1998-05-16 専修大学社会科学研究所・国民経済計算研究会
高次複雑系経済学の条件とVisualBasicによる総合シミュレーターの開発
吉田雅明(専修大学経済学部) 

The Day after 'Complexity' −「複雑系ブーム」の後に経済学が手にするもの。カオス、セル・オートマトン・・・といったツールの移植だけではそれを期待することはできない。経済システムの捉え方そのものの反省、それに伴う経済モデルの基本設計の次元からの変更が必要だ。

1.以前から囁かれてきた「複雑系」ブ−ムへの懐疑
要素還元主義的な科学観に根本的な変更を迫るものという漠然とした了解・期待はあるものの,統一性は現れそうになく,ツ−ルの移植とシミュレ−ションに終始している.科学観の反省につながる深い議論や,新しいシステムの構築に結びつく積極的な動きがないと,目新しいツ−ルもやがては飽きられる.
Horgan「岐路に立つサンタフェ研究所」SCIENTIFIC AMERICAN 1995.6(日経サイエンス1995.8)
金子邦彦「生成-崩壊のダイナミクス」『数理科学』No.396
「複雑系という言葉が使われるケースが増えてきたように思う.しかし,残念ながら,きわめて表面的にただ『単純でない』という意味で使われ,その研究を標榜していても新しい視点が見られないことがある.還元主義からの脱却を訴えていても,ではどうするのかという積極的提案が全く欠けていることもある.単に全体が部分の和ではないというだけであれば,非線形であれば自明であり,早晩見放されてしまうであろう」

2.社会科学において複雑系を考える上での問題点
対象となるシステムとその観察者にとっての複雑さを考慮すること(自然科学の場合)に加えて,そのシステムの中の主体にとっての複雑さの意味を考慮する必要.→「実在の条件としての複雑さ」(塩沢1997)
これは主体の捉え方,社会の捉え方に特異なディシプリンをもつ経済学にとっては,基本設計の変更をも迫るもの.この問題への研究者のスタンスがそれぞれの「複雑系経済学」の基調を決めている.

3.古くからの問題と新しいツールの結合の可能性
主体・システムの捉え方についての経済学の基本設計の変更要求
満足化原理(Simon[1945])
社会主義計算論争の中で見いだされた知識が分散所有される市場観(Hayek[1935])
近年のコンピュータ科学の展開の中で利用可能になったツール,カオス,セル・オートマトン,ニューラルネット,遺伝的アルゴリズムなどは,こうした変更要求に見られる構想を具体的なモデル化する手段を与える.折角生まれた機会を見過ごすわけにはいかないと思うのだが,複雑系経済学に関して示された仕事の多くの部分は基本設計はそのままにツールの移入ばかりが目立つ.

4.様々な「複雑系経済学」を整理するために
    システムの力学   想定される常態  時間構造 
    線形システム    ユニークな平衡 システム  主体行動
              複数平衡        可逆的   可逆的 
    非線形システム  ストレンジ・アトラクタ
    非平衡状態       不可逆的  不可逆的
 
    主体間の影響      主体計算の結合度      主体の合理性
    単主体         リジッドな結合       完全合理性
    多主体・相互依存なし                       視野
    多主体・相互依存あり  ルーズな結合        限定合理性  作用
                                     推論

 時間構造と経済システムの捉え方
 J.Robinsonの分類    G.L.S.Shackleの分類          L.A.Zadeh 不適合性の原理
             期待的時間             巨大・複雑なシステムを方程式体系
  歴史的時間      歴史的時間             でモデル化・解析的に処理すること
             機械的時間             の困難
  論理的時間       無 時間       (Outline of a new approach to the analysis of complex systems and decision process, IEEE Transaction on S.M.C. Vol.3-1, 1973)
 ルーズに結合したシステムの利点
  個々の環境変化に組織全体が反応しなければいけない蓋然性が小さい
  環境に対する敏感な感応機構・局部化された適応可能・障害の局部化
  多様性を保持しうることにより、広範囲の環境変化に対応 安価な運用が可能
 (Weick, K.E., "Educational Organization as Loosely Coupled Systems", Administrative Science Quarterly, Vol.21, 1976.3
  田中政光「ルース・カップリングの理論」『組織科学』Vol.15, No.2, 1981)

 情報処理バッファとしての貨幣・在庫

5.最上位スペックの複雑系経済学を作らない経済学者の特殊事情
体系の論理性,簡潔さ,数学的洗練度において,他の社会科学に対してきわめて優位にあるという自負や制度としての安定性は,いまさら人間が最適化を行っているのか,本当に観察される状況は経済学の想定する均衡といえるのかという「素朴な」疑問を押し殺してきた,というと必ず出てくる反論

経済学は厳密な最適化を要求していない,たかだか2,3の選択肢があるとき最良を選ぶという程度の主張しかしない
→ 一般均衡理論の完成形であるアローのモデルは選択可能なすべての変数について厳密な最適化行動を要求している.個々の主体が現れた選択肢の最初の2,3個ごとに最適なものを選択しても,現れる順序に関係なくもとの一般均衡が保存されるという証明は行われていない.
限られた範囲の最適化選択を繰り返しているうちに全変数を考慮した最適解に到達すると考えればよい
→ 個々の選択が実行されても主体の保有資源量ベクトルは変化しない,つまり当初の最適化問題が扱っている状況はなんら変わらないことをまず証明しなくてはならない.ここには時間は繰り返し可能であるという,われわれの直観に反する想定が要求されている.限定合理性を論じる際のベースとなる繰り返しゲームにしても,真の利得表は不変であることが想定されている.
反証可能性が保証されていることが重要なのであって,仮説の非現実性は問題ではない
→ 実証データによって経済学の理論のハードコアが反証されたことなど一度もないのである.実験経済学でゲームを実際の人間にプレイさせてみて,理論モデルの帰結と合わないときに行われることは,その状況と矛盾しないような均衡解を生み出すような,やはり別の最適戦略モデルの開発である.
一般均衡など想定しておらず,部分均衡を想定するだけだ
→ 部分均衡が「他の事情は一定」として考慮しないことから明らかなように,それが一般均衡と整合的になる保証はどこにもない.そもそも観測されるデータが部分均衡状態を示している根拠はない.
競争が有効に行われている社会の中の複雑な主体行動は満足化や定型行動のように単純ではない
→「複雑な行動」の記述という点については,定型的反応の組み合わせよっていかなる複雑な処理も可能になるというチューリング・マシンの万能性を想起すれば,満足化原理に対してこの批判は妥当しない.しかも情報収集,情報処理,変数操作の能力上の限界を考慮すれば,その「複雑な行動」が最適化行動であると考えてよい根拠はない.

しかしながら,このような状況はあまりにも長く続き,いつしかそれが「制度」のように固定化してしまい,新古典派経済学を批判しようとする者でさえも,「最適化行動・均衡という枠組みを外しての新古典派批判は単なる超越的批判にすぎない.批判は内在的でなければ意味をもたない」と考えるようになった.新古典派と同じ土俵に立った上で違う結果を出してこそ,その理論の問題点を浮かび上がらすことができる,という意見にも一理はある.かつてのケンブリッジ資本論争において,ポスト・ケインジアンが注目・評価されたのも,この点が大きい.しかし,複雑系が問いかけていることは,われわれの経済そのものをいかに理解すればよいのか,ということであって,経済学者をいかに説得するかではない.

6.複雑系を論じながらも対照的な研究スタンスの例
『複雑系の経済学−入門と実践』(複雑系経済システム研究センタ−,ダイヤモンド社)
「新古典派経済学を基礎として,それを一般化することによって,複雑な現象を生み出す仕組みがより明確に見えてくる.本質を理解しない人間が現象を複雑にとらえているが,その背後にある自然界の法則は簡単であり,異なった現象の中にある同一性に気づけば,物事は簡単になる−これが単なる抽象的な哲学ではなく,自然から社会まで普遍的に存在する現象に裏づけられる体系となったときに,新しい見方と考え方が生まれる.それが複雑系のパラダイムへの転換であると思う.」
「景気循環を生じるモデルを作るのに,外生的景気循環理論のように市場均衡を前提としないのであれば簡単である.最適化動学モデルでも循環が生じることを示すことにこそ意義がある」

『複雑さの帰結』(NTT出版)『複雑系経済学入門』(生産性出版)いずれも塩沢由典1997
複雑系経済学は「人間が有限の能力をもった存在であるという,じつに平凡な観察を理論形成の出発点に」おく.有限の能力というとき,それは1)視野の限界,2)合理性の限界,3)働きかけの限界を意味する.このうち,とくに第2の合理性の限界,すなわち人間の推論能力の限界を考えることは新古典派経済学との訣別を意味する.最適化行動が実行不可能ならば,需要関数・供給関数を構成することも不可能になる.

7.フル・スペックの複雑系経済学構築手順
産出量決定などの重要部分においては,最適化行動が一切登場せず,議論を構成する上で均衡概念も用いていない『一般理論』形成過程上のケインズのテクストを整理して得られたものがプロセス集積体系.正常概念を基準とした定型的行動をとる様々な主体が,均衡か否かに係らず,不可逆的にロ−カルな情報に基づいて判断・行動を実行するものとされている.「基本方程式」の編は消費者部門の企業家と労働者家計のこうした行動のリパ−カッションを描き,乗数過程の基礎を示しているが,プロセス集積体系はこれをすべての主体グル−プが登場するように一般化したもの.出発時の関心は異なるが,結果として得られた体系は複雑系経済学をフル・スペックで実現するものとなった.以下に構築手順を示す.

1)まず,経済主体はH.A.Simonのいうところの満足化原理に従うものとする.
  すなわち,経済主体はその出力変数(基本的に1変数−働きかけの限界に対応)の調整に当たって,経済システムの変数全体を見ることなく(視野の限界に対応),行動に先立ってローカルな範囲で関連する少数の変数を考慮,それぞれの変数を重視する度合いをウエイトとした加重和計算を行い,その満足化基準と大小比較を行い(これらは大きな計算能力を要求しない−合理性の限界に対応),それにより前期の出力値を上方もしくは下方に調整するものと考える.調整出力行動は取り消しのできないものとする(主体行動に関する不可逆的時間に対応).このような主体が多種・多数存在するものとする.
2)主体の出力値,満足化基準およびウエイトはそれぞれの種類ごとに初期データとしてあたえておく.満足化基準値は入力加重和とのギャップが一定期間以上発生したときには修正されるものとする.
3)上記の多種・多数の主体を相互結合型ニューラルネットワーク,もしくはセル・オートマトンにおけるユニットと見なし,組み合わせ(多主体・相互依存あり,主体計算におけるルーズな結合に対応),シミュレーション・システムを構築する.組み合わせるに際して,同種主体をまず1つのネットワークとして構成し,そのネットワーク間の相互結合系として経済システム全体を表現することによりモデルの操作性を確保する.その際,一定期間ごとの取引関連出力をまとめることにより産業連関表を出力させ,また,GNPの変化を出力させる.
4)上で構築したシステムを動かすことにより,満足化基準値のセットの振舞い,GNPおよび投入産出構造の変容パターンを実験的に観察する.このいずれも非線形システムとして振舞うことになるが,各平衡状態だけでなくそれに至る以前の過程も明らかにされる(非線形システム,非平衡状態に対応).前者は定型的行動の背景にある定常性がいかに形成されるかを明らかにし(塩沢のいうミクロ・マクロ・ループの具体化),後者は経済構造変動への知見を与えるとともに,その平衡状態においては再生産理論にマイクロ・ファウンデーションを与える.
5)1の段階で外部入力を明示することにより,政策・環境のシステムに対する影響を分析することが可能になる.この場合,このシステムの振舞いが安定するとき,これが開放定常系であることがより明確になる.


8.シミュレーターの仕様
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9.経済学の「関心」の転換

   資源の最適配分表現・最適化の意味での合理性をベースにした経済的経験理解・・・から
   不可逆的な時間構造を有し、自律性をもち能力に限界のある主体が構成するルーズなシステムの振る舞い、頑健性・・・についての理解へ
  日常の意味で了解可能な行動前提にたつ経済学 「記述的」?「非理論的」?