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新ボストン便り 第9回 〜2001年12月9日便〜

   ボストン交響楽団と小澤征爾

ボストン時間12月8日夜10時10分、ボストン交響楽団の定期演奏会の好演の余韻を楽しみながらSymphony Hallから出て来ると、今年初めての雪が舞っていました。今年は例年になく暖冬で、早いときには10月の半ばには初雪が見られるにもかかわらず、12月に入っても10度を超える暖かい日が続いていただけに、この急な初雪には一瞬目を疑いました。コートに落ちる白い雪の結晶は、長い冬に入ったことの印でありますが、明かりに照らされて降りしきる雪はしかし、どこか幻想的でもありました。

本年の文化功労者の栄誉を受けた小澤征爾さんが、マエストロとして率いるボストン交響楽団の2001〜2002年の今期のシーズンは、ボストン市民にとって特別なものになりました。それは1973年弱冠38歳でマエストロに就任して以来、29年間というアメリカの交響楽団でも他に例を見ないほど長期にわたってボストン交響楽団を指導し、全米屈指の楽団にまで育て上げてきたボストン交響楽団との契約が、今期限りで切れるためです。短命ではないかとうわさされた彼のマエストロ職が、こんなにも長く続けられえたのは、彼の楽団員に対する温かい配慮が楽団員の強いサポートを受け、たびたび起きた交代要請に対して楽団員が反対したとされていることや、彼の60歳の時に10月1日を「Ozawa Day」と市長が制定したほど、ボストン市民に親しまれたからではないでしょうか。

10月のオープニング演奏会は、お得意のブラームスの交響曲第一番で始まりました。1935年生まれで、今年66歳になる小澤さんの、軽快なフットワークの中で、タクトを用いずに両手を使ってオーケストラの団員に情熱的に直接訴えかけるような指揮ぶりは、年齢をまったく感じさせず、実に精力的です。話は余談になりますが、私の家内が行きつけの日本のパン屋さんに行ったところ、日に焼けた精悍な顔つきで元気よく颯爽と歩いてくる小澤さんとすれ違い、急なことで驚いて思わず一言「マエストロ…」としか声をかけることしか出来なかったそうですが、それに対して彼は笑顔を返してくれたという思いがけない出来事が最近ありました。このパン屋には小澤さんは度々来られているようで「体から湧き出るパワーに圧倒された」とは、彼女の弁でした。

来期はウイーンの国立歌劇場のマエストロに就任予定であり、今年のシーズンは最後のマエストロとしての演奏を聞こうという人たちで彼の演奏会のチケットは早くから完売でした。
私もボストンに移り住んだ1983年以来、大学院生時代から今回の客員研究員としての今回にいたるまでボストンに戻るたびに彼の演奏会を聞いております。「ボストン」と「小澤征爾のボストン交響楽団」とは一体であっただけに、彼の退任は非常に残念であります。雪の降る中傘を貸してさしあげた年配の御夫婦にお話を伺ったところ、今年76歳でこれまで55年間ボストン交響楽団を聞きつづけておられるそうですが、そのうち半分以上が小澤さんであったため、名残惜しいと話しておられました。

さて、今期のボストン交響楽団のプログラムにも、実は9月11日の大きい影響がありました。その一つは演奏曲目の変更で、当初はシューマンの「ファウスト」を演奏する予定でしたが、テロの犠牲者の追悼の意味をこめて、小澤さんが熟慮の末、ベルリオーズの「レクイエム(鎮魂歌)」に急遽変えたことでした。また、星条旗を消防士が掲げて入場して始まった全米向けに放送された「A Tribute to America (追悼および募金コンサート)」では、「人種、宗教など多様なアメリカで今回の事件後人々の気持ちが強く一体化した。この一体感が将来のアメリカを築く」といつもは英語による発言にはシャイな彼がアメリカに向けメッセージを送ったことが印象的でした。


イスラム原理主義と外国人留学生の問題および危機管理について

9月11日の未曾有の悲劇以来、テロ撲滅を目指すアフガニスタンへの攻撃が始まり、日に日に戦況が急展開する中、炭素菌事件騒ぎが全米を震撼させ続け、国内の安全性確保のための飛行場、原子力発電所などの警備の強化が行われました。また、航空機産業を中心に経済活動への影響も深刻で、景気後退の宣言もありました。正直、この間当地に在住するものとして、常時気が休まることはなく緊張を強いられていたことは確かでした。

その後、最近になり圧倒的なアメリカの軍事力によって、予想以上に事態は急展開し、タリバン勢力の実質上の崩壊に至りました。アメリカの国内の雰囲気は、これでひと頃に比べかなりの程度明るいものとなったことは確かです。私たちもこれでようやく緊張が解けてきたというのが本当のところです。そうは言っても、これからのテロ支援国への第二段階の展開の可能性があるためまだまだ油断が出来ませんが。

これらの点は日本でも数々報道されているわけですが、おそらく違いは同じ情報に対する受け止め方の違い、その対応の仕方の差異ではないでしょうか。例えばアメリカ国内でも今回の事件の発端となった飛行機が2機飛び立ったボストンと、実際の被害を受けたニューヨークとでもやはり温度差ははっきりと違います。また、ボストンと広大なアメリカの各地域とではまた、受け止め方も違います。従って、遠く離れた日本での反応が当地と大きく異なることは当然ではあります。しかしながら、その反応は事件から3ヶ月たった今でもアメリカへの出張や、沖縄、ハワイへの観光が激減していることからも見られるように当地から見ればやや過剰に反応しているように見受けられます。他の国々の人たちに聞いて見るとこれほどの過剰反応は見られませんでした。

このことは、裏返してみれば、「君子、危うきに近寄らず」の教えに見られるように、日本の中では安全であることが正常であり、異常事態への対応が危険を避けることによることしか取りあえず方法を知らないということかもしれません。また、「赤信号皆で渡れば怖くない」式の横並びの行動をとることが安全であるという考え方も根強いように思います。今回たまたま一緒にケネディスクールの授業に参加していた学生のうち二人がイスラエルからでした。テロ、戦争が常態化している国に住む彼らから見れば例えばアメリカの空港のsecurity checkなどもまったく甘く、アメリカ国民の対応もはなはだ心もとないとのことですが、危険への対処を前提とした生活についての彼らの見識は耳を傾けるべきものがありました。

世界の中でも平和で安全な国だと言われてきた日本も、最近では必ずしもそうではなくなってきているように思えます。徐々に安全を確保することの重要性に対する認識が高まってきたと思われますが、さらに一歩進め危機管理を含め安全な社会を作り上げることが必要ではないかと考えます。そのためのコストは市場を通じて国、企業、個人がそれぞれ負担すべきではないかと考えます(今回の事件を契機に日本の危機管理の脆さがよく現れたのが、日本の保険会社のアメリカの保険会社との間の再保険の契約でした。理不尽な契約に気づいて手を打とうとしましたが間に合わず、巨額の再保険の支払いの負担に耐え切れず倒産した損保会社が出てしまいました。)

9月11日以降、ハーバード大学では、最初のショックを乗り越えた10月以降は、この事件の背景とアメリカの対応をめぐって講義、会議、公開討論会などで毎日のように激論が戦わされています。 いくつかの論点の中で今回はイスラム原理主義について考えてみたいと思います。

ビンラディンと彼が組織するアルカイダがイスラム原理主義であるとされ、そのために、当初原理主義がすべて間違いであるかのような報道がされていました。実際は原理主義の中のごく一部の過激分子の犯行であるとの理解が進みました。本来原理主義はイスラム教に限らず、現存する宗教が近代化の流れが進む中で、世俗化してゆくことに反対する勢力として他の宗教でも起きている事であり、それ自体はなんらテロとは結びつくものではないという点が大事です。本来のイスラムの原理主義はコーランに基づく教義に厳密に従って生活することを目指すもので、本当の意味における原理主義者から見れば異端に見えるとの指摘が、イスラム研究者から数多く出されていました。

また、私たちから見て不思議な点は今回のテロの実行者はしかし、こうした典型的な宗教戒律を守って清楚に生活する本来の原理主義とは異なり、ごく普通の生活を決行の前日まで送っていることです。いわゆる厳密な意味における原理主義とは呼べないかも知れず、研究者の一人は新原理主義という言葉を使っていました。さらに、興味のある点は実行犯に高学歴者が多いことです。
どうして アメリカで学んだ高学歴の若者がこのようなテロ事件に加担してくるのか、理解しかねます。ちょうど日本の地下鉄サリン事件の実行犯にも高学歴者が多かったことを思い出します。

いずれにしてもテロの実行犯がアメリカの大学で学んだことに警戒したアメリカ政府は学生ビザの発給を厳しくすることになりました。アメリカの工学系の大学院の過半数が外国人留学生で占められていることを考えると外国人留学生に世界的な研究を依存しているとも言えるアメリカにとってこのビザ発給制限問題は今後大きな問題になりかねません。
「優れた人材ならどこの国の学生でも受け入れる」というオープンで自由な政策が現在のアメリカを作ってきており、「安全とのかねあいをどう図ればよいのか」、という今回の事件がアメリカに与える根本問題に立ち返って来ることになります。


Lawrence Schoolの教育について

私の娘が通うLawrence Schoolは、秋学期が始まり、既に3ヶ月たちました。朝8時直前に門が開き、教室に入るとすぐに授業が始まります。午前中は45分の授業を中心に5科目が休み時間なしに続きます。カフェテリアでの30分の昼食後、すぐに午後の授業があり、終了時間は2時となります。手洗いなどは授業中に手を上げてゆくことになります。英語を母国語としない日本人の児童に対しては英語での授業についてゆくことは最初ほとんど出来ず、TBEと呼ぶ過渡期バイリンガル教育の専門の日本人の先生がたの助けを借りることになります。

一週間の時間割を見ますと毎日ESL(English As a Second Language)が2時間から3時間、授業や宿題でわからないことを日本語で教えてもらえるTBEが1時間あるほかは、通常の授業として科学、数学、体育、保健(健康)、音楽があります。ESLでは個人のレベルに応じたカリキュラムを先生が組まれますが、会話中心というわけではなく、読み、書き、発表、単語習得など総合的に英語力を挙げてゆくことが基本です。先生との個人面談の席上見せてもらった課題の量はたった3ヶ月にしてはかなりの量に上ると感じました。これまで読んだ本は英語は簡単なレベルながら、タイタニック、アメリカインディアン、黒人問題などに関するもので、自然とアメリカの文化、歴史になじめるようなものでした。

先生によれば、娘の英語力はここ4週間で急に高まったそうです。それまでは毎回何か質問がありますかと聞くと、必ず何か質問があったそうですが、最近は自分でこなせるようになってきたそうです。家でも驚くほど早く3,4ページの英作文の宿題を書いてしまうことが出来るようになりました。先生との相性も良いこともあったと思いますが、英語にぁw)茲襯灰潺絅縫院璽轡腑鵑・茲衢動廚砲覆辰討い襪海箸鮗卒兇靴討い襪茲Δ任后・・w)実匸しかし、科学などの通常の授業についてゆくのはやはり大変です。専門用語を含む単語の質も量も格段に上のレベルです。娘が一番困ったことは、英語の聞き取りが出来ないため板書に頼らざるを得ないのですが、その先生方が黒板に書かれる文字が判読できないことです。日本では筆記体できれいにわかりやすく書く訓練を英語を学ぶ最初の段階でしっかり受けますが、ここではよく言えば非常に個性的とでも言いましょうか、なかなか判読しがたい書き方をされるので娘はコピーをいただきたいとお願いした次第です。逆に先生方は娘の教科書で学んだ通りの丁寧なわかりやすい筆記体を見るとどこで学んだのかと感心された次第です。

筆記体が読みにくいという問題は小さな問題ではなく、最近問題になっているのは医者の薬の手書きの調合書が薬剤師には判読しにくいことで、誤読の確率が3割近くあるという怖いデータも発表されています。また、毎日出される宿題は数学のようにはっきりしているものは得意ですが、日本のように答えがはっきりしている問題だけとは限りません。質問の真意がわかりかねる問題や、例えば、科学の場合など実験のあり方自体の有効性を問うケースなどどう答えてよいのかわからないことが多々あり、時間が取られてしまいます。

また、本質的にアメリカでは先生が教えるべき内容は概略定められてはいますが、実際は各先生が独自の教材を使っていますので先生によって教える内容が大きく異なることになります。教科書がある場合もない場合もあり、事前に授業前の予習が出来なかったり、内容に偏りがあることがあります。例えばエジプトが好きな先生はエジプトを中心に詳しく勉強させますが、その他の地域は教えないことになります。 さらに、設問に挙げられている例が、アメリカの事情がわからなければ理解できないという場合も多い事も、海外から来る学生にとって、アメリカの授業が難しく感じられる理由の一つです。
ただし、日本と比べた場合、数学ではまどろっこしく見えるほど丁寧に基礎的な概念を繰り返し徹底的に教えること。科学の場合は実験を始める前の段階での安全性の確認、各ステップの意味と役割などを周知させること。良い意味での批判的精神、および創造的な能力を養う問題設定、皆の前で発表をする機会が多いことなどは参考になると思いました。また生徒と先生との比率が20人程度と日本の半分であることも丁寧な教育が可能となる大きな条件の一つです。

娘は毎日夕飯時になると、その日のLawrence Schoolでの授業や、友達の話を事細かに教えてくれることが日課になりました。アメリカの学校が楽しいということの理由の一つに「Good Job, Chihiro (よくやった、ちひろ)」など常に皆が励ましの言葉をかけてくれることだと考えています。日本から来る手紙の中でいじめの話が出てくると非常に残念そうな顔をします。Lawrence Schoolでは副校長のみならず、校長も教室をよく回り児童一人一人の名前を憶えているほど先生と生徒との間が近いこともこの学校の特色であるといわれており、そんな中で前向きで明るい教育環境が生まれているのでしょう。

今回は、これで終わりとします。



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