしまう。倒産した今井科学の資産を譲り受けたのが、『サンダーバード』人気のときに玩具を販売し、共にプロモーション展開を行ったバンダイであった。

 バンダイは、元は一九五〇年創業の金属玩具メーカー「萬代屋」をルーツとする、玩具メーカーであった。バンダイは、倒産した今井科学から買い取った金型を流用した商品販売を行っていた。一九七一年五月にバンダイ模型を設立した。その後少しずつ自社オリジナルのプラモデルを手掛けるようになったが、爆発的なヒットには恵まれず、元が玩具メーカーであり、模型メーカーとしては後発だったことも合わさって業界内での評価はあまり高くなかった。

 一九七七年、スーパーカーブーム[ix]に乗り遅れたバンダイ模型は、年間の売り上げを前年度の半分ほどの一二億八千万円と激減させた。その窮地を救ったのが『宇宙戦艦ヤマト』である。そのストーリーを説明すると、以下のようになる。

 

  「西暦2199年、大マゼラン星雲にある惑星ガミラスから遊星爆弾が打ち込まれ、地球は放射能汚染が進み、人類は地下での生活を強いられていた。そんなある日、大マゼラン星雲惑星イスカンダルの女王、スターシャか、地球を救う放射能除去装置「コスモクリーナーD」の存在を告げるメッセージを告げるメッセージが届く。イスカンダルまでの航行を可能にする波動エンジンもともに添えられていた。人類は英知を結集させ、徳之島沖の海底に残骸をさらしていた戦艦大和を「宇宙戦艦ヤマト」に改造し、はるか大マゼラン星雲までの往路148000光年の旅に出る。人類滅亡までの日まで残された時間は、あと363日。」[x]

 

一九七四年一〇月から放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、裏番組であった『アルプスの少女ハイジ』に視聴率で敗れ、全体のストーリーの半分の二六話で打ち切りとなってしまう。ところが、一九七六年の再放送では二〇パーセントの高視聴率となり、全国各地での再放送でも人気を博していった。そして、各地に出来たファンクラブがテレビ局に『宇宙戦艦ヤマト』製作再開を懇願した。ファンクラブの総数は、大小合わせると二〇〇ほどあったとされる。このブームにより、一九七七年八月に本編の内容をまとめた劇場版『宇宙戦艦ヤマト』が公開されると、一九七八年八月には『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が公開された。この時ブ-ムを支えたのは、一〇代から二〇代前半のアニメファンであった。

バンダイ模型は『宇宙戦艦ヤマト』本放送時の一九七四一二月にプラモデル四種を各五〇〇円で発売していたが、あまり売れなかった。それからブームが起きていることを知り、一九七七年の夏に再販すると、一か月で追加生産にかかるほどのヒットになる。このヒットの要因は、作品のファンたちがプラモデルを購入しユーザーになったことにあるが、彼らは自分たちの要望を積極的にメーカーに伝えてきた。当初、バンダイ模型が販売したプラモデルには、ゼンマイでの走行ギミックが搭載されていたが、そのためにプロポーションが犠牲になっていた。ユーザーはアニメ内のデザインに近い商品を求めた。この要望を受けて、メインの商品であった「宇宙戦艦ヤマト」の再販リピート分からは、艦底についていたゼンマイボックスをオミットし、艦底から延びる第三艦橋を追加したディスプレイモデル仕様となった。

バンダイ模型は次なる商品として、一九七八年七月に「イメージモデル 宇宙戦艦ヤマト」 8(三〇〇〇円)を販売した。これは、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の告知ポスターなどに描かれているイラスト 9のイメージそのままにキット化した商品となっている。大きな艦首から小さな艦尾のパースの効いたシルエットで、正面から見ればイラストのイメージそのままの宇宙戦艦ヤマトとなるが、横から見ると寸詰まりに見えてしまう。特定の方向からのみ楽しむことができるディスプレイモデルという特殊なコンセプトの商品であったが、ユーザーにそのコンセプトが受け、発売から一年間で二五万個を見込めるペースで売れた。その後も、バンダイ模型は『宇宙戦艦ヤマト』のプラモデルを商品化していった。この成功が、後のガンプラを生み出す契機となる。

 

第五節 「ガンプラ」の誕生

 『宇宙戦艦ヤマト』のプラモデルシリーズのおかげで業績を伸ばしたバンダイ模型は、次なる商品とする題材を探していた。そんなとき、バンダイ模型に送られてくるユーザーからの投書の内容に『機動戦士ガンダム』のプラモデル化を願う声が増えていった。アニメ『機動戦士ガンダム』は第一章で述べたように、『宇宙戦艦ヤマト』で誕生したアニメファンを中心としたヤングアダルト層からの人気があった。しかし、このとき商品化されていたのは低年齢の児童向けに作られたガンダムの玩具であり、劇中のデザイン通りのガンダムやザクはファンがフルスクラッチ[xi]する必要があった。そういったことが出来るのは模型技術の高いユーザーで、ライトユーザーにとってはハードルが高かった。ライトユーザーはメーカーから商品化されることを願い、要望を出したのだ。

 『機動戦士ガンダム』の持つ、これまでのロボットアニメにはないリアルさと「ミリタリー」[xii]調の雰囲気を見て、バンダイ模型は『機動戦士ガンダム』のプラモデル化を目指し、ライセンスの取得を行うことにした。この時点で『機動戦士ガンダム』の放送は中盤に差し掛かっていた。しかし前述の通り、『機動戦士ガンダム』のスポンサーとしては既にクローバー社が存在しており、ダイカスト製の玩具を出していた。バンダイ模型は『機動戦士ガンダム』の商品化窓口を担当していた版権元である株式会社創通エージェンシー(現株式会社創通)との交渉の末、一九七九年一二月にガンダムの商品化権を手に入れた。

 一九八〇年の七月発売を目標に、バンダイ模型はガンプラの開発を行った。そして完成した図面からスケールを算出すると、偶然にも国際スケール[xiii]の一四四分の一スケールとなった。このことから、ガンプラはスケール表示を行い、以後のシリーズでもスケール統一が行われた。一四四分の一スケールは、ガンプラのスタンダードなスケールとなったのだ。そして、『機動戦士ガンダム』というアニメ作品のキャラクターモデルでありながらスケールを表示したことで、スケールモデルの側面も持つようになった。戦争をテーマにしたストーリー展開とスケールを統一したシリーズ展開で、ガンプラを集めることで『機動戦士ガンダム』の世界を再現し、物語を構築しやすい環境が作られたのだ。

 満を持して、一九八〇年七月にガンプラ第一弾として発売された「1/144  ガンダム」(三〇〇円)と「1/100 ガンダム」(七〇〇円)は、発売当初はそこまで売れていなかったが、年が明けた一九八一年頃になると、全国各地で次々と売り切れが多発するようになった。その時の状況を井田博の『日本プラモデル興亡史 : わたしの模型人生』(文藝春秋)から引用したい。

 

  「その時の光景を今でも息子は忘れないといいます。昭和五十六年当時、私の長男が全井筒屋模型部を統括し、小倉井筒屋の店は三男が見ていましたが、ある日曜日の朝、デパートの開店と同時に、小学生、中学生といった子供たちが、階段、エスカレーター、エレベーターを使って、当時七階にあったお店に向かって突進してきたのです。彼らのお目当てはバンダイの1/144「ガンダム」でした。

(中略)

 東京で『モデルアート』(一九六六年創刊のプラモデル専門雑誌)の経営に携わっていた次男から、小倉井筒屋の弟に「おい、東京ではガンダムが凄いことになりそうだって言ってるぞ。取りあえず品物を集めておけよ」と言ってきたというのです。そういわれた三男は半信半疑でした。『機動戦士ガンダム』というアニメがあったことは知っていましたが、既に放送が始まって久しいアニメ、しかもプラモデルも前の年から発売されているのに、鳴かず飛ばずの成績。「兄貴は何かと間違えているんじゃないか?」というのが三男の偽らざる気持ちでした。

 そう思いながらも問屋に頼んで七、八〇個も手配できたでしょうか。この頃のガンダムは一個三〇〇円のシリーズでしたから、全部でも二万円ちょっとの総額です。それをショーウィンドの上に積み上げておいたといいます。

 予想は的中しました。押すな押すなの大盛況。とにかく押されてガラスケースが倒れるのでは、という恐怖心を息子は抱いたといいます。商品はあっという間に売り切れました。」[xiv]

 

 こうした爆発的なヒットは社会現象となり、ガンプラの存在を多くの人に知らしめることとなった。ガンプラブームは加熱し、商品を求めて押し寄せた客が将棋倒しとなった事故や模型店によるガンプラ以外のキットとセットにして売りつける「抱き合わせ」販売など、様々なトラブルも起きた。しかし、それほどまでに人気となったガンプラはどのように消費されていったのだろうか。

 

第三章 「ガンプラ」の消費

 

第一節 『MSV』―物語としての「ガンプラ」

 かくして、ガンプラは誕生し、作品人気とキットの評判から爆発的な人気商品となった。

 このガンプラブームを牽引した存在として模型雑誌の影響は多分にある。一九六九年八月創刊の模型雑誌『Hobby JAPAN』は、当初は戦車などのスケールモデル中心の内容だったが、『 機動戦士ガンダム』の放送中の一九七九年の読者投稿欄にてガンダムに関する話題のものが掲載されるようになっていき、一九八〇年八月号のSFプラモデル特集内で、『機動戦士ガンダム』取り上げられると、次々と特集が組まれるようになる。

 その『Hobby JAPAN』の中で活躍したのが、「ストリームベース」というモデラー集団である。ストリームベースは、東京の笹塚にあった「えんどう」という模型店内の模型サークルから生まれた。そのメンバーであった小田雅弘、川口克己、高橋昌也は次々と作例を『Hobby JAPAN』誌に載せていく。一九八一年七月には、ガンプラ初の作例集となる『HOW TO BUILD GUNDAM』(ホビージャパン)が発売された。その内容は、ガンプラによるジオラマや迷彩色に塗装されたものや「ウェザリング」[xv]など、従来のスケールモデル的な表現で作られたものが中心であった。元々はスケールモデルを作っていたストリームベースのメンバーの想像力と『機動戦士ガンダム』の持つ世界観の説得力が合致した結果といえる。この企画は好評となり、翌一九八二年五月には第二弾となる『HOW TO BUILD GUNDAM2』(ホビージャパン)が発売される。この二つの作例の中で登場したものに、モビルスーツの派生機が登場したのだ。元々は、アニメ雑誌に『機動戦士ガンダム』のモビルスーツのデザインをしていた大河原邦男が描いたザクのバリエーション機が掲載されていた劇中未登場の機体を、自作して作例として載せたのだ。モビルスーツの派生機の作例が乗ったことで、『機動戦士ガンダム』の世界は宇宙世紀という架空の歴史で構成されており、アニメの中で描かれていたものはほんの一場面にすぎず、まだ語られていない部分が存在しているのではないかというイメージを掻き立てていった。

 ガンプラは飛ぶように売れ、次々とラインナップを増やしていった 10

一九八二年、作中に登場したモビルスーツとモビルアーマーをすべて商品化すると、本編に未登場で設定だけ存在していたモビルスーツの商品化や「リアルタイプ」と称して過去に発売したガンプラのカラーリングを変更した商品を発売した。ガンプラブームは続いていたが、もう商品化できる機体は全て出尽くしてしまったのだ。

そして、ガンプラは一九八三年四月から新たな展開をはじめた。それが、「MSV(モビルスーツ・バリエーション)」である。『機動戦士ガンダム』に登場したモビルスーツをベースとした機体のカスタム機や発展機、試作型にエースパイロットの専用機など、本編に登場しないプラモデルオリジナルの設定を起こしたシリーズであった。この設定づくりには、ストリームベースの小田雅弘が関わっていた。かつて田宮模型が説明書内にて解説やエピソードを載せることでプラモデルに物語性を付与したように、「MSV」も機体の詳細な設定や解説を載せることでシリーズの奥深さを生み出していった 11

MSV」は『機動戦士ガンダム』の世界観という物語背景を用いることで商品化し、ユーザーも同じ文脈の中でガンプラを消費していく。これは、大塚英志が言うところの「物語消費」が行われている。物語消費とは、アニメや漫画といった物語作品の内容や商品を「小さな物語」、それを生み出している世界観や設定といった物語を構成しているシステムを「大きな物語」とする。メーカーは小さな物語を個別に販売しているように見えるが、実際はその背後にある大きな物語をユーザーは消費しているという考えである。[xvi]

つまり、「MSV」はそのガンプラ自体を消費しているだけでなく、その背後にある『機動戦士ガンダム』の世界観を消費していると考えられる。『機動戦士ガンダム』の世界観との整合性が取れていれば、ユーザーによって新たなモビルスーツのガンプラを作りだすことも可能になった。

MSV」シリーズは、ガンダム作品のストーリーを展開するメディアとしてのプラモデルが機能することを示した。以降、後続のガンダム作品では外伝としてガンプラを使ったストーリー展開を行っていくこととなる。

 

第二節 『『プラモ狂四郎』と『SDガンダム』―キャラクターとしての「ガンプラ」

 「MSV」が、『機動戦士ガンダム』のファンの中心であった高年齢層に向けたガンプラブームの牽引とガンプラを通しての物語消費の土壌作りを行ったのだとしたら、低年齢層に向けてガンプラの消費に影響を与えたのは『プラモ狂四郎』と「SDガンダム」の存在だろう。そのどちらもが掲載されていた雑誌が『コミックボンボン』であった。『コミックボンボン』は創刊された一九八一年一〇月から既に『機動戦士ガンダム』やガンプラについての特集が組まれていた。その中で作例を載せていたのもストリームベースのメンバーであった。

 『プラモ狂四郎』は一九八二年二月から一九八六年一一月にかけて連載されたクラフト団、やまと虹一原作の漫画作品である。クラフト団とは、特撮やアニメーションなどのキャラクター作品の造詣が深く、自身もプラモデル作りの趣味を持つ編集者の安井尚志のペンネームである。プラモデルが好きなプラモ狂四郎こと、京田四郎がプラモシミュレーションマシンを使って仮想空間上で自分の作ったプラモデルを操縦し、ライバルたちと戦うという内容で、自分が作ったプラモデルを操縦して戦うという設定や登場するオリジナルのガンプラで人気を博した。扱われるプラモデルはスケールモデルやキャラクターモデルと幅広かったが、メインはガンプラだった。この作品は、プラモデルの完成度や改造のレベルの差が勝敗を左右するという設定になっており、様々な改造プラモデルが登場する。登場する例としては、「1/144 RX-78 ガンダム」の股関節を可動させるために一九八一年六月発売の「1/144 MS-09R リックドム」の股関節パーツを取り付けるという部分的な改造 12から、「パーフェクトガンダム」 13や「武者ガンダム」 14といったオリジナルのガンプラといった大掛かりな改造まで、バリエーション豊かであった。

 『プラモ狂四郎』におけるガンプラの消費は、「MSV」での消費とは異なる。「MSV」では、ガンプラは『機動戦士ガンダム』の世界観を消費するメディアとして機能していたが、『プラモ狂四郎』に登場するのは、あくまでもプラモデルなのである。そこでは、「『機動戦士ガンダム』のキャラクター」の模型としてのガンプラではなく、「『機動戦士ガンダム』のプラモデル=ガンプラ」というキャラクターとしてのガンプラが描かれている。例として、『プラモ狂四郎』に、主人公の狂四郎が対戦相手の作った「1/144 MS-06S シャア専用ザク」との戦いで、足首が可動しないという「1/144 MS-06S シャア専用ザク」の弱点を突くことで勝利するエピソードがある。これは、一九八〇年九月発売の「1/144 MS-06S シャア専用ザク」の足首が可動しない設計になっていることを反映したものである。『機動戦士ガンダム』のザクには足首が可動しないという設定はない。『プラモ狂四郎』で戦っているのはガンプラの「1/144 MS-06S シャア専用ザク」であり、そこに『機動戦士ガンダム』の世界観との整合性は必要ない。言い換えれば、『機動戦士ガンダム』の物語を消費するのではなく、ガンプラというキャラクターを消費していると考えられるだろう。『プラモ狂四郎』の連載終了後も、『コミックボンボン』ではガンプラを題材にした漫画が連載され続けていった。そして、ガンダムとガンプラのキャラクター化はSDガンダムでより鮮明になっていく。

 SDガンダムとは、「スーパーディフォルメ・ガンダム」の略称で、ガンダムシリーズのモビルスーツを二頭身にデフォルメしたシリーズの総称である。一九八一年にバンダイ模型のPR誌『模型情報』に横井孝二が投稿した二頭身のガンダムのイラストが編集部の目にとまり、読者コーナーの「MJ劇場」と題した四コマ漫画のキャラクターとして採用されたのが始まりである。そして、一九八五年八月に「ガシャポン」[xvii]用の塩化ビニール人形として発売されたことでより多くのガンダムファンたちに認知された。ガンダムシリーズを下敷きにしながらも、兵器ではなく、生命体としてキャラクター化された「SDガンダム」は、低年齢層の新たなファン層を獲得することができた。その中で、本来のガンダム世界のデザインをそのまま踏襲した「ノーマルワールド」のほかに、日本の戦国時代の鎧武者をイメージした「SD戦国伝」シリーズや中世ヨーロッパの騎士風のデザインと設定の「SDガンダム外伝」シリーズ、ミリタリー風のアレンジがされた「SDコマンド戦記」シリーズ、先史時代や古代文明をモチーフにした「ガンドランダー」シリーズといった多くの派生シリーズが生まれた。これらのシリーズのキャラクターは、元となるガンダムシリーズのモビルスーツやモビルアーマーが存在し、それをそれぞれの世界観に合う形でデザインや設定をアレンジされている。

今回は、そのなかでもプラモデルのシリーズであった「BB戦士」を中心にして展開が行われた「SD戦国伝」を取り扱う。

 「SD戦国伝」は、『プラモ狂四郎』に登場した武者ガンダムをSDガンダム化し、一九八八年一二月に発売した「No.17 ムシャガンダム」をきっかけとして、ストーリーと設定を作り出された。その第一弾が「武者七人衆編」である。そのあらすじは以下のようになっている。

 

  「戦乱の世に平和を取り戻すために、この世を悪に染めようとする闇軍団と戦う頑駄(がんだ)()七人衆を中心とする頑駄無軍団。闇軍団の頭は強力な武装集団を配下に従える武将・闇将軍であった。驚くことに、その正体はかつて立派な武将と謳われた殺駆頭(ざくと)なのだった。闇皇帝の鎧の呪いによって闇将軍にされていたのである。将頑駄無は闇皇帝の呪いを破り殺駆頭を正気に戻した。ところが、突如として巨大な怪物の姿に化身した闇皇帝が頑駄無軍団の前に現れた。それは大将軍の全戦力をもってもかなわぬ相手であった。しかし、光の軍配に全武者のパワーが集結したとき、闇皇帝は大将軍と共に空に舞い上がり、大爆発を起こして消えていったのであった」[xviii]

 

 この章以降、頑駄無軍団のリーダーである大将軍と闇皇帝との戦いをストーリーの骨子として「風林火山編」、「天下統一編」と続く。その後はシリーズを衣替えし、「新SD戦国伝」、「超SD戦国伝」として展開し、一九九〇年代に人気を博していった。

 SD戦国伝」の特徴は、ストーリー展開の手段にある。『コミックボンボン』での漫画の連載も行われていたが、組み立て説明書内にキャラクターの説明や設定のほかに、「コミックワールド」 15と称された漫画を載せて、ストーリーを説明したのだ。組み立て説明書で物語や設定を語ること自体はこれまでのスケールモデルや「MSV」でも行われていたが、一つのSDガンダムのプラモデルのコミックワールド内で語られるのは、断片的で全体のストーリーの一部でしかないのである。すべてのストーリーを把握するためには、そのシリーズのSDガンダムを集める必要があった。そうすることではじめて、物語の全容を掴めるようになる。また、「SD戦国伝」の各ストーリーはある程度独立しているが、すべて同一の時間軸上に存在しており、過去のシリーズの登場キャラクターの子どもが登場するなど、年代記としてストーリーをより大きな枠で見ることが可能になっている。この消費形態は、「ビックリマンチョコレート」と酷似している。「ビックリマンチョコレート」は、一九七七年にロッテから発売されたシールつきウエハースチョコであり、おまけのシールに描かれたキャラクターとストーリーを集めることで物語の全体像が見える仕組みになっている。

 ユーザーはSDガンダムを集めることで、その背後にある「SD戦国伝」の世界を手に入れようとした。この点で言えば、SDガンダムの消費は「MSV」の消費と似ているが、違いが存在している。それは、下敷きになっている物語の違いといえるだろう。前述のとおり、「MSV」は『機動戦士ガンダム』の宇宙世紀という架空の歴史を語る物語としてのガンプラであり、その根底には『機動戦士ガンダム』の世界観がある。それに対し、SDガンダムは「キャラクター化された」ガンダムによって作り出された世界観を語るガンプラである。元となるモビルスーツに、その世界観にふさわしい記号(「SD戦国伝」でいえば、鎧と兜や刀など)を付与する形で生み出されるSDガンダムは、ガンダムをキャラクターとして消費し、付与した記号にふさわしい物語が与えられ、その物語を消費している。つまり、物語ありきのキャラクターではなく、キャラクターありきの物語なのである。

 『プラモ狂四郎』とSDガンダムは、ガンダムをキャラクターとして捉え、ガンダムシリーズの世界観や設定とは関係ない形式でのガンプラの消費を可能にした。『機動戦士ガンダム』に直接触れていない低年齢層は、ここで初めてガンダムに触れてガンダムシリーズのファンになっていった。

 

第三節 「ガンプラ」のアップデート

 ガンプラは誕生から三四年の間に前述のようなシリーズ展開とユーザー消費が行われてきたのだが、その間もガンプラの技術のアップデートが行われていた。前述の「1/144 MS-06S シャア専用ザク」の足首が可動しなかったことを教訓に、新製品が発売されるたびに関節の可動を進化させていった。可動域が増えることでキットの表現できるポーズが増え、遊びの幅を広げた。

その後、「ポリキャップ」とスナップフィット、「いろプラ」とガンプラは新たな技術を取り入れていった。ポリキャップとは、ポリエチレン製のパーツで部品の接合、保持などに用いる部品である。摩耗に強く、関節部分などの可動部分に使用することで、これまでのプラスチック同士の接続よりも保持力が強く摩耗による「ヘタ」れるといった問題も少なくなった。いろプラは、多色成型技術のことである。プラモデルは、使用できる金型の数がすなわち使える成型色数となり、初期のガンプラの一四四分の一スケールのキットは成型色が一色しかなかったため、アニメ同様のカラーリングにするためには塗装は必須であった。その後、導入されたのが多色成型技術である。この技術の導入により、組み立てるだけである程度の色分けが可能になった。これらの技術の導入により、買ってきたガンプラを組み立てただけで劇中と同じカラーリングと劇中のポージングを再現できるようになったのだ。また、組み立てやすさとパーツごとの色分けによって塗装や改造がより簡単に行えるようになった。ライトユーザーからヘビーユーザーまでフォローしつつ、ガンプラはよりユーザーライクなものとなっていった。

 一九九〇年三月に一四四分の一スケールでこれまでのガンダムシリーズの主役機体を現在の技術で生み出すとして、「HG(ハイグレード)」シリーズが誕生した。先ほど述べた技術は全て導入されている。これは、一九九九年以降の「HGUC(ハイグレードユニバーサルセンチュリー)」シリーズをはじめとするHGブランドの祖といえるだろう。HGシリーズによる既存商品のリニューアルは、同一キャラクターであったとしても、その当時の技術のアップデートやデザインの解釈の変化で商品化が行えることを証明した。

 一九九五年七月に発売された「MG(マスターグレード) ガンダム」 16からなる「MG」シリーズはその象徴的なキットといえるだろう。ガンプラ誕生一五周年を記念して生み出されたこのシリーズは、「究極のガンプラを作る」というコンセプトではじまり、『Hobby JAPAN』誌とも連携してユーザーからの意見を集めていった。開発の陣頭指揮を執ったのは、一九八五年にバンダイに入社していたストリームベースのメンバーであった川口克己である。MGが求めたのは、精密感と組みやすさであった。かつてのガンプラブームのとき、スケールモデルのように、「兵器であるモビルスーツ」としてガンプラのディテール・アップなどの改造を行っていたものを、あらかじめ設計段階からデザインに組み込んだのだ。そして細かく色分けされた部品によって、組み立てるだけで精緻なガンダムが出来上がるようになっていった。このシリーズは、旧来のユーザーからの高い評価だけでなく、大人になったかつてのガンプラユーザーたちを「出戻り」させることにも成功した。

MGは常に新しい技術を導入していき、その成果を他のガンプラのシリーズに反映させていく。ガンプラはガンプラ間で相互的に進化を遂げていったといえるだろう。

 

第四節 「ガンプラアニメ」の出現

 二〇一〇年、ガンプラが発売されてから三〇年という節目の年。あるアニメ作品が作られた。それが『模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG』である。物語は、主人公の「イレイ・ハル」が自らの作ったガンプラを戦わせる「ガンプラバトル」を通して、ライバルの作ったガンプラと戦うという内容になっており、『プラモ狂四郎』と似たような設定になっている。この作品はガンダムシリーズでありながら、登場するのは兵器としてのガンダムではなく、ガンプラとしてのガンダムである。実際に販売されたガンプラも劇中の登場人物の作ったガンプラという形での商品化であり、そこには『機動戦士ガンダム』をはじめとしたガンダムシリーズの世界観や設定はない。そのため、より自由な形でのガンプラが展開された。その中でも「スーパーカスタムザクF2000 17と「ベアッガイ」 18は特に自由度が高かった。スーパーカスタムザクF2000は、「ユーザーが改造し独自の設定を付与したガンプラという設定」のガンプラになっており、『プラモ狂四郎』のオリジナルガンプラと同じ流れを汲んでいる。ベアッガイは、元になった「アッガイ」を熊のようなシルエットに変更したもので、かわいらしさを優先したキットとなっている。

 そして、二〇一三年一〇月に放送された『ガンダムビルドファイターズ』でも、同様に劇中で改造されたガンプラが登場し、それを商品として販売していった。

 この二作は、物語背景が存在しない。それはガンダムの物語ではなく、ガンダムを消費しているユーザーの物語だからである。作中の登場人物は、ガンダムシリーズを消費しているユーザーであり、その消費の形としてガンプラを製作している。彼らは、現実のガンプラユーザーの延長線上に存在しているキャラクターなのだ。また、作品内に登場するガンプラは、これまでのガンプラの改造品という設定であり、ガンダム作品のモビルスーツというキャラクターに、『模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG』や『ガンダムビルドファイターズ』の世界観やキャラクターが付与されることで、元となるガンダム作品とは異なるキャラクター、物語として消費が可能になった。ガンダムの物語を消費するキャラクターの物語を消費するという多重的な消費が行われた作品である。

 また、これらと同時期にバンダイから「ビルダーズパーツ」という商品展開が行われ始めた。これはガンプラ用の公式改造パーツである。機体の情報量を増やすためのバーニアノズルや装甲板などから、大砲や翼といったパーツや武器などが販売されている。オプションパーツの販売という点では、田宮模型の「MM」シリーズと似ており、「MM」シリーズのガンプラ版といえる。ガンダムの世界観からデザインは逸脱していないが、本来のガンダム作品に明確に設定されたパーツではない、ガンプラオリジナルの商品である。また、これらのパーツは記号的で、そのパーツを取り付けることでそのガンプラにそのパーツの持つ記号性が付与される。例えば、大砲のパーツを付けることで、そのガンプラは高火力の機体というキャラクター性を獲得するのである。これは、ガンプラがガンダム作品の世界観や物語を消費させるメディアから、ガンプラというキャラクターとして捉えられて消費するようになっていったことを表していると考えられるだろう。

 「ガンプラアニメ」と「ビルダーズパーツ」というガンプラの展開は、物語に頼らなくても基本的な記号さえあれば、ガンプラを消費することが出来ることを示した。

 

第四章 おわりに

 ここまでで述べてきたガンプラの消費について、ある程度年代別に分けることが出来る。

 一九八〇年代のガンプラユーザーは、『機動戦士ガンダム』を見ていた、「ファーストガンダム」世代であり、ガンプラ以前から存在していたスケールモデルの延長線上にガンプラを捉えていた。兵器としてのガンプラを作り、兵器として運用される世界をジオラマにして表現した。改造されたガンプラも、『機動戦士ガンダム』という物語を背景にして作り出されており、そこでの整合性を意識したものとなっている。そこでのガンプラは、『機動戦士ガンダム』の世界観や物語を表現するメディアとして消費されていた。

 一九九〇年代のガンプラユーザーは、『プラモ狂四郎』やSDガンダム世代であり、ガンプラを『機動戦士ガンダム』とは関係のないキャラクターとして捉えていた。この世代の場合は、兵器としてのリアリティではなく、キャラクターとしての格好よさを重視する傾向がある。世界観との整合性とは関係のない形で、ユーザーの考える格好いいキャラクターを表現するメディアとしてガンプラが消費されていた。

 二〇〇〇年代になると、最初のガンプラユーザーたちが作り手の側に回るようになり、彼らが行ってきたガンプラの消費を、公式で生み出すようになる。つまり、完成度を重視したガンプラが販売されるようになっていったのである。MGにおける、スケールモデル的な解釈による内部メカニックの設定やディテールがあらかじめデザインされている点や多色成型による組んだだけでも色分けがされている設計などがそれを端的に示している。また、MGHGUCシリーズのように、過去のガンダム作品のモビルスーツを現在の技術でリニューアルしていた時代でもあり、この時期のガンプラはただ組んだだけでも高い完成度が得られるようになっていった。そのため、特にオリジナルの改造を施すというよりは、キットの一部に微調整を加えたものや、まだリニューアルされてないキットをリニューアルされたキットを素体にすることで疑似的にリニューアルするといった消費の形態になっていった。SDガンダムも、二〇〇四年の「武者烈伝」シリーズで「武者七人衆」のリニューアル化が行われた。そして、シリーズ二〇周年の二〇〇七年からはじまった「BB戦士三国伝」では、『三国演義』を題材にとってSDガンダムのキャラクター化を行った 19。この二つのシリーズでも、ユーザーによって過去のSDガンダムのキットを疑似的にリニューアルする改造が行われていた。また、この頃から少しずつ行われた改造に、「見立て」改造というものがある。これは、ガンプラを素体として利用する点は、疑似的リニューアルと同じだが、使用して作り出されるものがガンダムシリーズとは異なるアニメ作品や漫画などのキャラクターを想起させるような記号(色であったり、身体的な特徴など)を付与してガンプラをそのように見立てる改造が存在している 20

 そして、二〇一〇年代はかつてのSDガンダム世代が作り手側に来たことで、キットのプレイバリューや互換性を意識したガンプラが販売されるようになった。二〇一三年九月発売の「HGAC  1/144 ウイングガンダム」から「オールガンダムプロジェクト」と呼ばれる展開が始まった。これは『ガンダムビルドファイターズ』と連動する形での展開で、HGシリーズ内で全ガンダムを商品化していくことと、キットのフォーマットを共通化させ、作りやすさと互換性を追求したものとなっている。共通フォーマットによるキット間の互換性が高くなったことで複数のガンプラを組み合わせて改造することが公式から提案されたのだ。改造したガンプラの商品化という『ガンダムビルドファイターズ』のスタイルとも合わさり、公式とユーザーが並列化し始めていると考えられるだろう。

 以上、四つの年代での消費について述べたが、これはその年代のガンプラの特徴でもある。だが、その年代でこの消費形態だけが存在していたわけではない。通常のアニメなどのコンテンツは一定の時期が来ると、ターゲットとなる世代が「卒業」していく。そして新たな世代が入ってきてコンテンツを受容し、また「卒業」していく。これの繰り返しだが、ガンプラはそうではない。ガンプラユーザーには、ガンプラを「卒業」せずに大人になった後も作り続ける、謂わば「留年」を続けているユーザーも多い。そこに新たな世代や大人になってまたガンプラを作ろうとする「出戻り」ユーザーも加わり、幅広い世代が同時に混在している状態にある。そのため、消費の形態に主流が存在せず、ユーザーの数だけ消費の形態が存在している。ユーザーの持つ想像力を表現するメディアとしての多様性が、ガンプラの消費の特異性なのであろう。今後、どのような想像力と結びつくことでガンプラが発展していくのか見守っていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

付録

※都合により、付録は割愛しております。

 

 

参考文献

東浩紀『動物化するポストモダンーオタクから見た日本社会』講談社 2001.11

五十嵐浩司『ガンプラ・ジェネレーション―機動戦士ガンダム20周年記念出版』講談社1999.4

石井 誠『マスターグレード ガンプラのイズム』 太田出版 2012.7

井田博『日本プラモデル興亡史 : わたしの模型人生』文藝春秋 2003.10

    『日本プラモデル興亡史 : 子供たちの昭和史』文藝春秋 2006.5

猪俣謙次『ガンダム神話』ダイヤモンド社 1995.6

『ガンダム神話ゼータ―ガンダム新世代の鼓動』ダイヤモンド社 1997.3

猪俣謙次,加藤智『ガンプラ開発戦記 -誕生から大ブームまで- 』アスキー・メディアワークス 2010.12

大塚英志『定本物語消費論』角川書店 2001.10

『物語消費論改』 アスキー・メディアワークス 2012.12

川村清志『ガンプラ、我らが世代のフェティシズム』比較文化論叢:札幌大学文化学部紀要26 P.45-63 札幌大学 2011.7

神永英司『マルサン物語 玩具黄金伝説時代』朝日新聞出版 2009.3

今柊二『プラモデル進化論』イーストプレス 2000.8

『ガンダム・モデル進化論』祥伝社 2005.2

櫻田純『面白すぎる「おもちゃ」研究序説』中経出版 2009.10

主婦と生活社『僕たちのガンプラ大全』主婦と生活社 2014.2

高井 昌吏編『「反戦」と「好戦」のポピュラー・カルチャー: メディア/ジェンダー/ツーリズム』人文書院 2011.8

平野 克巳『20世紀のプラモデル物語』大日本絵画 2008.1

ホビージャパン『HOW TO BUILD GUNDAM ホビージャパン 1981.7

HOW TO BUILD GUNDAM2』ホビージャパン 1982.5

松本悟,仲吉昭治『俺たちのガンダム・ビジネス』日本経済新聞出版社 2007.10

宮台 真司、辻 泉、 岡井 崇之編『「男らしさ」の快楽―ポピュラー文化からみたその実態』勁草書房 2009.9

『日本の模型 業界七十五年史』東京都科学模型教材協同組合 1986.11

Hobby JAPAN』ホビージャパン 1969.8~

『コミックボンボン』講談社 1981.10~2007.11



 

[i]猪俣謙次『ガンダム神話』ダイヤモンド社(1995.6 P.24

 

[ii]模型などに用いられる、水転写式のシールのこと

 

[iii]井田博『日本プラモデル興亡史 : わたしの模型人生』文藝春秋(2003.10 P.15-17

 

[iv] プラスチック同士をはめ込むことで固定し、接着剤を使用せずに組み立てられる方式のことである。

 

[v]今柊二『プラモデル進化論』イーストプレス(2000.8P.54-55

 

[vi]今柊二『プラモデル進化論』イーストプレス (2000.8P.54-55

 

[vii]今柊二『プラモデル進化論』イーストプレス (2000.8P.68-69

 

[viii]猪俣謙次,加藤智『ガンプラ開発戦記 -誕生から大ブームまで- 』アスキー・メディアワークス(2010.12P.22

 

[ix]「週刊少年ジャンプ」で一九七五年から一九七九年に連載された池沢さとしの漫画『サーキットの狼』に登場するロータス・ヨーロッパやランボルギーニ、ポルシェなどの高性能スポーツカー、通称スーパーカーのブーム。

 

[x]今柊二『プラモデル進化論』イーストプレス (2000.8P.142

 

[xi] フルスクラッチとは、プラスチック材料やパテなどで自作することをいう。

 

[xii] ミリタリーとは、軍や軍隊を指す。

 

[xiii] 国際スケールとは、国際的に認知されたスケールのことで、イギリスの長さの単位であるヤードをインチ換算しやすいスケールが国際スケールとされている。一四四分の一スケールの他には、二四分の一スケール、四八分の一スケール、七二分の一スケールが国際スケールに相当する。

 

[xiv]井田博『日本プラモデル興亡史 : わたしの模型人生』文藝春秋(2003.10P.183-185

 

[xv] ウェザリングとは、プラモデルに泥や錆、表面塗装の剥げといった汚しを施すことで、キットが実際に使われているように見せる塗装の技法である。

 

[xvi]大塚英志『定本物語消費論』角川書店(2001.10P.11-15

 

[xvii] カプセル入りの玩具。ガシャと回して、ポンと出ることから名づけられた。

 

[xviii]猪俣謙次『ガンダム神話』ダイヤモンド社(1995.6 P.105