「若きウェルテルの悩み」を読んで愛と死について考察する

LJ 久米夏絵

 

 

「若きウェルテルの悩み」を読み終えた後、私は言い様の無い悲しみを覚えた。それは決して死したウェルテルへの同情ではない。いや私はむしろ、彼に対しては、ある種の憎さまでも覚えた。彼が自分の中にある『愛』に報いようとして行った最後の行為は、はからずも、私の中に息づく『愛』への冒涜に通じるものであったと言ってしまっても良いからである。いや、『愛』についての定義はこの世界に生きているものの数だけ存在しているのであり、ウェルテルの行為を責められる人間などどこにもいないだろう。だがそれでも、私の中の『愛』がそれを決して許すまいと訴えてくるのだ。

『愛』が正しい答えを持たずに存在している理由は、私達は頭や脳でなく、己の魂の部分でそれを感じようとするからである。魂は肉体に宿って心のはたらきをつかさどる、人間を形成する上で最も侵してはならない神聖な場所であり、何人たりとも他人のそれを否定する事は出来ない。だからこそ人間は『愛』についての絶対の真理を得る事もまた不可能なのであり、ウェルテルのように深い葛藤に苛まされる時もあるのであろう。

また魂とは神聖であると共に、切ないほどに脆いものでもある。作中でも「魂の平安ということは貴いもので、それ自体がよろこびだ。ただ、友よ、この宝石がかくも美しく貴くありながら、かくも脆いものであるのをいかにしよう」(若きウェルテルの悩み(岩波文庫)より引用)とウェルテルが嘆いているように、その存在はあまりに儚く、そして弱い。何度も傷つき、もう二度とその痛みに耐え切れぬと嘆きながらも、また同じ痛みに涙する事すらもある。ウェルテルはそれを繰り返して、その弱い魂に数え切れぬほどの傷を負ってしまった。

だが私は、『愛』とはその魂の弱さと嘆きゆえに感じられるものなのではないだろうかと、そう考えている。

作中で、ウェルテルは何度もロッテへの想いに嘆いている。彼女への想いは抱いてはならぬものなのだと嘆き、そして許されなくても触れたい、抱きしめたい、とまた嘆く。ロッテに恋焦がれている時のウェルテルの魂は常に叫びをあげ、心休まり平安である時を知らない。それはウェルテルのロッテと出会う前の魂の平静さと、出会ってしまった後の深い悲しみを知った魂との変化を見ていても、切ないほどに読み取れてしまう。

しかしそれは彼が異常なのではなく、多かれ少なかれ、誰もが一度は経験する魂の嘆きなのだ。あの人と話したい、触れたい、抱きしめたい、唇を交えたい、私だけを見ていてほしい、自分のものにしてしまいたい、と、その想いは人それぞれの違いがあろうとも、同じ感情の元に確実に魂の中に根付いてしまう。そして根付いたその感情を知ると同時に、悲しいかな、人々はその願いは決して叶える事が出来ないのだと慟哭する事も同時に知らなくてはならない。

どんなに渇望しようとも、自分以外の誰かを完全に自分のものにしてしまえる事は、ほとんど不可能と言えるからである。ウェルテルの場合にはアルベルトという存在があったからこそそれが強調されていたが、たとえそうでなくても他人を独占する事は限りなく難しい。それは先ほども述べたように、『魂』を侵す事は誰であっても出来ない事だからだ。仮に相手を殺して、その死骸を常に自分の両腕で抱いていたとしても、その人の魂までは少しも自由に出来ない。相手を独占するという事は、相手の魂を独占する事と同義である。

しかしあえてそれをしたいと願ってしまう事は罪ではなく、むしろ少しもそんな感情を抱いた事は無い、という気持ちなどはいくらでも取替えのきく程度の想いでしかない。いかに魂が弱くとも、その程度の想いでは悲しみに叫ぶ事もあるまい。人は、魂の奥底にまで届くほどに深く深く想っているからこそまた、その魂の慟哭を痛いくらいに覚えるのだ。

では、欲しい物が手に入らぬと嘆く事が『愛』か。いや、そうではない。むしろ逆である。強く想ってしまうために慟哭する魂を慰める事、絶望に近い渇望による痛みに耐え続ける事、それを私は『愛』と呼ぶ。

『愛』とはあくまで相手を思いやる気持ちの上に成り立つものであると考えている私にとって、ただ焦がれる相手が欲しいと嘆き、またそれを相手に強いる事は単なる『欲望』に過ぎないと言わざるを得ない。これには反論もあるかもしれぬが、私は『欲望』とは決して『愛』そのものと同義ではない、と主張したい。どうしても『愛』と呼ばねばならぬのであれば、それは自己愛だ。魂の痛みに耐え切れなくなってしまった自分を、その痛みから救ってやろうとしている行為に他ならない。確かに焦がれるがゆえに欲望は生まれよう、だがその欲望に打ち勝つ事が、すなわち魂の嘆きを耐え続ける事が『愛』だと、私はそう感じられて仕方ないのである。

例を出すとするなら、ウェルテルの「いまや私は全てにうち勝つ。もうあのひとには会わない」という言葉を挙げたい。あれほど強く焦がれていたロッテに、ウェルテルはもう二度と会うまいと誓いを立てるのだ。傍にいたい、抱きしめたい、果てにはアルベルトから奪いたいとさえ願ってしまう自分の『欲望』から彼女を遠ざけるために、ひいては彼女の幸せのために、この世の何よりも愛しいロッテとの決別を選ばざるを得なかった彼に私は感激した。これほどの『愛』が他にあるだろうか、と。

「それもまた、ただ単に傍にいる事による魂の痛みに耐えられなかったゆえの逃げだろう」と、そう主張する人もいるかもしれない。なるほど、それも一理ある。確かに彼にそういう部分が全く無かったと言えば、嘘になろう。だがしかし、それでも彼は、そうする事で彼女の心の平穏を保つ事が出来た。会えない事で更に激しく慟哭する魂を慰めつつも、ロッテの幻影を追いながらも、それでもロッテの幸せを願って離れていった彼の行為をこそ、『愛』と、私はそう呼びたいのである。

けれどウェルテルはその『愛』を、魂に対する慰めを、ついに魂の嘆きの前に屈服させてしまう。

自分の天命尽きるその最後まで痛みに耐え切れなかった、口付けてしまった、死してしまった、その甘い接吻は一瞬にして彼の清らかな『愛』をただの『欲望』へと変えてしまったのだ。「ロッテがウェルテルの死を望んでいただろうか?ウェルテルの死は、本当にロッテのためであったのか?それは、ただ痛みに耐え切れず、また欲望を捨てきれない自分への愛ではなかったのか?」と、私は嘆かずにはいられなかった。先ほど冒涜という言葉を使ったが、いや、正しくは、私はただ悲しいだけであったのかもしれない。『愛』が『欲望』に負けてしまった瞬間を悲しむがゆえに、彼を憎く思ったのかもしれない。

 では『死』とは何か。それを考察する時に、私はまず『死』とは二種類のものがあるという事を先に述べておく。それは肉体的な『死』と魂の『死』の二つで、ここで重要なのは、肉体の死は魂を殺す事を出来ないけれど、魂の死は肉体を殺す事が出来る、という事だ。

 肉体の死は魂を殺す事を出来ないというのは、作中でウェルテルとロッテが互いに死した後の永遠の魂について語り合っている事と近く、先ほど述べた、相手の肉体を殺して自分のものとしても魂までは自分のものにならない、という考えと同じものである。魂とは自分の肉体すらからも束縛されないほど、神聖な場所にあるものだ。そして魂の死が肉体を殺す事が出来るというのは、何らかの事情によって弱い魂がこれ以上無く打ちのめされ、もう希望も全て果ててしまった時に、人はその辛さに耐え切れずに自らの肉体をも殺そうと(自殺しようと)する、という事である。苦悩の果てに自ら命を絶ったウェルテルの死と関連付けて考えるのならば、ここでいう『死』とはただ単に肉体的なものではなく、『魂自身の死』とそう考える事が出来るのではないだろうか。

 ウェルテルがそうであったように、『愛』と『死』は全く関係の無いもののように見えて、『魂』という部分で強く繋がっているのだ。あまりにも傷つきやすすぎる魂は、常に自らを傷つけようとする何かと戦っている。この世にありうる様々な現実に打ちのめされ、また自分の中にある『欲望』との戦いにおいても消耗され、終わりの来ない『愛』のための戦いに絶望し、またその絶望に苛まされなくてはならない。悪循環だ。

 いつかウェルテルのように、天命尽きる前にこの痛みに耐えられなくなる時が来るかもしれない。その時、魂は死ぬ。いや、己自ら魂を殺す。そうでなくては狂ってしまいそうになる魂の慟哭の果てに、『死』はやって来るのである。

 つまり『愛』と関連した『死』とは、『愛』のために戦い続けていた魂が激しい慟哭に耐え切れなくなった時に潰える事、ひいては『愛』のための戦いに負けてしまった魂が、これ以上耐え切れない『欲望』と引き換えにするものである、そう私は考えている。