日本経済の歴史的転換
E08−0275H 鎌田大介経済学の専門的な本を読むのは、この「日本経済の歴史的転換」が私にとっては初めてといえました。そして、この本は、私が経済学を学んでいくうえで多くの刺激を与えてくれたような気がします。その中で、特に興味を持ったところについて私なりの考えを述べてみたいと思う。
まず第1に、戦後の日本の「平等主義」について。金融行政における「護送船団方式」や様々な分野における参入規制など、敗者を出さないための規制が数多く存在してきた。その中で、私自身が実際に体験した教育制度における平等主義について考えてみる。
日本の教育制度とは、平均的な生徒を大事にし、優秀な生徒の頭を押さえつけるという「平等主義的な教育思想」である。できる生徒の好奇心を抑え込み、可能性を活かせないばかりではなく独創的な人材の芽を摘み取ってしまうという、決して望ましいものではない。私自身、小学校のとき学校よりも学習塾の勉強のほうがはるかに進んでおり、塾で習った部分を学校に持ち込むと教師にとても嫌な顔をされ、成績で悪い評点をつけられたことがあった。そのため、学校では分かるものも分からないふりをするという、全く不思議な経験をした。そのような人間が教師をしているようでは、将来の日本を支えてたつような独創的で優秀な人間が育成されるわけがないと、当時の経験から今になって思った。
キャッチアップの段階にあった日本で、そのギャップを埋めるために大人数制の教育による知識の詰め込みを行ったことが、子供たちの独創性を奪ったとよく言われる。確かにそれもあるが、私の経験から言わさせていただけば、それ以前に教師の質の悪さを見直す必要があると私は思う。
つぎに、企業における平等主義のついて。日本の企業の強みは、社員をできるだけ平等に扱い、全員のモラルを高めるための「平等主義」、あるいは全員経営であると言われてきた。会社の共同体意識を高め、社員を目標に向かって一丸となって突進させる力の源泉であった。しかし、成熟経済に突入した現在、「平等主義」だけでは日本企業は競争力を維持できなくなった。差をつけずに優秀な人材の頭を押しつけるというのは「悪平等」であって、それを平等的な従業員に配分することと同じである。これは、全体の士気を高めるのには役に立つが、新たなコンセプトを開発するという困難な仕事に挑戦することが不可欠になった日本企業においては、優秀な人材の足を引っ張ることは、デメリットが大きい。新たなコンセプトや革新的イノベーションを生み出すには、個人が自分の能力の限界に挑戦するという巨大なエネルギーの爆発が必要であって、それらを生み出すことのできる企業文化やインセティブ体系が必要である。
日本企業の平等主義の象徴とも言える「年功序列型賃金体系」など、あまりにも平等主義的な評価システムは抜本的な見直しを迫られている。
この本の第
7章を読んで、日本人の保守性や平等主義というものの存在が日本経済のこれからの発展において様々な面で妨げとなっているのではないかとあらためて私は思った。第2に注目した点は、第2章の日本経済の潜在成長力についてである。日本経済の成長要因は、資本・労働の投入・技術革新の3つである。これと関連した第3章のコスト条件の逆転について考えると、経済の成長過程において自動車産業はこれに大きく寄与していると私は考えた。30年前のアメリカは「自動車王国」とよばれ、あらゆる面で日本の上を行っていた。日本で、トヨタ、日産などの本格的な自動車会社が生まれたのは1930年代半ばで、それ以前は国内の自動車生産は、フォード、GMの
2社だけが引き受けていた。しかし、日本の自動車メーカーはアメリカから技術吸収を行い、当時の国内のコストの低さを活かして、自動車産業におけるシェアを世界で広げていった。コスト条件の逆転がおこり価格が上昇したが、その勢いは衰えなかった。そして、現代について考えると、高燃費のGDIエンジンの開発や、電動モーターと併用したエンジンのハイブリッド車など、日本の自動車産業は世界をリードしていると思う。
アメリカにマイクロソフト社やインテル社などベンチャービジネスの成功がある裏で、日本では、ベンチャービジネスが育たないと言われる。そこには、日本人の創造性の乏しさなど様々な問題があると思う。しかし、既存の自動車産業など、独創性があり、あらゆるニーズに対応していて、経済の成長要因の1つである技術革新においてこれからも経済成長に大きく寄与していくのではないかと思った。