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メキシコ便り
このページではメキシコに留学中のゼミ生(木村)からゼミの仲間に送られて来た「メキシコ便り」を紹介しています。
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メキシコ便り1(6月11日)
 みなさま、こんにちは。いかかおすごしでしょうか。私がメキシコに来て10日以上経過しました。私は、いまだにこちらの空気や新しい生活になれない状況であります。今回は「メキシコ便り1」ということで私のメキシコでの新生活について話していこうと思います。本来ならばブログ等でやるべきなのかもしれませんが、私にとってあーゆうのは面倒なのでメールにて失礼させていただきます。
 私、初日から今日までパンチを食らい続けているといった状況であります。さすが「中南米の猛者メキシコ」と感じざるを得ません。服は破ける、腹は三日で壊す、言葉はまるっきしわからない、バスや車の運転は荒い、そんな状況でありますので、少し胃が痛い。まあしかし、今は体力を回復し元気になってきています。
 大学のサマープログラムも始まりました。これはスペイン語の会話や文法などの授業をまず午前中に受け、その後11時からはおのおのが、メキシコや中南米について知りたい、教えてもらいたいことについて、外国人用の授業を自由に取るというプログラムになっています。私はスペイン語の授業においては中級に在籍しています。しかし、私を除く4人はみなアメリカ人、彼らは英語でお互いにしゃべっていて、私やや浮いています。彼らにとってスペイン語のリスニングや会話は簡単で、結構すんなりできる。そういうものなので、私完全にクラスで劣等性になっています。文法においては結構ついていけるのですが。まあそのうち追いつけるようにしていきたいと思います。クラスの先生が優しいので一人だけ取り残されることは少なく、わかるまで私のために説明してもらっています。その間、ほかの方は非常に眠そうにしていて、なんとなく腹が立つので、わざと「わからない」といい続けてやろうかと思うこともあります。
 午後は14時からは「闘争と変換」という、簡単なスペイン語による授業を受けております。この「闘争と変換」という授業はメキシコの現代史の授業みたいなもので、受講者は私ともう一人、一緒に来た日本人で、二人!というきわめてプライベートレッスン的なものとなっております。しかし、この授業大変ためになる。なぜなら、日本ではほとんど教えてくれないであろうメキシコの現代政治史(1960年〜)をおしえてくれるため、メキシコの今にいたる変遷というものを知ることができます。また、私にとって正規の歴史の授業をとる前の模擬授業的な役割も果たしてくれています。
 水曜日には午後の授業がなく、大学の小さなバスに乗ってメキシコシティツアーにいきます。しかし、このツアー、先生の説明が英語とスペイン語半々。スペイン語はかろうじてわかるものの英語はまるっきしわかりません。この前は国立博物館を見に行ったのですが、やはりわからない。ですから、家に帰った後、本を読んで何とか理解を深めようとしています。
 さて、皆さん気になっているM君についてです。こちらメキシコでは本当にたくさんのM君に出くわします。大学内、道。そして、国立博物館にいたっては大きなM君がドカンと部屋の真ん中にいて、周りの公園でもたくさんのM君が大小売られております。(一つ六百円〜千円)「そんなに俺の前に現れなくていいから、ちゃんと授業に出なさい」と常々彼に言っています。
 新しい生活、今は少し寂しい時期で精神的につらい時期でもありますが、がんばっていきたいと思います。次回がいつになるかはわかりませんが、そのときはもう少し歴史に関わったお話やメキシコという町の風景、ここに住む人々について書けたらいいなと思います。
メキシコ現地時間2006年6月11日(日) 午後9時


短い便り(7月5日)
こんにちは、皆様いかがお過ごしでしょうか。私は疲れながらも何とかやってます。そちらもがんばってください。
 写真が送れるか試すついでにメールさせていただきます。ちなみに写真は友達の誕生日パーティーに参加したときに仲良くなった人たちと撮った写真です。この人たち普段働いているので、ほとんど(というか二度と)会う機会がありません。

来週末から休みに入るので少しメキシコを知るための一人旅行をしようと思っています。期間は、こちらの時間で7月16日の夜中か17日の朝から一週間で24日までです。まだホテルもバスも予約は取っていませんが、日曜日にそれらの予約を済ませるつもりです。上期の期間に予約が取れなかったら次の週にしようと思っています。メキシコシティからバスで8時間くらいのサカテカスと5時間くらいのグアナファトという小規模な都市です。皆様におかれましては、ゼミ合宿が北海道に決定というのを聞きました。うらやましい限りです。勉強いっぱい、観光も多少という感じでがんばってください。
 メキシコ便り2を7月中旬にも送りたいのですが、話したいことがいっぱいできたので、何が一番読んで苦ではなさそうか、または「これだったらまだマシだろう」というのを選んでみてください。
1.メキシコの交通とメキシコ人の習慣について
2.メキシコ人の求める歴史的アイデンティティ
3.1968年のメキシコ学生運動と虐殺、そして今、2006年選挙
4.単なる私の日記皆様と同じように私も来週テストです。がんばります。そのため、今回はメキシコ便りではなく短めに終わらせていただきます。


メキシコ便り2(7月13日)
 皆さんお元気ですか。早くも私、夏休みの特別外国人用授業を乗り越えました。「君はほんとにスペイン語が上達したね」なんて先生たちに言われていますが、自分ではまだまだ簡単なスペイン語しかしゃべれないと思っています。飯にもなれ、交通機関もだいぶ使いこなせるようになり、百瀬君のことも最近は無視するようにし、三週間の夏休み中には一人小旅行をするなんていう馬鹿な計画もしております。というか実行します。サカテカスとグアナファトというメキシコ革命の戦闘が行われた中心地区です。そして、皆様が北海道に行くころには私すでに次のセメスターの授業を受けるという普段よりもハードなスケジュールです。家においても新しい仲間が次のセメスターから加わる予定で、私ともう一人の日本人、それに加えてメキシコ人二人、アメリカ人一人、全部男!という非常にむさいホームステイとなっていきます。いい夏休みを迎えるために、皆様がんばって試験を乗り越えてください。
 さて、今日は少しでも歴史のお話をしようとネタを用意しました。前にゼミのメールにもネタ表を送りましたが、もう学校のパソコンも夏休みに入るので、勝手に自分で選んでかきます。さて選んでテーマは、「1968年学生運動と虐殺、そして2006年選挙」です。
なぜこれを選んだかというと、授業でこれを学んだのですが、あまりに強烈な出来事であったことと、メキシコ大統領選挙がタイムリーで行われていたことが重なっているからです。でも別に論文でもなんでもないのであまり細かいこと気にしないでください。
 メキシコでは、1920年代以降PRI(制度的革命党)の一党独裁体制が続いていました。1960年代、アメリカの公民権運動やベトナム反戦運動のあおりを受け世界中で学生運動が活発化しましたが、ここメキシコでもその学生運動が行われます。メキシコの場合は、PRIの一党独裁に反対し自由を求め革命を起こそうという運動です。また、この運動の背景には68年メキシコオリンピックも関係しています。オリンピック開催にはとにかくお金が必要で、学生たちは「なぜ貧困を都市や農村に抱えているのにオリンピックを開催するのか」という不満を持っていたのです。また、この不満の内容が表すように、「都市の民も農民も、国民全員の生活水準を上げるように富を分配すべき」という社会主義的な側面を持つ運動でもありました。「社会主義」、「革命」、「中南米」ときたら、思いつくのはチェ・ゲバラです。この運動への参加者の多く人がチェ・ゲバラを崇拝していたといわれます。
 しかし、政府はこの運動を強制的に止める手段に出ます。それが1968年10月2日の「トラテロルコの虐殺(Masacre de Tlatelolco)」です。アステカ時代のトラテロルコ遺跡、16世紀建造のサンティアゴ教会、それを囲むようにたっている現代的な高層団地があり、トラテロルコ三文化広場と呼ばれるこの場所に学生たちは集会を開くために集まります。一万人近くの学生たちが集まり、集会が終わりに近づくころには警察とPRIを支持する武装集団が広場を囲んでいました。また、政府は、学生たちの外との連絡を絶つため、昼間から団地などの電気、電話の回線を遮断しました。これにより誰も学生たちに政府の虐殺計画を学生たちに伝えることができなくなりました。夕方七時ごろ、集会が終わると警察と武装集団は機関銃、ヘリコプターを使い次々に学生たちに発砲しました。学生たちは逃げようにも周りを完璧に囲まれているため、逃げることができませんでした。そして、逃げ場を失った学生たちは団地などに逃げ込み、そこに住む家族にかくまうなどしてもらいます。同日深夜、政府は電気、電話を回復させ、学生たちが、攻撃が終わったと思って出てくるように誘導します。そして、出てきたところをさらに銃撃しました。そして、警察と武装集団は団地の家々にがさ入れを入れ始め、学生を殺す、あるいはいたぶった上で逮捕、ひどい場合にはかくまった家族までも殺しました。結果、400人の死傷者、1000人の逮捕者が出ました。
 政府のこの強硬手段に驚嘆した学生たちにもはや運動を続けるという考えはありませんでした。アメリカや日本では弾圧はあっても学生運動は途絶えることはありませんでしたが、ここメキシコではこの虐殺以降完全に学生運動はなくなります。それだけ政府の攻撃が強烈だったのです。
 政府がこのような強硬手段に出たことから、政府・PRIは自分たちの体制を否定し、それを崩そうとする学生たちの運動が怖かったと言う事ができます。政府は常に自分たちの体制を否定する団体や運動を同じように警察や軍隊を送り、つぶしました。そうすることで自分たちの体制を守り、学生やほかの運動者たちが見つめようとした問題を無視し続けました。しかし、メキシコ市民は声を上げなくとも、その政治体制に不満を抱き、政府の暴力に怒りを抱きながらその出来事を記憶し続けていました。それは、2006年の今回の選挙でPRIがPAN・PRDについで第3党に回っていることからいえます。
 学生たちが訴え、PRI政府が無視し続けた問題は今も残り、都市のメスティーソの中にはいまだに貧困層も多く、イベロの学生のような白人は外車を乗り回し、親の金で遊びたいほうだいするというようなひどい格差が生じています。そして、農民はいまだに自分の土地を持たないような人もいますし、先住民たちの中には政府に意見を聞いてもらえず、貧困を余儀なくされている人々もいます。農民や先住民の問題はサパティスタとの闘争によって1990年代にまたもや表面化します。こういったPRIの作った課題をこれから与党になっていく政党が解決していかなければいけません。
 てなことで、この虐殺事件を扱った映画・ビデオを紹介します。『Rojo Amanecer(赤い夜明け)』です。日本にあるかどうかわかりませんがね。えー、非常にバイオレンスな感じで終わる映画でございますが、フィクションであっても非常によくこの虐殺事件を再現しているとのことです。深泉君、興味と暇があったら探してみてね。暇がなかったら探したり、見たりするんじゃないですよ。がんばってお勉強しなさい。長くなってすいませんね、むらた君、ねるな!村田君いじりをしたところで、それでは皆様、また今度!


メキシコ便り3(7月25日)
 皆様こんにちは。夏休みに突入しましたか。私は八月から授業で、それが始まるとなかなか文が書けないと思いますし、旅行のことも時間がたつと忘れそうなので、今のうちに書いておきます。ということで今回は日記みたいなものです。
 以前お話したとおり、私は17日の深夜から24日の夕方まで旅行をしてまいりました。まず、17日深夜に夜行バスに乗り込みました。安い割には快適なバスで、ぐうぐう寝て8時間で最初の都市であるサカテカスに到着。現地時間18日の朝9時。そしてホテルに着くと、陽気なおっさんが「日本人か?」と尋ねてきたので、「そうだ」、というと「こんにちは!」と日本語で言ってきました。『地球の歩き方』に乗っているホテルなので日本人がよく来るみたいです。次の瞬間おっさんは「ち…」とどうしようもない下ネタを口走りました。ひどくしかっておきましたのでご安心ください。そんなしょうもないおっさんのいるホテルですが、そのホテルからの夜景は見事なもので、ライトアップされたカテドラルがテラスから見ることができ、私やほかの日本人旅行者、イスラエル人、メキシコ人、イギリス人などは毎晩そのテラスで飲んでおりました。皆さんとてもいい人でした。
 このサカテカスはコロニアル都市、要するに植民地時代にスペイン人によって作られたきれいな町です。スペイン人は自分たちの故郷を恋しく思い、そういった中世ヨーロッパを思い出させるような都市をメキシコ各地に造ったのです。また、植民地時代、ここの銀鉱山が栄え、スペイン人たちは巨万の富を得ることができたそうです。しかし、その労働力は先住民たちで、何十万という人が酷使され、鉱山の中で死んでいったそうです。今では、その鉱山は見学できるようになっています。はっきり言ってテーマパークみたいでした。トロッコで鉱山の内部へ、そして中はなんかスプラッシュマウンテンの通路みたいな…。ちょっと人の手を加えすぎている気がしました。
 サカテカスは私の研究テーマであるメキシコ革命の舞台にもなっており、鉱山近くに位置するブ−ファの丘をパンチョ・ビジャ率いる革命軍が占拠したことでも有名です。このブーファの丘に実際に立ってみると、なぜここを占拠したのかはっきりわかります。鉱山はおろか、サカテカスの町全体が見渡せます。サカテカスなど、ほかの都市もそうですが、メキシコの都市はほとんどが山に囲まれています。なので、政府軍が都市に入ろうとするものなら、すぐに見つけることができたのでしょう。このブーファの丘には、現在パンチョ・ビジャなど革命指導者の銅像があるほか、サカテカス占拠博物館というものもあり、そこでは革命当時の写真や武器、新聞が展示されており、非常に興味深いものでした。
 19日はサカテカス郊外ツアーに参加。「ラ・ケマダ」という前植民地時代の遺跡はマイナーですが、非常に見事で、山肌に作られたいくつものピラミッドが神秘的でした。
 20日にグアナファトに移動し、今度はうって変わって非常に落ち着いたホテルに滞在。と思いきや、メキシコ北部のコワウィラから来たという学生さんたちも滞在しており、非常ににぎやかでした。彼らは日本人が珍しいらしく、「一緒に写真をとっていいか?」、「Ayumi Hamazakiを知っているか?」、などと質問攻めしてきます。夜十時を回ると、「飲みにいくか?」などといってきましたが、着いて初日だったので、「いや、俺今日疲れているから」と断りました。断った理由はほかにもあって、彼らは明らかに高校生。若さについていけなそうな気がしたので…。次の夜は「Estudiantina」という楽団に付いていき、美しく、また、楽しい歌声を聴きながら、きれいな夜の街を回りました。グアナファトはサカテカスと同じく、コロニアル都市で、町全体が世界文化遺産として保護され、中世にタイムスリップしたかのような町並みが今でも残っています。夜歩き回っていると、何日でも滞在したくなるようなきれいな町です。バシリカ、その他多くの教会が残されており、それらはサカテカスと同じように銀鉱山で栄えたスペイン人たちが、金を費やしたものであるため、荘厳な祭壇やキリスト像、たくさんの宗教画で飾られていました。
 さて、なぜこの都市を選んだか。もちろんきれいな町並みを見たかったというのもありますが、この町には教会と宗教画が数多く残されている、宗教色の濃い町です。私の研究テーマであるクリステーロスの乱もこの都市と大きく関係しています。もちろんこの都市から乱へ参加した人もいるのですが、それ以上に大切なことは、この都市から24キロ郊外に行ったところにある「クビレテの丘」において、キリストを王とする戴冠の儀式とそれを示すキリスト像を作るというできことが革命中に起こったのです。これは、カトリック教会の権力を取り除こうとする政府へのあてつけとして一人の司教が中心となって行ったものですが、その後この司教はメキシコ国外へ追放され、多くのカトリック教徒がそれに反発し、クリステーロスの乱が各地で勃発し始めました。私はこのクビレテの丘に行くため、またもやツアーに参加。ガイドさんの話だと、クビレテの丘はメキシコ地理上の中心地で、南からも北からもみなが平等に来れるように司教がこの地にキリスト像を作ることを決めたんだそうです。しかし、実際に人がたくさん来るかというとそういう訳ではありません。このクビレテの丘はグアナファトよりも一キロ近く標高が高く道も整備されておらず、また来るための公共交通手段がないため、来るのが困難だからです。今建っているキリスト戴冠像は1950年代に立てられ、24メートルあるそうです。昔はもっと小さかったそうです。革命中の1920年代に作られたものが最初で、何メートルかは忘れましたがそれほどでかくなかったと思います。
 この地に実際に来てみての感想はとにかく絶景。王なるキリストがメキシコ全体を見渡しているかのようです。そう人々に思わせるために、地理上の中心地に作ったのが本当の理由のような気がします。そして、そのキリスト像の下でひざをつき、祈っている人々、中には泣いている人もいました。そういった光景を見ると、カトリック教会へしたメキシコ革命政府の改革が如何に人々にとって許しがたいものだったか。なんとなくですが、理解できました。
 さて、旅全体の感想をいうと、非常にいい旅でした。ドミトリーに泊まったおかげで、いろんな人に出会うことができましたし、ツアーの中でも優しい家族に出会え、いろんな人と情報交換ができました。また日本人にも会いましたが、彼らの中にはスペイン語も英語もしゃべれない人がいました。青森から着たバックパッカーの人で、「ホームレスにここで寝ていいか聞いてから、路上で寝たことがあるんだわー」といっていたのにはとても驚かされました。日本人はある意味、生活力があるなと感心しました。みなさんも日本国内でいいから一人旅をしてみてはいかがでしょうか。いろんな人に出会うことができると思います。
 また長くなってしまいました。申し訳ありません。メキシコは毎日マイペースに晴れてはスコール、などという天候を繰り返しております。私もマイペースに腹を壊しております。もう絶対に屋台で豚肉は食わないと心に誓います。私のルームメイトは8月からアメリカ人になるようです。いろんな話が聞けるといいです。
現地時間7月25日

写真は「ラ・ケマダ」


メキシコ便り4(9月10日)
 皆様お元気でしょうか。お久しぶりです。ペペでございます。これについては後で触れますのでご心配なく。今回はまず、新しいセメスターがはじまってからの私の生活と、それに伴いできた愉快な仲間たちをご紹介いたします。
 私は自分自身のスペイン語の未熟さを感じ、正気授業を今セメスターでは一つしかとりませんでした。もう少し取れたのではないかと、少し後悔していまし、回りの生徒さんと比べると私はずいぶん授業が少ないきがします。まあいまさらいってもしょうがないので次セメスターは最低でも正規上を三つは取れるように、今セメスターはスペイン語の上達を目指します。午前中は毎日スペイン語の授業。これはレベルが夏から上がったので、とても難しい。私は夏に引き続き、このクラスの中でも劣等性です。月曜と水曜は「ラテンアメリカの文学」という外国人用の授業を午後(一時から三時)にとっています。いろんな文、ポエム、中には時代記なんかも読めて、興味深い授業です。火曜と木曜は11時から13時まで正規授業の「メキシコ国史V」をとっております。この授業、私にとって一番のカルチャーショックでございます。まず、宿題の量がメキシコ人生徒も驚く量。本のコピーを毎週木曜日に出されて(だいたい40−60ページ)、それについてのレジュメと考察を作って、次の木曜日に提出しなければなりません。まあこれは前から聞いていた話なのでいいんですが、授業のやり方がすごい。木曜に出された宿題を火曜までに読み、それについてみんなでディスカッションするんです。それもものすごい速さで…。ぜんぜんついていけません。先生もものすごいエネルギッシュ。身振り手振りで授業します。先生の質問に答えられない子も中にはいて、女の子で別の学部から来てる子なんかはたまに涙ぐんでいます。私はこの授業で当然議論には参加できませんし、宿題も多少おおめに見てもらえますが、ただいるだけはいやですし、文を読む時間はあるので、毎週文の内容だけは押さえて授業に出て、レジュメも提出しています。(レジュメの内容や考察が適しているかは定かではありません。)たまに先生がわたしに発言のチャンスをくれますが、生徒さんがた、みんながんみするので、とても緊張します。火曜日にも宿題が出されることがあって、そうなると私はもうその週、死にかけです。(今週はたまたま火、水ともに宿題が出ませんでした。)この授業の内容は、ぴったり私の卒論テーマ「メキシコ革命とメキシコの近現代」です。ですから非常にこの授業には満足しています。
 金曜の午後は日本語をメキシコ人の友達に教えています(これも後で触れます)。  少し自分の時間というものが多い気はしますが、それでも忙しいことは忙しい。毎週結構疲れます。そして、外国人留学生サッカーチームに所属しました。まだプレイはしていませんがきっとぼろ負けすることでしょう。そしてスペイン語の歴史でよく使われる言葉も次々と覚えています。「revuelta(暴動・反乱)」、「monarquia(君主制)」、「Dictador(独裁者)」、「popo(う○ち)」など。まあマイペースに勉強し、暮らしています。
 さて、新しいセメスターが始まって、いろいろと愉快な仲間たちができました。まずは同居人たちをご紹介しましょう。ルームメイトはクリス君というアメリカ人です。いかついですが、非常に優しい、パーティー大好きな男です。留学生の中でリーダーみたいな存在になってきています。続いて、もう一人の日本人とルームシェアーしているホルヘ君。彼はメキシコ人で、親戚がこの家のおばさんと友達で、その紹介で同じ家に泊まっています。19歳と家の中で一番若く、飯をぜんぜん食わない。なのでとてもやせています。彼もとても優しいですが、[彼女馬鹿]です。続いてパブロ君というメキシコ人。物静かな190センチを越す巨人です。ロックをいつもがんがん聞いています。
 さて続いて大学内で出会った仲間を紹介しましょう。まずは夏からの友達で、留学生オフィス、アシスタント学生のオスカル君。彼はいろんなことに気が配れるすばらしい人で、留学生サッカーチームもこの人が作りました。以前パーティーに呼んでくれたのもこの人です。しかし、パーティー好き過ぎる。毎週必ず留学生を連れてどっかに行く。今度の金土日なんかは、「みんなでアカプルコ(メキシコシティから5〜6時間のところにあるリゾート)へ」とか言い出しました。断らせていただきました。さすがに三日間ずっと出かける時間はありません。この人、俺の名前をまったく発音できない。RYOと紙に書いて教えても「リュウ」と発音しやがる。何べん発音してもできないので、しまいには「呼びやすいあだ名をつけよう。何がいいかなー。」とかいいだしまして、
O:パコ
R:やだ
O:パンチョ
R:ビジャじゃないんだから
O:ペペ
R:(もうどれでもいいよ。)あー、あー、それ。
ということで彼は私がこのあだ名を気に入っていると思っているらしく、夏から私のことをペペと呼び続けています。そして彼の友達も私のことをそう呼んでいます。
 続いて、私の日本語の授業の生徒、フアン君です。彼は新セメスターが始まってから急に声をかけてきて、「メキシコ人の友達が欲しくないか」というので「そりゃ欲しいよ」と答えたところ、「日本語を教えてくれ」と。どうやら日本の漫画に興味を持って日本語を勉強したくなったそうです。彼は非常に勉強熱心で、サッカー好き。ですが日本語を覚えて、「あのこかわいい」とか「あの子どう思う?」とかそんなことばかり聞いてきます。何なんでしょうね。少し挙動不審ですしね。しかし、メキシコや戦争についていろんな考えを持っているすばらしい生徒さんです。
 ほかにもフアン君の紹介で知り合ったリュウ君という日本人を親に持つメキシコ人、ガブリエルという歴史科の友達などいろいろいますが今日はこのくらいにしておきます。
 ゼミの皆様はどうやら、もうすでに合宿を終えたようですね。M君、写真見ることができましたよ。ありがとう。相変わらず変態ですね。AくんアザラシはO君からもメールが来ましたが、携帯からすぐに削除させていただきました。似合いすぎて気持ち悪かったので。楽しそうで何よりでした。来年ぜひ一緒に行きましょう。一月に、授業で習ったことやそれで出された宿題から得た私の卒論(クリステーロスの乱)についての情報をレジュメにして送るつもりです。
 こちらはいまだにスコールを繰り返しております。おまけに朝は寒い。そして、私はこちらに来てから、三度目の下痢でこの土日まるっきし外に出ず、宿題ばかりやったので、この文を書くことができました。それでは皆様お元気でお過ごしください。次回は十月、メキシコの交通についてでもお話するつもりです。できなかったらごめんなさい。次の写真は、ソチミルコという公園です。船の上でパーティーをやりました。



メキシコ便り5(10月7日)
 皆様元気ですか。今週は一ヶ月ぶりに正規授業での宿題が出ず、思わぬ時間ができたので、これを書いています、木村です。一ヶ月に一回くらいそういう週があるといいリラックスになります。もう五ヶ月目に突入しました。早いものです。
 さて先日、先生から「歴史学のホームページを更新し、そこに木村君のコメントを載せたい」というメールをいただきまして、私一筆頼まれたわけであります。200字程度で、ということで書いてみましたが、200字とは結構難しいものですね。言いたいことがうまく言えなかった感じがします。まあ、しかし、私の自虐が200字の中から伝わってくる文になっております。以下に載せます。

文学部人文学科歴史学専攻 木村亮
私はただいまメキシコのイベロアメリカーナ大学というところで1年間の長期留学プログラムを経験している最中です。私は去年の春にスペインのバルセロナに1ヵ月の語学留学をしましたが、それ以外に海外滞在経験はありません。そのため、今年五月にメキシコに来て以来、戸惑いや失敗をたくさん経験しています。ですが、夏季休暇には一人旅に行き、今セメスターでは友達やホストファミリー、優しい先生方に支えられ、頑張っています。それでは、来年の五月元気な顔で皆さんにお会いしたいと思います。
メキシコシティーにて2006年10月5日

   ねー、明らかに人目を意識して硬くなってしまっています。また、名前はイニシャルでもフルネームでも言いといわれましたが、フルネームにしました。入学生用のページに載せるということですので、まあ名乗っても私の顔なんか知らないから、「メキシコにいる木村」くらいにしか認識しないでしょう。またイニシャルにしたって私の事を知っている人間はすぐに木村だってわかるでしょうしね。それでね、イニシャルにしたときのことを考えたときに、私の頭の中に浮かんだのは、N籐ゼミS籐君が「これ木村だ、木村!みろ、おくいずみ、みろ!イニシャルでもばればれだ。」何つって大笑いしている姿や、Oゼミのほっそい奴がパソコン指差して「これ木村ですよ。ばればれですよ!」って言っている姿です。そうなるくらいなるフルネームで載せてやろうと思ったわけです。ごめんなさい。一部の人にしかわからないネタで。そして、ネタにしてしまったお二方ごめんなさい。俺は相変わらずこんなんで。帰ったらタコスおごります。俺はネタにする人ほど好きですからね。この文を見るかどうか知りませんが。
 さて、長くなりましたが、ここからは前回言ったとおりメキシコの交通について話します。 まず、基本的な交通機関を全て紹介しましょう。電車類(メトロ、路面電車、長距離用国鉄)、バス(アウトブス、メトロブス、カミオン、ぺセロ)、タクシー(リブレ、シティオ)です。
 まず、メトロなどの電車。メトロはメキシコシティ内をたくさんの駅を作って結んでいます。これはどこに行くのも2ペソ(約20円)です。ただ定期券等はありません。国鉄はほとんど廃止されて、メキシコシティ内にあるのも使ったことないのでどこに行くんだか、どんなんだか、さっぱりわかりません。路面電車はメトロの延長みたいなものですが、メトロよりややのろく、これはソチミルコやアステカスタジアムなどの南部の一部へ行くために使われるものです。なので、主にメトロが市民の足となっています。メトロは危ないというイメージがありますが、気をつけていればなんてことはありません。メトロ内での痴漢が問題になっています。
 続いてバス。アウトブスは長距離用で、メキシコシティから出るために使われます。私が夏旅行に際し、利用したのがこれです。学割で半額になりました。デラックス、1等、2等、とあり、1等とデラックスは飛行機のエコノミークラスよりもよっぽど快適です。2等はトイレのドワが閉まらない等の問題が多少存在するくらいで、それほど悪いもんでもございません。メトロバスは名前のとおりメトロとメトロの駅を結ぶものです。これも普通のバスだと思っていいですが、行き先しか書いておらず、どこを通るんだかはわかりません。一回乗るのに、2,5ペソです。これもそんなに問題はありません。
 問題はカミオンとペセロです。ペセロというのはカミオンより少し小さいと言うだけですので、大して違いはありません。これらはメキシコシティ内を縦横無尽に走っており、バス停以外の場所でも手をあげてアピールし、乗ることができます。行く場所によって料金が違い、2,5から4,5ペソです。こいつらは非常に私的に中や外が作られていて、運転手の好きなCDやラジオがガンガンにかかっています。まあ面白いです。外の塗装も何でか知りませんが日本語で「大安売り」とでかでかと書かれている馬鹿みたいなバスもあり、面白い。しかし、運転は非常に荒く、頼りない。たまに道に迷う運転手もいます。そして、私はこちらについて、三週間くらいのときに、このカミオンから落ちました。以下その状況。
 バス停が近づき、降りる準備をし、ブザーを鳴らし降りるとアピール。前にいた客たちが降り、私の前にいたもう一人の日本人留学生が降り、私も降りようとした瞬間、バス発車。あわてていたので、「降ります!」と言えばいいものを、バスからジャンプ。着地に失敗。左足首に今でも残っている傷ができました。 まあ、自業自得といえば、そうなんですが、あまり客のことを考えた運転をしていません。そして、運転が荒いせいか、大体どのバスもへこみやひび割れが存在します。また朝などはたくさん人が乗るため、箱乗り状態になるときもあります。また、たまにボッタクリます。
 続いて、タクシー。シティオというタクシーは基本的に電話で呼ぶもので、安全のためにこれを利用する人は多いようです。リブレは個人タクシーです。カブトムシみたいな形をした緑色のタクシーがうじゃうじゃその辺は知っています。メキシコ人には安い市民の足となりますが、外国人はこのリブレにとって、ボッタクリ、強盗の対象です。私も一度どうしても夜遅くなって、これを使いましたがぼったくられてます。はじめに家に着くまで200ペソと言われました。これもかなり高いです。メキシコの物価からすれば。でもまあちょうど200ペソ持っていたので、まあいいか、と思い頼むと、家に着いた瞬間「アミーゴ、意外と遠かったから、250だ。」「おい、お前、俺200しかもってねーって言っただろ。」しばし、和やかな雰囲気で口論をしまして、「じゃあわかったATMでおろそうな。」といわれ、ATMのある場所(約2分)へ行きました。そしたら、「おいアミーゴここまでくるのともう一回家に帰るまでの金合わせて、50ペソ追加だから、300ペソ払ってくれ。」といわれ、もう議論すんのもめんどくさかったので、100ペソ引き出し、300ちょうど払いました。ただこれはまだいいほう。何時間もつれまわされた挙句、強盗にあったという旅行者にも実際にこっちで知り合っています。
 なので、皆様こちらに来たときは、カミオンおよびペセロとリブレのタクシーには注意してください。 長くなりまして、すいません。まあ国際交流課にある「地球の歩き方」をかっぱらってきて、読めばよりイメージが浮かぶと思います。
 そちらはもう寒くなってきたようですね。二年生もゼミに溶け込み、仲のよさそうな雰囲気になっているようですね。いいことです。MR君寝るな!
こちらは、朝夕は息が白くなるほど寒いですが、昼間はからっと暑いです。この気候にフランス人留学生はほぼ全滅です。私は、下痢が治り、スポーツをやり始めたせいか妙に元気です。
 次回はまた一ヵ月後予定しています。メキシコの食について、そして簡単なメキシコ料理の作り方をお教えします。では。
次の写真は上がグアナファトのカテドラル、下が国立人類博物館のMくん。






メキシコ便り6(11月18日)
 どうも、おはようございます。ただいま旅から帰ってまいりました、木村でございます。今月は二回も四連休がございましたので、一回目にコロニア都市ケレタロ(写真付けときます)、二回目(というか一昨日から)にオルメカ文明で有名なハラパへ留学生友達といってまいりました。こちらは、また次回写真を送りますが「怒るM」と題したオルメカ人の顔の石像が5体くらいありました。「おい、早く日本帰れよ」、と笑いこらえてたら、フランス人の女の子に「何で笑ってんの?」と聞かれて恥かきました。M責任取れ。
 今回は、私の冬休みの旅計画について、その後先生からの質問に答えるだけにさせていただきます。メキシコの食についてはまた今度。すんません。
 まず、冬休みは12月7日から始まります。私は九日から出発、主に南部へと旅をします。それでは一覧で。
9日出発
10日 ユカタン州メリダ
13日メリダからカンペチエ州カンペチエ
15日カンペチエから
   →1.チアパス州パレンケ→17日チアパス州 サンクリストバル・ラスカサス→19日出、20日着オアハカ州オアハカ、23日帰宅
→2.タバスコ州 ビジャ・エルモッサ→17日チアパス州パレンケ→19日チアパス州サンクリストバル・ラスカサス→22日出、23日帰宅
 なぜ、カンペチエからオプションが二つあるかというと、後で話しますが、オアハカが危険だから、いけないかもしれないんです。これはもう少し様子を見てから決めます。でも私としてはぜひオアハカに行きたい。
 さて、先生からの質問とは次のようなことでした。「選挙後の余波はどうですか。」続いていると答えたところ「なぜそうなっているのか。」といってものでした。
 7月の選挙で負けた極道左派PRDの党派支持者が激しく運動を起こしているわけです。勝利党派(極道右派)PANが「選挙で不正をした」、「選挙管理委員会とつるんで票をごまかした」、としてやり直しを求めているわけです。そして、ソカロを選挙したり、チャプルテペックという城がある公園内でテントを張って、その公園近くを通る道を封鎖したりしています。
 また、オアハカでは選挙前から、待遇改善を求める小中高の先生方によるデモが行われており、彼らは現職の極道右派PANから出た知事の解任を求めているわけです。最初はただの先生方のデモだったのですが、いつしかPRD支持者の活動と結びついて今やオアハカでは暴動になっています。
 そして、メキシコシティ内では、爆弾テロもありました。これが選挙と関係があるのかわかりませんが、選挙で第3党に回ったPRIが全て攻撃の対象でした。
 なぜ、こんな風になってしまったのか?まず、メキシコ人の心の中にある政治に対する猜疑心と情熱が原因の一つです。長年PRIという独裁制の中で言いたいことを大きな声で言えなかった市民たちは、今はそれが終わり言いたいことをいえるようになりました。しかし、その独裁政権の中で行われた腐敗、汚職はひどいもので政治家は何か必ず裏でしている、という心をメキシコ人の中に植え込んでしまったようです。そして、長年たまっていた鬱憤を晴らすかのように、今人々は声を上げ、情熱的に政治について議論をし、運動するようになったわけです。
 二つ目の原因として、選挙結果があげられるでしょう。PRDとPANの間はものすごい僅差でした。そのため、やり直せば勝てるかも、とPRDの支持者たち、およびPRDの候補者、指導者層は思っているわけです。
 私の意見では、選挙において不正はなかったのではないかと思います。というかまるっきし証拠がない。
 そして、自由であることはいいことだし、声を上げることができるのは民主主義の証拠だとは思いますが、大規模で党とつるんだデモやソカロの占拠やめろ。もともと渋滞しやすい町なのに、大渋滞じゃねーか。10月には「先生が渋滞でこれません」とか、「学校の送迎バスがあちこちで渋滞にはまり生徒が半分も来てません」なんつうことがありましたんでね。迷惑すぎです。
 ということで今回はこれまで。春合宿は沖縄ですか。いいですねー。えー。夏は涼しいとこいって、冬は暖かいところで。こっちは朝夕で温度差20度近くあるときもあって、四季がなんだかよくわかりません。
 写真はケレタロのほかに俺の生活がわかるようなものも載せときました。
明日から、最終レポート終わるようにこれから後二週間ちょっとがんばります。
11月18日土曜?日夜中1時

ケレタロの水道橋→
ホームステイ先の玄関→

住んでいる場所 ビスタエルモッサ↓


俺の使ってる部屋→

よく食いにくるタコス屋(激うま)↓




メキシコ便り7(2006年12月8日金曜日)
皆様お変わりありませんでしょうか?こんにちは、木村です。最初のセメスターが終わりました。何とか無事に乗り切れました。終わってみれば早いものです。それとともに悲しい別れがあります。ルームメイトなどのアメリカ人はほとんど今月帰ってしまう。せっかく友達になったメキシコ人は卒業してしまう。ほんとに悲しい。特に4ヶ月クラスをともにしたアメリカ人、そしてルームメイトとの別れはひときわ悲しいです。たぶん二度と会えないだろうし。今日が会う最後の夜です。私が明日旅に出るので。泣かないように注意します。
 さて、今回は、前回延期したメキシコの「食」について書きたいと思います。食の基本は、トルティージャです。これは、とうもろこしをつぶし、ねって生地状にしたものなんですが、メキシコ人はこれに何でも包んで食べます。米、スパゲッティ、芋、魚 のフライ等々。別に味は特別しないんですがね、食いなれると日本の米みたいに、ないと物足りなくなります。トルティージャで焼肉や鶏肉、鳥の頭、豚肉、ソーセージをタマネギやイモ、ノパレスと呼ばれる緑色のなんかネギみたいなものと一緒に包めば、屋台で出るタコスになります。これに、好みによって、屋台においてあるサルサベルデ(緑サルサ・中カラ)、サルサロハ(赤サルサ・激辛)、レモンをかけたり、なんかわかんないけど辛い野菜、フリホーレスというぬるぬるした豆をのせて食べます。 レストランのタコスは、形が整っていて、きれいに具が巻かれています。それに、チーズ、レタスなどが乗っていて非常に上品に整っています。トルティージャをからっと上げて、チリソースで合えれば、エンチラーダという料理に、タコスと同じ具で、チーズをトルティージャの間に挟み二つ折りにすれば、ケサリージャという料理になります。まあ、要するにトルティージャがとにかく何の料理でも中心なわけです。町の大衆食堂や市場の食堂に行って、鶏肉やなんかのセットを頼むと、トルティージャ食い放題で出てくることがほとんどです。 先ほどちょこっと言いましたフリホーレスも大事です。屋台で使われるのはフリホーレ スブランコといい、白い豆。家のおかずで出てくるのはたいてい、フリホーレスネグロというもので、これをつぶしてあんこみたいにした物です。これも最初は抵抗感がありましたが、食いなれると非常にうまい(もう一人の日本人はいまだに苦手らしい)。ほかには鶏肉がよく食べられています。これはとにかく安いからです。町の食堂に行けば、でかい鶏肉が300円以下で食べられます。
 サラダはあまり食べません。私の家の人は気を遣ってサラダを夕ご飯に出してくれますが、基本的には食わない人が多いようです。また、コーラの消費量が世界の中でもトップクラスだそうです。家の人いわく「コーラ飲んで、おやつ食って、サラダ食わないで。そういう生活をメキシコ人はするから、若いうちはそれをやっていてもやせてられるかもしないけど、習慣になっているからやめられず、年取ると太るんだよ。」とのこと。最近は健康志向で、コーラを飲まない人も増えているようですが。  こちらの人は朝を軽めに、食わない人もいますが、その後、2時ごろにガッツリ昼ごはん、夜は8時から9時頃にまあ日本人程度に食べるのが一般的です。
 ほかにも、地域によってまあいろいろありますが、そんなことよりも驚いたのは日本食についてです。これはこちらに来て予想外でした。ただいろんな店が日本食をやっているのではなく、一つ大きなチェーン店があるんです。その名も、「Sushi Itou」。しかも、その数が半端じゃない。大学のそばにひとつ、大学からバスで五分のところにも一つ、私の家の近くのデパートにも一つ。町を歩けばいたるところに見かけます。特にメキシコシティ内で。しかもお昼時には大繁盛しています。おまけにデリバリーもやっている。そして、この普及効果なのか、意外とメキシコ人の方々、箸を上手に使う。このお店は基本的に「巻き寿司」を提供しており、大勢のメキシコ人の方々が箸を器用に使っているのを見るとなんか面白いです。でも、コーヒーと一緒には間違っていると思います。茶を飲んでいる人もいますがね。
皆様どうでしょうか。メキシコの飯は辛いというイメージがあるかもしれませんが、ようは先ほど言った様なサルサをかけないようにし、からいものを頼まなければ、別に辛いものばっかりじゃありませんよ。味は確実に濃いですが。まあ、メキシコに来た際、あるいは私が帰った際にはトルティージャ料理を食べることができるでしょう。私今、ケサリージャを作る練習中でございます。(家族に今日少し教えてもらった。)楽しみにしといてください。激辛ケサリージャをお見舞いします。  それから、キャリーの手紙ご苦労様でした。一段落着いたようで。大変そうでしたね。俺の翻訳や調べ物は少しでも役に立ちましたか?(たぶん立ってない!)帰ったら出来栄え見せてくださいね。
 先日、ハラパという町の人類学博物館に行ってきました。そこにはもう、大量のMくんが。怒るM、笑うM、座るM、などと題され、もうバラエティー豊富に。最初のうちは、「お、こんなところにもいるのか。ゼミサボってまで大変だね。」などと理解してあげていた私ですが、途中から「もういつまで続くんだこの{Mと愉快な仲間たち}の展示は。」とやや不快感を覚えました。増殖するのは勝手ですが、ペースと数を考え、無理のないようにして欲しいものです。
 それでは、また。旅行帰りにでも。あ、歴史の授業の最終レポートは題が自由だったので、自分の研究テーマであるクリステーロスの乱についてやりました。横書きでしかもスペイン語で、最低6枚、これは結構長いですし、それを今まで読んだ授業の宿題で扱った関連項目と一緒にレジュメにして送りたいと思いますので、ちょっと時間がかかると思います。一月の最初には送るつもりです。んでは、二週間の旅行、十分注意して、けど楽しんで、酒飲んで、うまい飯食べて、でも貧乏旅行で、メキシコの歴史を見ながら、行ってきます!
 あ、写真久々に俺が写っているもの入れときました。数えてみましたらね、もう500枚以上写真とってるんですが、自分が写っているのは十枚くらいでした。友達の写真にはよく映っているらしいんですがね。それではまた。

ソチミルコの飲み会→
(船上パーティ・ちなみに私はタバコすってるんじゃなくて飴なめてるだけ。)

留学生サッカーチーム(全敗)↓


ハラパの滝で→

怒るM(ハラパ)→

クラスで(私右端)→


メキシコ便り8(2007年1月6日)
 後期セメスターが始まりました。木村です。皆様はお変わりありませんでしょうか。私の家は様子が変わり、アメリカ人のクリスが帰り、一緒に来た日本人がアパートに引っ越し、そして、オーストラリア人のイアンが新しく来ました。イアンはスペイン語をそれほど文法は知らないのですが、しゃべりたがりで、いい人で、お調子者で、屁こきです。
 今回は冬休みにした旅についてお話させていただきます。一回目の一人旅をした後、それから二回目の家族との旅行をしました。
 一回目の一人旅の期間は12月9日から23日まで。バスに乗っていた時間を計算すると50時間にもなる、「バスの旅」でした。9日に出発し、メリダという南部のユカタン半島の町まで20時間バスに揺られ、10日に到着。一日目はメリダ市内を観光、二日目はマヤ遺跡チチェンイッツアーを、三日目はプーク様式のピラミッド・建物のマヤ遺跡めぐり、四日目はフラミンゴの群れを見に、セレスツゥンという小さな港町へ。チチェンイッツーは遺跡はよかったんですが、人が多くてあまり好きになれず。でも、日本人で、同じようにメキシコ・グアナファト(夏に私が旅行したとこ)へ留学しに来ている学生さんとそこで出会い、話が弾んで食事に行ったのはいい思い出になりました。三日目のプーク様式遺跡めぐりはマニアックな遺跡もあり、あまり手が加えられていない遺跡も見ることができました。緑に覆われ、見捨てられた数々のマヤ人の形見。何かジブリの映画に出てきそうな風景でも見ているかのような感覚でした。そこでも日本人の女子学生さんと出会い、その方々はアメリカからバケーションで来た方々で英語が通じないメキシコ旅行に苦しんでいました。四日目、セレスツゥンでは、メキシコに来て始めての海ではしゃぎました。とってもきれいな海で、町も田舎、沖縄の田舎みたいでした。そこにはフラミンゴで赤く染まる入り江があり、本当にそのとおりで、フラミンゴの群れが大量に。ツアーに参加しないと入り江までいけなかったので、参加したのですが、参加者全員外人でメキシコ人ガイドは英語がしゃべれないので四苦八苦しているのが面白かったです。

ユカタン チチェンイッツアー→

  ユカタン ウシュマル遺跡→

   メリダを去った後はカンペチェという港町へ。ここもきれいな町なのですが、海が今の時期汚いらしく、ちょっとがっかりしました。しかし、カテドラルや市庁舎なんかはライトアップされてとってもきれいでした。メリダとここではドミトリーに泊まったのですがメリダのドミトリーであったアメリカ人がここにもいて、酔った勢いで「クレイジー、ジャパニーズ」と言って来ましてね、俺もスペイン語で汚い言葉返してました。

カンペチェ↓


 カンペチェの後はチアパス州パレンケへ。パレンケは田舎町で、パレンケ遺跡というジャングルの中にあるマヤ遺跡への拠点となる町です。遺跡だけではつまらないので、先住民共同体が近くにある滝(アグア・アスル)と三十メートルの絶壁から水が落ちる滝・ミソルハにも行ってまいりました。チアパス州は先住民人口が最も多く、先住民貧困問題を解決を掲げて武装蜂起しているサパティスタの活動拠点となっていますが、危険は感じられませんでした。確かに、アグア・アスルでは先住民の子供たちが観光客相手に商売をしていて、貧困なのかなとは思いましたが。しかし、子供たちは私がレモンを買い、スペイン語をしゃべれるとわかると、喜んで日本について聞いてきました。「空手は?アニメは? カメラはどうゆうの使ってるの?」などなど。ただ大人のほうがやや警戒心が強く、子供の写真を撮ろうとして断られている外人さんがおりました。
 パレンケの次はタバスコ州ビジャエルモッサ。ここにはオルメカ文明の一都市であったとされるラベンタという遺跡から見つかった数多くの彫刻や石碑を持ってきて公園にしたラベンタ遺跡公園博物館というものがありました。動物園も併設され、ジャングルのようにされた公園を順序に沿って歩き、数々のMくんやM君の親戚、石碑を見る。これは博物館の勉強も大学でしていた私にとっていい勉強になりました。秘境で探検をしながら、オルメカ文明について学んでいる感覚を覚える、この造りの博物館は画期的でした。しかし、公園内は蚊や虫が多くて。集中して解説見れませんでしたね。あと、メリダもカンペチェもパレンケも、後述するトラコトラパン、ベラクルス、パパントラも、南部や海沿いはどこもそうなんですが、このビジャエルモッサも暑くて。外でずーと解説読んだり歩いたりしてるから、もう暑くって。途中から駆け足になったのを覚えています。

サンホセ砦とメキシコ湾 チアパス州パレンケ パレンケ遺跡↓


 ビジャエルモッサの後はベラクルス州トラコタルパンへ。世界文化遺産にも登録されている町なんですが、小さな田舎町で。観光客も少なかったですね。でも、穏やかな人々、色とりどりの家、きれいな教会、かつて「蝶の川」と呼ばれた、町の横を流れるパパロアパン川、川沿いにある経済的に海鮮料理が食べることのできるレストランの数々。そういうものを見て私は非常にこの街が好きになりました。それで貧乏な人も少ないそうです。この町は川を拠点にした漁業、ちょびっとした観光業(2月の牛追い祭りには大量の観光客が押し寄せる)、それから世界遺産である町を保存するための「保存業」みたいなものがあるんだそうです。後で写真を見てもらえれば幸いですが、この町は各家が隣の家とは違う色を使って壁を塗るんです。紫、ピンク、黄色、肌色、色とりどりにきれいに保存されている古い家・町並みを、きれいに保つためのペンキ職、建築・土木職、清掃職などを町の「保存業」と言う様でございます。これにより、貧困層を生まないようにしているそうです。

ベラクルス州トラコタルパン 町並み↓


 パパントラに続いては、プエブラ州の首都プエブラへ。ここでは、古いコロニアル調の町、豪華な金で内部が覆われた教会、荘厳なカテドラルを見ることができました。また、このプエブラから10キロくらい郊外に行ったところにあるチョルーラに行き、遺跡を見ました。古代都市はスペイン軍により発見された後、破壊され、その上に教会や家が建てられました。その都市の規模は非常に大きく、実は現在のチョルーラの町全体に古代都市が埋まっているそうです。写真を乗せておきましたが、私が見学可能となっている都市の神殿となっていた遺跡に行く途中、ある道で古代遺跡の発掘作業をやっておりました。その道は神殿から500メートル近く離れているんですが、研究者や作業員が黙々と丁寧に作業しておりました。興味を持って写真を撮っていると、一人のおっさんが、「今はこうやって道を掘り返して遺跡を丁寧に見て、その古代都市の様子を知るために少しずつマップを作ってる。ここも作業が終わったら元の道に戻して、違う場所を彫って発掘する。それでマップをつないでいく。めんどくさいけど、家ぶっ壊したり、全部の道一気に彫って、今暮らしている人々の生活をなくすなんてこともできない。」っていう様なことを言ってきました。
 そして、プエブラで印象的な博物館もありました。メキシコ革命前期に活躍し、最後には追っ手によって殺されたセルダンと言う人間の家です。彼は1910年革命をマデロなどと起こしますが、その年政府軍の襲撃を家で受け、その家の中にある隠し部屋を見つけられ殺されています。蜂の巣にされた家を今は博物館として、セルダンが死亡した隠し部屋もそのまま公開しています。非常に悲しい博物館ですが、こういったものを通して「メキシコ革命」とは何だったのか、そういったことを考えさせる、あるいは教えようという国の姿勢が伝わってきました。

プエブラ チョルーラ発掘現場↓


 プエブラの後は、一度自宅に帰り、クリスマス後、26日からベラクルス州ベラクルスへ。このベラクルスには、ホストファミリーの息子さんが仕事で住んでいて、ホストマザーと一緒に行き、彼のアパートに泊めてもらいました。ベラクルスは大きな港町で、あまり好きには…。海もそれほどきれいではないし。ただ、水族館はなかなか面白かったですね。それから、巨大要塞サンフアン・デ・ウルア。この要塞はスペイン人が入植後、海賊に悩まされたことから作られ、その後は刑務所としても機能したそうです。とにかくでかい要塞で、回るのに3時間近くかかりました。

ベラクルス州ベラクルス サンフアン・デル・ウルア要塞↓


タバスコ州ビジャエルモッサ ラベンタ遺跡公園のMと自分↓


 その後、家族と別れ、ベラクルス州パパントラへ。ここは田舎町で、古代遺跡タヒンへのアクセスとなる町です。タヒンは巨大なピラミッドと球戯場、そして球技に関するレリーフが大量に残っていることで有名な遺跡です。ピラミッドはテオティワカンなどと比べると、小さめの石を積み重ねられて作られ、建造計画がややずさんだったのか、修復を常にしないと崩れそうなくらい、上部の重みで下部がゆがんでしまっていました。また、ここも暑かったなー。

ベラクルス州パパントラ エル・タヒン↓


 今回のたびで、自分でいろいろと旅の計画を練り、地元のガイドさんや人と話したりすることで勉強になることも多かったと思います。まず、地名や州の位置をかなり覚えてきました。また、メキシコという国の多様性について改めて考えました。一方で古代遺跡を観光としてプッシュしながら、もう一方でスペイン人に征服され、そのスペイン人によって作られたきれいな町並みもプッシュする。メキシコは古代先住民の歴史から、スペイン人が、それがたとえ暴力的な形の征服というものであっても、交じり合い、メキシコの歴史を作り、その歴史がすばらしい観光業の基となっている。多様で、捉えきれない、そういった魅力があります。いい旅になりました。
 一月になりました。皆様お変わりなくお過ごしください。そして、変態だらけのゼミですから、一人でもましな変態が新学期に入ってくることを期待しています。そして5月にはその変態の一人である私も帰ってきます。皆様に歴史の知識で負けないよう、今期セメスターしっかり歴史と格闘技とサッカーを勉強して帰りたいと思います。ではまた。M君、早く日本帰りなさい。O君、メルヘンといって妄想を美化するのはやめなさい。
新春1月6日
   
メキシコ便り9(2007年4月1日)
 おばんです、木村です。早いものでもう4月です。いかがお過ごしでしょうか。新学期に突入し、新しい仲間も加わるんではないかと思いますが、マイペースに皆様やって欲しいと思います。新大学院生の名前は知っているんですが(岩から聞きました)、新ゼミ生の名前はちょっと知りません。しかし、まあそんな新しい仲間へのメッセージをまず。
   私は木村亮という、1年間の協定で遠く離れた、というかもう約反対側のメキシコという国にいるものです。メキシコやラテンアメリカの歴史、スペイン語を勉強しながら、サッカー、ボクシング、ルチャ・リブレ、タンゴ、闘牛、タコス作り、モモセ作り等に汗を流しております。皆様が選んだこの樋口ゼミでおととし一年間学びました。係りは「企画」でしたが、O泉先生いわく、俺の係りは、今のところ、「雑用」だそうです。そして、去年五月、メキシコへ渡り早10ヶ月がたち、5月の末には帰国いたしますゆえ、どうぞお見知りおきください。
   樋口ゼミを皆さんがどういう経緯で選んだか知りませんが、一言で言えば、変態…じゃなかった大変なゼミです。まあ、どのゼミも大変ですが。しかし、日々のゼミ生活から学ぶものも多いと思います。目の前にいるゼミの先輩方を見習わずにがんばって欲しいと思います。見習ったら、どんどん変な方向に連れ込まれますから注意してください。「おい、ずいぶん人のこと罵倒してるけどお前はどうなんだ?」とお思いかもしれませんが、俺も大分変な方向の人間です。一言で言えば「鏡の前で上半身裸で1時間は立ってられる」そんな感じの人間です。すいません、こんなことしかかけなくて。
 まあ、実質5月23日がメキシコでの最後の日になります。26日の土曜日午前中には国際交流課、文学部窓口等に挨拶に向かうつもりです。そして次の週には、できれば授業にも参加していきたいと考えています。
 まあ、これで終わってもいいんですが、せっかくなので今日は「メキシコ・イベロアメリカーナ大学の学生さん」についてお話します。「いまさらか?」と思うかもしれませんが、この10ヶ月でメキシコ人学生と話したり、生活したりして、やっといろいろわかってきました。まあ、そんな与太話です。
 まず、今期セメスター、歴史の授業を中心に取っとりますが、「法律」や「国際経済」「国際関係」等の「多数派」学生さん方とは違い、少数派歴史科学生さんはわりと、おとなしいほうではないかと思います。また、少数は意識が高いため、同じく日本の少数派歴史科学生の私を、少数派の仲間として、非常に快く受け入れてくれ、逆にもう暑苦しいです。また、歴史科の学生さんは「図書館に住んでる」などといわれるくらい、頻繁に図書館に出入りします。これは、課題を図書館で探し、それをコピーするためです。どの日本人留学生も、樋口先生もそうだったというようなことを聞きましたが、とにかくみんな欧米圏の大学の課題・宿題の多さに驚かされます。そして、口々にこういいます。「とにかく大変で、みんな良く勉強している」、「大学がしっかり勉強の場として機能している」、「だから、大学のレベルが日本よりも高い」と。しかし、今日は私、この意見 に疑問を投げかけます。
 私も最初は宿題の量に驚きました。いつかの便りで書いたとおり、一つの授業でも、私はかなり危うかった。けど、今期セメスター、いろいろな場で、たくさんの学生さんと学んで一つ気づいたことがあります。「こいつら課題やっちゃいねー」と。まず、本を読むだけで、あとは授業内でその本に関して議論するだけでいい授業に関しては、半分の学生さんが読んできません。そして、月一で読んだ本に関してレポートを書く場合、「本」の内容どうのではなく、「自分の意見」をびっしり書きます。プレゼンがあっても読んできません。私、今期すでに、三回ほどプレゼンを行いました。一つは個人で、一つの論文に関してのレジュメと自分の意見を言うもの。このプレゼンはあまり問題ありませんでした。本が簡単だったというのもありますが、なにより、一人で やったほうが気楽でした。
 もう二つはアメリカ史のグループワークです。グループワークの場合、私は所詮ガイタレですから、仲間のメキシコ人のやり方を尊重するわけです。彼らの考えを尊重し、言われるとおりにやる。それが彼らにとってもいい成績をとるやり方だからと思っていたからです。しかし、とにかくやってこない。グループワーク一つ目のアメリカロマン主義作家、ナサニエル・ホーソーンについてのプレゼンは、相方がとにかく本などを読んでこない。なんでだ?と問うと、「土日遊ばなきゃいけないし、他の日はテストがあるから」と答えるわけです。おかげで、直前に睡眠時間削ってやる羽目になりました。彼は集合する日以外勉強しません。家で自主勉強は一切してこない。私の考えでは「この集まる日までに、俺はこれとこれを読んで、あいつはこれとこれを読む」そう決めるわけです。だって集まるのは、読むためではなく、話すためだから。おまけに、そんなやつなのにかなり情熱的で、歴史に深い感情を抱いているため、嫌に張り切って、効率の悪いやり方をする。2週間しかなかったプレゼンまでの時間に、自分はやりすらしないのに、ずいぶんといろいろと考える。そして結局何もできない。最後には、「どうしよう…心配で集中できない」という始末。疲れますよ。彼と勉強するの。
 二つ目のアメリカ史のプレゼンは簡単になるはずでした。短い論文読んで、それをチームで発表するだけ。しかし、だ。そちらのほうでも、集まる日には相方の女の子、文読んでこない。それなのに、集まった日、最初の導入部分読んで、「よし、この作者の言いたいことわかった。会議終わり」と早々と切り上げてしまいました。私は彼女が決めた「作者の言いたいこと」に疑問を抱きながらも、何とかプレゼンが成り立つように原稿を用意しました。しかし、当日彼女はその「作者の言いたいこと」についての意見をあっさり変えてのけた。しかも、「正しい方向」ではなく「チンプンカンプンな方に」だ。おかげで、わたしゃなんもそのプレゼンでしゃべれず、彼女が自信たっぷりに話しているのを聞いているだけになってしまいました。
 このように、彼ら、課題読んできません。しかし、歴史には情熱的で議論好き。ただ、この議論好きというのにもひとつ落とし穴があります。彼ら、退屈になると手上げるんです。要するに自分が集中できない、眠いから、さっきまでぜんぜん授業聞いてなかったくせに、そして、課題の本読んできてないくせに(私も最近読むのが追いつかない)、バット手を上げて自信満々に話し始めます。要するに、「議論」は退屈しのぎなんです。しかし知識はすごいと思います。だって、課題読んでないのまっとうに議論できるんですから。
 という事で結論。こちらの大学の宿題の量はすごい。そりゃ認める。だけど、それを全部、全員がこなしているか、といわれると、そりゃない。ましてや、グループワークになると人頼ってやってこない。そして彼らの頭の中にあるのは「金曜、土曜はオールナイト!」そんな感じ。うちのホームステイのおばはんも言っておりました。「みんな大学に彼女を探しにいくのよ」。プレゼンの相方パブロは私に怒りました。「お前はもっと遊ばなきゃだめ!」。全ての宿題をこなせてはいない、というかついていけていない私ですが、やはりできる限りのことはやりたい。「遊ばなきゃだめ?じゃあ、てめー日本語で正規授業受けてみろこのやろう!」と反論するわけです。本よむ量に関して言えば、日本人学生さんも読む人は宿題やテストのために結構読みますよね。特にテスト前、夏休みや冬休み。しかも、日本は授業自体は10数個あるから、それ考えると、日本人は一気に読んで、メキシコ人はコンスタントに読む、もしくは読まない。そんな感じなんで、そんなに差もないのかなと感じます。まあ、いろいろ意見はおありでしょうが、そう思います。
 さて、残り2ヶ月になりますと、逆に少しホームシックです。まあ、最終レポートの量に現実逃避したいというのも一つの理由ですが。卒論関係の史料探しは、「うちの大学にしかないすばらしいマイクロフィルムの史料がある」といわれ、見てすらいないのに胸躍らせています。帰る前にコピーするつもりです。しっかり他のもコピーしていくつもりですが、写真なんツーのも手に入るといいなと思っております。
   暖かくなって来ましたでしょうか。寒さも続くかもしれませんので気をつけてお過ごしください。私は後二ヶ月、マイペースにがんばって、最後には「俺の人生は結局修羅だったよ」なんていうような言葉で留学を閉めたいものです。それでは。
 あ、写真大学の文化祭のものを載せて起きます。歴史科の人とサッカーの大会にも参加しました。そん時の写真はとっとりませんが、いい思い出です。歴史科の出し物はタコスとデザートの屋台とゲームでした。
歴史科の皆さん、タコス焼いとります。


>タコス屋、デザート屋。一番前でこっち見て笑ってるのは歴史科責任者古代アジア史の先生。


歴史科の皆さん、自分らの出し物のゲームをやっとります。ちなみにマリオカート。


ルチャ・リブレ。メキシコの伝統のプロレスです。


<5月末に木村さんは無事もどりました!>


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