98/07/11

 

「インターネットを使った大学教育

勉学に対する動機付けに関連して」

 

経済学部教授 望月宏

 

昨年度から正式にインターネット上にホームページを設置し、ゼミ活動、授業に積極的に活用してきたが、本稿ではその成果を述べるだけではなく、活用過程で昨今の大学教育の問題点の一部が見えてきたようなので、その点もあわせて感じたことをまとめてみたい。

最初、インターネットのホームページ作りは、まさに手探りで始めたような状態であった。載せるべき情報は何か、誰がどのように更新してゆくべきかなど、思いつくだけでも多くの検討すべき事項は多かったが、1年間の試行錯誤の中で次第に次のような形にまとまってきた。

  1. 授業内容および宿題などの連絡事項を、毎回学生に確認する意味で載せること。
  2. 同様にゼミ活動についてもできるだけ詳しく活動報告を残すこと。

このように、授業内容を記録に残すことは毎回の授業を漫然と流さないということ、学生にとって授業の内容を後で振り返ることが出来ること、教師にとっては毎年の授業の内容や教材の蓄積が出来るという意味で重要であると考えている。

  1. 授業の感想を毎回書かせること。

これまでも授業の感想や評価については年間の授業終了後に学生にたずねており、翌年に向けての反省材料としては役に立っていたが、日々の実際の授業には使えなかった。毎回の授業の感想を書かせることにより、一年間に一回しかわからなかった学生の反応が、いわばリアルタイムでわかるようになり、教える側としても学生の反応に応じて授業の舵取りが出来るようになった。また、学生にとっても自分の授業理解度を他の学生と比べながら客観視することが出来るようになった。

C学生との間のメールによるコミュニケーション。例えば学生からの質問に対して、メールですばやく対応できるため、個別に近い形で指導が可能となったこと。

D進級論文、卒業論文、あるいは毎週の課題をインターネットで公開すること。

これによってインターネット上に情報を発信することの意義を体感できたこと。事実自分自身の書いた論文への反応を様々な人から聞くことが出来たり、自分の課題を他人と比較でき、それが出発点となって他の学生とのコミュニケーションを行うことを可能とさせた。

 

E授業履修者の高校生活、大学生活、将来の職業観などのプロフィールを書かせたこと。

私は授業は本来学生との間のコミュニケーションの上に成り立つものであると考えているため、教える相手のことを知ることが必要だと考えてきた。そのため、教えている相手がどんな高校生活を送り、どんな気持ちで現在学生生活を送っているかを知りたいと思っていたところであった。今回各人のプロフィールを読んでみると、次のようなことが分ってきた。

まず、高校時代は体を動かして部活に明け暮れていた学生が大半であったことである。県大会などに出場し試合での勝敗に関わらず、そこで共に戦った友達が一生の友達となると書いたケースが多かった。言いかえれば高校時代、学生諸君は燃えていたのである。(最近は受験勉強だけしていた学生は少なく、高校3年の夏休みまで部活に明け暮れ、残りの数ヶ月受験勉強をしただけで入学できた学生が増えてきている。)ところが、大学に入った後では、そうした充実感が得られていないようである。授業に対する不満が大きいことは確かであるが、それのみならず将来の漠然とした職業観の中で今やるべきことが見えず、熱く燃えることの出来ない自分達に苛立ちを感じているとも読み取れた。元来、大学においては知的な活動によって頭で汗をかくことが求められ、それが大学生活の充実に繋がるはずである。体を動かして汗をかくことは比較的わかりやすく、取っ付きの容易なものである。一方で知的な汗をかくことは、これとは違った努力を要するものであるため良い指導が必要とされるのである。実際には、多くの学生が知的充実感を得られずに大学生活を送り、薄い母校愛しか持てずに社会へ出て行く。

学生のこのような学問をする以前の基本的な問題に対して、検討すべき課題は多々あり、それらへの対処法も様々であるだろうが、ここでは勉強への「動機付け」という観点から少しこの問題に触れてみたい。この点について、いつも思い浮かべるのは、無反応な一部の日本の学生の顔と、貪欲までに質問を繰り返すアメリカの学生の顔である。なぜこのように違うのであろうか。その原因を探るには、日本とアメリカの高校時代に溯って勉学に対する動機付けを探ることが必要である。

最初にアメリカの場合を考えてみよう。アメリカの学生にとって、高校時代は社会化を会得する時期であるようで、さまざまな社交術を勉学とともに学んでゆく。教える教科も教養科目のみならず、卒業後の進路に応じて車の修理など実学的なものも多数用意されている。将来の職業選択を高校時代から始めており、高校側もそれを積極的にサポートしていることになる。そして高校の卒業時は、自分が大人になったことを広く親戚知人にアピールする時である。卒業式の白いガウンを着た晴れやかな笑顔はまさに、新たな人生に向けての船出の証である。この時から学生は精神的にも、経済的にも自立することになる。実際は、学費が高いので親が学費を出し、子供はその他の生活費を捻出するケースが多いようである。しかし、卒業するまで、特に女子は結婚するまでなんとなく親の庇護下にあり、精神的な自立の遅れる日本と比べるとアメリカの学生は大人である。大学では自己責任の中で将来の自分の人生設計をするべく、それぞれの専攻を選び高校時代とはうって変わって勉学にいそしむものが多い。ことに、成績が就職の際にも大きく響くので、多くのアメリカの学生は良い成績を残そうと必死でがんばることになる。日本では決められた単位数を規定年月以内に取得すれば何とか卒業可能であり、成績はこの際重要ではない。しかしアメリカでは一定の成績を維持しなければ、 退学になるのが一般的である。事実専修大学の提携校であるネブラスカ大学では最初の2年間で3分の1は退学している。専修大学でも単位習得できずに留年するものが、毎年2割程度に上るが、これらの多くはアメリカの基準を当てはめれば既に退学である。このように成績の重要性は日本の比ではない。また、ここで大事なことは単に一定の成績を維持するように大学側が学生の勉強を強要するということだけではなく、学生が自分の将来設計を睨みながら自主的に勉学することである。要するにアメリカでは勉学に対する動機付けがしっかりできていると考えてよい。

一方日本の場合は高校時代部活に精を出すか、ひたすら偏差値の高い大学を目指す知識詰め込み教育の中で、将来設計を考える余裕は少ない。学部の選択もあいまいである。受かる可能性のある狭い選択肢の中で、場合によっては大学のブランド名が学部選択に優先されることもある。このような状態の中で大学に入学してきても、大学に入ることだけが目的であったような学生が目標を失い、あるいは自分の選んだ専門が合わないことに気づき、夏休みまでに急激に勉学意欲が低下するものが多い。前者の場合は論外であるが、後者の場合についてみると、元々専門の学部というよりはたくさんの学科で構成される教養学部の色彩が濃いアメリカの大学では、専門の選択や変更は容易である。専攻のコアの授業を選択し直せばすむ。しかし、日本の場合は最初から学部を受け直すか、転部という困難な道を探ることになる。結局アメリカの場合はフレキシブルな専門選択制度の中にあって、学生は今自分が勉学したいことを勉学できる体制が整えられており、日本の場合はこれと比べて自由度が少ないと言える。日本の学生の実態は、大学で自分のやりたい道を探したいと答えるものが大半であり、探すことを忘れて安易な遊びに身を投じてしまったり、探し得ても変更が出来なかったり、探しかねて悶々するなど様々であるが、いずれにしても高校の時と比べて熱く燃えてはいないようである。結局、勉強に対する動機付けがうまく出来ないため、勉学に真剣に取り組もうという態度に欠けていることになる。

しかし本来それは学生の問題であって、教師は自分の専門を教えるだけで良いと考える人も多いと思われる。実際ヨーロッパの大学では学生の自主的な勉学態度を前提としており、そうした前提に立てば、これらの問題は学生の問題だと突っぱねることも可能である。しかし、これまで述べたように高校時代、部活や受験勉強で明け暮れ、将来をあまり深く考えずに大学を選択し、精神的な自立の不確かな状態で、大学が自主性の名の下に学生を放任しておいた場合、問題は解決しそうにないのである。

私は、学生の本音はただ遊びたいだけではないと考えている。サークル、アルバイトに精を出す学生も大学入学時には期待に胸を膨らませていたのである。大学では本来自分の世界を広げることが必要であると考えられるが、現実には学生諸君は自分の好き嫌いで自分を縛ってしまい、自分の世界に閉じこもりがちである。自分の世界を広げなければ、精神的な自立も遅れることとなる。私は、インターネット上に屈託のない形で述べられた学生諸君のプロフィールを読むにつけ、学問を学び知的充実を得るための最初のステップに対して、大学はある程度手を差し伸べてやることが大事ではないかと思い始めた。ことに、冬の時代といわれるこれからの受験環境を考えるとそうした傾向を強めなければならないようである。将来の職業を射程に入れた上で、勉強への動機付けを与えるための指導の有り方の検討が必要であると私は考える。

インターネットの授業への利用によって、以上のようにいくつかの目に見える成果を上げることが出来たが、それは、結局学生との間の双方向のコミュニケーションが進んだことに由来している。この副産物として、学生の授業への参加意識が高まり、授業自体が活性化したことも事実である。しかしより本質的には、インターネット上の情報開示と情報収集の中で、自分以外の世界、授業で言えば他の学生の世界であり、広く言えば日本以外の文化と触れ合う機会が増えたことの方が重要なポイントである。なぜなら、それによって自分の世界を広げる新たなチャンスが生じたからである。一つの例を挙げれば、世界の大学のホームページを読むことで日本の大学との質的な差を学生が感じ取ったり、世界の他の国の大学生の勉学状況を垣間見ることによって、自分の世界が開かれ、自らの勉学に対する動機付けに対して反省を促されることになるからである。願わくはグローバルな視点を探るまでに知的に貪欲であって欲しいものである。