インターネットに思う
 世の中には「Eメール」とやらがあるそうで・・・などと、三年前までは世捨て人を気取っていた。今でも「ケータイ」とか「愛?モード」などには、似たような対応をしているものの、研究会やシンポジウムの打ち合わせに使われるEメールの速さと便利さに、ほとほと感心している。ドイツとのやりとりなど、以前ならば、航空便でも往復二週間は必要だったし、あるいは8時間もの時差と高い料金を気にしながらの電話しかなかったのだから、隔世の感がある。ドイツで出版される新作の小説を読む研究会では、若い院生あたりが、聞いたこともない新人作家の詳細な情報を披露してくれる。これも数年前までは、出版社に手紙を出して資料請求をしたのだが、今ではインターネットでホイホイと調べることが出来る。
 秋の独文学会でも「メディア論」なるシンポジウムが設定されていた。野次馬気分で覗いてみると、各パネラーのいずれもが、二言目には「グーテンベルク以来」と繰り返していた。もちろん1445年頃のグーテンベルクによる活版印刷術のことで、中世的な口承文芸や写本文字から、大量の印刷文字情報への転換は、単なる媒体の変化のみならず、我々の知の有り様に大きな変化を呼び起こし、それが近代という大きな時代変化への先取りにもなっていたわけである。
そうなると現在、20世紀末のコンピューター画面上に現れる電子情報の出現は、500年も続いた、紙に印刷された文字を有り難がっていた時代を急速に終わらせているというわけである。もっとも、活版印刷の普及にも関わらず、書き文字が完全には無くならなかったのと同様、紙印刷文字が完全に無
くなるとは思えないが、「情報革命」という呼称は、それにふさわしい対応を我々に迫っていることは確かだろう。 
 外国語教育においても、紙文字からの離脱は明瞭である。最近発行される教科書の多くは、明らかに「話し言葉」へと重心を移動させている。遠く離れた相手の顔を見ながらの電子会議も、すでに実用レベルにあるのだから、「読む」ことを中心とした従来の外国語教育は、大きく様変わりせざるをえない。
 ところで「話す」とは、知識だけの問題ではない。第一に「発声」とは全身的な行為であるし、第二に具体的な相手を前にした「対話」行為は、その場の状況と自他の関係性の全面的な再構築の普段の繰り返しである。そこでは、語られる一語一語が、全体の文脈の中で常に新たに再構築され続ける。そこで必要なのは、常に自らの姿勢を再編成させ続ける柔軟な構えである。相手との差違を測り、その差違を差違として受け入れること、それこそが知的な態度と言うものではないだろうか。
 重要なのは、差違を産み出すベースとしての共通性が、言語を支える個人の特性を逆説的に浮きだたせるということだ。そこを取り違えると、個人を暴力的に統合する制度を特定の方向に固定化する結果に陥ってしまう。固定化された制度意識をイデオロギーと呼ぶ。つまり「虚偽意識」である。我々の文化も社会も、それらを実質的に支える個人の自由な発想を抑圧する方向に進むのが、「虚偽」の「虚偽」たる所以で、「歴史」とか「道徳」とかが、「国民」なる意識の下で語られる場合、そのあたりが、かなり明瞭ではないだろうか。外国語を学ぶとは、より開かれた文化・社会への態度を醸成することにあるのだから。
   経済学部 寺尾 格(ドイツ語)
専修大学LLだより 第10号 2000年
 
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