コミュニケーションによって構築されるキャラクター「やる夫」

矢菅敦也

 

第一章 はじめに

第二章 キャラクターとは

 第一節 「キャラクター」と「虚構の登場人物」

 第二節 「キャラクター」と「キャラ」

第三章 やる夫の「キャラ」

 第一節 やる夫とアスキーアート

 第二節 「やる夫スレ」と「安価」

第四章 「私」の「キャラ」

 第一節 第三者間のコミュニケーション

 第二節 「私」とのコミュニケーション

第五章 おわりに

 

脚注、参考文献、図表


 

第一章 はじめに

 

 本来は「特徴」や「性格」「人格」などの意味を持つ「キャラクター」という言葉は、漫画やアニメーション、ゲームなどのフィクション作品の登場人物を指す言葉に変わっていった。そして現代においては、現実の人間に対しても、後者を意識した意味で、日常的に用いられる言葉となっている。本稿ではそのような現代のキャラクターがどのように成り立っているのかを、インターネット上で生まれたキャラクターである「やる夫」(図1参照)を通して考察することを目的とする。

 やる夫はインターネット上の電子掲示板、2ちゃんねるで生まれた、アスキーアートで表現されるキャラクターである。アスキーアートとは主にコンピューター上での視覚的表現技法のことであり、文字や記号の形を線に見なしたり、文字や記号の濃淡の差を用いる(図2参照)ことにより、オリジナルの絵やイラストを表現したものや、既存の絵やイラストを文字や記号を用いて再現したものを指す。広義では、電子メールなどにしばしば用いられる「顔文字」もアスキーアートに含まれる。アスキーアートは世界中で使用されているが、ひらがな、カタカナ、漢字、英字、数字、記号などの多様な文字種を組み合わせて用いることができる日本では、特に発展している文化であり、やる夫はその文化から生まれたキャラクターの一人である。「一人称がやる夫であることが多い」「語尾が○○だおであることが多い」などの最低限の設定と、アスキーアートによるいくつかの表現しか与えられていなかったやる夫は、今では「やる夫スレ」と呼ばれる物語作品を投稿するための、専用電子掲示板が設置されるまでに至っている。ここで用いられている「スレ」の意味は以下の通りである。

 

 スレッド(thread)は、英語で「糸」という意味だけど、話の「道筋」や「脈絡」といった意味もある。パソコン関連でスレッドというと、おおむね次の二つの意味がある。

(略)

 もうひとつは、インターネットやグループウェアの電子掲示板や電磁会議室で、特定の話題に対する一連の書き込みをスレッドという。こっちの方が、話の脈絡という意味に近い。また、一般のパソコンユーザーは、こっちの意味でスレッドという言葉を見聞きすることが多いと思う。

 つまり、誰かが新たな話題(テーマ)を書き込んで、別の人がそれに対して意見を書き込む、それに対してまた別の人が意見を書き込む、あるいは最初に話題を提供した人が返事を書き込む。こうして、ひとつの書き込みからスレッドができていく。

(略)

 こうした掲示板や会議室では、スレッドを略して「スレ」と呼ぶことも多い。そして、新たな話題となる書き込みをすること、つまり新たなスレッドを作ることを「スレを立てる」という。[]

 

 ここで注意したいのは、「やる夫スレ」はやる夫に関する話題をまとめたものではなく、やる夫が登場する物語作品とそれに関する話題をまとめたものである点である。「やる夫スレ」が投稿される(立てられる)専用電子掲示板では、複数の物語作品が展開されている。また、専用掲示板も一種類だけではなく、物語作品の性質に合わせた複数の掲示板が設置されている。例えばやる夫と同じく2ちゃんねるで生まれた「やらない夫」(図3参照)が主人公を務める作品の投稿を想定して設置された「やらない夫板II[]や、短編作品の投稿を想定して設置された「小さなやる夫板」[]などが存在している。また、「やる夫まとめサイト」[]と呼ばれる、「やる夫スレ」を読みやすくまとめることを目的としたWebサイトも複数つくられている。それほどまでに、数多くの作者が「やる夫スレ」を創作しているのである。それは同時に、数多くの作者がやる夫というキャラクターを捉えようとしていることを意味する。そのやる夫を考察することにより、特に現実の人間に対して用いられる「キャラクター」とは何かを考察することが、本稿の狙いである。

 虚構の存在であるやる夫を通して現実の人間を考えることは、疑問に感じられるかもしれない。しかし、斎藤環は『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』において、フィクション作品を通して、現実で用いられているキャラクターとは何かを考察している。

 

 本来ならここで、[現実での]スクールカーストやキャラの事例を挙げておくべきかもしれない。しかし本書では、あえてフィクションの中に事例を求めることにする。誇張を含んだ表現においてこそ、キャラの機能や意味が検証しやすくなると考えるからだ。[]

 

 また、村上雄一は『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』において、以下のように述べている。

 

 我々は彼ら彼女ら[キャラクター]について考えることで、我々自身の生の条件についても同時並行的に思考することとなる。[]

 

 このように先行研究においても、キャラクターを通して現実の人間について考察を加えているものが見られる。したがって、本稿においてもその考えに則り、やる夫及び「やる夫スレ」を通して考えを進めていく。

 

 

 

第二章 キャラクターとは

第一節 「キャラクター」と「虚構の登場人物」

 

 まずは既存のキャラクター論について整理したい。キャラクターという分野はこれまでに、大塚英志、伊藤剛、東浩紀、宇野常寛、斎藤環、新城カズマなどをはじめとし、多くの人々が研究の対象としている。それらの考えを通して、本稿における用語の定義を明確にするのが目的である。

 最初に注目したいのは、伊藤剛によるキャラクターの考察である。伊藤剛は、やおい同人誌を制作していた十代後半の少女たちから「『NANA[]は「キャラ」は弱いけれど「キャラクター」は立っている」[]と指摘を受けた経験から、『テヅカ・イズ・デッド』において「キャラ」と「キャラクター」を区別することを提唱した。伊藤剛による「キャラ」と「キャラクター」の定義は次の通りである。

 

 [キャラとは]多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

 

 一方、「キャラクター」とは「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの[]

 

 そして、伊藤剛は上記の定義を用いて「キャラが弱い(強い)」とは何かを考えている。彼によると、「キャラが弱い(強い)」とは「キャラとしての強烈な存在感を持たない(持つ)こと」としている。

 

おそらく「キャラ」であることの強度とは、テクストに編入されることなく、単独に環境の中にあっても、強烈に「存在感」を持つことと規定できる。だからそれは、作品世界の中でのエピソードや時間軸に支えられることを、必ずしも必要としない。その程度には「キャラクター」としての強度=立つことと、「キャラ」としての強度とは、独立の事象なのである。[10]

 

 また、伊藤剛は二次創作におけるテクストの中においてもキャラが「存在感」を持つことから、キャラが持つ「(テクストの)横断性」にも注目している。

 

 つまり、『NANA』に対して「キャラが弱い」といった少女のいう「キャラの強度」とは、テクストからの自立性の強さというだけではなく、複数のテクストを横断し、個別の二次創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる「同一性存在感」の強さであると考えることができる。この「横断性」こそが、重要な点なのである。[11]

 

 なお、ここで用いている「二次創作」について、伊藤剛は以下のように説明しており、本稿でも同様の意味として、この言葉を捉える。

 

「二次創作」とは、ある作品のキャラクターを用い、読者が各々に制作するマンガなどの表現行為一般を指す言葉だ。表現手法にはマンガの他、イラスト、小説、近年ではゲームやアニメーションが用いられる。また、発表の方法には自費印刷・販売による「同人誌」や「同人ソフト」のほか、Webサイトでの公開がある。[12]

 

 伊藤剛による定義において注目しておきたいことが二点ある。一点目は、「キャラクター」は「テクストに支えられていることを前提としている」点である。もう一点は、「キャラ」は「(強弱に差があるものの)複数のテクスト間を横断できる、同一性存在感を感じさせるものである」としている点である。伊藤剛はこの点を「テクストからの遊離可能性」[13]と表現している。従って、「キャラ」とは「テクストからの遊離可能性を備えているものである」と表現することも可能である。

 次に、東浩紀によるキャラクターへの言及について紹介する。東浩紀は現代のキャラクターの本質を「メタ物語性」に求めている。以下は『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』からの引用である。

 

 ぼくは、『ゲーム的リアリズムの誕生』という本で、現代のキャラクターの本質を「メタ物語性」に求めています。メタ物語性とはなかなか聞き慣れない言葉ですが、ここでは、ひとりのキャラクターが、複数の物語を横断して存在し、複数の運命を生きるさまを意味しています。つまり、同じキャラクターが、異なる作品や異なる物語のなかに登場するということです。

 小説にしろマンガにしろ、登場人物は、その存在がひとつの物語に閉じこめられているかぎりは、あくまでも登場人物でしかなく「キャラクター」になっていない、というのがぼくの考えです。(略)もう少し抽象的に言えば、登場人物が「キャラクター」になるとは、その存在が原作を離れ、メディアミックスや二次創作の空間の中で、もともとの物語で与えられた生とは矛盾するさまざまな生(たとえば、じつはホームズが女だったなど)を生き始めることだと定義したいのです。[14]

 

 また、東浩紀は前述されている『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』において、伊藤剛の指摘した「テクストからの遊離可能性」に対して、次のように述べている。

 

「テクストからの遊離可能性」は、本論で「メタ物語性」と呼んでいるものに等しいとも考えられる。[15]

 

 ここで注目しなければならない点は、伊藤剛が「キャラはテクストからの遊離可能性あるいはメタ物語性を備えている」としている一方で、東浩紀は「テクストからの遊離可能性あるいはメタ物語性を備えているのがキャラクターである」としている点である。ここから、伊藤剛と東浩紀が用いている言葉の間にはズレが存在していることが確認できる。すなわち、伊藤剛による「キャラ」の定義は、東浩紀の言葉によれば「キャラクター」の定義に相当しているのである。しかし、ここで問題となるのが、伊藤剛の指摘する「キャラクター」という言葉は、東浩紀の言葉では何に相当するのかという点である。

 この問題を解決するために、村上裕一の指摘を紹介したい。村上裕一は『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』において、伊藤剛による定義に言及し、伊藤剛の用いる用語と現代で用いられている用語の間にズレが存在することを指摘している。

 

例えば、伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』で行った分析は根本的である。

 彼は、マンガなどでしばしば起きる「キャラ立ち」という現象に注目し、<キャラ>と<キャラクター>の区別を試みた。「キャラ立ち」というのは、「虚構の登場人物」が作品外でも存在感を示す現象のことである。彼の語彙では、<キャラクター>が「虚構の登場人物」に対応し、<キャラ>が「キャラクター」に対応する。つまり「キャラ立ち」とは<キャラクター>が<キャラ>になること、我々の言い方では、「虚構の登場人物」が「キャラクター」になることに他ならない。[16]

 

 村上裕一による「伊藤剛の指すキャラ」は「(我々の言葉では)キャラクター」に対応するとの指摘は、先述した「伊藤剛の指すキャラ」は「東浩紀の言葉ではキャラクター」に対応しているという点を指摘できている。また、村上裕一による「キャラ立ちとは虚構の登場人物がキャラクターになること」の指摘を用いることにより、東浩紀によるキャラクターの考えを、「(虚構の)登場人物が(メタ物語性を備えることで)キャラクターになる」という考えに整理することが可能となる。このことから、村上裕一の指摘は適当であると考えることが可能である。従って、本稿では村上裕一の考えに則り、考えを進めていく。

 これ以降本稿において、特別に但し書きなどのある場合を除き、「キャラクター」とは「メタ物語性(テクストからの遊離可能性)を備えた虚構の登場人物」であると定義する。

 

 

第二節 「キャラクター」と「キャラ」

 

 前節で扱ったキャラクターの定義を用いて、改めて「キャラ立ち」について考えてみる。村上裕一の言葉によると、「キャラ立ち」とは「虚構の登場人物がキャラクターになること」である。ここに「キャラクターとはメタ物語性を備えた虚構の登場人物である」という定義を用いると、「キャラ立ち」とは「虚構の登場人物がメタ物語性を備えること」と表現することが可能となる。しかし、この表現には問題がある。それは、現実の人間に対して用いられる場合のことが想定されていない点である。現代において「キャラ立ち」という言葉は、虚構の登場人物に対してだけではなく、現実の人間に対しても用いられている。例えば麻生太郎は20079月に行われた自民党総裁選挙での街頭演説において、「キャラが立ちすぎて、古い自民党の方々に評判の悪い麻生太郎です」[17]と述べている。

 キャラはキャラクターを省略した言葉であり、キャラクターには本来「特徴」という意味がある。従って、現実の人間に対して「キャラ立ち」という言葉が用いられる場合には、「強い特徴がある」辺りの意味で用いられている可能性が考えられる。しかし、「キャラ立ち」に限らず、「キャラ」という言葉は様々な用法で現実の人間に対して用いられている。例えば「キャラがかぶる」「キャラをはみだす」「キャラチェンジ」「キャラ替え」「いじめられキャラ」「オタクキャラ」などである。それらを全て、「特徴」やそれに類する意味で捉えるのは困難である。キャラクターが従来とは異なる意味を獲得したように、キャラもまた、キャラクターを省略しただけではない、異なる意味を獲得していると考えることが可能である。

 斎藤環はフィクションにおけるキャラクターの研究に留まらず、様々な分野におけるキャラクターの捉え方から、キャラクターとは何かを研究した。その中には、現実の人間に対してキャラという言葉を用いる場合についても言及されている。斎藤環は『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』において、学校における教室空間で生まれるグループ間の上下関係、スクールカーストと、それを前提に行われるコミュニケーションとキャラの関係性を指摘し、その機能について言及している。

 

 次に「キャラ化」のメリットについて考えてみよう。

 その最大のものは、コミュニケーションの円滑化である。相手のキャラがわかれば、コミュニケーションのモードも自動的に定まる。キャラというコードの便利なところは、もとの性格が複雑だろうと単純だろうと、一様にキャラという枠組みに引き寄せてしまう力がある点だ。(略)その意味で「キャラ」とは、ある種のコミュニケーション・モードが凝集された擬似人格、とかんがえることもできる。[18]

 

 斎藤環は、キャラとはコミュニケーションを円滑にするものであるとし、今日のコミュニケーションはキャラを前提に行われていると指摘した。例えば、「いじられキャラ」に対してはひたすら「いじる」扱いをしてみたり、「いじめられキャラ」に対しては、コミュニケーションの一環として「いじめ(のような)」扱いをするといったものである。そして、キャラのデメリットは、各自のキャラが本人の意思とは関係なく決定されてしまう点であり、その決定を覆すのが困難であることだとしている。

 

 このとき、いわば「同じ身分」であるグループ内で、それぞれの個人に振り分けられるのが、役割としてのキャラなのである。その振り分けは自然発生的になされることが多く、しばしば本人の意図を超えて決定づけられる。

 キャラは本人が自認している性格傾向とは微妙に異なっている場合もあるが、いちど決められたキャラはほとんど変更できない。キャラから逸脱した行為をしたりすると、それを理由に無視や仲間はずれなどのいじめに発展する場合すらある。つまり、キャラは実質的には、ほとんど強制されることになるのだ。[19]

 

 斎藤環の指摘で注目しておきたいのは「キャラは役割である」点と、「キャラ(役割)の振り分けが自然発生的になされている」点である。教室空間というコミュニティにおいて、キャラ(役割)を振り分けられた生徒が、都合良くそのキャラ(役割)を望んでいた場合、問題は発生しない。しかし、本人がそれを望んでいない場合、その生徒は望まない扱いから脱することができず、望まない扱いを受け続けることになってしまう。その扱いを保証してしまい、コミュニケーションを強制するもの、それが斎藤環の指摘する、現実世界でのキャラである

 斎藤環と同様に、コミュニケーションとキャラクターの関係に注目したのが宇野常寛である。宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』において、キャラクターを次のように捉えている。

 

 たとえば戦後のある時点から、私たちは「キャラクター」という言葉を「創作物の登場人物」という意味で使用している。そして現代、それ以上にこの「キャラクター」という言葉は「特定のコミュニティの内部で共有される人物像」のことを指すものとして使用されている。

 私たちが個人に対し「あの人は~だ」と人物像を抱くとき、それ(キャラクター)は特定のコミュニティ(小さな物語を規定する共同性)の文脈によって決定された位置のことに他ならない。[20]

 

 宇野常寛は、キャラクターの背景に存在するテクスト(小さな物語)が、現代ではコミュニティに相当すると捉えている。すなわち「コミュニティの内部で共有される人物像」とは、「テクストに支えられる登場人物」と言い換えることが可能であり、「コミュニティにおいて現実の人間はキャラクターとして捉えられている」ことを意味している。しかし、宇野常寛の指摘には注意しておかなければならない点がある。以下は同じく『ゼロ年代の想像力』からの引用である。

 

こうして考えてみたとき、キャラクターとは、小さな物語(人間関係)の中で与えられた位置=役割のようなものにすぎないことがわかる。少なくとも、私たちが生きている現実世界において、キャラクターは物語に隷属する。(略)より厳密に表現すれば、キャラクターとはその設定を承認してくれる共同性=物語を必要とするもので、独立しては存在し得ないのだ。[21]

 

 宇野常寛は、キャラクターがテクスト(小さな物語)から独立して存在することはないとしている。これまでの本稿の表現を用いれば、「キャラクターはメタ物語性を備えていない」と表現することが可能である。しかし、本稿においては既に「キャラクターとはメタ物語性を備えた虚構の登場人物である」と定義しており、これは「メタ物語性を備えていないキャラクターは虚構の登場人物にすぎない」と表現することが可能である。このことから、宇野常寛が指摘する「キャラクター」は、本稿では「虚構の登場人物」に対応すると考えられる。しかし、「キャラクターとは役割である」という指摘に着目すると、宇野常寛の指す「キャラクター」を全て「虚構の登場人物」として捉えることは困難である。「キャラクターは役割である」という指摘は、斎藤環の「キャラは役割である」という指摘と相似している。このことから、宇野常寛が用いる「キャラクター」には、「虚構の登場人物」という意味と、斎藤環が指摘する「キャラ」という意味の、両方を含んでいると考えることが可能である。

 この問題に対して理解を深めるために、村上裕一の指摘を引用したい。村上裕一は『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』において、次のように指摘している。

 

即ち、「キャラクター」という言葉は、いわゆる「虚構の登場人物」とキャラクターをいかに分けるかという問題と、キャラクターとゴーストをいかに分けるかという問題を同時に含みこんでしまっている。キャラクターの身分を明らかにするには、この問題の区別が必要だろう。[22]

 

 村上裕一が指摘する「虚構の登場人物とキャラクターの区分」は前節で取り扱った通りである。したがって、ここでは「キャラクターとゴーストの区分」について注目する。そのためには、村上裕一が用いる「ゴースト」という言葉の説明が必要である。村上裕一は「ゴースト」の意味を次のように説明している。

 

 これら[ゴーストの意味]を一言で説明することは難しいのだが、分かりやすいイメージとして言い換えれば、キャラクターが独立した結果、ポストモダン化した現代におけるバラバラになった個人を、中規模な集団に再構成する働きを担うようになった、と説明できるだろう。[23]

 

 村上裕一の用いる「ゴースト」の意味で注目したいのは、「ゴーストが中規模な集団を構成する働きを持つ」としている点である。この点に注目した上で、斎藤環による「キャラの振り分け」に対する指摘を見てみると、両者の指摘に類似性が存在することを確認できる。

 

キャラの分担を決定づけるのも、こうした「教室」や「仲良しグループ」という名の中間集団内部の力学だ。(略)

 多くの中間集団において、こうしたキャラ分担の力学が作用している。この力学はキャラの多様性よりはキャラの定型化をもたらす。その結果、メンバーの誰かが定型キャラである「いじめられキャラ」や「いじられキャラ」を分担せざるを得なくなる。

 こうしたキャラの棲み分けに基づくスクールカーストには、教室空間を安定させる作用がある[24]

 

 両者の指摘に共通するのは、コミュニティに注目している点である。斎藤環は「コミュニティがキャラを分担させる」とし、村上裕一は「ゴーストがコミュニティを形成する」としている。しかし、村上裕一は「ゴースト」の意味の一つに「クラウド化した二次創作(空間)の表象」[25]を挙げている。ここで用いられている「二次創作のクラウド化」とは次のような意味である。

 

では二次創作のクラウド化とはいかなる事態か。簡単に言えば、創作が集合的に行われることを意味する。[26]

 

 村上裕一の言葉は「集合的に創作が行われる空間の表象がゴーストである」と言い換えることが可能であり、これは「ゴーストはコミュニティの表象である」と表現することが可能である。また、斎藤環の「キャラによってスクールカーストが決定される」という指摘だが、スクールカーストを「カースト上位の存在がカースト下位の存在を支配する構図の集まり」として捉えることで、スクールカーストをコミュニティとして考えることができる。したがって、「キャラによってスクールカーストが決定される」という指摘は、「キャラによってコミュニティが形成される」と表現することが可能である。このことから、村上裕一の「ゴースト」と斎藤環の「キャラ」は、同様の意味を持つと捉えることが可能である。

 このように捉えることにより、村上裕一が指摘した「キャラクターとゴーストの区分」という問題を、宇野常寛の指摘に適用することが可能になる。すなわち、宇野常寛の用いる「キャラクター」という言葉には、「キャラクターとゴースト」の両方の意味を含んでおり、「ゴースト」と「キャラ」が同様の意味を持つ以上、「キャラクターとキャラ」の両方の意味を含んでいると捉えることが可能である。従って、『ゼロ年代の想像力』における宇野常寛の指摘は、キャラに対する指摘でもあると考えられる。

 これらの点から、本稿では斎藤環と宇野常寛の指摘に着目し、「キャラとはコミュニティ(テクスト)における役割、あるいはその役割を担う人物像」として定義する。なお、この定義は現実の人間だけでなく、虚構の登場人物に対しても適用することが可能である。以下は『ライトノベル「超」入門』における新城カズマの指摘である。

 

RPGにおいては、キャラクターのそれぞれに職業があります。そこから次第に、(職業の)魔術師にはこういう性格=キャラクターが多い、戦士はこういう性格だ……というところから「キャラクターの役割分担=職業=性格の違い=行動様式の違い」という理解が生まれ、さらに細分化されてこういうキャラクターは乱暴者だとか、おっちょこちょいだとか、遊び人だとか、そのうちに「職業」の部分が脱落していく。最終的には、メガネをかけていれば真面目な性格、などのライトノベルにおける「キャラ」が生まれた……というのです。[27]

 

 新城カズマはライトノベルにおけるキャラについて考察を加え、キャラのルーツの一つがRPGである可能性を指摘している。そして、RPGにおける「キャラクターの役割分担」に着目し、ライトノベルにおけるキャラが「役割分担」を重視していると指摘している。

 

というわけでこの「キャラ」という思考法は、(略)いわゆる近代文学における人物造形とは、ちょっとばかり違います。根っこは同じなのかもしれませんが、発芽の形式が大きく異なるのです。

 もっと表層的・表面的……というとまた「ほらみろやっぱり軽薄だ」みたいなことを言われかねないので、役割の「分担」に重きを置く、とでもしてきましょうか。[28]

 

 新城カズマが用いる「キャラ」も、村上裕一が指摘した「キャラクターとキャラ(ゴースト)の混在」という問題を含んでいる可能性はある。しかし、「キャラと役割分担」の指摘は、斎藤環や宇野常寛の指摘と共通するものがある。したがって、「キャラとはコミュニティ(テクスト)における役割、あるいはその役割を担う人物像」という定義を用いることが可能であると考えられる。

 この定義を用いて、改めて「キャラ立ち」という言葉について考えてみる。「キャラ立ち」とは「虚構の登場人物がメタ物語性を備えること」と捉えてみたが、ここに「キャラとはコミュニティ(テクスト)における役割、あるいはその役割を担う人物像」という定義を用いると、「虚構の登場人物が、他のコミュニティ(テクスト)でも同様の役割を担えると期待されること」と表現することができる。

 以上から、本稿における「キャラ」を定義することができた。しかし、ここで「キャラを変更することが可能であるか」という問題が現れる。宇野常寛はキャラ(宇野常寛の言葉ではキャラクター)は変更可能だとしているが、斎藤環はキャラの変更は困難だとしている。「キャラの変更」という点において、両者の考えが対立しているのである。この問題を解決するために、次章では「やる夫」について考察を加える。

 

 

 

第三章 やる夫の「キャラ」

第一節 やる夫とアスキーアート

 

 やる夫は第一章で先述したように、2ちゃんねるで生まれたキャラクターである。アスキーアートはオリジナルの絵やイラストを表現したものと、既存の絵やイラストを再現したものに大別することができる。本稿では、前者によって生まれたキャラクターを「アスキーアートキャラクター」と呼称する。また、キャラクターが表現されているアスキーアートを特に「キャラクターアスキーアート」と呼称する。すなわち、「やる夫はアスキーアートキャラクター」であり、やる夫を含めたキャラクターを表現しているアスキーアートを指して「キャラクターアスキーアート」と呼称することになる。

 次に、「やる夫スレ」について説明をする。「やる夫スレ」とは、やる夫をはじめとしたキャラクターアスキーアートを用いて、電子掲示板上での一回の投稿をドラマやアニメにおける「シーン」や、マンガにおける「コマ」のように捉え、投稿を繰り返すことで物語を展開させる作品(図4参照)の総称である。その内容は、キャラクター同士が雑談を行ったり、キャラクターを通じて知識を学んだり、二次創作的な物語を展開させたり、小説的なストーリー展開を行ったり、ゲーム的な作品を行ったりするなど、多岐にわたる。例えば、雑談を行っている作品では『できない子はビールを飲む』[29]、知識を学ぶ作品では『やらない夫の食卓+』[30]、二次創作的な作品では『警部補 古畑できない夫』[31]、オリジナルのストーリー展開を行っている作品では『ゴブリンスレイヤー』[32]、ゲーム的な作品では『やる夫は狂えるオーク戦士であるようです』[33]などが挙げられる。なお、「やる夫スレ」の条件は、電子掲示板においてキャラクターアスキーアートを用いてつくられている点であり、必ずしもやる夫を主人公にしたり、物語に登場させなければならないわけではない。

 また、「やる夫スレ」という言葉には、「作品」を指す意味と、「作品を発表する場」としての意味を含んでいると、村上裕一は『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』において指摘している。

 

そして、とうとう[やる夫は]自らの住処とも言うべき場所を作り出すに至った。やる夫スレである。

 やる夫スレとは、やる夫を代表とするAA[アスキーアート]によって描かれたお話の総称であり、またその舞台となるスレッドのことだ。[34]

 

 この点について説明するために、『やる夫.jp』内の「2014年お薦め完結作品」に寄せられているコメントを例に挙げる。そこには「初めて読んだのがこの作品で、これをきっかけにやる夫スレの住人になりました。」[35]というコメントが掲載されている。「やる夫スレ」を「作品」の意味だけで捉えてしまうと、このコメントにある「やる夫スレの住人になりました」という言葉の意味を捉えることが困難になる。「やる夫スレ」の閲覧方法は二種類あり、そのひとつは電子掲示板及びに個々のスレッドにアクセスする方法である。この点から「やる夫スレ」は「作品を閲覧する場」として捉えることが可能であり、視点を読者の視点から作者の視点に変更すれば、「作品を発表する場」として捉えることが可能である。なお、もうひとつの方法は「やる夫まとめサイト」にアクセスして閲覧する方法である。「やる夫スレ」閲覧方法の区分は、現実における演劇の鑑賞方法を想像すると理解が容易になる。電子掲示板での閲覧は、演劇に例えるなら「会場での観劇」に相当し、「やる夫まとめサイト」での閲覧は「DVDなどの記録媒体での鑑賞」に相当する。したがって、「スレ住人」とは、「やる夫まとめサイト」ではなく電子掲示板のスレッドにアクセスする読者を指す言葉であり、「作品が発表される場に居合わせる読者」という表現も可能である。

 本稿において、「やる夫スレ」は、「作品」と「作品を発表する場」の両者を同時に意味する言葉として扱う。例えば、『やる夫が野球選手として活躍するようです』という「やる夫スレ」があった場合、それは『やる夫が野球選手として活躍するようです』というタイトルの作品でもあり、それを発表する場を指す言葉でもある。

 それでは、やる夫の特異性について記述していく。繰り返しになるが、やる夫は2ちゃんねるで生まれたアスキーアートキャラクターである。漫画やアニメなどのテクストを背景に持つ他のキャラクターアスキーアートとは異なり、やる夫には背景となるテクストが存在しない。そのため、やる夫は登場する作品ごとに異なる役割や人格(=キャラ)を与えられており、やる夫という名前すら、作品においては変更されている場合がある。このような点から、やる夫はキャラクターと言うよりも虚構の登場人物としての性質が強いように思えてしまう。しかしやる夫には、虚構の登場人物ではなくキャラクターとして捉えるために必要な要素も備えている。やる夫は複数の作品に登場できる「メタ物語性」を備え、さらに「やる夫」という固有名を持つ存在だからである。ここで問題となるのは、やる夫の「同一性」である。やる夫の設定が人間であろうがそうではなかろうが、やる夫という名前であろうがなかろうか、(やる夫という存在を知っている)私たちがやる夫を目にした時に感じるものは「これはやる夫である」ということである。テクストにおいて、やる夫が「やる夫」という名前でなかったとしても私たちは同じことを考える。想定している人格と大きく異なった場合でも、「やる夫っぽくないやる夫である」と考えるのである。この事例は、現実における芝居を考えると理解が容易になる。Aという役者がBという役を演じている場合、視聴者はAを認識しないわけではない。Bという役を認識しつつも、それを演じているAを同時に認識しているのである。したがって、やる夫は複数のテクスト間においても同一性を感じさせる存在であり、キャラクターであると言える。

 そして、これこそがやる夫というキャラクターの特異性である。やる夫は原典となるテクストが存在しない。そのためにどのような役割や人格を与えられたとしても、「やる夫」として成立することが可能である。そして、私たちは全く違う人格のやる夫を目にしても、同じ「やる夫」であると認識するのである。このような事態が起こる理由には、やる夫は守られなければならない約束事が少ない、設定の希薄なキャラクターである点が挙げられる。そしてその点において、やる夫は現実に生きる人間と共通するキャラクターであると考えることが可能である。現実の人間もまた、原典となるテクストが存在しないからである。したがって、やる夫がどのようにしてキャラを獲得しているかを考えることは、現実の人間のキャラがどのように与えられているかを考えることにつながるのである。

 

 

第二節 「やる夫スレ」と「安価」

 

 やる夫はどのようにしてキャラを獲得しているか。それを考えるためには、「やる夫スレ」について理解を深める必要がある。「やる夫スレ」は「作品」であると同時に「作品を発表する場」としての意味があると前述したが、その場と発表方法にも特異性がある。電子掲示板で表現されるやる夫スレは、一人の作者が作品を投稿し続けるわけではない。読者による感想の投稿も存在するのである。それが投稿されるタイミングは、作者による作品の投稿途中であったり、投稿が一段落した時であったり、長期間作者による投稿が行われなかったタイミングであったりと千差万別である。そしてその内容も、作品に関係するとは限らない。例えば、「やる夫が野球選手として様々な経験をする」といった内容の『やる夫が野球選手として活躍するようです』という「やる夫スレ」があったとする。読者はその作品内で起こったイベントに対して言及することもあれば、現実の野球選手に対しての話を始めることもあれば、野球漫画の感想を投稿することもある。場合によっては野球とは全く関係のない話、例えば上映中の映画についての話になることも珍しくない。やる夫スレは電子掲示板への投稿によって発表される以上、電子掲示板の有する「雑談するための場」としての側面も有してしまうのである。そしてその雑談によって作者や作品が影響を受けることも、決して珍しくない。『やる夫が野球選手として活躍するようです』をもう一度例に出すならば、読者が現実の野球選手の話を始めたことによって、作品内において(キャラクター化された)その野球選手とやる夫が雑談を開始する。映画の話が始まったならば、やる夫や他のキャラクターアスキーアートを用いて、その映画の二次創作的なストーリーを投稿するといった具合である。また、作者による投稿が長期間行われなかったことを心配する旨が書き込まれた場合などには、作者が生存報告を兼ねて、作者の近況を、やる夫を主人公にしたストーリーとして作品にしたものが投稿されることもある[36]。作者が読者に影響を受けたことによって、作品が影響されたり、全く異なる新しい作品が生まれる。これが「やる夫スレ」の特異性である。

 そして、その「やる夫スレ」の特異性を際立たせているものが「安価」と呼ばれるシステムである。「安価」に対して言及する前に、「やる夫スレ」における創作スタイルについて説明が必要である。「やる夫スレ」の創作スタイルは「書き溜め」と「即興」と呼ばれるものに大別することができる。「書き溜め」は事前にある程度作品を完成させておき、発表の時にはその完成した作品を投稿することに専念するスタイルである。それに対して「即興」は、作品を投稿しながら次のシーンをつくり、シーンが完成する度に投稿するスタイルを指す。両者のスタイルは絶対的なものではなく、両立させている作者も多い。それは、スタイルに明確なメリット・デメリットが存在するからである。「書き溜め」のメリットは、読者による投稿の影響を受けにくい点である。作者は自身の想像力によって作品をつくることができるため、物語の整合性を取りやすくなる。しかし、投稿途中での読者による指摘を反映させられず、作者が想像できなかった面白い設定を反映させることができないといったデメリットが存在する。「即興」のメリットは「書き溜め」のデメリットを回避できる点にあり、読者による投稿をその場その場で反映させながら作品をつくることができる。しかし、読者の要望を優先させた結果、物語の整合性が崩れたり、作者の書きたいものが書けなくなってしまうこともある。そのような事態を回避するために「やる夫スレ」でしばしば用いられるシステム、それが「安価」である。以下は、「はてなキーワード」からの引用である。

 

2ちゃんねる(主にVIP)用語。「(レス)アンカー」のこと。

(略)元々は過去の発言に対するレスポンスの意味で、対応する書き込みが分かりやすいようにリンクが貼られる仕様。

 これを逆用して「未来のレス番号」にアンカーを貼ることで、さまざまな遊びに利用するようになった。「安価」は「アンカー」の省略形。「アンカー」とはweb用語では「リンクする」という意味。[37]

 

 「やる夫スレ」における「安価」とは、「作者が特定の条件を提示し、その条件に合致しそうだと思うものを読者に挙げてもらい、挙げられた中から作者が採用する」システムのことである。『やる夫が野球選手として活躍するようです』を例とするなら、「やる夫にインタビューする女性アナウンサーキャラクター」や「やる夫とポジション争いをするライバル選手キャラクター」などの条件を作者が提示し、読者に挙げてもらうのである。採用の条件もいくつかの種類があり、例えば「作者の書き込みから数えて、○番目に挙げられたキャラクターを採用」したり、「○時○分丁度に挙げられたキャラクターを採用する」などである。この決定方法では、作者が想像していなかったキャラクターが採用されることがあり、物語に意外性が生まれることがある。他には「作者の書き込みから数えて、○番目から×番目に挙げられた中から採用」される例もある。この方法では、物語がより面白くなるかどうかを意識して、作者がキャラクターを決定できるメリットがある。また、一度「作者の書き込みから数えて、○番目から×番目を候補とする」という「安価」を行い、再度「候補の中から多数決」という「安価」を行うこともある。この方法では、多くの読者が期待する物語を展開できる可能性が高くなる。作者はこれらの「安価」を行うことで、読者の要望を反映させながら、物語の展開をコントロールすることができるのである。

 ここで注意したいのは、「やる夫にインタビューする女性アナウンサー」や「ポジション争いをするライバル選手」は、出典元の作品においてアナウンサーや野球選手である必要がないことである。「もしもこのキャラクターがアナウンサーだったら」「もしもこのキャラクターがやる夫とライバルだったら」という想像力が大事なのであり、その想像力に支えられて「やる夫スレ」は展開されるのである。そして、「安価」が行われるのは、キャラクターを募集する時だけではない。例えば「ヒーローインタビューを受けたやる夫はどのような話をするか」など、やる夫の言動を決定するために「安価」が行われることもある。さらに、「安価」は物語の途中で行われるとも限らない。物語が始まる前に、「やる夫の性格はどのようなものか」などの「安価」が行われることもある。この場合作者は、「安価」で決定された性格のやる夫ならばどのような言動を取るかを考えてから、作品をつくりはじめるのである。

 作者が物語の展開をコントロールするために、「安価」では選択肢が用意されていることも多い。例えば「ヒーローインタビューを受けたやる夫はどのようなコメントを発するか」に対して、「活躍できて嬉しい」「もっと精進したい」「お腹が空いた」の三択から選んでもらう、といった形式である。この形式の「安価」は、作者による想像力を、読者の想像力によって補完していると考えることができる。すなわち、読者に背中を押してもらうことで、作者は物語を展開するのである。しかし、選択肢が用意されない「安価」もまた数多く存在している。選択肢が用意されない「安価」は「自由安価」と呼ばれることもあり、「自由安価」が行われる場合、作者による想像力は物語を描写するために必要な分しか存在していない。「自由安価」を採用している作品において、やる夫のキャラを支えるための想像力は、作者による想像力よりも、読者による想像力のほうが大きいのである。

 それではやる夫のキャラは読者の想像力によって与えられているのだろうか。忘れてはならないのは、「安価」というシステムは読者から始まることはなく、作者によって始められることである。「安価」とは質疑応答を繰り返すことにより、やる夫への相互認識を深めるコミュニケーションである。作者がどのようなキャラのやる夫の話を読みたいか、読者に対して「安価」を行う。読者がその「安価」に応じると、作者はその応答を元に「このやる夫ならこのような展開になる」と物語を展開し、そしてまた読者に対して「安価」を行う。読者はそれまでの物語を読んだ上で「このやる夫ならこのような言動を取ると考えられる」「このやる夫ならこのような言動を取ると面白い」などの、展開を踏まえた上での応答をする。作者はその応答を元にまた物語を展開させる。この「安価」による繰り返しを経て、物語は進行し、やる夫のキャラは固定化されていくのである。すなわちやる夫は、やる夫にとっての第三者間である、作者と読者のコミュニケーションにおいて、キャラを与えられているのである。

 この前提に基づき、次章ではやる夫及び「やる夫スレ」におけるキャラ成立の構図を、現実の人間に対応させた場合について考えを進める。

 

 

 

第四章 「私」の「キャラ」

第一節 第三者間のコミュニケーション

 

 やる夫のキャラは作者と読者のコミュニケーションによって与えられているものである。その前提において、やる夫を現実の人間に対応させるためには、現実における「やる夫スレ」の役割を果たすものを考える必要がある。それは、コミュニティである。しかし、どのようなコミュニティであるかは、場合によって変わってしまう。例えば現実の人間が「生徒」だった場合について考えてみる。生徒が所属する代表的なコミュニティは、「学校」または「学校のクラス」であると考えられる。しかし、この生徒が部活動、例えば野球部に所属していた場合、この生徒は「野球部」というコミュニティにも所属していることになる。また、この生徒が生徒会役員を務めているのならば、「生徒会」というコミュニティに所属していることにもなるし、アルバイトをしているならば、勤務先のコミュニティに所属していることになる。このような例は、「生徒」に限らずとも考えられる。先ほど例に出した「生徒」が勤務している職場の「社員」の場合について考えても、「職場」や「職場の部署」以外のコミュニティに所属している例は考えられ、例えば野球を趣味としているならば「野球仲間」というコミュニティに所属していると考えられるし、草野球チームに所属しているなら当然それもコミュニティである。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を利用しているならば、SNS上でのコミュニティに所属している場合も考えられる。このように、現実の人間は単一のコミュニティに所属しているわけではなく、複数のコミュニティに所属しているのである。そして複数のコミュニティに所属しているのならば、コミュニティごとに異なるキャラを与えられていることもある。例えば学校では「オタクキャラ」を与えられていても、アルバイト先の職場では専門知識を活かす「頼れる先輩キャラ」を与えられているかもしれない。この点においても、やる夫と現実の人間にキャラクターとしての共通性を見ることが可能である。やる夫は同一性を示しながらも、個々の「やる夫スレ」ごとに異なるキャラを与えられている。これは、現実の人間においても同様である。先に例として挙げた「生徒」が「山田太郎」という人物であると仮定した場合、山田太郎が職場で働いている姿をクラスメイトに見られた場合、「キャラが違う」と思われることはあっても、「山田太郎ではない」と、同一性が否定されることはない。キャラが違っても、山田太郎の同一性、すなわち現実の人間の同一性は保持されるのである。

 現実において、「やる夫スレ」は個々のコミュニティに対応する。それでは、「やる夫スレ」においてやる夫にキャラを与えられる構図は、現実のコミュニティではどのような構図になるのだろうか。繰り返しになるが、やる夫は個々の「やる夫スレ」において「安価」や雑談などの、作者と読者のコミュニケーションによってキャラを与えられている。作者と読者のコミュニケーションとは、やる夫の視点から捉えれば、第三者間のコミュニケーションである。現実における第三者間のコミュニケーションとは、当人が不在で行われるコミュニケーション、または当人が口を挟むことができない状況でのコミュニケーションであると考えることが可能である。そして、現実においてそのような性質を持つコミュニケーションとは、陰口や噂話のことである。その話が事実であるかそうではないか、当人が肯定しようが否定しようが関係ない。第三者の間において「それっぽい」「面白い」と判断されてしまえば、それは本人が望むと望まざるとに拘らず、キャラとして成立してしまう。現代において、陰口や噂話を含めたコミュニケーションの場は、現実世界に限らない。電子掲示板やSNSなど、インターネット上でのコミュニケーションは一般化してきている。すなわち、当人たちが現実のコミュニティに不在であっても、インターネット上で擬似形成されたコミュニティで、コミュニケーションが行われるのである。そのような場においてコミュニケーションが繰り返されることにより、当人の知らぬ間にキャラは固定化されてしまい、気づいた時には現実世界で振り分けられてしまうのである。そしてこのキャラを固定化し与える構図は、「安価」や雑談においてやる夫のキャラが決定されていく構図と同様である。

 このような構図においては、斎藤環が指摘するように、キャラを変更することは困難である。宇野常寛は「コミュニケーションによってキャラ(宇野常寛の言葉ではキャラクター)を書き換えることができる」と指摘しているが、当人が不在の場でキャラが固定化されてしまう以上、そもそもコミュニケーションを行う機会が与えられないのである。そして一度コミュニティにおけるキャラが与えられてしまうと、コミュニティ内ではキャラに合わせたコミュニケーションを求められる。そうしなければ「キャラをはみだす」として批難され、コミュニティから排除される可能性があるからである。

 

 

第二節 「私」とのコミュニケーション

 

 それでは、望まないキャラを与えられた現実の人間に、希望は存在しないのだろうか。例えば「いじめられキャラ」を与えられてしまった人間は、進級時や進学時といったコミュニティが解体されるタイミングが訪れるまで、ずっといじめられ続けなければならないのだろうか。

 ここでもう一度、やる夫に焦点を向けたい。やる夫のキャラが「やる夫スレ」の作者と読者によるコミュニケーションによって与えられていることは既に指摘した通りだが、やる夫のキャラはこれ以外の構図によっても与えられているのである。その構図とは第三章で触れた、「書き溜め」と呼ばれる創作スタイルである。改めて「書き溜め」について説明すると、「安価」や雑談による要望を反映させながら一回の投稿をその場その場でつくりあげる「即興」に対し、事前に投稿の一部あるいは全てを完成させておき、発表の段階では完成しているところまでを連続して投稿する創作スタイルのことを指す。投稿の途中で読者による要望が投稿されても、既に作品はつくり終わっているため、その要望を反映させることが困難であるという特徴がある。

 「書き溜め」と呼ばれる創作スタイルでは、読者による雑談や要望が反映されづらい。すなわち、これまでの表現を用いれば、「第三者間のコミュニケーションによる影響が小さい」と表現することが可能であり、場合によっては「第三者間のコミュニケーションが行われていない」作品も存在する。それではそのような「やる夫スレ」において、やる夫はどのようにキャラを与えられているのだろうか。それは、「コミュニティを離れたところで行われる、作者とやる夫のコミュニケーションによって与えられている」と捉えることが可能である。まずは「コミュニティを離れたところ」の説明を行う。「書き溜め」において、作者は作品発表時を除いて、「やる夫スレ」にアクセスする必要性はない。表現を変えるならば、創作時の作者は「やる夫スレ」というコミュニティに不在なのである。コミュニティ不在時にキャラが与えられる。これが「コミュニティを離れたところ」という言葉の意味である。しかし、これだけならば「第三者間のコミュニケーション」の構図と大きな違いはない。現実において、キャラを与えるためのコミュニティは、インターネット上で擬似形成された、本来のコミュニティから離れた場である場合もあるからである。したがって、重要なのは「作者とやる夫のコミュニケーション」である。

 「書き溜め」において、「コミュニティを離れたところ」で物語がつくられている以上、やる夫のキャラは作者によって与えられていると捉えてしまいそうになる。しかし、作者は物語をつくるにあたって、物語におけるやる夫のキャラを意識する。すなわち、「このような場面において、やる夫ならどのような言動を取るか」「このような場面において、やる夫ならこういう言動を取るだろう」という考えである。「場面」によって物語をつくることに対して、大塚英志は『キャラクター小説の作り方』で次のように指摘している。

 

場面というのは「一つの場所で一続きの出来事が起こること」と定義しましょう。例えばテレビドラマで恋人同士が喫茶店で別れ話をしている様子を想像して下さい。「男の子が別れ話を切り出して女の子が泣きだし男の子はけれども立ち去ってしまいそれを見ていたマスターが彼女に無言でもう一杯コーヒーを差し出す」なんていうお芝居が一続きのものとして演じられているとします。これが「場面」です。(略)それに対し「場面」という単位はキャラクター小説に限らずまんがやアニメ、映画といった物語表現に共通の基本単位です。(略)つまり物語を構成していく場合、「場面」という最小単位を基にして行うととても都合がよく、かつ、キャラクター小説だけでなくアニメやテレビドラマを見てきた体験も活かせるわけです。[38]

 

 「やる夫スレ」も「場面」の組み合わせによって構成されているという例は、本稿で既に指摘している。それは「安価」で展開される、「即興」の創作スタイルでつくられる「やる夫スレ」である。物語の構成という点に注目して捉えると、「安価」は「作者が場面を提示し、読者にその後の展開を決定する」または「読者に場面を選択してもらい、作者がその後の展開を決定する」システムであると捉えることが可能である。前者の例は「言動を決定する安価」であり、後者の例は「キャラクターを決定する安価」により、「やる夫と○○が出会う」という場面を構成していると考えられる。そして「書き溜め」の創作スタイルでは、「即興」における「安価」を、作者一人で行っていると捉えることが可能である。

 「安価」を作者一人で行うということは、やる夫のキャラが作者によって与えられているという意味ではない。作者一人で行われる「安価」とは、「作者が提示した場面において、やる夫がその場面に適した言動を取る」または「やる夫が直面した場面において、作者が適した展開を考える」ということである。ここで注意しなければならないのは、「作者=やる夫」ではないという点である。やる夫はキャラクターであり、キャラクターとは「メタ物語性を備えた虚構の登場人物」である。仮に「キャラクター=作者」の構図が成立してしまうならば、キャラクターは異なる作者による物語に登場することが不可能になってしまう。このような事態は二次創作作品に限った話ではなく、例えばマンガ作品の『クレヨンしんちゃん』[39]は作者が亡くなった後も、作者のアシスタントによって『新クレヨンしんちゃん』[40]として展開されている。作者が変更されたにも関わらず、同じキャラクターが異なる物語に登場しているのである。この点から「キャラクター」は物語だけでなく、作者からも遊離可能であると考えられるのである。したがって、作者一人による「安価」とは「作者とやる夫(キャラクター)のコミュニケーション」と捉えることができるのである。

 それでは、現実において「コミュニティを離れたところで行われる、作者とやる夫のコミュニケーション」とは何に相当するのか。それは、コミュニティの外で行われる、一対一のコミュニケーションである。一対一であれば、周囲の視線を気にする必要はなく、キャラとは関係のない言動を取ることが可能である。そしてそのような言動を経ることで、「現実世界におけるやる夫」すなわち「私」への理解が深まっていく。これを他の相手に対しても繰り返すことによって、「私」への理解はコミュニティの単位で変更され、最終的にはキャラの変更につながるのである。このようにして行われる「コミュニケーションによるキャラの変更」は、宇野常寛が指摘した構図そのものである。

 ここにおいて、改めて「キャラ」という言葉について考えてみたい。「キャラ」とは「コミュニティにおける役割、あるいはその役割を担う人物像」であり、「与える役割に応じたコミュニケーションを強制させるもの」である。しかし、その強制力はコミュニティの内部において働くものであり、一度コミュニティから離れることで、その効力を失わせることができる。また、「キャラ」の振り分けはコミュニケーションから生まれた想像力によって行われるため、コミュニケーションを行うことで望んだ「キャラ」を手に入れたり、「キャラ」を変えることも可能である。これが、単なる「キャラクター」を省略した言葉ではない、「キャラ」という言葉の意味である。

 

 

 

第五章 おわりに

 

 2007年の夏に投稿された『刺身の上にタンポポをのせる仕事の採用試験に受かったお!!!!!』[41]が原型をつくったとされる「やる夫スレ」は、創作形態の一種として、今でも展開を続けている。しかし、「やる夫スレ」に関する研究は、あまり進んでいると考えられない。それは、「やる夫スレ」という文化は発展途中であることが理由として挙げられる。例えば2014年に開設されたやる夫スレ専用電子掲示板である「やる夫板のシェルター」[42]はダイス機能という、それまでのやる夫スレ専用電子掲示板には見られない機能を備えている。ダイス機能とは電子掲示板上でダイス(サイコロ)を振ることができる機能であり、この機能を用いることで「奇数が出たら右に進み、偶数が出たら左に進む」などの、作者と読者の両者が操作できない展開をつくることができる。この機能を利用した作品もつくられはじめており、『デジタルAAゲームブック世界樹の迷宮Ⅱ ~大地の千年帝国~』[43]はダイス機能を活かした作品のひとつである。 

 本稿ではやる夫と、やる夫が活躍する作品及びにその作品の発表の場である「やる夫スレ」について取り上げ、「やる夫スレ」においてやる夫がキャラを与えられるシステムと、現実世界での「キャラ」を振り分けるシステムが相似している点を明らかにした。その上で、今日の日本では、現実の人間をキャラクターと捉えたコミュニティが構成されていることを指摘した。研究の前例が少ない「やる夫スレ」を取り扱ったこともあり、本稿はやや勇み足のまま結論にまで至ってしまったことは否めない。しかし「やる夫」と「やる夫スレ」に焦点を向けたからこそ、コミュニティにおける現実の人間を「キャラクター」として捉えていることや、キャラとコミュニティの関係を示すことができた。

 やる夫は、原典となるテクストが存在しない特殊なキャラクターである。やる夫というキャラクターを消費するための「やる夫スレ」もまた、一次創作であるとも二次創作であるとも言い切れない、特殊な創作形態を構築している。これらが研究されることにより、キャラクターや物語、あるいはその消費活動が、新たな観点から指摘されるようになることを期待したい。

 


 



[] 「スレを立てる」(「NTTPCコミュニケーションズ用語解説辞典」http://www.nttpc.co.jp/yougo/スレを立てる.html 2014/12/11参照)

[] 「やらない夫板II」(http://jbbs.shitaraba.net/otaku/14429/ 2014/12/11参照)

[] 「小さなやる夫板」(http://jbbs.shitaraba.net/otaku/14504/ 2014/12/11参照)

[] 「やる夫まとめサイト」(「やる夫Wikihttp://yaruo.wikia.com/wiki/やる夫まとめサイト 2014/12/13参照)

[] 斎藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』(筑摩書房、20113月、p.25

[] 村上裕一『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(講談社、20119月、p.14

[] 矢沢あい『NANA』(集英社、2007-

[] 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(星海社、20149月、p.132-133

[] 前掲『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(p.126

[10] 前掲『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(p.134

[11] 前掲『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(p.139

[12] 前掲『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(p.135

[13] 前掲『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(p.149

[14] 東浩紀『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』(東京創元社、201312月、p.31-32

[15] 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社、20073月、p.134

[16] 前掲『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(p.35-36

[17] 『朝日新聞』(2007917日、朝刊1面)

[18] 前掲『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』(p.31-33

[19] 前掲『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』(p.19-20

[20] 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房、20119月、p.51

[21] 前掲『ゼロ年代の想像力』(p.52

[22] 前掲『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(p.34-35

[23] 前掲『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(p.11

[24] 前掲『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』(p.31

[25] 前掲『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(p.11

[26] 前掲『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(p.156

[27] 新城カズマ『ライトノベル「超」入門』(ソフトバンク・クリエイティブ、20064月、p.121

[28] 前掲『ライトノベル「超」入門』(p.124-125

[29] 『できない子はビールを飲む』(「それにつけても金のほしさよ」http://snudge.blog38.fc2.com/blog-entry-196.html#beer2 2014/12/13参照)

[30] 『やらない夫の食卓+』(「やらない夫オンリーブログ」http://yaranaioblog.blog14.fc2.com/blog-category-304.html 2014/12/13参照)

[31] 『警部補 古畑できない夫』(「勝手にやる夫を纏めたりするブログ」http://katteniyaruo.blog69.fc2.com/blog-category-187.html 2014/12/13参照)

[32] 『ゴブリンスレイヤー』(「このやる夫スレ、まとめてもよろしいですか?」http://yaruok.blog.fc2.com/blog-category-155.html 2014/12/13参照)

[33] 『やる夫は狂えるオーク戦士であるようです』(このやる夫スレ、まとめてもよろしいですか?」http://yaruok.blog.fc2.com/blog-category-139.html 2014/12/13参照)

[34] 前掲『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(p.181

[35] 「オススメ完結作品」(「やる夫.jphttp://blog.livedoor.jp/nyusokudeyaruo/archives/1897738.html 2014/12/11参照)

[36] 『嫁萌さんの短編 #1 嫁萌さんの嫁さん萌え(雑談まとめ)』(「やらない夫オンリーブログ」http://yaranaioblog.blog14.fc2.com/blog-entry-1512.html 2014/12/13参照)

[37] 「安価とは」(「はてなキーワード」http://d.hatena.ne.jp/keyword/%E5%AE%89%E4%BE%A1 2014/12/11参照)

[38] 大塚英志『キャラクター小説の作り方』(星海社、201310月、p.156

[39] 臼井儀人『クレヨンしんちゃん』(双葉社、1990-2010年)

[40] 臼井儀人&UYスタジオ『新クレヨンしんちゃん』(双葉社、2010-

[41] 『刺身の上にタンポポのせる仕事の採用試験に受かったお!!!!!』(「やる夫wikihttp://yaruo.wikia.com/wiki/刺身の上にタンポポのせる仕事の採用試験に受かったお!!!!! 2014/12/12参照)

[42] 「やる夫板のシェルター」(http://yaruoshelter.saber.jp/yaruo001/ 2014/12/12参照)

[43] 『デジタルAAゲームブック世界樹の迷宮Ⅱ ~大地の千年帝国~』(「やる夫板のシェルター」http://yaruoshelter.saber.jp/yaruo001/kako/1404/14040/1404013520.html 2014/12/12参照)

 

 

参考文献

 

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社、20073月)

東浩紀『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』(東京創元社、201312月)

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(星海社、20149月)

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房、20119月)

大塚英志『キャラクター小説の作り方』(星海社、201310月)

斎藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』(筑摩書房、20113月)

新城カズマ『ライトノベル「超」入門』(ソフトバンク・クリエイティブ、20064月)

村上裕一『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(講談社、20119月)

 

 

※都合により、図表は割愛しております。