平等主義
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07-0808A 宮澤 淳戦後の基本的基盤を「平等主義」と「競争否定」と述べた本書に対して率直な見解を述べようと思う。
弱者保護・平等主義が政策に貫かれていると本書で指摘されているが、果たして「貫く」という表現を用いて良いものだろうか。高度成長時の“追いつけ追い越せ”というキャッチアップ型の経済社会体制が敷かれていた時代と、平成不況を脱しようとしている現代とでは一掴みに解釈することは出来ないのではないか。現在、経済の国際化、自由化、成熟化が進展した現代、平等主義、競争否定を前提にした日本の制度はあちこちで破綻し始めている。制度にも多々あるが、企業制度については私経験が無いためここでは発言をさけて、教育制度を中心に見解を述べようと思う。
私は、義務教育は日本の誇るべき制度の一つであると思っている。現代社会においてもである。本書では、「今日的観点からはとんでもない誤解である」とあるが、何故であろう。たしかに、キャッチアップを遂げようとしていた明治時代以来の国策に沿って、国民に知識吸収を強要するという点で義務教育は適応していた。科学技術や近代思想などのギャップをうめるために、欧米の先進的知識を詰め込むことを目指して発達してきた。効率的に進める方法であったことは誰もが認めるところである。しかし、キャッチアップを終えた今では話が違うというのは急ぎ過ぎであると思う。
義務教育は国民全体が読み書きや初等中等教育を受ける機会を与えられる権利に基づいておこなわれる。「教育を受ける権利」が基本的人権に定められている今日の日本では、読み書きができない人(自分の名前が書けない人等)が少なくなってきた。諸外国に比べてもその率は低い。これは素晴らしいことであり、誇ってよいことであると思う。先進国となった日本では、読み書きができずに生活を満足することは非常に困難である。文字を書けないことを理由に快適な生活を送ることが出来ない人が今後誕生したとしたら、まず教育制度というより社会そのものから脱落することを意味する。
アメリカでは、生まれた地域によって予算や教育レベルにばらつきがある為、義務教育とはいえ画一的でないことが問題視されている。しかし、日本は幸いにして地域による教育制度のばらつきは少ないのだから、全員がほぼ均等の教育を受けることができる。
ここで問題になるのが、「競争否定」である。私は、義務教育中から互いに競争をしていくことが将来役立つと思うのだが、どうも「平等」の一言でうやむやになっている部分が現代では多いようである。しかもその一言とは「悪しき平等」である。
某テレビ番組で、ある学校で生徒の定期テストの成績上位者を掲示しようとしたところ、抗議があり波紋をよんでいるという記事について論争をしていたのだが、掲示反対側の言い分の中に「プライバシーの侵害である」という話が出てきた。また、同番組のなかで徒競争をする時、あらかじめ同じくらいのタイムの者同士で走らせるという記事も取り上げられていた。両記事共に「悪しき平等」である。ものの見事に私の意がこの一言に集約されている。番組の中でゲストが言っていた言葉が今も忘れられない。それは、二つの記事が提示され、一通りの議論の後、あるゲストが「だって、コンプレックスが人間を育てるんだぜ!?」と皆に向かって叫んだ場面である。ものすごい言葉である。私は目から鱗が落ちた。そう、コンプレックスが人間を育てるのである。コンプレックスとは、自分が外部から刺激を受けて他人と異なる能力を持っているということを認識した時に持つ感情であり、自分を磨くことのできる感情であり、そして本人自身しか感じ得ない非常に重要な感情なのである。それはチャンスなのである。
義務教育は必要である。ただ何か気味の悪い綿みたいなモノで学生を「平等」の下に統治することは、決して好ましいことではない。現場の先生方もそれは感じているのではないのか。私の両親は共に高校教師であり、私は幼い頃から学校教育に関係する様々なことを聞かされてきたが、よく「我々はいいが、これから先生になって生徒を指導する人は大変だ。」という話を聞く。何故かと聞くと、「生徒の質が変わってきている」と言う。どういうことであろう。おそらく、物が充実していなかったキャッチアップ型社会の学生と、現代の成熟した社会の学生は思考方法が異なるのではないかと思う。それは、「第二次大戦前後に育った親子の子供」と「高度成長時代に育った親の子供」の違いではないか。
時代は変わり、生徒の質も変化しているのは確かなのだが、「コンプレックス」が人を育てるのに代わりはないと私は思う。後悔や敗北、劣等感、罪悪感など様々な刺激に対して立ち向かう“心”を私は信じている。もっと、もっと、競争の機会を設けて様々な刺激を与えるべきだ。私はそう思う。