文学C 夏休み課題レポート

     ゲーテの「若きウェルテルの悩み」(訳者高橋義孝)を読んで、愛と死について考える。

 

                                         w 山北 奈央

 

 このゲーテの「若きウェルテルの悩み」は、課題以前に読んだことのある作品で、私にとっては非常に衝撃を与えた作品のひとつでもあった。

「愛と死」−それは現在、多くのドラマや映画を通しても見ることができるテーマのひとつである。しかしその多くが愛する人が不治の病や不慮の事故にあったり、また社会や制度によって愛する人を失ったり、自分たちの力ではどうしようもない現実の圧力に対して、主人公たちがどのように生きて行くかという話の筋が基本である。生きて行く上で、この点は重要なことではあるが、「若きウェルテルの悩み」では、主人公ウェルテルが、愛するロッテに対しての「愛」を確立させ、不変的なものにしたのは、「自殺」によってなのだから、全く逆の発想なのだ。果たしてこれはどういう意味を持っているのだろうか。

一般的には自殺は自らの命を絶つということから、負のイメージがまとわりつく。それは命というものを粗末にするということや、残された者の気持ちのためであろう。そしてそれは作品の中でも、ウェルテルとロッテの婚約者であるアルベルトの会話(議論)の中で垣間見ることができる。

アルベルトは、自殺は愚かなことであり、人間の弱さであると説く。そしてそれは決して許される行為ではない。一方ウェルテルは、そのような行為に陥ったいきさつや原因に眼を向け、簡単に善か悪かと割り切ることはできない。どんなものにも若干の例外があり、自殺の場合もそれに当てはまるのではないかと説く。

確かに自殺は自分の未来を自らの手で閉ざしてしまうものであり、たとえそこで失敗や過ちを起こしても、生きていればやり直すこともできる。そしてアルベルトもそのような意味で、自殺を失敗や過ちという現実から逃げることとして非難している。だがそれは結果としての自殺であり、ここで私が焦点に置きたいのは、ウェルテル自身の死でもある「過程としての自殺」である。 

私は自殺を肯定するわけでなければ、弁護するわけでもないが、人が自殺という死の選択を選んだことに、全く意味を持っていないとは考えない。やや乱暴な言い方だが、「貴方は自らの命を自ら捨てました。それはいけないことだから駄目です。」−などと、単純に切り捨てることは決してできないと考える。これは自殺に限らず、あらゆ物事に対して言えることであるが、結果だけ見ても、「なぜそのようになったのか」という要因や過程を理解しなければ、物事の本当の意味を理解できないと思う。 

私は初めて「若きウェルテルの悩み」を読んだ時に、萩尾望都さんの有名な作品である「トーマの心臓」に近いものを感じた。この作品では、トーマという一人の少年の死(自殺)をきっかけに、ユーリという主人公?が、人を愛してはいけない、また愛されてはいけないという呪縛から解き放たれていく。トーマの死は、ユーリに対しての無償の愛の形の表れであった。

ウェルテルもトーマも、若さゆえの誤りと言ってしまえばそれまでだが、問題は、誰かを愛することが死という形を取って関わってくる、その意味である。

死というものは、現実の世界に生きている人間との永遠の別れである。そして死んだ人間は二度と生き返ることはなく、会うことも、触れることも、言葉を交わすことも二度と叶わない。それゆえ、死に対して人々は大きな隔たりを感じる。そしてその隔たりに直面したとき(友人の死や親族の死)、その人物の存在の大きさに改めて気づかされる。ウェルテルやトーマは、死という形を持って、現実の世界での自分の愛情や価値観などを不変的なものとし、残された者(愛する人)の中に自分の存在を刻み込ませた。そこには言葉でもなく、物でもなく、ただ純粋に自分が愛する人への愛情が、死という結末に結びついたという「事実」のみが存在したということになる。

世の中には、様々な決まりごとがある。法律や学校や企業などの規則、目には見えない常識やモラル−それらによって、ある程度のものは善悪で判断される。だが、それだけでは割り切れないものも沢山存在する。私は先ほども述べたが、自殺を肯定するわけではない。これらの作品を通して言いたいのは、ただひたすら純粋に誰かのことを愛せるか、想えるかということである。

以前某雑誌で、自殺行為(自傷行為)に走る若者の話が載っていた。彼ら彼女らは、自らの体を傷つける(リストカットなど)ことによって、心の傷を紛らわすという。またリストカットを行なう意味として、傷口から流れる血が生きている実感を持たせ、また徐々に傷口が治る過程と共に自分の心の傷も癒されていくといったことが挙げられる。しかし実際の彼らは、実にあっけらかんとして自分の自傷行為や大量の薬の摂取などを話していた。そこにはむしろ死への願望ではなく、自分はここまで苦しんでいて、ここまでやっているという、一種の自虐的な行為によって自らの存在を確立しようとしているものであった。こういった傾向を「ネオマゾヒズム」と呼ぶらしいが、彼らが自傷行為に走るいきさつを見ると、親に自分の存在を否定された時や、友人に傷つけられたりした時だという。確かに誰だって傷つけられたり、否定されたりすることは嫌である。だが彼らがそのような行為に走るのは、誰かに愛されることによって自分の存在を確認したいという欲求の表れのように思える。

私は自分が愛して欲しかったら、まずは自分から愛さなくては、優しくして欲しかったら、まずは自分から優しくしなくては、と考える。自傷行為に走る彼らがどれだけ苦しんでいるのかどうかを、文字を通してしか見ていないので、ここではっきりと断言するのはいささか躊躇するが、自傷行為に走るよりも、誰かをまず愛することへと、気持ちのベクトルを切り替えることが大事のように思える。

ウェルテルやトーマは、死によって自らの存在を愛する者の中に刻みつけた。だが現代では、死を予感させる行為することによって、自らではなく誰かに愛されたいと、自分の存在を他者に認めてもらいたいというものであり、非常に自己愛への思いが強いように感じる。

昔、特攻隊の人が最後に家族の人に宛てた手紙を読んだことあるのだが、そこには国や政府のためというだけではなく、純粋に愛する家族のために、彼らは死へと向かっていった。

「愛と死」−誰かを愛する、また誰かに愛されることは、「死」という現実の世界での一種の大きな隔たりに近づくことによって、より明確に示すことができる。「死」はある種の「愛」を知るための、知らせるための方法のようにみえる。だが現代では、自分への愛情ばかりが肥大化しているようにも感じられる。「愛すること」の意味は、自分への愛情だけではない。他者を愛することが自分を愛することにも通じるのである。現代には、そこを改めて振り返り、考える必要こそがあると感じる。