97年度 望月宏ゼミナール 2年次進級論文

E08−0275H 鎌田 大介

 

テーマ:自動車産業における日米関係

 

 

 

論文構成

序章 はじめに

  1. 日米自動車産業の発展の経緯

  1. 日本の自動車産業の発展経緯
  2. トヨタ式生産システムの確立
  3. アメリカの自動車産業の発展過程

  1. 日米自動車摩擦

  1. 日米自動車摩擦を生んだ背景
  2. 自主規制による日米の効果

  1. 生産方式の根源であった企業体系

  1. 日本型生産システムの特徴とアメリカとの比較
  2. 日米の企業体系の違い
  3. 日本型開発システム

  1. 変貌を遂げつつあるアメリカ自動車産業

  1. 日本の現地企業がもたらしたもの
  2. 系列化に向かうビッグスリー
  3. 注目されるサターンプロジェクト

終章

参考文献

 

 

序章 はじめに

 

日本の自動車産業は、戦後の1950年に生産台数は3万台に過ぎなかったものが、80年代には1000万台を越え、ここ40年の間にその生産台数は400倍にも激増した。(図−1参照)

そして、95年では日本の自動車産業は車体、部品を含む自動車生産額が39兆に達し、日本の全製造業の生産額(292兆円)の13.4%を占めている。

最近ではバブル経済の崩壊による国内市場の低迷で、「その地位は低下した」などと言われるが、これは自動車産業のみならず、あらゆる産業にマイナス成長をもたらした。しかし日本経済全体で見ると自動車産業の占める位置は落ちるどころか逆に上昇しているともいえる。(図−2)これは、自動車産業が日本経済の基幹産業にふさわしい実態を有している証である。

また、自動車産業は広範な関連産業をもつ総合機械工業であると同時に,組立メーカーを頂点に多数の産業分野から成り立っている。こうした自動車産業に、直接、間接に従事する就業者人口は約712万人で、これは日本の就業人口の11.0%を占め、雇用普及率の高さでは製造業でトップに位置している。

このように日本人の1割が関連している自動車産業は、60年代の高度成長とモータリゼーションによって国内市場を急速に拡大してきた。そして、73年のオイルショックを転機として対米輸出が急増し、自動車産業をいっそう発展させるに至った。このような海外輸出の増大の要因は、日本車の低コスト、低燃費、高品質という国際競争力の強さにあった。

「自動車王国」と呼ばれていたアメリカに遠く及ばなかった日本であるが、今日では品質、技術力などあらゆる面でその立場は逆転していると言えるであろう。

本論文では、日本の自動車産業の成長過程を分析し、その最大の輸出国であるアメリカと日本の関係を中心に、日米自動車摩擦の背景やそれぞれの生産方式を比較し、なぜ日本の自動車産業がここまで発展したのか、その要因を探っていきたいと思う。そして対するアメリカが、今日、国際競争力を回復するまでの経緯を述べていきたいと思う。

 

 

 

1 日米自動車産業の発展の経緯

 

1930年代に入るまで、日本を走っていた車はほとんどが外国製であった。日本ではアメリカのフォードが25年に横浜、GMが27年に大阪にそれぞれ組立工場をつくり、乗用車の生産を始めた。日本で本格的に自動車会社が設立されたのは33年の日産自動車、37年のトヨタ自動車に始まる。この章では、日本の自動車会社に関しては、現在国内シェア40%を占めるに至ったトヨタを、アメリカはビッグスリー(GM、フォード、クライスラー)を例にそれぞれの発展経緯について述べていく。

 

1 日本の自動車産業の発展過程

ここでは、戦後日本の自動車産業発展において、中心的な存在であったトヨタを例に述べていきたいと思う。

トヨタは19378月、トヨタ自動織機から分離して設立された。当時の政府は、軍事上の要請から、自動車とくに軍用車の国産化をすすめるために、日本市場を支配していたアメリカ・ビッグ・スリーを締め出す目的で、「自動車製造事業法」を制定した。この法律にもとづいてトヨタと日産が許可会社となった。トヨタはまもなくやってきた戦時体制下でのトラック量産化をすすめ製造技術を蓄積し、戦後の発展にむすびつけることになる。

2次大戦後、占領軍による民需転換の条件を機にトラック、乗用車の生産を再開したが、49年のドッヂ不況下で経営危機に陥ってしまう。これにより工場の閉鎖などを余儀なくされた。この時、朝鮮戦争が勃発する。トヨタは特需によるトラック、タンクローリー、ダンプ、ジープなど総計4679台、46億におよぶ発注があり、戦時中の経験と技術を活かし売上高を49年の倍に増加させたのである。(朝鮮特需)

こうしてトヨタは、生産の再開を軌道に乗せ、戦前の生産水準を回復し、「生産設備近代5ヶ年計画」を策定、一挙に月産2倍の3000台を目標に、設備機械の導入を開始した。

トヨタがこのように順調な発展をとげていくなかで、その発展要因として見逃すことのできない2つの問題が指摘される。ひとつは組合の変容であり、もうひとつは、工場用地や計画道路など、自治体によるトヨタ・インフラストラクチュアの整備で、これらはのちの高度成長期トヨタ発展の重要な要因をなすものとなる。

 

 

トヨタ労働組合の変容

54年の組合役員選挙において、技能者養成所出身者を中心とする「再建同志会」が執行部を掌握し、全日本自動車労組トヨタ分会を解散し、新たにトヨタ自動車労組を設立した。そして、この組合は「労働者の生活安定と産業および企業の発展は車の両輪」という運動方針を採択し、ここに労使協調を路線とする今日のトヨタ労組が誕生するにいたった。そして、この組合は同年7月、生産性本部主催の欧米自動車生産性調査団に代表を派遣した。当時のアメリカは最新の自動車技術を気前よく日本の自動車会社に提供してくれたのであった。日本の自動車会社はアメリカの先進の自動車技術を吸収するため、技術者を次々にデトロイトに派遣し、アメリカの車を買ってきて、リバース・エンジニアリング(完成車を解体して、それを逆に組み立てることによって製造方法を学び取る手法)によってアメリカの技術を吸収するといった努力も行った。他方、経営協議会を組織したり、また、現場監督者の教育としての「創意工夫運動」への協力、さらには、下請・協力企業の組合の組織化による全トヨタ労連の結成などにむけての積極的な働きかけをはじめた。このような組合の会社と一体となった協力体制、いわゆる「安定的労使関係」がなければ、トヨタ生産方式の定着も、今日のトヨタの発展も考えられなかったであろう。

政府、地方自治体のトヨタ育成策

政府・通産省は、すでに1950年代には、いち早く日本の自動車産業を基幹産業として保護・育成する方針をうちだしており、まず外国車の輸入に対して高関税策(3050%)をとり、さらに、60年代に入れば、貿易自由化への対応として国際競争力を高めるため、「機械工業振興臨時措置法」の制定、新規、メーカーの進出抑制、各メーカーへの資金援助のための財政資金の重点投入などの政策を打ち出し、トヨタをはじめとする日本の自動車メーカーの保護育成につとめた。このような政策を背景として、地方自治体による自動車メーカーに対する積極的な育成策も、この時期を特徴づけるものであった。

地方自治体によるトヨタへの利益供与は、第1に工場用地の廉価供与、第2に道路網など輸送手段の整備、第3に税制面からの優遇といったものがあげられる。

まず、トヨタへの工場用地の地方自治体による供与であるが、トヨタは本社、10工場、部品センターなど愛知県下に1581ヘクタール以上の土地を所有している。これらの土地の大部分は、県や関係市町村の斡旋などによるものである。60年代、トヨタは3つの工場用地を買収しているが、いずれも買収価格より安く譲渡されている。それのみならず、用地買収に合わせて用地整備や取付道路、水路整備などの付帯工事費も自治体が負担しているのである。70年代には、トヨタの工場用地は県企業局が開発、提供している。このように、自治体によって広大な土地がトヨタに安価に提供されたことは、トヨタの蓄積基盤の整備とその後の発展に大きく寄与したといえるであろう。

2は、道路網、交通手段の特別な利便がトヨタに与えられたことである。トヨタとその企業集団の県内への集中立地と関連企業群の階層的編成には、この道路網が重要な媒介手段となっている。すなわち、トヨタの企業集団にとって道路は、部品をつくる下請工場と組立ての本社工場をするベルトコンベアであって、これがなければ「ジャスト・イン・タイム」も「かんばん」方式もなりたたないのである。地方自治体は、トヨタの工場立地戦略に合わせて計画道路整備してきたといわれる。69年には東名高速道路が開通したが、トヨタ元町工場の至近距離に豊田インターチェンジが作られ、これによってトヨタはさらにいっそう有利な広域交通条件が与えられた。その他にも、名古屋港を自動車の海外輸出基地に、そして県企業局造成の衣浦臨海部取得地を国内向移出基地にそれぞれ機能を分化させていくなど、愛知県はこうしたトヨタの立地戦略に対応させて、第3次広域交通網整備計画を推進している。

3は、工場誘致条例の制定にみられるトヨタへの便宜の提供である。この条例は、新設工場の固定資産税、市民税の合計を5ヶ年間にわたり奨励金として交付するという内容のものであるが、これに工場用地の斡旋や産業基盤整備などの便宜を与えることが加えられている。この奨励金の交付は自動車関連の50工場(全体の80%)が148800万円(全体の99%)の交付をうけ、またトヨタ1社だけでも107000万円(全体の72%)もの交付をうけている。

以上のように、地方自治体によるトヨタへの直接的な産業基盤整備の便宜提供をみてきたが、これ以外にも、港湾、鉄道、橋梁や工業用水など様々な国、地方自治体の産業基盤育成策が、この60年代に展開された。このような背景のなかで、トヨタは量産体制を確立していくのである。

 

  1. トヨタ式生産システムの確立

こうした1960年代のトヨタの量産体制の確立に大きく寄与したのが、トヨタ生産方式であり、下請企業の管理システムとしての「かんばん方式」であった。

自動車産業は数多くの部品を加工組立し、生産する機械加工組立産業であり、その社会的生産構造は、完成車メーカーを頂点に、1次部品メーカー、2次部品メーカー、3次部品メーカーと広い重層的な構造をなしているのが特徴である。これは完成車メーカーが大手部品メーカーや多数の小規模企業と直接取引していて、階層構造を形成していない欧米の自動車工業にくらべ、きわめて独特なシステムであるといえる。

しかも、トヨタはこのように膨大な数の下請・関連企業を、比較的数の少ない1次部品メーカーを直接に生産工程と結びつけることによって、全体を効率的かつ組織的に管理する「かんばん方式」を導入しているのである。「かんばん方式」とは、部品の見込み生産をやめて後工程で消費した分をその都度前工程で生産し、補充する方式である。そのさい、「かんばん」と称する生産指示票が前工程に渡されることからこの名がある。また、途中在庫が不要になるので無在庫方式ともいわれる。この方式の特徴は部品在庫をもたないノンストック方式であって、それを可能にしたものがジャスト・イン・タイム(JIT=指定時刻納品)と「少量頻回納品」とを組み合わせたものである。

しかし、トヨタがすすめていた生産標準化のための混流生産方式や車種の多様化競争にともなって、「かんばん」では対応できないほどに種類が増加し、生産工程が複雑化してきた。このような複雑な仕様や工程のため、部品配列をコンピュータで管理するようになった。(トヨタ・ネットワーク・システム)

このようなトヨタによる効率的な組織化と整然たる下請管理に典型的に示される大企業の下請中小企業の管理システムも欧米諸国にはみられない日本特有のものである。

 

3 アメリカの自動車産業の発展過程

アメリカの自動車の歴史は1903年にフォード、同8年にGMが設立されたことに始まる。10年頃の乗用車市場は実用車需要が高まり、20万台を超え、20年代には200300万台にまで拡大した。29年には戦前のピークの459万台を記録しこの頃には上級車需要が高まりはじめた。GMは上級移行と大量生産の開始により31年移行の乗用車販売で不動の1位を確立、この間25年にはクライスラーが設立された。30年代の世界恐慌により販売台数は大幅に減少したが、37年には回復し、この過程でビッグスリーのシェアは9割を超えた。36年には自動車労組(UAW)が結成された。

2次大戦中、自動車工場は軍需物資を生産し、大戦後は朝鮮特需により国内需要は50年代に500万台に増大し、乗用車の大型化、高級化が進んだ。60年代には800万台を超えセカンドカーとしての小型車の需要が高まるなど成熟化が進んだ。

70年代は2度のオイルショックにより小型車需要が急増した。オイルショックは60年代に本格的な輸出を開始した日本車の需要急増をもたらした。ビッグスリーも大型車のサイズダウンなどを実施したが製造技術が未熟であり採算性を確保できなかった。こうした結果、ビッグスリーの寡占市場体制は崩壊し、大型車の需要が減少、更には品質や生産性も相対的に低下してしまう結果となったのである。経済の低迷により需要が減少したこともあり、70年代末にはクライスラーが倒産寸前まで追い込まれ、80年代にはビッグスリー全てが赤字に陥ってしまった。このような状況の中、日本車の輸出は急増し日米自動車摩擦問題が浮上してくるのである。(図−3

 

 

2 日米自動車摩擦

この章では、日米自動車摩擦の起きた要因とその後の日米両国の影響を、双方の自動車の特徴を分析しつつ、さらに日本政府がとった自主規制によって双方にもたらされた効果について述べていく。

 

1 日米自動車摩擦を生んだ背景

アメリカビッグスリーは、1979年の第2次オイルショックとその後のアメリカ経済の不況の中ですさまじい荒廃を経験していた。ビッグスリーの伝統的に得意としてきた大型車が不況の影響をうけ、相次ぐ工場閉鎖で失業者は関連産業を含めいっきに増えた。また、ビッグスリー各社は次々と赤字に転落しつつあり、特にフォードとクライスラーはあわや倒産に近い状況であった。

このようなビッグスリー の苦境を尻目に、日本の自動車メーカーは日本車輸出急増で予想もしていなかった程の大きなビジネスチャンスを享受したのである。日本車は日本の国情もあって燃費のよい小型車は中心であり、60年代にそのコスト、品質面で競争力をつけ特に70年代に入って73年のオイルショックを合理化で乗り切って以降アメリカ市場に集中的に進出しはじめていた。特に北米市場が第1次オイルショック以降小型車にある程度傾斜し始めた時期と日本の進出がうまくかみ合ったのも幸運であった。第1次オイルショックの時にも米国市場の小型車シフトは起こっているが、76年以降石油の供給が落ち着くと再び大型車需要が回復したのである。

アメリカビッグスリーは50年代以降乗用車の大型車志向を強め、エンジンの排気量1つをとっても4リッターから5リッター以上(日本の大衆車は1.52.5リッター)のフルサイズの大型車が中心であった。その主な理由は、アメリカ全国にハイウエイが完成したことにより、長距離ドライブを楽しむファミリーカーとして大型車が選好された事と、大型車は小型車に比べて1台当りの利益が34倍くらいと高く重要な収益源であったことがあげられる。また、60年代半ばまで産油国であったアメリカのガソリン価格が日本の5分の1と安かったことも影響している。いずれにしても、ビッグスリーの収益構造を支えていたのは燃料を喰う大型車であり、大型車需要が安定していれば経営的には安泰であったのである。

しかし、原油価格が4倍に上昇した第1次オイルショック以降、石油エネルギーの節約は至上命令となり、75年成立したエネルギー節約法では78年から85年までにビッグスリーの生産する車に段階的に燃費効率の引き上げを義務づけた。これにはビッグスリーも重い腰を上げて、大型車のサイズダウンをや小型車の導入をはかったが、78年までは大型車の売れ行きが好調であったため小型車への切り換えは到底まにあわなかったのである。

そして、79年の第2次オイルショックによるガソリンの供給が一時的に不足すると、ガソリンスタンドに長蛇の列ができ、事態は一変したのである。

アメリカの消費者は少しでも燃費のいい小型車を求め、大型車離れをいっきに起こしたのである。この変化が起こる前と後での大型車と小型車の比率は6:4から4:6と逆転した。こうしてビッグスリーの生産する大型車はさっぱり売れなくなり、これに比べて燃費の良い、しかも品質的にも優れている日本車はよく売れたのである。(図−4)

ビッグスリーの凋落と危機はこのようにして起こり、デトロイト不況は誕生して間もないレーガン政権を憤慨させたのである。自由貿易の旗印を下ろして、一方的に日本車の輸入規制をやるわけにもいかず、アメリカの消費者が日本車を歓迎している現実を無視することもできず、だからといって、大量の失業者問題をそのまま放置する事もできない。

このとき、日本の政府・通産省のとった対米自動車輸出の自主規制は、まさに有効な政治的配慮であったといえる。

 

2 自主規制による日米の効果

このようにして始まった対米輸出自主規制とは、81年に日本政府と通産省が日本からの乗用車の対米輸出を年間168万台に自主規制することを内外に明らかにしたものであった。

この自主規制は急激な小型車へのシフトに適応できなかったため、どん底にあったビッグスリーに体制立て直しの時間的猶予を十分に与えた。怒涛の如く北米市場で快進撃を続け、78年頃の約12%の市場シェアを2年ばかりで倍増し、そのまま行けば3割以上のシェアを占めビッグスリーを圧倒しかねない勢いであった。(図−5)日本車に輸出の枠をはめたことによって、ビッグスリーはそれ以上市場を喰われる心配がなくなり、企業の再建リストラに専念する機会を与えられたのである。

トップのGMに比べ生産能力や市場シェア、そして販売力で相対的に劣勢にあったフォード、クライスラーはデトロイト不況の影響をもろにうけた。フォードは乗用車だけで、18工場あった工場数を半分に減らし、乗用車は8工場に生産を集約した。クライスラーは、12万人いた従業員(含むホワイトカラー)をわずか5万人足らずに減らした。

こうしてビッグスリーにとって悪夢であったデトロイト不況も4年越しで峠を越え、83年からはアメリカ景気の回復をバックに自動車需要が増大し、84年には100億ドルに近い史上空前の利益を上げるようになった。

この苦境を横目にトップのGMだけは赤字を出したものの、その販売力と金融力そして企業規模とマネジメントのパワーがあったために他の2社と比べると立ち直りが早く、苦境を脱することができた。しかし、この時のダメージが小さかったためリストラをおくらせ、90年代に入ってから苦境を生み出す要因となったのである。

一方、この規制によって日本の自動車メーカーが直面した問題は、規制枠の中で各社に割り当てる乗用車輸出台数をどうするかというものであった。結局、その割合は前年の輸出台数で決定されたが、海外輸出に出遅れていたメーカーにとっては相対的に不利であり、不満が強かった。しかし、ふたを開けてみると自主規制は日本のメーカーに大きな恩恵をもたらすことになるのである。当時、アメリカ市場で好評であった日本車に対する需要の強さは、自主規制による1種のカルテル効果をもたらし、日本車のプレミア付きの販売によって1台当りの利益を大きくした。アメリカ市場で小型車の需要が急速に拡大した中にあって、ビッグスリーの小型車供給能力は限られていた。戦後大型車主体でやってきたビッグスリーにとって小型車の生産を増やすのは至難の業であり、コンセプトが違うため設計からやり直す必要があった。部品メーカーも小型車用のコンパクトで高品質の部品をうまくこなすことができなかったのである。

そのようなわけで日本車には需要が殺到し、プレミアがついて飛ぶように売れた。例えば、トヨタのクレシーダ(マークU)がサンフランシスコのディーラーで12000ドル余りのものが17000ドルと5000ドルものプレミアがついたり、日産のサニーの中古車が自主規制前の新車価格をはるかに上回る価格で1年後取引されたりした。

さらに、859月のG5直前には1ドル=240円と円安傾向が定着し、輸出採算が向上した。このように自主規制によるカルテル効果と円安による輸出採算の向上により、日本の自動車メーカーは莫大な利益を上げたのである。

 

 

 

  1. 生産方式の根源であった企業体系

 

80年代初頭のデトロイト不況をのりきったアメリカビッグスリーは、打撃の比較的少なかったGMをのぞいて、思い切ったリストラを行ったが同時に、日本型生産方式を取り入れようとした。例えばクライスラーは三菱に、フォードはマツダにそれぞれ自らのパートナーである日本のメーカーから部品調達や製品開発システムを学ぶ方向に動き始めたのである。この章では、アメリカ自動車メーカが学んだ日本型生産方式について具体的に述べ双方の生産方式特徴を比較しつつ、その根源である企業体系についても少し全体的にみて考えていきたいと思う。

 

1 日本型生産システムの特徴とアメリカとの比較

これまでの日米自動車摩擦の根本的な要因は、日本車の強い国際競争力が上げられる。そしてそれを可能にしたのは日本車が低コストであること、つまり工場稼働率や部品調達などの日本型生産システムが優れていたからである。

もともと日本の自動車産業は、欧米から自動車技術を学びフォード生産システムなど大量生産技術も取り入れたのであるが、それほど巨額の投資をする余裕もなく限られた投資規模で最大の成果を上げることを考えなくてはならなかったのである。

限られた設備を市場の実情に合わせて最大限に有効活用することが求められたのである。この場合の有効活用とは、製品を量産効果をあて込んでやたらに見込みで生産するのではなく、無用な作りだめとそのことに結びつきやすい不必要な在庫を持たずに生産することである。日本型生産システムは「リーン(Lean=スリムな)生産方式」として国際的に注目されてきた。これは自動車産業がヘンリー・フォード以来の陳腐化した大量生産システムの持つ矛盾を克服する方向性を示すパラダイムとして打ち出した生産方式である。

そして、日本の自動車メーカーの競争力の秘訣は、何よりも現場参加型の生産技術の高さにある。それは日本型生産システムが一部の生産管理技術者だけで行われているのではなく、現場のワーカーの広範囲にわたる参加と熟練の範囲の広さによって支えられているということである。

日米で異なった部品調達システム

日本のリーン生産方式とアメリカの生産方式で対照的であったのが部品調達システムである。双方の部品調達システムで大きくことなっていたのが、部品の内製率である。日本の自動車メーカーの内製率はエンジンや駆動部分を中心に30%から40%ぐらいであったが、アメリカ・ビッグスリーは70%に近い内製率を誇っていたのである。日本の内製率が低かったのは、日本の自動車メーカーが当初はごく少ない台数の車しか生産できず、速いテンポで増産に移っていった中で部品を内製化するだけの資金力を持てなかったためである。

これに対してアメリカの場合もデトロイトに自動車産業が生まれたばかりの頃は、部品の内製率は低かった。しかし大量生産方式が普及するにつれて部品の内製化が急速に進んでいくことになる。それは部品の内製化を高めれば生産の垂直的統合が進み、量産効果特に規模の経済性がフルに発揮できるからである。ヘンリー・フォードはこの考え方を徹底して、製鉄所まで併設したあらゆる部品を作る巨大な垂直的一貫工場を建設したのである。GMも創業者であるW.デュラントの時代からめぼしい部品メーカーを買収し内製率の向上に努めた。

このように部品の内製率を高めていくことは、ビッグスリーがアメリカ市場と世界に君臨し、市場が寡占状態であったときは極めて有効に作用した。つまり、作れば売れる時代であれば、部品の内製化はそれ自体が量産効果を生むし工程間の垂直統合が効果を上げ自動車メーカーとして自動車の組立でも、部品の制作でもどちらでも利益が上がる仕組みになっていた。

しかしこのような内製率の高さと部品部門の垂直的統合は、時代が変わると次のような問題が生じるのである。それはまず部品生産がマスプロ・ハイボリューム生産になることにより生産全体が硬直的となり、新しい技術に対する適応能力が失われる。年々、同じ物を作っていけばよい時は、量産効果だけを考えればよいが、車を小型化や軽量化したり、FR車をFF車に変えるといった技術変化、部品の素材の変化などに対応できないのである。これは何よりも、マスプロ・ハイボリュームを狙って大型投資をやってしまっているから、一度投資した以上いくら技術が進歩してもその設備を取り替えることは難しい。第2次オイルショックの時、市場で小型車需要が高まったがビッグスリーがこれに対応できなかったのはこのような理由があるからである。

もう一つ高い内製率の抱える問題として、垂直的統合による部品事業部と自動車事業部の取引関係がある。これは取引が内部取引であるため、外部取引の際に働く競争原理が機能しなくなる原因となる。自動車事業部も外部に安価な部品メーカーがあれば内部の部品は拒否することができるが、そういうことはごく稀であり内部取引を続け互いにもたれ合いが生じ、部品事業部の方も骨の折れる外部取引の販売努力はせずに、内部取引中心となり、結果として競争的刺激が全くなくなってしまうのである。これは品質性、技術力の低下につながるのである。

またビッグスリーの部品調達システムの特徴は内製率の高さだけではなく、20%〜30%の外部取引についてもその構造は日本と全く異なるところがある。それは、サプライヤーが供給する部品について品質に責任をもたないということである。これは、品質は最終検査ではねればよいという考え方が自動車メーカーの工場の中で一般化していたため、自動車メーカーが受け入れ検査で通してしまった部品に後で欠陥やトラブルが生じても、それは受け入れた自動車メーカーの責任であって、納入したサプライヤーの責任ではなくなってしまうのである。このため、サプライヤーは値段のかけ引きばかりに力を入れ、どうコストを下げ品質を安定させるかという努力を怠ったのである。

これに対して日本の場合は、部品メーカーとは系列取引であるが、外部調達であるため厳しい競争原理が働く。日本の系列取引は、長期取引とその安定化があるがその内容は厳しい品質(Q)、コスト(C)、納期(D)、最近では技術(E)特に開発力というQ・C・D・Eと4つ揃った評価が絶えず繰り返されている。

系列取引のピラミッド構造は1次、2次、3次と垂直的な分業関係になっている。1次部品メーカーはこのような厳しい評価のもとでの競争をくぐりぬけてセット部品もしくはシステム部品メーカーになったものが多い。2次3次の部品メーカーはこのQCDEをめぐる激しい競争があり、一定の新陳代謝が繰り返されるのである。その意味で系列取引であっても外部取引と同じであり、競争原理が働くようになっているのである。

そして、日本のメーカーは品質保証の考え方を部品サプライヤーに浸透させることにつとめ、検査をしながら品質上の問題点や設備投資や技術導入に付いての情報を与え、またサプライヤーの工程に参加し技術指導や改善の努力をいっしょに進める。こうして自動車メーカーとサプライヤーの関係がより緊密になり長期的協力関係が定着することになる。自動車メーカーもサプライヤーの技術レベルや開発力、工程について熟知し、サプライヤーの品質保証の体制もこれによって整うことになる。

ところが、アメリカのサプライヤーと自動車メーカーとの関係は、お互いに取引に関連した情報は出さず、互いに駆け引きをやって見積もりコストの中味を知らせようとしないので、相互の信頼関係や協力体制は成立しない。アメリカについては双方がそれぞれの実態を把握していないという状態であった。

第2節 日米の企業体系の違い

このように日米の企業体系で、最も異なっているのが企業間や従業員間、部門間の協力体制、つまりコミュニケーションの問題である。これらの関係を一言で言えば、日本は水平的、アメリカは縦割りということになる。これは自動車産業のみにみられるものではなく製造業全般にあてはまることである。そこで日米両国の企業体系について少し全体的にみて考えてみたいと思う。

アメリカ企業の抱える情報問題

アメリカ企業のシステムの特徴は、自分の責任以外の仕事は全く無関心であり、会社との契約で決められた仕事を確実にこなしさえすればよいという考え方である。つまり部門間の責任分担がはっきりしているが、自分の部門の仕事さえ終わり、他工程の部門に仕事を渡してしまえば、後は自分の責任ではないという様になってしまうのである。

このように、アメリカ企業の情報問題は水平的コーディネーションの欠如という点に求められる。アメリカにおける情報の流れは、水平的な流れではなく、基本的に垂直的なものである。

このような仕組みは、全体的なリストラなど大局的には適している。しかし、従業員同士、各部門間など企業内に水平的コーディネーションが欠けているため、突発的に起こる様々なレベルにおけるトラブルに対する柔軟性がなく、全体的な作業の効率性の悪さが問題として指摘される。

日本企業の情報処理

これと対照的なのが日本企業の情報処理である。日本の企業は全般的にみて水平的コーディネーションがよいのが特徴である。そして特にこれが進んでいるのが製造現場である。

製造業では、企業間関係も系列取引など長期的な取引関係が強固にできあがり、情報共有度がきわめて高い。このため、後で述べるがデザイン・インやジャスト・イン・タイムなど、高度の企業間コーディネーションを可能とした。こういった水平的コーディネーションの良さが日本の製造業の強さの源泉のひとつといわれてきた。

このような仕組みは事業部単位などトラブルが生じた時には柔軟な対応力を持ち、効率は高い。 しかし企業が巨大になり、多くの事業部を抱えるようになると事業戦略が緩慢になり、全体的なリストラ等の実施を難しくする。これは日本企業の資本効率を低める要因にもなる。

 

以上のようにみてくると、アメリカの企業は、情報集中化による戦略的決定に強いのに対し、日本企業は水平的コーディネーションに強く分権的であるため、製造現場の効率性ではすばらしいが、全体的な戦略性に弱いということになる。

こうした企業体系を考えてみると自動車産業や機械産業など、組み立て工程が複雑な産業では、従業員間、部門間の水平的コーディネーションが不可欠となってくるので、それをうまくこなせる日本の企業が世界的な競争力を確保し、一方、戦略的分野、専門性の強い分野において強い競争力を維持してきたアメリカの企業は医薬品、宇宙工学、コンピューターなどの分野で強い競争力を維持してきたことが説明できる。

このように日本の企業体系は製造業の分野では非常に適しているということであるが、その利点を活かし、自動車産業発展の大きな要因の一つとなったものがある。それが商品開発システムである。

 

3 日本型開発システム

自動車は1台当り2万点以上の部品から成りっているといわれ、前述したように日本はその70%を外部発注している。そしてこれらの部品メーカーは自動車メーカーの商品開発の初期段階から開発に参加し、コスト削減を可能にした。これが最近よく言われるサプライヤーのデザイン・イン・システムである。

具体的に述べると、自動車の開発は以前シャシーやボディの設計開発、そしてエンジン駆動部分などの開発を終えてから部品を発注するという方式をとってきた。これでは開発の期間は長くなり開発工数がかさんでコスト高になってしまう。そこで考えられたのが、自動車メーカーの商品開発の初期段階から、ブレーキならブレーキ、エアコンならエアコンとそれぞれの部品メーカーが自動車メーカーの示した開発の要点に基づいて自主開発やテストを早めに行い、開発期間やコストを削減しようというものである。

日本でも昔はサプライヤーに技術力がなかったときは、自動車メーカーの試作とテストが終わってから外注に出すといった方式をとっていた。しかしある程度技術力が向上してくると、次第にデザインインの方向を強めこれが定着するようになった。

これは自動車メーカーが主要な要求項目だけを書いた承認図というものを渡し、サプライヤーはそれに基づいて自ら詳細設計、試作テストを行い、その結果を自動車メーカーに知らせ両者合意のもとでその部品の本格生産に入り納入した後も品質を保証する。この場合、サプライヤーは自ら設計開発した部品であるから設計製造両方の責任がはっきりするため品質保証をやりやすいという利点がある。

また自動車メーカーもその部品受け入れにあたって、よほど特殊な部品以外は検査を行わず手間が省ける。これは、サプライヤーの技術力と品質保証に信頼があるからこそできることである。

このようなサプライヤーによる自動車メーカーへの開発での早期参入は、開発期間やコストの削減を可能にしたのみならず、自動車メーカーの基本開発と歩調を合わせて同時並行的に開発を進めることを可能にした。このことを称して、サイマルテニアス・エンジニアリングとよんでいる。これによって開発効率の向上と開発期間の短縮がやりやすくなった。

サイマルテニアス・エンジニアリングの仕組み

このシステムは、自動車メーカーとサプライヤーの間のみで行われているのではなく、自動車メーカーの開発組織の中でも部署ごとに相互に連携をとりつつ推進されている。

日本では、1950年頃まで欧米から自動車技術を習得していたため、欧米のように各段階ごとの作業が終了してから次へステップという開発システムがとられていた。

しかしこの後、これとは違ったごく少ない人数で経費を減らして開発するために開発の段階が一つずつすむのを待つのではなく、同時並行的に進めるシステムがとられた。

このようなやり方を実現するためには、開発セクションごとの壁をなくし相互のコミュニケーションと相互協力が必要であり、このようなチームワークを一定の方向にリードしつかつ調整できる強い権限を持った開発主査のリーダーシップが必要であった。この主査制度のもとで開発主査は商品開発について大きな権限が与えられ、各開発セクションの壁をとり払って各セクションの設計開発を統合して効率的な開発が推進された。日本では1960年代にトヨタ自動車がこの主査制度と同時並行的な開発システムを本格的に採用して効果を上げたといわれており、他の自動車メーカーも競うようにこのシステムをとりいれた。その結果として日本の自動車メーカーの平均しての開発工数は比較的少なくて済み、開発のリードタイムも短くて済むようになった。

 

以上のようにこの章では日本の生産システム、部品調達システム、そして製品開発システムに至るまでみてきたが、結果として、アメリカビッグスリーのマスプロ・ハイボリューム型の生産方式とは対照的であったということになる。そしてビッグスリーは80年代のデトロイト不況の中、先進国では最後発であった日本の自動車産業が培ってきたリーン生産方式をそれぞれの形で学ぶようになるのである。

 

4 変貌を遂げつつあるアメリカ自動車産業

 

ここまで日米自動車産業について比較してきたが、オイルショック以降は日本がその生産性や技術力の高さでアメリカをリードしてきたのは前述した通りである。そしてアメリカビッグスリーは80年代に入り日本の自動車産業と競争力を比較し、部品調達のシステムが競争力の差の大きな要因であると認識したのである。その結果93年以降に復権が実現するまで、ビッグスリーは2度にわたる厳しいリストラを経験し、その中でそれぞれの方法で日本型リーン生産方式を学ぶことになったのである。

ビッグスリーの中で、フォード、クライスラーがいち早く日本型リーン生産方式を取り入れた事は既に述べたが、それはそれぞれが日本の提携しているメーカーから技術を学ぶという形であった。しかし、80年代半ば頃からは、日本のメーカーのアメリカ進出が続き、日本の現地生産工場から技術移転される形がとられるようになった。そしてその現地工場のなかには、トヨタとGMの合併会社であるNUMMI(New United Motor Manufacturing Incorporated)のフリーモント工場や、フォードとマツダの合併会社AAIのフラットロック工場、三菱とクライスラーの合併会社であるブルーミントン工場などがあり、ビッグスリーにとっては日本の生産システムを学ぶ絶好の機会となったのである。そして自動車メーカーだけではなく、北米に進出した200社を超える日本の部品メーカーも地元部品産業に対して大きな影響を与えている。

 

1 日本の現地工場がもたらしたもの

日本の自動車メーカーや部品メーカーの現地工場がアメリカビッグスリーに与えた影響は、日本の自動車産業が実行したリーン生産システムが、日本の社会と文化の特殊性の中でのみ可能なシステムだと考えられていたが、アメリカでも十分実行可能であることを示したことである。そしてビッグスリーでもその発想を変えればこのシステムをとり入れることは十分可能であることを証明したことである。

特に、単能工主体の複雑で種類の多い職務分類から多能工中心の単純で限られた数に絞られた職務分類に変え、現場の技能を重視した現場改善やQCサークル活動に重点をおいた方式は、現地工場がモデルとなりやがてビッグスリーにも伝播していくことになる。

しかしビッグスリーが長年、労働組合UAWとの労働協約で維持してきた労働慣行である、単能工主体の複雑な職務分類を単純化し少なくすることは雇用問題に影響するため変えていくことが難しかった。従って、今日でもビッグスリー全ての工場が変わったわけではなく、未解決のまま問題を引きずっている状態でもある。

そのような状況下でも、クライスラーのエンジン工場を例にとっても28職務あったのを8職務まで集約するなど、その他古くからの工場でも集約化は進んでいる。

一方、日本の現地工場は、デトロイトではない地域に工場を建設し、従来の労働慣行にとらわれることのない、若く自動車工場の経験のない素人を雇ったため多能工化訓練がやりやすかったといわれている。

そしてこの点についてもう1つNUMMI(トヨタ・GM合併会社)の工場について例をあげれば、この工場は、UAWが積極的に協力して新しい労働慣行を取り入れたのであるが、注目すべき点はこの工場が以前はGMの使用していた工場であり、当時の古い労働慣行を経験している従業員が全く対照的な労働慣行を経験した上で新方式を受け入れたということである。この労働慣行の他に、ビッグスリーの生産システムの特徴であったマスプロ・ハイボリューム生産によるつくりだめを是認する生産方式についても軌道修正がなされ、カンバン方式を採用して工場の在庫を減らしていく動きもひろがっている。

そしてこのような経験は、NUMMIの経験をもとにGMが作った小型車専用工場である、サターン工場に活かされるのである。これについては後で詳しく述べたいと思う。

このように労働慣行の変革をベースにしながら、QCサークルや改善活動の増進、工程での品質保証の重視、そして不十分ながらもジャストインタイムの生産方式がビッグスリーの工場に浸透していくのである。

2 系列化に向かうビッグスリー

すでに見た通り、アメリカの部品調達システムの特徴は部品の内部調達率が高いことである。アメリカの伝統的マスプロ型システムに対応した部品調達システムは、自動車メーカーが詳細設計した部品を短期的入札ベースで大ロットで取引するため、絶えず取引するメーカーが入れかわり取引に安定性がない。そのため、部品メーカーはいつでも買い叩きを予期して、割高なコスト見積もりで自動車メーカーとかけひきを繰り返し、かつ契約が短期ベースなので開発や設備投資などに力を入れない傾向が強かった。そして何より大きな問題は、自動車メーカーと部品メーカーの間で相互信頼や必要な情報のコミュニケーションがなかったことで、相互不信の上に立った契約をめぐるかけひきですべてが処理されてきたことである。

日本の現地工場が現地のアメリカ部品メーカーとの取引で直面した問題点はこれらと同じことであった。部品メーカーは自ら積極的に開発力をつけたり設備投資をしたがらず、発注後の設計変更などに柔軟な対応ができず、大ロットでないと受注したがらないのである。そして最大の問題点は、部品メーカーが品質を保証しないことである。自動車メーカーが検査で受け入れた部品は後で欠陥が分かっても部品メーカーは引き取らず、その手直しには高いコストがかかってしまうのである。

このような事態に直面した日本の現地工場は、部品メーカーとの長期安定取引に3年以上を費やしより相互の信頼関係を確立したのであった。その結果、品質保証の体制作りや技術指導などによる協力関係において一定の成果を上げたのであった。

このような日本メーカーの現地での成果もあり、アメリカの自動車メーカーは日本の部品調達システムが、品質向上や長期的なコストを引き下げ、自動車メーカーと一体となった技術開発力の向上に有効であることを理解しはじめたのである。こうしてアメリカのメーカーは、まず部品メーカーの階層化や長期安定的取引関係の確立、シングルソーシングのように安心して取引できる部品メーカーの選別、部品メーカーによる品質保証、特にシステムコンポーネントなどにみられる開発力ある部品メーカーへの開発委託などにのりだした。そして一種の系列化に乗り出し、系列のネットワーク化の方向に進んでいくのである。ただし実際のところは日本のように相互に協力したコスト合理化や技術の評価を進めるための価値分析(VA)や技術評価(VE)を進めるまでには至っておらず、これらの点は今後の課題であるといえる。

以上のように、日本の現地工場の影響がいろいろな形でビッグスリーに及んでいることは確かである。しかしビッグスリーにとって残された課題もまだまだ多い。その最たるものは、真に信頼できるサプライヤーの選別であり育成ではないだろうか。

 

3 注目されるサターン・プロジェクト

これまで日米自動車産業のこれまでの経緯についてみてきたが、最後に日本の自動車産業の生産方式を学んだ結果のアメリカ自動車産業について、その現状について少しふれておきたいと思う。ここでは90年代に入りそのプロジェクトが軌道にのってきたサターン社の例をあげて詳しく述べていく。

このサターン社とはGMが別会社にして独自開発した小型車専門の会社として84年に設立したものである。なぜサターン社が今日注目されているかと言うと、その工場は在来のGM工場とは違って、トヨタとの合併会社NUMMIにおいて学んだリーン生産方式をGMが本格的実践する実験工場的な意味合いをもっているからである。そしてこのプロジェクトはGMの北米事業の中で既存の工場や販売流通システムとはまったく別個の独立会社で運営されるプロジェクトであり、工場の生産システムや労働慣行でNUMMIの教訓を多く取り入れているのである。その運営体系について具体的にみてみる。

物流システム

この工場の物流システムは、納入業者の協力を得て1日ごとの納入で済むものと、1日のうちに多回納入するものを分けて、特定の倉庫や資材部門に特別な人間を配置せず、可能な限り多くの人が参加してやっていくこととし、社外、社内でカンバン方式が活用されている。

品質管理

従来のGMがとっていた他人任せの品質管理から脱却するため、品質についての教育訓練を現場のチームワークと結合して実施し、生産ラインの検査員が不要になるようにした。その結果品質にはチームリーダーとチームの全員が責任をもち、品質保証の考え方を徹底することに成功した。この他にも労働協約が大きく変わり、多能工化や現場熟練形成に力を入れ、工場総経費の5%を教育訓練コストに支出している。

部品調達システム

NUMMIでの経験を活かして部品調達のノウハウ、GM本体におけるサプライヤーの絞り込みや長期契約、システムサプライヤー重視とサプライヤーの開発能力重視などの新潮流を最大限に活用し、工場が立ち上がる以前からサターンサプライヤーソーシングチームが活躍し、優れたサプライヤーと緊密な協力関係を結ぶことに努力してきた。

 

このようにサターン工場は、工場のレイアウトからチームワーク重視の労働慣行、品質管理における工程での品質保証体制、徹底した労使協力新方式と最も進んだ部品調達システムなどのすべての分野で新機軸を導入するという、アメリカの自動車工場の中で最も徹底したリーン型の工場作りを行ってきたのである。

そして、今ではサターン車は品質的にも評価されるようになり、コスト競争力でも上昇し、実際の販売ペースに合わせた生産台数や生産シフトの調整ができるのを大きな特徴とするに至っている。去年からは対日販売も本格化しその動向が注目されるところである。

さらにサターンプロジェクトで最も注目されるのは、そこで採用されたリーン生産方式や徹底したチームワーク、職務分類の簡略化と多能工訓練の浸透といった工場の生産システムの変革が今後のGM工場の更新にどう活かされるかということである。

それに加え、このプロジェクトをビッグスリーの他の2社がどのように受け止め、それぞれの工場生産システムにどのような影響を与えるのか非常に注目されるところである。

 

終章

以上のように本論文では、日米両国の発展の経緯、それぞれの生産方式の特徴についてみてきたが、結果として自動車産業全体の流れは、日本がアメリカから学びキャッチアップ段階で発展したのとは全く逆で、今ではアメリカが日本から学んでいる状態であるということである。

この論文のなかで、日米の自動車産業における様々なものを比較しその結果、日本があらゆる面で優れていて、今日では常にアメリカをリードしているという結論になったが、その差を生んだ要因は一体何であったかということを考えると、その生産方式、企業体系など様々な要因が上げられる。しかし、一言で言えば、信頼関係に基づいた取引が成り立っているかどうかということである。アメリカの取引関係は、信頼関係が薄くその結果、品質や技術の低下を導き、国際競争力の低下にもむすびついたのである。

さらに、今回私が自動車をテーマに考えてきて思ったことは、自動車産業とい分野はその国の地域性や文化にも関係しており、それが根本となって両国の企業体系や体質に差が出たのではないだろうかということである。日本という狭い土地事情を考えれば、乗用車が小型へとシフトしていくのは、ある意味当然のことであって、それにたまたまオイルショックが重なったのも幸運であったと考えられるかもしれない。

しかし、どの産業分野でもそうであるが時代の流れで豊かさが増してくれば、消費者のニーズが多様化してくる。問題はその変化に素早く対応できるかどうかということである。

そして、自動車産業のこれまでに関しては柔軟な対応能力を持った日本が国際競争力を高めていったというのがここまでの結論である。しかし、これからは情報化時代であり、いかに情報機器をうまく活用できるかが、国際競争力を得るためのポイントになるであろうと思う。

 

 

 

 

参考文献

 

・「自動車産業ハンドブック 1998年版」 日刊自動車新聞社

・「日米自動車産業攻防の行方」 下川浩一 時事通信社

・「トヨタ・日産」 丸山恵也 藤井光男 大月書店

・「日本経済の歴史的転換」 中谷巌 東洋経済新報社

・「自動車業界早わかりマップ」 三好冬海 こう書房

・「トヨタの再逆襲」 児玉淳 明日香出版社

・日本経済新聞