今週の顔 |
Morozumi.T
「人生は、ひとつのゲーム。人生を楽しみなさい」(マザー・テレサ)、この一文を読んだ方がまず始めに考える事は何であろうか。恐らく今の自分に満足している方は、現状維持、あるいは更なる人生の謳歌を求め、外的な要因、もしくは自己の何らかの阻害要因に苛まれている方にとっては、それらから開放され、自らの趣味趣向を追求したいと考えるであろう。 では、そうした自らの意思に基づいた行動をとる事は可能だろうか。 結論から言ってしまえば可能である。当然の事ながら日本においては、ある一定の条件を満たしさえしていれば、誰もが自分の好きな服装をし、好きな物を食べ、好きな家へ住むと言った個人の理想的なライフスタイルを実現する事が出来るのである。 但し自分の理想を追求していく為にはある程度のリスクを伴う事も忘れてはならない。人は誰しも家族、教育機関、企業、地域、国と言った何らかのコミュニティに属しているものである。そこには必ず制約や法が存在し、それらを遵守した上で個々人の活動が可能となる。そして自ら属しているコミュニティでは不可能な、自分の理想を実行しようとすれば、組織の「安住」を捨てるか、何らかのペナルティを課される事になってしまう。もっとも、昨今組織に帰属しているメリットが形骸化している事も事実ではあるが。 しかし最近の実社会においては、そうした制約や法によるチェック機能が有効に働いているとは言い難い。1980年代以降、日本は経済、社会等多方面で国際化が顕著に叫ばれる世の中になった。そうした中、国際化の波は、人と人との付き合い方にまで押し寄せることとなる。いわゆる「個人主義」である。その弊害として今日では、日本人の幼児化が指摘されている。 幼児化の特徴のひとつに、周囲に対して関心が薄い事が挙げられる。隣りに誰が住んでいるかも解からない。自分の病気には大騒ぎするが、他人の病気は痛くもかゆくもない。家族内での人間関係もそうであろう。その典型が、我が子を叱る事の出来ない親である。肉親でさえ、争いを避けるために我が子を教育することを放棄した。それによる若い世代の理想(願望)と現実を混同した、オール・オア・ナッシング(すべてか無か)。彼らはさまざまな図式によって、人を判断し、それを信じる。こうした世代を超えた価値観の多様化、あるいは歪みによる分散の時代、モラルハザードの社会に、我々はどう対処していくべきであろうか。 そこでこうした課題を解決すべく提案したいのが「企業メセナ」である。 これを読まれている方の中には、企業メセナという言葉をはじめて聞く方も少なくないと思われるが、この企業メセナとは、企業を通じた芸術、文化支援、社会貢献のことを意味しており、換言すると、芸術支援における、スポンサーシップと全く同じことを示している。そもそも日本において、メセナが頻繁に叫ばれるようになったのは、ちょうどバブルの絶頂(崩壊)期に、「企業も社会の恩恵を受けているのだから、社会貢献の一環として利益還元を行なうべき」、「社会のためになることは、必ずや、我が社のためにもなる」などの考え方から始まったものである。 当時、企業メセナの具体的支援形態は、「資金援助」「人的」「場所」「物的」の順に並べられるが、その中でも特に「資金援助」が全体の7割を占め、この資金援助によってクラシック演奏会、絵画展覧会、演劇・パフォーマンス講演等の運営をサポートする形が多く見られた。それによって企業側は、冠スポンサーによる社会的自社イメージの向上、CI(コーポレートイニシアチブ)の確立、社員モラル向上等のメリットを得る事が出来た。 その反面、好況時代のイベントは事実上広告代理店主催だった為に、メセナに対するマスコミの否定的な考え方も少なくなかった。企業がイベントを支援する際は、その多くが広告代理店などを通じて文化財団に助成金を支払い(金余りの税金対策)、多くの企業がその見返りとして、企業名を入れる事を要求した。つまり企業はメセナを商業活動の一環として考えているケースが多く、実際支援される側からも、「芸術上の中身よりも、宣伝効果を力説(芸術を宣伝の手段とする)したり、冠とメセナを混同したりしている企業がある」といったことが強調されている。また、メセナ活動の財源は半数以上の企業が宣伝広告費に寄るところが多く、景気後退期には、企業はメセナ活動を止めてしまうだろうから、日本における企業メセナは定着しないとの批判もあった。 ただ、そうした商業活動の一環として、メセナを活用するのは芸術、文化支援を通した社会貢献、地域文化振興を目的とした、本来のメセナの有り方を逸脱しているのも確かであるが、だからと言って、ここで企業メセナの芽を潰してしまうのは危惧されるべきことである。 事実、1991年以降日本経済は一時的に回復基調になりつつもあったが、現在までは総じて景気後退の一途をたどっている。そうした中、企業メセナの活動は、資金援助の面では確かに減少しているが、実施件数は年々増加傾向にある。また、その中身が変化してきている事にも注目したい。 不況の中、企業はさまざまな試みをしながらメセナ活動を続けているが、資金援助においては、1社当たりの平均活動費は年々減少傾向にあるが、その反面、メセナを企業の事業として予算化を行ない、支援分野を絞りながらも、支援件数を増加させるなどのきめ細かな活動を行なっている企業が増えている。また、従来の冠イベントから協賛という形で複数の企業が長期のスポンサー契約を結び、文化施設の運営そのものに対しての資金援助を募る、オフィシャルサプライヤー制度も生まれ、メセナを継続的に支援していこうとするのも現代メセナ活動の特徴であろう。その他の特徴としては、他社との差別化を進めた独創性、独自性のある自社の本業を活かしたメセナ、従業員のメセナ協力等資金に変わるサポートがなされている。 なかでも最近のメセナの特色として、とりわけ注目したいのが「地域市民」を巻き込んだメセナの実施である。メセナの先進国であるアメリカでは、住民による地域自治によって社会づくりを行なおうとすることから、メセナを含む慈善活動は市民自身がNPO(民間非営利団体)を組織し、公共的サービスを提供するシステムを形成したり、アメリカ中で動く全寄付金のうち、9割は個人から出ており、寄付とボランティアという形で個人の積極的社会参加が存在し、慈善活動の中心は伝統的にあくまで個人に置かれている。また、多様な支援者を巻き込む社会づくりこそが健全な慈善活動の姿だとされている。 日本においても米国には到底及ばないが、メセナを含む慈善活動への個人参加がようやく見られるようになってきた。その一例として、皆の良く知るところでは、カザルスホールがあるだろう。これまで重要な芸術貢献を行なってきた東京、御茶ノ水にある音楽堂、カザルスホールは親会社の経営難から2000年3月で自主講演の討ち切りを決定された際、同ホールの支持者らが資金を提供しあって、買い取ってしまおうという動きがあった。 そこには明らかに市民自身の手によって支えようとする、地域密着型のメセナ、個人の社会参加が存在し、かつ企業市民、地域市民による妥協や馴れ合いではない、互いを認め合う個々人相互の協調、メセナの本質である、あらゆるコミュニティとの共生が存在したのである。こうしたメセナを通じた「共生」こそが、現代の価値観の多様化、あるいは歪みから生じる虚偽、虚栄、偽善、欺瞞、利己に流される人間社会に対し、本来日本人が持ち得る、個々人の心の豊かさや、地域社会の心のつながりを取り戻させることが出来るのではないだろうか。 「人生は、ひとつのゲーム。人生を楽しみなさい」 先の見えない将来不安、この世知辛い世の中、そうした中で個人の理想(願望)を追い求めたり、自身の楽しみや、ビジョンのために行動していくのは大切なことかもしれないし、第三者が否定できるものでもないだろう。ただマザー・テレサの人生に対する言葉には、もうひとつあることも知ってもらいたい。 「人生はかけがえのないもの。こわしてしまわないように」 ここでいう人生とは自分のそれもそうであるが、万人の人生を指すことも忘れてはならない。そしてそこには必ず何らかのコミュニティが存在し、制約や法以前に、コミュニティのモラルを遵守した、相互理解が求められる。また、この相互理解とは相手の価値観を自らに強制しろというのではなく、自分も含め、自身の価値観の幅を広げてもらいたいことを強調しておきたい。 |