寺尾教養ゼミ 2008年 6月30日 寺崎正志発表:「電子音楽」

 

E18 鈴木達也

音楽というものの概念がだいぶ変わりました。
こういう感じの音楽もあっても良いのかなと思いました。
音楽の未来を深く考えてしまった。ただ、これから調、メロディーなどが破壊されてどんどん異質なものが出てくるか、それとも単純に聞いて心地よく美しい音楽になってくるかどちらにしても興味深いものだなぁと思います。

 

LH17 黒岩摩理

現代音楽の重要な要素であるノイズのことを考えた。なぜならノイズという概念は雑音という意味を超えて演劇、コンテンポラリーダンスの中に用いられているからである。私の注目する劇団チェルフィッチュはまさに日常の身振りや会話に現れるノイズを反復、強調するといった手法をとる。

ジョン・ケージは『4分33秒』、『0分00秒』ですべての音が音楽であると示した。これは原理上、無敵でありこの断言を生かすなら「ノイズ」は滅亡することになる。とにかくなんでも音楽になるのだから。

 これは音楽にかぎったことではなく、現代美術や現代演劇にも共通することである。永遠に続くドットの絵画(草間弥生)やニューペインティング、劇場を飛び出して裸になったり、人の家を訪ねたりというハプニングは「これが芸術なんだ」といわれれば便器もアートになる。

 しかしシュトックハウゼンやケージの音楽をipodに入れて通勤通学中に聞く人はいるだろうか。私は思い出したときにおそるおそるケージのCDをプレイヤーにかけ5分で憂鬱になる。確かにこれは芸術なのかもしれない、しかしそこには解釈や意味が抜け落ちている気がする。そしてそれは私たちに委ねられている気もする。

私はかつてシュトックハウゼンのエチュードを聴いて抜け落ちていく感覚になったことがある。印象的な音は確かにあるのだがそれはすでに聞いたことのある雑音であり、気付けば3分前の音を忘れている。つまりシュトックハウゼンでも、他の誰でも作品自体に個性と言うか差異を見つけにくい。作者性や演奏の巧さなどの問題を持ち合わせてはいないのだ。そして、曲を聴き終えて思い出せるのは印象とかイメージといった意味のようなものである。それは言語化され、いつのまにか作品の評価になってしまう。作品自体の内容を思い出せずに意味のようなものだけ私に残ってしまっていた。

 それは岡田利規が語っていた生起性へのリテラシーという問題と同じであるように思う。<本番中に舞台を見ずにメモを熱心に書き付けていた人たち>がチェルフィッチュの舞台をいいとか悪いとか判断し、意味を付加するという彼らの態度はケージらの作品をあまり聴かずに意味を考えてそれを評価にしているのと同じような気がしてならない。

 

LH19 佐藤麻衣子

今回の寺崎先輩の発表を聞いて、何を以って『作品(演奏)』とすればいいのか、私にはさっぱりわからなかった。あれらはもはや『音楽』ではなく、パフォーマンス論だと思う(ってこれは寺尾先生のお言葉ですねすみません)。話はずれるかもしれないけれど、そこにいるだけで誰もを惹き付けてしまうようなカリスマを持っている人が、舞台上で日常を過ごしてみせるなんてパフォーマンスなんか面白いかもしれない。いや、ありそうな気がする。しかしそういうパフォーマンスというのは、マニアとかファン向きのパフォーマンスになりそうな気がする。無名の人間の生活を見せても面白くない、その人だからこそいい。最近の現代は『キャラクター性』がウリになっている気がする。初音ミクも、ただの「音声再生機能ソフト」
として売りに出したら、注目はされても、もっと違った形になっていたかもしれない。なんとかさんの三分何十秒も、なんとかさんだからこそ、作り出せた作品といえばいいか。無名の人間がやったら、皆即座に帰るだろう。なんとかさんだからこそ『作品』を公言できたのではないだろうか。
19
世紀に生きた音楽家たちは「バッハやベートーヴェンの横に並べても恥ずかしくない『不滅の名作』を書かねば」と焦燥に駆られ、「どうしてかつてはロマンチックで美しい調性音楽を書いていたのに、なぜ不協和音だらけの曲しか書かなくなったのか?」と尋ねられたシェーンベルクは「自分だってできるなら調性で音楽が書きたい。しかし三和音を書くことを、歴史が私に禁じているのだ」と答えたという。
人間は何かを創るときに、「お約束」と言われることを嫌う。「ありふれた展開」「ああ、あれに似ている」――これらの言葉は、独創性というものを否定する言葉である。それを越えるために、昔から芸術家たち(文学者であれ、脚本家であれ、勿論音楽家であれ)は迷走してきた。自分の好きな作家を研究したり真似たりして個性を生み出した者や、ジャンルの枠組みを飛び越えて新たなジャンルを作り出した者、使われていなかった方法を見つけた者。これらには共通点がある。大抵は元ネタ・切っ掛けがあるのである。
今日、『個性』『独創性』というものが声高く叫ばれる世だが、時折『個性』をはき違えているのではないかと思うことがある。全く新しいものを生み出さなければならない、他人とは何か違う『特徴』を自身が持たなければならない――そんな焦燥が見える(と思う)。そんな社会の様相が、音楽等の芸術活動にも反映されているのではないか。新しい物への欲求と典型への否定的感情のあまり、制約を越えるのではなく、制約を『破壊』することを考えたのではないだろうか。
『自由』は『制限』を無くす。『自由』を得るということは、大抵が『旧きを否定する』ことだと思う(制限がないなら、最初から自由だ)。作品というのは、ときには葛藤の中から生まれるという。個を抑え付けようとするものが(少)ない現代は、作品を生み出しにくい環境なのかもしれない。悲しいことだとは思うが。
――
と長く書きましたが、長いよと思ったら適当にはしょっちゃってください。
P.S.
(?)
 新国立劇場で『バレエ・白鳥の湖』を見に行ってきました。チャイコフスキー眠くなるだけじゃんとか思ってたけど、終了時間までちゃんとおきてました……!四階の最前列端から2番目なのにオペラグラス借りるの忘れて、バレエは見られませんでしたが!音楽はとてもよかったです。

 

M17 永井秀幸

「良い音楽は過去の偉人が創り尽くしてしまった。」

という言葉を誰かが言っていたのを思い出しました。

これはROCKの例ですが、誰もが知っているような過去の名曲も、

簡単なコード進行で構成されていることが多々あり、

たとえばDeep PurpleのSmoke On The Waterも

その一つに数えることができると思います。

今日までに、無数の音楽が世に発表され続けています。

そのほとんどがオリジナリティを求め、また求められるため、飽和状態のような事態に陥ってしまっていると感じる音楽家はそう少なくないと思います。

その象徴が今回の破壊的な音楽なのだろうと思いました。

現在、差別化のため複雑に作らざるを得ないメジャーな音楽は、そういった意味で行き詰っているのかもしれませんが、しかし芸術の持つその性格から、決して斜陽産業的になる必要は無いと思います。

個人的には、今回の現代音楽は幅を広げるための参考程度にとどめ、これからも現在のメジャーなスタイルの中で、もがき苦しんで欲しいと思いました。

 

E17 高木理加

寺崎君の発表の西洋音楽史で流れがわかったのが良かったです。
プリントの最後に音楽とはなにか?とかあったので自分の考えを聞きたかったです

 

◎M18三浦慎太朗です。
西洋音楽史の大まかな流れを掴むことができてこのようなことについて何も知らなかった私にはとても勉強になりました。特に調というものについての歴史的な認識の変遷は興味深く、面白かったです。
現代音楽というものが楽器を弾かなかったり燃やしたりということであるということを知って「音楽とはなにか」という疑問を持ち、現代美術もその背景を知らないとよくわからないものが多いことを思い、芸術を感じるためには事前の知識が要求されていることを知り、無学無教養な私は悲しくなりました。
極論ですが「何も知識の無くとも楽しめる音楽」と「事前に知識を知らないと分からない音楽」の2つしかないとしたらどちらの音楽が優れているのかという疑問も持ちました。
それでも現代音楽を奏でているヒト達が持つ「怒り」にも近い感情を頭で少し理解し感じることができた気がしました。
その後の授業では身体の話から少しマトリックスが話にでていたので、マトリックスに影響を与えた「攻殻機動隊」という日本のアニメを思い出しました。(そのアニメは近未来が舞台で、その世界では人間の身体はほとんどが機械化され、脳も一部以外は機械化されていて、ヒトはパソコンなどを介さずインターネットに直接アクセスできるなったという環境のもとで様々な犯罪が起り、それに立ち向かう警察が主人公のSFアニメです。)このアニメの監督押井守とジブリの鈴木敏夫とが対談していたときに「いまの時代、体は無いも同然で携帯やインターネットで感覚は膨大に広がったけど、体という感覚がない」「でも体を失った人間は失ったなりの人間性の獲得があるんじゃないか」というようなことを言っていたのを思い出しました。