2008年11月10日 寺尾教養ゼミ発表 M3三浦慎太朗:モンタージュについて

 

          小堺:昨日の発表を聞いて、映画の歴史について深く知ることができました。モンタージュという技法は奥が深く観る人によって解釈が異なるというのも興味深かったです。そして、映画はその当時からプロパガンダされていたことも興味深かったです。今でもハリウッドのアクション映画では悪役=国家の敵の傾向が多いように思えます。また、あまり白黒映画やサイレント映画は見てこなかったので、この機会に少し勉強してみようかなと思いました。(寺尾:映像テクニックは細かく調べるとおもしろそうです。映像を意識するシナリオというのも、どう違うんでしょうね。)

 

          西里:今までも映像の繋ぎ方を意識して見ることはありましたが、今回の発表を聞いて、より深く見れるようになりそうです。また、モンタージュの発明もすごいが、モンタージュ至上主義への批判から生まれた映像もまたいい場面を生み出したことから、対立によって良いものが生み出されていく過程を見ているように感じました。ただ、そういった意味でもモンタージュの始まり以前の作品との比較でモンタージュ効果の良さを際立たせて見てみるのも面白かったかも知れない、とも思いました。(寺尾:対立によって云々・・・というのは、ドラマ構造の基本です。)

 

          黒岩:映画については、実は演劇よりも思い入れがあるのでいろいろ言いたいことがある。エイゼンシュタインのモンタージュには、全く違う二つのものをぶつけて新しい意味を生み出すという発明がある。戦艦ポチョムキンはその意味では一応繋がりがあるような気もする。
 手押し車の赤ん坊が落ちてしまった後に出る、メガネのおばあさんのアップも確かに悲劇を表す繋ぎではあるのだが、その場の民衆のようでもあるので全く違うシーンをくっつけた感じはあまりしない。やはりエイゼンシュタインのモンタージュと言えば、私は『ストライキ』の牛の屠殺のシーンを思い出す。ストライキをする民衆のシーンに全く関係のない牛を殺しているカットをぶつける。そこには残酷さや暴力と言った新しい意味が生まれている。
 エイゼンシュタインは日本語に一時期、凝るらしい。それは漢字のもつ全く別の意味を二つぶつけて新しい意味を作るという行為に影響を受けたからだと言われる。例えば、人と木が合わさって休とか。 エイゼンシュタインのモンタージュが非難され、継起的なモンタージュが採用されていくという歴史があるが、そして今日多くの映画に見られるのは継起的なモンタージュばかりだが、エイゼンシュタインのような爆弾的なカットを持つ映画も面白いんじゃないかと思う。
 『第三の男』のような長回し、おそらく日本では小津以上に長回しにこだわった監督はいないのではないかと思うが『東京物語』に見られる退屈なほどの(!)長回しも、『ションベンライダー』の冒頭の嫌気がするほど(!)の長回しも、実際にあったことをありのまま撮るということで独特の哀愁を漂わせている気がする。そんな静かな映画も好きだけれど、爆弾なモンタージュを好む前衛的な映画もやっぱり面白いと思うのでした。現代の作家だとジャジャンクーあたりがやってくれているのではないかと!(寺尾:前に同じく「対立」という仕掛けの生産性です。古くは「弁証法」とも言いましたが、最近では「新しい意味の創造」という方向での見直しが進んでいます。)

 

          佐藤:『戦艦ポチョムキン』の『オデッサの階段』のシーンの手法が印象に残った。「母と子」を主軸として、兵士の発砲と逃げ惑う民衆とが螺旋状に絡まっているのが、点滅して映し出される。幾つもの空間と時間が絡み合う。前後の時間が、空間が、入れ替わっていても、あの映画ならバレないのではないだろうか。一体誰が、あの映像の細部までをも思い出せるであろうか。人々が記憶するのは、あの映像自体ではなく、あの映像の齎す感情ではないだろうか。嵐の夜の荒波のような映像は、見る人間の頭に抽象的だが強い悲劇の印象を刻み付ける。
 しかし、「母と子」の場面(母の顔面アップや、乳母車の転がっていくシーン)は、印象に残る。それは兵の発砲や民衆の逃走という悲劇の下敷きがある故であり、として映し出されているからではないだろうか。個は全体の中に在り、また無数の個が全体を作り上げている。
 『戦艦ポチョムキン』はエイゼンシュタインの「衝突」の概念が適応された作品であるが、「衝突」はまた「連結」でもあるのだと、私は思う。上手く言えないが、映像同士が衝突し合うからこそ、繋がるのではないだろうか。硬い石同士がぶつかり合って散らした火花の、火花が大切なような……
 映像の作り手は、細かい部分にもぬかりなく作る。だが、(専門家でもない限り)観客は、細かい部分などは見ていないだろう。何故なら作り手は、何物も突出させないため、細かい部分を作るのだから。彼の拘りは、一層「自然な物」となって、映像に溶け込む。映画の世界で細かい部分を作るのが上手い人とは、通常ならば違和感を持つ物をも「自然」にしてしまう、擬似的リアリティを作る人とも言えるかもしれない。我々は『オデッサの階段』のようなシーンを体感したことがなくても、体感したかのように感情を引き出されてしまうのである。
 『第三の男』は白黒ならではの味があった。主人公の男が洞窟(寺尾:地下下水道です。今回は力作の感想なので、余計なコメントはなし。)の奥から出てくるシーンなどは、影の色の濃淡を上手く使った映画だったのではないだろうか。『戦艦ポチョムキン』とは異なって、なんとなく『ワンシーン重視』だったような印象を覚えた。如何にハードボイルドを発揮するか、を追及したような。きっとラストシーンだったからだろうが。『戦艦ポチョムキン』が騒々しくて目まぐるしかったのに対して、『第三の男』は静かな緊張感があった。映される主観者(主人公や、逃亡する親友)たちの息遣いや心臓の音まで聞こえそうなふうであった。

 

          三浦:発表のためにポチョムキンを二度見たんですが、一度目に見た時はどこが画期的だったのか全くわかりませんでした。二度目に見た時には少し調べていたので、当時の人々の感覚を少し想像することができたように思います。いままでは映画やテレビを見るときにショットの繋りや長さを意識して見ることはなかったのですが、これからはそういった部分にも注目しようと思いました。

 

          高木:モンタージュという技法名は知りませんでした。けどモンタージュは複数のカットを組み合わせることで、それがテレビ番組やドラマ、映画等さまざまなものに使われることが今では当たり前過ぎて意識していませんでした。そして先生が最近のお笑い番組とかはコロコロ変わって良くないと言っていたので思い出したのが、映画で主人公の思い出がフラッシュバック?するシーンです。ここで今までのシーンが急速に切り替わるのが効果的で自分が主人公になって思い出した気がして泣きました。やっぱり使いどころを考えるのが大事なんだなと思いました。

 

          大出:「戦艦ポチョムキン」におけるモンタージュの技法で民衆が軍隊に虐殺され、階段から転がり落ちるシーンではさまざまな方向からのカットがあり、それを繰り返し見せることで迫力をだしていた。この技法は現代の映画やテレビなどの基礎になっていると思いました。当時の映画は音が無かったので、この技法が与える衝撃はものすごいものがあったとおもいました。

 

          宇和島:2001年宇宙の旅の猿がとてもリアルで驚きました。猿の惑星の猿は間が抜けて見えましたが、こちらの猿はとてもリアルでした。もちろん、猿の惑星の猿は高度な知識を持っているので、猿そのままというのも違和感がありますが

 

          鈴木:無声映画というものをはじめて見ました。無声映画は音声がないけど、映像だけなので市民が何を言っているのだろうかとか想像すると楽しい。ワンシーンワンシーンがすべて印象的な作品でした。あと「宇宙のたび」では猿がリアルでした