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アメリカ研修旅行記

2020年2-3月---石澤翔太---伊藤涼平---植村勇人---宮城春香
2019年2-3月---舛野雄介
2017年2-3月---磯部綾---長友将倫---堀川碧---中島優太
2016年2-3月---池田光---磯部綾---駒谷啓太
2015年9月---広瀬誠弥---朴洵利
2015年3月---若林雄貴---内川有紀---小畑悟---石川晋太郎
2014年3月---田村紘子---河野葵
2013年3月---宗像拓哉---高松朋---古川慎
2011年3月---田口健吾---大澤裕樹
2010年3月---藤樌悠太---植木辰典---畑山慎哉
 *『ニュース専修』に植木・畑山の共同執筆で「米国ゼミ研修報告」が掲載されました。
2009年3月---富田高暁---那須円---布袋陽子---河島未沙
2008年2月---藤樌悠太
2007年3月---百瀬怜---高橋和雅---奥泉直人
2004年2月---太田圭---高橋洋子




石澤翔太「アメリカを感じた3週間」(アメリカ研修旅行2020年2月〜3月)
 この3週間に渡るアメリカ研修旅行は、アメリカの歴史だけでなく文化や宗教、食、人など様々なものと触れ合いながら日本との違いや現在のアメリカについて自分の目で見て、肌で感じることのできた旅となった。そのほんの一部をここに述べたいと思う。
最初の1週間はフィラデルフィアに滞在しながらワシントンD.C.やニューヨーク、フィラデルフィアを散策し、有名な観光地や歴史的な建造物などを見学した。それらの場所で見たものは新鮮で、生きている間に一回は見ておきたいもので溢れていた。ニューヨークのセントラルパークからみたビル群は美しかったし、ワシントンD.C.の中央にそびえるワシントン・モニュメントも思い出に残っている。しかし、アメリカから帰国して約2週間弱たっている中でも最も私の印象に残っていることは、様々な観光地や歴史的な建造物よりもアメリカ人の見知らぬ人への姿勢だ。道に迷っていそうな私たちを見たら声をかけてくれたり、フィラデルフィアでトローリーバスの乗車口が開かずに困っている人を見たらすぐに声を上げたり、朝歩いていると通りがかった人が『おはよう』とあいさつをしてきたりと日本では考えられないことがアメリカでは当たり前になっていた。そういったことに私はいい意味で驚かされた。

セントラルパークから見たニューヨークのビル群(撮影:石澤)

 フィラデルフィアに滞在した後は、ノースキャロライナ州に滞在した。ノースキャロライナ州滞在の前半はノースキャロライナ大学チャペルヒル校で多くの時間を過ごし卒論の史料集めだけでなく、演劇やバスケットボールの試合などを観戦したりもした。ここではバスケットボールの試合を観戦した時のことを書こうと思う。私はバスケットボールだけでなくスポーツが好きなのでこの試合観戦は、アメリカに出発する前から友達に自慢するほど心待ちにしていた。試合や会場の雰囲気、会場を盛り上げるための演出は、プロの試合と何一つ変わりなく、日本の大学バスケとは全く違っていた。試合を見に来ている人も大学生だけでなく、家族や仕事終わりの男性組や中学生ぐらいの子供同士で来ているなど大学を中心にコミュニティーができていることが分かった。さらに試合が始まると人々は様々な表情を見せていた。試合序盤は、試合にのめりこんでプレーに一喜一憂する人や試合とは関係なさそうなおしゃべりをしている人、試合が始まってもなかなか席に戻ってこない人など日本のスポーツ観戦ではあまり見ないような光景もあった。しかし、試合が終盤になると会場が一体となっている姿があった。このような姿がアメリカのスポーツ観戦のスタンダードになっているようだった。

バスケットボールの試合会場内(撮影:石澤)

 ノースキャロライナ州滞在の最終日には、州の大西洋岸近くに残る奴隷制農場史跡サマセット・プレイスを訪れた。サマセット・プレイスは、州の中部に残る奴隷制農場史跡スタックヴィルより木々が少なかったこともありプランテーションの大きさというものをより理解することができた。奴隷所有者が生活していた家の周りには様々な用途で作られた部屋がいくつもあり、その周辺には20以上の奴隷小屋や奴隷とされている人のための病院、教会があったことが分かった。しかしそれらは、プランテーションのほんの一部であった。この果てしなく広い土地が元々沼地であり、それを奴隷とされていた人が開拓したという事実は正直想像できないほどであった。
 
サマセット・プレイスの奴隷小屋(撮影:石澤)

 最後にミシシッピ州を訪れた。ミシシッピ州ではエメット・ティル事件や公民権運動に関するような史跡を中心に訪れた。それらの場所を訪れたことにより、授業やゼミ活動の中では文章を中心に読んでいた内容に加えて、その土地・場所の風景が足されて、全体的な理解を深めることができた。  さらにミシシッピ州を移動していく中で黒人の居住区域と白人の居住区域がはっきりと見てわかることだけでなく質素な平屋建ての家が立ち並んでいるところと高級住宅が立ち並んでいるところが道路を隔て分けられている光景を見たときに黒人と白人の違いだけでなく白人の中にも格差が明確にあることが一目瞭然で分かった。
 このアメリカ研修旅行は私に刺激と新たな価値観を与えてくれた。文章を読んでいるだけではわからないそれぞれの場所の雰囲気や景色を実際に自分の目で確認できたことは大きかった。この研修旅行は、授業などで扱った奴隷制や公民権運動、ゼミ活動で扱っているものをより深めていく目的があると思う。しかしそれだけではなく、アメリカの文化や宗教、食、人などに触れ合うことのできる貴重な機会であった。このアメリカ研修旅行は、今後の自分の人生を彩ってくれるもののひとつになると確信している。

2020年3月31日



伊藤涼平「数々の貴重な体験」(アメリカ研修旅行2020年2月〜3月)
 私にとって今回のアメリカ研修旅行は、ゼミやアメリカに関する講義で学んできたことを実際に見ることでさらに理解を深めることができた。それだけでなく、約3週間という期間でニューヨーク、ノースキャロライナ、ミシシッピなど複数の州を訪れ、街並みの変化なども実感した。異なる州で大きく街並みが変化することからアメリカの広大さを直で感じ取ることができた。自分にとって初めての海外旅行であったこともあり、刺激の多い毎日であったがその中でも私が特に心に残った出来事について紹介する。
 印象に残った出来事の1つ目としては、ノースキャロライナ州でのことについてである。理由としてはまず私自身、現在卒論テーマとしているのが「ノースキャロライナ州における奴隷とされていた人たち」に関するものであるからである。ノースキャロライナ州ではかつて最大の奴隷制農場(プランテーション)であったスタッグヴィル、そしてコリンズという白人所有者の一家が所有していたノースキャロライナ州で当時3番目に規模が大きかった奴隷制農場(プランテーション)サマセット・プレイスという2つの史跡を訪れた。1つは、ノースキャロライナ州の中心あたりにあるダーラム市から車で10分ほど、他の1つは車で3時間近く東に走ったクレズウェルにあり、大西洋岸まで1時間くらいの位置にあった。
どちらのプランテーションにも奴隷とされていた人々が生活していた奴隷小屋があった。私が実際に見て感じたことだが、奴隷小屋には2階建ての奴隷小屋もあったが1階建てのものが多かった。そこではかつて、奴隷小屋の1室で1家族が生活していた。そして、その狭い小屋の内部には手製だと思われる簡易ベッドなども置かれていた。そして、奴隷小屋の壁は特に厚いわけではなく、真夏や真冬などは厳しい生活を強いられていたということが想像できた。そういったところから生活の過酷さというものが伝わってきた。
 私がそう考えた大きな理由としてはサマセット・プレイスで見た奴隷所有者の家があまりにも立派で奴隷小屋とは比べ物にならないほど広かったからである。こうした状況の中でも奴隷とされていた人々は、自分達が奴隷小屋で生活するための椅子やテーブルといったものや先ほど述べた寝具などを作っていたとされている。このことから、奴隷とされていた人々は、生活面においてはある程度の協力関係が彼らの中で形成されていたと私は考える。当時の白人所有者側の考えとしては、奴隷とされていた人々を身体的にも精神的にも支配することによって、彼らに団結、自立を一切させないというものであったはずである。しかし、奴隷とされていた人々が日用品などの道具を自分達で作っていたということは、白人所有者側の意図に反して奴隷とされていた人々に自立精神が存在していたと考える。

奴隷制農場史跡サマセット・プレイスの奴隷小屋

奴隷小屋の内部

奴隷小屋内部の医療器具など

 次に印象に残ったこととしては、ミシシッピ州でのことである。ミシシッピ州に滞在している間も多くの場所を訪れたが、その中でも印象に残ったものはエメット・ティル事件に関連する史跡である。その理由は、ゼミや歴史資料研究法の授業で約1年エメット・ティル事件に関する史料を実際に読み、内容を理解していたことが大きいと考える。事件の発端となった場所でもあるロイ・ブライアントの食料品店や、ティルが暴行を受けたとされる納屋、そして彼の死体が遺棄されたとされるブラック・バイユー川などを訪れた。そこで私は改めて14歳の子どもが大人によってリンチされ殺害されるという残酷な事実があったということを実感した。それに加えて、エメット・ティルの遺体が発見されたタラハチ川の「ヒストリックマーカー」も印象的である。ヒストリックマーカーとはアメリカで歴史的な場所などに設置されている標識のことを示し、その標識に史跡の由来などが詳しく記されている。実際、今回の研修旅行でこのヒストリックマーカーは街中を歩いている最中や車で移動している時など度々見かけた。話を元に戻すと、エメット・ティルの遺体が発見されたタラハチ川へ誘導するヒストリックマーカーはこれまで建設するたびに誰かに破壊されていて、最近新しいヒストリックマーカーがまた建設されたという話はアメリカに行く前から先生から聞いていた。しかし、実際に行ってみると新しく建てられたヒストリックマーカーにもいくつかの弾痕があった。このことから、いまだにエメット・ティル事件について複雑な思いを抱いている人物がいるということが分かった。このようにヒストリックマーカーを破壊するということは、エメット・ティル事件のことを思い出したくない人物がやっているのかそれとも他にもっと深い理由があるのかもしれない。こうした史跡を訪れることによって私自身もエメット・ティル事件について深く考える機会となった。

ブラック・バイユー川

エメット・ティルの遺体が見つかった場所に誘導してくれるヒストリックマーカー

エメット・ティルが暴行を受けて殺されたとされる納屋

 今回のアメリカ研修旅行では他にも、ミュージカルを見に行ったことやノースキャロライナ州のダーラム・ブルズ・アスレチック・パークで大学野球の試合を観戦したことなどここでは詳細に書いていないが楽しい思い出も数多くあった。その思い出の中で、建物の大きさ、出てくる食事の量、駐車の仕方など目に見える部分だけでも日本とは違う点がいくつもあった。初めての海外旅行ということもあり、歩いているときや車に乗っているときなども私は普段日本にいるときと比べ物にならないほど周りを見渡していた。言い換えれば、視野を広げて生活すればそれまで気づくことができなかった新たな発見があるはずである。それは、今住んでいる日本でも例外ではないと私は考える。このようにアメリカでの貴重な経験の数々を今後の糧としていくことが、今回の旅を私の人生の中でかけがえのないものにすると考える。

2020年4月7日



植村勇人「見て学んだアメリカ研修旅行」(アメリカ研修旅行2020年2月〜3月)
 今回のアメリカ研修旅行は、例年のアメリカ研修旅行よりも長い3週間の滞在となった。私は、この研修旅行で自分の考えていることをより深めることが出来たと思う。
 今回最初に訪れた場所はフィラデルフィアだった。ここには5日間滞在したが、ワシントンDCとニューヨークにそれぞれ日帰りの見学に行った。私が印象に残っている場所は、国立アフリカ系アメリカ人歴史・文化博物館(National Museum of African American History and Culture)である。私が、学芸員の資格を習得するために博物館関連の授業を受講していることもあり、アフリカ系アメリカ人の歴史を辿っていくこの博物館が印象に残った。この博物館は、先住民とヨーロッパの人々との出会いから始まり、奴隷制、アメリカ独立と時代をさかのぼって現代へと追っていく流れで展示されていたので見ていてわかりやすいものとなっていた。その中で私が足を止めてしばらく見ていたものがあった。それは、当時奴隷とされていた男性が鞭を打たれた背中をこちらに見せていた写真である(写真1)。奴隷とされていた人たちが鞭を打たれるという懲罰を受けていたというのは授業で聞いていたし、私が所属している樋口ゼミでかつて翻訳された元奴隷のフレデリック・ダグラスの自伝でも鞭を打たれたという描写はあったので、文字や言葉の上では、そのような残酷なことが行われていたんだな、痛そうだな、ということを理解していたつもりだった。しかし、写真で見てみると、その残酷さや痛々しさは鮮明に視覚から伝わってきて、奴隷制の残酷さというものが私の中でより深く認知された。

写真1 奴隷とされていた男性が鞭打たれた背中(撮影者:植村)

 残る2週間はノースキャロライナ州と、ミシシッピ州に1週間ずつ滞在した。この2週間で印象に残っている史跡はメドガー・エヴァーズの生家である(写真2)。メドガー・エヴァーズはかつてミシシッピ州で公民権活動家として活動していたアフリカ系アメリカ人である。私は、大学の授業の一環でメドガー・エヴァーズについて多少調べていたことがあり彼が暗殺された時の状況や犯人の名前などは知っていた。しかし、実際に行ってみないとわからないこともあった。例えば、家の中にあった弾痕である。メドガー・エヴァーズは、南部での公民権の活動で命を狙われており、銃撃された跡が家の中に残されていた(写真3)。 もう1つ印象に残っている場所は、ジャクソン市にある1909年にニューヨークでいち早く設立された公民権組織「全国黒人向上協会(NAACP)」の州支部である(写真4)。それはメドガー・エヴァーズがNAACPの地方幹事として仕事をしていた場所でもある。その支部の見学に赴いたところ、ここにも窓ガラスに弾痕があった(写真5)。その弾痕の数々は、壁や窓に生々しく残されており、当時の公民権活動の危険性を表していた。人種差別がはびこっていた南部では、公民権の活動は命の危険を伴うということは授業を受けて知っていたが、実際に銃撃された跡である弾痕を見て、改めて公民権の活動の危険性を再認識することができた。

写真2 史跡として残されているメドガー・エヴァーズの生家(撮影者:植村)

写真3 メドガー・エヴァーズ宅に残されている弾痕(撮影者:植村)

写真4 NAACPミシシッピ州支部の玄関(撮影者:植村)

写真5 州支部に残されている窓ガラスの弾痕(撮影者:植村)

 このように自分の考えていたことや、思って想像していたことを、実際に見ることでより深く再認識することが出来たと思う。実際に見て学ぶことの大切さを知った研修旅行であった。

2020年5月9日



宮城春香「実感する旅」(アメリカ研修旅行2020年2月〜3月)
 今回のアメリカ研修旅行は、私にとって初めての海外であった。周囲の人から「君は危なっかしいんだから気をつけて」や「生きて帰ってきてね」などと散々言われたのも相まって、”アメリカ”という異国の地に対して、緊張と不安と幾分かの期待の気持ちが私の中で渦巻いていた。
 2月25日、日本を飛び立ち長いフライトを終え、私たちは無事フィラデルフィアに到着した。ぼんやりと薄暗い天気の中、重いキャリーケースを引きずりながら街をいそいそと歩いた。この時の私は「あんまりアメリカに来た実感が湧かないなあ」とその時の天気と同じようにぼんやりと思った。けれど一体何が私の思っていた”アメリカ”だというのだろう。今回の旅は、この曖昧な思いが確かなものに変わる一つのきっかけとなった。
 フィラデルフィアに滞在した期間は、フィラデルフィアだけでなく、ワシントンD.C.やニューヨークシティにも出向いて様々な観光地、歴史的建造物や博物館を見学した。なかでも私がなにより楽しみにしていたのはニューヨークに行くことであった。
 ニューヨークはまずはブルックリン橋を渡ろうと、マンハッタン区からではなくブルックリン区まで電車で行ってからあの有名な橋を渡った。わざわざブルックリン区の方から橋を渡るのは、先生曰く「ミーハーではない」らしい。
 ブルックリン区の少し上品で落ち着いた住宅街の雰囲気をゆっくりと味わいたかったが、あまりに強すぎる風が邪魔をした。かぶっていたベレー帽は吹き飛ばされそうになった。空模様は快晴だったが天気として表すならば「風」であった。橋の上もまた風が強く、ここまでくると観光客が増え、急に観光地に来てしまったな、と思った。海の上に木で出来た橋をコトコトと足音を立てながら渡る感覚は、規模は違うがどこか桜木町のワールドポーターズへ向かう時の汽車道に似通ったものがあった。

ブルックリン区からブルックリン橋へ (撮影:宮城)

 その後足早にチャイナタウンを通り過ぎた。横浜中華街を想像していたが、想像とは少し違い観光客向けの商品が目立つ雑多な雰囲気であった。そしてロワーイーストサイドにやってきた。私は卒業論文のテーマを、このロワーイーストサイドを中心としたユダヤ移民の生活にしようといていたため、この場所は私の本命だった。チャイナタウンから続く広い道では、その広さがために建物よりも空が見えるなどの要因からその空間的な広さに目がいった。けれど大通りから離れて少し細い道に入れば、テネメントと呼ばれる、19世紀から20世紀にかけて主に移民の人たちが劣悪な環境で密集して生活し、使われていた安いアパートの建物が今でも隙間なく建ち並び、通りを囲うようにそびえ立っていた。チャイナタウンの活気とはまた違う、少しもの寂しげなところであった。

そびえ立つテネメント(撮影:宮城)

 そこから電車に乗り、タイムズスクエアに向かえば通りは大きな電光掲示板で埋め尽くされ、それぞれがそれぞれの情報を主張しているせいで少々目が痛い。この人々や空気感の強さは渋谷を思い起こさせた。ちなみに私は渋谷が得意ではない。そこからまっすぐ歩いていけば、落ち着いた雰囲気の整備された緑が溢れるセントラルパークにやって来た。タイムズスクエアからの距離感といい代々木公園を感じた。違うところは馬車が走っているところであろうか。そっと馬を触りつつ都会の中の自然を味わった。そこから移動して五番街を歩いた。いわゆる「銀座」らしい。トランプタワーや様々な高級ブランドが並んでおり、確かに銀座だ…と納得した。
 ニューヨークの街を一日で巡り巡ってヘトヘトになった。気づいたことはこの中には様々な色があるところだ。少し歩けば印象がまるで違う。それこそがニューヨークの性格であり、面白い部分ではないだろうか。色々な人が携わって築き上げた多種多様なニューヨークに、ほんの少しではあるが確かに触れることができた。
 フィラデルフィアを離れ、ノースキャロライナ州に滞在した。そこではノースキャロライナ大学のデイヴィス図書館で数日間リサーチをしたり、街を散策したり、そしてダーラムではノースキャロライナ州最大のプランテーションがあったスタッグヴィルとワシントン郡では州で三番目に大きいプランテーションがあったサマセットの史跡を見学した。そのなかで特に印象に残ったのは、スタッグヴィルの広大な土地の中に建てられていた奴隷とされた人々が暮らしていた小屋である。この二階建てを特徴とする小屋は、奴隷とされた人々が自らの手で作り上げたものであった。それぞれの部屋には暖炉があるため煙突が作られており、小屋と呼ぶにはかなりしっかりとした作りの建物からは当時の奴隷とされた人々の技術力を目の当たりにすることが出来た。小屋の煙突はレンガが積み上げられて出来ていた。このレンガも奴隷とされた人たちが自らの手で作ったものらしく、よく見てみると指の跡が残っていた。私は「ここにあるんだ」と、痕跡ではあるが奴隷とされた人々の存在をより身近に感じることが出来た。

奴隷とされた人たちが作った自分たちの住処 (撮影:宮城)

指の跡が確認できる煉瓦(撮影:宮城)

 最後の一週間はミシシッピ州に滞在し、州都のジャクソンやデルタ地方で博物館や様々な史跡、施設に足を踏み入れるなどのフィールドワークを行った。特にエメット・ティルに関連する場を多く巡った。今まで文字や写真などで見ていたので何となく頭では分かった気ではいたが、実際に訪れてみるとまるで印象が違うことに気づいた。
 グリーンウッドの街からマニーへ向けて車を走らせ、事件の発端となった店を訪れた。そこで気づいたことは周りには目立った建物がないことだった。町の中にあるわけではなく、その朽ちた店は何もない道の途中にぽつりと現れたのだった。通ってきた道は整備されていたが少し中の道に入ればコンクリートは敷かれておらず、目に飛び込んでくる景色といえばただただ広い自然である。そんな場所にある店で、当時白人優越主義が横行しているなか、エメット・ティルが白人女性に対してなにか行動を起こしたのならば、彼の行動はやけに際立って見えたのだろう。

朽ちたブライアント・グローサリー(雑貨店) (撮影:宮城)

 もう一つ印象に残ったのはエメット・ティルの遺体が見つかった川の近くに、遺体が見つかったということを示すために建てられているヒストリックマーカーである。この標識は、エメット・ティル事件の記憶を残すことについて反対する考えを持つ人、あるいは事件を軽視している人や人種差別の考えを持つ人などによって、銃で撃たれ破壊され捨てられることを繰り返し、実に4回も建て直されていた。昨年この標識がまた新しく建て直されたと知り、そこを訪れた。その標識を見たときに私は目を見張った。リヴァーと書かれた、新しく建て直されたはずの標識には既にいくつかの弾痕が残されていたのだった。歪んだ鉄の板からは、エメット・ティル事件に反対する強い感情がにじみ出ているように見えた。私は、白人優越の考えや差別の考えを持った人の存在を恐怖心と共に身に沁みて実感した。

撃ち抜かれた標識 (撮影:宮城)

 そしてこの研修旅行では多くの人達と関わらせてもらった。訪れた場所で丁寧に話をしてくれる人たちはもちろん、美術館で優しく話しかけてくれた人、ロッカーの使い方に苦戦していたら「このロッカーにはコツがいるのよ」と教えてくれた警備員さん、一緒にご飯を食べて「おいしい?」と優しい笑顔を向けてくれる人もいれば、私が鳥好きだと知って色々な野鳥を教えてくれた人もいた。本当に多くの人に親切にしてもらった。だからこそ言語の壁を乗り越えられない自分が悔しくもあった。今度はもっと自分の気持ちを伝えられるようになろうと思える機会となった。
 今回の研修を通して理解したことは、自分自身が今まで「異国の地」というだけで「きっと自分には理解の及ぶことが出来ない遠くのものなのだろう」というフィルターを通して見ていたことであった。頭ではわかっていたつもりでも、ずっとずっと大きく自分は到底及ぶことができない、最後まで理解することが難しいものであると勝手に思い込んでいた。最初は何もかもが違う場所なのだろうと思い込みながら訪れた”アメリカ”であった。しかし、そのアメリカで過ごしていくにつれて、ここは自分とは切り離された存在ではないと理解し、触れて来た多くのものや人のひとつひとつを、より身近で確かな存在として実感することが出来た。今回の旅は普段文字を読むことからは決して出来ない、全身で触れて実感することのできる経験となった。

経緯するために何度も利用したダラス・フォートワース空港での朝焼け (撮影:宮城)


2020年4月2日



舛野雄介 「アフリカ系アメリカ人の人々の歴史と文化を感じる旅」(アメリカ研修旅行2019年2月〜3月)

 今回のアメリカ合衆国(以下、アメリカ)研修旅行は、私にとってアフリカ系アメリカ人の人々の歴史と文化について実際に触れることができる良い機会となった。
 フィラデルフィアに滞在した間は、他にも日帰りでニューヨークや首都ワシントンなどを訪れ、それぞれ1日中歩き回りながら有名な観光地や歴史建造物を見学した。フィラデルフィア滞在中のなかで特に私が興奮したのは、アメリカでの最初の黒人教会として1790年代に建てられたメソディスト教会(Mother Bethel)の礼拝に参加した時のことだった。教会に入るとすでに礼拝が始まっており、客員牧師の若い男性が説教を担当していた。私はそこで衝撃を受けた。説教する声が力強くすさまじい勢いで教会全体に響き渡っていたからだ。(写真1)しかもその声は、授業のドキュメンタリーフィルムで聴いた公民権活動家の演説のそれに似ていて、全身に響き身震いするほどの迫力があった。そのうえ、説教の後の聖歌は教会にいる全員が歌うことで、人々が一体化しているように感じられた。これらのことから教会での礼拝には、そこに集まる人々を団結させる役割があるのだろうと思った。
Mother Bethel 教会礼拝参加時(撮影:舛野)

 次に滞在したノースキャロライナ州では、ノースキャロライナ大学チャペルヒル校のデイヴィス図書館でリサーチしたり、キャンパスでジャズ・コンサートを聴いたり演劇を観たり、州内の史跡を訪れたりした。とくに私の印象に残っているのは、ノースキャロライナ州でかつて最大のプランテーションであったスタックヴィルと3番目に大きなプランテーションであったサマセット・プレイスである。スタックヴィルは、ダーラムの町から北東にある史跡で、サマセット・プレイスは、チャペルヒルから車で東に3時間ほど、大西洋岸からは西に1時間にある史跡である。スタックヴィルでは、昨年の11月にゼミの授業にお越しいただいたデイビット・セセルスキーさんとスタックヴィルのディレクターでセセルスキーさんの娘ヴェラさんにガイドをしてもらいながら見学をし、サマセット・プレイスでもスタッフの方にガイドをしてもらった。この二つのプランテーションの見学によって、奴隷制度の時代に奴隷とされた人々の生活や奴隷所有者の生活を肌に感じることができた。このことから、奴隷制時代の歴史を単純に悲惨なものとして見るのではなく、奴隷とされた人々が悲惨な状況の中でも知恵と技術を用い、プランテーションにある多くのものを作っていたことに目を向ける必要があるという新たな視点を得ることができた。特に、サマセット・プレイスにある運河を見たとき、「機械のない時代にこれだけの規模のものをつくったのか」と思わず感動した。(写真2)これぞ百聞は一見にしかずで、写真でさえ伝わりづらいのでぜひ自身で行って見ていただきたい。
サマセット・プレイス内の運河(撮影:舛野)

 最後の1週間はミシシッピ州に滞在し、州都ジャクソン、デルタ地方、その南のナチェズなど毎日車で移動してフィールドワークを行なった。ミシシッピ州に到着してから3日目と4日目には、ミシシッピ・ブルース・コミッション認定の史跡を巡ることとなり、それが私にとって初めてのブルースとの出会いになった。このとき訪れたのは、ミュージシャンたちが集まり演奏していたとされる「ドッカリー農場」や、鉄道の駅で列車を待っていたW・C・ハンディが初めて耳にした音楽をブルースと名付けることになる町「タトワイラー」や、61号線と49号線の交わる町クラークスデイルにあるブルースの博物館「デルタブルースミュージアム」などである。「ドッカリー農場」も「タトワイラー」も意識していなければ通り過ぎてしまうような場所にあったが、それらが史跡として残されていることで、その地域にブルースという文化があったことを肌で感じることができた。
チャーリー・パットンら多くのブルース奏者が出入り、交流したドッカリー農場(撮影:舛野)
 
タトワイラーのW.C.ハンディがブルースに出会った様子を描いた壁画(撮影:舛野)

 アメリカ研修旅行でのフィールドワークは、歴史が過去のものではなく、現在にまで繋がっていることを確認する機会となった。

2019年6月19日



磯部 綾「二度目のアメリカを経験して」(アメリカ研修旅行2017年2月〜3月)
 今回、私がこのアメリカ研修旅行に参加させていただくのは2回目となる。振り返れば1回目に比べて緊張は少なく、ある程度心に余裕を持った上で行動することができた。その上で、1回目に訪れたときと比べると同じ場所であっても変化があり、新しく気づくことが多々あることを実感した。今回の研修旅行記ではそのことについて述べさせていただきたいと思う。
まず旅行2日目に訪れたワシントンD・Cのスミソニアンについて述べたい。前回もスミソニアンを訪れたがその時にはまだオープンしていなかったNational Museum of African American History and Cultureが2016年の9月にオープンした。このところ入場するにも困難なこの博物館を、今回樋口先生の人脈のお陰で見学することができた。この博物館は、アフリカ系アメリカ人の差別の歴史や文化を包括して展示している。驚いたのは、ブラックパワーついての展示が一つの部屋を使われて行われており、中にはブラックフェミニズムについての展示も用意されていたことである。黒人の差別の歴史を扱う際に、黒人内のジェンダー問題も一つの差別の歴史として明らかにしている。
 余談ではあるが、今回この旅行に出発する以前にテレビ番組にてスミソニアン航空宇宙博物館の宇宙食が出てくるシーンを見て、初めてそこで宇宙食が売られていることを知った。今回行って実際に売っているのを確認して少し感動した。あらかじめにこのような情報があるとより旅行なども楽しめるのだろう、という経験にもなった。
ケースに飾られた博物館の縮小モデル(撮影:磯部)

 ノースキャロライナ州でも変化を感じる場面は多くあった。ダーラムにあるDPACでは前回はミュージカルを、今回はロックのコンサートを観たが、その入口にて今回は手荷物などの検査が行われた。前回は手荷物検査などなく、トランプ政権に変わってからの導入であるという。樋口先生は「トランプは皆が安心して観られるようにしてくれた」と皮肉めいていたが、なるほど政権が変わった影響というのはこのような所にもあるのかと一番実感した場面であった。
 さらに、にイーデントンでは、現在ゼミで翻訳プロジェクトを行っている著書、The Life and Legacy of Josephine Napoleon Leary内に登場するレアリービルディングを、前回に引き続き訪れた。そこには今回の旅行の中で一番私の中で衝撃を与えたものがあった。それは「ジョセフィン・ナポレオン・レアリー、奴隷制から信じがたい成功への驚くべき伝説的な人生」と書かれたヒストリックマーカーである。自分たちがゼミの授業で翻訳し、校正するといった作業をしている時、レアリーが暮らしたイーデントンではレアリーの成し遂げたことを歴史的に残そうと新たにヒストリックマーカーが作られていたことを考えると、とても感慨深く思う。
新たに創られていた標識 (撮影:磯部)

 そして最後に、ミシシッピ州では14歳のエメット・ティルが殺された殺人事件関連の場所を前回同様訪れたが、前回入ることのなかったエメット・ティル事件の公判が行われたサムナーの裁判所の中を見学した。内部は意外に小さく、エメット・ティルの大叔父のモーゼ・ライトが立ち上がり犯人達を指さした姿がこの部屋で注目されたことが容易に想像できた。そして今回は、裁判所の向かい側の建物に新たに作られた展示で事件公判の様子や当時の陪審員の写真などを見た。陪審員は見事に全員が白人であり、そこで容疑者が無罪判決になったという事実が改めて脳裏に浮かんだ。
 今回2回目の研修旅行に参加して、2回目だからこそ前回との比較を含め新鮮な体験ができた。大きな目的である卒業論文の研修史料集めを含め、とても有意義な旅であった。

2017年3月30日



長友将倫「黒いバックと共に」(アメリカ研修旅行2017年2月〜3月)
 2017年2月24日、私は期待と一抹の不安を黒いバッグにしまい込んで家を出た。黒いバッグはこれでもかという程パンパンである。これで大丈夫なのか、忘れ物は無いか、成田空港までの道中、不安と緊張が頭をグルグルと走り回っていた。今回のアメリカ合衆国への旅行は私にとって初めての海外であった。そのため普段の旅行とは心持ちが一味も二味も違っていたのである。まず成田空港に行くことさえも初めてだった私は道中がとても長く感じられた。もちろん、それなりの距離はあるのだが、それ以上に感じていただろう。それほどまだ見ぬ土地に行くことへの実感が湧かなかったのである。それと同時に、初めての海外、アメリカという土地への想いや期待もひしひしと募らせていた。18日間の旅であったが、旅行前は18という数字がとても長い響きに感じていたように思う。しかし、さあ日本に帰国し改めて思い起こしてみると、18という数字は案外短いものであると感じる。それ程濃い18日間を送っていたということだろう。
 さて、今回の研修旅行では首都ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨーク、ノースキャロライナ、ミシシッピを主な目的地として巡った。写真や映像、はたまた絵で見てきた光景が私の前にはキラキラと広がっていた。少し不思議な感覚だ。私にとっては行く場所行く場所が全て新鮮で、書きたいことを全て書こうとすると量が膨大になってしまう。そこでこの旅行記では、ミシシッピでの思い出に絞り述べていきたいと思う。
 まず、ミシシッピでの一番の驚きというとデルタ地方の勾配のないあの地形であろう。ミシシッピでの初夜はウィノナで明かしたのだが、翌朝そこから車でデルタ地方に入った際の驚きは忘れられない。突如として坂がなくなり、遠くまでも見渡せるほど視界が開けるのである。山も見当たらず、空が大きく大きく感じられた。
デルタ地方の風景 (撮影:長友)

 忘れてはいけないのは「ブルース」の存在であろう。ロバート・ジョンソンのお墓を訪れたり、インディアノーラのBBキングのミュージアム、そして墓を巡ったりした。「ブルース」という音楽は、タトワイラーという町の駅で発見されたという。そのような場所を自分の目で見ることができ、感動を覚えた。
ロバート・ジョンソンの墓石のある墓地の入り口に立てられたマーカー (撮影:長友)

BBキングミュージアム (撮影:長友)

 エメット・ティル殺害事件に関連する場所も巡った。事件のきっかけとなった雑貨店、遺体の見つかったグレンドーラという町の近くを流れるブラック・バイユーという川、サムナーの裁判所を巡った。マニーにある雑貨店に関しては今にも崩れ落ちそうであったが、多少なりとも面影を確認することができた。ブラック・バイユーにかかっている古い橋から下を覗くと両脇を木々に覆われた水面が見える。決して綺麗とは言えないが、流れはゆっくりとしていた。電灯などは全くなく夜はとても暗そうである。サムナーにある裁判所は中に入ることもできた。事件当時の姿にしようと取り組んでいるのだとか。夏場、冷房もなかったらとても暑いのではないだろうか。そのようなことを思いながら巡った。
 二年生の時、歴史資料研究法において扱った文献の場所を目の当たりにし、その空気に触れ、場所に想いを馳せた。文献や地図だけでは捉えられないものが確かにそこにはあった。「百聞は一見に如かず」という諺があるが、まさにその通りである。
ブライアントのグローサリー (撮影:長友)

ブラック・バイユー (撮影:長友)

サムナーの裁判所の内部 撮影:長友

 今回の旅は私に大きな刺激と価値観を与えてくれた。文章を読むだけでは見出せないものがあるということを知れたことは非常に大きい。この先、卒業論文を書くにあたって大きな影響をもたらしてくれるに違いない。そして、もう一つ最後に述べるとすれば、それは「人」であろうか。行く先行く先で会った人が詳しく、丁寧に説明してくれた。言語の壁はあれど、とても嬉しかった。出会いの多い旅であったことに間違いはない。撮影した写真を樋口先生が送ってくださるので、それを見て、あの人たちが我々のことを思い出してくれれば嬉しい。
 もし機会があれば、また是非行きたい。勿論アメリカだけに限らず、この先、新しい土地に行く際の大きな糧に今回の旅行はなっただろう。その時もまた黒いバッグをパンパンにして持って行こう。

2017年3月30日



堀川 碧「歴史を肌で感じる旅」(アメリカ研修旅行2017年2月〜3月)
 今回のアメリカ研修旅行は2月24日から3月13日の約3週間で、今まで3週間も家を離れたことがなかった私には、期待よりも不安の方が大きかった。実は今回の研修旅行に参加するか迷っていたが、過去に参加した先輩方に、とてもいい経験になるから、と後押しされ、今回の参加を決意した。結論を先に述べると、この研修旅行に参加して本当に良かった。今まで授業や文面などから学んできたアメリカの歴史を、実際に目で見て、身近に触れたことによって、今まで勉強してきたことと感じ方が全く違ったものになった。今回の旅行を通して、これから歴史研究をしていく上で、実際に足を運んで体感することの重要性に大学二年生のうちに気づけたことがとても嬉しい。以下、研修旅行で特に印象に残ったことを述べたい。
 最初の訪問地フィラデルフィアから次のノースキャロライナ州に移動する飛行機へ乗り込むとき、樋口先生が「今日は雲がないから地上が見えるかもしれないね」とおっしゃった。飛行機が離陸し、窓の外を見てみると日本とは比べ物にならないほど市街地の周りを畑がどこまでも広がっていた。ノースキャロライナ州に降り立って、4日目に私たちはゼミのプロジェクトで取り組んでいる冊子(The Life and Legacy of Josephine Napoleon Leary)の著者ドロシー・レッドフォードに会うためにサマセットに車で向かった。行けども行けども一面に広がる畑を目の当たりにし、アメリカという国の大きさを実感するとともに、機械のない時代、これだけの土地を切り開き耕す為にどれだけの奴隷が投入されたのかを考えるとぞっとした。アメリカの繁栄の背景には奴隷制度が存在してたのだと感じとることができた。

奴隷制農場の史跡サマセット(撮影:堀川)

 私たちはミシシッピ州で14歳の黒人少年エメット・ティルが殺害された事件に関する場所をまわった。エメット・ティルの死体が投げ込まれた川のある町グレンドーラに行き、事件の詳細について展示されているミュージアムを訪れた。ミュージアムは、グレンドーラの綿繰り場(ジン・ハウス)を改造してつくられたものである。辺りは閑散としていて、扉を開けて建物に入ろうとしたら鍵がかかっていた。私はもう閉館したのだとがっかりしたが、管理者に電話をかけるとすぐに車で駆けつけてくれ、中に入ることができた。私は2年生のとき、授業の歴史資料研究法でエメット・ティル事件についての文献を読んだので、実際にエメット・ティル事件関連の展示を見ることができ、興奮した。このミュージアムがあるからこそ、事件のあった過去は消えないだろう。しかし、1960年代、公民権運動が活発になった大きなきっかけの一つとされるエメット・ティル事件のミュージアムが、これほどまでに閑散としていて訪問者も私たちだけという状況に驚いた。10年、20年後には、この町でエメット・ティル事件を語り継いでいく人がいなくなってしまうのではないかと心配になった。
 その一方で、今回の旅の2日目に訪れ、2016年にオープンしたワシントンDCのアフリカ系アメリカ人の歴史文化博物館は、アメリカにおける黒人が歩んできた歴史を展示する国立の博物館であり、アフリカ系アメリカ人の歴史を、アメリカの歴史としてしっかりと残そうとする動きが見えた場所であった。

グレンドーラのジン・ハウス(撮影:堀川)

 今回の旅行では今までの過去の出来事を座学で学ぶのとは違い、その出来事が及ぼした影響や、その後、現在に至るまでどの様に捉えられ、どんな意識を人々がもっているのかを肌で感じとることができた。

2017年6月22日



中島優太「アメリカを知る旅」(アメリカ研修旅行2017年2月〜3月)
 今回の研修旅行は、私の人生において初めての海外旅行であった。大学に通っている間にアメリカを訪れたいと考えていたので、この研修旅行は私にとって絶好の機会であった。拙い私の英語の発音では、伝えたいことが伝わらないかもしれないという不安を抱きながら訪れたアメリカであったが、この研修旅行は私にとって大変貴重な経験となった。
 私たちは、2月24日から3月12日にかけてフィラデルフィア市、ニューヨーク市、首都であるワシントン、ノースキャロライナ州、ミシシッピ州を巡った。
 私が、この研修旅行を通して実感したことは、写真や文書を通して学んだことと、実際に実物を見て学んだこととでは大きく異なっているということである。この写真1は、ペンシルヴェニア州のフィラデルフィア市に保存されている、独立記念館である。この場所で1776年7月にアメリカ合衆国の独立が宣言された。アメリカの独立宣言といえば、中学校や高校の歴史の授業で必ずと言ってよいほど扱われている。私は、独立の年や独立宣言の内容を既に学んでいたので、アメリカの独立宣言など全て理解したつもりでいた。
 しかし、実際に独立記念館の内部に入り、椅子や机、そして机の上に置かれている多くの独立宣言に関する文書を見た時、表面的なことしか理解できていなかったことに気づいた。ギャラリー・アテンダントの説明を全て理解できたわけではないが、独立宣言に至るまでの道のりを聞いた。その内容は、教科書の一行や二行では、到底説明出来るはずもないことである。ジェファソンをはじめとする多くの議員の独立にかける思いの強さを、自分の聴覚で、視覚で感じ取ることができた。そして、厳粛な雰囲気に包まれたこの独立記念館に、自分もいることに感動した。
 この独立記念館は、一般開放されており、私たちが訪れた時も40人以上の人々が入館するために並んでいた。多くの人々が独立記念館に訪れるのは、実際に独立記念館に足を運ぶことで、文章では伝わりにくい独立記念館にながれる雰囲気を自分の肌で感じとるためであろう。文書で独立宣言を学んで理解するよりも、実際に訪れて見たほうが、価値があるのではないかと思わせてくれた、貴重な体験であった。
 
写真1:独立記念館(撮影:中島)     写真2:独立記念館内部(撮影:中島)

  3月7日からの一週間はミシシッピ州を訪れた。その一週間の中で最も印象に残っているのは、エメット・ティルという黒人少年の遺体が投げ込まれたブラック・バイユーという名の川(写真3)を訪れたことである。私は、二年生の時に歴史資料研究法という授業においてエメット・ティルに関する文書を読んでいた。私が文書を通して想像した景色は、郊外に流れている大きな川というものであった。しかし、実際の川は、グレンドーラの集落の端、木々に囲まれたひとけのないところをゆったりと流れていた。エメット・ティルが殺害された場所からも距離的に遠くなかったことや人目につかないような場所が多かったことを考えると、この川に遺体を投げ込もうとしたことにも納得した。このブラック・バイユー川に架かっている橋の、実際に遺体が投げ込まれたと言われる場所に立って、川を見下ろしていた時、この事件は本当に惨たらしい事件であったということを改めて痛感した。
写真3:橋の上から望むブラック・バイユー川(撮影:中島)

 教科書や文書を通して「歴史」を学ぶことは大事なことなのかもしれない。しかし、その歴史上の出来事が起こるまでの長い道のりや、関係する人々の思いを読み取ることは難しい。実際に訪れて、感じとったことや初めて理解できたことも多々あった。この発見をさらに体感するために、またいつの日かアメリカを訪れたいと考えている。
2017年9月21日




池田光「探究心が芽生えた旅」(アメリカ研修旅行2016年2月〜3月)
 今回のアメリカ研修旅行は、私の人生で初めて海外に訪れる旅であった。研修旅行の2月26日から3月16日の約3週間でペンシルベニア州フィラデルフィア、ノースキャロライナ州チャペルヒル、そしてミシシッピ州のデルタ地域や州都ジャクソン近郊を巡った。この旅を一言でまとめると「百聞は一見にしかず」であった。なぜなら、今までに授業で学んだこと、それらに関する史跡などを実際に自分の目でみることができたからだ。例えば、ワシントンD・Cで訪れたリンカン・メモリアルでは、ワシントン・モニュメント、そして連邦議会が一直線で繋がる壮大な光景を見ることができただけでなく、1963年のワシントン大行進のさいには、自分の目の前が数えきれないほどの人で埋め尽くされていたことも容易に想像ができた。今回の旅でさまざまな場所に行き多くの経験をしたが、私は、ミシシッピ州、特に「ブルース」ついて書いていきたい。

リンカン・メモリアルからワシントン・モニュメント、そして連邦議会の一直線 撮影:池田

 私たちがミシシッピ州を訪れたのは、旅の終盤に当たる3月10日からであった。ミシシッピ州に到着したときに感じたのは、殺伐としているということであった。私たちが到着したジャクソンのメドガー・エヴァーズ国際空港は、アメリカに到着して利用したどの空港よりも人や店の数が少なかった。加えて、ミシシッピ州は、車のワイパーが意味をなさないほどの大雨であった。こういった不安を抱えたまま、最初の目的地であるデルタ地域に移動することになったが、不安はすぐに解消されることになる。なぜなら、「ブルース」について深く知ることができたからである。「ブルース」が誕生したデルタ地域を巡ったのは10日から12日という短い期間であったが私によっては、とても印象深いものになった。ミシシッピに到着した10日は、車で州都ジャクソンからグリーンウッドを通り宿のあるクリーブランドに向かった。途中のグリーンウッドでは、他の町もそうであるように、黒人と白人の居住区が全く別の場所にあり、家の作りや通りの雰囲気は全く異なっており、人種間に残る貧富の差を目の当たりにした。

61号線と49号線の交差地点 撮影:池田


 翌11日は、「ブルース」との出会いの日になった。クリーブランドを北に向かい最初の目的地クラークスデイルのデルタ・ブルース・ミュージアムに到着した。ここでは、「ブルース」がもともと奴隷とされていた人々の労働歌だったこと、B・B・キングやロバート・ジョンソンといった有名なミュージシャンの存在を知ることができた。

デルタ・ブルース・ミュージアム 撮影:池田


ブルースの発見 撮影:池田


 次の目的地タトワイラーに向かう道中の車内からデルタの風景を眺めていると、「ブルース」を歌いながら労働をする奴隷とされた人々が頭に浮かぶようであった。タトワイラーは、W・C・.ハンディという人物が1903年列車待ちをしているときに、今まで聞いたことのない音楽を耳にし、結果的にその音楽が現在の「ブルース」であったという、「ブルース」「発見」の地である。つまり、今では誰もが知っている「ブルース」が日の目を浴びた場所なのだ。その日の夜、自然と「ブルース」についてもっと学びたい、知りたいと思うようになっており、次の日の目的地B・B・キング・ミュージアムに行くのが待ち遠しくさえなった。
 翌12日予定通りにB・B・キング・ミュージアムに向かった。展示を見ながら、B・B・キングの生涯と共に、「ブルース」がどのように音楽のジャンルとして確立していったのかを学んだ。その中で最も印象的だったのが、1960年代の「ブルースブーム」の展示であった。1950年代から1960年代にかけて、「ブルース」は白人社会にも溶け込み、公民権運動や反ベトナム戦争にも影響を与えることになったというのだ。今まで単に「音楽」としての認識だったブルースが、黒人文化の「歴史」の脈絡から再認識された。この旅では、物事を深く理解することの重要性を実感したと同時に今まで知らなかったことを知る一種の「出会い」を感じることができた。

B・B・キング・ミュージアム正面 撮影:池田

ここまで、「ブルース」について書いてきたが、この旅では、その他にも多くの出会い、経験、喜びがあった。3週間という期間がこんなにも濃厚だと感じたのは初めてのことかも知れない。この旅で得たものは、自分の今後の成長に繋がると確信している。

(2016年3月30日作成)



磯部綾「アメリカで感じた風景」(アメリカ研修旅行2016年2月〜3月)
 今回のこのアメリカ研修旅行は私にとっての初めての海外であり、約3週間という期間は言葉の壁もあり、緊張の連続であった。しかし多くのことを知る、ということだけでなく肌で直接感じるという、大変貴重な体験ができた。この研修旅行で一番に感じたことは、写真や文面で見た史料の風景を実際に見ることがどれほど重要であるか、ということであった。この研修旅行記ではそう感じた場面を、ミシシッピを中心にいくつか書かせていただきたいと思う。
 特に私がそう感じたのはミシシッピのグリーンウッドの、ブラックのセクションとホワイトのセクションにおいてであった。ブラックとホワイトのセクションは貧富の差が顕著に出ており、という言葉は今までにも文面などで見聞きすることはあった。しかしそこから貧富の差が明らかであることは理解し、想像することはできても、その貧富の差は実際にどれほどのものであるかというのを知ることは不可能であると思い知らされた。私は実際にそのブラックのセクションを見て、自分が想像していたものとあまりに違うことに驚きを隠せなかった。板が打ち付けられた窓に、崩れかけた壁、一軒家と呼ぶには狭いそういった家が密集するように立ち並んでいた。その後、ホワイトのセクションへ行くとその違いは文面で見るよりも明らかであった。広い庭のある大きなその邸宅は先ほど見た家とは違いすぎて、思わず「奴隷の家と所有者の家のようだ」と感じてしまった。
 そして同じくミシシッピにおいて私たちはエメット・ティル関連の場所もいくつか訪れた。実際に事件が起きた店や、遺体の見つかったタラハチ川、裁判が行われた場所等である。私は2年時の歴史資料研究法の授業においてエメット・ティルに関する文献を教材として使用したが、常に疑問に思っていたのは位置関係といった地理上のことであった。エメット・ティルの大叔父であるモーゼ・ライトが住んでいた家、店までの距離、それは地図を用いて指差し平面的になんとなく理解していた。しかし今回の旅行において実際に場所を訪れたことで、彼らの住んでいた土地というのがどのようであったか、どのように移動してきたのかという理解がより深められることとなった。

ブライアントグロサリー 撮影:磯部

 レッドフォードさんに質問をする為に訪れたノースカロライナ州のサマセットにおいても、衝撃を覚えた。あまりに広大な土地に、そしてその土地はかつて奴隷たちによって開拓され耕され畑となったが、元々は沼地であったという事実に。この衝撃は実際に訪れたからこそ味わえるものだろう。そして今回、見つかったというJ・N・レアリーの墓を訪れることができたことを嬉しく思う。

サマセット 撮影:磯部

J・N・レアリーの墓 撮影:磯部

 今回の研修旅行は最初に述べたように今まで学んだことに、肌で直接触れるというのが私にとって一番の体験であった。文面を読んだだけで事件や当時の風景全ての状況を知ったつもりになってしまったことも少なくないが、自分がそうやって想像していたものは実際に見て大きく違っていたことも多かった。この旅行に参加しなければ実際に風景に触れることの重要さも分からなかったのかもしれない。それだけこの研修旅行は私にとって大きな意味を持った非常に有意義な時間であった。今回このような機会に巡り会えたことに感謝している。

(2016年3月31日作成)



駒谷啓太「研究課題を目の前に 」(アメリカ研修旅行 2016年2月〜3月)
 私の今回のアメリカ研修旅行は自分の価値観や考え方を大きく変えるものとなった。海外旅行や留学をした人がよく、「人生を変えるものになった」と言っているが、自分もその気持ちがよく分かるものになろうとは、行くまでは想像もしていなかった。言語の違いや生活スタイルの違い、食文化の違いなど例を挙げたらきりがないが、やはり日本にいては味わえない事が多くあった。テレビやニュースなどの情報だけでは補えないものがそこにはあったといえる。さてここまでは一旅行者としての意見である。以降ではアメリカ史を研究する一人の学生として意見を述べていきたい。
 アメリカ三週間の滞在の間に、北はペンシルヴァニア州から、南はミシシッピ州と幅広くまわった。その中でも私は首都ワシントンとノースキャロライナ州のイーデントンという街に絞って取り上げる。
 最初はワシントンについてである。私は卒業論文のテーマでワシントン大行進を取り扱っている。これは1963年8月に起きた公民権活動の一つである大きな大会である。これがワシントンのリンカンメモリアルという場所で開催された。そのため、私が訪れたかった場所の一つである。目の前に立つと個人的に圧倒されるものがあった。それは私自身がワシントン大行進を研究テーマにしているからなのかもしれない。ここには数え切れないほどの人が参加し、公民権をそれぞれが訴え、演説者に賛同している熱狂的な場に、自分が立っていると考えたら感慨深いものがあった。私はほんの少しの間、立ちつくして見上げてしあう時間さえあったといえる。階段を上り演説台があったであろう場所に立ち、リンカンメモリアルを背にしてワシントンモニュメントの方を見ると、また感動した。ここでちょうどこの位置でワシントン大行進参加者は、黒人の公民権をアメリカに、世界に訴えた。私のこれまでの研究の記憶をたどりながらここに立つと、目線には写真で見る当時のワシントン大行進の描写を映していた。ふと足元を見ると”I HAVE A DREAM” の文字があった。これはキング牧師がワシントン大行進で残した言葉の一つである。実際にキング牧師はこの場に立ったのだが、キング牧師だけでなく他にも多くの人がこの場で、演説やパフォーマンスを行った。しかし、これではキング牧師がワシントン大行進の代表者とみなされ、キング牧師のワシントン大行進というイメージになってしまう。この他にもミュージアムや史料館などでも「公民権運動=キング牧師」という公式が成り立っていた。日本の教科書ではこの式はよく見るのだが、アメリカ国内でもこのような形になっているとは驚きであった。

 リンカンメモリアル 撮影:駒谷

 演説台からの景色(右) 演説台の足元(左) 撮影:駒谷

 次にノースキャロライナ州イーデントンである。ここでは現在ゼミの時間で扱っている文献の中で出てくるジョセフィン・N・レアリービルディングを見ることが出来た。レアリー夫妻が離婚調停中に、財産権であった不動産をどちらが所有するのかという裁判が行われた。これはその不動産なのである。当時は女性が離婚を決断するということは珍しいことであり、そのためこの建物は歴史的な意味があるといえる。周りの建物との繋がりや風景を見ることができたので、こちらも本の写真だけでは感じることが出来なかった点に、目を向けられるようになったのではないかと思う。終わりにはレアリー夫妻の墓地も見ることが出来た。史料というのは決して本などだけではなく、墓地からも情報を得られるというのは個人的に新たな発見であった。

 レアリービルディング 撮影:駒谷

 レアリー夫妻の墓地 撮影:駒谷

 これら二つのことから言えるのは、研究というのは本を読み進めるだけでは困難なものであり、その上十分なものが完成できないのではないかと感じた。それは今まで積み上げてきたものを、現地まで足を運んで知識と照合することも必要なのではないかと考えるようになった。それをしなければ良いものが出来ないとは決して思わないが、少なくとも今回私はこの経験で、当時の様子の想像を多少円滑なものに出来たと感じている。アメリカ史を研究する一人の学生としても、価値観や考え方を大きく変えるもことが出来た研修旅行であった。

(2016年3月31日作成)



広瀬誠弥「一学生として、一歩踏み出して見た世界」(アメリカ研修旅行2015年9月)
 今回のアメリカ研修旅行は、私にとって初めての海外渡航であった。初めての海外ということもあり、言葉や日本との環境の違いなど不安要素が多々あった半面、自分の研究対象地域であるアメリカ合衆国(以下アメリカ)の空気を、一大学生として生で感じることができるという楽しみな気持ちも存在していた。そして結果的に私は今回の約二週間の研修旅行で、そのアメリカの空気を存分に感じ取ることができたと思う。その空気とは、文化的側面や宗教的側面、人種など多様である。さらに、それは現在のことに限らず、過去のことにまで及ぶ。この経験は、普段読んでいる本や論文などの文章中の世界だけでは味わえないものだ。本を読んで知った気になっていた世界も、実際足を運んで、自分の目で見てみると、自分が想像していた世界を大きく超える世界がそこには広がっていた。
 今回の研修旅行では、マサチューセッツ州、ペンシルベニア州、ニューヨーク州、ワシントンD.C.、ノースキャロライナ州、そしてサウスキャロライナ州と、約二週間で様々な場所を訪れることができた。残念ながら、ここでその全ての経験を語ることはできないが、ここからは一研究者としての意識を働かせていた中で、特に私にとって印象深かった場所について述べていきたいと思う。
 アメリカに到着し、最初に訪れた地域はマサチューセッツ州ボストンであった。到着してから三日目に訪れた地元ボストンの野球チーム、レッドソックスの本拠地、フェンウェイ・パークでは、野球というスポーツが「文化」としてアメリカに根付いていることを垣間見ることができた。

フェンウェイ・パークでの観戦(VSフィラデルフィア・フィリーズ)撮影:広瀬

試合中、周囲の観戦している人々の反応を見ていると、各人々が野球というものをよく理解していることがわかった。日本のプロ野球の雰囲気とは違う何かがあった。常に人々が応援歌に合わせ声援を送っているわけではなく、フェンウェイではホットドックを食べながら観戦する者、あるいは常に試合観戦に集中する者と様々で、人々は各自のペースで試合を観戦していた。だが、一度選手が良いプレーをすると球場全体が盛り上がり、逆に選手が悪いプレーをすると人々は不満そうなタメ息をもらす。観戦している人々のほとんどが一つ一つのプレーに対しその自らの反応で評価を下していたのであった。これは野球というものを理解していないとできないことである。こうしたことから、野球がアメリカの人々、少なからずともその球場にいた人々に愛されていることを体感できた。それは人々が理解を示している一つの「文化」と言えるのではないかと、私は球場を後にする時考えたのであった。
 アメリカ滞在期間中、日曜日は2回あった。その2回の日曜日はどちらも教会へ足を運び、礼拝に参加した。1回目の日曜日はフィラデルフィアにあるリチャード・アレンが1794年に創設したマザー・べテル・アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会(以下AME教会)というアメリカにおける最初のアフリカ系アメリカ人(以下黒人)の教会の礼拝に参加した。2回目の日曜日はノースキャロライナ州チャペルヒルにあるアフリカン・メソジスト教会という小さな教会の礼拝に参加した。どちらも黒人コミュニティの中に入り込むという意味で貴重な経験であったが、次はアメリカ到着後、初めて礼拝に参加したAME教会での強烈な経験について述べていきたい。

マザー・べテル・アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会の礼拝堂 撮影:広瀬

AME教会は、歴史ある教会ということもあり、建物はステンドグラスやシャンデリアが存在感を放つ荘厳なつくりで、地下には小さなミュージアムもあった。実を言うと私は、小、中、高校と12年間キリスト教ルター派の学校に通っていたので、礼拝がどのようなものであるかはよく理解しているつもりであった。しかし、このAME教会での礼拝は私が知っているものとは全く異なるものであったのだ。小、中、高校時代に参加していた礼拝は、賛美歌を歌い、聖書を読み、その後牧師が静かに説教をし、礼拝に参加している者はただただ無言でその説教を聞いているという非常に「物静か」なものであった。対してAME教会での礼拝は、一言でその印象を述べると、非常に「情熱的」なものであった。人々が歌うゴスペルは力強く、話している内容はほとんど聴き取れなかったものの、牧師の説教は非常に熱狂的で、聞いている人々も牧師の言葉に「Yes!」と大声で反応する。このような「熱」を帯びた礼拝は私自身初めての経験であり、キリスト教の礼拝の形態が一様ではないという、今思えばあたりまえのことを気づかせてくれるものとなった。そして、その礼拝は同時に地域の黒人コミュニティの中に参加するという感覚も与えてくれるものとなった。AME教会では、その「情熱的」な礼拝の中から黒人コミュニティの強い「つながり」というものを感じる経験ができた。
 最後にアメリカ到着後、11日目に訪れたノースキャロライナ州にあるサマセット・プレイスのプランテーションについて述べていこうと思う。

サマセット・プレイスのプランテーション沿いの道路にて 撮影:樋口

正直、ノースキャロライナ州で3番目の大きさであったというプランテーションのその広大さは、言葉では伝えきれないというのが本音である。本や授業の中でサマセット・プレイスのことを学ぶ機会はあったが、実際に訪れてみると本当に広大であり、もともと沼地であったというその土地全てを人の手で開拓していったということが信じがたいと思うほどであった。しかし、そこで実際に奴隷とされた人々(以下奴隷)が暮らしていたという事実を実感させてくれたことがこのサマセット・プレイスの本当の意味でのすごさであろう。ここでは、当時の風景に限りなく近いものに再現されているということが何より素晴らしかった。プランテーションの所有者とその家族が住むビッグハウスのみならず、奴隷たちが暮らしていた小屋や、奴隷監督の住む小屋、小屋の中の家具や器具など細部に渡り再現されており、当時奴隷がそこで生活していたということをリアルに感じ取ることができた。このプランテーションでの経験は本当に本や授業の中だけでは得られなかったことだと思う。そしてアメリカ史を学ぶ人間としては、そのことが大きくプラスに作用することは間違いない。今後もこの素晴らしい経験をさせてくれたサマセット・プレイスが存続してくれることを願ってやまない。
 以上、今回の約二週間の研修旅行で印象深かった場所と経験について述べさせていただいた。一般的な観光客としてではなく、一人の歴史研究者として望んだ今回の研修旅行。常に訪れた地の空気を感じ取ろうとアンテナを張っていた。だからこそ得ることができた経験が多くあった。それは、史跡においてのみならず、食事といった場面においてもである。本当に貴重な経験の数々であった。だが何より、この経験は研修旅行に参加するという決断を下さなければ得ることはできなった。その一歩踏み出すか、出さないかでは、大きく違う結果をもたらすことになることも今回学んだ。私はこのアメリカ研修旅行に参加して本当に良かったと思っている。もし、この文章を読んでいる方の中に何かで一歩踏み出すことに躊躇している方がいるとしたら、迷わず一歩踏み出してほしいと思う。なぜなら、一歩踏み出したら、そこには今まで見たこともない風景が広がっているのだから。

(2015年9月下旬に旅行記作成)



朴洵利「奴隷制が息づく街」(アメリカ研修旅行2015年9月)
 2週間という短い期間ながら、アメリカ合衆国各地を忙しく巡ったこの研修旅行は、私にとって大変思い出深いものとなった。アメリカで何を見、何を聞き、何を感じたかについて、とてもここに全て書くことはできない。だが、北部と南部、あらゆる土地を訪ねた中でも、最も強く印象に残っている港町チャールストンについて、ここでは書いてみたいと思う。
私たちがチャールストンを訪ねたのは、2週間の研修旅行が終わりに近づいていた9月16日のことだった。前日までは、ノースカロライナ州のチャペルヒルにある、ノースキャロライナ大学チャペルヒル校の図書館に籠って、自分の卒業論文のためのリサーチに明け暮れていた。ひたすらパソコンのモニターと細かい字をにらみ続けたことによる疲労もあってか、チャールストンを訪ねるということが、私にとって非常に魅力的に映っていた。片道5時間という時間が苦痛に感じなかったのも、いま思えばそういう理由だったかもしれない。
 チャールストンに到着して私が最初に感じたことは、想像よりもずっと小さな町で、先に訪れたボストンやニューヨークのような北部の大都市などとは似ても似つかないほど、時間がゆったりと流れているということだった。車通りもそう多くなく、行き交う人の慌ただしさも感じない。目もくらむような高層ビルが覗き込むようにそびえていることもない。街並みを眺めてみても、高い建物と言えば教会の塔くらいで、家々も色とりどりに塗装された木造建築か、石造りの小さなものばかりだった。

(チャールストンの街並み 撮影:朴)

 モーテルに荷物を置くと、さっそく散策に出かけた。大きな通りから一本脇道に入り込むと、そこは舗装されたアスファルトではなく、ちぐはぐの石畳の道路が続いていて、それだけでチャールストンという町の長い歴史を感じることができる。まず向かったのは、エイケン・レット・ハウスという、今は博物館となっている、奴隷所有者の邸宅だった。どうしても「奴隷制」と聞くと広大な農場を連想してしまいがちだった私にとって、街中にさも当たり前のように奴隷制の遺構が存在しているということは非常に新鮮だった。さらに驚くべきことは、この建造物が非常に綺麗な状態で保存されていたということである。中に入ってみると、建てられた当時からそこにあるだろう絵画や椅子、テーブル、暖炉―それらすべてが想像もつかないほどの長い時間を経て、今もこうして目の前にあるのだということを考えると、なんとも感慨深いものがある。さらに私の興味をそそったものは、街中にある奴隷制の姿だった。ふつうプランテーションの奴隷制といえば、広大な敷地に点々と小屋があり、そこで奴隷とされた人々が生活しているものだが、ここは違った。所有者たちが住んでいる邸宅のすぐ裏に、奴隷とされた人々の居住空間が併設されているのである。そういう意味では、街の奴隷制というのは所有者と奴隷の距離が近い。奴隷所有者たちは、きっと奴隷たちの息遣いを背中に感じながら生活していたことだろう。

(エイケン・レット・ハウス外観 撮影:広瀬)

 そんなことを考えながら、次に向かったのは古い奴隷市場だった。綺麗な家が立ち並ぶ中に突然現れる、コンクリート剥き出しのその建物は、そこだけ切り出されたように別次元で、異様な雰囲気を醸し出していた。ここも中は博物館になっている。当時の奴隷取引の様子についての展示が、館内にところ狭しと詰め込まれていた。ガラスケースに収められた鉄製の鈍く光る足枷を見ていると、一寸前までは異次元で別世界のことのように感じられていた奴隷制が、途端に現実味を帯びて私の前に現れてくるのである。アフリカから遠く離れた土地に連行された一人の「人間」がその人間性を喪失し、一個の「商品」となる現場がまさにそこに存在していた。それが彼ら黒人にとってどれだけ心を引き裂かれる経験であったかは想像に難くない。そうしたことを心に深く刻まれる場所として、その奴隷市場はあったのである。

(奴隷市場 撮影:朴)

 ここまで触れたことはほんの一端にすぎないが、チャールストンという街が奴隷制の遺構と共にあるのだということを感ずるだろうと思う。実際に街中を歩いていると、美しく穏やかな景色が広がる中で、あちこちにかつての奴隷制が影を落としている。こうした過去と現在が共存している姿こそ、チャールストンという街の魅力なのである。是非とも一度足を運び、潮風と共にその歴史を味わってみてはいかがだろうか。

(ウォーター・フロントパークの朝焼け 撮影:朴)>

(2015年12月作成)



若林雄貴「アメリカを体感する旅」(アメリカ研修旅行2015年3月)
 今回の研修旅行は、今までの人生で初の海外への旅であった。また、大学1年の入門ゼミから現在に至るまでの3年間学んできたアメリカに直接触れる、初めての機会となった。総じていうと、この旅は人を見る旅であったように思う。もちろん史跡や展示なども実際に見ることができたが、それを通して当時の人がどのような暮らしをしていたのかを感じ取ることができた。現在に生きている人についても同様である。当然すべてがわかったわけではない。その一部を自分の目で見て、少しの間体験することができた。これは大変貴重な経験であったと思う。
この場を借りて、自分の印象にのこった出来事を主にシカゴとノースキャロライナを中心に書いていきたい。
 最初の3日間はシカゴを訪れた。シカゴで主な行動場所であったループは人通りも多く、高いビルが立ち並び、大都市という感じがした。また、シカゴヒストリーミュージアムでは、シカゴの歴史や実際に奴隷とされていた人々につけられていたバッジなどを見ることができた。

ミシガン湖から見たシカゴの高層ビル 撮影:若林

貸出奴隷につけられていたバッジ 撮影:若林


 ループからレッドラインで南に下り、サウスサイドに向かうと、電車の中はだんだんとアフリカ系アメリカ人らしき人々(以下黒人)が多くなっていき、最終的には黒人と自分たちだけになっていた。電車を降りて、あたりを少しの間探索した。サウスサイドには立派な高層ビルはなく、鉄格子のしてある店が並び、ループと比べると治安が悪いようで、同じシカゴでも、生活環境が全く違うことに驚いた。今まで度々学んできたアメリカの経済格差というものを少し垣間見ることができた。
サウスサイドの格子がしてある店 撮影:若林

 次の数日間はミシシッピ州を訪れた後、ノースキャロライナ州を訪れた。イーデントンでは、ゼミで翻訳中のジョセフィン・ナポレオン・レアリーに関する建物を探した。

J. N. Leary Building 撮影:若林

 上記の写真は、1875年にジョセフィンが購入し、翻訳中のパンフレットの表紙にも載っている建物。町の中心街の真ん中に堂々と立っていた。最近ゼミで扱っていた題材であったために、実際に見てみるととても感慨深かった。こちらはすぐ見つかったが、現在残っていないということもあり、ジョセフィンの家の跡地がなかなか見つからなかった。番地と当時の地図、現在の地図を重ね合わせて歩き回った。そして、おそらくここが家のあった場所であろうという結論に至った。文章で読むことと、実際に自分の目で見るということは、まったく違うということをひしひしと感じた。
ジョセフィンの家があったと思われる場所 撮影:若林

 南部を訪れた中で幸運にも、教会の礼拝に2回参加する機会があった。私はカトリックの幼稚園に通っていたので、日曜礼拝によく参加していた。なので、今回の旅行で礼拝に参加できることは楽しみの1つであった。結論から述べると、自分の想像していた礼拝と、実際の礼拝は違っていた。ドラムやサックス、キーボードなどの生の楽器での演奏は想像していなかったし、礼拝に来ている人たちが、これほど自分たちを歓迎してくれるとは思ってもいなかった。とても貴重な体験であった。また、礼拝が始まる前、礼拝に来た人々が友人同士で話し合っている姿を見ると、教会は人々が集まって情報を交換し合う場所であり、生活の一部となっているということを感じた。
チャペルヒルのSt. Paul A.M.E Church 撮影:若林

 最後に、この3週間弱の旅行は、言葉・文化の違いや、日本での生活リズムの違いなど、非日常の連続であった。さらに、訪れた場所や感じたことなどが、ここでは到底書ききれないほど多かった。ゆえに、自分でもまだ1週間ほど前までアメリカにいたということがにわかに信じがたい。しかし帰国してからというもの、ほとんど毎日このアメリカ旅行に関する夢を見る。この旅行が自分の人生において、強烈な体験であったことは間違いない。

(2015年3月下旬に旅行記作成)



内川有紀「(後ほどタイトルを掲載します)」(2015年3月)
 今回のアメリカ研修旅行は、私にとって初めての海外経験で、書ききれないほど多くの経験をさせてもらった。その中でも一番強く感じたことは、自分の言いたいことが言えない、相手の話していることが理解できないことのもどかしさだった。レストランで注文するとき、図書館で資料を探してもらうときなど会話をする機会は山ほどあったが、きちんと自分の言いたいことが言えたのは数えるほどもないだろう。それでも、初めて “Where is a restroom?”と英語が通じたとき、たった一言ではあるが私にとってこれまでにない喜びと感動を味わうことができた。
今回は、シカゴから始まり、ミシシッピ州、ノースキャロライナ州などあらゆるところに行ったが、ここでは中でも特に印象に残った、ミシシッピ州ジャクソンとノースキャロライナ州での思い出を記したい。

 まずミシシッピ州ジャクソンではCOFOセンターや、私が卒論のテーマにしているメドガー・エヴァーズの自宅、博物館などに行った。メドガー・エヴァーズとは、1950年代から60年代にNAACPミシシッピ州地方連絡員を務めた公民権運動の活動家である。文献を読んで、メドガー・エヴァーズ大通りや図書館、記念館があることは知っていたが、実際にその場に行ってみると、彼がこのミシシッピ州でどれほど讃えられた人物であるかがわかった。そして今回、幸運なことに、エヴァーズの自宅に入ることができた。これまで自宅の外観は、写真を通して見たことはあったが、まさか入れるとは考えてもいなかった。自宅の中は、幼少期からNAACPとして活動していた頃の写真を含めた展示や、銃弾痕の残る壁などが残されていた。実際にここでエヴァーズが生活をし、ここから活動に参加していたことを考えると、この自宅に入ることができた喜びと同時に”壁の銃弾痕を見て、いかに公民権の活動が命懸けであり、日々の生活の中でどれほどの恐怖と闘っていたのかを思い知らされた。今回、ジャクソン以外にも『アメリカ黒人町ハーモニーの物語ー知られざる公民権の闘いー』(彩流社、2012年)の著者ウィンソン・ハドゥソンが守り抜こうとしたハーモニー、シカゴ出身の14才で殺されたエメット・ティルに関連するマニー、そしてエヴァーズがジャクソンに移り住む前に保険外交員として働いていたマウンドバイユーにも行くことができた。これまで自分が学んできた場所に行ってみると、自分の中でこれまでのことが初めて現実味を帯びてきたような、不思議な気持ちになった。

メドガー・エヴァーズの自宅 撮影:内川

メドガー・エヴァーズ大通り 撮影:内川

メドガー・エヴァーズの銅像 撮影:内川

 次に3月11日、私たちはノースキャロライナ州クレズウェルを訪れた。まず後期ゼミ授業内で、翻訳をしているThe Life and Legacy of Josephine Napoleon Learyのわからなかった箇所を質問するために、ドロシー・スプルール・レッドフォードさんに会いに行った。私はレッドフォードさんの『奴隷制の記憶―サマセットへの里帰り―』(彩流社、2002年)を授業内で読んでおり、お会いするのが個人的に楽しみであった。ドロシーさんは私の拙い英語の質問にも丁寧に答えてくださり、とても優しく気さくな方だった。

レッドフォードさんと、自宅前で 撮影:内川

 その後、ついにサマセットプレイスのプランテーションを見に行った。本で読んではいたが、実際に見ると、所有者のコリンズの邸宅と奴隷小屋のあまりの違いに衝撃を受けた。家内奴隷の働く台所と洗濯場の小屋には暖炉や食器、アイロンがあり、アイロンは鉄製で片手で持つことができないほど重く、作業にも一苦労だっただろうと思った。また、病棟の小屋には、簡易ベッドや骨折用のギブス、医療器具などが置いてあったが、果たしてどれほどの治療が施されていたのか疑問には思わずにはいられなかった。最後に案内されたコリンズの邸宅は、まさに想像していた通りの豪華なお屋敷だった。

コリンズ邸宅の一室 撮影:内川

 しかし、そのコリンズの邸宅の中には、想像もつかないような自由黒人シャーロット・カバーラスの部屋があった。邸宅の二階の一つの扉の向こうに階段があり、見学したときは、扉は開いて階段が見えてまだ上が続いていることがわかったが、この扉が閉められていたら、まさか階段があるなんて知る由もないと思った。 登ってみると、屋根裏部屋に無理矢理作ったような部屋で、天井は低く、ベットや机も質素なものだった。自由の身であるはずなのに、こんな部屋があるとは想像できない扉の向こうに暮らしていたカバーラスの生活を想像すると、どれほど孤独であったかと思い、これまでもっていた自由黒人のイメージが大きく変わった。今回、このサマセットを訪れて、一直線にどこまでも続く長い運河、奴隷小屋、コリンズの邸宅、その全てが何百年も前に実際にあったもので、奴隷と所有者という奴隷制を決して忘れてはいけないと改めて感じることができ、とてもいい経験をするこができた。またこのプランテーションを復元させるために尽力を尽くした、レッドフォードさんに直接お会いできたことは、大変貴重な経験となった。

 今回、多くの不安を抱えてアメリカ研修旅行に参加したが、本を通してだけでは学ぶことができない貴重な経験をして、感動や喜びを感じることができ、私の大きな財産となった。この気持ちは実際に自分の目で見て、肌で感じなければ味わうことのできないもので、本当に参加してよかったと思っている。また、今回企画をして様々な場所に連れて行ってくれ、さらに中々話しかけることができない私に積極的になれと何度もアドバイスしてくださった先生には本当に感謝している。

2015年3月31日



小畑悟「百聞は一見に如かず」(2015年3月)
 今回のアメリカ研修旅行が私にとってはじめての海外体験であった。この旅でアメリカを訪れたことでこれまで樋口ゼミで学んできたことを直に体験することができた。国際線の長旅や入国審査など初めて経験することの連続で気を抜くことができない緊張感。一日一日がここまで充実したのはアメリカでの常識、生活している人など新しいことに触れつづけていたからであろう。今回の研修旅行ではイリノイ州、ミシシッピ州そしてノースキャロライナ州の3つの州に訪れたが、その中でもミシシッピとノースキャロライナでの出来事を書いていく。

 イリノイ州の大都市シカゴを訪れた後、ミシシッピ州の州都ジャクソン近郊にあるメドガー・エヴァーズ空港に到着した。飛行機の遅延で予定が少し変わったものの無事に目的地に到着した。空港の名前には、授業で読んだアロン・ヘンリィの自伝でも登場した公民権活動家メドガー・エヴァーズの名前が付けられている。アロン・ヘンリィをこの空港に送った後、メドガ―は殺されたのかと思い、本で読んだ舞台に自分が来たんだと実感が湧いてきていた。その日はレンタカーで宿のあるウイノーナへと向かった。翌日からは車でミシシッピ中を駆け回った。その中で私が一番印象に残っている場所はフィラデルフィアの黒人教会である。ここは地元の白人勢力によって焼き討ちされた教会であり、現在は再建されたものが建っているのだが、1964年に3人の活動家がここの調査に来た後、行方不明になり、後日帰らぬ人として発見された事件のきっかけとなった場所である。私がこの3人について卒論のテーマにすることもあり、この教会をこの目で見ることができたのは貴重な体験であった。教会の周りは静かで森の中のようで、彼らはここに51年前調査に来たのだなと考えながら歩いていた。これまで本や授業の話でしかイメージできなかったミシシッピ州が自らの記憶となって認識でき、今後の卒論の作成に大きく役立つ経験となった。

再建された教会 撮影:小畑

 ノースキャロライナ州ではチャペルヒルで共同生活をした。チャペルヒルはノースキャロライナ大学チャペルヒル校(University of North Carolina at Chapel Hill)の学生街であるのだが、日本の向ヶ丘遊園界隈の学生街とは少し雰囲気が異なり、大学を中心に町が形成されているような場所である。チャペルヒルでの一番の目的は大学でのリサーチだった。その週の後半はノースキャロライナ大学チャペルヒル校の大学図書館(Davis Library)で各々の研究テーマの史料を集めることが目的で図書館に通う生活となった。私が調べている3人の活動家に関する記事が記載された新聞記事はマイクロフィルム化されて保存されており、チャペルヒルにいる間に膨大な史料を手に入れることができた。日本の図書館では考えられないが、午前2時まで開放されている日もあり、学ぶ意欲のある学生には非常にありがたい環境であった。

ノースキャロライナ大学チャペルヒル校(University of North Carolina at Chapel Hill) 撮影:小畑

 3つの州の旅を通して、アメリカ文化そして歴史を直に体験できたが、同時に私の英会話の頼りなさを痛感出来た。研修旅行最初のシカゴでは自分の伝えたいことが相手に伝わらず、食べたいものが注文できないこともあった。しかし、列の前の人の発音を聞いたりして過ごしていくうちに、チャペルヒルでの注文は希望のものを頼めるようになっていた。英語で会話をして欲しいものが買えたことは私に大きな自信を与えてくれ、考え方もポジティブになっていた。そしてこれまで学んだ知識を、この目で見て体験できたことは私にとって貴重な経験であった。「百聞は一見に如かず」というが、まさにその通りであると実感できる研修旅行だった。



石川晋太郎(2015年3月)
私がこの研修旅行に参加するきっかけは、卒業論文のための史料の収集であった。卒業論文で取り上げようと思っているヴィンセント・チン事件は、博士論文をはじめとして研究している人が少ないため史料に乏しく、集めるのが困難であった。そして、3月12日から、5日間ノースキャロライナ大学チャペルヒル校のデイヴィス図書館で、多くの事件に関する史料や新聞記事、文献を集めることができた。しかし、私にとって、史料を集める以上に有意義だった事は、この研修旅行中に訪れた多くの史跡だった。史跡を訪れることによって、今まで以上に多くの視点から歴史を感じることが出来た。ここでは、最も印象に残っているイリノイ州シカゴで保存されているハルハウスについて記していきたい。
 3月4日、未だに雪が残るイリノイ州シカゴに滞在中、中心街であるループから電車で移動し、イリノイ大学シカゴ校のなかに保存されているハルハウスを訪れた。ハルハウスは、1889年にジェーン・アダムズが、エレン・ゲイツ・スターと共同で設立した施設である。当時、彼女らは社会福祉活動の一環であるセツルメント運動を行っていた。現在はハルハウスの一部が博物館として保存されている。その施設のなかには、児童保育所とともにジェーン・アダムズが暮らしていたとされる部屋もあった。アダムズのベッドやクローゼットがあり、活動拠点と同じ場所に生活拠点があったことが伺えた。

(写真:ハルハウス外観、撮影:石川)

 ハルハウスには、私が訪れた同じ日に、アメリカ人の学生たちが見学しに来ていた。ここには、多くの学生が訪れ、学生たちは、「夢」を紙に書いて残しているようだった。教育的な学習機会が現在でも与えられている場所であった。ハルハウスの展示物のなかに、”Eight hours for work. Eight hours for rest. Eight hours for what we will.”という標語が展示に明記してあった。これは、当時貧しかった移民やその児童たちが厳しい生活環境の中にあったにもかかわらず、生きていく精神をハルハウスで学んでいたことの表れであろう。彼らは、貧しい中でも社会的経済的な生活向上を志し、奮闘している。その姿をこの標語から思い浮かべることができた。

(写真: "Eight hours for work, Eight hours for rest, Eight hours for what we will" 
撮影:石川)


(写真:ハルハウス応接間、撮影:石川)

私は、このアメリカ研修旅行のなかで、ハルハウスのような史跡を他にも見て回ることができた。日本とは違った場所で生活したことで、今までではイメージすることのできなかった当時の人の生活を、より繊細に感じ取ることができた。今回の研修旅行は、日本では得ることのできない視点を新たに得ることができた。この研修旅行は、これからの私の歴史研究において非常に有意な経験となるだろう。




田村紘子「アメリカ研修旅行記」(2014)
  今回の研修旅行でアメリカへ行ったのが、人生で初めての海外となった。もともと、私はこのアメリカ研修旅行に参加するつもりは全く無く、参加希望の受付を締め切るぎりぎりまで自分は行かないものだと思っていた。だからアメリカへ行くことを先生に告げた時、本当に海外へ行くのかと、言いながら自分で驚いたものだった。結論から言ってしまえば、この研修旅行に参加できて本当に良かったと思っている。いくつもの貴重な体験をして、行く前と行った後の今とでは、それまでのアメリカ史を学ぶことへの意識が大きく変わったのだ。
 そもそも私が歴史学科を受験したのは、中学の時にベトナム戦争を題材にした映画を見て興味を持ったからである。だから、大学に入ったらアメリカ史を専攻し、卒業論文はベトナム戦争を扱うのだと思っていたし、そうするつもりでこのゼミを選んだのだ。ただ、漠然とベトナム戦争というテーマは決まっていても、どのような点を掘り下げてどうまとめていくのか全く見当がついていなかったため、今回の研修旅行に参加したとしても、卒業論文の史料を集める時にどういったものを集めればいいのかわからず、せっかくの研修旅行を有意義に過ごせないのではないかという不安があった。
 そんな不安を抱えたまま、最初の一週間は南部のミシシッピ州を訪れた。そこは1960年代を中心に公民権活動が盛んに行われた土地である。公民権活動については授業やその一環として読んだ本である程度の知識を持ってはいたが、私たちが行った場所、ミシシッピ州ジャクソンやクラークスデール、ハーモニーなどというような場所は、文字を読んで頭の中で想像するしかなかった活動が実際に行われていて、現在も続いている土地である。トゥガルー大学で行われたカンファレンスに出席して、かつて活動を行っていた人たちやそれを受け継ぐ人たちがスピーチし、その後に参加者があれこれと議論するのを聞いた。当時エメット・ティルという黒人の少年が殺された事件で実際に連れて行かれ殺された場所や、公民権活動組織であるNAACP(National Association for the Advancement of Colored People/一般的に全米黒人地位向上協会あるいは全国黒人向上協会などと訳される)のミシシッピ州地方連絡員メドガー・エヴァーズが務めていたオフィスや暗殺された場所でもある彼の自宅と、像が立っている場所を訪ねもした。
グレンドーラにあるエメット・ティル事件に関する博物館

メドガー・エヴァーズが実際に使っていたオフィス

メドガー・エヴァーズの像

 書籍に書かれ、授業で学んだ公民権の活動そのものが、目の前に広がっていることを強く実感できた。かつての活動家たちは実在していて、私たちが回った場所は実際にそこで事件や活動があった場所なのだ。当たり前ではあるが、本で読んだり学んだりしたことは全て本当のことなのだと、肌で体験したのである。
 また、先生が紹介してくださった人たちはNAACPの代表として活動した人物の子孫であったり、活動家たちを生活の面で支えた人たちであったり、当時起きた事件に直接的、もしくは間接的に関わりのある人たちや、彼らの当時の活動の記録を現在に残そうと行動する人たちであった。私たちが一年通して授業で翻訳した自伝を著したご本人である活動家とも会うことが出来た。彼らと実際に会い、話を聞くことで(もちろん英語を聞いてすべてを理解できるわけではなかったが、それでも彼らの言葉の端々やそこに込められた強い感情を読み取ることは十分できた)、また実際に関連する場所を巡って行くことで、それまで本を読んだり授業を受けたりしてイメージするしかなかった知識に、視覚的な情報が肉付けされていくのを感じた。ベトナム戦争をテーマに卒業論文を書こうと決めていた私ではあったが、ミシシッピ州を訪れ、かつての活動に関する物や場所、人々に触れ合うことができ、公民権活動というテーマにすっかり興味が湧いてきてしまっていた。目の前にあるのはかつて本当に起こったものなのだということを実感したときに覚える興奮はなかなか言葉にできるものではなく、実際に現地に行ってみなければわからない感覚だと思う。
 ミシシッピ州に約一週間滞在し、残りの一週間をノースキャロライナ州で過ごした。ここでは主にノースキャロライナ大学チャペルヒル校(University of North Carolina at Chapel Hill)の図書館を利用して卒業論文で扱うテーマの史料集めを行った。私がそこで集めた記事はアーロン・ヘンリーという人物に関するもので、彼はNAACPの州支部会長として地元で選出されてミシシッピ州を中心に公民権活動を行った指導者だった。ベトナム戦争への興味を無くしたわけではなく、多少の無理を言って連れて行ってもらったワシントンD.C.でずっと見てみたかったベトナム戦争戦没者慰霊碑を見ることができて嬉しく思うが、今回ミシシッピ州を訪ねたことで私の中で大きく意識が変わり、扱いたいと思うテーマが全く違うものになっていた。これほどまでに興味を持ったテーマに出会えたことは私にとって非常に幸運だったといえるだろう。
ワシントン・D・Cのベトナム戦争戦没者慰霊碑

 日常生活の面でも刺激を受けない日は無かった。まず、街を歩いているときに耳にする会話で使われる言語は当然ながら日本語ではないし、私が何か物を買おうとしてお店に入ってもなかなか聞き取れないし喋ることができない。そもそも日本語を目にする機会自体がめったにない。よく英語の授業などで「英語は出来た方が断然良い」という言葉を聞き、その度に受け流してきたが、その言葉の意味を本当に理解でき、実感した二週間だった。最初のうちは何を言っているのかわからず、昼ご飯に食べるものを買うことさえ困難だった。二週間滞在し、耳が慣れてきたおかげで、最終日に近づくにつれてある程度自由に買い物ができるようになった。チャペルヒルのダウンタウンで見つけたアイス屋に入って、アイスを買うことができるようになったのは、その成果である。小さいことだと思われるかもしれないが、これは私たちからすれば大きな進歩なのである。

こうして、言葉が伝わらずにコミュニケーションが取れないことへの不安や自分の思ったことを正確に伝えられないもどかしさを強く実感した。これは日本にいる時にはなかなか想像もできないのではないかと思う。そのおかげで、日本に帰ってきて言葉が普通に通じるのだと安堵した時、「言葉さえ通じれば、だいたいのことはなんでもできるではないか」という一種の自信のようなものが湧いてきた。どこへでも好きな所へ行こうと思えば行けるし、疑問があればすぐに誰かに聞くことができる。サンドイッチを注文するときには嫌いな具材を抜いて好きなものを足すことだってできるのだ。普段当たり前のようにできることさえ難しいアメリカでの生活を体験することで、今までとは違った側面でものごとを見ることが出来るようになれたのは、今後様々な場面で自分にとって大きなプラスになるだろう。
 以上で述べてきたように、今回アメリカ研修旅行に参加できたことで、今後アメリカ史を学んでいくうえでさらに意欲的に取り組むことができるだろうという確信を持つことができ、またそれ以外での日常の場面でも、「自分にはこれができる、あれもできる」といった、実際に行った人にしかわからない自信のようなものを得ることができ、非常に充実した二週間だった。ひどく緊張して顔が強張ったり挙動不審になってしまったり、忘れ物が目立ったりなど反省すべき点もいくつかあったが、それを含めても今回経験したことは自分にとって利益になることばかりだった。行くつもりなど無かった私に、そうするよう声を掛けてくれた先輩方やアドバイスをくれた先生、説得してくれた河野さんには感謝してもしきれない。それほど、参加できてよかったと思える研修旅行だった。

2014年3月31日



河野葵「初めての土地での歴史研究」(2014)
 今回のアメリカ研修旅行は、私にとってほぼ初めての海外経験だった。というのは、一度家族旅行で海外に行ったことがあるのだが、私は幼かったので、そのときの記憶がないからだ。そのため、研修旅行に行くと決心してからは、とても楽しみで、アメリカに行くのが待ち遠しかった。2週間という期間ではあったが、本当にたくさんの初めての経験・貴重な経験をした。今回私が訪れたミシシッピ州で公民権活動を行ってきた経験者(ベテラン)の方々の集まりが、3月6日にトゥガルー大学で行われ、朝から夜まで参加することができた。ベテランたちの訴えはとても力強かった。手振りも声も大きく、圧倒された。もちろんすべてが英語のため、彼らの言っていることを理解できたわけではないが、彼らが当時の自分たちの活動に誇りを持っているということが伝わってきた。亡くなったり、暗殺されたりした仲間たちの意思を受け継いでいた。そしてそれを若い世代に伝えていく責任を、ひとりひとりが持っているように感じられた。彼らは公民権活動を行ってきた活動家たちの生き残りであり、彼らの訴えを私たちがしっかり受け止め、そして受け継いでいかなければと、身が引き締まる思いだった。
 集まりに出席していたベテランたちの中に、私が卒論のテーマにしているエメット・ティル事件当時に、事件が起こったコミュニティにいた方がいて、樋口先生の協力により話を聞くことができた。エメット・ティル事件というのは、1955年にミシシッピ州で起こった事件である。ミシシッピ州のマネーという町にある叔父の家に遊びに来ていた、シカゴ出身の少年であるエメット・ティルが、白人女性に少し声をかけただけで、その夫である白人男性らにリンチされた事件である。事件当時のコミュニティの様子を、そこにいた方の口から直接聞けたというのは、本当に貴重なことだ。



 その2日後、ミシシッピ州ジャクソンの南に位置するGlendora、Moneyなどの町を回った。そこはエメット・ティルが実際に訪れた場所や、事件が起こった場所がある。文献を読んだだけでは想像することしかできなかった場所や施設、風景を、実際に自分の目で見ることができたということも、本当に貴重なことである。自分が立っている場所に、エメット・ティルもいたのだ、と思うと、事件の様子を想像してしまい、なかなかその場を離れることができなかった。悲しいような、寂しいような気持ちでその場の風景を眺めていたのだが、事件に関する場に来れたのだという嬉しさもあった。



 研修旅行2週目は、ノースキャロライナ州チャペルヒルで過ごした。大学の図書館に毎日通い、エメット・ティル事件に関する当時の新聞記事を探す作業をひたすら続けた。記事は全部で500を超え、その数は私の想像以上だった。しかし、集めた記事を日本に帰ってから読み進めていく自分を想像すると、すごく気持ちが高まり、書き終えたあとに達成感のある卒論を書きたいという思いが徐々に強くなっていった。
 これまで述べてきたように、ベテランたちの集まりに参加できたことと、事件に関する場所に行けたことと、事件の記事を集められたことは、私がこの先卒論を書き進めていく上で、貴重な経験になったし、実際にアメリカに行って自分の耳で聞き、目で見ないことには、エメット・ティル事件に関する卒論を書くことなどできないのだと感じた。今回訪れたミシシッピ州やノースキャロライナ州をはじめとして、アメリカという地に染みついている人種の問題に対し、興味がますます高まった。その人種の問題というのは、日本でアメリカの歴史の文献を読むだけではまったく理解できないものだった。今回研修旅行に参加して、損することなど何ひとつなく、得たものが本当に山ほどあった。歴史に対する興味、そして海外に対する興味が高まった。今後も機会があれば知らない土地を積極的に訪れ、経験値を高めていきたいと思った。すべてが初めてだった研修旅行のため、得たものは書ききれないが、それほど充実した2週間であった。
2014年3月31日



宗像拓也「アメリカ研修旅行記−チャールストン」(2013)
 今回の研修旅行は私にとって初めてのアメリカ上陸となった。日々学んでいるアメリカの歴史や文化にふれる絶好の機会となった。18日間のアメリカ滞在ということもあり、非常に多くの経験を得ることが出来た。ここでは旅で訪れたチャールストンでの日々を記すことにする。
 私自身この研修旅行でサウスカロライナ州チャールストンに訪れることは一番の楽しみであった。そこは南北戦争の発端の地として知られる歴史的な街である。戦争の発端となったサムター要塞に行けるということもあり、チャールストンに向かう車内で私は非常にわくわくしていたのである。
 まず初めにミドルトン・プレイスという大規模農園に訪れた。この18世紀に始まったプランテーションはアメリカで最も古い農園として知られており米を栽培していたライスプランテーションであった。このプランテーションを見たとき広大さに圧倒された。そして緑の自然が多く川も流れており美しさがあるがゆえに当時ここで奴隷の人びとが働かされていたとは全く考えられなかった。そしてこのプランテーションの中心にある非常に荘厳な建物として、独立宣言に署名した一人でもあるアーサー・ミドルトンのメインハウスがハウスミュージアムとして残されていた。そこには当時の生活用品などが展示されており、奴隷所有者の生活ぶりが窺えた。農園の中には数少ない奴隷の墓や職人奴隷が働いていた建物が並んでいたが奴隷の生活ぶりはあまり浮かんでは来なかった。それに比べ、後日訪れたサマセット・プレイスでは奴隷の生活の様子が分かりやすく展示、解説されておりそこで生活していた奴隷の様子が窺えた。
(写真1ミドルトン・プレイス庭園)(写真2 ミドルトン・プレイスメインハウス)---撮影:宗像

 ミドルトン・プレイスを出発しチャールストンのダウンタウンの方へ向かいホテルにチェックインした。私たちが泊まったホテルはミルズ・ハウス・ホテルという南北戦争の頃からある建物だった。そのような話を聞いていたがそこまで深くは考えてなかった。後日、ある博物館で南北戦争当時のミルズ・ハウスが写っていた写真を見て驚かされた。ミルズ・ハウスの周りの建物は戦争で破壊されており、そのようななかでも立派に立っているミルズ・ハウスが写されていた。そのような歴史的な建物に寝泊まりできたと考えたとき感動と感謝の気持ちでいっぱいであった。
 3月14日の朝、ホテルの近くにあるレストランで朝食を食べた。そこで私はグリッツを注文した。グリッツとはトウモロコシの粉で作ったおかゆのようなものであり、フレデリック・ダグラスの自伝でのなかでも奴隷とされた人びとが食べていたものであった。そのようなこともあり興味津々で注文してみた。肝心の味というとトウモロコシの風味がかなり強く好き嫌いが分かれるのではないかという味であった。それでも奴隷とされた人びとが食べた味、アメリカ南部の味を堪能出来たことは非常に良い経験となった。
(写真3 グリッツ)---撮影:宗像

 朝食を食べ終わるとチャールストンの町並みを見ながらミーティングストリート、イーストベイストリート、カルフーンストリートを歩き、サムター要塞に出航するボート乗り場へ向かった。チャールストンの町並みは美しく整備、保存された歴史的な街であり、街を歩きながら景色を眺めるだけでも非常に楽しめた。ボート乗り場に到着するとそこで乗船料を払い建物の中へ入っていった。そこは簡単な展示場とビジターセンターとなっていた。乗船の時間まで展示場にあった展示物を見学した。乗船の時間になり乗船場に降り、ボートに乗船した。ボートに揺られることおよそ30分でサムター要塞に到着した。ボートからはチャールストンのダウンタウンや斜張橋として西半球で最大のアーサー・ラベネル・ジュニア・ブリッジなどを眺めることができた。サムター要塞に到着するとガイドの方が長い時間さまざまな解説を行い、解説が終わるとサムター要塞の中を見学した。サムター要塞は五角形で、レンガ造りの要塞である。見上げるとそこには大きな星条旗が風になびいており、そこにはさまざまな種類の大砲が置かれていた。大砲は全方位に向けて置かれており、車輪が付いた移動式の小型の大砲もあれば100ポンドにものぼる巨大な大砲も置かれていた。この大砲は最高で6800ヤード(6218メートル)もの距離を飛ばすことが出来る大砲であった。要塞からはかつて連邦軍のマサチューセッツ第54連隊(黒人連隊)が南軍のワグナー要塞で戦った場所であるモリス島も近くに見ることができた。そこを見たときは単なる島にしか見えなかったが、そこで黒人の兵士たちが自由や平等、栄光などを追い求め、さまざまな想いを持って南軍に対し真っ向から体当たりで攻撃したことが頭に浮かんだときには非常に心が動かされた。サムター要塞の内部には博物館があり、その博物館では南北戦争当時の様子を詳しく知ることができるような展示がされていた。南北戦争当時の武器や制服、銃弾、当時の連合軍の紙幣などが展示されていた。今まで写真では見たことがあったものでも実際に実物を見ることがなかったので、実物を見ることができたことは非常に嬉しかった。ボートの出航の時間になると、またボートに乗ってチャールストンのダウンタウンの方へ戻った。ボートから小さくなっていくサムター要塞と近づいてくるチャールストンの教会の尖塔を眺めながらまた訪れたいと感じた。
(写真4 サムター要塞大砲)(写真5 サムター要塞全体図)---撮影:宗像

 今回のアメリカ研修旅行では普段日本では触れることのできない文化や歴史や食事、本場の英語などさまざまな経験ができて非常に充実した研修旅行であった。この研修旅行で得た多くのことをこれからの生活に活かしていきたいと感じた。
2013年4月7日



高松朋「アメリカ研修旅行記−サウスキャロライナ州チャールストン」(2013)
 今回私は、2013年3月9日から3月27日までのアメリカ研修旅行に参加し、多くのアメリカの文化や歴史に触れることができた。研修旅行に当たって、約3週間という長い期間滞在するということで言葉や食事、文化の違いなどについて多くの不安を感じながらも、それ以上に、大きな期待を寄せて研修に臨んだ。
 今回の研修ではシカゴ、チャールストン、チャペルヒル、ミシシッピを巡り、中でも特に印象に残ったチャールストンでの思い出を記したいと思う。チャールストンはサウスキャロライナ州の南東部に位置する小さな港町だが、ちょうどサマータイムと重なり夕方にかけて多くの観光客で賑わっていた。
 チャールストンで特に印象深かった場所は南北戦争において南北両軍の要所となったサムター要塞である。
(写真1 サムター要塞)---撮影:高松

 フェリーに揺られること30分、次第に近づいてくるにつれて、サムター要塞の荘厳さに感動を覚えた。見学する際の注意として、要塞の敷地内の物はたとえ小石や草であれ持ち帰ることは禁止となっており、歴史的な価値のある場所であることが再認識できた。展示してある砲台の数や、大きさから当時の激戦の様子が思い浮かんだ。また、生まれて初めて見る大西洋を臨む景色は絶景であった。
(写真2 サムター要塞から望む大西洋)---撮影:高松

 チャールストンでは南北戦争150周年を記念する試みが、さまざまな場所で見受けられた。南北戦争というアメリカ史上最大の内戦は、歴史上の1つの教訓としてアメリカ人の記憶の中に残されていってほしいと願いが込められているように感じた。
 チャールストンにおいて、もう1つ印象的であった場所は、スレイヴ・マート・ミュージアムである。そこでは奴隷制下で売買されていた奴隷の状況を覗うことができた。奴隷は年齢や性別、体の丈夫さなどによって値踏みされ価値が決まり、そのため商人はいかに奴隷を健康に見せるかに余念がなかったことがわかった。労働に適した年齢は20歳であり、さらに一番価値が高いとされていた職人の奴隷は1860年代の相場で$1500から$1600で取引されており、2007年の相場では$36000から$38000と高額であり、奴隷は所有者の財産というこ
(写真3 奴隷の相場)---撮影:高松

この売買によって奴隷は運命を左右されてきたという歴史を確かに確認することができた。また、このスレイヴ・マート・ミュージアムをはじめ、チャールストンではこのような惨状を後世に伝えようとする試みが覗えた。
 今回の研修旅行では、卒業論文の資料収集はもちろんのこと、多くの異文化にふれることもでき、とても有意義な時間を過ごすことができた。この貴重な経験を生かしてこれからも人生に生かしていきたいと思う。
2013年4月7日



古川 慎「アメリカ研修旅行記−ミシシッピ州」(2013)
 今回の研修旅行は、私にとって初めての海外渡航になる。その中で訪れたミシシッピ州では、ブルースに関係する歴史的な場所や、公民権運動に関係している場所などを訪れた。
 なかでも興味深かったのは、エメット・ティルが殺害された事件に関わるマニーという場所である。そこにはエメット・ティル殺害事件の発端となった食品雑貨店の廃墟(写真1)が今になっても残っており、建物の前には事件に関することが書かれた立て札が立っていた。公民権運動に大きな影響を与えたこの事件に関わる場所を見ることが出来たのはとても貴重な体験であった。
(写真1食品雑貨店の廃墟 撮影:宗像)(写真2 トゥがルー大学正門 撮影:宗像)

 先に述べたように、ミシシッピ州は公民権運動において縁のある地であり、今回の旅行においても、公民権運動に関わる地を多く訪れた。中でも印象に残ったのは、ミシシッピ州ジャクソンの北にあって、公民権運動を行った人々を1960年代にも支援していたトゥガルー大学(Tougaloo College、写真2)で行われた公民権運動経験者たちによるカンファレンスだった。トゥガルー大学は森に隣接した、自然の中にあるような大学で、訪れた時は人が少ないのもあって静かでのどかな場所だという印象を抱いた。
 私が驚いたのは、4日間にわたって開催されたカンファレンスに参加している公民権運動経験者たちのことである。彼らは、60歳代から80歳代といった歳を重ねた人たちであるというのに、まったくそれを感じさせないほど生き生きとしていた。彼らの表情や声、その全てから活力を感じた。彼らは公民権運動の活動家という、まさに歴史を動かしていた人々であった。彼らは今日も、過去の公民権運動で彼らが権利を獲得するために何をしたのか、何が会ったのかを忘れさせまいとしている。その彼らの熱意と姿勢に私は素直に凄いと感じた。彼らのしたことが忘れられないように、人々の記憶にしっかり残って欲しいと私は思った。
 今回の研修旅行では、初めて日本を離れ、文化や、住んでいる土地など何もかも違うアメリカに行けたことで、今後の自分に生かせるとても貴重な体験が出来た18日間であった。
2013年4月10日



田口健吾「アメリカ研修旅行記−ノースキャロライナ州−」(2011)
 2011年2月28日から3月15日までのアメリカ研修旅行で、とくに印象的であったノースキャロライナ州での思い出をここに記したい。
 ノースキャロライナ州ではチャペルヒルという大学町に滞在した。大学町というと我々日本人はピンとこないかもしれないが、アメリカの大学の規模は想像していた以上に大きく、ひとつの町とひとつの大学が一体化しているように感じられた。日本の千代田区や文京区のように、ひとつのエリアにたくさんの大学が集中しているのとは大きな違いである。また、私が訪れた時期はちょうど大学バスケットの全国大会が開かれており、地元の新聞や人々の会話から、地元の大学UNCの勝利に町中の人々が興奮する様子もうかがえた。日本でも六大学野球などが人気だが、その規模はアメリカの大学スポーツの人気にははるかにおよばないように感じた。それだけ、アメリカのスポーツの裾野は広く、MLBやNFL,NBAのレベルの高さがわかったような気がした。
 ノースキャロライナでは東部のサマセット・プレイスを訪れた。ここはかつて奴隷制農場があった場所だ。チャペルヒルから車で3時間ほどかかり、ハイウェイを移動中外の景色の広大さ、のどかさに圧倒された。サマセットに到着すると、まず想像していたよりもプランテーションは広大であることと奴隷小屋と主人の住居との規模や設備の差に驚いた。狭い小屋にたくさんの奴隷が生活していたのに対し、いかにもお屋敷といったような奴隷所有者の住居には数人の家族しか住んでいなかったという(写真1)。ガイドの解説を聞いている間、私の頭には奴隷たちがそこで懸命に生活している様子が浮かんでいた(写真2)。劣悪な環境、重労働にも耐えながら家族や友人と触れ合う奴隷の姿だ。私は大学でアメリカ史を専攻して以来ずっと黒人の歴史を学んできたが、奴隷制という残酷な歴史がアメリカに本当にあったということをこの目で確かめることができた。このような歴史を、決して忘れ去られることなく、後世に伝えていくことが私たち歴史を学ぶ者の役目だと感じた。
(写真1 サマセット・プレイス 2階建て奴隷小屋 撮影者:田口)

(写真2 サマセット・プレイス 2階建て奴隷小屋の内部 撮影者:田口)

(写真3 サマセット・プレイス所有者の家 撮影者:田口)

 もうひとつグリーンズボロでの思い出も記しておきたい。ノースキャロライナ州中部にあるグリーンズボロは1960年に4人の学生によってランチカウンターでの座り込みが行われた町だ。座り込みが行われたウルワースという店は現在では博物館になっており、差別のあったレストランのランチカウンターが展示されているほか、ガイドから公民権運動の歴史をツアー形式で学ぶことができる(写真4)。南部では1863年の奴隷解放後も黒人差別は残り、それはレストランやバス、駅などの公共施設でも公然と行われていた。博物館で特に印象深く感じたのは、駅における差別の展示コーナーである。駅の入口は黒人用と白人用に分かれており、設備も白人用の方が圧倒的に充実していたということを知った。自動販売機のジュースの値段にまで差別があったことに驚いた。こうした差別に対して暴力を使うことなく真っ向から挑んだ人たちがいたということを実際に運動が行われた町に行くことで実感することができた。しかし、歴史を客観的に考察するという意味でひとつ納得のいかないこともあった。それは、ガイドが、「ウルワースでの座り込みがきっかけとなって公民権運動が始まった」という内容の解説をしていたことだ。実際には1960年代以前にも公民権運動は行われていたのでそのように断定することはできないはずである。また、館内を自由にゆっくりと見学することはできず、必ずガイド付きで回らなければならなかった。これも、じっくり研究したい人にとっては融通のきかないことであり、せめて写真撮影くらいは許可してもよいのではと感じた。しかし、公民権運動の歴史をわかりやすく大衆向けにアピールするためにはどうしても前述したような内容の解説になってしまうのかもしれない。いずれにせよ、歴史を人に伝えることの難しさを感じた。
(写真4 座り込みのあったウルワースの前で 撮影者:田口)

 今回の研修旅行では普段日本では経験できない多くのことを体験することができた。ここには書ききれないくらいたくさんの思い出ができた充実した旅であった。アメリカで得た経験や学んだことを今後の研究活動に生かしていきたい。

2011年4月25日


大澤裕樹「アメリカ研修旅行記−シカゴ−」(2011)
 今回の研修では、シカゴとノースキャロライナに一週間ずつ滞在する予定であったが、アメリカ研修の直後に教職の実習が控えていたため、私はシカゴだけしか訪れることはできなかった。しかし、普段ゼミで学んでいるアメリカ合衆国という国を実際に見てみたいと思い今回の研修に参加した。そのため、今回は、アメリカの街並みや文化を少しでも多く観察することを目標にして研修に臨んだ。
最初に訪れたシカゴの中心街のループでは、高層ビルが立ち並び、イルミネーションの明かりが輝くように光り、日本では決して味わうことのできない風景がそこには広がっていた。なかでもループ内にある457メートルのジョン・ハンコック・センターから一望するシカゴの夜景はとても美しく、感動的ものであった(写真1)。
(写真1 シカゴの夜景  撮影者:大澤)

しかし、中心街のループを離れたサウスサイドでは、ゴミが散在し、窓ガラスの割れた家や銃痕などもあり同じシカゴ内でも中心街のループとは全く異なった様子であった。町を歩く人々もループでは白人が多かったのに対し、サウスサイドでは黒人にしかすれ違わなかった。こうした同じシカゴ市内でも全く異なった地区を見たことによって、アメリカにおける経済的格差の問題を直接に見ることができとても勉強になった。
また、シカゴ滞在中は多くの博物館や美術館を訪れた。アメリカの博物館を訪れてまず始めに感じたのは、日本の博物館と比べて施設がものすごく広いことである。大きな博物館であれば観光に一日かかるほどであった。なかでも科学産業博物館はとても素晴らしかった。ここでは、人類初の動力飛行に成功したライト兄弟のフライヤーの模型や、第二次世界大戦期のドイツ軍の潜水艦の内部を見学するツアー、アポロ8号の司令船の実物など様々なものが展示されていた。また、この科学産業博物館ではただ展示物としてみるのではなく多くのシミュレーターやツアーなどがあり、体験的に博物館を回ることができとても充実した内容であった。
 シカゴではシカゴを本拠地とするメジャーリーグチームであるカブスとホワイトソックスの球場を訪れることができた。オフシーズンのため中に入ることこそできなかったが、メジャーリーグで2番目に古く伝統的な球場であるカブスのリグレーフィールドの目の前に来た時は、あまりの壮大さに感動を覚えた(写真2)。
(写真2 リグレーフィールド 撮影者:大澤)


 一週間という短い期間ではあったが実際にアメリカに訪れ、自分の目でアメリカという国をみることができとても勉強になった。この貴重な体験を今後の生活に生かしていきたい。

2011年4月25日


藤樌悠太「アメリカ研修旅行記−シカゴとチャペルヒルでの日々−」(2010)
 今から2年前の春、ある空港で。「あれ、パスポートがない!セキュリティーチェックに置き忘れたかも…」。人生初の海外旅行となった樋口ゼミの研修旅行中の出来事である。この後、急いでパスポートを取りに戻ったことは言うまでもない。この時の旅行は、右も左もわからないまま、樋口先生や当時大学院生のTさんの後をくっついていくのに精一杯だった。
 あれから二年経った今春、私は再び研修旅行に参加することにした。二回目ということで、多少心にゆとりを持てていた。したがって、変に肩肘張らずに素直にアメリカを楽しむ余裕があった。また、今回が初海外旅行となる二人の同行者がいたので、経験者の私が二年前のような失態を再び!なんてことがないように気を配って行動しようと努めた。このような心持で、二回目のアメリカ旅行の日々が始まった。
 約二週間の研修旅行でシカゴ、フィラデルフィア、チャペルヒルの三都市を訪れた。そのなかで、シカゴとチャペルヒルでの日々をここに記しておきたい。

<シカゴの日系組織を訪れて>
 シカゴを訪れることは、個人的に非常に興味深いことだった。というのも、それは私の研究テーマの地を訪れることを意味したからだ。私は卒業論文で、第二次世界大戦期のシカゴの日系人史を研究した。私の関心事は今から約60数年前の時代ではあるものの、今回のシカゴ訪問は自身の研究テーマの地を自分の足で歩いてみる絶好の機会になった。
また、第16代大統領リンカンや黒人初のアメリカ大統領となったバラク・オバマのゆかりの地であり、全米で第3位の規模を誇る大都市シカゴを観光できることも楽しみだった。名建築家がデザインした高層建築群、充実した博物館や美術館、エスニック料理やシカゴ名物の分厚いピザなどを存分に満喫した。そのようなシカゴの日々の中で、ここでは2つの日系組織を訪ねたことについて記したい。
 前述したように、せっかく研究テーマの地に行くのだから、いくつか日系組織を訪れてみようと考えていた。そこで、まずシカゴ日米協会(The Japan America Society of Chicago 以下、日米協会と略記)を訪れることにした。日米協会は1930年に設立され、現在はNPOとして「日米親善」を目的とし、ビジネス・教育・文化交流などの多岐にわたる分野で活動している組織だ(註*参照)。  日米協会を訪れたのはアメリカに到着して3日後の3月5日の午後だった。卒業論文でのリサーチ中やインターネットを通じて日米協会の存在を知っていた私は、事前にメールで連絡を取り、面会のアポイントメントをとっていた。面会の相手は、現在日米協会Executive Director(事務局長)の馬場光國さんである。馬場さんは、日本人として初めて日米協会の事務局長になった人物で、偶然にも私たちの通う専修大学のOBだった。
 ループ(シカゴ市の中心地)内を南北に走るクラークストリート沿いのビルの七階に、日米協会の事務所があった。私が名前を名乗ると、スタッフの一人が会議室に案内してくれた。しばらく待っていると、その馬場さんという方がやってきて、私を快く迎えてくれた。
 自己紹介や専大の話などを終え、さっそくインタヴューに入った。日米協会の歴史や役割、シカゴに住む日系アメリカ人の現況、また国際的に活躍中である馬場さんの経験について話を聞いた。日米協会では、ほぼ週に一度のペースで何かしらのイベントを行なっているというから驚きである。「アメリカの人に日本を好きになってもらいたい」と話す馬場さんからは、精力的に仕事に取り組む姿勢や日米親善という仕事への熱い思いが伝わってきた。今回のインタヴューで、シカゴ日米協会がいろんな活動で日本とアメリカの架け橋的役割を果たしていることがわかり、またシカゴと日本の強いつながりを発見した。
 次に、Japanese American Service Committee(以下、JASC)を訪れることになった。JASCは、第二次世界大戦中から戦後にかけて、約2万人の日系人がシカゴに移り住んでくる中、彼らの再定住を援助するために、1946年にThe Chicago Resettlers Committee(CRC)として設立された日系人主体の組織である。現在は、組織名がJASCと改名されており、日系に関わらず高齢者を中心に様々なサービスを提供する福祉団体となっている(註**参照)。
 JASCを訪れたのは、日米協会を訪れた4日後の3月9日のことだった。この日の午後、私たちはループの北、リンカーンパークエリアにあるシカゴ歴史博物館を見学していた。博物館を出ると、小雨が降り始めていたが、もう少し北に、戦時中日系アメリカ人が集住したとされるクラーク・ディヴィジョンエリアがあるので行ってみようということになった。しかし、そこに今も日系アメリカ人が集住しているとは限らなかったので、事前に住所を調べていたJASCを訪れることにした。バスで30分近く北上したエリアで降車し、少し歩いて探してみると、入り口に「JASC」と書かれた建物を発見した(写真1)。今まで書面上でしか知りえなかった組織を、実際にこの発見した瞬間、少し感動を覚えた。

(写真1 JASCの入り口 撮影者:藤樌)
   入り口にいると、受付の女性が「何か用か」という具合にドアを開けて中に入れてくれた。片言の英語で、事情を説明し、史料があれば見せてほしいと頼むと、返ってきた答えは「ノー」であった。それもそのはずで、史料を見るにはアポイントが必要だったのである。しかし、ここまで来て引き下がるわけには行かないと思い、「明日シカゴを発ちます(I will leave Chicago tomorrow!)」と言うと、Legacy Center(JASCのアーカイヴ&ライブラリー)の管理者Kさんを紹介してくれた。Kさんは、忙しそうな様子であったものの、私の質問に答えてくれ、現在のJASCの活動を知るパンフレットやLegacy Center所蔵の史料が掲載されている文献など多くの情報を与えてくれた。
 このように、今回私はシカゴの二つの日系組織を訪れたわけだが、半世紀以上の歴史を持つ日系組織が現在もなお、発展し活動を続けていることを知ると、改めてシカゴに根付く「日系」の歴史が感じられた。このことを確認できたことだけでも、今回の旅行は大きな収穫があったといえよう。
 最後に、私のために貴重な時間を割いてくださった日米協会の馬場さん、また多忙なお仕事中に、アポイントメントなしで訪れたにもかかわらず、対応してくださったJASCの職員の方々に感謝を申し上げたい。
<チャペルヒルでの日々>
 もう一つ、旅の思い出を記しておきたい。ノースキャロライナ州チャペルヒルにあるUniversity of North Carolina(以下、UNC)で過ごした日々である。
 まず、UNCの学生であり友人である、ジミーとサマンサとの再会についてである。彼らは日本に興味を持っていて、日本を旅行した際、樋口ゼミに立ち寄って私たちと交流したことがあった。その後も、個人的に彼らとメールのやり取りをする中で、いつか再会できないだろうかと思っていたが、今回それが実現することになった。
 私たちは時間を見つけて二人に会い、久々の再会を喜んだ。昼食を共にし、お互いの近況を報告しあった。その時、私はランチの味より、彼らとの再会がなにより嬉しかった(もちろんランチは美味しかったし、二人は私たちにご馳走してくれたのだ!)。また、別の機会には、二人を招いてパーティーを開き、日米交流を楽しんだ最高な夜を過ごした。二人と過ごした時間は、アメリカ人学生の生活を味わう文化交流として有意義なものとなった。
(写真2 ジミー、サマンサとの交流パーティー 撮影者:藤樌)
 次に、Heather Williams先生のクラスに参加したことについてである。Heather Williams先生は、2009年に樋口ゼミに来てくれたUNC歴史学部の先生である。このたび、私たちを特別ゲストとして自身のクラスに招いてくれたのだ。クラスは、一人ひとりの出身地を地図で確認していくという、ユニークな自己紹介から始まり、樋口先生による訳書『貧困と怒りのアメリカ南部−公民権運動への25年』(彩流社、2008年)の内容に触れた公民権運動をテーマにしたスピーチ、私たち日本人学生の「日本の儀式」についてのプレゼンテーションが続いた。最後に、アメリカ人学生(みんな一年生だった)に交じって、日米の儀式や文化ついて情報交換しあった。
(写真3 アメリカ人学生との議論を終えて 撮影者:樋口)
 学生の発言は早すぎて、また私の英語力不足で、全部は理解できなかったかもしれないが、この議論から一つの事実に気付いた。それは、アメリカ人学生(私が加わったグループ、クラスの約半分の学生)は、日本をあまり知らなかったということである。ジミーやサマンサのような日本に興味のあるアメリカ人学生像しか頭になかった私にとって、それは意外な事実として感じられた。「日本にあまり興味がない」アメリカ人学生が持つ日本のイメージは、日本に対するステレオタイプに匹敵するようなものも中にはあった。もちろん、彼らに悪意はなく、日本を非難していたわけでもない。私がこの交流で気付かされたのは、日本に生活してきたために、「世界の中心に日本あり」と無意識に考えていた私の偏ったともいえる価値観であった。彼らにとって、日本はただの東アジアの一国に過ぎなかったのである。こうした世界観の違いなど、日本にいただけでは気付けない不思議な国際感覚を味わった気がした。

 今回の旅行は、特に大きなハプニングも無く、有意義でとても楽しい旅行であった。最後に、ともに旅を楽しみ、また楽しませてくれた同行者H君、U君の二人に、また旅行中にさまざまな面で面倒を見てくださった樋口先生に心から感謝したい。

(註*)The Japan America Society of Chicago, 2009 Annual Report, Chicago: The Japan America Society of Chicago, p.2; 馬場さんとのインタヴューの内容(2010年3月5日)。
(註**) Burns, Deborah Mieko King (JASC Archivist), A Brief of the JASC, Chicago: Japanese American Service Committee, pp.1-2.

2010年4月5日


植木辰典「初めてのアメリカ」(2010)
 今回のアメリカ研修において史料を探すという全体の目的とは別に「アメリカの町を観察する」という個人的な目的があったので、シカゴの町での観察を報告する。
 シカゴの中心街であるダウンタウンでは立ち並ぶ高層ビル、広場にあるモニュメント、輝くように明るい街路などからは新宿や東京とは全然違う大都市の雰囲気を感じた。町を歩くと白人、黒人、黄色人と様々な肌の色をした人々を見ることができた。それまでは「アメリカは多人種の国だから大きな町に行けば様々な肌の色をした人々がいる」と考えていたが、実際には白人が多かった。しかしダウンタウンから離れたサウスサイドでは道路や空き地にゴミが散乱している、数件の住宅は古くなって壁が剥がれている、窓ガラスが割れているなど社会衛生・福祉がそれほど機能していないと思われる町、華やかな大都市の影を見た。大通りに出て住宅街の周辺を歩くと見かける人の大多数は黒人で、樋口先生からは「この辺りが黒人街の中心地」と聞いた。黒人街という言葉は文献では何回か読んだが、実際に見るのはこれが初めてだった。
人々は何の問題もなく日常を送っているように見えたが、ダウンタウンでホームレスと書かれた札を下げているのは黒人だった。さらにダウンタウンと黒人街とを比較すると後者のほうが社会衛生・福祉が悪かった。厳密ではないが白人が多い町、黒人が多い町と別れていて、人種意識あるいは格差が明確に表れている現実を直接見たことによって多人種の国と言われるアメリカが抱えている問題を改めて認識した。
 一方でアメリカ文化の体験としてミュージカルやクラシックコンサート、ブルースを鑑賞した。特にクラシックコンサートは、後で訪れたフィラデルフィアでも鑑賞したが、両者とも世界最高レベルのオーケストラで、彼らの演奏を生で聴くことができたのはとても貴重な体験である。また美術館や博物館も多く訪れた。なかでもフィールドミュージアムは規模が大きく、ガイドブックには「少なくとも半日、できれば1日欲しい」と書いてあった。実際には数時間しか確保していないという無理をしたために展示の一部しか見学できなかったが、古代アメリカのコーナーでは中央〜南アメリカの先住民の生活用具、土器・石器、宗教、遺跡のモデルなどをとても興味深く参考になった。ついでにそれに関係する史料を入手できた。

写真(左)シカゴのサウスサイド47番通り、街燈の装飾にもシカゴ・ブルースのデザイン(撮影者:植木)
写真(右) ノースカロライナ・コレクションがあるウィルソン・ライブラリー(チャペルヒル)(撮影者:植木)


 最後に訪れたノースキャロライナ大学では、去年ゼミにいらっしゃったウィリアムズ教授の授業に参加して、日本の子どもが成長する際に行う儀礼についてプレゼンテーションを行った。自分は七五三を担当した。もともと英会話には自信がなかったのでうまく説明できるかどうか、きちんと理解してもらえるかどうか心配で緊張したが、思っていたよりはうまくできた。その後の質問とフリートークでは、学生は話すのが早くてよく聞き取ることができなかったので、ウィリアムズ教授に助けていただきながら「大人になることの意味」「ベビーブーム」について話をした。最後に日本語でノースキャロライナ大学について話すとアメリカの学生は何を聞き取れるのかということで、樋口先生と学生3人で日本語で話をした。なるべく自然な日本語で話そうとしたが、「ライブラリー」「ヒルズボロ(ストリート)」などの言葉はつい英語のイントネーションになってしまい、意識して日本語を話すことは想像以上に難しいことがわかった。
 シカゴに続いて大学の様子も観察してみようと思ったので、休憩時間に広いキャンパスを歩いてみた。すると迷っていると思われたのか、親切な学生が場所を教えてくれた。ありがとうと返事をしたが、何回か「あなたは中国人ですか?」と尋ねられた。シカゴでも同様なことがあり、必ずしもそうであるとは言えないが、欧米の人々はアジア系の人を見ると中国人と考えるのだろうかと思った。
 図書館は、専修大学と比較するとはるかに大きくて蔵書の量もとても多かった。とくにウィルソン・ライブラリーには大学コレクションが所蔵されていて、なかにはかなり古い文献もあった。自分がコピーした文献で最も古いものは1930年代に出版されていた。それらの文献を慎重に読み進めるのはいいが、どれも数が少ない貴重な文献だったので緊張した。それでも多くの時間をかけて貴重な文献を読んだこと、また必要としていた以上の史料を発見できたことは良い思い出である。
 16日間のアメリカ研修を通して、文献を読んでいるだけではわからない貴重な体験ができてとても嬉しい。そして今回感じたこと、学んだことを今後の生活に生かしていきたい。

2010年3月31日


畑山慎哉「アメリカ研修旅行回想録」(2010)
 今回のアメリカ研修旅行にあたって、当初は期待以上に不安が大きかった。自分は今回が初めての海外で、その上、英語が堪能だというわけでもない。勿論、ゼミナールにおいてアメリカに関する文献や史料には触れてきた。だが、それはあくまでアメリカという国のごく一部を史料や文献を媒介して見たものに過ぎない。そんな自分にとって「アメリカ合衆国」という国は殆んど未知の存在であった。初めてのアメリカ旅行は、このような心持で始まった。
今回の研修旅行では、シカゴ、フィラデルフィア、チャペルヒルの三都市を巡った。これらの都市での思い出を幾つか記していきたい。
 最初に向かったシカゴの中心街は整然と高層ビルが並び、ピカソなどの著名な芸術家の作品が街のあちこちに配置されており、都会の洗練された雰囲気を醸し出していた。また、当然ではあるが、道には様々な人種の人々が行き交っていて、アメリカが多人種国家であることを再認識させてくれた。日本では見られない初めての光景を目の当たりにして自分は圧倒されっぱなしだった。シカゴには約一週間滞在し、様々な事を経験したが、その幾つかをここに書いておきたい。
 シカゴにはいくつもの博物館や美術館があるのだが、そのなかでもシカゴ美術館は特に素晴らしかった。シカゴ美術館にはピカソやダリ、マネ、モネなど誰でも知っているような芸術家たちの作品や中国製の磁器などの骨董品、彫刻、アフリカン・アート、写真など一日では全てを見ることが出来ないほど多くの美術品が展示されている。時間の都合もあり、全ての作品をじっくりと鑑賞することはできなかったが、数々の美術作品を実際に見ることが出来たことは間違いなく人生に於いて最も有意義で貴重な経験の一つであったと思う。機会があれば是非もう一度訪れたい場所である。  また、樋口先生に連れられてシカゴ・オーケストラの演奏を聴くことが出来たことも大変貴重な経験であったと思う。その日の指揮をシャルル・デュトワ氏が務めていたことも幸運だった。演目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番とショスタコーヴィチの交響曲第11番。どちらも素晴らしい演奏で、聴いている最中は鳥肌が立ちっぱなしだった。滞在先のホテルに戻った後もしばらく興奮が冷めることは無かった。次に向かったフィラデルフィアでもクラシックのコンサートに連れて行ってもらったのだが、こちらも素晴らしい演奏だった。機会を与えてくれた樋口先生には大変感謝している。
シカゴで経験したのは先の二つのような華やかなものだけではなかった。それは中心街から離れたサウスサイドという地区を訪れた時のことである。そこでは道路にゴミが散乱しており、家は老朽化してボロボロ、いくつかの窓ガラスには銃痕と思われる穴が開いていて、治安があまり良くないであろうことを示すものがいくつも見受けられた。華やかな都会の裏に隠れたアメリカ合衆国の暗部を実際に垣間見た瞬間であった。
 最後に向かったのはノースキャロライナのチャペルヒルである。ノースカロライナでは、「奴隷制の記憶」という本の著者であるドロシー・スプルール・レッドフォードさんと一緒にサマセットプレイスを回ったり、ノースカロライナ大学の授業に参加してプレゼンテーションを行なったりした。レッドフォードさんはとても気さくな感じの人で、間違えることを怖がってあまり発言しない自分に対して、「最初から上手く話せる人はいない、話そうとする姿勢が大事」と優しく諭してくれた。次に彼女と会う時は、ペラペラとはいかないまでも、ある程度自然な会話くらいは出来るようになっていようと心に誓った。
 ノースカロライナ大学は専修大学よりもはるかに大きなキャンパスを持つ大学であった。おそらくキャンパス内を全て見て回るだけで一日が終わってしまうだろう。それくらい大きなキャンパスであった。図書館に関しても同様で、蔵書の数も専修大学のそれと比べて膨大であった。ここでは、卒業論文を書く際に必要と思われる数々の資料や論文を得ることができ、大変な収穫であった。また、研修旅行の最終日前日にゼミの先輩二人と一緒に料理を作り、昨年ゼミに訪問してくれたアメリカ人学生のサマンサ、ジミーの二人を招いて行なったパーティーは大いに盛り上がり、とても有意義な異文化交流の場となったと思う。

   ノースキャロライナ大学(チャペルヒル)の図書館の前でサマンサとツーショット!  (撮影者:樋口)

 当初は不安でいっぱいのアメリカ研修旅行であったが、色々と世話をしてくれた樋口先生、共に旅行を楽しみ、盛り上げてくれた先輩二人のおかげでいつの間にか不安は消え去っていた。三人には、この場を借りて改めてお礼を言いたい。

2010年4月11日


富田高暁「大都会シカゴ」(2009)
 今回のアメリカ研修旅行が初めての海外渡航経験になる。研修旅行では、ゼミや授業でアメリカを知る事と違い、実際に自分の目で見て、アメリカを知ることができ、さらに自分自身にとっても大きなプラスとなった。それは、アメリカ有数の都市シカゴで垣間見える格差、そして、様々な人種が入り混じっている中での生活、また、ミシシッピでは、未だに色濃く残るBlack Section(貧困層の黒人居住区)、どこまでも広がる綿花農場などなど、都市部から田舎町へと様々な場所を訪れ、また、それぞれの場所で違った体験をすることができ、とても中身の濃い研修旅行となった。その中でも、印象に残ったシカゴでの3日間のことを書きたいと思う。
 シカゴに到着した初日の朝、樋口先生がある事に気がつき、自分もその事実に驚いた。それは、サマータイムといって、春先に時刻が一時間早まったり、秋口に遅くなったりするもので、ここで、頭の中でぼんやりとしていたアメリカに来たという実感がようやく鮮明なものになった。シカゴの街並みは、多くの観光客で賑わうショッピングモール、オフィスビル、自らの名前を付け、権力を象徴するかのようにそびえたつ高層ビルの数々、そして、綺麗に縦横に整備された通りがあり、日本との違いを多く見つけることができた。


(シカゴ 高層ビル群 撮影者:富田)


その中で、目に付いたのが、Saleとビルの窓に張り付けられていて、リーマンブラザーズ破綻などによる世界金融危機の影響で、からっぽのオフィスやアパートメントが多く見られた。シカゴでビジネスを開いても利益につながらないからだ。そもそも、シカゴは鉄鋼業や鉄道産業で栄えた街であるが、今現在では観光業に力を入れている。シカゴの街を歩いているだけで、今現在起こっている問題を目で見て、実感することができる。また、大きな違和感をもったのが路上生活者、いわゆるホームレスの存在である。日本では、東京などの都心部でホームレスを見かけることがあった。シカゴには、観光客で賑わう中、至る所で彼らを見つけることができる。話しかけて来る者やじっと座っている者、また、コンサート会場など人の出入りの多いところを狙って来る者など様々だった。その中で、シカゴ滞在3日目のアイルランド民族音楽を演奏するChieftainsのコンサートを見終わって出入り口にいた時のことだ。ある黒人のホームレスが待ち伏せているかのように、コンサートを聴き終わった人々を待っていた。


(シカゴ ハーモニーセンター前 撮影者:富田)


コンサートホールから出てきた人々の中には、スーツを着た白人や黒人、ドレスアップした白人女性などがいて、ホームレスに寄付する人、また、見てみぬふりをする人もいて、大きな違和感をもったと同時に、大都市シカゴで、これだけのあからさまな格差というものを目の当たりにすることができた。今思えば、ホームレスのほとんどは黒人だったかもしれない。このような格差や貧困問題というのは、実際訪れて、その実情を自分の目で見て確かめることの重要性を実感した。
 シカゴに滞在した3日間は、今現在のアメリカを知ることができ、また、英語圏で生活するという中で、買い物1つをとっても、自分自身を試す機会が多くて、とても大きなプラスとなった。研修旅行での貴重な経験をこれからの生活に生かしていけたらなと思う。

2008年3月31日                       

那須円「サマセット訪問」(2009)
今回のアメリカ研修旅行は、私にとっての二回目の海外体験だ。一度目は去年のドイツのヴィッテンベルクという町での三週間の短期留学だった。当たり前と言えば当たり前だが、今回は去年のとは全く違う刺激を得られる海外体験であった。それは今回の研修での体験は、本当にバラエティに富んだ多くの場所や人を目の当たりにできるものだったからである。シカゴでの煌びやかな都会の風景、ダウンタウンの乾き、寂れた雰囲気、ミシシッピの何処までも広がる農耕地帯と長い道。スーツを着たサラリーマン、路上ミュージシャン、ホームレス、そして様々な肌の色の人々・・・などものによれば全く対照的とも言える風景や人々をこの短い期間にたくさん見ることができた。それはアメリカ史を勉強し、アメリカについての本を読んで頭の中に描いていたものが今までよりも鮮やかに現実味のあるものとして自分に迫ってくるような体験だった。そのような体験の中でも印象に強かった、サマセットへ訪れた時の事を書きたいと思う。

3月14日、ノースキャロライナ滞在の3日目。この日はノースキャロライナ大学があるチャペルヒルから約3時間半、樋口先生の運転する車に乗ってサマセットプレイスへ訪れた。サマセットプレイスというのは19世紀に存在したコリンズという一家のプランテーション跡地である。私はこのプランテーションについてDorothy Spruill Redfordの著書、Somerset Homecoming: Recovering a Lost Heritageの樋口先生による邦訳書『奴隷制の記憶―サマセットへの里帰り―』を読んで知った。サマセットに着くと、そこに描かれている道沿いの長い長い運河と、かつてプランテーションがあったであろう草原地帯を目にした。その場所はコリンズが二年がかりで奴隷を使って多くのその犠牲者を出しながら原生林と湿地帯の開拓と運河建設を行った場所なのだが、そこにはそのかつての事実が信じられないほど穏やかでのどかな風景が広がっていた。そこに立ち、過去の事を考えるとこれはまさに「人」が作り出した風景なのだなとしみじみと感じた。よく田舎の美しく緑溢れる風景を見た観光客が「自然っていいですねぇ。」と無意識に言う事があるが、少し考えるとおかしな発言だという事に気づく。その美しい田園風景やあぜ道は人の力によって支えられているもので、それぞれに過去からの歴史や物語を持つものだ。私は作られた背景が違うにせよ、その日本の風景と重ねるところがあった。


(サマセットの水路。 撮影者:那須)

しばらく行くとコリンズ家の邸宅とその周辺に立てられた奴隷の家、奴隷のための病院、教会跡などが残されて復元されている所があり、そこをガイドの女性に案内してもらった。そこは私達以外に訪問者は全く居なく、なんとなく寂しい第一印象を受けた。そこを女性の案内で歩いて周ると今まで授業で聞いてきたプランテーションの様子が具体的な実像となって浮かび上がってくる気がした。例えば奴隷と主人の間にある明確な生活空間の線引きについてである。その線引きは居住地帯を隔てる柵が復元されているので、それによって象徴的に見て取ることができる。柵の向こうの主人の空間へ野外奴隷(フィールドハンド)は決して入る事が出来ず入れるのは家内奴隷(ハウスサーヴァント)のみであったが、それにはコリンズの奴隷内で階層をつくる事で連帯感をくじき反乱を防止するという狙いがあった。

最後に案内された場所はコリンズの邸宅だったが、たくさんの応接間や家族の部屋がある中で特に印象に残ったのが邸宅の中で働く奴隷のシャーロットという女性が使っていた部屋である。彼女はハウスサーヴァントの中で一番待遇が良く、自身が自由黒人であったため奴隷というより召使いのような存在であった。しかし本でも描かれているように彼女は他の奴隷たちのように苦しみや楽しみを共有する仲間が存在せず、孤独なまま死んでいった。彼女の部屋は3階の天井が屋根の斜面になっている暗く狭い部屋で、その事実を考えた上で見てみると彼女の孤独感を想像し胸がつまりそうな思いになった。

ガイドさんによるそのツアーは1時間するかしないかで終了したが、自分に何とも言えないあと味を残した。単純にサマセットはたくさんの奴隷が働かされたプランテーションであったという表面的な事実だけではなく、レッドフォード氏の先祖を含むたくさんの奴隷達が過酷な労働をしつつも他の人々と同じように数々の家族の物語を紡いでいった舞台だという事に思いを馳せられたからだ。この奴隷のための教会の跡地では人々は何を考えどういう信仰をしていたのか、とか奴隷家族の住んでいた家では普段どんな会話が交わされて食事をしていたのだろうか、子供達はどのような遊びをしたのだろうか・・・などを想像すると「虐げられていた人」という印象が強かった奴隷の人たちが自分の中で「確かに生きていた人」という存在に変わった気がした。


(奴隷の住んでいた家。 撮影者:那須)

その後著者のドロシー・レッドフォードさんの御宅におじゃまして、インゲン豆のバター和え、キッシュ、トマトときゅうりのサラダなどがテーブルに並び、お昼ご飯をご馳走してもらった。手作りで素朴な雰囲気の料理はとても美味しかった。食べ終えて、アフリカ風の置物がたくさん壁にあったのが何となく目にとまった。そこから彼女の自身がアフリカ系である事への誇りというか強い思いの断片が見られたような気がした。
その後ドロシーさんの御宅をあとにしてその日はまた3時間くらいかけてチャペルヒルの方へと戻った。

  そしてその後、美味しいと評判の良いシーフード料理店で夕食を食べ、Targetという大型のホームセンターのような場所で買い物をしてから学生寮へと帰った。部屋で一日の事を振り返ると、色々な思いが浮かんできてまるで一日の出来事では無かったような気持ちになった。
この日以外にも印象に残る日はたくさんあった。それは毎日がそうだと言っても過言ではないと思う。今回のアメリカ旅行は毎日が新鮮な体験の繰り返しで毎日色々感じたり、考えたりできた。こんな濃厚な12日間は今までなかったような気がする。そして本当に貴重な12日間だったと今は思う。

2008年3月31日                       

布袋陽子「アメリカ研修旅行」(2009)
生まれてから20年、日本を離れたことのなかった私にとって、今回のアメリカ研修はまさにカルチャーショックの連続であった。もちろん、都会であるChicagoを訪れたこと、昨年1年間の時間をかけてゼミの授業で学習した、Mississippi Harmonyに関連する地へ赴き、実際に公民権運動に尽力されたWinson Hudsonさんの墓地を目にしたときは、文献を読む以上に感慨深いものがあった。また、研修旅行中には、Chicagoのアフリカ系アメリカ人Dusable Museum、ミシシッピ州ではLelandやClarksdaleのブルース博物館などを訪れ、歴史的文化物を数多く見学することができた。そのなかでも、ここでは私が今回のアメリカ研修旅行で長い時間を過ごし、すごく影響を受けたのは、Chapel HillにあるNorth Carolina大学での数日間の出来事である。

North Carolina大学は南北戦争時には一時的に休校状態にあったそうだが、アメリカで最初に創られた公立大学で、とにかくきれいで広いというのが、最初の印象であった。理系・文系それぞれ学部ごとに分かれて校舎が建てられており、大きな大学病院もあった。また、寮生活をする学生が多いらしく、敷地内にはところどころに学生寮も見られた。ここは、大学が街の中心のようなところで、大学近くには豊富な生活必需品や書籍、文具などが揃う広いUniversity Mallも存在する。そんな中、私が驚いたのはキャンパスの敷地内に、まるでプロ選手が使っているのではと思ってしまうほどの、本格的なアメリカンフットボールの競技場があるのだ。きれいな緑の芝で覆われていている競技場に何万人もの学生達が集まればものすごい熱気になるのだろうと思うと、(見学した日は学校が休みで、雨も降っていたため学生はいなかったのだが、)それだけでも、素敵な大学だと感じることができるほどの魅力的な施設の数々が存在する。

 Chapel Hillは私が訪れた3月はまだ肌寒く、普段日本で生活する私にとってはジャケット必須であったが、現地の人々はパーカーをさっと羽織って、平然と歩いていた。また、日本でも近頃、「メタボ」や「肥満」といった言葉が飛び交い、生活習慣が見直されるようになったせいか、朝夕と公園や通りをランニングする人々の光景を目にすることが増えたが、ここではごくごく当たり前のようにランニングをする学生達が大勢いて、健康問題について騒がれているのは日本だけではないのだということも改めて認識した。

私はこのChapel Hillでは、主に、卒業論文で扱う史料探しのためにNorth Carolina大学の図書館を利用させて頂いていたのであるが、ここで過ごした数日は本当に驚きと発見の毎日であった。まず、膨大な書籍の数々である。大学内にはひとつといわず、私が訪れただけでも3つの図書館が敷地内にはあり、他にも医学的なものだけを取り揃えた図書館もあるそうだ。また、私が専ら利用していたDavis Libraryはあまりの書物の多さから、1度閲覧するために、本棚から取った書物は自分で本棚に戻すことが禁じられているのだ。それは、膨大な書物を抱えるだけに、少しでも位置が変わってしまい、次回以降、書物を探すのが非常に困難になってしまうのを防ぐためだそうだ。これだけの書物を管理するのはすごく労力の要ることだが、これだけの書物があれば、資料探しに困ることはほとんどないといっていいほどではないだろうかと感じた。1つの分野にまつわる蔵書があまりに多岐にわたり、データベースから検索するだけでも膨大なのに、実際に本棚から探し始めると、検索では出てこなかった種類の本も発見できた。当然、どれも英語で書かれており、その中身を限られた時間のなかで腰を落ち着けて読むことは不可能であったが、これだけの書籍が揃えてあるのはまさに圧巻であった。

 また、このDavis Libraryは朝の8時から夜の12時まで開館している。キャンパスの中には24時間開館している図書館もある。何のためにそんな遅くまで開いているのだろうと浅はかながら、私ははじめ、その開館時間の長さが不思議で仕方がなかったのだが、このNorth Carolinaの学生はものすごく学業に熱心な学生が多いのだ。お昼ごろや授業時間はキャンパス同様、図書館にも、パソコンを広げレポートを作成する学生や、たくさんの本を抱えて読みふける学生を至る所で見かけるが、その姿は夜になっても失われることがなく、私が資料探しにてんてこまいになりながら、そろそろ閉館だと思い、帰ろうとする夜の11時35分。もうすぐ日付が変わろうとしているのに、まだ図書館には机に向かって、勉学に励む学生達の姿がたくさんあった。

 私は、このアメリカ研修でいろんなものを見てきた。様々な文化の違い、価値観の違い、外観からでも感じ取れる人種の多様さ、土地や州によって異なる生活環境の違い、そして、歴史ある建物や資料館。日本にはない多くの多くのものを見て、感じて、考えさせられた。 以前、日本の大学生は努力を重ね苦労して受験勉強し、大学に入っても、卒業するときにはその成果が生かされないまま、または高校以上の意欲を失くして、社会に出てしまう学生が多いと聞いたことがある。私も少なからずおそらくその1例に入るであろう。今の自分は、North Carolinaの学生を見て私はそれまでの自分の身の振り方を考え直す機会を与えられたような気がした。

アメリカ研修にやってきて、とても会話になっているのか判断のつかないたどたどしいやりとりで、現地の人とやりとりをし、生活し、ほんの少し周りに目を向けられるようになったわたしにとって、日本を離れ、数週間といえど、外の世界に身をおくことで自分の考え方や姿勢を振り返ることが出来た。

それから、Chapel Hillに滞在している間に私は、First Babtist Chuchという黒人が主体となって運営している教会を訪れた。その日は日曜日でちょうど日曜礼拝が行われていたのであるが、ここでも驚きがたくさんあった。それは、教会といっても、それはとてもひと言では語ることのできない多様さがあるということだ。私は、このアメリカ研修中に、ChicagoのFourth Presbyterian Churchという教会を訪れていたのであるが、そこは主に白人が大多数を占めており、賛美歌を厳かに歌い、小さい子供への洗礼のようなものが行われ、粛々と礼拝が進められていくといった流れであった。日本で私が礼拝に参加したのはクリスチャンの友達に誘われ2,3度参加したのみであったが、そのときに体験したのと同じような空気感をここでは感じた。

しかしながら、First Babtist Churchは、賛美歌を譜面から大きく外れた調子で歌い、礼拝を運営する側はもちろんのこと、参加する人々も、賛美歌を歌い、牧師などのお話を聞きながら、興奮していくのがとてもよく伝わってきた。そして、日本人の私たちをゲストとして、受け入れてくださり、礼拝中に戸惑っていたら助けてくださったり、気軽に話しかけてくださった。こちらでは、生き生きと楽しく礼拝に参加する人々の姿が印象的であった。

宗派や地域、人種の違いが大きく関わっているが故のことだとは思うが、教会をわずか2つ訪れただけでもこんなにも多くの発見を見つけることが出来たのだから、視野を広げ、足を運べば、もっともっといろんなものを吸収することができるのだとしみじみ感じた。今回のアメリカ研修旅行は毎日が新鮮であり、発見の連続だった。とても充実した研修で得た数々の資料と知識と思い出を、これからに生かし、実りある学生生活を送りたいと思う。

2009年3月  

河島未沙「ハーモニーを体験!」(2009)
アメリカに到着してから4日目の3月10日。天候に恵まれたとても暖かい日に私達は Mississippi州のHarmonyという場所に向った。Harmony communityはLeake Countyにある集落の一つで、私が二年生になり、ゼミの一員となってから一年間ずっと取り組み続けていたWinson Hudsonの活動が著されている文献Mississippi Harmony: Memoirs of a Freedom Fighterの舞台となった場所である。

朝早く出発してやっと到着した時、車の中から見た“HARMONY COMMUNITY”という標識が私に本当にHarmonyに来たという実感を沸かせた。それまでは文章の中でしか知らなかったHarmonyをその時から肌で体験することができたのだ。Winson Hudson Streetを探して車に揺られながらも興奮が醒めず、うきうきしながら窓の外を流れていくHarmonyを見ていたが、結局Winson Hudson Streetを見つけることができず、Harmonyの入り口にある丘の上に建てられたGalilee MB Churchに戻ってくると、その興奮は静まり新たに緊張感が沸き起こってきた。Winsonのお墓を探しながら一つずつお墓を見ていくと、手作りのような墓石や、古すぎて墓石が崩れてしまっているものもあった。やっとWinsonのお墓を発見すると、その隣りにはWinsonの姉のDovieのお墓が並んで作られていた。Winsonの墓石には手が差し延べられている絵が彫られていた。その絵は活動を通じて全ての人の権利のために尽くしたWinsonに天から手が差し延べられているようでもあり、亡くなった後でさえもWinsonが全ての人に手を差し延べているようにも見えた。


(↑WinsonとDovieのお墓の写真)

また、Galilee MB Churchの丘の麓にはWinsonの功績を称える看板が立っていた。看板の表にはWinsonの顔写真と墓石の裏に彫られていたのと同じ文章が書かれていて、裏にはWinsonの行なった活動が書かれていた。既に読んで知識として持っていた情報がそこに書かれていて、感動にも似た感覚を覚えた。


(↑Winson Hudsonの看板の写真)

最終的には、Winson Hudson Streetを発見することができ、また、Winson Hudsonが住んでいたかもしれない家の近くまで行って見ることができた。

不安いっぱいに始まったアメリカ研修旅行だったが、せっかく学習したことを中途半端に終わらせるのではなく、実際にアメリカに行って自分自身で体験することができたのは私にとって貴重な経験となった。

2009年3月31日

藤樌悠太「アメリカ旅行記―ハーモニーを訪れて―」(2008)
今回のアメリカ研修旅行は私にとって初の海外旅行だった。そのため、アメリカ滞在中はアメリカの風景やアメリカの文化、アメリカ人たちの振舞い方などがどれも新鮮に感じられ、アメリカ史を学んでいる私にとってそれらを見たり、聞いたりすることはとても興味深いものであった。
 旅行中はアメリカ史にまつわる場所をいくつも訪れた。ミシシッピでは公民権運動に関わりがある場所を中心に訪れ、ペンシルベニアではアメリカ建国に大きく関わったフィラデルフィア市を見て回った。そして、ノースキャロライナでは奴隷プランテーションの史跡があるサマセットプレイスを訪れた。実際に歴史の舞台に行ってみると、新たな発見があり、またそのスケールの大きさや今まで自分が考えていたイメージとのギャップに驚かされたことが多々あった。ここでは、その体験のひとつであるミシシッピ州のハーモニーを訪れた時のことを紹介したい。

 ハーモニーは今年(2008年度)のゼミで扱う文献Mississippi Harmony: Memoirs of a Freedom Fighterの舞台となる“black town(黒人しか住んでいない町)”のひとつで、公民権活動家であったWinson Hudsonが住んでいた町である。そんなハーモニーを訪れたのはアメリカに着いて2日目の2月19日であった。宿泊していたホテルのあるパールという町から車で、北東へ3時間足らずのところにハーモニーがあった。実際行ってみると、そこは静寂に包まれた小さな田舎町だった。昼間に訪れたというのに人通りが少なく、車の通りもほとんどなかった。車で走っていると“GALILEE MB CHURCH”という立て看板を見つけ、丘の上にあるその教会へ向かってみた。その日は火曜日だったので教会の扉は閉まっていて、残念ながら中には入れなかった。小さな教会だが、外観は古ぼけた感じもせずしっかりした作りできれいだった。
 教会のまわりを歩いてみると、教会の横に墓地があり、なかには19世紀前半に生まれた人たちの墓石があった。墓石に手書きで文字が刻まれているという簡素な作りのものもあった。その中には1830年代生まれの人の墓石もあり、ハーモニーという町の歴史の深さを感じた。


(↑ハーモニーのGalilee教会。建てかえられて真新しい。撮影者:藤樌)

 教会の後ろに回ってみると、そこには20世紀に入ってから生まれた人々の墓石が立ち並んでいた。その中にWinson Hudsonの墓石もあった。その墓石の裏には英語の文章が刻まれていた。以下はその文章である。

  OH COME MY DEAR CHILDREN AND SIT BY MY KNEE,
  AND LET ME TELL YOU THE COST TO BE FREE.
  IF I DON’T TELL YOU, YOU NEVER WILL KNOW,
  WHERE YOU CAME FROM AND WHERE YOU SHOUD GO.
  YOU CONTRIBUTED MORE THAN ANY RACE IN THIS NATION,
  COMING THROUGH HARD TRIALS AND TRIBULATION.
  FOUGHT IN EVERY WAR IN AMERICA’S NAME,
  YOU NEVER HAVE DRAGGED HER FLAG TO SHAME
.   PASSING AWAY, YOU CAN’T AFFORD TO WAIT ANOTHER DAY.
  IF I DON’T TELL YOU, YOU NEVER WILL KNOW,
  WHERE YOU CAME FROM AND WHERE YOU SHOUD GO.
               WINSON HUDSON, 1989

初めてこの文章を見たときには何のことが書いてあるのかわからなかった。よく見てみると(黒人の)子どもたちへのメッセージと思われる。特に「IF I DON’T TELL YOU, YOU NEVER WILL KNOW,WHERE YOU CAME FROM AND WHERE YOU SHOUD GO.(もし私があなたに話さなければ、あなたは二度と知ることがないでしょう、あなたがどこから来たのか、どこに向かうべきなのかを)という文章が2回でてきて強調されている。まだ私はWinson Hudsonの本を読んでいないので、Winson Hudsonがどのような人物であるかというのは詳しくはわからないが、これらの文章からWinson Hudsonの人物像が少し見えてくるような気がした。
 教会の周辺を一通り見た後、最後に「Galilee Community Store」という町にある唯一の雑貨店に行ってみた。しかし、その日は定休日らしく営業していなかったので、店の写真を撮っただけで、ハーモニーを後にした。

 あとあと考えてみるとハーモニーは町の回りにたくさん木が生い茂っている土地柄もあり、回りの社会から孤立しているような町だった。これが“black town“の特徴なのかもしれない。そして、“静かな田舎町“という印象を受けたハーモニーも、かつては公民権運動のひとつの舞台だった・・・そう考えると「公民権運動が盛んだった時代にもこんなにひっそりとした町だったのであろうか」「”black town”という特殊な環境であるハーモニー、またその周辺で公民権運動がどのように行なわれていたのだろうか」と、いろいろと疑問がうかんでくるが、これらの疑問は今年のゼミでの研究を通して明らかにしていきたい。

2008年3月20日

百瀬怜「アメリカで見たホームレス」(2007)
 シカゴ市とフィラデルフィア市はアメリカ合衆国(以下アメリカと略記)有数の大都市である。シカゴは経済面でアメリカにとって非常に重要な地域であり、フィラデルフィアはヨーロッパ人最初の植民市という歴史を持つ街である。
 さて、この二都市を訪れ、シカゴに二泊、フィラデルフィアでは三泊した。両市ともに日本と同じ、ごく日常的な光景を見ることになった。朝には早くからファーストフードで朝食を買い求め、温かい飲み物の入ったタンブラー(3月、季節は当然冬である)と鞄を持った通勤者の姿や、携帯音楽プレイヤーであるiPodを片手にジョギングをする人たち。日中でも家族や友人、恋人とショッピングを楽しむ人たち。夕方になればバス停で帰りのバスを待つ人や、どこへ行くのか陽気な学生達の姿といった当たり前の光景だ。


(↑連立するビルの陰にはホームレスの人々も。シカゴのビル群。撮影者:百瀬)

 そして、ホームレスの人々も多く見かける機会があった。彼らも日本人と同様に昼間は人通りの多いところで物乞いをしていた。そして夜になれば人の通り道から離れた公園のベンチやビルの軒先で体を丸め眠るのだ。彼らのそういった姿も日本の都市部で見られる光景となんら変わらない。違いがあるとすれば、それはやはり日本とアメリカの大きな違いの一つである人種の存在である。ごく短い期間の、それも各市内の限られた区域した見ることが出来なかった、その印象の上で言うならば、ホームレスには黒人が多く見受けられた。もちろん黒人以外の白人もいたが一番見かけたのは黒人であった。多かったと思うのは数だけでなく、広い年齢層、身体の状況のせいでもある。若い者が多いのだ。フィラデルフィアでの三日目、市内を東西に走るArchストリートを歩いていた時のことだ。トラベラーズチェックをくずすために大きなデパート内でコーヒーを購入した。外に出てまた歩き始めるとそのデパートのビルにそって作られた植え込みの前に、まだ20代か30代のように見える薄汚れてボロボロになったダウンジャケットを着込んだ黒人が2メートル位の間隔を空けて5人ほどがいた。ある者は立ち上がり道行く人に小銭を求め、ある者はぴくりとも動かず眠っていた。その日は日曜ということもあり多くの人たちが彼らの前を通り過ぎて行ったが、誰も彼らにお金を出す者はいなかった。またこれもフィラデルフィアでのことだが、夜、歩道で眠る黒人を二人、写真に収めた。二人ともコンクリートの上に直接、横たわっていた。一人は車イスを持っていて、もう一人は左足用の義足の持ち主であった。二人ともそれを自分の頭のすぐ傍に置いていた。おそらく彼らにとって最も大事なものなのだろう。そして二人とも顔が隠れてはっきりと見えなかったのだが、老人であるという印象は受けなかった。
 アメリカ合衆国国勢調査局の調べによると2005年度における一人当たりの年収が9,973ドル以下の貧困層に分類される者はそれぞれの人種人口に対して白人8.3%、黒人24.9%、ヒスパニック21.8%となっている。アジア系で11%ほどだ。黒人とヒスパニックで全体の約半数を占めることから、彼らが置かれている社会的状況にいまだ多くの問題があることが数字の上からも推測できる。一体なにが黒人を、若くして暮らすために場所を失わせてしまうほどに困窮させたのだろうか。あるいはもしかすると自分から家を捨てた者もいるかもしれない。生まれついての経済的格差なのか、あるいは湾岸、イラクその他の戦地で負傷した者だろうか。シカゴでの最初の夜、ホテル近くのレストランで食事をしたが、そこでは人種の壁など無いように感じられた。黒人も白人もみな同列の従業員として生き生きと給仕をしていた。他のどんなお店にいってもそれは変わらなかった。ただちょっと通り過ぎただけの日本人旅行者にわかるはずもないけれど、アメリカに存在する問題の一端を垣間見た気がしました。
 シカゴだったか、フィラデルフィアだったか思い出せないけれど、ある黒人ホームレスが印象的だった。彼は道を歩いている我々に向かって声をかけてきた。金をくれというものだったが、あげられないと返事をすると彼はこう言った。Have a nice day.最初は嫌みかと思っていたが、アメリカを旅行する間、現地の人と接するたびに同じ言葉を聞いた。もしかすると彼は本当に社交性を持って「良い一日を」と言ったのかもしれない。こちらは彼に何もしていないのに。ホームレスだからといって自分を過度におとしめることをしない彼の姿勢を僕は尊敬したいなと思った。

参考:アメリカ合衆国国勢調査局ウェブサイト
http://www.census.gov/hhes/www/poverty/histpov/hstpov2.html
http://www.census.gov/hhes/www/poverty/threshld/thresh05.html 参照日2007/4/4



高橋和雅「根づく音、天井高く響く声」(2007)
 フィラデルフィア滞在中に、一度だけ日曜日を挟んだ。その朝、いつもよりゆっくりと集合した私たちは、街へと繰り出した。日曜日の午前中だけあって、行く道は静かなものだ。その日の互いの行動計画などを主とした他愛ないおしゃべりは、ひっそりとした街中に響くと、やがて、抜けるような青空へと高く吸いこまれていった。
 少し遅めの朝食を済ませると、私たちはその足で教会へと向かった。そう、この日私は、黒人教会の日曜礼拝を初めて体験する機会を得ることができたのである。
 訪れたのは、マザー・べテル・アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会(Mother Bethel A.M.E Church)。リチャード・アレン(Richard Allen)らが18世紀末に創設した、大変伝統ある黒人教会である。重厚な扉を持つ立派な外観もさることながら、中に入ると、思わず目を奪われてしまうような壮麗なステンド・グラスが、強い存在感を放っていた。
 私たちが入場したとき、礼拝はちょうど開始されて間もない頃合いであった。後方の座席に位置を決めると、すぐに、礼拝に訪れていた周囲の黒人たちが、笑顔と握手で迎え入れてくれる。そういった行為に、オープンな感じを受けつつも、どこか、ひとつのコミュニティに踏みこんだ感覚を抱いたのも確かだった。
 着席すると、讃美歌の斉唱が始まった。私も、備えつけの讃美歌集を手に、後にならって音を追うことにする。歌いながら周りを見渡すと、スーツ姿の男性など、身なりの整った人々がちらほら見受けられ、なんとなく、中流層の教会である印象を受けた。


(↑べテルAME教会での礼拝風景 説教を聴きながら立ち上がる人々 撮影者:百瀬)

 しかし、洗練された雰囲気ではあったものの、ひと度、女性黒人牧師の説教が始まると、その場は速やかに熱に包まれていった。聴衆の中には、声を上げて説教に応える者、壇上に拍手を送る者が少なくない。また、話の途中で、立ち上がって感情の高まりを表わすものさえいた。それは、粛々としたものではなく、確かに、黒人風の熱を帯びた礼拝であった。
 説教は次第に激しさを増していった。その激しい語調のせいもあり、私の稚拙な耳では、全ての英語、全ての内容を拾いきることは到底できそうになかった。しかし、言葉がわからずとも、いやわからないからこそ、そこに生み出されるリズムや音は、全て音楽であるかのように、私の耳には聴こえ始めたのである。
 頭に強勢を置いた言葉がテンポよく繰り返され、リズムが刻まれていく。言葉と言葉の間をぬって、聴衆からレスポンスの声が飛ぶ。それはある種の歌そのものであった。信仰を表わす奴隷音楽、ニグロ・スピリチュアル、そしてゴスペルは、時代こそ違えど、このようにして生まれ得たのか。眼前の光景がそう訴えかけてくる。ゴスペル・シンガーのマヘリア・ジャクソン(Mahalia Jackson)が、子供時代の教会体験を、自らの音楽的ルーツとしているのも、よくよく納得のいく話である。
 さらに、この説教の中には、音楽的な技法を彷彿とさせる表現を、随所に見ることができた。声を嗄らし、しゃがれ声をはりあげる説教は、シャウトの原形であるともいえた。また、牧師がキャッチーなフレーズを幾度となく繰り返し、次第に聴衆がそのフレーズに乗ることにより、互いに気分を高揚させていく様は、ゴスペルはもちろん、ジャム系のジャズ・ミュージシャンのソロの中にも見出すことができる。そして、かのジェイムス・ブラウン(James Brown)がライブで歌う“Night Train”の冒頭、彼が「Night!」を連呼して客を煽るシーンをも思い出させるのである。もしかしたら、これらの音楽的表現の源流は、全てが同じ場所に行き着くのかもしれない。そう、まさにこのような、熱を帯びた黒人集会の場に。


(↑べテルAME教会での礼拝風景 手拍子や「アーメン」という声も 撮影者:百瀬)

 礼拝の様子に夢中になっているときには気づかなかったのだが、ふと見回すと、先ほど目についたスーツ男性のような人の他にも、様々な人がこの場を訪れていることがわかる。いかにも教会席の似合うおばあちゃんから、どちらかというと、ホテル近くのショッピング街ですれ違いそうな感じの若い女性まで、聴衆の様は千差万別であった(皆が皆、やはりそれなりの身なりではあったが)。
そのような事実からは、日曜礼拝への参加がいかに人々の日常であるか、ということを改めて考えさせられる。説教の中にひしひしと感じるリズム・音楽は、こうして黒人の日常に根づいてきたのであろう。だとすれば、「教会音楽」という一般的なくくりは、必ずしも正しいものではないのではないか。それは、特別視され、一線を引かれるべきものではなく、黒人の生活の中に存在する、数多の音楽的要素のうちのひとつに過ぎないのではないか。いまだ続く壇上の説教に意識を戻しながらも、私はそんなとりとめのないことを考え始めていた。
 もちろん、たまたま訪れることとなったこの教会の日曜礼拝も、また一例に過ぎず、他のそれぞれの場所には、それぞれのスタイル・雰囲気の礼拝があるのだろう。そしてそこには、また別の、音の在り方が伴うはずである。それゆえに、可能な限り、他の地域の黒人教会にも足を運んでみることで、新たな考察を導き出せたなら、ということを強く感じた次第であった。

2007年3月30日 


奥泉直人「アメリカ旅行記―サマセットプレイスとウィルミントン―」(2007)
2007年3月7日からのアメリカ研修旅行は、私にとっては初めての海外旅行であった。それ故に感じたことは多々ある。書きたいことも色々であるが、今回書くのはサマセットプレイスと、ウィルミントン市を訪れた時の旅行記に留めておきたい。

【サマセットプレイス】  3月13日 この日、私たちはノースキャロライナ州クレズウェルにある史跡、サマセットプレイスへ向かった。
 サマセットプレイスは、2005年度のゼミで『奴隷制の記憶−サマセットへの里帰り−』を通読したことにより、私にとっては馴染みのある唯一の奴隷プランテーションである。
 私たちの滞在していたチャペルヒルのグランビルタワーズから先生の運転する車で三時間余り。サマセットプレイスへの入り口、スプルール橋が見えてきた。「ついに来た!」という感動で私の胸は躍った。この橋の向こうはコリンズ一家が所有していたあのサマセットプレイスという奴隷制プランテーションである。

  (↑写真:スカパノーン川とスプルール橋  撮影者:太田)

 私たちは橋の手前で車を降り、橋と川をじっくり眺めることにした。私はドキドキしながら橋の架かるスカパノーン川をのぞき込んだ。その川は淀んでいた。流れもほとんど確認できないくらいで川と言うより小さな沼のようだった。これから向かう場所が、どこかの景勝地やテーマパークではなく、あくまでも奴隷制プランテーションであるということを、この川の淀みが示唆していると私は勝手に思いこんだ。 ともかく、私たちはこの川を越えサマセットプレイスに入っていった。
 しばらくすると景色が突然ひらけ、広大な大地の中 サマセットの居住地域へと続く長い並木道が現れた。並木の外側には用水路があり、その向こうには緑の大地である。鹿が一頭、並木の向こうの平原を駆けていた。渡米して以来幾度も感じた「アメリカの広さ」をこの瞬間にも感じた。なんと気持ちのいい景色だろうか。緑の平原に飛び出していきたいという衝動に駆られ、用水路に飛び込んでしまう人がいても不思議ではない。ちなみに私は飛び込みはしなかった。

(↑写真:並木と掘りのある道 撮影者:奥泉)

 この場所で私は巨大な松ぼっくりのようなものを拾った。日本で見る松ぼっくりの6倍はあろうかという大きさ! やはりアメリカはスケールが違うのだ。並木道を居住地域まで走る間、用水路と並木を何となく眺めていた。こんなにも長い用水路を奴隷であった人達は掘り進んだのだ。多くの人が過労であったり、病気に倒れたりで命をおとした場所だ。今のような美しい景色の背後には、奴隷制という制度化された人種差別に基づいた過酷な労働があったのだ。しかし、この時の私は目の前を行く鹿の姿や緑 の平原に目を奪われていた。
居住区画に着くと史跡のディレクターをしているドロシーさんが気持ちよく出迎えてくれた。とても楽しい人だった。ドロシーさんとの挨拶をすませると私たちはヴィジタールームへ行き、職員の女性にサマセットプレイスの建物を案内してもらった。職員の女性に続き、奴隷小屋 病院(医療小屋) 燻製小屋 調理小屋 主人の邸宅を見学したのだ。奴隷小屋のなかは一部屋しかなく、部屋の両隅に気と藁で作った簡単なベッドが2つずつおいてあり、部屋の真ん中には木のテーブルがあった。テーブルには大きな木の実をくり抜いて作った皿や木の枝で作った歯ブラシなどが置いてあった。部屋を見渡す限り、ほとんどの家具が木を材料としたハンドメイドのものである。奴隷の人達は家具や日常品も満足に与えられていなかったのだろうか。木製の家具に混じって木と木の実で作られたマラカスと太鼓のような楽器がベッドに置かれていた。この楽器に奴隷の人達の強さを感じた。足りないものは身近で調達できる材料から作り上げてしまう。楽器などチョットした楽しみも例外ではなく、こうして作り出して彼らは生きてきたのだろう。そんな奴隷の人達のたくましさを見た気がした。
 一方、主人の館は奴隷小屋とはまるで違っていた。いくつもの部屋、豪華な家具 高いベッド 大きな鏡などなど。必要以上のものが詰め込まれていた。同じ敷地内で、こんなにも違う生活が存在していたことが奇妙な感じに思われた。実際に奴隷小屋と主人の館は数十メートルも離れていない。距離的にはこんなにも近いのに・・・そう思いつつ、主人の邸宅にあるコリンズ氏の歴代肖像を眺めた。
 病院(医療小屋)では、骨折の手当の疑似体験をする機会に恵まれた。ベッドに寝転がりスネというか脹ら脛の部分というか、膝下を木のギブスで固定してもらったのだが、まるでフィット感がなかった。コレで大丈夫なのか不安になる作りだったが、職員の女性は このまま2週間ほど寝て休養するのよ といっていた。2週間は短すぎるような気がしたが奴隷が休ませてもらえる時間は、ホントにその程度だったのかもしれない。
 
(↑写真:骨折の手当の模擬体験  撮影者:太田)

 調理小屋では、ワッフルを焼く(?)鉄板を持ってみた。7sほどあったのではないだろうか、想像以上に重いことに驚いた。調理小屋の反対側は洗濯場の様だった。そこには暖炉の前にアイロンと石けんが置かれていた。アイロンは暖炉で暖めて使ったそうだ。驚かされたのは石けんについてだ。なんと臭かった。持つと手にイヤな匂いが移った。豚の脂に何かを混ぜて作ったものだという。長い間ここに放置されていたため、賞味期限の切れたチーズのように臭ってしまったのだろうか。石けんがこんなに臭いということが妙におかしかった。
 サマッセットプレイスを一通り見学し終えて気づいたことは、ここは奴隷の人達が作ったものばかりだと言うことである。用水路、奴隷小屋等の建造物、果樹園、下水路、並木などなど。奴隷制が、白人にとっては便利な何でも屋のシステムであり、奴隷達にとってはいかに割の合わない労働システムだったかがサマセットに来て確認できた。
 案内ツアーの後、私たちはドロシーさんの手作りランチをご馳走になりサマセットを後にした。ランチの席で軽くおしゃべりをしようとするも、なかなか英語で自分の思っていることを表現できず、ただ食べることと相づちを打つことと笑顔しか満足に出来なかった。笑顔は満足でなかったかもしれない。帰りの車の中では奴隷制のことや、用水路に飛び込んだ友人のことよりも英会話のことが強く心に残っていた。「今度アメリカに来るときは英会話の練習をしてくるよ バイバイ、サマセット」サマセットの敷地から出るとき、そう心の中で呟いていた気がする。

【ウィルミントン】
 実際来てみると、ウィルミントン市は小さな町だった。 こぎれいな家が静かに建ち並ぶ穏やかな町。ヤァヤァシスターズの舞台の南部の町。ブルーベルベッドの撮影に使われた、ちょっぴりミステリアスな町。そして、白い肌の黒人アレックス・マンリーが命をねらわれた暴動の町。私たちは、ウィルミントン暴動のキーパーソン、アレックス・マンリーの妻 キャリーの手紙を求めてこの町にやってきた。
3月16日 高橋君が私たちより一足先に帰国したその翌日である。この日は強い雨の降るとても寒い日だった。ウィルミントン市に着くまでにはいくつかのトラブルがあった。まずは朝の出来事から書いていきたい。8時半にグランビルタワーズを出た私たちは、パソコンのあるUNCのデイビスライブラリーへ高橋君からの帰国を告げるメールの確認に向かった。高橋君は無事帰国していた。メールの確認と返信を済ませ、9時の約束で先生と待ち合わせをしたグランビルタワーズの前に戻ろうとするが、雨と近道をしようとして迷ったために遅れてしまった。これが初めのトラブルで時間のロスはおよそ20分であった。次のトラブルは高速道路を快調に走っているときに発生した。不快な音が車体の下から鳴り始め、停車してみると左の後輪タイヤに10p前後の針金というか釘のようなものが刺さっていた。タイヤの側面に突き刺さったその物体に不条理さを感じた。何故側面に!何なのこれは。雨の中「クギ」を抜こうと試みるが、引っ張ると空気が漏れる音がするため、仕方なく「クギ」付きでドライブをすることになった。この騒動で15分ほど時間をロスした。さらにこの日は強い雨と寒さのため車窓が曇り運転は非常に困難な様子であった。このようなトラブルを通り抜け私たちは、ウィルミントン市へ、アレックスとキャリーの物語の舞台へとやってきたのである。グランビルタワーズからの走行時間は2時間以上であった。

(↑写真:ウィルミントン市で食事場所を探す  撮影者:百瀬)

 ウィルミントン市に着き、すぐ昼食をとると、私たちはどこかのストリートにあるはずのアレックス・マンリー記念看板を探した。看板を探す間に車から見た町並みは美しかった。色とりどりの家が建ち並び、玄関前や玄関の横にはポーチがあった。まさにイメージの中の南部の家々だ。映画ヤァヤァシスターズで見た、まさに南部の町。マンリーの看板は見付からず残念ではあったが、町並みを眺めることはとても楽しかった。もともと時間に余裕がなかったのに加え、朝のトラブルによるタイムロスがあったので私たちは看板探しをここで諦め、急いでケープフィア博物館に向うことにした。
 ケープフィア博物館はイメージより小さかった。南北戦争の写真の展示や兵士の服、野生動物のミニ知識展のようなもの、マイケル・ジョーダンの特集、電気ランプのスタンドなど雑多な展示物が揃えられていた。アレックス・マンリーについての展示もあった。この博物館こそ、キャリー・マンリーが息子達ミロ(マイロ)とルーウィンに送った手紙9通が保管されている場所なのである。
 学芸員さん(たぶんバーバラ L・ロウさんだと思う)に案内されてコピーではない「本物」の手紙と初対面したときは、何となく満足した気分になった。ゼミを通じて、2006年度づっと付き合ってきたキャリーの手紙がそこにあったのだ。

(↑キャリーの手紙と対面  撮影者:奥泉)

 先生はゼミの討論の際気になっていた「イソップクラブ?」を原文で確認し、正体を突き止めたかったらしい。しかし、イソップクラブについては、生の手紙を見てもよくわからず、学芸員さんもよくわからないと言っていた(と思う)。 その後、博物館のスッタフルームや公開されていない倉庫を見せてもらい学芸員さんと別れた。
 博物館を出ると雨は上がっていた。
 ここがあのウィルミントン 1898年に「白い革命」が起こったウィルミントン。今はこんなにも穏やかに見えるこの町。私たちはこの町で暴動が起こったことを知っている。そして、その歴史の史料を追ってやってきた。私たちは日本からこの地へやってきた、それも歴史という過去を訪ねるようにやってきたトラベラーであった。そう考えてチョット楽しい充実感を味わった。
 そういえば、この町のどこかに映画「ブルーベルベット」の舞台となった場所があるはずであった。デニス・ホッパーが狂気の怪演をみせた「リンカーン通り」があるはずなのだ。ケープフィア博物館の学芸委員さんもこの町がブルーベルベットの舞台だと言っていた。 とても気になったが 探している時間はなかった。帰りの車の中で私は、マンリーの看板と同じくらい「リンカーン通り」に名残を感じていた。「今度アメリカに来るときは きっと訪ねようリンカーンストリート」そう思った。
 ちなみにサマセットに言った日に拾ったあの巨大松ぼっくりとは この日お別れをした。この日までは車の後部座席に飾っていたというか放置していたのだが、この日別れる決心をした。誰にも内緒でこっそりと。

このまま話をやめないでいたら、夜が明けてしまいますね。ですからお休みを言うことにしましょう。


太田 圭「サマセットを訪れて」(2004)
 まず、私は「百聞は一見にしかず」を実感した。コリンズ一家のプランテーションが大きなプランテーションであるということを 、『奴隷制の記憶−サマセットへの里帰り−』(彩流社、2002年)で読み、頭ではわかっているつもりであった。しかし、かつてコリンズのプランテーションであった土地が、これほども広大な土地であったなんて思ってもみなかった。東京のごみごみした下町で育った私には想像もできないくらい広い場所だ。見渡す限りに広がるその土地には、キラキラ輝く運河の水面と黄緑色の大地があり、澄んだ水色の空がどこまでも広がっていた。本当にきれいな絵本に出てくるような場所であった。



 しかし、確かにそこには、かつて奴隷制が存在していたのだ。主人のコリンズ一家の邸宅や奴隷たちの居住地域(slave quarters) の建物は、私を現実に引き戻した。コリンズ一家は比較的奴隷に寛容であったそうであるが、やはり白人と黒人は「同じ」ではなかった。奴隷と所有者の境界線がはっきりと引かれていたことに違いはなかった。主人の邸宅と奴隷たちの小屋は天と地の差ほど違っていた。奴隷たちは狭いスペースに複数の家族が一緒に生活していたそうだ。その上、部屋はワンルームで、寝室も居間も何も全てをそのワンルームが兼用していたのだ。



 また冒頭で紹介した、キラキラ光る水面がきれいだったあの運河は奴隷たちが掘ったものであった。広大なサマセットの土地に張り巡らされた何kmにも及ぶ運河を、奴隷たちはその手で掘り進めて行ったのである。現在のようにショベルカーがあるわけではない。私たちには到底想像もつかないような気の遠くなるような作業であったであろう。



 特に私をとらえたのは、屋敷に住み込みで働いていた自由黒人シャーロット・カバーラスの部屋である。子供部屋のある2階の階段横の狭いスペースが彼女の部屋であった。無理やりつくったようなスペースである。低く傾斜した天井のその部屋は、しゃがまなければ、部屋に入ることも出来ない。部屋に入っても、油断すると天井に頭をぶつけてしまう。彼女は奴隷ではない。自由の身なのだ。彼女の身分は「自由黒人」である。しかし、黒人であることに変わりはない。黒人は白人にはなれなかった。いくら、屋敷に住むことを許されていようとも、「白人」との間には境界線がはっきりと引かれているのである。



 奴隷たちの小屋の中のベッドにぽつんと奴隷の子供たちが使っていたという人形のレプリカが置かれていた。その人形は奴隷たちの苦悩や喜びを体現しているようであった。その人形には足がなかった。でも顔は笑っていた。奴隷たちは自由ではなくとも、日々の生活を楽しもうとする工夫が色んな場所で見られた。足のない人形は、「たとえ自由になる日が遠くとも笑っていればいつか救われる。」と言っているようだった。



高橋洋子「サマセット訪問の感想」(2004)
 サマセットはノースキャロライナ州クレズウェルの湿地帯にある。広大な土地の中に白い「大きな屋敷」と小さな建物群が佇んでいて、それらの建物に面したところに湖があり、またそれらを囲むように用水路と並木道が走っている。あとは地平線まで畑と草原が広がっているだけだった。プランテーションは私が想像していたよりもずっと広大なところだった。草原はぬかるんでおり、いたるところに水たまりがあった。水はけの悪い土地であるために設けられた何本もの用水路は、全て奴隷の手によって掘られたものだそうだ。サマセットに来る途中車で通ってきた並木道があったのだが、その木々も奴隷が植えたものだという。並木道の距離は正確には曖昧だが、十数キロはくだらなかったように思う。
 サマセットでは、奴隷制時代に奴隷所有者の家族が住んでいた「大きな屋敷」と奴隷達が暮らした「奴隷小屋」、燻製小屋などがほぼ当時のまま保存されており、係りの女性に案内してもらって見学することができた。
 私達が見せてもらった家内奴隷の出入りしていたという「台所」兼「洗濯小屋」の建物には、暖炉と鉄製のアイロンがあった。アイロンの大きさは大中小さまざまだったが、一番小さいものでも持ち上げるのに重くて気合が要った。アイロンを温めるためには、赤く熱せられた石炭を暖炉からすくって、アイロンを据える三脚台のようなものの下に入れなければならないのだが、これはとても危険な作業だったそうだ。他に木製の食器や、ベッドなども見せてもらった。ベッドには簡単なつくりの人形が転がっていたのだが、その人形には足がなかった。「台所」兼「洗濯小屋」の建物から少し歩いたところに燻製小屋がある。小屋には太陽の光があまり入らないものの、通気性が良くなるよう工夫された小さな窓があった。壁には断熱材が使われているので、冷蔵庫の役目を果たすそうだ。ある時はここで150頭の豚を殺して塩漬けにしたそうである。燻製小屋は「大きな屋敷」のすぐ裏手に位置していた。
 「大きな屋敷」には、奴隷所有者が使う正面玄関と、奴隷達が使う裏口の二つの出入り口があった。家内奴隷が料理をする「台所」は「大きな屋敷」の外にあり、そこは裏口のすぐ近くだった。裏口から「大きな屋敷」に入ると、給仕が仕度する小部屋があり、そこから料理が食堂へ運ばれた。
 一方、正面玄関の前には用水路が流れている。奴隷制当時はこれを使って荷物を運んだそうだ。この玄関から中に入ると部屋が20ちかくあり、どれも高級感溢れるつくりになっている。インテリアなど本当に細かいところまで豪華で、ここが裕福なプランテーションであったことをうかがわせた。

 サマセットのプランテーションに実際行ってみてわかったことは、奴隷所有者の生活と奴隷の生活が完全に区切られていたことだった。「大きな屋敷」の入り口が人種によって区別されているだけでなく、家内奴隷が主人のために料理をする「台所」までもが「大きな屋敷」の外に造られている。私には、奴隷制時代に奴隷所有者と奴隷の間に引かれた境界線の延長線上に、奴隷制廃止後の黒人差別が存在しているように思われた。南北戦争直後に廃止されたのは奴隷制という制度だけであって、白人社会における黒人意識は、その後長い間、奴隷に対する意識とそう変わらなかったのではないだろうか。





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