演劇する都市ウィーンあるいはブルク劇場 夏の巻1)
ーー イプセン『人形の家』・チェーホフ『結婚申し込み&熊』・野外ステージ ーー                                   寺尾 格
 傘無しの水無月の段
 六月は梅雨の季節である。連日の雨にウンザリした目にも、時折現れる晴れ間の陽光と、そこにくっきりと浮かび上がる緑には、息をのむほどに生気に満ちた美しさがある。ところがウィーンでは雨が少ない。もちろん砂漠のような少なさではないのだが、年間平均降水量が700ミリを下回る程度であり、東京に比べれば半分以下の雨しか降らない。夏は亜熱帯となる日本に住み慣れた者からすると、ウィーンの雨は、まことに頼りない限りで、ちょっとポツポツ降ってはすぐに止んでしまう。もちろん激しい雨に小走りになることも希に無いではないのだが、しばらく待てば、どうせまた、すぐに小降りになるにきまっている。交通機関が網の目のように発達していることもあって、傘を持ち歩く習慣は、一年の間にすっかりどこかに忘れてしまった。
 少ない雨のおかげで、夏のウィーンの戸外のさわやかさがあり、自ずと戸外ステージの機会も増える。ただし屋外での音楽会やオペラが本格化するのは七月と八月で、それというのも、この時期、常設の劇場は殆ど全てが夏休みに入るからである。したがって夏休み直前の六月は、各劇場ともシーズン最後の締めくくりとなるので、心なしかラインナップにも気合いが入っているように思える。
 もっとも私の六月の観劇は、日本からのお客さんもあり、トータルでは15本、おおむね二日に一本のペースとなった。そのうち4本がブルク劇場、7本がアカデミー劇場で、都合11本がブルク劇場アンサンブルであった。2)
 ブルク劇場の正面中央部は半円形で、その横に側廊が左右対称に広がっている。正面からのブルク劇場のシルエットは、ハプスブルク家の紋章である鷲が翼を広げているということらしいが、鷲のイメージがすみやかに出てくるかどうかは、少々疑問ではあるだろう。見上げると、屋根の上、中央にアポロンがいる。アポロンはもちろん文明と知性のギリシア神で、高く掲げた右手は、聖地パルナッソス山を指し示している。その左右に立っているのは、詩や芸術の女神ムーサ九人のうちの二人で、右が喜劇の女神タレイア、左が悲劇の女神メルポメネである。3)リング通りの向かい側、市庁舎広場から見ると、ブルク劇場の正面がよく見える。広場の奥から近づくと、圧倒するようなブルク劇場の建物のボリューム感を味わうことができる。
 正面の半円形は九つの多角形で、九つそれぞれの面に大きな木製の外扉がある。開けると、中にもうひとつ、ガラスの内扉がある。正面ホールの内部は、すでに大勢の人でにぎわって、さんざめく人だかりの中をゆっくりと進む。ところで、扉を開ける際に、後ろにも人がいる場合は、その扉を次の人のために支えて待ってあげるのが礼儀である。すると必ず「ダンケ(ありがとう)」と言われるので、「ビッテ(どういたしまして)」と返しながら、お互いにニコッと笑みを交わし合う。
 ホールの内部は、大理石の高い天井と太い柱が豪華で、柱には花綱レリーフが浮き出し、正面階段には赤いビロードの絨毯が敷き詰められている。登り口には黒い制服と蝶ネクタイの切符切りが立ち、チケットを切りながら「ダンケ」と丁重に客をあしらう。客の方でも、ニコッと挨拶を交わす。
 正面階段は左右に分かれ、それぞれ登り切った正面にクロークがある。コートを預けて、番号の紙をもらう。クローク代は7シリングなのだが、ほとんどの人はおつりを受け取らないで、10シリング硬貨を出す。ちょうど細かいのがないときには、大きい札を渡しながら、一言口にすればよい。「ツェーン、ビッテ(10で良いよ)。」すると必ず「ダンケ(ありがとう)」と言われるので、こちらも軽くニコッと返す。
 廊下から客席への入り口扉付近にも、やはり制服の案内係が立っている。チケットを見せて、席に案内してもらうのだが、その折りに、案内係が脇に抱えているプログラムを購入する。プログラムは37シリングなので、これも当然「40ね。」と言うと、もちろん「ダンケ」と返ってくる。またニコッとして、おもむろに席に向かう。
 自分の席は幾つか向こうにあるので、すでに座っている先客に立ってもらわなければ通れない。そこで、相手の目を見て「ビッテ」と「ダンケ」を連発しながら、ニコッ、ニコッとやりながら通る。時折仏頂面の人もいるが、そういう人はおそらく山出しの田舎者に違いなく、自分がブルク劇場に座っていると思うだけでも緊張しまくっているのである。他の人を通すために立ち上がると、やはり「ダンケ」と言われるから、「ビッテ」と答えながら、またニコッ、ニコッとやり合う。
 この「ダンケ」と「ビッテ」を絡ませながら、ニコッとやり合うのは、日常生活の必修基礎科目であって、特に劇場だけに限っているわけではない。しかし劇場においては、この種の言葉の掛け合いが、観劇経験を共にする者同士独特の親密な一体感(ゲミュートリッヒカイトと言う。)を醸し出すのに、大きな役割を演じている。かくして客席の雰囲気が高まって行くからである。(この種の教養市民層の上品な嫌みったらしさについては、また別の面からの議論が必要であろう。)
 ところで正面階段から入るのは平土間席の場合で、天井桟敷の際には左右脇の狭い階段を登る。ちょっと心配になるほど、どこまでも登ると、やっとクロークのある最上階に到着する。平土間の高い席の客と、安い天井桟敷の客とを分離する構造は、17世紀以来の「宮廷劇場」を基礎とする歴史に由来する。国立オペラ座も同じである。
 ウィーン旧市街をめぐる環状道路、通称リングの一等地に位置する現在のブルク劇場は、リング建設後の1888年に建てられた「新しい」建物であって、ミヒャエル広場にあったかつての「古い」ブルク劇場とはかなり趣が違っていたらしい。
 ブルク劇場はヨーゼフ2世によって、「国民劇場」としての位置づけが為されていたのであるけれども、4)もともとはマリア・テレジア女帝の命による宮廷舞台が前身であった。ブルク劇場の「ブルク」とは「城」の意味であり、本来はハプスブルクの「ブルク」でもある。貴族同士の社交の場であって、ドイツ語で「インティーム intim」と言うような、貴族同士の内輪な「親しさ」の雰囲気が全体に満ちていた空間である。イメージとしては、現在のシェーンブルン宮殿に付属するシュロス・テアターの、かわいらしい宮廷劇場の華麗さを思い描けば良いであろう。
 1888年の「新しい」ブルク劇場の建設に当たっては、もともとの宮廷劇場の雰囲気を越えて、ドイツ統一を意図した「国民劇場」への転換を、より強固に進めようとの意図があった。皇帝ヨーゼフ二世の意志である。しかし今までの「古い」ブルク劇場のイメージの故に、「新しい」ブルク劇場は、建設当初より、強い非難と批判の渦にさらされることとなった。5)「新しい」ものはとりあえず拒否するという態度は、現在のウィーンでも基本的には変わっていない。ただ、単なる懐古趣味による悪口もあったのであろうが、劇場としては「大きすぎる」という意見は、それなりに根拠のある批判であった。
 演劇専門の劇場としては、現在の目から見ても、座席数1317のブルク劇場は大きすぎる。演劇のためには、おおむね700席から800席が限度であり、1000席を越えると、これはオペラ劇場の大きさとなる。6)「古い」ブルク劇場の席数は、座席が770席で、立ち見が150席だったとのことであるから、7)「新しい」ブルク劇場は、ほぼ倍近くに広がったわけである。
 ただしイタリア式のバロック劇場に準じた馬蹄形の観客席は、縦に積み上げる桟敷の効果によって、舞台と観客席との距離は、座席数だけから考えるほどには離れていないのだが、しかし最上階の天井桟敷から見下ろす舞台は、やはり遠すぎると言わざるをえない。俳優の表情も、舞台背景もほとんど見えない。特に演劇における台詞は、オペラのアリアのような響きとは異なり、声をただ大きく響かせればよいというものではない。天井桟敷で耳に入る台詞は、たとえよく訓練された声であっても、時に理解しづらくなることがある。まして外国人である私のような者にとっては、ヒアリングの困難が倍加するのは言うまでもなく、涙をのんで、毎回、平戸間の高い席のチケットを買わざるをえなかったのである。
 私の懐具合はともかくとしても、ブルク劇場の大きさは、「インティーム」な室内対話などには明らかに不向きな広さであり、むしろ古典的な朗唱を響かせるか、あるいはシェイクスピアのように、大勢の役者がはでに動き回るアンサンブルで「見せる」か、いずれかのような場合に舞台効果が上がることとなる。必然的に19世紀の自然主義以来の少人数リアリズム心理劇にはあまり適してはいない。
 しかし演出なり舞台美術というのは、マイナスをプラスに転化させるべく、様々に工夫を凝らす。それが、ブルク劇場の『人形の家』の舞台であった。
 
1997年6月16日
 イプセン 『ノラあるいは人形の家』 ブルク劇場 演出:カリン・ヘンケル
 初演:1997年4月30日 
 
 『人形の家』は、日本でも松井須磨子のノラが有名な、イプセンの代表作である。女性解放の視点、小市民的モラルの虚偽、司法批判といった内容面での問題と、すでに起こった過去の出来事が偶然と重なり合って暴露へと進む隙のない展開方法、ノラの心理変化、特に人形のような「かわいいノラ」から最後の「自立を宣言するノラ」への変身ぶりという表現面での問題とが、単なる近代心理劇の典型作品であるにとどまらず、十分に現代的テーマとも重なる作品である。例えば1981年のブルク劇場では、アドルフ・ドレーゼンが「仕事か、それとも家庭か」という現代的な対立に「翻訳」した演出を行っている。8) 
 ただ、ここで『人形の家』に言及する理由は、必ずしもとりたてて斬新な実験的な舞台であったためではない。むしろ演出は非常にオーソドックスにも見えた。しかし奇をてらった解釈に走らず、むしろオーソドックスに見えるが故に、狭い空間向けの凝縮した会話劇を、本来ならば不適当であるはずの広い舞台で「見せる」見せ方が、つまりはブルク劇場のアンサンブルの工夫と底力とが、かえって明瞭に理解できるのである。
 ヨーロッパの舞台を見ていて強く感じるのは、やはりリアリズム表現の歴史の厚みのようなものである。市民劇として展開してきた近代ヨーロッパのリアリズム劇は、それを支えている市民の日常生活との連続の上に舞台世界が築かれている。従って演劇の内容のみならず、身体演技や発声の方法においても、より自然な方向へと常にバイアスがかかっている。これは逆に見れば、カフェなどでの日常の会話や動作そのものが、意識せずして既に「演技」へのベクトルを示していることにもなる。
 もちろんこのような事情は別にヨーロッパに限ったことではないのだが、しかしヨーロッパを母胎に発展した近代リアリズム劇においては、日常と舞台との距離の近さには格別なものがある。例えば身体動作の日常的な気取り、あるいは上半身をフルに使った声の響かせ方、9)そのような日常のあり方は、より洗練された形で舞台上に現れる。いわば現実と連続的に舞台世界が構築されているのである。たとえ舞台世界が非日常的な、異常な、グロテスクな場面であってさえ、演技という意識的・美的な洗礼を受けているが故に、目線の動かし方や言い回し、動作のひとつひとつが、単なる「現実の模倣」にとどまらず、逆に「現実が模倣」するモデルを、舞台が日常に提供しうるのである。ここに、「現代」演劇から批判され続けながらも強固に生き残る「近代」リアリズム演劇の興隆と、それを支える観客の共感の源泉を見なければならないと思われる。
 従って、そのような日常をベースとしたリアリズムに本領を発揮するブルク劇場の魅力と実力は、ウィーンという都市空間の雰囲気と絡み合っていて、お互いを切り離すことのできない深い関係がある。また、一見すると当たり前の演出にしか見えないオーソドックスな舞台の魅力は、演出の明確な斬新さのみを求めるドイツの職業批評家の理解では、必ずしも充分に捉えきることの出来ない質のものであるかもしれない。むしろただ「楽しむ」だけの一般の観客や、あるいは東洋の島国から来た異質な眼の方が、かえってブルク劇場の本質を、より正しく把握できるかもしれないのである。つまり頭でっかちの性急な主張と解釈を生にぶつけるのではなく、「楽しみ」のための工夫という媒介を通して、結果として深いところでの「読み」に通底すること、それが、ブルク劇場に特有の「しぶい」演出なのである。
 さて、イプセンの細かいト書きは、左右と奥との三つの壁を前提としている。観客席の側がいわゆる「第四の壁」で、観客は見えない「壁」を通して、舞台世界をのぞき見ることとなる。ところがヘンケル演出における舞台は、狭い室内ではなく、広い空間を実に巧みにフル活用している。室内ではあるのだけれども、通常の舞台のように、三つの壁による遠近法的な奥行きに頼らず、むしろ全体を上下の三つの空間として利用している。その結果、閉塞した室内空間のイメージが排除されているのだ。
 まず主舞台中央部の右よりは斜めに下がって、下がったところに長椅子がある。中央部左よりには大きな箱のような部屋とドア、これは夫ヘルマーの仕事部屋で、閉じこめられているのはむしろヘルマーということになる。
 主舞台の後ろが一段高い中二階空間となっている。その右隅にピアノが置かれ、主舞台とは数段の階段でつながるが、中二階の全体は左に下がるように傾いて、ヘルマーの部屋のドアとつながる。従って中央左のヘルマーの部屋の入り口の前で、右斜めに下がる主舞台と、右斜めに上がる中二階とのふたつの空間が、<の形でつながっている。
 更に中二階の上に廊下風の最上階の空間があり、その中央に家の玄関、右に長椅子がある。中二階とは数段の階段でつながる最上階の空間も、中二階と同様に左に下がって、ヘルマーの部屋の後ろを回って、主舞台とつなげられている。
 要するに舞台空間は上下に三つに分かれており、第一に、その三つの空間が複雑につながっていること。そして第二に、主舞台の中央部だけはかろうじて水平舞台なのだが、それ以外のすべての舞台空間が傾いていること。以上の二点が特徴の舞台空間である。長椅子も、ピアノも、暖炉も、ほとんどすべてが斜めに傾いて、複雑に絡み合った空間の中で、芝居が進行して行く。このような複雑さと傾きの不安定さとの示す意味は難しくないだろう。ノラの家庭の平和な表面が隠している危うさ、内面的な欺瞞と不幸とが暗示されているのだろう、と容易に了解できる。これはこれで興味深いのだが、しかしそのような分かりきった「解釈」を言いたいわけではない。
 上述のような舞台であるから、登場人物は、広い空間を左右前後のみならず、上下にも動き回る。右の階段から登ったかと思うと、今度は左の斜めに下がる通路を使う。人物の登場も、左右の袖、箱のようなヘルマーの部屋のドアは高さも位置もほぼ中央であり、家のドアは最上階にある。狭い室内空間での対話による緊張した心理描写の劇が、実はこのような空間構成によって大きくその様相を変えるのだ。人物の出入りと移動は、複雑に入り組んだ空間を十分に利用して、少しの無駄もなく、しかし常に大きな空間移動と共に、ノラをめぐるドラマが進行するのである。
 『人形の家』は、コペンハーゲンでの初演(1879年)以来、女性解放のドラマとして有名であるが、10)しかし原作を少し丁寧に読んでみれば、単なるフェミニズム的主張と言うよりは、むしろ主人公ノラの不安と緊張の高まる経緯と、「夫婦」の共同幻想が最終的に崩壊するところに、ドラマの基本行動が置かれていると言えるだろう。行動の焦点は、ノラが「かわいいヒバリさん die kleine Singlerche」から、「幻想に絶望した女」への変化ということになる。事実、冒頭のノラから、最後のノラへの変化は、人物造形の「難問」であり、それだけに「見せ所」とされている。
 ところでブルク劇場でノラを演じたアンドレア・クラウゼンは、目鼻がくっきりとしていて、がっしりとした顎に上背のある美人女優である。マーローの『エドワード二世』でのイサベラ女王がよく似合う、そんな女優であり、かわいいと言うよりも、むしろ堂々とした迫力を感じさせる。それに対して夫ヘルマーを演ずるアダム・エストは、中肉中背で頭が薄く、仕事熱心ではあるものの、いかにも風采のあがらない中間管理職然とした雰囲気を漂わす。ヘルマーの最初の登場も、ヒバリの鳴き真似をしながらノラのお尻を追いかけ回すというぐあいに、決して権威的な印象は与えない。
 そのような二人の対話は、内容的には夫ヘルマーが「馬鹿な」ノラを教育しているようでありながら、舞台の「絵」としては、常にノラの方が優位に立っているようにしか見えない。事実、すぐに座り込んでしまうヘルマーに対して、ノラの方は生気にあふれ、常に活発にヘルマーの周りを動き回っている。内容的に考えても、そもそもヘルマーの健康を取り戻すために金策に走り回ったのはノラではなかったのだろうか。従って、ノラの態度からは、ヘルマーに対する卑屈さ、従属感は全く感じられない。
 その後も、すぐに仕事部屋に引きこもるヘルマーに対して、舞台に出ずっぱりのノラは、それぞれの状況に応じて、広い舞台空間を縦横に歩き回り、走り回り、精力的に語り続ける。ドラマの内容からも、舞台形象からも、実質的に状況を支えているのはノラなのである。ブルク劇場におけるノラは、最初から全体を支配している。そのような了解が、広い舞台空間を縦横に動き回る彼女の存在感から、自ずと生じて来る。それは、従来の狭い室内空間では表現できないノラのイメージなのである。
 買い物から帰ってきたノラは、ヘルマーと対話を交わしながらクリスマスプレゼントの包みを開けて見せ、その箱を次々と天井から下がったゴムひもに結びつける。中空に浮かび漂ういくつもの箱。これ以後、ノラは感情が高揚したり、思いに耽るたびに、その箱にふれる。箱はゆらゆらと揺れる。箱=プレゼントを動かすのは、常に、そしてもっぱらノラだけである。最も重大なプレゼントとは、言うまでもなく、ヘルマーのための過去の借金に他ならない。箱は、ゴムひものために上下左右に小さく、あるいは大きく揺れる。ノラの行動と箱の動きとは、互いの対応を示している。色とりどりの箱の動きは、事実の暴露におののくノラの心象風景とも重なるが、同時に、登場人物の平面的行動を包み込む舞台空間の存在をいやでも強調することになる。ここでも「見せる」工夫が、演出意図の効果的な表現となっている。
 ブルク劇場におけるノラは、「自立した女への変身」「馬鹿な女が自分の馬鹿さ加減に気づく」あるいは「耐えに耐えた女がついに堪忍袋の緒を切らす」ようなセンチメンタルな方向でのノラではない。ノラの変化に焦点を当てる従来の舞台では、ノラの「目覚めの動機付けが難問」11)とならざるをえないのだが、それは冒頭のノラと、最後のノラとの間に決定的な相違がある筈だとの理解を前提としているからである。相違がなければ、「解放」にならないからである。ノラは「かわいく」「馬鹿」でなければ、「男性的権威への異議申し立て」という表層の政治的主張が効果的に統御させられないからである。
 ところで、イプセンの原作の最後のト書きはこうである。「下から家の大扉にがちゃりと錠の下りる音が聞こえてくる」12)。もちろんノラが家を出て行く音である。「下から」聞こえる。それに対してブルク劇場のノラは、ゆっくりと階段を「登る」。何しろ家の出口は最上階に作られているのだから当たり前なのだが、家を出るために閉めるドアの音は、当然「上から」響かせることになる。この違いは決定的であろう。
 イプセンの場合、夫の愛と権威への絶望は、ノラへの抑圧として作用する結果、ノラは致し方なく「下から」家を出る。ノラの主張そのものは、内面の自由に関するものであるから、理念としては状況を「上から」見ているのであるけれども、しかし現実の外面的な行動としては「下から」しか出られないのである。
 『人形の家』のドイツ初演に際して(1880年)、ノラ役の女優が異議を唱えたので、イプセンは「ノラが子供のために家に残る」という別ヴァージョンの結末にしぶしぶ書き換えたとのことである13)。結末を拒否した女優が、女性解放に対して無理解であったと批判するのは易しい。しかし、どちらの結末が真にリアルであるかは、少し考えれば誰にでもすぐにわかることであろう。手に職のない女性が、何の準備もなく突然、一人で生きて行こうとすれば、娼婦にでもなるしかない時代ではなかったのだろうか。ノラが今の状況から「解放」されるとすれば、結局は「下から」しか出てゆけないのである14)
 19世紀末のノラが「下から」出て行くのに対して、20世紀末のノラは「上から」出て行く。この違いは大きい。
 ブルク劇場におけるノラの絶望は、抑圧からの消極的な逃避ではなく、より積極的な「愛の絶望」の宣言であって、彼女の彼女自身に対する自信にはいささかの変化もない。それが「上から」の家出である。ノラは狭い家庭から、より広い世界に出て行くのであるが、彼女が暮らしていた家庭も、決してただ狭いだけの世界ではなかったし、決して抑圧のみの、奴隷的なだけの世界ではなかった。彼女自身は実は変わっていないのだ。ただ、ヘルマーの愛に対する彼女の見通しが安易だったのである。
 もちろん女性の内面的・経済的自立とは、現在に至っても、なお相変わらず容易な課題ではない。その意味ではイプセンの解放の主張は、決して古くさいテーマではない。しかしノラの決定的な最後の行動に関する「上から」と「下から」との表現の変化からは、この百年の歩みの幾らかを見て取ることができるであろう。少なくとも、室内の閉鎖空間において長い間演じられ続けてきたノラとは異なった姿を、ブルク劇場の重層的舞台は表現しようしていたし、そしてその意図は容易に感じ取ることが出来た。室内リアリズム心理劇には不適当なブルク劇場の、その不適当な広さこそが、かえって新しいノラの表現の可能性を生み出すことができたと言えるのである。
 
 1997年6月11日 
 チェーホフ『結婚申し込み&熊』 アカデミー劇場 演出:イェウゲニイ・シトヒン 
 初演:1997年3月21日  
 
 イプセンと並んでリアリズム心理劇を代表するのがチェーホフである。日本でもチェーホフは人気があるが、ドイツ語圏でも、毎シーズン、どこかしらで必ずチェーホフの初演が繰り返されており、5月から6月にかけて、『プラトーノフ(演出:アヒム・ベンイング)』『桜の園(演出:ペター・ツァデック)』及び『結婚申し込み&熊』と、短い間に三つのチェーホフ作品を見ることが出来た。なかでもツァデックの『桜の園』は、成金のロパーヒンに焦点を当てた話題作で、1996年の批評家ベスト演出作品に選ばれている15)
 チェーホフの作品は台詞中心のリアリズム心理劇で、大劇場向きでないところはイプセン以上である。上述の三つのチェーホフ劇は、いずれもブルク劇場のアンサンブルによるアカデミー劇場での舞台であった。
 ところで、アカデミー劇場は、ブルク劇場とは全く異なった場所にある。リング沿いに、ホーフブルク(宮廷)をはさんで北にブルク劇場があり、南に国立オペラ座がある。そのオペラ座から路面電車に乗ってひとつ目、シュヴァルツェンベルク・プラッツ(黒山広場)で降りて、リングの外側に向かって200メートルも歩けばアカデミー劇場がある。地下鉄ならば4番に乗って、シュタットパルク(市立公園)で降りて真っ直ぐ、インターコンチネンタルホテルの高そうなレストランを横目でにらみながら300メートルほど歩くと、コンツェルトハウスの隣がアカデミー劇場である。コンツェルトハウスの音楽会に行く客は、アカデミー劇場の客と比べると、どうもコンツェルトハウスに向か人々の方がおしゃれなように見える。そもそもアカデミー劇場の客は、ブルク劇場の観客に比べても、はるかにラフな服装で、若者の数も多い。単なる印象だが、演劇好きの若者は黒のジーパンが好みのように思える。
 アカデミー劇場は座席数496席の小劇場で、入ってすぐのホールから、更に左右に半円形にホールが続いている。クロークも左右にあり、クロークの前、二カ所に客席へのドアがある。演劇小屋としてはまことに具合の良い大きさで、二階席の真後ろに座っても、何の困難もなく観劇できる。平戸間の値段の高い席、最前列に近い席は、むしろ舞台に近すぎて、役者の迫力を楽しむには良いかもしれないが、全体のアンサンブルが見えにくくなる。その点で言えば、私は二階席の方が好きである。二階席の後ろでも、真ん中に近ければ、舞台全体が概観できて、何よりも値段の安いのが助かる。
 『結婚申し込み』と『熊』の二つの喜劇は、どちらも一幕の短い作品で、休憩を挟んでふたつをセットに一晩ものとしている。いずれも秀逸な舞台で、6月、9月、12月と三ヶ月おきに三度も通ってしまった。
 小品ながらも傑作の二つの喜劇に対して、チェーホフは「ちょっとしたボードヴィル」とコメントを残している16)。「ボードヴィル」とは、もともとはフランス語のシャンソンの種類であって、歌と踊りのある軽妙な風刺喜劇を示すらしい。イギリスでヴァラエティ、アメリカでミュージカル・コメディと言うのに等しい。(ところで6月24日のブルク劇場で見た、ジョルジョ・フェドー作『耳の中の蚤』も、浮気に取り違えの絡む傑作ドタバタ喜劇で、フランス・ボードヴィルの典型作品であった。)本来は「歌と踊り」にポイントがあるのだろうが、チェーホフは純粋な台詞劇を書いているので、「ボードヴィルのように軽い笑劇」という意味で、「軽い風刺」の方に力点がある。
 『結婚申し込み』も『熊』も、どちらも対話が進むに連れて、話題がそれ自体として自己増殖し、言葉と心理の絡み合いが複雑に自己展開して、登場人物が状況に引きずられて行くおかしみがある。読んだだけでも十分におもしろい内容が、具体的に舞台化されると、更に一層の充実したおかしみに満ちている。舞台化に当たっての様々な工夫が、実に説得的で、原作の楽しさを倍増してくれる。
 まず『結婚申し込み』の冒頭は、原作ではいきなり、若者と父親との対話から始まる。「やあ、これはどうも、どなたかと思ったら!イワン・ワシーリエィヴィッチ!よくおいで下すった・・・」チェーホフの劇は、徹底した台詞劇なのである。
 それに対してアカデミー劇場の舞台の冒頭は、次のように始まる。幕はない。父親が、あたかもスタッフの一人のようにさりげなく登場する。何しろまだ観客席は明るくざわついており、舞台は暗い。舞台中央に下がっている裸電球が消えているのに気づいた父親は、足をドンと大きく踏みならす。すると舞台に照明が入り、客席が暗くなる・・・
 どうやら芝居が始まるらしいのだが、客席の周りのいくつものドアは開いたままで、外のホールの光が入ってくる。閉め忘れているのだろうか?
 父親は曲がっている家具を直し、ついでに隠してあったウォツカを飲み、娘の呼び声に、あわてたように退場。さてこれから・・・と観客の期待が高まったところで、いきなり観客席の周囲のホールで「ホー」と長く叫ぶ声が聞こえる。何事かと目を向けると、閉められるべきホールとの間のドアを通して、求婚者の若者が自転車に乗っているのが見える。 若者の自転車は、外の半円形のホールを右から左へとぐるりと走る。自転車が通り過ぎるにつれて、ホールとの間のドアがバタンバタンと大きな音を立てながら次々と閉められる。左隅に到着したと思われた瞬間、激しくぶつかる音。直後に、今自転車に乗っていたはずの若者が、壊れた自転車の車輪を抱え、手に薔薇の花束を持って登場する。せっかくの燕尾服とシルクハットは、汚れてヨレヨレになってしまった・・・
 自転車は二輪である。若者は人生の二人三脚の相手の手を求めに行くのであるから、彼には二輪車が、まことにふさわしい乗り物なのだ。しかしその自転車を十分に乗りこなすことが出来ない。これでは肝心の「申し込み」の先が思いやられるわけで、いかにも巧みな導入であろう。
 台詞を具体化するのは、俳優による発声や身体演技だけとは限らない。演技にのみ焦点を当てている限り、演劇空間は言葉に支配され続けることとなる。演劇に固有の表現領域としては、言葉のみならず、より広い空間処理の中に演技が位置づけられねばならないのだが、そのあたりの勘所がみごとに押さえられている導入だろう。
 この後から、原作通りの対話が始まる。緊張のあまりしゃっちょこばって口ごもる若者と、何も知らずに脳天気に話し続ける娘とのとぼけたやりとりは、よく出来た漫才のようである。世間話の筈の草刈りの話から、境界の土地の所属の言い争いになる。
 「いいですか、あなたのお父さんのおじいさんの時代に、わたしの叔母さんのおばあさんのために・・・」と弱気に繰り返す若者の説明をさえぎって、「それはお話がまるで違いますわ!わたしのおじいさんも曾おじいさんも・・・」と娘が高飛車に異議を唱える。やがて現れた父親も交えた三人の間で交錯する訂正要求は、最初はささやかで礼儀正しいが、やがて少しずつエスカレートして、ついには「卑劣、不正直、汚らわしい、二重人格、陰謀家」と互いに罵りあうまでになる。それでもこの土地問題は、ともかく一段落するのだが、その後も、今度はお互いの所有する犬のウガタイとオトカタイとの優劣をめぐって、また同じような言い争いとなってしまう。ついには若者は興奮のあまり、心臓発作で倒れる。あわてる父親と娘。若者が回復した後も、また言い争いになりそうな雰囲気をさえぎって、父親が「婚約だ!シャンパンだ!」と叫びつつ幕となる。
 とにかくテンポが良い。さりげない動作や目つきに、凝縮したおかしみが涌いて出るのは、ひとつひとつが充分に考え抜かれた行動だからである。
 例えば、娘を待っている間、ひとりになった若者は、手にした薔薇の花束の匂いを嗅ぎながら、周りを見回す。すると小さなテーブルに飾ってある薔薇を見つけてギョッとなる。思わずその薔薇をつかんでしまい、薔薇の花びらは手の中でバラバラになってしまう。困った若者は持参した薔薇を花瓶に突っ込む。何も持っていない自分の手を若者は空しく、困惑して見つめている。すると、ちょうどその瞬間に娘が登場する。この一連の動作は、もちろん導入の際の自転車と同じ意味づけなのであるが、ただでさえ緊張していた若者は、ここでほとんどパニック状況に陥ってしまう。このように、ひとつの動作がすぐ次の動作につながり、最後まで同じ調子で実に小気味よく、一気に舞台が進行する。
 幕間の休憩中は入り口付近のロビーがタバコの煙であふれる。6月ともなると気温の高い夜もあり、外の風が心地よい。劇の感想を交換し合っている客たちの脇をブラブラと通り過ぎながら、私の耳はいつもダンボになる。
 休憩中に他の舞台のプログラムも購入する。というのも、ブルク劇場のプログラムには、おおむねテクストがついているので、予習に最適の資料だからである。ちなみにプログラムにテクストを載せ始めたのは、1987年にクラウス・パイマンが総監督になって以来のサービスである。
 とはいえ、休憩時間は手持ちぶさたで仕方がない。もしもブルク劇場であれば、有名なクリムトによる側廊の天井画を鑑賞したり、有名劇作家の胸像とにらめっこをしたり、あるいはシャンデリアの輝く豪華な回廊をぶらつきながら、壁に飾られた歴代名優の油絵などを見て廻るのだが、素っ気ないアカデミー劇場では、二階のビュッフェでコーヒーの立ち飲みをするぐらいで、早々に席に戻ってしまう。
 休憩の間、ロシア服を着たスタッフによって、舞台は模様替えがなされている。『結婚申し込み』の舞台は、中央に窓枠だけの窓とその前に小さなソファー、左に戸棚と小さなキャビネット、右に姿見と小さなテーブルと椅子。背景と脇を薄い白い布で覆い、全体に簡素で、すっきりとした夏のイメージであった。
 家具などはそのまま『熊』でも使われ、位置にも変化はないが、舞台全体に厚いカーペットが敷き詰められ、背景の白い布が赤いビロードに換えられる。裸電球はシャンデリアになり、家具も全て黒い布で覆われ、ご丁寧に蜘蛛の巣がついている。『結婚申し込み』の舞台が簡素な田舎の夏のイメージであったのに対して、『熊』の舞台は、都会の未亡人のお屋敷の居間で、しっとりと贅沢な室内、暗い冬のイメージとなっている。
 どちらの舞台も、女優はアンネ・ベネントが連続して演じている。彼女は、両親が共にブルク劇場の俳優であったという毛並みの良さなのだが、少々すっとぼけたように眼をパチクリさせると良い味を出すような女優で、クライストの『アンフィトリオン』でアルクメーネ役、ハントケの『不死のための準備』では放浪の女語り部役と、ブルク劇場を支える中核人気女優の一人である。休憩前の『結婚申し込み』では、いかにも田舎の娘のように、頭には髪クリップをいくつも巻き付けてドッカリと座り、スカートを広げた上で豆の筋むきをしながら「なんだべ?」という雰囲気で演じていた。今度は一転して、お上品で、しとやかなお屋敷の未亡人である。気晴らしに散歩でもと勧める老従僕に対して、「私はお墓へ入るまでは決してこの喪服は脱がない。世間へも出ないと誓ったのだからね。」と、顔を覆った黒いショールをひしとつかみ、身も世も有らぬように全身をくねらせながら悲しみを示す。ただ、おおげさな悲しみ方は、いかにもポーズめいている。
 そこに借金催促の男が訪ねて来る。「誰にもお会いしたくありません」と言いながら、男が現れるまでの間に、未亡人は顔のヴェールを上げて姿見に顔を映し、髪をなでつけ、ご丁寧にコロンまで吹き付ける。
 「会いたくない」と口では言いながら、未亡人の身体表現は、まさに「会いたい」との期待を表明している。もちろん彼女としては嘘を述べたわけではない。そうではなくて、言葉と身体表現とのズレは、表層「心理」の奥にある無意識の願望という深層「真理」を明らかにしているのである。
 そもそも言葉には、「真理」のみならず、「嘘」をも語ることが出来るという特性がある。しかし身体表現で「嘘」を貫き通すことは著しく困難である。身体は「嘘」をつかないし、つけない。「心理」を無理に押さえつけようとしても、必ずどこかにその抑圧のひずみはあらわれる。たとえば、未亡人の悲しみが、大げさな身体表現となって現れるところに抑圧のひずみが表現される。
 借金返済の要求に現れた男は、無骨で下品で口が悪く、すぐに興奮する「熊」のような男であった。上品な未亡人には、その下品さががまんできない。ところが彼女のお上品さが、逆に男にはがまんできない。
 「女なんかは・・・」と悪口の限りを尽くすので、対抗上、未亡人の方でも「男なんかは・・・」と悪口を並べ立て始める。未亡人の言う悪口とは、つまりは死んだ亭主の不実への恨みつらみに他ならない。
 悪口の言い合いがだんだんとエスカレートするのは、『結婚申し込み』の場合と同じパターンだが、『熊』では、ついに決闘騒ぎにまで至る。未亡人はピストルにさわったこともないにもかかわらず、決闘を受諾する。男はピストルの使い方を説明しながらも、未亡人の潔さ、「男(女?)らしさ」に一目惚れとなり、ついに愛を告白する。驚いた未亡人は初めは拒否するが、結局は男の求愛を受け入れる。未亡人の台詞。「あっちへ行って!手をどけて!わたしは・・・あなたを・・・憎みます!決闘場へ!(長い接吻)」
 「あっちへ行って!」という部分では、未亡人はこの台詞を口にしながらも、未亡人の方から、男の方に近寄って行くのである。これは客席が大いに湧いた。台詞と動作のズレのおかしみは絶妙と言える。舞台ならではの説得力であろうが、この種のおかしみは、当日の舞台には随所にあふれていた。 
 たとえば、「ピストルで撃ち合う!これこそ同権!女性解放!それでこそ両性が平等!」これは、どちらの台詞だろうか?男の方の台詞なのである。「女」の悪口を並べ立てる粗野なだけと思われていた男が、実は男女平等の実践者だったということになる。女性を侮辱する者こそが、もっとも女性を大切にする者であったとの皮肉は、いかにもチェーホフ的であろう。
 未亡人が男に向ける悪口も、原作では、悪口そのものに男が怒るように読めてしまうが、シトヒン演出では、未亡人の叫ぶ悪口に対して、男は「フン!」と全く意に介さない。蛙の面に水である。ところが最後に「熊!」と叫ばれたとたんに、それまで余裕で未亡人をあしらっていた男の顔色が変わる。
 ロシア語での侮辱語としての「熊」が、どの程度のものであるのかは知らないが、この落差は見事であった。男には、「熊」という言葉だけは、どうしても我慢できないのである。ここで侮辱語表現の心理的効果について述べても、あまり意味がないであろう。決定的な一語というものは、必ずしも共通理解に基づいているとは限らないからである。重要なのは、ある一語で舞台の雰囲気が一変する、その表現力である。ここでも言語を越えた身体表現の可能性が見事に実証されている。
 『結婚申し込み』のおかしさは、言葉が語り手の意図通りに展開して行かないところにあった。語り手の制御を越えて言葉が暴走し、自らの発した言葉に自らがふりまわされてしまうのである。それを皮肉と共感をこめて上から眺めるところに、『結婚申し込み』がおかしみを生み出す根拠があった。
 『熊』では少し事情が違う。『熊』での言葉は、語り手の意図以上の表現力を獲得してしまう。その結果、言葉の意図と、その言葉を支える意識とがズレを起こす、そのズレの具合の変化を見るおかしみに満ちているのが『熊』である。あえて難しく言うならば、言葉の観念性を身体表現の肉体性が無化するのである。
 演劇における言葉は、詩学における言葉とは、どうやらその発想が違う。一つの言葉が、それ自体として自らの表現力を研ぎ澄ますのが「詩」というものである。その意味では、「詩」は言葉の自足する境地を目指し、世界を超越するような視点を求めている。しかし演劇における言葉とは、常に「場」の一部であり、状況とのつながりを欠いた言葉それ自体は、単なる抽象と化することによって、殆ど無意味となってします。にもかかわらず、言葉はしばしば「詩」としての自己を主張するあまり、「語り手」から、「場」から、「世界」から遊離しようとする。言葉の観念性とはそういうことである。世界を『超える』ためではなくて、世界とのパフォーマンスの一部であること、世界との緊張関係を暴露すること、それこそが演劇における言葉のもっとも重要な機能であろう。とりわけ喜劇において、アカデミー劇場の舞台において、その機能が十全に利用されていたように、私には思えるのである。
 
 風誘う文月・葉月の段
 さて、6月の前置きで述べたように、7月と8月の劇場は夏休みに入る。その代わり、普段は室内に押し込められていた劇場空間が、戸外に広がる時期となる。カフェもレストランも、室内から戸外へと全面的に移動する。風にふかれ、白い雲を見上げながら飲んだり食べたり、あるいは演劇やコンサートを鑑賞する快適さは、まことに例えようがない。オーストリアでも、ドイツでも、野外演劇祭や野外コンサートが各地でひんぱんに行われるのも当然と言える。
 日本でも有名なのは夏のザルツブルクであろう。何故か、ザルツブルク「音楽」祭と日本の新聞や雑誌に載るのだが、ドイツ語ではザルツブルク・フェストシュピールFestspieleである。フェストは「祭り」だが、シュピールは、英語のプレイと同じで、音楽の「演奏」、芝居の「上演」、更には「遊び」と様々に訳すことができる。ザルツブルクの夏の祭りは、「音楽」祭のみならず、「演劇」祭でもあるのだ。ホーフマンスタールのバロック寓意劇『イェーダーマン』が、毎年、新演出で行われる。更には様々の新作芝居の上演もなされるので、ザルツブルク「演劇」祭は、演劇雑誌の夏枯れ解消のみならず、話題作・問題作がしばしば論議となる質の高さである。それにしても、ザルツブルクに関して、音楽情報だけが肥大して、演劇が欠落したままで日本に伝わるのは、ウィーンの場合と同じ構図であろう。
 ところが、せっかく一年もオーストリアにいながら、私はザルツブルク「演劇」祭の舞台を見ることが出来なかった。4月早々に連絡を取ったのだが、全ての演劇チケットは、なんと一年前に完売となっているではないか。何しろ70年代に神様扱いされたペーター・シュタインの演出ともなれば、完売も当然と言える。夏の稿の最大のテーマとなるはずであったザルツブルク演劇記は、かくして幻となってしまった。残念無念。
 その代わりというのでもないが、ロンドン・グローブ座について簡単に述べる。6月の観劇で触れるべきであったにもかかわらず、7月8月のタイトルにふさわしい劇場だからである。
 ロンドン、テームズ側のほとりに建てられたグローブ座は、シェイクスピアの時代の建物を復元したもので、演劇好きであれば、泣いて喜ぶ場所となっている。1997年の5月にこけら落とししたばかりの劇場を、6月28日に訪問できた。おそらく英文学畑などでは、すでに多くの言及がなされている筈なので、ごく簡単な印象のみにとどめよう。
 演劇史の本を開けば、エリザベス朝期の演劇の説明で必ずお目にかかるのが、有名な「白鳥座スケッチ」と呼ばれる見取り図である。その見取り図の現物が目の前にある。平土間と、そこに張り出した四角形の舞台。これは普通「外舞台」と呼ぶ17)。幕はなく、大人の目の高さの舞台を平土間が三方から囲み、更に三層の屋根つき桟敷が、多角形にぐるりと周りを取り囲んでいる。特筆するべきは、平土間に屋根のないことである。外舞台と、その奥に続く内舞台の上には、二本の大理石の柱で支えた屋根がある。そこは格天井になっていて、天空の絵模様が見える。内舞台の二階が上舞台だが、そこにも観客が座っている。桟敷には椅子があるが、平土間はコンクリートに「立ったまま」の観劇となる。普通、立ち見席は天井桟敷の後ろで、平土間は高い席になるのだが、ここでは平土間が一番安くて5ポンド、約1000円であった。ちなみに一番高い席が25ポンド。 
 ルネッサンス以降の劇場が、基本的には額縁形式で客席と相対する室内舞台であるのに対して、ここでは舞台がぐるりと客席に囲まれている。更に重要なのは、中央部に屋根のないことから来る野外の雰囲気で、この効果は実際に体験して初めて納得できる独特な性質のものであった。図面だけを見ていた時には、高い桟敷に囲まれることで、ある種の圧迫感のような感じが予想されていたのだが、事実は全く逆で、青空が見えて、時折風の通り抜ける平土間に「立って」観劇するというのが、これほど自由でリラックスした雰囲気を産むとは思わなかった。
 内容はシェイクスピアの『ヘンリー五世』。2時に始まって、5時に終わった。おおむね25分演じて、10分の休憩となる。休憩中は皆座り込んで足を休める。パンフレットには、出入り自由、飲食自由と書いてある通り、ジュースを飲んだりしながら、気楽におしゃべりをする。太鼓の音が響いて芝居が始まると、再び皆が立ち上がる。暗闇にじっと座って、舞台に意識を集中するのとは、自ずと観劇態度が異ならざるをえない。
 『ヘンリー五世』の舞台は、ひたすら朗唱を響かせる伝統劇の発想で作られている。とにかく台詞中心で、役者が舞台に出てきては朗々と語り、語り終えてはひっこむ。この繰り返しが続くだけで、その意味では単調な舞台なのだが、登場と退場の仕方が、これだけで充分に「見せる」ことのできるほど、実に多彩な工夫が行われている。また、そのような工夫のできる空間なのである。内舞台の奥の二カ所が主たる出入り口なのだが、外舞台の「せり出し」から首だけを出したり、上舞台から飛び降りたり、客席の後ろや脇など、様々な出入りが試みられる。音楽も出入りに対応して、トランペットや笛、コーラス、太鼓、時には大砲まで響かせて、全く飽きさせない。それらによって、演技する側も、見る側も、なにやら楽しそうな空気が全体に充満する。
 演じられる内容が英仏戦争を題材としているためでもあるのだが、フランス側が出てくると、ブーブーと野次が入る。イギリス側が愛国的な台詞を述べると、ピーピーと口笛を吹いて喜びを示す。騒がしく反応する観客のおかげで、いかにも気楽な一体感が醸し出される。客席に囲まれた舞台の近さと、野外の空気と外光の気持ちよさの効果であろう。閉塞感のないことで、自ずと祝祭的気分に覆われるからである。観客からの効果的な野次の多くは、もしかしたらサクラかもしれなかったのだが、とにかく、楽しい劇場空間を作りだしているのがグローヴ座なのである。演劇好きならば、確実に一見の価値があるだろう。
 ところで天井がないという構造上、雨が降ったらばどうなるのだろうか、という素朴な疑問が残らぬでもない。ロンドンは、ウィーンに比べると雨が遥かに多いのだから、平戸間の立ち見客は濡れざるをえない。その場合は、印象もかなり違ってくるかもしれないのだが・・・。
 ロンドンはともかく、七月八月のウィーンは劇場が夏休みなので、演劇に関して報告すべきものはほとんどない。要するに室内などには誰もくすぶっていないのだ。事実、6月ともなれば暑い日も時折出てくるし、そういう時に、人の大勢集まる劇場などは、快適とは決して言えない。もちろん冷房などというものは、交通機関を始めとして、ほとんどお目にかからない。劇場とは、寒く暗く長い冬を過ごすための装置であって、戸外で快適に過ごせる夏向きではないのだ。
 そこで夏向きには野外オペラ、野外コンサートの出番である。おすすめとして、二つだけを紹介したい。ひとつはシェーンブルン宮殿の庭で行われる野外オペラ、もうひとつは市役所前広場で行われる野外コンサートである。
 夏の離宮シェーンブルン宮殿の広い広い庭の一角に、ローマ風廃墟を模した場所がある。そこに仮設舞台を設置して、夏の夕方からの野外オペラが恒例となっている。カンマーシュピーレのアンサンブルによる『魔笛』で、カンマーシュピーレの劇場は夏休みになるのだが、7月15日から週五日のペースで野外オペラを見せてくれる。
 始まりは夜の8時、ウィーンではようやく薄暗くなりかかる頃で、風に梢が揺れて、緑の葉がさらさらと音を立てる。その中でモーツァルトの序曲が始まる。見上げる空が広い。廃墟の向こうの暗がりに、実物のオベリスクが照明で浮かび上がっている。夜の闇が濃くなるにつれて、舞台正面の不可思議な図形模様のネオンが、ますます美しく照り輝く。そこにアリアが、重唱が響き、まさに『魔笛』の寓意的ドラマにふさわしい雰囲気となる。パパゲーノがミニカーに乗って走り回る。廃墟の上の思いがけない場所から夜の女王が姿を現す。
 『魔笛』の見せ所は、例の「火と水の試練」である。水は青い照明を使うのだが、火は、実物の火をふんだんに使う。最後は、いかにもバロック風に、空一杯に盛大な花火を打ち上げてフィナーレとなる。室内では絶対に不可能な、戸外ならではの印象的な豪華さで楽しい時間を作り上げていた。
 もうひとつのおすすめが、市役所前の広場である。ここに巨大なスクリーンと巨大なスピーカーを設置して、仮設の椅子が並ぶ。フィルム・フェスティバルである。1990年からの恒例で、ウィーンのコンサートやオペラのビデオを上映する。7月の第一土曜日、カラヤンによるウィーンフィルのニュー・イヤー・コンサートで始まり、おしまいが8月31日、再びカラヤンによるブラームス「ドイツ・レクイエム」まで、たっぷり2ヶ月、一級の演奏会が、映像ソフトとはいえ、毎晩「無料」で楽しめる18)
 普段は芝居に追われて、あまり見られないオペラを、この機会に幾本も鑑賞することが出来た。印象に残っているのは、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」で、バロック風の「死を思え」を枠にした青春讃歌・生命の喜びが、かなりエロチックなダンスで示される19)。夜とはいえ、画面に繰り広げられる映像は、美的に処理されてはいるものの、まぎれもなく男女の絡み合いそのものである。子供を連れてきた親は若干とまどって早々に引き上げるが、そのまま見続けた家族も多かった。もちろんセクシャルな関係も含めた「愛への讃歌」は、そのままで「死」への思いの深さと重なるのである。しかし、よりにもよって市庁舎の前で繰り広げられるエロスの大画面に、「愛と死の深さ」のみならず、ヨーロッパのふところの深さをも、しみじみと感じざるをえなかっった。
 ところで客席の後ろ側、リング通り近くの場所には、様々な食べ物の屋台がずらりと並ぶ。焼きソーセージやシュニッツェルなどの定番料理のみならず、ギリシャ料理、インド料理や中華料理もある。パラチンケン(ウィーン風パンケーキ)、カイザーシュマレン(ウィーン風一口ホットケーキ)などの甘いデザートもある。もちろんビールやワインは言うまでもない。紙皿のソーセージとビールの紙コップを手にして、スクリーンの前に座ると、夜風にふかれながらの『トスカ』や『カルメン』が、ほろ酔いの目と耳に心地よく入ってくる。ここでは「クラシック」が、堅苦しい「教養」ではなく、飲み食いの「祭り」に溶け込んでいる。
 戸外の演劇が例外でしかなくなってから、すでに久しい。狭い空間に囲い込まれた我々の演劇イメージは、室内へと、劇場へと、消費的娯楽へと、ますます小さく縮み込んでしまった。しかし演劇とは、もともとは野外の風に吹かれ、太陽の光の下での健康的な祝祭活動であったはずだ。そもそも舞台と観客とからなる「場」は、戸外の風に吹かれ、太陽の下にあってこそ、真に明るい祝典となるのではないだろうか。役者は観客に囲まれることで活動のエネルギーを獲得するし、観客も役者を囲むことで祝宴の雰囲気を己のものとすることが出来る。
 室内にのみ閉塞した劇場は、戸外という自然の開放感によって生み出されたエネルギーが作り上げる祝宴の雰囲気を失うことによって、ひたすら「気晴らし」という個別的な消費、一回的な欲望の排泄場所に陥ってしまったのかもしれない。集団的な共感の場としての「祝祭」が、単なる個人的「娯楽」に変質するからである。更に言えば、祝祭の広場を取り巻く都市空間もまた、広大な自然との関わりを失えば、同様に閉塞せざるをえない。都市もまた、自然に囲まれたひとつの劇場なのだからである。
 「劇場」とは、単に個別の演劇を個別に鑑賞する場ではない。単なる「娯楽」の場ではない。それは、「都市」が単なる経済活動の場だけではないのと同様である。人の集まる場が恒久化し、制度として固定化すれば、それが劇場となり、あるいは都市となる。そこでの「劇場」とは、あるいは「都市」とは、単なる空間概念ではなく、人が集まることのもたらす再生のエネルギーを生み出す「場」の有り様を、全体として示す機能概念であろう。
 人が集まり、「見る」者と「見られる」者が生じれば、そこに「劇場」が生まれる。しかし「見る」ためには「見られ」ねばならない。「見る」者こそが、実は「見られている」のであるから、そのような場での相互的な関係は、単なる「劇場」を超えて、「世界」の「囲い」「囲まれる」関係と重なることになる。
 役者<舞台<観客<劇場<都市<自然<地球<宇宙・・・これらの重層的な囲い/囲まれる関係は、そのひとつ、あるいはふたつだけを切り離して見た場合に、全体的な「布置」のエネルギーを失う。なぜならば、「再生」とは、常に全体との相互的な関わりを通してでなければ、そのようなフィードバック無しには決して機能し得ないからである。それぞれの部分が、部分として相互に絡み合う「場」という全体こそが、「世界」という「劇場」なのである。
 「世界が劇場」とは、もちろんバロックの有名な格言だが、通常のバロック的世界の示す過剰な装飾性は20)、単なる部分の過剰を通した世界の仮象性の謂いのようにも見えるが、しかしそのような理解の向こう側に隠された「神」、すなわち互いを包み込む重層的な関係性の全体を把握しようとの欲求を見逃すべきではないであろう。
スクリーンの向こうに、ライトアップされた市庁舎の塔が見える。ドミンゴの大口から出てくる迫力のテナーの響きは、塔の横にさしかかった月にまで届くかのようである。仮設の椅子に座って、市役所広場の「祭り」の場にいる私は、周りでうっとりと聞き惚れ、見惚れている人々に囲まれ、公園の緑に包まれ、ウィーンという都市の一部となる。幾重にも囲まれた重層性の中心に私がいる。その私の頬に夜風があたる。夜風の向こうに月が見え、月の彼方に宇宙がある。宇宙という空虚と相対する「私」のいるこの「場」は、同様に虚である「私」に凝縮するエネルギーのあふれる「場」となる。そのような「場」を表すために、おそらくは「劇場」という言葉があるのではないだろうか。
 
1) 筆者は、1997年4月より一年間、オーストリア・ウィーンにおいて在外研究に従事した。以下は、その折りのブルク劇場を主とした観劇記である。本稿に先立つ「春の巻」もある。「演劇する都市ウィーンあるいはブルク劇場 春の巻 トーマス・ベルンハルト『リッター デーネ フォス』およびペーター・ハントケ『希望無き不幸』」 専修大学人文科学研究所月報 第190号 1999年10月所収
2)以下に6月の観劇リストを示す。
1997年6月 1日エネスキュ『オイディプス王』国立オペラ座
        9日ハイナー・ミュラー『フィロクテート』フェスティビュール
       10日ヴェルディ『トロヴァトーレ』 国立オペラ座
       11日チェーホフ『結婚申し込み&熊』アカデミー劇場
       13日クラウス・ポール/アルフレッド・ドルファー『ヴィニー』アカデミ          ー劇場
       16日イプセン『人形の家』ブルク劇場
       19日クリスタ・ヴォルフ朗読会 アカデミー劇場
       20日ヨゼフ・ハーダー『印度』アカデミー劇場
       22日ヴェルディ『アイーダ』国立オペラ座
       23日ブレヒト『聖ヨハンナ』アカデミー劇場
       24日ジョルジュ・フェドー『耳の中の蚤』ブルク劇場
       25日ピランデルロ『山の巨人たち』ブルク劇場
       28日シェイクスピア『ヘンリー五世』ロンドン・グローヴ座
       29日イヨネスコ『授業&禿の女歌手』アカデミー劇場
       30日トゥリーニ『やっと終わり』アカデミー劇場
3) Robert Jungbluth:Vom Mythos zur Realitat. In:Burgtheater Wien 1776-1986
Ebenbild und Widerspruch. Hrg. von Reinhard Rrbach und Achim Benning. 1986(Wien)
S.14.
4)「国民劇場」としてのブルク劇場に内在する矛盾に関しては、拙稿:「クラウスパイマンとブルク劇場」 専修大学人文科学研究所月報第142号 1991年 
5)「”真実の、まぎれもない、唯一の (dem wahren, dem echten, dem einzigen)”古いブルク劇場に対してのレクイエムが、あらゆる場所で歌われた。新しい劇場では人々は良い感じがしなかった。・・・俳優達も観客も古い劇場の親密さを惜しんだ。新しい劇場は全く異なった語りと演技を要求していたのだ。」
 Ernst Haeussermann: Das Wiener Burgtheater. 1975. S.59.
6)ちなみに1997年10月に完成した東京・西新宿の新国立劇場は、オペラ劇場が1810席、演劇用の中劇場が1038席、小劇場が440席である。これに関して、演出家の渡邊守章が「現代演劇のホールが1000人というのはナンセンスでしょう。」と批判し、建築家の磯崎新も「収容座席数400から最大600位が一番いいんじゃないですか。」と述べている。(参照:季刊誌『演劇人』001号 1998年 12頁)
7)Otto G.Schindler: Das Publikum des Bugtheaters in der Josephinischen Ära.
In:Heinz Kindermann:Das Burgtheater und sein Publikum. Wien 1976 S.30.
8)「喜劇的状況とは、ヘルマーがノラの犠牲に全く気づいていないということで、それがノラを自立へと促すのである。・・・解放の喜劇としての「ノラ」を作り上げようとするのがドレーゼンの意図である・・・」Paul Kruntorad: Ein Preuse macht in Wien Theater. In:Theater heute. 1981. H.3. S.30.
9)社会的身振りのみならず、言語的な相違も重要であろう。日本語は母音の支配性が強いために、声帯にかかる負担が大きい。米山文明『声と日本人』1998年 平凡社 83頁参照。また「一方(欧米ー寺尾)はベルカント発声に代表される音響効果を誇示するような「動」の発声を生み、他方(東洋ー寺尾)で・・・音韻性が重視される「静」の声を嗜好する傾向があった。」同 168頁。
10)「『人形の家』は、女性の個人としての自由への権利をめぐって、ノルウェーの息苦しいほど因習的な地方社会において、結婚がいかに女性の個性をくじくものであるかを描いている。」G・J・ワトソン『演劇概論』佐久間康夫訳 1990年 北星堂 163頁以下。
11)毛利三彌 『北欧演劇論』 東海大学出版会 1980年 137頁
12)イプセン『人形の家』 矢崎源九郎訳 新潮文庫 昭和61年 144頁
13)「人気女優フランシロンは、自分は子供達を決して手放したくないからこういう結末にしてくれないと困る、と声を大にして言っていた。たいそう面白い言い草ではあるけれども、これはむしろ個人的問題に過ぎない。」 エーゴン・フリーデル『近代文化史』第三巻 宮下啓三訳 みすず書房 1988年 368頁。
14)エルフリーデ・イェリネックの戯曲『夫から去った後のノラに、何が起こったか』では、ノラの「その後」が、娼婦まがいの絶望という理解で舞台化されている。 Elfriede Jelinek: Was geschah, nachdem Nora ihren Mann verlassen hatte. In:Elfriede
Jelinek Theaterstuck. 1997 rororo.  初演 1979年(Graz, Vereinigte Buhnen)  イェリネックの作品に関しては、例えば「楽観的でユートピアの未来を持ったイプセンのノラとは異なって、イェリネックのノラは脱出の試みに挫折する。経済的な強制、お金の誘惑的な力、男の暴力、これらの方が、女性の自己実現を求めようと努めるノラの意志よりも強力なのである。」 Thomas Fleming: Harenberg Schauspielfuhler. Dortmund.
1997. S.556.
 なおイェリネックに関しては、拙稿:「コロスとモノローグ」エルフリーデ・イェリネック『スポーツだんぺん劇』のブルク劇場初演をめぐって 専修人文論集第64号 1999年
15)43人の劇評家によるアンケートで、18票を獲得している。 Theater 1996
Das Jahrbuch von Theater heute. S.4ff.
16)チェーホフ『結婚申し込み』中村白葉訳 決定版ロシア文学全集 27巻 日本ブッククラブ 1971年 解説。
17)荒井良雄『シェイクスピア劇上演論』 昭和47年 新樹社 31頁。
18)フィルム・フェスティバルはORF(オーストリア放送局)の後援で、ウィーンのみならず、グラーツやリンツなどの市役所広場でも行われている。7月8月のフィルム・フェスティバルを中心とした私自身の観劇リストを以下に示す。17本中15本が、市役所前広場での「無料」上映であった。
     7月11日『カヴァレリア・ルスティカーニ』市役所広場 
       12日ゴットフリート・アイネム『ダントンの死』 同
       13日モーツァルト「キリエ」シューベルト「ミサ曲」 同
       14日レハール『ルクセンブルク公爵』同
       15日リヒャルト・シュトラウス『サロメ』 同
       16日ヴェルディ「レクイエム」 同
       17日カール・オルフ『カルミナ・ブラーナ』 同
       18日チャイコフスキー「ピアノ・コンツェルト」 同
       20日山海塾 Unetu フォルクス劇場
       29日モーツァルト『魔笛』シェーンブルン宮殿
     8月15日プッチーニ『トスカ』 市役所前広場
       19日ビゼー『カルメン』 同
       21日モーツァルト『ドン・ジョバンニ』 同
       25日リヒャルト・シュトラウス『バラの騎士』 同
       26日ロッシーニ『セヴィリアの理髪師』 同
       29日ヴェルディ『ドン・カルロス』同
       31日ブラームス「ドイツ・レクイエム」
19)カール・オルフ『カルミナ・ブラーナ』指揮:ダニエル・ナザレット 演出:ホラント・H・ホールフェルト(Taurus Video 5201465)
20)「劇場は、バロックの人々にとっては世界の比喩である・・・バロックの視点での世界は、舞台と一体化していた。すなわち感覚的/官能的 (sinnlich)だが、現実的ではない。」Peter Simhandel: Theatergeschichte in einem Band. Berlin 1996. S.91. 
 「そもそもバロックにおいては、世界全体、人間の生全体は劇ないし見せ物と見なされ、永続的現実性をもたない世界、究極的には非現実的で非在の虚構的仮象世界と見なされていた。」ヴィルヘルム・エムリッヒ『アレゴリーとしての文学』道旗泰三訳 平凡社 1993年 224頁。
 
 専修大学人文論集 第66号 2000年 165頁〜194頁