トップページ南ゼミ大学院生のTOPページ Graduate Students' Page>大学院ゼミ授業紹介 Graduate Seminar


授業で読んだ文献などを紹介しています。アメリカ史のゼミですが、こんな本も読みました。

---木村亮(2008年度修士課程1年)---伊藤友貴(2008年度修士課程1年)---
---高橋和雅(2008年度修士課程2年)---


By 木村亮(研究テーマ:メキシコ革命)

安丸良夫『出口なお』書評
 安丸良夫の『出口なお』の面白いところは、なおの思想を千年王国思想と素直に捉えていることであろう。つまり、民衆が持っていた純粋な思想を科学で否定しないのである。
 しかし、その思想がどうして生まれるのかを、日本の近代社会へ移り変わっていく過程の中で考察している。近代化に対して、物事がうまくいかず、支配者の与えようとする社会と乖離したときに、民衆がそういった思想に意味を持たせ、独自に作り上げていくという動きが描き出されているのである。それによって、なおの生活史と神がかりが結びつき、思想が民衆の中にも生まれ、受容されるということがよくわかる道筋になっている。
 こういった安丸良夫の、民衆運動を千年王国運動と捉えながら、個人から社会、民衆を捕らえるというやり方は、私の研究テーマであるメキシコ近代で起こったカトリック教徒の乱でも念頭に入れておくべきであろうと思う。



By 伊藤友貴(研究テーマ:アメリカ合衆国の奴隷制)

安丸良夫『出口なお』書評
本書は、明治維新前後の時代を生きた人物、出口なおの神がかりを手がかりに、民衆の無意識を抽出しようとする試みである。出口なおという人物とその周辺の人物との関係を綿密に描き出し、その背景となるような出来事を接続する事で、本書は出口なおという人物と社会を鮮明に描き出す事に成功している。そして、出口なおとその教義からみる民衆の無意識という視点は、明治維新と日本の近代化を前時代からの断絶と看做さない新たな視点を提供してくれる。
 しかし、本書の出口なおという個人を媒介とするその視点は、安易に「日本」というような枠組みへの一般化を許さない。例えば、なおが持つとされる「家の論理」に関しても本書においては不鮮明であり、説明も不十分である。
 一方で、本書が実現した方法と視点の提供は、日本史だけに留まらずアメリカ史、そして奴隷制を考察する上で十分有益である事は間違いない。

 



By 高橋和雅(研究テーマ:ブルースとアメリカ社会)

安丸良夫『出口なお』書評
1、無意識の抽出
 民衆思想史において、自らおよび先行研究がとらえてきたものというのは、民衆の意識や思想のごく表層にとどまっているのではないか。本書は著者のこのような問題提起に端を発しているといえるだろう。著者は、言語化された素材すなわち既存の史料が、民衆の内的な変化を十分に語り得ないという点を指摘する。つまりそれらの史料は、民衆の本当の願望や、日常意識の底に秘められている葛藤を語るのに十分なもの足り得ないのである。これが著者のいう民衆思想史の限界であり、この限界を超えるために著者は、民衆の抑圧された「無意識」を探求することの必要性を訴える。そして、このような「無意識」領域を部分的に抽出し、民衆の生に含まれる内在的な葛藤を描き出すことを可能にした貴重な史料こそが、神がかりした出口なおの残した筆先なのである。
 神がかり以前のなおは、苦難の生活者であった。なおの生家である桐村家は彼女の成長とともに没落し、嫁いだ先の出口家もまた凋落した。家をつぶすほどに放蕩な父、夫のもと、なおはひたすらに辛抱強く耐えるという生の様式を体現した。彼女を支えたのは勤勉、倹約といった「通俗道徳」型の自我であったが、それは同時に社会に統合されることを目指す「意識」として、「無意識」領域の苦難や葛藤を抑制していた。そして、この上なく貧しい生活を続けていたなおがやがて迎える神がかりという現象は、いわばこれらの「無意識」が外の世界に噴出した結果だったのである。
 そのため、神がかりによって残された筆先には、本来社会に統合されるべきなおの通俗道徳型の生活規範を受け入れようとしない近代日本社会への、痛烈な批判が含まれていた。しかしこれらの非難、抗議、葛藤は、民衆の生の様式の底に隠された、本来ならば表に出ることのない心の秘密であったのだ。このような理由により著者は、従来の史料が明かし得ない民衆の「無意識」領域を抽出する可能性を持った、膨大な筆先に着目したのである。

2、統合の過程と、あいまいさの率直な表現
 しかし、本書における議論はそう単純なものではない。著者はなおの神がかりという現象を、「意識」「無意識」という簡略化された二項対立の中にただ位置づけているわけではないのである。著者はまず、神がかりした自身に対するなおの葛藤や分裂を取り上げている。しかし話が進むにつれて、自身の神と統合的な行動をとるようになっていくなおの様子が、何ら不自然さを伴うことなく語られるようになるのである。
 なおが当初、神がかりにとまどいを見せていたことを表す本文の箇所として、「生活者としてのなお自身からみても、貧しく無学な一介の老婆にすぎないなおに、もっとも権威ある神が憑依し、自分がこの世界の根源的な変革をになうというのは、なにか途方もなく狂気じみたことであり・・・」(p93)という部分をあげることができる。これは、生活者としての立場を脅かしかねない自身の神に対して、困惑を示すなおの様子を表している。前節の表現を用いれば、噴出した「無意識」をもてあます「意識」部分ということになるだろう。しかし本書の後半を見ると、なおは自ら進んで、自身の神である艮の金神に統合的な行動をとるようになっている。例えば、明治三十八年になおは、艮の金神が閉じこめられていたとされる孤島、沓島にこもるという修行を行っている。厳しい自然環境にあるこの島に、わずかな食糧をもってこもるという無謀な行いに対して、本書では次のように言及されている。「しかし、なおにはみずからの異常な苦難こそが立替えの証しだとする特有の思考があり、立替えの切迫感は、無謀といってよい修行とほとんど必然的に結びついていた」(p219)。ここでは、宗教的な思想に基づいて行動しているのは、他ならぬなお自身であり、その意味で艮の金神となおは統合的であるといってもよい。このような箇所において、生活者としてのなおと宗教者としてのなおにもはや区別はない。すなわち、「意識」と「無意識」の境界は極めてあいまいなものとなっているのである。
 つまり、外の世界に噴出した「無意識」は、初めこそなおをとまどわせたものの、いつまでも「意識」と対立的な「無意識」ではあり得なかった。自身の生活史との葛藤を経て、徐々になおが宗教者としての自覚を持つようになると、「無意識」はもはや「無意識」ではなくなり、なおの表立った行動に統合されるようになった。この段階で、なおの行動原理は「意識」とも「無意識」とも表し難い、包括的であいまいなものになっているといえよう。本書ではこの統合の過程全てが、神がかりという単語に集約されている。すなわち、前節でなされた議論を安易に「神がかり=無意識」という図式に落としこむことはできないのである。
 ここで注目すべき著者の手法として、この葛藤および統合のあいまいな過程を極めて率直に、そのままあいまいに表現したという点があげられる。本書には、どの時点で生活者としてのなおと宗教者としてのなおが統合的になっていくのかということが明記されているわけではないのだが、しかし後半に入ると、自然な形でなおが艮の金神を受け入れている姿が描かれている。そうかといって、最後までなおと艮の金神が完全に同一に扱われることはない。それは、生活者と宗教者、「意識」と「無意識」といったような、完全に二項対立的な区分は初めから存在しないことを承知したうえで、あえてその部分をぼかして描いていくという著者の妙技ではないだろうか。「無意識」がそれそのものとして存在しているわけではなく、筆先となおの行動原理に映し出されたあいまいな心性の中に、「無意識」的なものが若干垣間見られるだけなのだということ。著者の手法は暗にそれらを示唆しているように思えてならない。

3、浮かびあがる近代日本社会
 これまで述べてきたように本書の特徴の一つは、筆先を中心的な史料としながら、神がかりしたなおという人物を描き出し、そこにそれまで明かされることのなかった民衆の心の内を見い出そうとする点にある。それを強調したうえで、私はここにもう一つ、本書のさらなる特徴を示してきたいと思う。それは、なおの対人関係や地域社会との関係を積極的に取り上げることで、なお個人を描くに留まらず、なおの生きた近代日本社会を浮かび上がらせようとする著者の試みである。
 例えば本書においては、なおの暮らした綾部のコミュニティが詳細に描き出されている。なおの長女よねと半ば強引に結婚し、後にはなおを座敷牢に幽閉したこともあった、地方ヤクザの大槻鹿造。面倒見のよい地域社会の指導者で、なお一家にも何かと配慮を示してくれた、組頭の四方源之助。なおと関わりのあったこれら多くの人物が、その関係性の中で描かれているために、読者である私たちはなおの生き方を追ううちにいつの間にか、当時の綾部の人々の生活をリアルに想起できるようになる。つまり著者は、なおと外の世界との関係性から綾部という村落コミュニティを浮かびあがらせているのである。それは言い換えれば、近代日本社会のある民衆像、そして社会におけるそれら民衆の在り方を、なおを通して見渡せるようにしてあるということなのだろう。
 さらになおと周囲との関係性についての言及は、時に近代の社会情勢を俯瞰するまでに至っている(なおの教義と日露戦争との関わりなど)。そこには、なおとの関係性を基軸に、近代日本社会に関する自らの世界観を表現していこうという著者の明確な意図が感じ取れるのである。

4、の論理の徹底
 以上のように本書は、民衆の心に押しこめられた葛藤を抽出する試みとして、また個人と周囲との関係性から社会全体への解釈を打ち出した書物として、極めて示唆的なものであるといえる。それゆえに本書は、近代日本史を志す者に限らず社会史・民衆史に関わる者全般にとって、学ぶべき多くの視点を有しているということになるだろう。しかし、日本史に関わることの少ない私のような人間が本書に接した際、一つどうしても素直に飲み下せない点がある。それは、「家」を単位とした自立の論理が所与の条件、すなわち大きな前提として語られていることである。
 本書において、この自立の論理は「「通俗道徳」型の努力→「家」の繁栄→みずからの幸福」(p72)というサイクルとして説明されている。なおのような小生産者大衆にとっては、勤勉な生活規範により「家」を繁栄させることが、幸せを得る唯一の方法であった。著者はこのような「家」の論理を、歴史的に構成されたものとして、また近代日本社会に強く根づいたものとして扱っている。それはまさに前提に近い形で導入されており、論理それ自体の成り立ちが本書で議論されることはない。
 「家」の論理が近代日本社会を貫いていたという著者の見解は、なおの終末観に関する記述にも顕著に表れているといえるだろう。本書で論じられるなおの終末観とは、抑圧された「無意識」下で培われた千年王国思想であり、この世の根本的な立替えを迫る思想であった。しかし、この立替え後の世界は、著者が「小生産者大衆の千年王国的ユートピア」(p208)と表現していることからもわかるように、いわば「家」の論理が確実に成立する世界であった。それは「通俗道徳」型の努力の見返りとして、豊かさを得るという理想に基づいている。つまり終末観の中でさえも、「家」の論理それ自体は決して疑われることがないのである。私は終末観といえば真っ先に、アメリカの黒人奴隷の音楽における解放神学的な思想を思い浮かべるのだが、そこにあるのは白人奴隷主の支配がおよぶ現存秩序を完全否定しようとする概念形式である。それゆえ、(単純な比較はできないにしても)終末観でありながら、「家」の論理という秩序を肯定するなおの思想をすんなりと理解することは少々難しい。そして、それほどまでに民衆の中に徹底されていた「家」の論理というものが、本質的にはどのようなものであるのか議論されないままに、前提として用いられていることに疑問を覚えるのである。
 もちろん今後、著者の他の作品に触れることで、「家」の論理に関する疑問は解決されていくのかもしれない。少なくとも、この『出口なお』が近代日本史を志す者以外にとっても示唆的な書物であるのは確かだが、先にあげたような著者独自の論理・世界観も数多く適用されており、それらを十分に理解しないまま、他ジャンルの社会史に安易に流用することはできないということがいえるだろう。
 






トップページ南ゼミ大学院生のTOPページ Graduate Students' Page>大学院ゼミ授業紹介 Graduate Seminar