美少女ゲームから見る「オタク」的消費活動

成澤

目次

序章

一章 オタク的文化における美少女ゲーム

 一節 美少女ゲームの概要

 二節 オタク的文化圏での他文化への影響

二章 美少女ゲームの歴史的推移

 一節 『弟切草』と『雫』の誕生

 二節 プレイヤーと主人公

 三節 量産化する「メイド」と「妹」

三章 『君と彼女と彼女の恋。』

 一節 作品の概要

 二節 クリエイター「下倉バイオ」

 三節 二次元との恋愛

終章 動物的消費からの脱却

 

参考文献リスト

 

 

序章

今や日本全体の経済の何割かを担うまでに成長したと通説のあるオタク系文化の経済市場。つい数年前まで行われていた1988年に宮崎勤の起こした連続幼女誘拐事件を契機としてマスコミ等によって行われていた世間的なオタクに対するバッシング、まるで犯罪者予備軍のように扱われていた時代が正しいとは決して思えないが、近年の爆発的なオタク系文化の市場拡大の様相にも少々不安を覚える。東浩紀は『動物化するポストモダン』(講談社2001年)の中でゼロ年代のオタクは「生きる意味への渇望を動物的な欲求に還元して孤独に満たす」存在であると著した[1]。そして近年のオタク的市場を鑑みると、この例えから多少の変化さえするものの何一つ進化していないと考えられる。

つまり消費者は動物として飼い慣らされる事を是として「萌え」を求めて徘徊を繰り返し、供給者は質や量を調節してはいるものの結局は同じ味の餌を与え続ける。ひたすらに新たな味を求めて動物的な行動を繰り返す消費者が新しい「萌え」を発見すると、すぐさまそれを餌としてばら撒く供給者というモデルも、餌の種類が多様化しているように見えてその実提供する餌の平均化に他ならない。一定のマーケティング的な雛型に従い作品を作ることで売り上げが見込めるということは製作コストの面で考えるならば確かに喜ばしいことであるが、一方で類似した作品がマーケットを埋め尽くす事態を引き起こし雛型に従わない挑戦的な作品の開発を阻害しかねない。

この危機感を念頭に置いた上で、本論は現代文学をオタク的文化からの視点で見る先行研究の中でも取り扱われることの少ない「美少女ゲーム」と呼ばれるジャンルの作品を中心に置き、他の文学論とは異なった目線でオタク文化に切り込むことでこの現状の打開策を論じることを目的とする。

  そもそも「オタク系文化」とは前述の東の著書によれば「多種多様な文化の総括的な呼び方であり、その中には漫画、アニメ、ゲーム、特撮、SF、フィギュア等が含まれ、様々な要素が互いに影響し合い双方向的に作用しあう文化群のことを指す」とあり、近年ではヤマハの開発した音声ソフト「VOCALOID」シリーズや、それに付随する動画配信サービス「ニコニコ動画」からの派生コンテンツを含め、それに総括される文化も多様化してきている。所謂「美少女ゲーム」もオタク系文化の中に含まれるサブカルチャーの一つではあるが、上に挙げた他の作品群、特に漫画、アニメと比べると(相互的な関係が非常に密接であるにも関わらず)これについて言及している先行研究はあまりに数が少ないと言わざるを得ない。

そこで本論ではまず美少女ゲームとはそもそもどのようなコンテンツであるかを定義し、その構造について触れた上でこのコンテンツが現代のオタク文化においてどのように関わっているかについて考察する。美少女ゲームのシステムの特徴と、そのシステムが他のオタク文化に与える影響について明らかにすることが目的である。次に美少女ゲームの起源とも言われる1980年代のファミコンソフトから現代の美少女ゲームの主流であるPCゲームに至るまでの推移と傾向の変化を見ながら、美少女ゲームの持つ構造とその発展についての歴史を紐解いていく。これにより美少女ゲームの特徴的なそのシステムについての背景とその過程で消費者側に無意識に生じた歪みを明確にする。そして最終的には2013年にニトロプラスより発売されたWindows用ゲーム『君と彼女と彼女の恋。』において消費者側に発せられた警鐘を読み解くことにより、前述した「如何にして動物的存在からの脱却を図るべきか」という現在オタク的消費市場が抱える問題についての打開策に迫っていきたい。

 

一章 オタク的文化における美少女ゲーム

一節 美少女ゲームの概要

 本論を進めるにあたってまず必要なことは、多種多様な進化を遂げたジャンルである美少女ゲームと呼ばれる表現媒体を狭義であれ定義することである。『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社2007年)の中で東浩紀は[2]

 

美少女ゲームとは、もっとも普通に定義すれば、ひとりのプレイヤーを想定した、アニメ風のイラストで描かれた女性キャラクターとの恋愛の成就を目的とする、男性向けのアドベンチャーゲームあるいはシミュレーションゲームのことである。

 

と述べている。美少女ゲームを定義するに当たっておそらくこれが最も過不足なく妥当な説明であると言える。先述の通り様々なパターンが存在する美少女ゲームであるが、そのゲームにおける重要な要素としてゲーム内の女性キャラクターとの恋愛が存在し、RPGやアクション要素が主だった美少女ゲームにおいてもゲームのクリアとキャラクターとの恋愛は両立したクリア目標になっている場合が多い。そのため本論ではこの定義を使用する。

また、現在美少女ゲームというとシナリオ分岐型のアドベンチャーゲームが最もポピュラーな形態であるが、本論を読む上で非常に重要な役割を持つため、簡単ではあるがここでその大まかなシステムについて説明しておく。

基本的なアドベンチャーゲームはシナリオを表す文章と、その文章に相応しい背景やキャラクターの立ち絵といったCGBGMや音声を加えた音楽の三要素で成り立っているのだが、その多くはゲームをプレイする事=文章を読むというおおよそ多くの人間がゲームと言われて想像するものとは全く別の遊戯形態であるという点でその他のゲームとその在り方が大きく異なる。これを指して「音声付き紙芝居」と揶揄されることもあるが、この表現は美少女ゲームの要素をかなり的確に捉えており、そのシステムを端的に現したものであると言ってもいいだろう。もちろんそれ以外の要素、例えば陣取り型の戦略シミュレーションやRPGの戦闘システム等を盛り込んだゲームも存在するが、美少女ゲームである以上この文章を読ませるという部分を無視したゲームは存在しない。

では文章を読むだけでどのようにしてキャラクターとの恋愛を成就させるのかといえば、ここで登場するのが「選択肢」という存在である。恋愛アドベンチャーゲームの特徴の一つとしてこの選択肢というものが存在するのだが、先ほど多種多様な進化を遂げたと述べた美少女ゲームではあるが、それがどのような部分に特化したものであってもそのほぼ全てにこの選択肢が存在する。恋愛シミュレーションゲームにおいては文章中の選択肢ではなく要所における行動を選択し、それによって可視化された主人公のパラメーター等が変化することで選択肢の代わりとなっていると思って貰って構わないだろう。

中には選択肢の存在しないものも存在するが、それらはノベルゲームと呼ばれ、美少女ゲームの括りの中には存在するもののアドベンチャーゲームやシミュレーションゲームとは明確に区別されるものであるためここでは割愛する。

この選択肢がどのようにゲームのシナリオに作用するかということを簡略化して図1に示した。美少女ゲームにおけるそれぞれのシナリオは「ルート」という言葉で示されることが多い。共通ルートというのはゲームを初めて誰もが最初に読む文章の部分である。選択肢の多くはこの部分に詰め込まれており、その選択肢によって「フラグ」と呼ばれるものを管理する。この「フラグ」はアドベンチャーゲームにおいては基本的に隠されたゲームステータスであり、分岐点aまでにどの選択肢を選んだか、また選ばなかったか(フラグを立てたか否か)によって後のルートが分岐する。先程の紙芝居で例えると読み手(プレイヤー)に選択肢を与えることでその反応次第で話し手(スクリプト側)が後半部分を差し替えると言うとわかりやすいだろうか。図1においてはルートC、ルートDのように分岐点aからの分岐数を更に増やす、AルートBルートそれぞれから更に分岐点bcを作り、話を分岐させるといった方法でアドベンチャーゲームは成り立っている。

話を具体的にするとヒロインAと恋愛したいとプレイヤーが考えたら、まず共通ルートでヒロインAと仲良くなれそうな選択肢を選び続けるのである。そうすることによりプレイヤーはヒロインAとのフラグを管理し、ルートAへと話を分岐させる。それと同時に重要なのが他のヒロインのルートに入らない様にヒロインBの好感度を上げない(フラグを立てない)ように立ち振る舞うことである。多くの美少女ゲームは複数のフラグが乱立した場合は、いずれかのフラグに優先度を持たせて優先度の高いヒロインとのルートに入るか、どのヒロインとも恋愛できないルートに突入するといった措置が取られている。ではヒロインAとヒロインBのどちらとも恋愛をしたいといった場合どうするべきかというと、基本的に美少女ゲームはセーブデータを複数個持てるようになっているためルートAをクリアしてから途中の選択肢でセーブしたデータや、初めから共通ルートをプレイすることで分岐点以前の選択肢をやり直すという方法をとる。セーブデータ内のフラグはそれぞれ独立しているため、ルートAをクリアしなくとも途中でセーブして共通ルートまで戻り、後ほどそのデータをロードして改めてルートAを進めるといったこともできる。

ここで注目したいのは、美少女ゲームの構造上分岐後の各ルートの登場人物は主人公を含め同じキャラクターでありながら別の記憶を持った人物であるということである。恐らく構造的にこのような特徴を持っている作品形態というのは美少女ゲームを除くとほぼ存在しない。通説としてSFジャンルなどでよく見られるループ構造に似ているが、SFが一番流行した小説というコンテンツもひとつの結末に向けて物語が収束するという点で若干異なる。長らくこれは美少女ゲームだけが持つ特異な構造であったが、最近のオタク文化圏においてこの仕組を意図的に活用するものも出始めている。

 

二節 オタク的文化圏での他文化への影響

 先述の通りオタク的文化というのは様々なコンテンツが互いに影響し合い、複雑に絡み合って形成されている文化であるが、美少女ゲームだけは十数年前まで表面上では他の文化と隔離されていたように思われる。元々美少女ゲームの多くがいわゆる「エロゲー」と呼ばれる十八禁ゲーム(主に性的描写が含まれるために18歳以上の年齢を対象としたゲーム)であり、販売される場所が限られていたこともあってかアンダーグラウンド的な文化色が強かったことがその理由の一つであると考えられる。そのため、キャラクターの造形や物語の傾向など水面下の部分での影響は互いにあったものの直接的な関わり合いというのは非情に少なかった。しかし、近年ではその垣根も徐々に少なくなってきており、十八禁ゲーム原作のアニメやコミカライズされた漫画も一般の書店やアニメショップ等で普通に販売されている。変化の理由の一つとしては、十八禁ゲームから家庭用ゲーム機用に性的描写をカットしたコンシューマー版ゲームの登場と、近年のオタク文化におけるメディアミックス戦略の普及が主な理由であると考えられる。

 ここで注目したいのが2010年にTBS系列で放送された『アマガミSS』とBS等で放送された『ヨスガノソラ』というアニメ作品である。『アマガミSS』は2009年にエンターブレインから発売されたPS2用恋愛シミュレーションゲーム『アマガミ』、『ヨスガノソラ』は2008年にSphereからPC用ゲームとして発売された同名の恋愛アドベンチャーゲームを原作としたアニメであり、どちらも原作は美少女ゲームにカテゴライズされる。これ以前にも美少女ゲームのアニメ化やOVA化というのは多く存在したが、美少女ゲームではシステム上ヒロインの数だけ物語が存在し、結末が複数あるというアニメとは異なる構造を持っていることが問題だった。そのためそういった形態の作品がアニメ化する際は、基本的にメインヒロイン(作品の主だった一人のヒロイン)のルートに焦点を当てて構成する、あるいはアニメオリジナルの展開を作るというアニメーションのスタイル従わせる手法を取っていた。しかし、ほぼ同時期に放送されたこの二つのアニメは美少女ゲームの構成するシステムをそのままにアニメ化を果たした作品である。

 『アマガミSS』では全26話を約四話ずつに区切ってそれぞれのヒロインのルートを構成している。1-4話を森島はるか(ヒロインA)編、5-8話を棚町薫(ヒロインB)編といったように4話完結の物語を複数繋げることによって『アマガミSS』という一つのアニメ作品を作り出しているのである。このアニメに登場するキャラクター達は全編を通して設定や背景、先輩や後輩といったキャラクター同士の関係は共通しているものの、それぞれの記憶や時間の連続性は各編ごとに独立している。3話と4話の主人公やヒロインは同一人物であり同じ時系列上に存在するが、4話と5話の間に時間の連続性は無く、全てのキャラクターは同じキャラクターでありながら、同時に別の人物でもある。

 『ヨスガノソラ』ではメインヒロインである春日野穹のルートを主軸に全12話が構成されているが、主人公は時系列別に全てのヒロインと結ばれつつ最終話を迎えるという大胆な手法が取られている。第1話から4話までで主人公の春日野悠とメインヒロインであり妹の春日野穹が舞台となる田舎の街へと引っ越してきて様々なキャラクター達と出逢うという物語の導入部分、図1で示すところの共通ルートを放送したのだが、続く第5話でヒロインの一人である天女目瑛のルートに入り6話で瑛ルートのエンディングを迎える。では7話がどうなるかというと、冒頭で4話の途中のシーンまで遡り主人公が4話放送時とは違う行動をとるのである。そしてそのままもう一人のヒロインである渚一葉のルートへと突入し、攻略後に時系列を遡る。これを12話まで繰り返し春日野穹以外のヒロインとのルートは「ありえたかもしれない可能性」の話として物語が構成されており、擬似的にセーブとロードを繰り返して違う選択肢を選びながら物語を進める様は美少女ゲームのシステムそのものである。

このヒロイン毎にオムニバス形式で物語を形成する手法は、同じく美少女ゲームの『センチメンタル・グラフティ』を原作としたアニメ『センチメンタル・ジャーニー』が最も古いとされており、その後数多くのアニメにその手法が取り入れられてきた。美少女ゲームをアニメ化するに当たってはヒロインごとに存在する物語をどのように作品の中に盛り込むかという課題に直面するわけだが、単一の作品の中に複数の物語が内包されているというアニメではあり得ない状況を、オムニバス形式で構成し直しそれぞれの物語を短冊化することで解消しているのである。しかし先述の二本の作品はそこから更にヒロインに焦点を当てる為の工夫として、舞台と設定を固定化しつつ時系列の初期化を行うという美少女ゲームの構造を目に見える形で表したのだろう。では何故既存のオムニバス形式ではなく新たな構造を取り入れた手法が必要とされたのかというと、恐らく現在様々なコンテンツで蔓延する所謂「キャラクタービジネス」が関係しているのではないかと考えられる。

元々美少女ゲームを販売するに当たって魅力的なキャラクターがパッケージに必要となってくるわけだが、一つの作品に「年上」「同級生」といったようにそれぞれが異なるデータベースに起因するキャラクターを複数登場させることにより幅広い層からの購入を検討させるのである。そしてプレイヤーは自分の好みのキャラクターを選択し続けることによってそのキャラクターに付随する物語を受容する。商業的な点から考えると美少女ゲームとはキャラクターカタログ的な側面を持つコンテンツでもあるのだ。この構造をアニメに導入することによって、物語のストーリー性そのものよりも主人公とヒロインの関係性を中心とした物語の進行と時系列の再編成が可能となり、結果どのヒロインにおいてもその全てが中心人物となり得るアニメが出来上がる。美少女ゲームが各コンテンツに与えた影響とはまさにこの部分なのではないかと考えられる。

日本のオタク文化には藤島康介の『ああっ女神さまっ』や赤松健の『ラブひな』、矢吹健太朗の描く『To LOVE -とらぶる-』など主にラブコメディを中心に、男性主人公一人に対して魅力的なヒロインが多数登場するという所謂「ハーレムもの」と呼ばれるジャンルが類型化する程に二次元的なオタク文化には女性キャラクターが溢れかえっている。が、その多くは美少女ゲームのヒロインのように主人公に想いを寄せるキャラクターが報われるようにはできていない。同じようにカタログ的に様々な女性キャラクターが登場するものの、多くのヒロインは最終的に主人公とメインヒロインの恋路が成功するための当て馬のように扱われる事も少なくない。しかし美少女ゲームのシステムではそうはならない。メインヒロインと呼ばれるキャラクターは確かに存在するにせよ、全てのヒロインは平等に、それぞれの物語は並列的に存在する。この構造がマンガ、アニメ、ライトノベル等に流用されることで単一の作品でありながらポストモダン的にそれぞれのキャラクターに付随する物語を想像させる。そしてそれらは二次創作を伴って消費者側の欲望と結びつき多くの人間に受容され、更にネットワークインフラが整った現代では製作者側にそれらがフィードバックされる形でマーケットを巨大化させていくという状況も多々見られるようになった。近年このシステムが広く許容され始めたことによって、溢れかえるキャラクター達は物語の立ち位置とは別の部分でも意味を持ち始め、それを肥大化させている。更に溢れかえる類型化されたキャラクター達はデータベースによりキャラ付けされ、そのデータベースをより強固なものへと変化させていく。アンダーグラウンドにあった美少女ゲームシステムは、表層に表れることで多くのキャラクターとそれを嗜好するオタクたちの希望の光になったが、同時に無限に増殖する消費者の欲望が収束することなく広がり動物的な欲望を満たし続けることに繋がった。

 

二章 美少女ゲームの歴史的推移

一節 『弟切草』と『雫』の誕生

 そもそも美少女ゲームは先程述べた通りゲームというカテゴリに存在しながら、その遊び方がその他のゲームとは大きく異なる。次はその源流は何処にあるのか、どのような歴史をたどり現代まで進化を続けてきたのかに焦点を当てて話を進めていきたい。

 まず美少女ゲームの主流であるアドベンチャーゲームには大きく分けて二種類のパターンが存在することを挙げておく。一つは『ポートピア殺人事件』等に代表されるコマンド打ち込み式で進めるもの、物語の間にゲーム要素(コマンド入力)を挟み正解ならば次へと進めるというタイプ。こちらは基本的に話の内容は一本道であり物語を進めるために物語とは独立したゲーム部分をプレイするのである。これは現代の『バイオハザード』のようなアドベンチャーゲームにも受け継がれており、同時にRPGのような別のジャンルのゲームにもこのタイプが源流であるものが存在する。

もう一つは『弟切草』が最も古いとされる、物語そのものを表現する方法としてアドベンチャーゲームを使用しているタイプ。こちらは単一作品内に複数の物語が存在し、ゲーム要素(選択肢)を挟むことによって物語そのものが分岐するため、正解不正解という概念が存在しない。選択肢によって主人公や登場人物が死亡してしまうといったものも存在するが、それはそういった一つの物語として受容されるものであり不正解の選択肢、ゲームオーバーとは根本的に異なる。美少女ゲームもこちらの系譜から進化してきたものであるが、こちらを語る前にもう少し以前のゲームについて語る必要がある。

 1980年当初、当時人気の絶頂にあった任天堂のファミリーコンピューター。このソフトデータが解析され当時のハッカーたちの間で「裏ソフト」と呼ばれるアダルトソフトが作られた。調べてみるとどうやら主人公である男性キャラを操作して女性キャラクターを追い回し、捕まえると所謂ご褒美CG(性的描写の含まれるCG)を表示するというアクションゲームを元にしたものから、野球拳や麻雀でCPU相手に勝てたら女性の露わな画像が表示されるなど現存するアダルトゲームの元になるものまで幅広く様々な作品が世に作り出されたようだ。中には現在の恋愛シミュレーションと似たシステムのように、女性と仲良くなるために自らのパラメーターを磨いていくといったものまであり、大きく区分するなら現在「エロゲー」と呼ばれるジャンルのソフトの元祖はこの辺りなのだろう。もちろん任天堂に無許可で開発、販売を行っていたことからその多くは任天堂から訴訟を起こされることとなり、また任天堂のハードもスーパーファミコンに移行したことによってこれらのゲームとそのクリエイター達はPCエンジンやPC98へとその舞台を移し、ハッカーインターナショナルを代表に多くの非正規ソフトが発売された。そして1992年スーパーファミコン用ゲームソフトとして『弟切草』がチュンソフトより発売され、ゲーム要素と物語がシステム的に融合した新たな試みは多くのユーザーに衝撃を与えた。

『弟切草』は前述した通りそれまでのゲームとは基本的な構造そのものが一線を画しており、新しいゲームの流れを生み出した象徴的な作品として現代まで語り継がれることとなった。また、一度クリアする度に以前まで存在しなかった選択が登場するようになり、前回とは違った行動をとることができるようになるという周回プレイが前提というゲームの在り方も『弟切草』が初めてであった。そしてこれが後のアドベンチャーゲーム全体に非常に大きな影響を与え、美少女ゲーム業界の転機となる『雫』を生むこととなった。

 『雫』は1996年にLeafから発売された一八禁のアダルトゲームソフトである。本作以前のアダルトゲームはプレイ画面にメッセージウィンドウが表示されることによって画面と文章が分割される形式がほとんどであり、そのため文字数が大きく制限され文章を読むという形態には適していなかった。(図2)そこで『雫』の開発陣、当時シナリオライターとして参加した高橋達也は『弟切草』の手法でアダルトゲームを作ろうというコンセプトでこのゲームを開発したと語っている。『雫』のプレイ画面は背景の上にキャラクター画を表示し、その上に半透明の文章レイヤーを重ねるというフォーマットになっており、美少女ゲームに重要なキャラクターの画像を失わせることなく文章をストレスなく読ませるという今までなかったゲーム画面を両立させた。(図3)このフォーマットも『弟切草』同様に『雫』以降の美少女ゲームに大きな影響を与え、その後の美少女ゲームの多くを物語と融合したアドベンチャーゲームとして確立させることとなった。

 

二節 プレイヤーと主人公

この『雫』の登場により変化したものとしてとりわけ注目しておきたいのが、主人公の構造的な変化である。それまでの美少女ゲームでは主人公とはプレイヤーに操作される立場であり、主人公の欲望を満たすための分身的な存在であった。しかし「弟切草」の手法を取り入れることによって物語にとっての主人公が登場し、プレイヤー=主人公という単純な形態は崩れることになった。プレイヤーは選択肢を選ぶことで主人公の行動をある程度意志に沿う形で操作することは可能であるが、そもそも選択肢に存在しない自由な行動をとることはできない。ではプレイヤーが主人公に同調できる作品群は衰退の一途を辿ったのかというと、実際には恋愛シミュレーションゲームの方面で生き残ることとなった。わかりやすい変化としては「プレイヤーネーム」の存在だろう。

『雫』以前の美少女ゲームやその他のRPGでもプレイヤーが自由に主人公の名前を設定できた。これにより全国に存在する様々な名前のプレイヤーがパーソナルデータを共有することで主人公と自分自身を同一視することが可能だった。が、小説やドラマ等がそうであるように物語が主軸となるコンテンツではそうはいかない。主人公を含め登場人物に感情移入することは可能だが、それまでの自己同一化とは異なる感情の共有の仕方がプレイヤーに求められた。更に、それに拍車をかけるようにゲーム自体の大容量化が進み、登場するキャラクターの台詞に声優による声が当てられキャラクター達が主人公の名前を呼ぶようになった。これはRPG等の他のジャンルのゲームも同様であり、ゲームに効果音やBGMではない音声が収録されることによりスクエア・エニックスの『ファイナルファンタジーシリーズ』やバンダイナムコゲームスの『テイルズシリーズ』のようなキャラクターと物語が先行したゲームを作る事が可能になった。こうなるとテキストの改変のみで行われていたプレイヤーネームの変更はほぼ不可能となり、美少女ゲームにおいて主人公はプレイヤーと隔絶したかのように思えた。

だが、恋愛シミュレーションの分野においてはシミュレーションの名の通りプレイヤーは美少女キャラクターとの擬似的な恋愛体験をすることが目的であるため、主人公とプレイヤーとの分断は歓迎できるものではなかった。そのため製作者側は「キミ」や「あなた」等の二人称を多用することで若干の不自然さは拭えないものの、キャラクターに音声を喋らせながらもプレイヤーネームの存在と両立させるといった手法を取っていた。また、最近ではゲームの更なる大容量化によりヒロインが主人公を呼ぶパターンをいくつも収録しておくことが可能となり大きな進化を遂げた。アドベンチャーゲームにおいてもその多くは主人公に声優が声を当てないことで、プレイヤーとの同一性を保つ方針が見て取れる。更に多くの美少女ゲームでは主人公の顔を隠し、あえて描写しないことによってそのキャラクター性を著しく削いでいる。結果、美少女ゲームにおけるプレイヤーと主人公の距離感は非常に曖昧な状態で現代まで守られる事となった。

この著しくゲームとしての自由度が削がれたアドベンチャーゲームと、プレイヤーと主人公との距離を頑なに守り続けているシミュレーションゲーム。一見相反する進化を遂げたように見えるこの二つのジャンルのゲームではあるが、その実「美少女ゲーム」というジャンルを構成する代表的なゲームとして、しばしばそれぞれのジャンルが混同される程にどちらも同じようなゲームとして受容されている。前述の定義の通りどちらも女性キャラクターとの恋愛の成就を目的とするゲームであるという共通点を持つためこのような混同が見られるわけであるが、これにより美少女ゲームをプレイするユーザー側はプレイヤーとして物語全体を俯瞰しながら主人公と自己を同一視しヒロインとの恋愛を成就させるという二つの視点を同時に持つ事が必要とされた。この二律背反的な事象でありながらそれぞれを是とするダブルスタンダードな状況はユーザー側に無意識的な歪みをもたらすこととなった。

 

三節 量産化する「メイド」と「妹」

 現在オタクの聖地と言われる秋葉原だけでなく全国へと展開される「メイド喫茶」であるが、この日本には馴染みがなかったはずの文化であるメイドが日本でヒットした理由も次の点を踏まえることによって紐解ける。

 鈴木考夫の著書である『言葉と文化』(岩波書店1973年)の中で筆者は[3]

 

自称詞(terms for self)と対称詞(address terms)の使用に関して現代日本語(主として東京方言)ではどのような法則性が見られるかを検討するわけだが(中略)例えば、子供が母親に腹を立てたとき、英語なら《I hate you!》と言うのを、日本語では、「お母さんなんてきらい」と言う。このyouや「お母さん」が、ここにいう代名詞的用法の対称詞である。(中略)このようなパタンをいろいろな年齢、地位、職業の人々について調べた結果、私は現在の日本人の自称詞と対象詞に関して、かなり整然とした規則を明らかにすることができた。

 この規則性を基本的に支えているものは、目上(上位者)と目下(下位者)という対立概念である。このことは敬語組織一般などから考えても当然のことであるが、対人関係用語としての自称詞、対称詞の使い方には、実に見事な上下の分極が見られるのである。

 

と述べている。自己の立ち位置から見て目上の者と目下の者に対する呼称の仕方が対称詞という概念からして異なるというものであるが、この規則を具体的に説明する上でひとまず家族というコミュニティを例に挙げる。

基本的に自分の目上に所属する人物に対しては「お母さん」や「兄貴」のように親族名称のみで呼ぶことができるが、名前を呼び捨てにして呼ぶことはできない。反対に自分の目下に存在する人物に対しては「ねぇ弟」や「娘は何をするの?」のように親族名称で呼ぶことはできず、代わりに「お前」や「あなた」のように人称代名詞で呼ぶことはである。この規則は「先輩」「後輩」や「先生」「生徒」のような別のコミュニティにおいて使われる代名詞にも置き換えることが可能である。

『雫』以降の恋愛アドベンチャーゲームでは前述した通り物語としての主人公とプレイヤーの分断が行われたのだが、それを完全な形で分離させる寸前でシミュレーションゲームと融合させ押し留めたのが、すなわちこの日本語の規則なのではないかと考えられる。

ここで登場するのが前述の「メイド」であるが、メイドは元々身分が低い役職であり、物語上でも基本的には主人公よりも身分が低い。そうなるとこのメイドであるキャラクターは主人公の名前が何で、またプレイヤーの名前が何であれ日本語では「ご主人様」と呼称することに不自然さがなくなるのである。これはプレイヤーが物語上で社会的にどのような立ち位置であり、プレイヤー自身が現実にどのような職業に就いていたとしても、メイドという設定のキャラクターと構築する関係においては「メイド」と「ご主人様」が成り立つのである。もともとどのような理由によってこのメイドという文化が美少女ゲーム、ひいてはオタク文化に取り入れられたのかは定かではないが、この文化が結果として受け入れられた理由としては、美少女ゲームで重要視されていた主人公とプレイヤーの関係性、またそれに関する日本語の規則性が根底にあった可能性が考えられる。

この日本語の規則性を用いるならば、2008年からアスキー・メディアワークスの電撃文庫より刊行され2010年にはアニメ放映もされた伏見つかさの『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を筆頭に、現代のオタク市場に溢れかえる「妹」キャラにも説明がつく。

美少女ゲーム業界は1990年から2013年の現代に至るまで年間500から600ほどのタイトルが発表されていると言われており新規参入や撤退が激しい業界である。その中で新参のメーカーがヒット商品を生み出すために、新しい手法に挑戦するよりもそれまでにヒットした作品を模倣する手段が多く取られ、しばしば似たような作品が生み出される事も少なくなかった。とりわけ革新的な影響を与えたのが『雫』を開発したLeafにより1997年に発売された『To Heart』である。この作品は『弟切草』のサスペンス風な流れを汲んだ『雫』とは別の方面、主にライトノベルからの影響を強く受けておりそれまでの多くのアダルトゲームとは違い爽やかな学園生活を描いている。更にそれまでユーザーが重要視していたセックスシーンよりも、そこに至るまでのヒロインとの日常のコミュニケーションに重点を置いた作風が当時としては革新的であり、その後の美少女ゲーム業界に「学園恋愛もの」といったジャンルを打ち立てることとなった。しかしこの『To Heart』やこの作品に影響を受けた作品が繰り返し消費される中で、一つのジャンルとして作品群を確立させながら一方である種雛形的な設定を作り出すこととなった。

多くのユーザーに手に取って貰うためには、様々なタイプのヒロインを幅広く登場させることが簡単な手法である。その内の一人でも興味を惹かれるキャラクターがいればユーザー側は購入を検討することになるからだ。そのため「学園」という舞台設定であれば主人公を中間の学年のキャラクターとして設定することで、年上(先輩や教師)、同学年(幼馴染や同級生)、年下(後輩)と年齢別に別けるだけでも数種類のキャラクターを複雑な理由付けをする必要が無いままに登場させることが可能になる。美少女ゲームだけでなくキャラクター消費活動に位置するオタク文化において非常に都合のいい舞台背景であるこの「学園もの」であるが、この年齢で分別したキャラクターを複数人登場させるといった手法は今日の美少女ゲーム業界においては学園という舞台装置を抜きにしても広く多用されるようになった。これが一章において登場したキャラクターカタログ的な側面としての美少女ゲームの要因である。

そしてここで登場するヒロイン達は、こちらも前述した通りシステム的にその全てが並列的に存在する。その全てのヒロインが登場する主人公との恋愛を目的としてストーリーが進行するわけだが、自分より目下の立ち位置に存在するキャラクターは各作品における主人公との恋愛を目的としながら、その呼称だけが抽象的な人称として存在することとなりプレイヤーと主人公の乖離を決定的にはしなかったのである。その結果全ての美少女ゲームユーザーはあらゆるヒロインの「お兄ちゃん」であり「ご主人様」であり、ヒロインにとっての「運命の人」となった。ネットスラングとして普及した「俺の嫁」という言葉でヒロインとの婚姻関係を望みながらも次々に「嫁」が増えていくオタクの欲望は、主人公とプレイヤーの中間位置に浮遊する自らを無意識的に自覚する故であると考えられる。

更に美少女ゲームの手法として多用されるようになったのはエンターテイメントとしての悲劇である。村上裕一は著書である『ゴーストの条件』(講談社2011年)の中で「美少女ゲーム想像力」として以下のように述べている[4]

 

美少女ゲームの本質とは、万能の主人公がトラウマを抱えたヒロインたちを所有するかのように癒していくゲームなのではなく、主人公が万能であるがゆえに問題を抱えたヒロインたちによってむしろ奪い合われている、ということにある。即ち、攻略されているのはヒロインではなく、むしろ主人公であり我々だということである。

 

美少女ゲームのヒロインは必ず何かしらの問題を抱えており、プレイヤーがその問題を解決することで疑似恋愛としてヒロインとの関係性を深めることが一般化している。プレイヤーは主人公が失敗しようとも、物語を俯瞰する神の目線でセーブとロードを繰り返し、その万能の力でヒロインの抱える問題を取り払う。つまりプレイヤーはヒロインとの純愛を渇望ながら、村上の論に引き付けて言うならば彼女らに我々が攻略されることを望みながらもその手段としてヒロインに悲劇を押し付けるのだ。この悲劇を解消できるのは「運命の人」となった主人公であり、主人公に意思決定を行わせるプレイヤーである。そしていつしかプレイヤーはより多くの悲劇を見聞することで己の欲求を満たし、機械的に選択肢を選ぶことに抵抗がなくなった。多くのヒロインをその悲劇から救うために義務的に様々なヒロイン達と関係を持つという、おおよそ恋愛とは程遠い回路を持つに至ったのである。

 

三章 『君と彼女と彼女の恋。』

一節 作品の概要

 『君と彼女と彼女の恋。』は20136月にニトロプラスより発売されたWindows用アダルトゲームソフトである。

主人公の須々木心一(すすき しんいち)は平凡な学園生だったが、ある日学園の屋上で不思議な少女・向日アオイ(むこう あおい)にいきなりキスを迫られる。その場は幼馴染みの曽根美雪(そね みゆき)に止められたが、アオイはその後も不思議な言動を度々見せる。友達付き合いがわからないアオイのために、心一は美雪に協力を頼み込み、3人で“友達”関係を始めていく。(Wikipedia参照)[5]

物語の大まかな概要としてはこのように、登場するヒロインが二人であるオーソドックスな恋愛アドベンチャーのあらすじになっているが、作品全体の構造としては解説が足りないためいくつか補足していく。

まずこのゲームは普通にプレイしていくとヒロインのどちらとも結ばれないという造りになっている。平凡な主人公は平凡な人生を送るという物語の結末が表示されて終わりを迎える。が、そのエンディングは作中で主人公の心一がプレイしていた携帯ゲームである『君と彼女と彼女の恋』のエンディングであるように処理され、物語は再び主人公の目線へと戻される。ではどのようにしてヒロインとの恋愛に進むかというと、ヒロインであるアオイの提示する「世界をアップデートするか否か」という旨の選択肢に肯定するのである。この向日アオイというキャラクターは自身をエロゲーのキャラクターであると発言しており、あらゆるエロゲーのヒロインを総括する意思である「神さま」と交信を行いイベントCGを収集するのが目的だと言う。プレイヤー側から見れば非常にメタ視点的なキャラクターであるが、主人公やその他のキャラクターからは「イタイ娘」扱いされている。このアオイが提示する選択肢はゲーム中一度しか登場せず、「アップデート」した後のゲームしおいては提示されない。

この選択肢によりアップデートされた世界で心一は憧れていた美雪と急速に仲を深め、その後の選択肢で消極的な選択を選ばなければ最終場面で美雪に「永遠の愛を誓う」という選択肢が提示され、二人は結ばれることになる。ここで曽根美雪のルートはエンディングを迎え、美少女ゲームのセオリーとしてプレイヤーは次にアオイのルートへと入ろうと物語を最初から始める。が、周回プレイをして新しく提示される選択肢は高確率で一度見た美雪ルートへと話を進めるものであり、またしても美雪との「永遠の愛を誓う」物語へと収束するのである。アオイルートへと入るにはいくつかの選択肢で組み合わされた一通りを通る道だけであり、困難を極める。

そして一通りの道を見つけ出しアオイルートへ入ると、最初は純愛的なストーリーが展開していくのだが次第にアオイが不審な行動を取るようになり、アオイが別のキャラクターと浮気していることが明らかになる。その理由はアオイがエロゲーのキャラクターであり、イベントCG(ここではセックスシーンのCGを指す)を回収しなければ物語が続かないから、心一との恋愛が続かないからであるとアオイ自身が述べる。ここでアオイを拒絶するとまたしても美雪と「永遠の愛を誓う」ルートへと軌道が修正されるのだが、エロゲーのヒロインであるアオイというキャラクターを肯定する選択肢を選ぶと美雪がアオイを殺害するという物語が展開される。一見すると普通の修羅場であるが、美雪は「永遠の愛を誓ったのに何故私を選ばないの?」と言い放ち、主人公を混乱させる。ここで糾弾されていると感じるのは「永遠の愛を誓う」選択肢を選んだプレイヤーであり、直後に美雪は「心一じゃなくて君に聞いてるの」というプレイヤーに語りかける台詞を言う。一章で述べた美少女ゲームにおいては各ルートでのキャラクターは同一人物でありながら同一存在ではないという原則に違反する発言をするのである。

この場面で美雪と恋愛をするべく世界を書き換えたのもプレイヤーの選択であり、キャラクターとしての心一では選ぶことのできなかった選択をしたのもプレイヤーであり、美雪と恋愛をして永遠の愛を誓ったのもプレイヤーであるのだと言及される。タイトルの『君と彼女と彼女の恋』の「君」とはプレイヤーを指しているのだということにプレイヤー自身はここでようやく気付かされる。美雪は一周目でアオイが交信していた「神さま」との連絡手段を手に入れており、自身の記憶を外部にセーブしてゲームが始まると記憶をロードして前回までのプレイヤーとの記憶を受け継いでいるのだと言う。美雪にとって主人公の心一は既にプレイヤーの分身としてのアバターでしかなく、自分が世界をアップデートするのだと言い心一をも殺害するとゲーム画面が強制的に終了し、別のプログラムが立ち上がる。この過程でゲーム内のキャラクターであるはずの美雪によってゲームのシステムそのものが書き換えられる。

再び『君と彼女と彼女の恋。』のゲーム画面が表示され冒頭と同じ文章が表示されるが、このゲームは既に美雪によってアップデートされており、そこに登場するはずのアオイは存在せずその他にも美雪の都合が良いようにシナリオが書き換えられている。このルートへ突入すると主人公は美雪に監禁され飼い殺されるかのように行動が制限されており、プレイヤーは美雪と心一の恋愛模様を描いた同じシナリオを延々と読ませられる。この世界でのアオイは携帯ゲームの『君と彼女と彼女の恋。』の中に登場するヒロインとして設定されており、主人公同様行動が大きく制限されている。更にそれまでのセーブデータは全て消去されており復旧できない上に、ゲームを終了して再起動してもタイトル画面へ戻ることすら許されない。また、この世界において美雪はプレイヤーと心一を明確に区別しており、心一を通さずプレイヤーに直接話しかけてくる場合があり、その際ゲーム画面のテキストを通さず直接プレイヤー側に話しかけてくるような演出がなされている。(図4)その後隙を見つけて美雪の元を抜け出し、改めて世界を「神さま」に干渉できるキャラクターのいない世界にアップデートするまでがこのゲームの流れとなっている。

再び世界を変革する際にプレイヤーは、主人公の心一を通してプレイヤーとの恋愛を望む美雪とアオイの二者択一を迫られる。この選択肢はゲーム中一度しか選択できず、セーブを書いてやり直すといった手段は許されない。三度のアップデートを終えた世界ではアオイと美雪のどちらかしか存在せず、再び世界を変革する手段を持たないキャラクター達にとってそれが世界のあるべき形となる。

 

 二節 クリエイター「下倉バイオ」

 本作品を制作するにあたり脚本を担当した下倉バイオは

 

一般的な美少女アドベンチャーゲームが、“5つほどの選択肢からどれかを選び、CG100%にしたりトゥルーエンドを見るために、他の4つのルートも全てプレイしなければならない”といった義務的なものになってしまっているため、本作品ではヒロインを2人に絞り“どちらを選ぶか”の二者択一(オルタナティブ)にするストーリー構成とした

 

と述べている[6]。前述の概要の通りわざと美雪と結ばれない選択肢を選んだり、選ばなかった選択肢を虱潰しにすることでCGを全て揃えようとしたり、そもそも美雪との恋愛が物語として終結したにも関わらずアオイとも恋愛しようとプレイヤーが考えなければ美雪によるシステムの書き換えは起こらないのである。元々アオイと恋愛をするべくこのゲームを買ったユーザーからすると些か卑怯な作りとなっているが、下倉の発言から考察するならば物語として表現するのが困難であったのであり、可能ならばアオイルートにも同じ罠が貼られていたと考えられる。本作は美少女ゲームのシステムを理解している熟練のプレイヤーにこそ、その理不尽さが降りかかる作品なのである。この作品の発売日直前にニトロプラスのホームページからCGの収集率を100%にするファイルが配布されたのだが、このファイルを適応すると閲覧可能なCG100%になるもののゲームを遊ぶことはできなくなる。これも前述の下倉の言葉から考察するならば、義務感や作業でゲームを買うならばゲームそのものを遊ぶ必要がないという皮肉だと取ることができる。

 また、同社の虚淵玄との対談の中で「マーケティング的な手法がきっちりとできあがりつつあったから、冒険する作品が少なくなってしまった。」と言う虚淵に対し下倉は「個人的には“今やらなくては!”という漠然とした焦りというか危機感があったんですね。」と応えている[7]。ここで述べられている下倉の危機感とは本論冒頭で述べた危機感と同じものであり、それに対する下倉バイオのクリエイターとしての回答が『君と彼女と彼女の恋。』であると考えられる。オタク的消費の中に存在するマーケティングにおいてキャラクターは消費されるものであり、プレイヤーはそれに何ら疑問を持たず全能である物語の観測者と主人公の目線を同時に所有する。プレイヤーはキャラクターとの純愛を謳いながら様々なヒロインのルートを選択し、選択することは義務であるからとその責任を放棄する。この安全圏にいるユーザーに対して下倉バイオは以前から問題意識を持っていることが同じく脚本を務めた『スマガ』の構造からも見て取れる。

 『スマガ』は同じく下倉バイオの脚本でニトロプラスにより20089月に発売されたアダルトゲームソフトである。ここでは物語の概要は省き、その構造に着目して話を進める。主人公は多少の制約はあるものの何度死んでも「神さま」の力により直前から人生をやり直せるという能力を生かして三人のヒロインを攻略していこうとするのだが、その能力を使ってやり直しても恋仲になったヒロインAを死なせてしまう。これ以上やり直せないと「神さま」に言われ、主人公は新たな人生として物語の冒頭から人生をやり直す。しかしそれも無駄となり更にこちらの人生で恋人となったヒロインBをも死なせることとなった。更に人生を最初からやり直すが、同じようにヒロインCが死亡すると「神さま」にもうやり直すことはできないと言われる。が、新たに生み出される主人公にアドバイスをするためにそれまでの主人公は「神さま」と同じ存在になることを選択する。ここで新たに登場する主人公には声優によって声が当てられており、「神さま」となった主人公(プレイヤー)と物語における主人公の分断が行われるのである。この先のストーリーでようやく主人公はヒロインと結ばれるハッピーエンドを迎えることができるのであるが、そこには最早主人公と己を同一視するプレイヤーは存在しない。

 『スマガ』における「やり直し」は構造的に見るならばプレイヤーが美少女ゲームをプレイする上でヒロインと結ばれるために繰り返すセーブとロードである。が、プレイヤーが主人公としてゲームを進める間はどれだけ「やり直し」を繰り返してもヒロインと結ばれることはない。安全圏にいるプレイヤーが主人公と分離され、プレイヤーが主人公の意思決定を支えるというゲームとしての構造そのものに立ち返ることで始めて美少女ゲームとして完成するのである。更にこの作中で使われている「神さま」という装置は『君と彼女と彼女の恋。』の中で同じ言葉で登場している。『スマガ』における「神さま」は主人公を常にサポートするべく様々に干渉してくる存在であるが、『君と彼女と彼女の恋。』ではイベントCGを回収させるべくアオイを遣わした全てのエロゲーのヒロインを総括する意志として登場する。一見すると全く別の存在である様に思われるが、どちらもその役割からプレイヤーの集合的無意識を装置として使用した呼称であると言える。物語の中に主人公と分離した存在であるプレイヤーを登場させることにより、プレイヤーに自身がゲームのプレイヤーそのものであることを自覚させることが目的であると考えられる。

 また、下倉は自身のTwitter

 

「スマガ」でゲーム的に表現したテーマを「まどか」ってアニメの媒体だとこういう風に展開できるのかー、っていうのがあって、その展開をもう一回ゲームに引っ張り込んで再構成したのが「ととの。」だみたいな側面もあります。

 

 と語っている[8]。ここで述べられている「まどか」は『魔法少女まどか☆マギカ』、「ととの。は『君と彼女と彼女の恋。』の略称である。『魔法少女まどか☆マギカ』は虚淵玄が脚本を務めた2011年に放映されたアニメであるが、「魔法少女」という主に女児向けアニメとして台頭してきたジャンルを用いながら作品内で凄惨な表現をすることによって視聴者に衝撃を与えた作品である。この発言を元に考察するならば『スマガ』でプレイヤーを浮遊した安全圏からさらに物語の外側に配置するという表現方法をとった下倉が、アニメという最初からプレイヤーの存在しない表現媒体において『魔法少女まどか☆マギカ』が表現した視聴者を安全圏から引き摺り下ろす手法をゲームに取り込み再構築した作品が『君と彼女と彼女の恋。』であると言えるだろう。

 

 三節 二次元との恋愛

美少女ゲームという表現媒体において2002年にKIDより発売された『Ever17』を代表に、2012年にYatagarasuより発売された『古式迷宮輪舞曲』など10年以上に渡りプレイヤーを物語のメタ視点的な立ち位置に配置する手法の作品群は作り続けられてきた。『君と彼女と彼女の恋。』がこれらの作品群の中で画期的なのは、プレイヤーを物語の装置として配置するのではなく、あくまでもヒロインとの恋愛の相手として徹底している点である。ヒロイン側の二人も自身がゲーム内のキャラクターであることを自覚しつつ、それを踏まえた上でプレイヤーとの恋愛を求める。さらに物語を通すことでシミュレーションゲームよりも濃密にヒロインとの関係性を描き、プレイヤー自身に選択することの責任を追求させることに成功している。単に表示される選択肢を選ぶことでヒロインに付随する物語を享受していたプレイヤーは、都合良く主人公へ視点を重ねることも許されず文字通り安全圏から引き摺り下ろされる形となる。お互いの立場に格差のあった二次元世界との疑似恋愛はここでようやく対等な立場での恋愛となった。

そもそもキャラクターとの対面的な恋愛であれば、主人公をコミュニケーションの装置として舞台背景以外のアイデンティティを削いだ恋愛シミュレーションも存在するが、そこに存在するのはプレイヤーが選択した物語ではなくプレイヤーの理想であるキャラクターが自動的に紡ぐ都合のいい設定だけである。下倉は物語における主人公とその主人公に選択を強要するプレイヤーを明確に区別することで、万能でない自分自身をプレイヤーに自覚させ、その上でヒロインとの恋愛関係を築かせようとしたのである。そこには都合よく主人公を好きになるヒロインも、その主人公の視点を借りるプレイヤーも存在せず、全てがプレイヤーの選択の結果により成り立つ関係である。

『君と彼女と彼女の恋。』の公式ホームページではプレイヤーによるレビューが読めるようになっているが、この作品を終えてプレイヤーが抱いた感情としては罪悪感が圧倒的に多かった[9]。恋愛と称して様々なヒロインを救いながらも、その実悲劇を押しつけながら責任感もなく物語を俯瞰していた事が露呈したという衝撃は多くの美少女ゲームユーザーのゲームをプレイする感覚の根幹を揺るがしたことが窺える。この作品が訴えたのは一般倫理においてある種神聖視されている恋愛という感情に起因する事象が、二次元的なオタク文化圏において大量消費されるキャラクター共に使い捨てられている現状そのものだ。この事実に消費者はヒロイン側からの感情を示され、システムを覆すことで美少女ゲームの構造そのものを否定しかねない作品が出現し、プレイヤー自身が罪悪感を覚えるまで気付けなかったのである。

 

 終章 動物的消費からの脱却

本論では美少女ゲームを構成するシステムとそれが普及するにあたって蔓延した問題を辿り、動物的消費の源流には美少女ゲームの構造が深く関わっている可能性を見出した。更に美少女ゲームがその歴史の中で獲得した形態とそれに伴うユーザー側のねじれについて、日本語というテクストを用いて検証し、その問題点を明らかにした。以上の点を踏まえ、その問題点に製作者側から言及した『君と彼女と彼女の恋。』を読み解くことで、美少女ゲームの構造から派生した問題である動物的消費の打開策について探ってきた。

 「萌え」とは必ずしも恋愛感情に起因する感情であるとは限らないが、少なくとも美少女ゲームというコンテンツにおいて「萌え」は恋愛感情を含む好意と同義である。オタク的文化圏において消費者が欲求する「萌え」(二次元との恋愛)は動物的な欲望を元にして次々と消費されることで疑似的に機能してきたが、『君と彼女と彼女の恋。』は消費されるキャラクターの視点から物語を展開し消費者に衝撃を与えると同時に、キャラクターが大量消費され続ける動物的な欲望とそれを中心に展開される現代のオタク的文化市場を批判した作品と言える。この作品の中ではプレイヤーは作品の中に組み込まれる事はなく、主人公と意識や視点を共有することもない。ゲームの選択肢対して責任を負わなければならないひどく窮屈な状態に置かれるが、恋愛を掲げる以上それは当たり前のことであるべきなのだ。

 オタク的文化圏に数多存在するキャラクター達は、その全てがメタ視点を持つべくもなく、多くの場合は主人公やキャラクター同士の関係性を通してしか我々は彼女らとコミュニケーションを取る術を持たない。その意味で『君と彼女と彼女の恋。』が取った手法を一般化することは非常に困難であると言える。だが、消費者自身が己の立ち位置を明確にすること、キャラクターへの好意そのものに責任を持つこと。下倉バイオが本作品を通して消費者の意識の変革を行いたかったのはこの二点ではないだろうか。それはオタク達が無視し続けていた罪悪感を浮き彫りにし、その事実にさいなまれるという可能性すらある。しかし、それは「萌える」ことにより自らの欲求を満たすオタクの最低限の義務ではなかろうか。この義務を果たさない限りオタク達は動物的に欲求を満たすことしか叶わず、やがて平均化される「萌え」の中で真の動物と成り果てるだろう。

 



[1] 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社 200111

[2] 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社 20073

[3] 鈴木考夫『言葉と文化』岩波書店 19735

[4] 村上裕一『ゴーストの条件』講談社 20119

[5] 「君と彼女と彼女の恋。」(201311月閲覧)(Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%A8%E5%BD%BC%E5%A5%B3%E3%81%A8%E5%BD%BC%E5%A5%B3%E3%81%AE%E6%81%8B%E3%80%82)

[6] TECH GIAN20134 月号エンターブレイン(20132月) p.138-143.

[7] 「君と彼女と彼女の恋。 インタビューVol.3(201311月閲覧)

(http://www.nitroplus.co.jp/game/totono/interview/03.php)

[8](201311月閲覧) https://twitter.com/shimokura_vio/status/392842609456316416

[9] 「君と彼女と彼女の恋。 プレイレビュー[プレイヤー編01](201311月閲覧)

(http://www.nitroplus.co.jp/game/totono/playreview/player01.php)

 

 

 

参考文献リスト

東浩紀『動物化するポストモダン』講談社2001

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社 2007

鈴木考夫『言葉と文化』岩波書店1973

大塚英志『キャラクター小説の作り方』講談社 2003

大塚英志『定本 物語消費論』ノマド業社 2001

大塚英志『キャラクターメーカー』アスキー・メディアワークス 2008

大塚英志・東浩紀『リアルのゆくえ』講談社 2008

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』NTT出版 2005

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』早川書房 2008

宇野常寛『リトルピープルの時代』幻冬舎 2011

宇野常寛 濱野智史『希望論』日本放送出版協力 2012

小田切博『キャラクターとは何か』筑摩書房 2010

斎藤環『戦闘美少女の精神分析』太田出版 2000

斎藤環『キャラクター精神分析』筑摩書房 2011

宮台真司『終わりなき日常を生きろ』筑摩書房 1998

桝山寛『テレビゲーム文化論』講談社 2001

四方田犬彦『「かわいい」論』筑摩書房2006

暮沢剛巳『キャラクター文化入門』NTT出版2010

小池一夫『キャラクターはこう活かす』小池書院 2001

小池一夫『小池一夫のキャラクター新論』小池書院 2011

新城カズマ『ライトノベル超入門』ソフトバンククリエイティブ 2006

新城カズマ『物語工学論』角川学芸出版 2009

デジタルゲームの教科書製作委員会『デジタルゲームの教科書』ソフトバンククリエイティブ 2011

師茂樹「一般キャラクター論のために 『テズカ・イズ・デッド』再考」(ユリイカ 20086月号 151-157 青土社)