LJ16狩野静香(かのうしずか)
『ヴィジュアル系と薔薇』
薔薇。耽美かつ甘美な響きを持つ、美しくも妖しいモノ。その美しさに魅せられた芸術家たちは様々な手段でその美しさ、妖しさを表現した。そんな中、日本の一部の青年達はロックという媒介を通じて、薔薇を讃えた。彼らは、1990年代には世の中のブームにまでなったが、近年は低迷気味と思われる。女性とも見紛うほどの長い髪、幻想的な衣装、そして厚く施された化粧。そう、俗に「ヴィジュアル系」と呼ばれる集団である。
ヴィジュアル系ロックバンドにとって薔薇とはどのような意味合いを持つのだろうか。
はじめに、一つ断っておきたいことがある。それは現在のヴィジュアル系シーンについてだ。一般の人々が思うような“派手”“女っぽい”“暗い”といったイメージは既に古きものとなっている。今やドレスのような格好をしているバンドは減り、ヒゲ面にTシャツのヴィジュアル系バンドだってある。そんな中でも、勿論、耽美色を前面に出したようなバンドも健在である。ここではその一部のバンドについて考察したい。
まず、耽美系ヴィジュアルバンドの最高峰たるMARICE MIZER(マリスミゼル。現在は活動停止中)について。
かのGakctが在籍していたことでも有名なこのバンドは、CDのジャケットやら曲タイトルやら歌詞やら、とにかく薔薇をハデに用いた。ゴシック要素をふんだんに取り入れたMARICE MIZERの世界観に、薔薇は欠かせぬものであった。“悪意と悲劇”という和訳を持つMARICE MIZER。
では“薔薇”と“悪意と悲劇”について考えてみよう。悪意とは、他人に害を与えようとする心、憎しみにも似たものだ。悪意、憎悪の境地に“死”という単語が浮かび上がってくると思われる。悪意の対象を“殺戮”したいという気持ちである。そして“悲劇”、こちらの方が多少わかりやすい。決して明るい終わりはない、悲しみの結末なのだ。“儚い”結末とも言えるだろう。“殺戮”の果ての“儚さ”、殺戮という鮮血の果てに待つ儚さは、深紅の薔薇が散るそれに似ているのではないだろうか。殺戮という残忍かつ恐ろしいモノと、美しく愛でる薔薇。それらを結びつけることの恐ろしさ、そして美しさよ!禁断の組み合わせゆえに、美しく、妖しい。実際、MARICE MIZERの音楽性は美しく、妖しい。パイプオルガンやチェンバロを用いて奏でられるクラシカルなサウンドに、美しく低く響く歌声。(ボーカルは二度メンバーチェンジしているが、これは全員に共通するところである)
この“美しくも妖しい”薔薇のイメージはのちのバンドにも多大なる影響を与えた。
MARICE MIZERの結成は1992年。その次の世代としてDir en grey(ディルアングレイ)がある。現在は男気あふれるロックバンドだが、初期はメイクも衣装も耽美かつグロテスクなバンドであった。彼らのコンセプトに“薔薇”はあまり重要でないが、私が印象深く感じた歌詞が一つある。2000年に発表されたアルバム『MACABRE』収録の「MACABRE―揚羽ノ羽ノ夢ハ蛹―」という曲だ。そこに“バラリグラリ薔薇バラの君”という表現がある。“バラバラ(死体あるいは死骸)”と“薔薇”をかけているという言葉遊びだ。勿論、CDで聴く分にはこの差はわからない。だが、“死体=気味の悪いもの”“薔薇=美しいもの”をかけるというのは非常に面白い。醜いもの、美しいものは紙一重というところだろう。
また、MARICE MIZERとほぼ同世代にLAREINE(ラレーヌ)という耽美バンドがある。彼らは“薔薇”と“愛”を全面に出し、現在もなお変わらぬスタンスで活動を展開している。ヴィジュアル系バンドには、自らのファンのことをただ「ファン」とは呼ばずに別名称で呼ぶことがよくある。このLAREINEもその一つで、LAREINEファンは「Fleur」(花)と呼ばれている。“花(薔薇)=愛でるもの”“ファン=愛でるもの”という彼らの図式もまた面白い。LAREINEは他のヴィジュアル系バンドが注目しがちな薔薇の暗さには重点を置かず、ひたすら「愛としての薔薇」を求めているように見受けられる。決して明るい曲ばかりではないが、それでも残忍さ・グロテスクさはない。
そしてインディーズバンドにSyndrome(シンドローム)というバンドがあった。(現在は活動停止中)幻想的かつ耽美的なヴィジュアル系王道の外見・楽曲。ファンタジックな世界観には“現実と非現実”というテーマが時折ちらついた。そんな彼らは自らのファンを「薔薇姫」と呼んだ。「薔薇姫」という曲もあるが、その歌詞には“薔薇”という言葉が使われていない。その曲は永訣を歌っているように解釈できる。“失った大切な人=儚く散る薔薇”ということだろうか。ここでいう薔薇も「愛としての薔薇」の意味であって、薔薇のとげとげしさは表現されていないようである。
また、SyndromeのメンバーがのちにはじめたD(ディー)なるバンドもその延長線にあり、より“薔薇”を大切にしていると思われる。そして“愛”“血”というキーワードもコンセプトにあると思われる。そんなDは、薔薇の持つドロドロした部分も表現されている。(作詞者・作曲者は元Syndromeのメンバーだが)この作詞者は「薔薇という言葉には“命”という意味も含めた」と雑誌のインタビューにあった。薔薇=愛=命=血。これがDの図式である。
そんなヴィジュアル系バンドを好む私がイメージする薔薇とは、「美しい」「妖しい」「痛々しい」という暗黒要素をも含むものである。薔薇を真ん中に考えると、愛=薔薇=深紅という図式が浮かぶ。愛=深紅=血、そして薔薇=棘=痛々しいとまでくれば、薔薇=“純潔を失った少女”というイメージも沸く。純潔は純血にも通じるだろう。つまり、薔薇=深い愛だけではなく、薔薇=愛の入り口とも解釈できるわけである。どこか危ないその薔薇のイメージ。やはり、耽美は薔薇でなくては駄目なのだ。桜では“血”を彷彿させるものは無きにしもあらずだが痛々しさがない。向日葵では明るく逞しくさえあるし、紫陽花は薄暗いイメージがあるものの、やはり棘がない。大きな花びらに、棘。その駆け引きとも言えるような組み合わせが美しいのだ。大きな花びらは、ドレスのように美しく舞い広がり、そして時には血が溢れ出るかのように生々しい。簡単には触れさせない棘は、少女の最後の抵抗。嗚呼、薔薇……その艶めかしいことよ。薔薇は本当に奥が深い。そして奥深くまで入り込むほど、私は恍惚を覚える。
薔薇という名の少女。私は彼女に魅せられてやまないのだった……。