堀容子留学体験記「ネブラスカ留学体験談」
|
99〜'00 ネブラスカ留学体験談
経済学部国際経済学科 Hori.Y
私は、1999年5月から、2000年の5月まで、ネブラスカ州立大学リンカーン校へ、交換留学生として経済学を勉強しに行ってきた。ここでは、私の伝えなくてもいいような恥ずかしい体験などの一部を長々と日記のように書いてしまったが、まぁ、少しでも私の思い出を共有してくれる方は読んでください。
ほとんどの人がネブラスカと聞いてわかる人はいないと思うが、アメリカのど真ん中にあり、とうもろこし畑ばっかりでできている所だ。有名なのは、そのとうもろこしと、大学のアメフトチーム。その名もCorn Huskersである。アメリカの大学内ではかなり有名な強豪アメフトチームだ。大学内のスタジアムで試合があるときはリンカーンダウンタウンの総人口よりもスタジアムにいる人口のほうが多くなるくらいである。それほどリンカーンは小さい町であり、少し車で離れるとそこにはとうもろこし畑が延々と広がっている。夏は東京よりも暑く、冬は寒い。マイナス20度くらいになる事だってあった。寒いのが大嫌いな私は、専大の協定校の中で一番南にあったネブラスカ大学を安心して選んだのに、冬は大変だった。
今回、一緒に専大からネブラスカへ行く学生は私も含めて5人だった。Selleckというキャンパス内にある学生寮での生活が始まった。私たちは、他の協定校への学生と違って1年間寮に住んだ。5〜8月は、英語集中講座(Intensive English Program)で、一番初めにPlacement Testをクラス分けのために受けた。結果は、5人とも同じような点数を取り、仲良く全員同じmiddle classだった。しかも、このクラス全部で7人のうち、一人の韓国人のおばさんを除いて全員日本人である。しかも、そのおばさんは、もと韓国語・日本語通訳をしていたので、日本語堪能だった。ほかのクラスではほとんど日本人はいないのに私たちのクラスはほとんど日本人クラスになっていた。こんなクラスでいいのかと、全員思いながらも、クラスが始まった。朝8時半から3時半までGrammar, Writing, Reading, American Topics(Pronunciation), Listeningと授業が続き、ほとんど高校生のようなスケジュールだった。日本人クラスながらも、私たちは常に英語以外お互い話さないようにと誓い(これは結局1年間続いた。)9月から始まる正規授業に向けてとにかく自分たちの英語力をつけようと努力した。この日本人クラスでは、日本人特有の弱点(Grammar以外の部分)を集中的に勉強できたので、結果的には良かったと思う。
正規授業を受けるための準備も始まった。一番最初にぶつかった大きな壁はその手続きだった。自分が健康で、病気を持っていないことを示さなければならないのだが、日本でわざわざ高いお金を出して、しかも大っ嫌いな注射も受けた健康診断書が病院のはんこがないということで、もう一回受けなおさなければいけないと、Health Centerの長みたいな人に言われてしまった。「アメリカはサインの社会じゃないのー?」と怒りつつも、私の英語力では到底説き伏せる自信がなかった。合計3つの注射を、しかも同じ注射をまた受けなければいけない。これは納得いかないと思った私は言いたいことをあらかじめ紙に書いてそれを丸暗記し、またHealth Centerへ出向き、その長に、注射の跡を見せながら訴えた。結局、ひとつの注射は免除された。(ほかの2つは受けた。)これを機に、私は自分の英語力不足を痛感し、こんなことに泣き寝入りしなくてもいいようにがんばろうと誓った。ここでの教訓は、「面倒くさがらず、言いたいことは言う。たとえ、英語が陳腐かろうが、笑われようが。話さなきゃ話せるようにならない。」ということだった。
なんやかんやでここまでアメリカ人と関係する事柄には、やさしいIEPの先生方以外、いい思い出もなかった。アメリカにいながらもアメリカ人恐怖症になりつつ、いよいよ新学期、Fall Semesterが始まった。ここからまた、さまざまな出会いがあり、アメリカ人に対する考え方も変わっていったのである。めちゃくちゃ緊張して望んだ初授業で、教室に入り、まず驚いたのは、ほとんど全員の学生が新聞を広げて熱心に読みふけっていたことだった。私もテーブルと合体した椅子に座ったものの、テーブルの出し方がわからず、一人で挙動不審だった。とった授業は、マクロ経済学、ミクロ経済学、国際比較関係論、ESLである。そのひとつ、国際比較関係論の授業では、Semesterをかけてあらかじめ決まったグループでひとつの論文を作り、クラスでプレゼンテーションもするというグループ・プロジェクトがあり、毎週Recitationという追加クラスもあった。私たちのグループは全部で4人。本当は3年生しか取れないクラスだったので私だけが2年生。しかも、私たちのトピックは、日本経済で、他のメンバー3人は日本のことをほとんど知らない。日本がアメリカを意識してるほどこっちの学生は日本を意識してないのかと感じつつ、プレッシャーは当然あった。でも、この経験は私にとってとてもおもしろい体験になった。授業外でも誰かの家に集合してミーティング。といっても、お菓子を食べたり、関係ないおしゃべりをしながらもどんどん論文はできていき、この学期が終わる頃には、3人ともよい仲間になりつつ、論文も早めに書きあがった。私の知識不足も認識したし、3人の勤勉さにも感心し、よい刺激を受けた。
ここからは私の出会った友人について書こうと思う。この学期に入ってから、今までのルームメイトだったタイ人のメイに変わって、新しいルームメイトが来た。どんな人だろうと思っていたら、私達が本で習うような典型的なアメリカ人だった。身長が173か、4くらい(アメリカ人の中でもでっかい)のローラという20歳の子。もともと私の荷物は少なかったが、私達の部屋はあっという間に彼女の部屋。壁には色とりどりの統一感のないポスター、狭い部屋に一人用ソファが2つ。二段ベットも入って、私の荷物や机は勝手に動かされてるし。いっつも音楽ついてるし、夜遅くまでテレビ見てたり。私の貸したCDウォークマンや、テレビのリモコンは扱い方が荒っぽいから壊されるし。これから絶対長くやっていけないだろうな、と確信せざるを得なかった。外国人留学生とは接点を持ったこともないという感じだった。しかし、何気に夕食に誘ってくれたり、勉強を教えてくれたり、私が困ってるときは彼女の友達にも相談してくれていた。友達と出かけるときは絶対誘ってくれる彼女を見ているうちに、彼女なりに気をつかってくれてるんだな。ということを感じはじめ、彼女の友達とも仲良くなっていった。2人とも夜遊びが好きで、週末は(週中でも)一緒にクラブやBarに着飾って出かけたり、ワイワイ飲んだりして、気づいたら、一番一緒に遊んだり、旅行にも一緒に行くようになり、残りの10ヶ月間を一緒に過ごした。彼女は、いろいろ教えてくれた。ハロウィンのJack O' Lanternの作り方から車の運転、スラング、ゲイバーまで。とにかく、授業では習えないことをたくさん教えてくれた。 真
真ん中がローラ(Saint Patrick's Day)
Spring Semesterに入り、季節はすっかり寒くなって、寒いのが苦手な私には、授業も始まってしまって、つらい季節でもあった。しかし、そこで私の力になって刺激を与え続けてくれたのが、キンバリー。彼女は、前のセメスターで一緒のグループだった女の子で、偶然、Spring Semesterで同じ授業をとっていた。とっても勉強ができ、フランス語もうまい子で、いつも明るく優しく、男の子からも人気があった。私たちはとても仲良くなり、彼女は私をいろんな所に連れて行ってくれた。そのうちに、彼女の私生活も知っていくと、大変な苦労があることがわかった。彼女のお父さんは獣医をしていて、そして、お母さんは車椅子に乗っていた。枝のように細い腕と脚、とっても小さな体で、とても40代には見えないほどしわしわな体。一度、危篤になって、生死が危うかったときもあったそうで、またいつかそういう状態になるかわからないと、いつもキムはお母さんのことを心配していた。そんな母親を毎日のようにリハビリセンターや病院に送り迎えし、その間に彼女はアルバイト。その合間に勉強し、あんな優等生なのである。アメリカの学生はだいたいの学費も自分で稼ぎ、授業と両立していると聞いていたが、彼女はまさにそういう学生だった。一度、彼女の母親と一緒に私をそのリハビリセンターに連れて行ってくれた。キムは、腕と同じくらいの太さしかない脚と補助器具を使って一生懸命歩こうとしている母親を見て、涙ぐんでいた。キンバリーには、フランスに留学したいという夢がある。しかし、いつ緊急の自体があるかわからないから母親のそばを離れられない、だから私がうらやましいと言っていた。キムは、成績優秀者として表彰されることになった。その物々しい式典で、キンバリーが出たときにとても誇らしげにしていた彼女の母親を見て、私は涙が出そうになった。私が今まであたり前と思っていたことも、本当はとても幸せなことで、それを支えてくれているのは両親で、結局は私のしたいことを自由にさせてくれているということを思い出し、今の時間を無駄にできない、がんばろうと思った。
Kim(成績優秀者を表彰するセレモニーで)
ここでの勉強環境について紹介すると、各寮にコンピューター室があり、ウィンドウズとIマックが半々づつくらい置かれていて、24時間使えた。図書館も夜の11時くらいまで開いていた。テスト前にはキャンパスに勉強部屋も増え、そこでは夜食用のハンバーガーやジュース、スナックなどが無料で置かれていた。日本の大学での環境とだいぶ違うことがわかるだろう。クラスのほうでは、フィールドワークが多く、企業のマネージャーや、雇用人にインタビューをしに行き、そこから発見をすることは、大変ながらもいい経験だった。その授業は、Women and Work in the U.S. economyというものだったが、「これが、アメリカのフェミニズムか。」という印象。違う文化で育ったからなのか、理解の難しいところもあった。エクササイズの雑誌やファッション雑誌に水着の女性が表紙になっているからといって、その先生は雑誌を親指と人差し指でつまんで、いかにも汚いものを扱うかのように扱い、また、「なんで結婚式に白のウェディングドレスを着なきゃいけないの?私は黒を着るわ!」など、日本ではあまり聞けないような言葉が聞けた。その授業では、教授の息子さんや、その友達が来て一番前の席に座って一緒に授業を受けていることもよくあり、日本では考えられないことだと思った。この時期は、デズモンド・チュチュさんをはじめ、他の活動をしている方々の学校主催の公演にすすんで出席もし、授業外での収穫も多かった。授業以外といえば、映画をよく見た。ひと映画4ドルちょっと、少し古いのだと1ドル75セントとか。バターたっぷりのポップコーンにコーラを買って見るのが私の定番で、だいたい40作以上は観た。複数回みたりもするので、ざっと計算して一週間に一回程度、映画館に行っていたことになるのだろうか。
ESL(アメリカ人以外の生徒のための英語の授業)は、唯一気の張らない自由な雰囲気の授業だった。このクラスには、いろいろな国籍の人がいて、このクラスでは、私だけが日本人だった。毎回トピックは違ったが、ひとつの授業の例を挙げると、第二次世界大戦でアメリカが日本に原爆を落としたのは正当だったか否か。という問題で、2つのグループに分かれ、相手グループを納得させるように証明するという授業をした。驚いたことに、クラス内で、原爆を落としたことに賛成という人数が、反対と言う人数と同じくらいあった。偏見かもしれないが、賛成グループにはサウジアラビアや、トルコなどの中近東の人が多かった。原爆を落とさなければ戦争は終わらなかった。それが戦争というものだ。原爆で犠牲にしなければ、もっとたくさんの人が死んでいた。というのが彼らの意見だった。教育された場所や文化、または社会の構造、思想の違いってとても大きいんだなと、改めて環境の人への影響力の強さを感じた。
ネブラスカは、圧倒的に白人の多い地域で、この留学を通して、人種の問題の難しさも感じた。また、たくさんの人々と会い、違う文化をありのまま、偏見を持たずに理解することの大切さを痛感した。文化に良いも悪いもないということ。それぞれ、歴史があり、文化があり、そして、一人一人も違う。相手を理解して認めることがコミュニケーションをとる上で大切だと思った。