1997.11.11

C今週は仙台へ出張のため、返事が遅れてしまいました。

お蔭様で、なんとか忙しい日々を送っておりますが、来年もこのような状況が続くかというと、はなはだ不透明です。

僕自信は年に1回、自身にとって何か新しい仕事をやっておいて来年の仕事へ広げていこうと思っているのですが、検討違いの方向に体を向けているとあっという間に周りから仕事がなくなってしまう感があります。事実、僕らが抜けたあとの前の会社は、今や仕事はほとんどなくなり、いつ倒産するかという状況のようです。

今年からSEになる、皆さんへ。

「腕のいい職人をめざして下さい。」

どのような会社に入ろうと、自己を磨き続けて下さい。

会社に入るといろいろな価値観の人がいて、結構、振り回されることもあろうかと思いますが先輩や同僚の人たちと意見を言い合い自己の価値観をしっかりと固めてください。皆さんに素晴らしい出会いが訪れることを願います。

最後に仕事上の教訓を1つ

「ああやっぱりなあ。ここ手をぬいちゃったよなあ。」というところで、システムは問題をおこします。

手を抜きたくなったら、別の方向からでもいいからその場所にエネルギーを投入しましょう。きっと、そこはめんどくさくてどうしようもないとこだから、システム化へのエネルギーを欲しているのです。あとあと、楽するためにシステム化をしているのですからその後に楽する分のエネルギーがそこに集約されているのですよきっとね。

では、頑張って下さい。僕も頑張ります。

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H.ohta from Musashino-city

URL : http://www.cyborg.or.jp/~ohta/

e-mail : ohta@cyborg.or.jp

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1997.6.11

B昨晩の続きです。

そう、昨晩のを読み直して気になったのですが口語体で記述しているのは、僕のキーボードの向こうにいるのが先生から紹介された大学の後輩だからであって望月先生本人に話し掛けている訳ではありませんので・・・

ここから続き

実際、いろいろな仕事がくる度に、新鮮な経験をすることもでき疲れこそすれ、厭きることはありませんでした。なぜって、同じ作業をしなければならなくなったら、「この作業を次回から簡単にできるロジックを考えておこう」とひとひねり、ふたひねりして別の方法論を考えたりしている訳で(これが積み重なるとひとつの汎用プログラムができたりする)毎日が充実していました。

さて、では何が支障となるのか?

1.いかんせん経験の積み重ねのなかから生まれるプログラムゆえ生産性があがるまでに時間がかかる。僕も「優」の数だけはあったけど、頭いいほうではなかったので成長に時間がかかるほうだった。

2.プログラマーに負担がかかりすぎて、経験を積み上げる途中で退職してしまう。

  これは、給与面での会社の配慮が足りなかったといえる。このやり方はもう人が財産なわけだから、その部分を支える人をもっと厚遇すべきだったのでしょうね。

3.パソコンの登場で、これまでの開発資産の価値がおちた。

  ここをもうちょっと説明すると、パソコンが登場したというよりもMultiPlanが計算市場になぐりこんできた感じですか・・このへんは望月先生がその土台を作った張本人なわけですがとにかく、1年ごとに表計算ソフトの力が向上していくわけで、これはもう、経験の積み重ねなんか追いつかないのです。

  今までは、外部の人(つまり僕ら)に説明して計算してもらっていた多くの部分がその仕事をよく知っている本人たちが直接できるようになっていったのです。

まあ、他にも色々理由はあるのでしょうが社内から見ているとそんな感じでしたねえ。

ここら、この仕事の進めかたの問題点なんですが、機会があるようでしたら、望月先生のご意見お聞きしたいですね。

ということで、僕が考えるほど会社はグングン成長しませんでしたがバブルの影響もあったんでしょう、業績は常に右上がりでした。僕の不満は、後輩が育たないこと、新しい発想の道具(汎用プログラム)ができていかないこと、会社のコンセプトからいって、「仕事に流され」たら次の時代には消えていかざるを得ないことが分るのに今までの資産(過去に開発した汎用プログラム)で十分に会社を維持できたので、うちの社長はゴルフ三昧でした。

ちなみにこの社長はオーナー社長ではなくて出資者のなかの代表でしかなかったのですが、やっぱり遊びまくっても会社の業績が落ちていないかぎり注意はしても、おろすまでは行かないんですよね。

僕が入社したころは、この社長(営業出身)も怒鳴りちらすことはあっても一緒にお客さんのとこ行ったり、夜食もってきてくれたりしてたんですがねえ..で、だんだんと注意する人間を遠ざけるようになりお気に入りの女性社員(まずいことにこの社員を社長に紹介したのが僕)を秘書にしてとうとうマンション借りて別室作ってしまって..(12人の会社で秘書だよ、遊びの電話しか掛かってこないのに)非難したら、新オフィスを借りて一応みんなの所、戻ってきたのですが、僕と僕の後見人のような立場の役員の2人だけ創業時のビルの1室にマシン室として残されました。

こう書くとなんか凄まじい仕打ちを受けているようですがそれでも、会社は動くし、仕事も流れるし、僕も毎晩おそくまでがんばっちゃうんだなあ..

バブルのころは日本中で、社長さんが勘違いしていたからね

当時、ゴルフ場はベンツに乗ったソフト会社の社長ばっかりだし健保組合(●●健保組合)の保養所に「カジノ」なんか作るような社長ばっかりだったからねえ..

バブルはじけりゃ、いつかは目がさめると思っていたのですが結局、はじけた後に分ったのは、この社長の不正蓄財でした。彼はイエスマンの専務をそそのかし、彼ら夫妻4人を役員にした別会社をつくり、僕らの仕事を全て通過させていたのです。ただ、その不正蓄財も悲しいことに造成中のゴルフ場の会員権やらが多く、資産価値は1/10

どうせ悪なら、もっとうまく溜めてくれれば取り返すこともできましたがバブルの後に残ったのは、「もう一緒にできないな..」という結論でした。

半年かけて、仕事を整理して、退職。

37歳という年齢は転職の最後の最後のチャンスでしたが結局、やめた仲間ともう1度やってみることにしました。

メーンフレームを使ってやっていたことをパソコンに置き換えて今、以前と全く同じ流れでもう1度挑戦してます。以前のお客さんも僕らのところに戻ってきてくれました。

過去に作ってきたオリジナル言語(残念ながら僕が作ったのではない)や汎用プログラムをパソコンに移植して、ExcelやAccessと併用して、隙間をぬいながら飯くってます。

コンピュータがその力を発揮する、バッチ処理で95%仕上げ、顧客に対するきめこまかな対応を市販のアプリケーションで行うことで今のところ、生きています。

ねらいは「1年に1度の中型の処理」といったところですかね、1年たつと仕様も若干変わる、担当者も変わる大々的にシステム組むには後々都合が悪いこんな仕事あったら是非ご相談下さい。そう、1年に1つ、新機軸の業務をしたいと思っています。前の会社で得た経験を生かして、いい会社つくりたいとも思ってます。みんなも、頑張って下さいね。

望月先生のページを見る限り、皆さん優秀ですよね

でもね、最近思うのは、一所懸命な人が少ないんですよ。去年、仕事を通して知り合った人の中でその姿勢に尊敬できた人たった1人だけですよ!なんか、情熱持ってる人って少ないんですよ。

株式会社▲▲▲データ (▲▲▲DATA)これ僕らの会社の名前なんですが1番若い子(といっても32歳)が決めたんだけど覚えといて下さい。

いつか一緒に仕事で会いましょう!

こーーんな話、役に立たないと思うけど、これがメールのいいとこなんでお許しください。

P.S. 正村ゼミ、鶴田ゼミは健在のようですね、誠にうらやましいです。中村秀一郎先生は多摩大学に行かれたのち、病床にあると聞きましたがあの先生の「失恋レストラン」と「銀河鉄道999」が思い出されます。

伝説のPIPSを作った望月先生が専修大学にいらっしゃるとは知りませんでした。

後輩のご指導よろしくお願いいたします。

                E52-322 おおた ひであき

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H.ohta from Musashino-city

URL : http://www.cyborg.or.jp/~ohta/

e-mail : ohta@cyborg.or.jp

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Aお返事いただき、ありがとうございました。

最近の学生は、小学生のころからファミコンで育った世代なんですよね。僕が結婚したころ(11年前かな)、新婚家庭で2人でファミコンしてたの思い出します。大学生のころはインベーダーゲームの全盛期でしたしね。

この3年でパソコンも本当に安くなり学生の間でも20〜30%は持ってるのでしょうかね?こういった道具が安くなったのは本当に良かったですね、

ホームページを持ってから、小学校から大学時代までの旧友たちと連絡を取れるようになりました。今日も、いきなり中学時代の友人からメールが届き、10年ぶりに一緒に昼飯を食べました。

そう、こうして母校の先生からもメール来ましたしね。

学生時代の友人は、社会にでると皆、年を経るごとにその社会の時間に追われるようになり、一緒に暇をつぶした仲間と旧交を温めあうことはなくなります。

そう、結婚するとその傾向に更に加速がつき、毎年年賀状で「今年こそ会おう!」などといいながら全然会う約束をしない・・・忙しいのは事実なんだけど、やっぱりまず連絡を取り合うことができなかったんですね。そう、住んでる世界が違うと、きっかけもなくなるんです。今、TVでやってる「不揃いの林檎」と全く同じ世界です。

会社に電話するのは相手の様子が分らないので気が引けるし「会おうか」と手紙でも書いたら「なにごとだ?」ということにもなりますがメールは、気軽に出せるし相手を拘束することもないので今の我々には大変都合のいい通信手段です。

さて、僕の仕事の経緯ということですが...

大学4年の春、玉城先生(僕のHPを参照されたし)より「オオタよ、おまえシステムを勉強してみないか」といわれバイト先を紹介されたのが始まりでした...

僕の当時の志望は「広告代理店」でしたが、ある会社の内定後の健康診断の拘束日に、「まだ、自分の可能性を見てみたいので、他の会社を回りたい」と発言したところ、即刻内定取り消しとなり・・その可能性の博報堂も2次面接でしっかりと落っこちて,面接を通してその業界に嫌気がさした僕が行き着いたさきはそのバイト先だったという、なんとも不甲斐ない社会人のスタートなのです。

先生は「とりあえず、あそこでシステムをやってみろ!」と送り出してくれたので「それじゃあまあやってみるか」と始め、いずれ、身につけた「システマチックな考えかた」で、別の仕事へ転職する予定だったのですが、いまだ「事務土方」(じむどかたと読む)の毎日です。「事務土方」って言い方なんか好きなんです。力強いでしょ!朝から晩まで、キーボードたたいたり、仕様書かきまくったり机の上は資料だらけで、全然整理されてなくて、でも本人にはなんの支障もないんですけどね...

僕がはいったその会社は僕が知る限り、仲間内のなかで最も小さなソフトハウスでした。

当時、社長以下5人の株式会社でしたが社保にも入ってないし労災も入ってないし、就職課は「先生の紹介だから」という話を聞くまで納得してくれなかったんだから、その酷さがお分かりでしょう。

自慢しちゃいますと、卒業時「優」の数42個もあったんですよこれでも(そんなのなにも役にたちはしないんですけどね..)

でもって「すごい会社」行くもんでうちのゼミでは「伝説の人」だったですよ。「伝説の人」は入社後の4月には、夢の中でロジック考えて、覚えている間に

朝、メモをとって会社に行ってまた書きまくって..みたいに売れっ子作家のような生活を始めてました。

最初のプログラムは2ファイルのデータをキーコードでマッチングして1ファイルに出力するという簡単なものなのでしたね。記念に打ち込んだカード(当時まだカード穿孔機でプログラムを打っていた)のブロックをロッカーに入れたりしたりしてたんですがすぐに一杯になって廃棄しました。

2年後に先生が亡くなって「転職のさそい」も期待できなくなり「よし、この会社デカクしてやろうじゃないか!」と考えを切り替え働きまくりました。

その会社はソフトハウスといいながら、ソフトを作って売っている会社でもなければ、オペレータを派遣しているわけでもない、当時としては業界の中でもかなり特殊な位置にいました。(今でも特殊かな?)

で、何してたかというと、今OLなんかがexcelつかって事務計算したりしてることを、その仕事ごと請け負ってきて「計算結果のみ」を納品していたわけ。

当時は会社でもパソコンもってるところ少ないし(もっともそれほど処理能力なかった)LOTUS1-2-3もまだ出てなかったから、結構そんな計算でもゴロゴロころがっていたんですよ。

で、僕はなんか営業が請け負ってくるとそれに合わせてプログラム書きまくりして計算したりするわけなんです。従って、プログラムは書き捨てられるわけなんですが、それだと全然進歩がないんで、ノウハウを積み重ねて、いろいろな汎用プログラムを作ることで次のにたような仕事のコストを軽減させていくという構造です。順調に行けば、多種多様な汎用プログラムの財産がどんどん蓄積されていくわけなんですがね、なかなかそうは行かない。

すいません本日ここまでで、終わらせます。また時間あるとき続き入れます!


@本日、はじめてアクセスしました。随分と前の卒業生です。

今はもうない玉城ゼミOB会のHPを主催してます。

情報処理業に携わり16年になります。

講義頑張って下さいね。