現在の日本についての考察
河合信貴
今現在の日本の危機的状況は戦後日本、そして江戸時代にもそのルーツを見る事のできる「日本システム」の軋みかつ、崩壊をあらわしているのではなかろうか。間違いなく現在とくにバブルがはじけるまでの日本は「年功序列」式の社会体制でありそれは間違いなく江戸時代、中世的封建制度がそのまま引き継がれた事に他ならない。それは日本には「民主革命」が結局行われなかった事を現している。明治維新もつまるところ「軍事クーデター」であり、また違った見方をすれば官僚内部の権力の移動でしかなく、一般庶民には権力、特に政治への参加は認められず、「制限選挙」の施行でさえ維新からじつに60年近くも経っているのである。もちろん日本にも真の意味での民主主義の実現を目指した「大正デモクラシー」の時期があった。が不幸にもおりからの不況と「満蒙は日本の生命線である」という実にわかりやすいスローガンにより、多くの貧困層と若者に支持された軍部のほう国民は日本の未来を託してしまったのである。これにより日本は泥沼の戦争につき進んでしまうのだが、この「大正デモクラシー」時代があったからこそ戦後の日本の民主化はスムーズに進んだのであろう。しかしそうであっても、戦後日本の政治を司ったのは戦前の悪しき政党政治を受け継いでしまった政治体制であった。そして国民もまた何ら意識の改革のないまま民主主義体制に移行してしまったのである。これが現在日本のすべての問題の一つの元凶になってしまっている。国民は自ら政治に関わろうとせず、政治家は公務員、とりわけ霞ヶ関の人間に政治の全てを任せっきりにしており、公務員もみずからを特権階級のように錯覚してしまう、この状況を作り出している。このような状況でも戦後日本が歩んできた奇跡とも言うべき復興と躍進時においては誰も文句は言わなかったのである。疑問を持ったとしてもそれを口にはしなかったのである。しかし現在、皆がその戦後政治体制に疑問と不満を漏らしている。これはどんなにすばらしい機械でも、やがては錆がきて、時代遅れになり、ただのポンコツと化してしまうようにどんなにすばらしい制度や法であってもその時代に合ってなければやくにはたたないのである。
戦後50年が過ぎた今、「日本式政治体制」の総取り替えが必要であろう。中央集権の政治体制は隅々まで発展しつくした日本にはただコストのかかる代物でしかない。そして閉鎖的なシステムの政治体制と官僚主導式の経済方針ではもう国民の信頼を得る事はできないであろう。もちろんそれには、というよりもまず何よりも大事かつ重要なのが国民の意識の改革である。もちろんそれは多岐に及ぶであろう。それに大きく関連するのが教育の質と内容の改革が一番重要である。そしてまた、国民一人一々の自覚と勉強も重要である。「自分もこの国を支えているんだ」という自覚が今の日本人には欠けているようである。それは例えば銀行、金融の「護送船団方式」に端的に表れている。これは国が何でも守ってやる事である。そのことが国民の自己責任能力を奪ってしまった。そしてその甘やかしがなくなってしまって嵐にみまわれているのが今の日本の状況の一つである。それは政治においては、とりわけ地方政治への不満として現れている。国民の意識の変化の良い兆しであろう。しかしまだまだ小さな動きにしか過ぎない。人々もその人自身の生活があり、常に政治家でもない限り、政治には関わっていられないのが現実であろう。元々民主主義の始まりはギリシャのポリスである。それは人口1万人程度における政治であったとすると地方政治においては非常に有効であるが、人口1億5000万の国会にはむいていない事になる。
現在、人々の意見をもっとも取り入れやすい政治体制として民主主義を多くの国が取りいれているがそれももう時代遅れの代物になりつつあるのかもしれない。これからの日本はこの危機的状況を乗り切るために新たな政治体制の模索が必要であろう。それにはやはり地方への多くの権利譲渡による地方分権制度の確立で中央政治のスマート化が最も最適であろう。地方による独立採算とその土地にあったサービス提供が現在よりもコストダウンを呼び、ひいては減税とサービスの質の向上につながるであろう。特に日本はこれから史上最高の高齢化社会になって行くにあったて福祉にかかる行政の負担と役割は大きくなってゆくのは目に見えている。その時現在のようなコストのかかる画一的なサービスはなんの役にもたたないであろう。
そしてまた肥大化した中央政府、各省庁のスマート化と権限の削減により市場と地方行政への「口出し」をなくす事で更なる競争力を国民につけさせる事ができるだろう。それには公務員の待遇と資格の抜本的改革が必要だ。公務員の「年功序列制」の廃止による、年報制の導入、民間からの中途採用の拡大、各省庁間の人員の移動の増大が日本の行政の21世紀に向けた最も大きな課題であろう。もちろん新技術の導入、情報の公開性も言うまでもなく重要だ。閉鎖的な今の状態では進展は望めないであろう。が、今世界は一つの情報網によってつながりつつある。インターネットと高度通信網の整備だ。それにより誰もが行政のありようを「監査」できるようにしなければならない。それが国民の意識改革に大きく影響するであろう。
経済においても国民の意識の変化が大きく影響してくるであろう。戦後日本経済は官僚、国指導の経済であった。それはケインズ理論を使った、公共事業による景気と市場のてこ入れの経済支配であった。「オリンピック景気」しかり、「日本列島改造計画」しかりである。もちろん当時はこれでもそれなりに成果があった事は間違いないであろう。両事業ともに国内のインフラ整備に多大な成果をあげている。しかしそれを今日の日本にも行う事は無意味になってしまっている。意味のない商業用水用の河港整備やダム工事、利用者のいない農業用道路整備などはたとえその場しのぎの雇用確保になるにせよ、現在の日本経済の建て直しには力不足だ。
しかし公共事業を行うという事自体は悪い考えではないだろう。要は「どこに」「なにを」「どのようにして」造るか、である。今の日本に必要なのは国内情報網の整備と環境保護の為のきちんとした処理施設である。国内情報網の整備には主要幹線道路下に光ケーブル、電話線、ガス、下水の共同構を造る事がもっとも最適であろう。毎年恒例の2月工事は建設業社の救済にはなっているだろうが、それも肥大化しすぎた建設省の帳尻あわせにしか過ぎない。それよりも行政のスリム化が必要な今、経費削減こそ、行政のしなければならぬ大切かつ一番重要な仕事である。
そして環境保全は国、地方行政の急務である。健在の日本の状態でこのまま21世紀に進んでいったならば、必ず「環境戦争」ともいうべき状態が国内、国外とわずおこる可能性が十分に考えられる。風に乗り汚染された大気動く以上、大気汚染は日本国内だけの問題ではない。うみに垂れ流した汚染物質は世界の海にながれていくのである。その時日本が今の環境保護の体制でいったとき、世界中からの批判はまぬがれないであろう。だからこそ現在の企業利益優先式の体制を国民の環境への意識が高まりつつある今こそ変えるべきである。もちろんそれには国民の勉強と自覚も必要であろう。そして行政も国民の声に耳を傾けその土地に合った処理施設や廃棄場を作らなければならないであろう。そして今の日本にはこれらが絶対的に足りないのである。
企業もまた変わらなければならない時期にきている。すでに大企業と呼ばれるところは国境を越えて世界中に支社を持つようになり、欧米型の雇用体制に移りつつある。やがてはほぼ全の分野においてかつては「日本式」と呼ばれたシステムはなくなるであろう。企業は常にコストの削減を目指しているからである。日本式の雇用形態では無用な人材やコストがかかりすぎるのである。しかしこれら大企業がいくらがんばってもその数はたかが知れており、日本全体の景気を刺激するには力不足である。日本が「経済的」に根本から変わるには中、小企業がかぎを握っている。それには大幅な中、小企業の育成法が必要である。規制緩和、国による投資の拡大、そして特許法の改正は特にこれから会社を起こそうとする者へのベンチャー育成のために絶対に必要である。アメリカの今の好況を支えているものの一つにはベンチャーの奨励ともいうべきシステムと常に「アメリカンドリーム」を夢みる国民性があるだろう。そして今日にはそれを実現した者としてビルゲイツがいる。日本にはそれがないのである。「寄らば大樹のかげ」的思考になってしまう。しかし21世紀はそれでは生き残る事は困難である。国民全てが成功を求め、そしてそれを支援する態勢が必要である。「ジャパニーズドリーム」こそ今の、そして21世紀の日本に必要である。
また閉鎖的な日本経済の見直しも重要である。国境をマネーがいともたやすく越え、経済的な結びつきが強くなりすでに一国では経済が立ち行かない今の世界ではグローバルな体制が絶対条件である。それは今までの日本の「甘え」をなくす事にほかならず、多くの人間が不利益を被る事になるだろう。しかしこれを乗り切った企業、人は強い力を持つにいたるだろう。そのためには潤滑油ともいうべき投資を適切が行われなければならない。それは金融の再編成に他ならない。
「護送船団方式」に甘えていた日本の金融業は正直言って国際競争力は皆無に等しいだろう。
しかしいまだに日本はその事に気がつきながらも抜本的な改革と再編成に手がつけられずにいる。「日本にはあさひ、住友、安田の3銀行だけでいい」といいきった人もいるがそこまではいかずとも業績の悪化しているところは強制的に吸収合併させる必要があるだろう。それにより国民の銀行への信頼を取り戻さなければならない。銀行の信頼回復が日本経済復興の鍵の一つであろう。投資が滞っては経済がうまく動かない事は経済学の基礎の基礎である。現在の銀行の「貸し渋り」も銀行の力不足と怠慢のせいであろう。これはいうなれば銀行が本来の業務を行なえないという由々しき事態である。いくら日本人の個人資産が何兆あろうとも、それを適切に運用できなければ意味がなく、一刻も早く金融の自らの身を切る改革が必要である。
そして教育の改革も必要不可欠である。今までの日本の教育は「画一的」かつ「高品質」の人材育成にあった事は言うまでもない。しかし現在ではその「画一的」教育では国際競争力を持つ人材を生み出す事は困難になりつつある。特に「理系」の人材不足の現象は危機的状況になってきている。新技術の発見力はかつてより日本は不足しうていると言われてきた。このままでは世界に誇ってきた「応用力」も危うくなってしまう。これは今の日本が「受験」のための暗記重視の勉強法になっているからである。三角形の面積のもとめかたが底辺×高さ÷2である事はわかっても、なぜそうなるか、きちんと説明できるかを学校教育の現場では重視しないのである。理論だてて説明する能力は小さいころから学ばせるべきである。「数学的思考」能力の重視に日本はしていかなければならない。そして悪平等的なクラス、学年編成の脱却ときめ細やかなコース選択による学生の勉学意欲の向上も必要である。日本にある資源といったら「ひと」くらいである21世紀にはこれを世界中の国々に輸出できるようにしなければならない。
以上によりこれからの日本は多くの物を捨てる必要がある。しかし古来より日本は外国から多くの事を学び善いところはすぐに真似をしてきた。その柔軟性こそ日本の武器であろう。「学」が「真似ぶ」国民であるのは、一面で短所であると同時に、長所でもあろう。今世界には多くの先例がある。アメリカ、イギリス、オランダなどなど。愚かなナショナリズムにとらわれる事なく、抜本的かつ大胆な改革を今こそ国民一人一人の手でおこなわなければならないであろう。