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キャリー・マンリーからの手紙


【史料紹介】 樋口ゼミ南北アメリカ史研究会編「キャリー・マンリーからの手紙―母として、黒人として―(『専修史学』第42号、2007年3月、pp. 146-197)より「はじめに」を以下に抜粋しています。

はじめに

 これから紹介する史料は1871年にアメリカ合衆国に生まれた黒人女性キャロライン・サンプソン・サッヂウォー・マンリー(Caroline Sampson Sadgwar Manly/通称Carrie 以下キャリーと略す)が晩年の1953年から55年にかけて二人の息子マイロ・マンリー(Milo Manly)とルウィン・マンリー(Lewin Manly)に宛てて送った現存する9通の手紙である。これは、長男マイロ・マンリーが所持していたもので、1986年にノースキャロライナ州ウィルミントン市のバハイ・センター(キャリーの両親の実家跡)に移されたらしい。それが、近年ケイプ・フィア博物館に寄贈されたものである。いずれにしてもこの手紙は、日本語訳はもちろん原文でもこれまで公開されたことはないだろうし、研究者にもあまり知られていない。確かにキャリーは、世に知られた指導者などではなかった。しかし、この9通の手紙は、キャリーをとりまく世界を知る恰好の史料であると私たちは考えた。
 この手紙の主であるキャリーは、「黒い肌」を持つ女性である。奴隷制が1865年まで存在し、奴隷制廃止後も肌の色による差別が行われて来たアメリカ合衆国において「黒人」として生きて行くこと、それは人種差別を受けて生きることを意味した。キャリーの手紙は息子に宛てられたごく私的なものであるが、アメリカ合衆国で生きた証ともいうべき当時の人々の人種意識や価値観が反映されている。
 人が一般的に「黒人」と見なされるのは、まず肌の色が白人のそれではなく「ダーク」の場合である。それに加えて、「黒人」の血が入っている混血の人の場合も南北戦争後に元奴隷集の州法によって「黒人」と見なされた。キャリーの夫アレクサンダー・マンリー(Alexander Maly/通称Alex/家計図を除き、以下アレックス・マンリーと記す)は、白人のような容姿でありながら、「混血」であり、「黒人」と見なされた。キャリー自身は、先住民インディアンと黒人と白人の混血でありながら、生涯を通じて「黒人」と見なされた。アメリカ合衆国での「人種」は、そうした慣習の積み重ねが生み出したものである。
 それゆえか、キャリーは肌の色に敏感である。それは、手紙に人物の肌の色に関する記述がしばしば見られことからわかる。「インディアンのように銅色じゃない」ベンダーおじいさん(手紙2)、「茶褐色の肌」のジョン・サンプソン(手紙8)、「シーツのように白かった」チャールズ(手紙9)など、各所で言及されている。キャリーのこういった肌の色への敏感さは、生まれつきのものではない。それは、白い肌の人は優秀で黒い肌の人は劣っているといった肌の色によるステレオタイプの価値観の浸透していた社会にキャリーが育ったからである。
 とりわけ、キャリーが青春時代を過ごした19世紀末の南部社会では、公共の場における人種隔離政策が徹底して実施され、黒人の参政権も州憲法修正条項によって事実上剥奪されることになる。そうした白人優位の社会が確立される背景には、綿工業地帯の出現と農業離れの始まりによる家族内の人間関係の変化、それに伴う社会の動揺や、1890年代の農業不況下で発生した暴動やリンチなどがある。リンチは、1890年代に発生件数がピークに達し、その犠牲者の多くが黒人であった。例えば、1892年には255人の犠牲者を出し、しかも、その9割以上が黒人であったとされる。綿工業は新しい産業として注目されたが、世紀転換期に黒人労働者が雇用されることはまれで、黒人たちは大半がメイドや小作農民であった。「黒人」と類別された人々は、社会的にも政治的にも二級市民として劣位に置かれていた。
 この白人優位黒人劣位の社会的序列は、奴隷制社会のなかで徐々に確立されていたものである。奴隷であった父フレデリック・C・サッジウォー(家計図参照)が、奴隷監督に隠れて読み書きを学んだというエピソード(手紙1)に示されているように、奴隷身分の人々には教育を受けることが許されていなかった。特に奴隷反乱を防ぐ目的で、1830年代以降の奴隷州ではそうした奴隷身分の人々の行動を規制する奴隷法が新たに施行され、白人優位の秩序がさらに強化された。しかも、19世紀の奴隷制社会では奴隷とは「黒人奴隷」を意味した。こうして奴隷制を経て作られてきた、黒人に対する別紙を助長する社会秩序は、奴隷制廃止後もアメリカ合衆国に根深く残り、しかも、先に言及したように、人種書く理法などによって再び白人優位を維持すべく塗り固められたわけである。
 キャリーは、そうした社会秩序の根底にある黒人蔑視に反発している。チェロキーの血に誇りを持つベンダーおじいさんの例(手紙2)や、教養もあり奴隷も所有していた黒人サンプソン家の例(手紙8)を挙げ、白人優越主義に批判的な立場をほのめかす。その他にも「白い肌」を持つ母から生まれ、自由黒人でも奴隷でもなかったディヴィッドおじいさん(手紙1)、法律家として立派なジョージ・H・ホワイト(手紙1)など、「黒人」として例外的と見なされた人々の存在が記憶され、息子たちに伝えられたのである。ここに、「黒人」のステレオタイプに流されまいとするキャリーの姿勢が窺える。キャリーは、肌の色のステレオタイプに惑わされて「自分は劣っている」などと思ってはいなかった。
 とはいえ、手紙は必ずしも「人種」に焦点を当てて書かれているわけではない。そこには、少女時代の楽しかった思い出(手紙1、手紙2、手紙3)やアレックスとのラブストーリー(手紙4)、ジュビリーシンガーズの一員として活躍した思い出(手紙6)などが、生き生きと描き出されている。なかでも、「56年も前の黄ばんでボロボロになったレコード社の新聞を持っています。[中略]この新聞を見ていると、[マンリー兄弟との]幸せな日々を思い出す。遠い昔の幸せな日々に私を連れ戻してくれるのです」(手紙5)という部分は印象的である。キャリーにとってレコード社の新聞は、人種暴動の記憶というだけではなく、マンリー兄弟との幸せな日々や自分自身の充実した人生の記憶へとも繋がっていたようだ。手紙から浮かび上がってくる活発で幸せなキャリーの人生は人種や差別の脈絡だけでは語りきれないものだったのである。それゆえ、この手紙を書く時点で80余年を生き抜いた一人の女性の生の声が伝わってくるのである。
 こうしてキャリーの手紙は、キャリーというアメリカ合衆国に生きた一人の人間の等身大の姿を私たちに見せてくれる。その人生の記憶を私たちが今辿ることによって、キャリーをとりまいた日常も見えてくる。言い換えれば、これは、アメリカ合衆国の歴史における「人種」のありようを、ステレオタイプのフィルターを通さずにありのままに理解する一助となりうる貴重な史料である。



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