ウィーン/ベルリン二都物語
1990年代のドイツ演劇
寺尾 格
1 はじめに
 副題に掲げた<1990年代のドイツ演劇>という本稿の問題設定には、あまりにも近すぎる過去に対して視座を定めなければならないという困難がつきまとっている。なにしろ1990年代は終わったばかりなのだ。いまだ進行形とも思える現代ドイツの演劇状況に対して、 海の彼方の東アジアから望見するだけで、一体どれほど効果的なアプローチが可能と言えるのだろうか?
しかしながら近すぎる時間と遠すぎる空間との二重のハンディから来る私自身の視座への疑問は、位相を換えれば東西ドイツの統一とヨーロッパ統合という現代ドイツの抱える基本問題とも交錯する。私のハンディもドイツの状況も、どちらもがアイデンティティ/視座の二重性に関わるからである。そもそも<現代演劇>の問いそのものが、常にわれわれの/わたしの視座への問いの積み重ねではなかっただろうか? ナチズムを原罪とした戦後のドイツでは、自らのアイデンティティに関して、ほとんど宿命とも言えるような強烈な罪の自意識が閉塞的に醸成され続けてきたのであるから、いわゆる<学問的>で<客観的>な分析への強い疑いを表明せざるを得ないのが<ドイツ現代演劇>という対象へのアプローチとならざるをえない。
 とはいえ多彩なドイツ演劇の印象批評を連ねるだけでは何の説得力も持たない。論攷の基本的な方向性を<ウィーンとベルリン>というタイトルに託したいと思う。つまり1990年代の<ドイツ>演劇の問題性を、東西統一とヨーロッパ統合というナショナリティの根拠に関わる全体的なアイデンティティ問題と、高度資本主義における消費主体の空無化という個別的なアイデンティティ問題との交錯として見た場合、その共通する課題は、ベルリンとウィーンというふたつの異なった伝統を持つ都市空間における対照的な表現として、90年代の<ドイツ演劇>を見ることができるのではないだろうか。とりわけ1990年代のウィーンは、 ベルリンを中心とした<戦後ドイツ>演劇の視座を相対化する特異な生産性を示す劇的空間を作り出していたのではないだろうか。それが、大きすぎるテーマに対して本稿が示そうとする方向性なのである。
 
2 前提その一
 さて1990年代のドイツ演劇を大きく見ようとすれば、いくつもの変化レベルのどこに焦点を当てるかによって、その様相は大きく異なるであろう。第一に1989年のベルリンの壁崩壊とドイツ統一というドイツ戦後史最大の転換以前と以降との状況の変化がある。それが演劇世界ではどのように捉えられているのか、80年代と90年代との間に直接的な素材あるいは素材の提出の仕方に変化があるのか、90年代の新しい劇作家たちの特性とは何なのかである。
 第二に<戦後>演劇という視点に立った場合には射程がもう少し遠くなるだろう。ここでは1960年代後半の、いわゆる<68年世代>的批判意識の浸透と変質という問題が中心となる。 第二次世界大戦後のドイツ演劇は表面的なナチ批判を建前としていたにもかかわらず、ナチ時代の演劇を支えていた人間や制度との対決は表面的なものでしかなく、とりわけ劇場の運営や上演形態、作品解釈等の点では、戦後演劇は戦前との<宥和>の中で瓦礫からの復興を行ってきた。その傾向は繁栄の60年代になっても基本的な変化は無く、そのような実質的な無反省に対する批判的態度が60年代末の<学生反乱>と<Tendenzwende>と言われる状況を生み出し、<68年世代>を中心に<演出家演劇>と呼ばれる演劇を生み出すこととなった。彼らの批判意識は旧態依然たる演劇制度の現状に対するのみならず、古典作品の読み直しや批判的受容に基づく新しい演出と演劇製作というモデルを作り出し、それが70年代以降の演劇の基本パターンを作り出して行った1。   
いわゆる<68年世代>の批判的発想は、70年代と80年代を通じて、一方ではドイツの劇場の全体に広く浸透して行ったのだが、しかし他方では時とともに当初の批判のポテンシャルを失って、批判のための批判へと形骸化していったのではないかとの内在的な反省が、壁崩壊とともに、あるいは壁崩壊後の10年の経過を経て一層自覚的になってきたように思える。具体的には70年代に活躍した劇作家や演出家たちの90年代における変化という問題で、とりわけボート・シュトラウスやペーター・ハントケに、そのような問題の典型がうかがえよう。
 第三に更に一層広い視点に立てば、90年代の演劇を20世紀全体から振り返ることができる。<現代演劇>の<現代>とは、19世紀末以降の演劇運動と見るのがもっとも一般的な理解であろう。イプセン、チェーホフ、ストリンドベリらの19世紀末のリアリズム演劇を先駆として、表現主義、未来派、ロシア構成主義、ダダや超現実主義など、今世紀初めの様々なアヴァンギャルドの動きは、ナチズムや第二次大戦で中断するものの、戦後になって不条理演劇、ハプニング、パフォーマンス論へと継承された。図式的に言えば、戦前における美的モダンから戦後におけるポストモダンの流れということになる2。      
90年代のドイツ演劇を大きく把握しようとすれば、 そのような20世紀ヨーロッパ現代演劇の主要な傾向との重なりを無視することはできない。しかしドイツ統一というナショナリティの現実化がヨーロッパ統合と重なり合うドイツ演劇においては、高度資本主義社会における消費主体の希薄化という一般状況に解消しきれない<ドイツ>の独自性が問われうるようにも思える。失われたドイツ帝国の亡霊にとまどうドイツと、同様に失われたハプスブルクを憧憬するオーストリアとは、共にナチズムの悪夢という深層の自意識への対応における共通性と相違に、現代ドイツ演劇の課題と苦闘と説得力との試みを見るべきであろう。
 
3 前提その二
 第二の前提として、以下の基礎データを確認しておきたい。演劇誌テアター・ホイテが、主要な劇評家のアンケートによる毎シーズンのベスト作品を発表している。単純な得票数だけを絶対視するのは危険であり、一位なのか二位なのかに過剰な意味付けをするべきではないが、少なくともそれぞれのシーズンにどのような作品や演出が話題になったかを知るためには、きわめて便利な基礎資料である。例えば1988年/89年の劇作については37名の劇評家によって、以下のような結果が出ている。なお括弧内数字は票数である3
 
Botho Strauß: Die Zeit und das Zimmer (12) Berlin Schaubühne 
Volker Ludwig: Ab heute heißt du Sara (6) Berlin Gripstheater
Thomas Bernhard: Heldenplatz (5) Wien Burgtheater
Peter Turrini: Minderleister (3) Wien Akademietheater
Matthias Zschokke: Blut (2) Bonn Schauspiel
Botho Strau : Sieben T ren (2) Stockholm Stadttheater  
Botho Strau : Besucher (1) M nchen Kammerspiele
 
 ベルリンの壁の崩壊直前の1988年9月から1989年6月までのシーズンを、80年代のひとつの典型と見なしたいと思う。というのもこのシーズンは80年代最後という意味のみならず、ドイツ統一はまだ何年も先の課題と思われていた時期であり、東ドイツにおける民主化の動きが活発に展開し、統一の契機は潜在的には熟しきっていたにも関わらず、ほとんど誰もそれを現実の可能性として認識し得なかったシーズンだからである。ドイツ統一は、差し迫っているが故に意識の奥に一層強く抑圧されざるをえなかったわけで、その意味では80年代のみならず、戦後の全体を基底から覆いつつ、正面から見据えるのを拒否されつづけてきた統一という夢が、もっとも強く抑圧されていた時期とも言えるだろう。
壁崩壊後10年を経た現在から上記のアンケートを振り返ると、とりわけ以下の三つの作品が重要と思われる。まずボート・シュトラウスの『時と部屋』、次にトーマス・ベルンハルト『英雄広場』、そしてペーター・トゥリーニ『職無しのろくでなし』である。
 トーマス・ベルンハルトは1970年から劇作を始め、25年前の1974年にボート・シュトラウスと共にミュルハイマー劇作家賞を獲得した後、二人とも70年代と80年代を代表する劇作家となったのだが、ベルンハルトは18作目の『英雄広場』をウィーンで初演した翌年の1989年に死去する。ナチズムの過去を決着させないオーストリアの現状を告発するベルンハルトの<罵倒モノローグ劇>は、最後に響く<ハイル!>の歓呼の高まりによって<戦後>のヒットラー・トラウマを挽歌として集約し、 同時に壁崩壊後の社会意識(ユダヤ人排斥→外国人排斥)への不安な予兆の宣言ともなっている。ただしベルンハルトの劇作は、そのような政治批判をはるかに超えたダイナミックな表現特性を開拓しているだろう4
 1972年に最初の劇作を発表したボート・シュトラウスの10作目にあたる『時と部屋』は、タイトルそのものが時間と空間というカント以来の近代的認識の枠組みへの連想を掲げている。認識という枠組みそのものの危うさを具体化するために、シュトラウスは神経症的なリアルな会話にシュールな寓意のモノローグを重ね、それによって相互の認識というわれわれの関係性の根拠を無化しながら、現代の閉塞感を強調し続ける。すでに80年代の初頭に、アドルノの華麗な否定弁証法を一種の<逆ユートピア>として無効を宣言していた彼の<地震計>としての言葉は、ベルンハルトと同様のモノローグでありながら、ベルンハルト風の自虐的罵倒とは異なり、むしろ届かぬことを承知の寓意的つぶやきの方向性が強い。70年代から続いてきたシュトラウス的舞台形象のひとつのピークが『時と部屋』である。しかし90年代には、つぶやきは断片的な叫び、あるいは神秘的な唱導へと声を高めている5
 ペーター・トゥリーニも、ベルンハルトやシュトラウスとほぼ同時期の1971年に最初の劇作を初演している。『職無しのろくでなし』も『時と部屋』と同様、彼の10作目にあたるトゥリーニの代表作と言えよう。内容は鉄鋼労働者の失業を巡るリアルな社会告発劇であり、素材の重さという点で言えば、シュトラウス風の上層インテリによる社交会話的軽さに包まれた男女の喪失感の舞台とは、ちょうど対極に位置する作品だろう。その意味では60年代的な政治劇とも共通する内容なのだが、描き方は告発のスタイルにベルンハルト風のモノローグを取り入れ、現実と非現実の交錯に暴力とポルノとセンチメンタルとを溶け合わせている。作品全体からにじみ出る救いの無い閉塞感に、60年代の告発風政治劇とは異なった、ベルンハルトやシュトラウスと共通する時代意識が伺えるだろう。
以上の三人の劇作家は、いずれも1968年世代的な批判意識を背景としながら、戦後の経済的繁栄を謳歌するドイツ・オーストリアの抑圧を描き続ける。すなわち戦争責任 (ベルンハルト)、人間関係の希薄さ (シュトラウス)、 失業 (トゥリーニ)などを通して、戦後の経済的繁栄の裏に潜む人間不信を描き出そうとする。ただし告発の表現に自己相対化の視点が交じり合っていること、対話がモノローグへと閉塞する傾向が顕著なこと、内容の深刻さにもかかわらず言葉や舞台形象に皮肉な軽味のあることなどに、60年代のイデオロギー的な政治告発とは異なった劇的展開が見られる。
次に作品と共に1988年/89年の演出ベストも一瞥してみたい。括弧の数字は票数である。
 
Jürgen Flimm: Tschechow: Platonow (7) Hamburg Thalia Theater 
Luc Bondy: Botho Strauß: Die Zeit und das Zimmer (6) Berlin Schaubühne
Frank Patrick Steckel: Heiner Müller: Germania Tod in Berlin (4)
Bochum Schauspielhaus
Peter Stein: Tschechow: Kirschgarten (4) Berlin Schaub hne 
Klaus Michael Gruber: Labiche: Die Aff re Rue de Lourcine (4) Berlin Schaub hne
Peter Zadek: Shakespeare: Kaufmann von Venedig (2) Wien Burgtheater 
Nicolas Brieger: Kleist: K tchen von Heilbronn (2) Mannheim Nationaltheater
 
上記の演出家のリストからは以下の三点のみを指摘しておきたい。第一に演出家の世代が60代のツァデック以外はおおむね40代後半から50代前半であること。第二にチェーホフ、クライスト、シェイクスピアといった古典物と、ボート・シュトラウスやハイナー・ミュラーなどの同時代作品との並存。第三にベルリン・シャウビューネ劇場の中心的な活躍と同時に、ベルリンのみに限定されない多数の都市での多様な演劇活動である。
ヨーロッパにおけるドイツ演劇の特性とも言えるのが、豊富な公的援助によって維持されているドイツの劇場制度である。演劇は単なる娯楽ではなく、一種の知的制度として歴史的、社会的に認知されている。演劇とは大学やマスコミと同様、内部矛盾や欺瞞を抱え込みながらも、社会的な批判装置としての公的役割を担わされているというのが、ドイツ演劇人の自己意識であろう6
 
4 90年代のドイツ演劇 その1:継続と変容
 1988/89年と比較する意味で、その10年後にあたる1998年/99年のテアター・ホイテによるシーズン新作ベストを挙げる。39名の劇評家による結果である7
 
Theresia Walser: Kingkongs Töchter, (12) Zürich Neumarkt
Botho Strauß: Der Kuß des Vergessens, (9) Zürich Schauspielhaus
Elfriede Jelinek: er nicht als er。(3) Hamburg Schauspielhaus
Peter Handke: Die Fahrt im Einbaum (3)。Wien Burgtheater
 
テレージア・ヴァルザーによる『キングコングの娘たち』は、1967年生まれの彼女のデビュー作である。老人ホームの看護女性たちが、日常の生活の世話をしている老人たちを楽しげに、次々と殺害して行くグロテスクな内容は、90年代的と言うよりも、むしろ今後の流れの中に位置付けられるものであろう。壁崩壊後という視点では、それ以外の三人の方が重要と思われる。というのもシュトラウス、イェリネック、ハントケの三人ともが、90年代の全体を通じて精力的に劇作品を発表しつづけて来たからである。ここではまずシュトラウスとハントケの90年代を、80年代との比較という観点から簡単に概観してみたい。
 1966年から1970年代にかけて、一連の「純粋言語劇」の衝撃によって、劇的言語に対する全く新しい態度を印象付けたペーター・ハントケは、1970年代後半から1980年代には劇作がほとんど中断されていた。1982年の『村村を越えて』によって現実とポエジーとの積極的な宥和が志向された後、1990年代になって再び劇作が活発化した。1990年『問いの劇』、1992年『我らが互いを全く知らなかった時間』、1997年『不死のための準備』、1999年『丸木舟の進み』と、1990年代の四作品のいずれもがウィーン・ブルク劇場のアンサンブルによる初演である。これらの劇の具体的なスタイルはそれぞれ異なりながらも、四作品全体に共通するハントケ風とも言えるのは、簡潔な問いを幾つも積み重ねる表現方法で、典型的には『問いの劇』における問いと答えの巡礼劇だろうが、『我ら互いに全く知らなかった時間』のような台詞テクストを全く排除した舞台においても、日常の身振りが延々と繰り返される寓意性として、問いの姿勢は身振りによる問いの転換形として維持されている。
90年代に顕著なハントケの「問いの姿勢」の背後には、身近な世界を見つめること、あるいは身近な世界から問いを重ねるという態度がある8。一見するとナイーヴすぎるような危うさを持つハントケのこのような態度は、しかし操作されたマスメディア言語の世界に取り込まれている現実に抵抗するためには、 あえて<わたし>というナイーヴな視点を前面に押し出すことで、そこに現れるかすかな寓意性を可能性として見つめるしかないということであろうか。
70年代に提出されたポスト・モダン風の言語実験劇の数々と、80年代の自伝的語りの試みとを経て、90年代に<わたし>の問いにこだわるハントケの態度は、統一ドイツが欧州、 更には世界へと統合を強める一方の表現メディアに対抗するものであり、彼の抵抗は新たな「語り」の構成の試みとして理解されるべきであろう。例えば『不死のための準備』末尾で語られる<女語り部>の最後の台詞に、その点が明瞭に現れているように思える。
 
   女語り部:(登場)これでわたしたちの物語は終わりです。わたしはそれを前もって知りませんでした。語って行く経過の中で初めて、わたしにはっきりして来たのです。あるいはほんの幾分かだけですけど。(略) 今、世界の歩みは進んで行きません。何しろ、あまりに多くが閉じられ過ぎているからです。今、あまりに多くが開かれすぎているからです。どちらの場合のためにも、わたしはここで、わたしの物語による歩みで遠ざかり、あるいは近づくのです。そしてあなたたちだって、どうか更に物語を語りつづけてください。あるいは語ろうとしてください。そして、もしも物語を語る人を誰も見つけられなければ、切り株に向かって語ってください。あるいは高原を吹き渡る風に飛ばされるプラスチック袋に語ってください。ここで、いわゆる新しい掟として演じられ、漂わされたものは、穴だらけでこっけいなものですけど、わたしたちの現実を脅かしています。新しい現実は避けられません。それは必ず来ます。包み込むように、仮借なく、根こそぎに。別の時代が必ず来ます。別の時代が来なければならないのです。喜びなさい。恐れなさい。なんとつらいことでしょう。その掟は破壊的でしょう。恐ろしいでしょう。胸がつまるでしょう。あなたがたのつらさ、そしてとりわけ、あなたたちの子供たちのつらさ。あなたたちと子供たちに平和を。恐れから外に抜け出るためには、ここで起こったように、更に掟を演じつづける方が良いのです。わかりましたか? 理解しましたか? 明瞭ですか? しっかり叩き込みましたか?9
 
 ハントケの90年代の劇作が、寓意的な設定にもかかわらず、徹底した<わたし>の<問いかけ>を聞き手の内部に染み込ませるような言葉であるのに対して、ボート・シュトラウスの劇作品は、一見すると相変わらず個別の関係性に対する<わたし>の不安を描いているように見えながら、90年代に入ってからは、<わたしたち>に向けた終末論の寓意が目立ち始めている。80年代のところで触れたように、現代社会の人間関係の閉塞を<地震計>のように測深して表現しつづけるのは70年代から変わっていないシュトラウスであるけれども、 壁崩壊以降、ナショナルなレベルで統一と統合をひた走るドイツ/ヨーロッパのプロジェクトの進行につれて、個人レベルでの心理バランスがますます崩壊の速度を増しているところにシュトラウスの焦点は合わせられている。
シュトラウスが90年代に発表した劇作品は8本にもなるが、80年代と90年代との変化を明瞭に示すのが1991年の『合唱終曲』である。ここでシュトラウスは彼の従来のスタイルを発展させた合唱/コロスの表現によって、新しい劇的アンサンブルの可能性を試みている。すなわち15名の男女が記念写真を撮るべく客席に向かって4列に並び、「自由な動きは制限されている。ただ単語だけが集団の中に投げ出され、肝心の相手が話し掛けられたと感じるはずと望むだけしかない。誰が誰に属するのかは不明で、たとえわかっても、それがどの位の長さのつながりなのか判然としない。しばしば断片的な了解があるだけで、ちょうど夢の中で人が笑っているような具合である10。」
最初、脈絡の無い語りかけの断片で特徴付けられていたコロスは、「ひとつの顔、ひとつの頭、 ひとつの口、 ひとつの相貌」を求めて、いつまでも撮影を終えようとしない写真家に苛立ち、自分たちの<個性(In-di-vi-du-al-i-tät)>に固執して、「私たちはコロスだ」と斉唱しながら写真家をコロスに飲み込んでしまう。細かな検討の余裕も無いが、壁崩壊と統一、 統合と繁栄といった公の言説の背後に共通する闇の形象化にあたって、シュトラウスは個人を心理に矮小化せず、社会をイデオロギーに固定化せず、個と全体の重なりあう闇を闇のままで舞台に提示しようとする。そのための方法が、例えば『合唱終曲』におけるそれぞれのタイトルとして示されている。一幕の「見ることと見られること(Sehen und Gesehenwerden)」はピーター・ブルックの『何も無い空間』を引き合いに出すまでもなく、演劇の根源的な場の意識(演劇の空間性)であり、二幕の「過失の世界から(Aus der Welt des Versehens)」は予定調和的で計算可能な合理性の拒否(演劇の反分節性)であり、三幕の「今この時から(Von nun an)」は劇的現在(演劇の時間性)の宣言であろう。
噛み合わぬ対話を通じて現状の崩壊を微細に記録する<地震計>のようなシュトラウスの従来の表現方法は、微妙に、しかし決定的に重心を変化させて、届かぬ思いを相手にぶつけるのみならず、そもそも最初から相手は想定されず、最初から虚空に向かって言葉を響かせるような雰囲気が強くなる。それは<地震計>と言うよりも、むしろ地殻変動を定点観測することで迫り来る大地震を予知しているにもかかわらず、難解な専門用語の羅列のために誰からも耳を傾けられないユダヤの預言者のような悲壮感が漂う。それは、例えば1999年の『ロトの幻想』におけるロトの最後の言葉に現れている。
 
わたしは不毛の荒地の真中で堕罪の歴史/物語をひねりだそう。
年代記と指示と掟とを付け加えよう。
そして疑いの教説で書き終えるのだ。なぜなら、他の誰が子供たちに警告するだろうか、わたしが皆を欺いているということを。
   歴史/物語の正しい観念を呼び起こすのは、声高に語る者なのだ、そして巧みに語る者なのだ!
   見よ、全てのためらいは消えうせた!
   凝固した海の波の上にわたしは崇高に立つ。
   時の高みの上に、文字はそこから広がって行くだろう
   無限に輝く塩の上を・・・わたしには見える。ソドムは永遠だ。
   ソドムから自由なのは、人間たちにあっては、 ほんのわずかな瞬間でしかないのだ。
   そしてわたしはわたしが見るものを、この固い皮に絶え間なく刻みつづけるのだ11
 
もともとドラマトゥルクとして出発したシュトラウスは、演劇をより根源的に構築しようとの方法意識が非常に強いが、<悲劇の死>という現代演劇の状況に壁崩壊後の統合の状況を重ね合わせることで、それぞれの閉塞を破るために、原初的な暴力の統御装置としての<悲劇>を現代において再生する方途を探っているように思える。それが90年代のシュトラウスに特有のテンションの高さと悲壮感を生み出す源であろう12
 
5 1990年代のドイツ演劇 その2:特異な言語特性の試み
 80年代最後と90年代最後のシーズンベスト結果の比較のみでは、いささか恣意的にすぎる。そこでもう少し大きく、1980年/81年から1988年/89年までと、1989年/1990年から1989年/90年までと、それぞれ9年間ずつのリストを対照させ、複数回名前の挙がった劇作家名だけを多い順に並べてみよう。まず80年代はボート・シュトラウスの6回、ヘルベルト・アハテンブッシュの5回、トーマス・ベルンハルトの4回がベスト・スリーで、以下3回はハイナー・ミュラー、タンクレード・ドルストの二人、続いて2回がフランツ・クサファー・クレッツ、ジョージ・タボリ、クラウス・ポール、フリーデリケ・ロート、フォルカー・ブラウンとなる。
それに対して90年代のベスト・スリーは、ボート・シュトラウス5回、ペーター・ハントケ4回、エルフリーデ・イェリネック4回。3回はヘルベルト・アハテアンブッシュのみで、2回がタンクレード・ドルスト、トーマス・ヒュルリマン、ジョージ・タボリ、ゲオルク・ザイデル、ヴェルナー・シュヴァープ、アイナー・シュレーフとなる。
80年代と90年代の劇作家リストを比べると、どちらもボート・シュトラウスがそれぞれのトップの6回と5回で群を抜いていて、ドイツにおけるシュトラウスの人気ぶりがよくわかる。1944年生まれのシュトラウスと1942年生まれのハントケに対して、エルフリーデ・イェリネクは1946年生まれであるから、三人とも世代的にはほぼ重なるのだが、彼女の活躍は1979年の『ノラが夫から去って何が起こったか』以降であり、80年代に4本、 90年代に6本の初演と、むしろ90年代に本格的な活躍を示し、ハントケとシュトラウスと共に90年代を中心的に支えた劇作家と言える。初期のイェリネックが<ラディカル・フェミニズム>の路線を明瞭に示していたのに対して、90年代の彼女の舞台世界は、大衆的、 消費的、メディア的社会の抑圧に対する総体的な批判へと深まっている。とりわけテクスト・コラージュとの副題のついている1988年の『雲 故郷』以降、彼女の極端に反ドラマ的なテクスト表現による実験的な挑発は、際立った特徴を90年代のドイツ演劇に与えている13
ハントケやシュトラウスの作品の難解さは、テクストの方向性が寓意として提出されているにもかかわらず、その寓意の落ち着く最終目的を不明瞭にしか示さないところから生じている。いわば途上の迷いを迷いとしてそのまま言語化することから来るわかりにくさであって、個別の文脈そのものが全く不明であり続けることはない。個々の文脈全体の<意味>が方向を示されるだけで宙吊りになっている難解さなのであって、テクストとそれを語る役者/作者の土台そのものは確固としており、役者/作者による個々の台詞なり演出指示なりは明確に具体化されている。ただ個別の文脈を統合する<大きな>文脈が見えないのである。それに対してイェリネックの場合、 <大きな>文脈のみならず、<小さな>文脈すらしばしば見通しがたくなる。それでいてダダのように言語そのものの解体をねらっているわけでもない。テクストはテクストとしてのメッセージを拒否されているわけではないからである。
イェリネックのテクストはひとつの文脈に統合されること無く、様々な意味レベルが等しく絡み合わされている。その結果、文脈は個別に自己を主張するそれぞれのテクストレベルのイメージの中に埋没し、つながりを欠いた個々の言葉そのものが、いわば身体的存在感の多様性のままで現前する。すなわち言葉の意味は、身体的な響きとリズムに喚起されながら、微妙なニュアンスを失った裸の姿として暴力的に舞台上にさらされる。その結果、イェリネックのテクストでは、本来ならば幾重にも重なり覆われて示される言葉のイメージが、文脈上の統合の中心を欠いたままで、その多層性のみがむきだしにされ、その結果、不自然に人工的につなげられた膨大な量の言葉がバランスを失って洪水のようにあふれ出て来る。それがイェリネック風のモノローグ世界である14
ただしイェリネックのテクストを<モノローグ>と呼ぶのは、厳密に言えば正しくないだろう。それに対応する<ディアローグ>が彼女のテクストには存在しないのみならず、そもそもモノローグとして提示されるべき内面の統合が存在しないし、語り手の数すら一人、二人、あるいは多数のいずれであろうとも、しばしば全くどうでもよいからである。イェリネックのテクストは「演出家が選ぶためのサンプルにすぎない」し、舞台上の俳優も「並外れた言語機械」でしかない。彼女のエッセイのタイトルを借りれば、「意味はどうでも良い、 肉体に目的など無い。」からである15
イェリネックの反舞台的な饒舌が<言語機械>による人工言語の可能性を開こうとするのと同様、その特異な言語表現によって90年代を特徴付ける奇才の劇作家が、ヴェルナー・シュヴァープである。
1990年に『大統領夫人たち』を初演して以来、シュヴァープはそのエキセントリックな舞台形象に対する熱狂的な支持と、それを上回る強い反発を呼び起こすことによって、「90年代初めにおける最も論じられた、最も重要な発見」あるいは「90年代前半で最も成功した若き劇作家」と呼ばれる16。 短期間に次々と劇作を発表しているさなかの1993年の大晦日に35歳で急死したが、彼の18本に及ぶ劇作品の過半は死後に次々と初演されている。 特筆するべきは<シュヴァープ語(Schwabisch)>とも呼ばれる彼の特異な言語表現である。そこでは<憎しみ、暴力、倒錯した欲望>という小市民世界の醜悪さが、<グロテスクにゆがめられた言葉>による異様なほどの<肉体>へのこだわりを通して描かれる。シュヴァープの憎悪は、シュトラウスやベルンハルトのように豊かな上流社会で交わされる神経症的な会話や退廃的自己憎悪によるものではなく、むしろ物質的・精神的貧困の汚泥の中で、のたうちまわりながら互いの醜悪さを投げつけ合うような憎悪の自己増殖として描かれる。またイェリネックのような饒舌との相違は、第一にメタ・テクストのレベルでの主張を完全に拒否していること、第二に悪夢のように<狂った形容詞>と用語法による全く独自な言語世界の構築にある。
例えば四つの<ウンコ劇連作(Fäkaliendramen)>の中で、<ラディカル・コメディ>と銘打たれた『民衆の根絶あるいはわたしの肝臓は役立たず』では、父親が年頃の自分の娘を膝に乗せ、娘の大きな胸を指で探りながら次のように語る。
 
コヴァチック氏:まあ、ちょっとわしの父親性の上に来て、おまえの娘的身体の人間を見つめさせておくれ。 (Komm einmal auf meine Väterlichkeit und lasse deinen Tochterkörpermenschen anschauen.)
   ビアンカ:(笑って) お父さんが見つめるってのは、 目を持つことの出来ない指で、 こんな風にやるのね。  (Da schaust du aber mit den Fingern, die ja keine Augen haben können.)
   コヴァチック氏:こんなにいやらしい豚おっぱいで、 お前は男たちをまさしく次々と甘い墓場に連れて行くんだ。(Mit so einem geilen Schweinebusen bringst du die Männer ja richtig reihenweise in ein süßes Grab hinein.)17
 
 自分の「娘的身体の人間」の「豚のおっぱい」をまさぐる「父親性」の指を、娘は関係代名詞による不自然な丁寧さで受け入れる。上述の例だけでは不十分だが、シュヴァープの舞台を一言で示せば<猥褻と排泄>というフレーズに尽きる。<猥褻と排泄>による嫌悪と憎悪の<どん底>で繰り広げられる独特の<シュヴァープ語>世界には、イェリネックの言う<言語機械>と、ちょうど相反するような生々しい言葉の肉体感覚がある。一見抽象的で不自然な用語法と統語法による<猥褻と排泄>の<シュヴァープ語>の重要性は、そこにこそあるだろう。言葉の概念性が暴力的に地上の汚濁に引き摺り下ろされるような感覚とも言える。
シュヴァープの肉体言語にせよ、イェリネックの言語機械にせよ、共に「人々は語るのではなくて、語られるのだ(daß die Leute nicht sprechen, sondern gesprochen werden.)」18 というポストモダン的な認識では共通する。ただ、そのようなシステムとしての言語に対する認識それ自体は、例えば60年代末から70年代初めのハントケの<純粋言語劇>の試みの中で、すでに先駆的に扱われていた。しかしハントケでは、言語という社会的網の目に捕らえられているといった受動的側面が強調されていたのに対して、90年代のイェリネックやシュヴァープの場合、むしろ逆に既成の網の目それ自体を意図的に反転させるために、言語の被構成性を機械なり肉体なりへ能動的に転轍しようとの方向性が見て取れるのではないだろうか。その点ではイェリネックの言葉遊びのような地口やコラージュによる暴力的なモノローグと、シュヴァープの<猥褻と排泄>による肉体憎悪言語と、アプローチは異なりながらも、それぞれの特異な言語空間が示す独特な暴力性は、均質と抑圧の高度化に対する90年代的な抵抗の試みと見なせるだろう。
 
6 ウィーンとベルリン
 劇作の実践的な具体化である演出レベルで1990年代を見ると、作品レベルとは異なった様相が現れる。劇作と同様にテアター・ホイテのアンケートによるベスト演出家を挙げてみると、80年代は最多がルク・ボンディの6回、ペーター・シュタイン5回、ペーター・ツァデック4回がベスト・スリーで、続いて3回がクラウス・パイマン、ジョージ・タボリ、 クラウス・ミヒャエル・グルーバー、ロバート・ウィルソン、ユルゲン・ゴッシュで、2回がピーター・ブルック、トーマス・ラングホフ、ユルゲン・フリムである。
それに比べて90年代はだいぶ様変わりで、クリストフ・マルターラーが8回と群を抜き、フランク・カストルフとトーマス・ラングホフが5回で目立つ。あとは3回がルク・ボンディ、ジョージ・タボリ、アンドレア・ブレート、2回がペーター・ツァデック、 ユルゲン・フリム、アイナー・シュレーフ、ヨハン・クレスニクなどの名前が挙がる。
80年代の演出活動の場ではシュタインがベルリンだが、ボンディもツァデックも、むしろベルリン以外で多彩に活躍している。それに対する90年代は圧倒的にベルリンであり、 そこにボンディやタボリのウィーンが絡む。
もう少し大きく見ると、テアター・ホイテの年報1999年の巻頭で80歳近いギュンター・リューレが、この百年の演劇を概観して、その最後に戦後演劇の過去の焦点として次の五つを挙げている19。 まずピスカートアのフライエ・フォルクスビューネ、バーログのシラー劇場、ペーター・シュタインのシャウビューネ、ブレヒトのベルリーナー・アンサンブル、そしてクラウス・パイマンである。
 パイマン以外は、いずれもベルリンでの活躍であり、それぞれの総監督の期間を古い順に並べると、ピスカートアが戦前の1924年から1927年までと戦後は1962年から1966年まで、ブレヒトが1947年から1956年まで、バーログが1951年から1972年まで、シュタインが1970年から1992年までと並ぶ。クラウス・パイマンはすでに60年代にベルリン等で活動していたものの、本領は1974年から1979年のシュツッツガルト以降で、1979年から1986年までがボーフム、そして1986年から1999年までがウィーン・ブルク劇場である。
 ギュンター・リューレの指摘に沿えば、戦後50年の枠組みとの関連で1990年代の演劇活動を劇場という視点で見た場合には、直前の1970年代と1980年代がベルリン・シャウビューネのペーター・シュタインに、1990年代はウィーン・ブルク劇場のクラウス・パイマンにスポットがあたるということになる。これを傍証するのが、これまでに挙げて来たオーストリアの劇作家たちである。90年代におけるハントケ、トゥリーニ、イェリネック、シュヴァープたちの活躍ぶりは、80年代のベルンハルトを含めて、パイマンによるウィーン・ブルク劇場の存在無しには考えられない。それは70年代からのボート・シュトラウスの活躍が、シュタインとベルリン・シャウビューネ劇場無しにはありえなかったのと同様である。
しかし90年代のブルク劇場の重要性は、先述のハントケ、トゥリーニ、イェリネック、 シュヴァープという劇作家レベルで顕著であるのに対して、演劇が時代と一層直接的感覚的に切り結ぶパフォーマンスとしての演出レベルで見れば、マルターラー、カストルフ、シュレーフ、ラングホフという具合に、圧倒的にベルリンが前面に出て来る20
90年代のウィーンとベルリンとの劇作と演出における、このような対照的なあり方は、 それぞれの都市の置かれている状況の相違の演劇的表現と理解できるだろう。つまり二重の統合(東西統一とヨーロッパ統合)という激しい変容の渦中にあるベルリンが、劇作という言語的対象化に必要な距離を未だ充分に展開しきれていないのに対して、演出においてはベルリンの特異な歴史的現場性の故に、強い危機意識を持った広範な観客層が新しい状況に即応した具体的な舞台表現を強固に支えている。その意味で、わざわざ「東(Ost)」というネオンを夜空に輝かせ続けているベルリン・フォルクスビューネの活躍の目立つのは、90年代ベルリン演劇にとって実に象徴的なのである。
他方、ハプスブルク王朝と世紀末の雰囲気をたゆたわせている古都ウィーンでは、自らのアイデンティティに対する自意識が自ずと回顧的に醸成され、パイマンやベルンハルトをめぐるスキャンダルに明瞭に現れたような保守的な伝統が、演出の斬新さに対する感度を鈍らせている。しかしその鈍さこそが、逆にパイマン風の70年代的挑発に対する理想的な土壌を提供していたことにもなっていた。90年代におけるオーストリアの劇作家たちの豊富な生産性は、それをブルク劇場の舞台で上演させ続けたパイマンと、それによるウィーン演劇全体の活性化無しには、おそらく充分に理解することが出来ないだろう21。たとえ、そのような挑発と啓蒙の努力が、オーストリアにおける右翼的勢力の進出を結局は阻止することができなかったとしても、彼らの批判意識は、ベルリンとは異なった視点から戦後ドイツの闇に光をあてる作業であったし、何よりも言語に対する彼らの一種独特な浮遊感覚とも言える有り様からは、ドイツと異なったオーストリア的な言語意識が共通に見えてくるようにも思えるのである。

1
ツァデック、シュタイン、パイマンらによる変化のラディカルな急激さについては、
 Don Rubin (Edit.): The World Encyclopedia of Contemporary Theater. Volume 1. Europe.
 Routledge (London) 1994. P.364ff.
2 Vgl. 山本尤:モデルネとポスト・モデルネ ? 八十年代のドイツ文学(ある研究会での報告) (『近代とドイツ精神』未知谷 2000 ) 82頁〜113頁。 Zima, Peter V.: Moderne/Postmoderne. Tübingen und Basel(Francke) 1997, Vorwort. S.XIff.
3  THEATER 1989. Jahrbuch der Zeitschrift Theater heute. S.57ff.
4 越川ヒサ子:トーマス・ベルンハルトとファシズム −『ヘルデンプラッツ』は政治的作品といえるか (『ドイツ演劇・文学の万華鏡』 同学社 1997)141頁〜158頁。初見基:<犬のように>トーマス・ベルンハルトの小説作法の一断面 (『陽気な黙示録』中央大学人文科学研究叢書11 1994) 483頁以下。 恒川隆男他:文学に現れた現代ドイツ (三修社 1997) 156〜157頁。
 
5 「荘重で大仰に足を踏み鳴らすやうな調子が声高に騒々しすぎるほどになっている。」
Hugo Dittberner: Die Inthronisation der Väterwelt. Zu Botho Strauß und Peter Handke.
In: Text + Kritik 81. Botho Strauß. 1998, S.5.
6 丸本隆: 全能の総監督と民主コントロール? −制度的側面から見たドイツ演劇
(『ドイツ文学』第103号, 1999 111頁〜121頁)
7  THEATER 1999. Jahrbuch der Zeitschrift Theater heute. S.144ff.
8  「問い」の姿勢を「共通の存在形態」として分析しているのが、狩野智洋:見ることを訓練する劇 (『ドイツ文学』第103号, 1999, 79頁〜89頁)。
9 Handke, Peter: Zurüstungen für die Unsterblichkeit. Ein Königsdrama. (Suhrkamp) 1997, S.133f.
1010 Strauß, Botho : Schlußchor (Hanser) 1991, S.9.
11 Strauß, Botho: Lotphantasie. In: Theaterstücke. Bd.III. (Hanser) 1999, S.372.
この語りを、例えば1984年の『公園』最後の息子の語りと比較すれば、 調子の相違がよくわかるだろう。『公園』での半分眠ったような娘への息子の語りかけが、 相手の理解に対する心理的な不信のつぶやきで終わるのに対して、 ロトの語りは歴史と物語の始原に関する声高な宣言である。また, それに続く娘のアッビアによる抑揚の練習のような台詞も、ハントケの純粋言語劇における<言語獲得>の過程を連想させる。
12  メディアによる悲劇の平板化については以下を参照。藤井啓司:メディアとしての身体 − ボート・シュトラウス覚書(『文学表現とメディア』平成9年度文部省科学研究費補助金研究成果報告書)237頁以下。 及び拙稿:ボート・シュトラウス『イタカ』におけるホメロス改作 (『ドイツ演劇・文学の万華鏡』同学社 1997)345頁以下。
13 三輪玲子:エルフリーデ・イェリネックのテクスト・コラージュ(『ドイツ文学』第103号 1999)90頁~99頁。
14 拙稿:コロスとモノローグ − エルフリーデ・イェリネック『スポーツだんぺん劇』のブルク劇場初演をめぐって(『専修人文論集』第64号 1999 )33頁以下参照。
15 Elfriede Jelinek: Sinn egal. Körper zwecklos. In: Stecken Stab und Stangl/Rastst tte oder sie machens alle/Wolken. Heim. Neue Theaterst cke (Rowohlt) 1997, S.7.
16 Rudolf Radler(Hrsg.): Knaurs grosser Schauspielf hrer. 1994. (M nchen) S.572.
17 Werner Schwab: Volksvernichtung oder meine Leber ist sinnlos. In: F kaliendramen.
(Droschl) 1991, S.150.
18 Stephan Zimmermann: Werner Schwab. In: Kritische Lexikon zur deutschsprachigen
Gegenwartsliteratur. S.2.
19 G nther R hle: Blick zur ck nach vorn  eine Bilanz. In: Jahrbuch der Zeitschrift Theater heute. 1999, S.26ff.
20 西村龍一: 変貌する演出家演劇 (『ドイツ文学』第103号 1999 12頁~22頁)
21 拙稿: クラウス・パイマンとブルク劇場(専修大学人文科学研究所月報 第142号1991)。同: 演劇する都市ウィーンあるいはブルク劇場 春の巻 (専修大学人文科学研究所月報第190号 1999) .