今週の顔
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バレーボールと歩んできた道
E11-0251J 辻 文野
電車に乗っているとき、街を歩いているとき、制服に身を包んだ高校生をみると「若いなぁ、元気だなぁ。」と感じる今日この頃。つい1年と3ヶ月前には彼女たちと同じように、高校に通っていたのに。大学生になったとたんに元気な高校生がなんだかとても輝いて見えます。
私の十代はどうだっただろう?この場を借りて私の19年間の歩みを、長く付き合ってきたバレーを通して振り返って見ようと思います。バレーボールは私にたくさんの経験と人とのつながりを与えてくれました。
もし、小学校のころにバレーボールを始めていなければ、今ごろは親友と呼べる信頼の置ける人たちとのつながりも薄く、根暗で、ひ弱で、潤いのない大学生活を送っていたかもしれません。
というのはいい過ぎですが、少なくとも今の生活のほうが、バレーと出会っていない私の生活よりも充実しているだろうし、よりたくさんの経験や出会いなど、大切な事柄を含んでいるはずだと信じています。
そう、私がバレーと出会ったのは小学校四年生のとき。通っていた"田家小学校"のバレーボールチームは県内でも名の知れる強豪チームでした。
運動は好きだけど、バレーには何の興味も湧かず、母の「指が太くなるからやめなさい!」の一言もあって、友人からの誘いも始めはあっさり断っていました。
しばらくして、父の友人である"田家"のコーチが家に用事できたついでに、バレーのことを熱く語っていくということがありました。今思うと、そんなちょっとした事が私をバレーのとりこにしたきっかけだったのです。小学生バレーは5・6年生が中心で、4年生は基礎と雑用ばかり。それがたまらなく嫌で4年生の時は練習もさぼり気味でした。本格的に取り組み始めたのは5年生になってから。そのときの6年生はとても強く全国大会に私たちを連れて行ってくれました。
なぜそんなに強かったのか?練習を見れば一目瞭然。
まず、5・6年生は絶対に練習をさぼれません。試合が近ければ練習は毎日。5時から8時までの三時間は常に監督の怒鳴り声とビンタや蹴りが絶えません。そんなハードな練習のせいか、私たちが田家のAチームとなったときには当初9人いた同学年は5人になっていました。毎日の練習は本当に憂鬱で、毎週土・日は県外への練習試合や試合で必ずつぶれました。試合前の練習では泣かずに返った日はなかったように思います。
キャプテンだった私は、人よりもたたかれる回数が多く、一日に40発ぐらいたたかれた日には、ホッペもまぶたも真っ赤に腫れ上がっていました。
おかげで、強い忍耐力と負けん気が付きました。こうしてみると嫌な事だらけのようですが、試合で勝った時は本当に嬉しいし、練習試合の多い分だけ他校にたくさんの友人もできました。人間関係が大きく広がったときでもあったのです。そして、ここで書き忘れてはいけないのがライバルだった"荻生小学校"のこと。
県大会出場をかけてまずは地区別予選が行われるのですが、その同地区内に"荻生"はいました。荻生は私たちよりも1年早く結成されたチームですでに県大会でベスト8の実力を持っていました。そこにいた"中島詩織"は際立って上手く、彼女には何度となく負かされてきました。
そして後、ライバルだった彼女と同じコートに立つことになるのですが、その話は後にまわします。
地区大会では常に田家と荻生が決勝でぶつかります。私たちがAチームになったばかりのころは"詩織"の持つ技術と冷静さに負け、優勝を持っていかれていました。夏の県大会では決勝で荻生と戦うため奮闘したのですが、準決勝で敗れ荻生は順当に全国大会へとこまを進めたのです。結果はベスト3止まり。引退間じかには荻生を破り、私たちは強くなったのですが、あの時は本当に悔しかった。
でも、大会で勝ちの喜びを感じるたびに、つらい練習の事など忘れ、監督の指導や親の応援のありがたみも感じていました。選手の親は試合にも練習試合にも駆けつけ、田舎だからこそかもしれないけれど、他校の選手の親からも応援してもらえたりして、地域規模での知り合いも増えました。
強かった自分のチームにもバレーをしてきた自分自身にも誇りを持っていたし、小学校でバレーボールをしてきた事は中学に行っても、高校に行っても私の貴重な財産となっていました。
中学では、個人競技ののバドミントンに浮気をしてしまいました。自分の努力次第ですぐに結果として表われてくるバドミントンからも学んだことはたくさんあります。けれど、チームプレーに比べて孤独との戦いが多く、隣で活動するバレー部をうらやむことはしょっちゅうでした。
長くつらい受験を終え、晴れて魚津高校に入学した私が一番初めに考えたのは部活のこと。バレー部に入ろうと決めていました。うちの高校は学校自体が部活に力を入れるわけでもなく、有力選手を集めているような高校ではなかったために、バレーに精通した監督も無く、上手い選手があつまるわけでもありません。
初めから整えられた環境でないことはわかっていたから、県で上位を狙おうとかいう大きな野望を持って入部したわけではなかったし、中学でバレーを一時やめていたためわからない事も多かったでのす。ただ、全身でボールを追いかけ、滑り込み、みんなでボールを繋ぐあの感覚が忘れられなくて、もう一度始めたいと思っただけでした。でも、私は本当に恵まれていました。誰かが、多くのよき仲間と私を引き合わせてくれたのです。
ライバルだった詩織と、春高の選抜に加わっていたエースの美悠紀が入部してきたのです。
私の期待は一気に膨らみ始めました。1年のときから私、詩織、美悠紀はレギュラーで入れてもらい、その時点で県ベスト8入りを果たしました。そのため、私たちの代の目標はいつのまにかベスト4入りへと変わっていたのです。
高校でもキャプテンの役割を課され、みんなをまとめていくのは予想以上に大変でした。
熱心だけれど私たちに任せきりの顧問、実力が十分なだけに負けん気も人一倍強いエースたち、レギュラー獲得のために燃える同学年、自己主張の強い後輩など、魚津高校女子バレー部は常に問題の絶えない熱い女たちの集まりとして学校内でも有名でした。
私もかなりの頑固者なのに、みんなの意見を聞こうとして、自分の考えをなかなか言い出せなくなったとき。誰しもが同じくらいに努力している事を知りながらも、チームのために決断を下さなくてはならないときには悩んだし辛かったです。時にはぶつかり合って、みんなバラバラになるんじゃないかっていう危機も何度となく繰り返しました。その度にチームメイトに励まされ、支えられながらなんとかその場を切り抜けてきたように思います。
けれど、こんな状況の中でも大会前の集中力はもの凄く、勝ちに対する執念が強いからか、驚くほどのまとまりぶりでした。そして残った成績はというと、二度の県大会でベスト4入りを果たし、地区大会では常に勝ち続けることができました。
好成績を残せたのは、ぶつかり合いながらもお互いに刺激しあって向上していけたからだと思うし、試合では「勝ちたい」という気持ちがみんなを一つにまとめていたからだと思います。ぶつかることが一番多かった詩織には、試合で何度も引っ張ってもらい、彼女がいなかったらここまでのいい成績は無かったかもしれません。(悔しいから本人には言ってないですけどね・・・)
もちろん、他の誰が欠けていても状況は大きく変わっていたでしょう。私は本当に恵まれた環境でバレーをしてきたのです。
私はいろんな人に支えられ、応援してもらってここまできました。
バレーを共通にいろんな人が集まったわけだから、中には相性の合う人、合わない人もいます。喧嘩もするし、腹も立つし、悩むだろうし、決断も迫られます。何かで私が辛くなっているとき、周りには話をきいてくれる仲間や解決策を練ってくれる人、励ましてくれる人が常にいてくれました。
そしてそんな多くの人たちのお陰で、充実した大学生活を送っている今の私が存在しています。バレーボールでの活動を中心に書いたのは、バレーを通して得たことが私の根底にあるきがしてならないからです。今でもサークルでバレーは続けています。
一度に何十人もの人と関係が繋がったため、いろんな考え方や個性から受ける影響も様々です。最近気付いたことは、サークルの中では強い自分がなかなか出てきてないって事。
いい意味でとれば、それはまわりがみんな頼もしくて、私に無いものをたくさん持っている人たちばかりだから。また、悪くとれば、人に頼りっぱなしで言いたいことを言わずに済まそうとする自分がいるからです。楽しい事と辛い事は背中合わせに存在していて、辛い事があるのは小学・中学・高校、そして今でも変わりません。
サークルにも毎回話を聞いてくれる人がいて、その度に私は癒され、安心し、それを支えにして頑張ることができています。そして私がしてもらってきたように先輩も後輩も一人一人大切にしていこうと思っています。
私の場合はバレーが多くの人との繋がりを与えてくれています。もちろんそれ以外にもかてになることはあって、何がきっかけで人間関係が広がり深まるかなんて分からないものです。今まで私が物事を前向きに捕らえ、挑戦する意欲を持てるようになったみたいに、一つ一つのきっかけの中で人の輪をつなげていきたいです。
今年7月、とうとう二十歳をむかえます。特別に何かが変わるわけではないけれど、そこからまた出会う人たちや遭遇する出来事を大事にしていく新しい出発点にしようと思うのです。
たった十九年の短い道のりでも一人で歩いてきたわけではなく、やっとの思いでここまできたのです。そして今後、どのくらい生きるのかは分からないけれど、私の前に立ちはだかる道はもっと険しくて苦しい道になるかもしれません。
それでもひるまずに、誰かに支えられ、誰かを支えながら自分に与えられた道を進んでいこうと思うのです。