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海外でのリサーチ旅行から戻ってきた院生の体験談や感想を紹介しています。

---太田圭(2007年度修士課程2年)---高橋和雅(2008年度修士課程2年)---
---木村亮(2008年度修士課程1年)---


木村さんの研究テーマは、メキシコ革命期における「クリステーロスの乱」。学部3年次にメキシコの大学に1年間留学し、卒業論文でも「クリステーロスの乱」を扱いました。
木村 亮(2008年度修士課程1年)「メキシコ紀行」(2008年2月29日~3月12日)

 一年間の交換留学以来約一年ぶりとなるメキシコでは、それまで行ったことのない場所に二か所訪れた。一つ目の場所は、留学中には訪れることのできなかったオアハカという場所である。なぜ留学中訪れることができなかったかというと、この場所では教師によるストライキをキッカケに暴動が起こっていたためである。二つ目の場所は、グアダラハラというメキシコ第二の都市である。ここには自身の研究「クリステーロスの乱」について何か得られればと思い訪れた。「クリステーロスの乱」とはカトリック教徒とメキシコ革命政府のあいだで1926年から1929年までメキシコ全土で行われた戦いであり、グアダラハラはその戦いが激しく起こった場所の一つである。

 オアハカには自身の研究とは関係のない観光のために行った。メキシコ南部オアハカ州にある都市オアハカは隣のチアパス州と並んで先住民の人々が多く住む場所である。市場には色鮮やかな伝統衣装を着た先住民の人々が安い食料などを求めて買い物をしていたり、商品を売ったりしていた。先住民が残した遺跡なども見たが、この市場の風景が一番心に残っている。遺跡という「過去」と共に生きる先住民の「現在」を感じることが出来たからであろう。つまり、先住民は遺跡という目にみえる形の過去を持ち、その過去に誇りを持ち、「現在」においてもその誇りを表現しようとしている。オアハカは過去と現在が共に生きるメキシコを感じることが出来た地であった。

 
↑オアハカの市場

 オアハカでの四日間の滞在後に、二つ目の場所であるハリスコ州グアダラハラへと向かった。バスを一度乗り換えての14時間の長旅であった。先述したとおり、同地では私の研究テーマである「クリステーロスの乱」が激しく行われた場所である。そのためであろうか、「クリステーロス研究センター」なるものがグアダラハラ自治大学に存在する。私は自治大学を訪れ、その研究センターの責任者イスマエル・フローレス教授にお話を伺うとともに史料探しの相談を受けていただいた。

 
↑グアダハラのカテドラル

 私の欲しい史料は「クリステーロス」と呼ばれる、乱に参加したカトリック教徒たち、あるいはそれを見ていた人々のオーラルヒストリー、つまりインタビュー集などである。インタビュー集は本になっている物がイスマエル氏の指導によってあっさり手に入った。その本は、サカテカス州のクリステーロス指導者アウレリオ・アセベドが1950年ごろから1960年代ごろに出していた雑誌Davidをまとめたものである。

 ところで、私はクリステーロス達や乱の時代に生きていた人々に、実際のインタビューをすることは無理だろうと考えていた。乱のことを実際に見聞きし、覚えている人々となれば、90歳以上の人しかいないからだ。クリステーロスの息子などの話ならば聞けるかもしれない。そうは思っていた。すると、イスマエル氏はクリステーロスの子孫や兄弟、姉妹が生きていおり、実際にあったこともあると語ってくれた。そこで、大学での史料探しをそこそこに、滞在三日目はイスマエル氏にグアダラハラのクリステーロスゆかりの地を訪れるツアーに連れて行ってもらうことになった。

 ツアーは興味深く、ためになるものであった。革命政府が推進する社会主義方針から、革命政府によって教会が占領され、社会主義の旗がたてられたが、その旗を降ろすために一人で教会に行き、旗を突き落としたというグアダラハラのカトリック司教の話。カトリック教徒達が連帯して町中にその司教を守るネットワークを作っていた話。その司教の墓のある教会。乱が始まる前に革命政府によって殺されたカトリック教徒で、グアダラハラで作られたカトリック系労働団体Unión Popularの指導者アナクレート・ゴンザーレス・フローレスの墓、アナクレート・ゴンザーレスが隠れ家としていた家。グアダラハラ・クリステーロス博物館。クリステーロス達が実際に行動し、暮らし、政府と戦っていた場所を実際に回っていると、クリステーロスの魂を、記憶を感じ取ることができるような気がした。というのも、町にそれだけクリステーロスを記憶できる場所が多く、イスマエル氏に教えを聞きながら回ったからであろう。そういった意味でツアーは興味深く、ためになったのである。

 
↑アナクレート・ゴンザーレスの墓

 肝心のインタビューは先述したカトリック司教の娘と、アナクレート・ゴンザーレスをかくまっていた家に住み、アナクレートと共に革命政府によって処刑された2人の兄を持つマリア・ルイサ・バルガス・ゴンザレスという女性にインタビューをする予定であった。だが、両者とも高齢である。しかも、急な訪問。不在の可能性もあると言われた。最初に、司教の娘の家に訪れた(名前は結局知ることができなかった)。家を訪れたが、今はグアダラハラに住んでおらず、週に一度ほどグアダラハラに戻ってくるくらいだと召使の方に言われ、結局会うことができなかった。次にバルガス・ゴンザレスの家に訪れた。彼女はいまだにアナクレートをかくまっていた家に住んでいる。しかし、高齢でアルツハイマー病も進んでいると言う。それでも昔のことは鮮明に覚えていると言う。だが結局、彼女も不在で会うことができなかった。次回訪れるときは、イスマエル氏とのコンタクトを取りながら、彼女達と会えるように約束を取り付けてもらおうと心に決めた。残念だったが、彼女達の存在を知れたこと、イスマエル氏が私の次回のメキシコ訪問時に、できるだけいろいろな人にインタビューができるよう約束を取り付けてくれることを了承してくれたことは大きな収穫であった。

   
↑イスマエル氏、クリステーロス博物館の入り口で       ↑クリステーロス死者(クリステーロス博物館所蔵)

 さて、こうして研究のために訪れたグアダラハラの旅は終わったが、ここで研究のために訪れた博物館や教会についての感想、私なりの考察を述べて終わりにしよう。クリステーロス達、特に先述した司教や、アナクレート・ゴンザレス、そしてアナクレートと共に死んでいったバルガス・ゴンザレスの兄弟は非常にグアダラハラで英雄視されている。クリステーロスの乱は隣のサカテカス州やメキシコシティでも起こったが、これほどクリステーロス達が英雄視されている地は他にない気がする。つまり、クリステーロス達に対する記憶の仕方に、メキシコ内の場所によってかなりの差を感じるのだ。その差が作られている理由は二つだと思う。一つ目にはこの地が信仰心にあふれた人々が多いことが一因であると思う。信仰心は教会に表れている。人々から寄付した金を基にして創られているのが、壮大なカテドラルであったり、町にある、小さいが装飾が非常にきれいな教会であるからである。二つ目には、クリステーロスに関わった人々が多い地であると言うことだ。留学中に、「祖母がクリステーロスだった」と語ってくれた友がいたが、彼の祖母はグアダラハラのあるハリスコ州出身だった。イスマエル氏と別れた後に訪れた本屋の売り手は、「父がクリステーロスで、祖父は乱中に殺された」といっていた。このようにハリスコ州、グアダラハラにはクリステーロスを肉親に持つ人々が多い。クリステーロスを肉親に持っていた人々からすれば、クリステーロスへの記憶は美化されなければ気が済まないし、後にも記憶させたいと思うのが普通であろう。そのため、クリステーロス達が多く、乱が激しかったこの地では、他の地よりも、クリステーロス達を記憶させようという努力とクリステーロス達の英雄化が行われているように感じた。

 第二の故郷であるメキシコシティを訪れた後の帰りの飛行機、「次来るときは必ず生のインタビューを!」と心にきめ、何を言っているかわからない気さくな紳士のアメリカ人と腹の痛みに耐えながら、15時間のフライトを過ごし日本に帰ってきた。充実した二週間の旅であったと思う。

 
↑旅の最終地、メキシコシティの夜景

2008年4月1日 木村 亮



高橋さんの研究テーマは、目下、黒人コミュニティにおけるブルース。論文「ブルースの可能性―アメリカ黒人史研究における展望―」が『専修史学』44号(2008年3月)のpp. (58)-(80)に掲載されています。
高橋和雅(2008年度修士課程2年)「デルタへの憧憬」(2008年2月)

 陽炎にゆれる道路の傍らには、延々と綿花畑が広がっていた。綿花はどれも収穫されており、丸裸になった畑が地平線まで続いている。時折目にする巨大な水撒き機は、南部農業の大規模さを、そして農業国としてのアメリカの在り方を知らしめていた。
 ミシシッピ州の州都ジャクソン付近にあるパールに宿をとった私たちは、この日、グリーンヴィル方面を目指して車で北上していた。冒頭に記した綿花畑に圧倒されたのは、その道中でのことである。車窓に映る代わり映えのないその光景は、十分に深南部らしさを物語っていた。
 私にとって、ミシシッピ州を訪れるのは今回が初めてのことだった。アメリカ黒人音楽に関心を寄せる者の一人として、私はかねてより、一度はミシシッピに足を運んでみたいと考えていた。なんといっても、ここはブルースのメッカである。シカゴ・ブルースの巨匠、マディ・ウォーターズもハウリン・ウルフもミシシッピの生まれであった。また、ロバート・ジョンソンに代表されるミシシッピのデルタ・ブルースは、ブルースから派生した全ての黒人音楽のルーツともいわれている。まさに今回は、そのデルタ地域への旅路なのである。
 途中、デルタを強く意識させる情景と出会った。ヤズー河をまたぐ橋のところで、カメラを片手に車を降りる。そこには、“bayou”と呼ばれるような、泥沼の色をした川が静かに横たわっていた。広大な青空とは対照的にどんよりと濁った川面は、まるで数種の絵の具を溶いた水のような色をしていた。ほとんど停滞しているように見える泥水の中から、ぬっと生え出た背の高い木々は、どれも不気味に手を広げている。日本の沼地とはまた違う、独特の雰囲気を持った湿地帯がそこに存在していた。
 少しの時間、私たちはその場所で思い思いに写真を撮った。ふとシャッターを切る手を休めた私は、デルタ・ブルースへと思いを馳せた。デルタ・ブルースは、だみ声のシンガーがギター一本で奏でる、シンプルで「泥臭い」ブルースである。また、ギターの腕と引き換えに悪魔に魂を売ったといわれるロバート・ジョンソンの、不気味で凄みのあるデルタ・ブルースを、そのまま「悪魔的」と称することもある。私は、これら全てのキーワードが、徐々に眼前の“bayou”と重なっていくような感覚を覚えた。
 この地で育まれたブルースの中には、デルタの風景、色合い、匂いが、ブルース・ミュージシャンの悲哀と共に刻みこまれている。音に刻みつけられたこれらの記憶は、ブルースを介して私たちの元へと届けられる。“bayou”を前にした私は、これまで耳でとらえてきたデルタのおぼろげなイメージを、やっとこの目で確かめることができたと感じていた。私の中のブルースが、少しずつ立体感を増していく。

 昼ごろ、ハイウェイ61沿いにある小さな町、リーランドを訪れた。ハイウェイ61は、テネシー州メンフィスへと続いており、かつてブルース・ミュージシャンたちが北部都市を目指して北上していったルートでもある。そのハイウェイ61に沿っているだけあり、リーランドはブルースを町おこしのシンボルとしているようなところがあった。ブルース・フェスティバルの宣伝、B・B・キングを描いた壁画、ハイウェイ61ブルース博物館など、随所にブルースへの力の入れ具合を感じさせるものが存在していた。
 私たちはハイウェイ61ブルース博物館に立ち寄ることにした。一見、入口も見つからないような小さな博物館である。中に入ると、客は私たち三人だけのようであった。内装はあまりきれいとはいえず、ブルース・ミュージシャンの写真やら楽器やらが、ごちゃごちゃと配置されている。博物館というよりは、熱心なブルース・コレクターの部屋にお邪魔した感覚を抱いた。後で聞いたところによると、やはり個人的な収集が高じて、このような博物館になったようである。
 客が増える気配はなかったが、館員の女性のはからいにより、地元のブルース・ミュージシャンとおぼしき男性がやってきて、演奏を披露してくれることになった。ギターとおもちゃのようなアンプを抱えて現れた黒人男性は、気さくな笑顔を振りまくと、たった三人の客を相手に演奏を開始した。
 実に下手くそなブルースだった。拍はかろうじてあるものの、拍子はころころと変わっていく。ギターがうまく弾けなければ、曲中でも弾けるテンポに変えてしまう。小節割りなどというものもなく、多少ずれても歌いたいと思ったところで、好きなように歌い出す。それは手を抜いているという意味ではなく、適当なブルースであった。
 ところが、しばらく聴いているうちに、妙に納得できるようになってしまった。もしかしたら、原型に近いデルタ・ブルースはこういうものなのかもしれないという発想が、私の中に芽生えたのである。曲の中で一定なのは、特徴的なギター・リフのみ。あとは適当に伴奏して、好きなタイミングで語りたいことを語る。目の前で繰り広げられているブルースは、そういった類のものであった。
 一般的なブルースの形式としては、十二小節で一まわし、A→A’→Bの進行などということがいわれるが、原型に近いデルタ・ブルースというのは、こうして好きに語って好きにレスポンスする、自由気ままなおしゃべりだったのかもしれない。あるいは、広大なミシシッピにおける孤独と、社会的・経済的苦難を紛らわすための自分語りだったのかもしれない。なんとなくではあるが、CDにもならないような本来的なデルタ・ブルースの姿を、この男性の適当な演奏の中に垣間見たような気がしたのだ。
 そこまで考えたとき、私は、自分の中のブルース像がもう一段階鮮明になったように感じた。泥臭いデルタ、広大な綿花畑。さびれた集落、適当なデルタ・ブルースを語るブルース・ミュージシャン。そこには、ロマンや空想ではなく、ブルースという音楽に刻みこまれた光景が、いまなお時をこえて生きていた。音源を聴き、ブルースについて考察してきた私だが、今回初めてブルースを「体験」したといえるのかもしれない。
 思いをめぐらせ我に帰ると、男性はいまだ自慢げに歌い続けていた。下手くそで適当、それでいて妙に味わい深いデルタ・ブルースの生演奏は、まだしばらく終わりを迎えそうになかった。

2008年3月18日脱稿 高橋和雅


↑ ミシシッピ州の61号線沿いにある小さな町リーランド(Leland)のブルース博物館にて。わざわざ私たちのため
に駆けつけてくれた近隣のブルースシンガーです。(2008年2月19日撮影)  



太田さんは、1919年のシカゴ「人種暴動」について修士論文を書き、2008年3月に修士課程を修了しました。
太田圭(2007年度修士課程2年)「シカゴ遊学記」(2007年9月)

 “Fifty-Nineth Streeeeeet !!!, Fifty-Nineth Streeeeeet !!!!!”
 今でも耳に残る、メトラの駅員の声。9月の中旬、私は自身の修士論文のリサーチのため、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴを訪れていた。
  
 ↑メトラ59丁目駅のプラットフォーム                 インターナショナルハウス正面↑

 9月13日、初めての独り旅。ゼミ合宿の直後ということもあり、搭乗までの待ち時間はさすがの私でも寂しさを感じた。しかし、機内で夕飯を食べ、映画放映の時間になるころには、寂しさも忘れていた。もうすぐシカゴ到着というところで、乱気流に合い、飛行機はかなり揺れたが、無事定刻どおり私はシカゴに到着した。
 今回の旅には、強力な協力者がいた。それは内藤先生のご友人であるシカゴ大学(The University of Chicago)の南アジアセンター所長、ナイ教授である。彼は私に出発以前からいろいろアドバイスをしてくれた。ナイ教授に教わったとおり、空港の旅客バスターミナルで、シカゴのダウンタウンと私が滞在するシカゴ大学のインターナショナルハウス(International House of University of The Chicago)のあるサウスサイドを結ぶ「オメガ・シャトル」に乗り込んだ。
 このシカゴ大学のあるサウスサイドという地区は、アフリカ系アメリカ人人口の多い地区、いわゆる「黒人居住区」と呼ばれる地区を含み広大に広がる。まさに、私が研究対象にしている「シカゴ人種暴動」が起きた地区がここにある。シャトルはダウンタウンのスカイクレイパーを横目に抜け、ミシガン湖畔のレイクサイドを南に進んでいった。途中、「シカゴ人種暴動」が始まった場所、かつてミシガン湖の29番通り辺りにあった白人遊泳区を通った。後々語り継がれることになった「シカゴ人種暴動」の面影はなく、高級なマンションが並び、きれいに舗装され、家族連れや若者たちが湖畔で午後のひと時を楽しんでいた。少し切ない気持ちになっていると、インターナショナルハウスに到着した。
 到着の翌日から私はリサーチを開始した。
 9月14日、ナイ教授を訪ねるためにシカゴ大学の中央図書館であるレーゲンスタイン図書館(Regenstein Library)へ向かった。ナイ教授と彼のアシスタントの二人は私に大変親切にしてくれ、シカゴ歴史協会へ行くための地図や図書館での資料の探し方、食事が出来るところまで教えてくれた。このレーゲンステイン図書館は、シカゴで発行されていた大手新聞会社の新聞はほとんどオンラインでアクセスできる。例えば、”Chicago race riot”と検索する。そうすると、ヒットした新聞記事の一覧が表示され、容易に資料収集が可能なのである。これはとても便利である。しかし、私の探しているNegro Pressと呼ばれるような「黒人新聞」は、他の図書館にしかなかった。この日は、金曜で、しかも大学がまだ春休みということもあり、図書館の閉館時間が迫ってきたので、後日目当ての資料がありそうなCRL図書館(Center for Research Library)へ向かうことにした。
 9月15日、この日は、ワシントン・パーク(Washington Park)に隣接するアフリカ系アメリカ人の歴史博物館、デュセイブル博物館へ向かった。土日は困ったことにオリエンテーションを直後に控えているため、図書館は短時間しか空かないとのこと。そのため、土日は博物館めぐりをすることにした。このデュセイブル博物館はシカゴ人種暴動後、白人もアフリカ系アメリカ人自身も自分たちの歴史を理解しなければならないと発起したが自身の自宅を改築してはじめた博物館である。アフリカの歴史、奴隷制、アフリカ系アメリカ人のアーティストによる作品の展示やブラック・ムービー専門の映画館が主な展示内容である。売店には、他では見られないようなアフリカ系アメリカ人の書籍やアフリカ系アメリカ人関連商品がところ狭しと並んでいる。
売店でフレデリック・ダグラスのキーホルダーを購入したさいに、身の上話をして仲良くなった学芸員さんの言うところでは、翌年の春にデュセイブルは二号館ができ、1919年の「シカゴ人種暴動」の展示も増設されるとのことであった。私の修論準備には間に合わず、なんともタイミングの悪い話である。

    
↑デュセイブル博物館正面                   ↑建設が予定されているデュセイブル博物館2号館

 9月16日の日曜をはさんで、9月17日は、CRL図書館へ向かった。ここは、通常、アポイントメントと年会費175ドル無しに利用することができないのだが、海の向こうの日本から遥々やってきたのに!と事情を説明したら、受付担当のご婦人がこっそり通してくれた。なんとありがたいことであったか。シカゴで故郷の東京下町と同じ人情を感じた瞬間であった。
 翌日の9月18日は、午前中にCRL図書館でのリサーチを終え、親切なご婦人に別れを告げ、ダウンタウンにあるシカゴ歴史教会(Chicago Historical Society)に足を伸ばした。このシカゴ歴史教会は、博物館に隣接してリサーチ・センターがあり、シカゴ市内の博物館で唯一、1919年の「シカゴ人種暴動」の展示がある博物館でもある。イリノイ州きっての有名人エイブラハム・リンカンの展示そっちのけに「シカゴ人種暴動」の展示に食いついている東洋人は、よほど奇妙に見えたらしく、警備員が常に私のそばに立っていた。強面の警備員の目を盗んでは写真をとった。
 サーチ・センターはシカゴで発行されている地元紙が豊富にある。そのうえ、レーゲンスタイン図書館やCRL図書館よりも保存状態がよい。写真資料やセンサスも豊富なので、マイクロフィルムの机は、いつも研究者でごった返している。無理しても昨日来ればよかったと少し後悔した。
 この日、私は不思議な体験をした。シカゴ歴史教会の受付では、スパニッシュに間違えられ、スペイン語の案内を渡され、歴史教会からの帰り道では中国人観光客に中国人と間違えられ、中国語で話しかけられ、定宿にしているインターナショナルハウスでは中東系に間違えられた。一度も日本人として見られなかったのである。日本では味わえない感覚を覚えた日である。
 リサーチ最終日の9月20日は、開館と同時にシカゴ歴史教会のリサーチ・センターでリサーチをした。このリサーチ・センターのスタッフのみなさんたちも、日本から来たどこの馬の骨かもわからない私に優しくしてくれた。何もいってないのに、昨日の史料をまとめて置いておいてくれていた。彼らの協力もあり、リサーチは頗る順調に進んだ。
 シカゴは、私の育った東京の下町の精神に似たものがある。「義理と人情」、私の大好きな言葉が似合う素敵な町である。

2008年3月28日脱稿 太田圭






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