経済学基礎演習「夏休み課題」

木幡英晃

日本は、第二次世界大戦の敗戦により、名実ともに荒廃した国土の中から、経済復興の第一歩を踏み出さなければならなかった。

第二次世界大戦による国富の損失額は、25.4パーセント、すなわち、約4分の1強を失った。特に船舶、工業用機械器具、建造物の損耗が大きく、工場生産基盤は破滅状況にあった。被害を免れた生産設備も、その大半が軍需生産用に強硬転換させられており、これを平和産業用に再転換させることは容易ではなかった。元々、資源に乏しい国ではあったが、戦争による荒廃、資材・人員などの不足から原材料面での不足が決定的であった。さらに、軍人や海外在留邦人などの内地引揚げが相次ぎ、これが出生率の増大を伴ったので、人口が急増し物資不足にさらに拍車がかかり、ことに食糧と衣料品の不足は激しかった。不足している物資を平等に分配するという主旨から配給制度が施行されていたが、物資需給のアンバランスが余りにも大きかったために、闇物資、闇価格の横行が目立った。

このような背景に加えていろいろな戦時補償費が多額に支払われたので、経済はたちまちインフレーションを招き、短期間のうちにすさまじい物価騰勢を示した。

このような経済混乱の中から、日本は奇跡と呼ばれるほどの経済回復を遂げていくのであるが 戦後日本経済の性格を大きく規定したのは、占領軍による経済民主化政策であった。GHQは経済民主化の三本柱として、財閥解体、農地解放、労働民主化政策を指令した。戦前の日本経済を大きく掌握し、国民総窮乏化を強いてきた元凶は財閥資本だったので、これを解体して競争原理を広げて行くことこそ、健全な経済発展を図るうえでの出発点をなすものであった。独占大企業の解体は、持株会社の解散、財閥家族の追放、過度経済力集中排除法による企業の細分化を通じて行われた。その結果、いくらか不徹底さは残ったとはいえ、独占の解体は大部分が成功した。

深刻な安定恐慌の下で苦しんでいた日本経済に活路を与えてくれたのは、昭和25年6月25日に勃発した朝鮮戦争であった。東西両陣営間の冷戦がホットな戦いに転じたことによって、にわかに連合軍の対日占領政策が変更され、日本での軍需物資の調達、それに伴って部分的ではあるが軍需生産の再開、再軍備が急速に進められた。

軍需物資の現地調達方式によるこの時期の受注は朝鮮特需と呼ばれている。朝鮮戦争のあった3年間で、総額10億ドル以上にのぼる巨額の特需があった。これによって安定恐慌で売れ残っていた物が一掃されたばかりでなく、特需景気による外貨の蓄積は、昭和27年4月の講和条約の発効とともに、国際市場へ正式に復帰した日本にとって、貴重な基金になった。またこの時期の特需の受注内容が、鉄鋼・非鉄金属・繊維部門に集中していたが、これによって関連産業部門にも多少の波及効果をもたらして、全般的な好況感をもたらしたというものの、主として特定産業部門に偏った経済拡大であった。ことに、厳密に規格化された製品を量産できる企業に限る、という条件がアメリカから要求された関係で、戦後に集中排除法によって分割された大企業に、再び復活する端緒を与えた。

事実、対日占領政策の重要な変更項目として、昭和26年6月に制限会社令および特株会社整理委員会令の廃止が司令され、講和条約の発効とともに、三大財閥の商号や標章使用禁止令が解除されるなど、独占再編成の素地が着々と築かれて、経済民主化政策は実質的に消滅した。

朝鮮戦争の終結に伴って反動不況は顕著になっていった。したがって中小・零細企業の倒産が相次いだが、特需によって復活の基盤を与えられてきた大企業群は、この間にそのシェアを拡大し、着実に独占再編成へと歩み続けたのである。ただし、この独占再編成期で注意しなければならないのは、金融機関を中心とした独占支配体制が次第に確立され始めたことである。

戦後、幸いにもGHQによる徹底的な解体を免れた銀行資本は、日銀貸出と政府資金の導入に支えられながら、不況の波をかぶった大企業群にたいして、滞貨融資・救済融資を積極的に行いながら、その支配体制を強化する一方、担保力の弱い中小・零細企業への融資の切り捨てを強行して、金融面から競争の制限と利潤拡大の機会創出を図ったのである。

いうなれば、GHQによって解体された財閥本社かわって、戦後の独占は銀行を中核として再編成された、という点で著しい特色を示している。もちろんこの時期の銀行は、滞貨融資・救済融資の枠内で行動する程度にすぎず、設備投資のための本格的な融資が開始されるのは、昭和30年代に入ってからであるが、融資を系列化しようという基礎は、この時期に整備された。

ところで、この反動不況は、日本経済が真の自立を獲得するための試練期でもあった。対日援助や朝鮮特需といった一時的・偶発的な要因に支えられて、一応の経済復興はたっせいしたものの、これらの要因がなくなった反動不況期以降は、自力によって国際競争市場の中で勝ち抜いていかなければなかったからである。講和条約が発効して国際社会への復帰が成ったとは言うものの、それまでの間の国際社会の技術進歩は目覚しく、日本とのギャップは大きくひらいていた。一日も早くこれに追いつき、しかも品質や価格の面で対抗するだけの力をそなえるためには、思い切った技術革新と合理化が必要であった。

他方、特需が消滅してからは外貨が決定的に不足してきて、必要な技術導入や原材料等の輸入に必要な資金に大きな制約が加えられていた。このネックを除くためには、厳重な為替管理と輸出振興策が必要とされたのであるが、独占的大企業の二重価格制とダンピングにもかかわらず輸出は伸び悩んだ。これは主として国際市場の停滞、ことにスターリング地域の輸入制限が強化されたことと、技術的にみて日本の商品が今一つ市場性に乏しかったことによる。

逆に、輸入はコンスタントな上昇を続けていたが、この中にはアメリカの過剰商品が押しつけられたというような悪条件が加わったこともあって、昭和28年度における日本の国際収支は、2億4千万ドルもの大幅赤字になった。これを救済したのが日米MSA協定に基づく外貨の流入であった。

従来からも、いろいろな対日援助、朝鮮特需などによって、対米依存度が高くなっていた日本であったが、一応の復興が成って、本格的な経済自立の段階に入ろうとするこの時期に日米MSA協定が結ばれ、それが来たるべき高度成長期までの一時期を支えたという事実は、対米依存関係をいよいよ決定的なものとし、その後の日本経済のせいかくをも大きく規定することになる。ことにMSAが軍事援助に限定されていたことから、この時期の景気回復は軍需産業をテコにして行われざるをえず、日米安全保障条約とともに日本再軍備への基盤が与えられることになった。

このようにして、日本を対共防壁にしようとするアメリカの防衛計画の一環へ、さらに強く結び付けられるという政治的な対米依存関係のほかに、昭和27年に加盟したココム(COCOM)とチンコム(CHINCOM)の規定に基づいた対共産圏輸出統制は、経済的にも対米依存関係を深化させざるをえない体質にしたのである。

ともあれ、このように短期的な景気循環を反復しながらも、日本経済は着実に復興過程をたどっていて、いびつな形ではあったにせよ、生産水準や消費水準も上昇を続けたのであった。

第二次大戦後の日本における経済成長は、おおまかにいって次の三期に区分することができる。すなわち昭和30年から36年にわたる第一期、昭和37年から41年の第二期、昭和42年から46年の第三期である。

まず経済成長第一期であるが、この時期の成長要因の特徴は、技術革新に伴う民間設備投資ブームであったといえる。講和条約が発効してからは、本格的に国際市場に復帰したとはいうものの、戦争中に国際社会から隔絶されていた空白期間に、世界の技術革新は著しいものがあったから、資源が乏しいために貿易依存度の高い日本としては、たまたま発生した特需がなくなったこの時点で、一日も早く技術革新を進めないかぎり、国際市場で競争していくことは不可能だったのである。

第二次世界大戦およびそれに続く国際的冷戦体制は、戦略兵器を初めとしてエレクトロニクス部門、石油化学部門、輸送機器部門、さらにはもっと基本的な鉄鋼生産に、飛躍的な進歩と発展をもたらしていた。当時の日本としては、これらのほとんどが新しい産業部門であったから、積極的に技術導入を行うばかりではなく、設備の建設投資から始めるひつようがあった。しかし、必要な資金量が膨大であること、技術革新ブームが急速であったことななどから、自己資金だけの調達方式ではとても間に合わないので、政府の積極的な肩入れも加えて、資金の大半を金融機関からの借入れに依存するという、間接金融方式が定着していった。

急速な経済成長を実現するには、借入金に頼るのがなによりの早道であるし、当時の日本政府の指針とも、うまく合致したわけであるが、反面、これが企業の自己資本比率を低める結果になったので、金融機関による企業の系列支配が容易になったばかりでなく、不況に弱い日本企業の体質をつくりだす結果にもなった。またその後、資本自由化という国際的な要望に直面したときに、相当の準備期間と手直しが必要であったのも、この体質のためであった。

通信機器類の技術開発を中心とした電気機械の発展が著しく、ようやく戦前の消費水準を超えた日本では、消費者の耐久消費財志向気運と合致して、電気製品に対する需要が激増した。ラジオ初め、俗に「三種の神器」といわれたテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫などの普及は目覚しいものがあった。

元来、労働者の教育水準が高く、手先の器用な者が多い日本では、短期間のうちにこの部門の内の技術を消化したばかりでなく、その後は、プリント配線、トランジスター、ダイオード・システムなど、独自の技術開発を通じて、電気機器類を輸出の主力に仕上げていくのであるが、このような内・外需の好調に支えられて、電気機器関係の技術導入も多く、全体の4分の1を占めているのである。

輸送用機器の発展はエネルギー革命と表裏一体をなしてきた。

第一次産業の衰退、第二次・第三次産業の相対的な躍進が目につく。第一次産業部門では、就業人口の継続的な低下と生産額上昇率の鈍化が顕著で、それが食料輸入率の増大になった。

第二次産業部門では、とくに鉄鋼、金属、各種機器類、化学の付加価値生産性や出荷額が大きく、重化学工業化の進展を雄弁に物語っている。 また、消費構造の変化を反映して、食料品製造業および紙・パルプ製造業、印刷・出版業なども、それぞれ安定した成長を示しているのに対して、繊維産業が総体的に、伸び悩んでいるのが目立っている。

文化のバロメーターといわれる第三次産業は、就業者も生産額も、ともに第二次産業以上の躍進ぶりを示しているが、中でもサービス業の発展、大量消費時代に即応した商業・運輸業の上昇が特筆される。また都市化の進展、生活水準の向上によって、不動産

、電気・ガス・水道の需要が激増したために、これらの部門付加価値生産性が、非常に高くなった点も注目すべきである。

1971年8月、金・ドル交換停止令が、当時のアメリカ大統領ニクソンによって発せられた。当然、国際貿易の萎縮とか混乱が予測され、先行き不安から世界的に急速な景気の後退が始まった。これら一連の現象を総称してニクソン・ショックと呼ぶのであるが、十数年間継続してきた日本の高度経済成長も、ようやくここに終わりを告げ、長期停滞段階へと突入していくのである。

国際通貨危機による影響のうち最も懸念されたのは貿易の萎縮であったが、予想に反してその影響は極めて軽微であった。依然として輸出は増勢を続けたのに対して輸入が停滞したために、かえって貿易収支は黒字を累積した。輸出が増勢を続けたのはニクソン・ショック以前の成約に基づく分がズレ込んだこともあるが、これは時間の経過とともに、いずれ解消する性質のものであって、より基本的には強力な国際競争力を背景にした、新規需要によるものであった。

石油需要が急速に拡大したのは第二次大戦以降であるが、これは石油化学の発展によって多目的に用途が開発されたことと、エネルギーと呼ばれるように、エネルギー源…すなわち動力源や熱源としての需要が増大したことに負うものである。特に動力源や熱源としての需要の伸展が目覚しく、昭和35年の時点では石油製品全体の23パーセントを占めていたにすぎなかったものが、現在では55パーセントと過半数を占めるようになっている。

大型タンカー出現で石油輸送費を半減させ、石油価格の低下に大きく貢献した。なお、このような大型タンカーの建造技術は日本が群を抜いていたから、各国からの注文をほとんど一手に引き受けることになり、造船・鉄鋼部門の長期好況、したがって、日本が世界を驚かせるほどの経済成長を遂げる重要な一環を形成してきたことも忘れてはならない。

日本経済には、製造業を中心とする効率的な分野と非製造業を中心とする非効率な分野との併存という生産性の二重構造が存在している。 非製造業の生産性が低い原因は、運輸、通信、金融、エネルギー、流通等の基幹サービスの分野における広範な公的規制の存在、護送船団方式と言われ保護政策からの脱却の遅れ、競争回避的・非効率な取引慣行的等であり、これまで国際競争を念頭に置いたコスト意識が希薄であったことである。このような分野の生産性が低いままであることは、国民生活の豊かさを低下させるという点で問題があることはもとより、サービスの投入比率を高めている製造業や他のサービス業の重荷となり、その国際競争力の低下を招き、製造業の空洞化、非製造業における外国サービスの代替といった問題を生じさせることとなる。空港、港湾、道路等の公共インフラ利用料が国際的に見て高コストであり、使い勝手が悪いことにも同様の問題がある。これまでのように生産性が高く、その上昇率も高い製造業の特定部門が経済全体を牽引することにより高い成長を実現していた時代はともかく、今後は、非製造業の生産性向上を促進し、産業全体でバランスの取れた経済成長を達成していく必要がある。また、利用率が高く非効率的な公共インフラの改善が急務になっている。 日本は、諸外国に比較して家計貯蓄等国民経済全体の貯蓄高水準にある一方、家計部門、一般政府部門における投資は相対的に低い水準とまっている。国内で十分な投資が行われず、大幅な貯蓄超過が生じていることは、その超過分が海外に投資機会を求めて流出し、その超過分に相当し経常黒字が生じていることを意味している。このような大幅な経常黒字は、中長期的な円高ドル安傾向、短期的には為替投機の材料となりやすいという意味で為替レートの不安定要因ともなっている。 21世紀の本格的な高齢社会を控え、高い貯蓄率に裏打ちされた負担能力がある 今後数年の間に、国内において十分な資本形成を早急に進めることが必要である。そのためには、国内に十分な資金があるのにもかかわらず、必要な投資に振り向けられないというシステムを改革する必要ある。

 さらに、こうした投資の量的な不足という問題があるだけでなく、良質な資本形成にむけて投資が行われていないという質的な問題もある。国際ハブ空港と呼べる空港がないということ、年中混雑する幹線道路にみられるように、日本経済のグローバル化や高コスト構造の是正に必要な公共インフラの整備ができていない。また、家計部門では現在の住宅事情は満足なものとは言い難い。日本経済の将来の発展に不可欠な研究開発投資、情報化投資は、米国と比較して量的のみならず質的に格段の遅れがある。 こうした状況を踏まえ政府においては、日本経済の構造改革につながり、経済、ニーズに対応し、真に必要で後世に残すべき良質な社会資本の整備の充実をはかるため、公共施設投資基本計画の前倒しを行うとともに、内需主導型のマクロ経済運営により、企業部門における情報化関連投資、研究開発投資、サービス情報かに伴う内需の対応した設備投資等を拡大したための環境設備、優良で低廉な住宅地の拡大、建設コスト低減など家計部門における住宅投資の拡大に貯蓄が振り向けられるような環境設備を行うとともに、必要な制度改革を推進することが必要である。 こうした社会経済ニーズに沿った投資の量的、質的拡大は、内需主導の持続的経済成長とあいまって、結果として経済収支黒字の意味ある縮小に資することが期待される。 戦後の発展を支えてきた日本の経営システム・企業行動の特徴は、量的拡大指向、横並び・シェア重視の経営、技術改善・改良の積み重ねによる応用開発、厳しい消費者のニーズにこたえての不断の品質改善、平均的に質の高い労働者と長期雇用慣行、高貯蓄率と活発な設備等にあった。 欧米先進国の豊かな生活を目標に物的・量的充足を追求した高度成長期、安定成長期にはこのようなシステムは有効であった。 需要面については先進国のライフスタイルや消費生活を参考にすることができたため、新商品に対する需要についての予測可能性が比較的高かった。 技術面では、他国に既に存在する技術、製品のコンセプトを導入して効果的に生産するとともに、生産技術を改善・改良していく形で、技術水準の向上が図ることができた。

 同業種での激しい競争、大量生産、大量販売によるコストダウンとそれに伴う需要の拡大、輸出の増大、これを見込んでの更なる設備投資という好循環が家電・自動車等の加工・組み立て型産業の急成長をもたらした。 しかし、このようなキャッチアップ型の経済成長は今や東アジア諸国等のものとなり、欧米の企業も生産工程における効率の向上、品質の改善に従来以上に積極的取り組みを始めている。 住宅等を除き需要は成熟化し、日本人が欲しいと思うモノの需要は少なくなった。

 

 効率を極限まで高めた生産工程、欠陥を限りなくゼロに近づけた品質管理等の面で日本企業の優位は世界に冠たるものがあったが、今やその優位性は相対的に低下している。 また、このような方式で高成長約束する巨大な需要は見出されていない。 日本企業は、必ずしも確実な成果が期待できない分野に挑戦し、これまでとは次元のことなる対応で新しい発展の軸を発見しなければならない。自ら基礎研究、応用研究に努め、新しい技術の芽、独自の新製品を産み出さなければならないが、その対応は十分とはいえない。 独創的な個人がリスクのおおきな事業に挑戦し、成功すれば大事業に発展するという方式での新分野の拡大が見られる情報、通信、映像等の成長産業で大きく出遅れている。 米国においては、80年代半ば以降新規開業率は13〜14パーセントの高水準で推移してきている。 特に、情報・通信、バイオ等の分野においていわゆるベンチャー企業の創出、成長が活発で、それが今日に見られるような新たな産業の発展と産業の国際競争力の向上の原動力となっている。 一方、日本においては新規開業率は低水準にあり、しかも昭和40年代以降低下傾向にある。 最近ではやや上向きつつあるものの依然4〜5パーセントに留まっており、なかでも製造業は3パーセントを切り、廃業率を下回るなど、新規事業の創出と経済のダイナミズムの面で深刻な状況にある。

 このような状況は、これまでの経営システム、日本企業が得意としてきた企業行動では有効に対処できない限界があること、企業に関する制度を含めた経済システムの在り方に課題があることを示している。 具体的には、

 1) 環境の変化に柔軟に対応できる企業システムへの変革の遅れ 2) 独創的・個性的な人材を輩出できない教育・社会システムとこうした人材を   有効活用できない雇用システム 3) 効率性・多様性に欠け、リスクを取る資金が供給できない金融システム 4) 自己責任の原則のもとでハイリスク・ハイリターンのプロジェクトに

   挑戦する起業家の出現の遅れ

 

 5) 長期的、戦略的な観点からの研究開発、情報化の遅れである。 国民所得と生産技術の水準で世界のフロントランナーとなった日本は、独創的研究開発に取り組み、創造的・個性的な人材を輩出しハイリスク・ハイリターンの事業に挑戦し、そのために必要な投資と環境の整備に努めなくてはならず、このような方向で世界に貢献し、共存する中で日本経済のあたらしい発展の軸を見出していく必要がある。 そのためにはこれまでの日本的経済システムを大胆に改革していくことが急務である。