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(創刊2001/09/01)

 

       『アルゴノート@21』9月・10月合併号

         発行所:Argonaute@21e arrondissement

 

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◆◇   2002年夏、東京のドイツ演劇:            ◇◆

◆◇ファスビンダー、ペーター・シュタインそしてクラウス・パイマン ◇◆

 

                               寺尾 格

 

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 東京の夏は暑い。亜熱帯の太陽にさらされたコンクリートが、ひしめきあっ

た人と車を容赦なく上下左右から炙り出すかと思えば、建物や電車の中では鳥

肌の立つように過剰な空調が支配している。オーブンの熱気と不健康な冷房と

に交互にさらされる度に、身体のメタボライザーは極端から極端へと、殆ど限

界値にまで機能を高め続けた結果、やがて閾値を越えてダウン寸前になり、そ

こで人々は慌ただしく海へ、山へと避難を開始し始める。打ち寄せる波、葉擦

れのささやき、鳥のさえずり・・・自然の中の単調なリズムに身を浸している

と、秒針に追われる日々の生活とは別の、自分を越えた悠久の時間と空間とを

思い出す。

そんな折りに、たぶん人は星を見上げるのだろう。暗闇に包まれた、かすか

な星の光に目を向けるなんて、ずいぶん久しぶりじゃあないか・・・何しろ都

会には、そもそも夜が無いのだもの・・・。

 ところで単純なエコロジストの楽天的な自然回帰賛美にもかかわらず、闇の

恐ろしさは我々のDNAに刷り込まれているのかもしれない。ロマンチックにま

たたく星も、例えば女性週刊誌の後ろのページに必ず現れる「星占い」のよう

に、一見無害な娯楽のそぶりの向こう側に、実はおどろおどろしい闇をかいま

見せている。すなわち「あなたの未来は生まれながらに既に決定されているの

だ!」このような「星座」の運命決定論は、個々の細部の説明の詐欺めいたウ

サンクササの故に、闇=死という人間の不可避な本質を幻惑的に指し示してい

るだろう。

 しかし「星座」は、もともと「闇の中に瞬く光」の位置関係の意味づけであ

る。それを時間軸に絡めたのが「占星術=ホロスコープ」であるとするならば、

空間軸でのそれ自体の意味づけに改めて目を向けたのが、ベンヤミンの言う 

「コンステラチオーン」で、通常「星位」と訳される。簡単に言えば、例えば

三つの星がオリオンのベルトのように一列に並ぶのと、カシオペアのようにジ

グザグに三角をなすのとでは、それぞれの「意味」が違うだろうということで、

ポイントは二つある。第一に、個々の星を望遠鏡で覗いてばかりいては見えて

来ないという点と、第二に、別の連関から見れば異なった星座が立ち現れるだ

ろうということである。いずれにしても、全天を見晴るかすような位置取りと、

自分の視点自体を意識するフィードバックとが不可欠となる。

 柄にもなくベンヤミンなどを引合いに出して長々と引っ張ったのは、夏の終

わりの日本に、特異なコンステラチオーンが現われたからである。星は三つあ

る。第一に8月26日からお茶の水のアテネ・フランセで上映された、ファスビ

ンダー監督の15時間にわたるテレビ・ドラマのシリーズ『ベルリン・アレク

サンダー広場』。第二は9月10日から渋谷のシアターコクーンで上演されたク

ラウス・パイマン演出による、シェイクスピア『リチャード2世』のベルリー

ナー・アンサンブルによる公演。第三が9月7日から新国立劇場で、ペーター・

シュタイン演出によるシェイクスピア『ハムレット』で、これはロシア人俳優

によるプロデュース公演となる。ドイツ現代演劇の三者そろい踏みである。

 十日あまりの短期間に、次々と三つものドイツ演劇人が並んだ事実を過剰に

意味づけるべきではないかもしれない。単なる偶然なのであり、例えばチェー

ホフやシェイクスピアの公演の幾つかが重なる事など、別に珍しくもないでは

ないか。しかし「ドイツ現代演劇」がほとんど存在しないが如くの日本の演劇

状況にあって、三つの星が偶然に瞬く「星位」は、なかなかに興味深い問題を

提示しているように思える。それは、それぞれの上映や上演に際して、それな

りの思い入れによる解説やコメント、細やかな感想や分析からは抜け落ちてし

まう問題だろう。第一に、戦後のドイツ演劇において三者それぞれが共通に持

っていた背景を浮かび上がらせる「星位」、すなわち1970年代以降のドイツ現

代演劇の状況であり、第二に、三人が現在の日本に現われることで浮き彫りに

する「星位」、つまり日本とドイツとの演劇状況の差ということである。

 まずファスビンダーである。いわゆるニュー・ジャーマン・シネマの最先頭

に立って活躍した映画監督の映像表現の特徴や、原作者デープリンによる表現

主義的都市小説云々などについては、例えば渋谷哲也(上映パンフレット解 

説)や初見基(9月13日の週刊読書人)が、すでに短いながら説得的に触れて

いる。あるいはファスビンダーが37歳でスキャンダラスな急死をした直後の 

1983年に、日本語による初のファスビンダー論(ヴォルフガング・リマー『R

・W・ファスビンダー』丸山匠訳 発行・欧日協会)が出版されていて(実は

大学院生時代に、その下訳をやらせてもらったという個人的な因縁があるのだ

が、まあ、そんなことはどうでも良い。)、その巻頭で、映画評論家の佐藤忠

夫がファスビンダー映画の的確な批評をしている。

 ドイツでも映画監督として有名になったファスビンダーの出自は現代演劇で

あり、最初の劇作上演が1968年で、その直後から映画製作も始めている。その

1970年代を通じて信じがたい多産な活動を示したのだが、しばしば「メロド

ラマ」をも取り込んだ映画とは異なり、劇作は徹底した挑発の問題提起に満ち

満ちている。典型が1975年に書かれた『ゴミ、都市そして死』で、主人公の売

春婦をめぐる底辺層の芥溜めのような描写と、何よりも金持ちのユダヤ人の扱

いの酷薄さの故に、フランクフルトでの初演に際して「反ユダヤ主義」とのレ

ッテルを貼られて、結局は上演中止に追い込まれたほどであった。スキャンダ

ルを起こしたのは、例えば次のような台詞。

 

  ユダヤの誰を殺したかなんて、一人一人、いちいち気にするもんか。

  私は個人主義者ではないのだ。わたしは技術者なのだ。奴の親を殺し

  たってのは、ありそうなことだが、そうだとしても、それはそれで結

  構なことだ。故に我ありということだ。

 

 この作品の上演拒否騒動に関しては、例えばハイナー・ミュラーも次のよう

に述べている。

いる。

 

  この作品には反ユダヤ主義もあるのだが、それは別にこの作品の中に

  限ったことではなくて、例えば、フランクフルトの町の至る所でも見

  られることなのだ。

 

 要するに作品の挑発的な問題意識は、そのような言動が挑発となってしまう

ような状況を浮き彫りにするための美的な表現効果を求めた結果であり、演劇

の政治性とは単純に青臭い進歩的な論議を取り交わすことではなくて、むしろ、

より深いところでの状況認識のきっかけを作り出すところにある。彼の映画の、

時に過剰なまでのメロドラマ風の扱いもまた、同様な美的な政治意識に由来し

ているだろう。

 このような演劇表現の背後には、ナチズムと東西冷戦の絡まり合う錯綜した

ドイツの戦後状況があるのだが、純演劇的には、ドイツ「民衆劇」の伝統とブ

レヒト、さらには1968年世代における「学生反乱」の社会的雰囲気を押さえて

おかなければならない。

 「民衆劇」やブレヒトについてはあえて触れないが、ファスビンダーの現れた

1960年代末とは、戦後のドイツ演劇や演出のあり方に対する新しい演劇活動や

新しい劇作家が輩出した時期である。「学生反乱」と呼応した形で戦後ドイツの

社会状況の欺瞞をあぶりだしつつ、非常に優れた舞台表現によって、演劇はしば

しば政治的スキャンダルを巻き起こしつつ、挑発という社会的な機能を十二分に

発揮していた。そのような演劇活動の中心のひとつがベルリンのシャウビューネ

劇場であり、そこの「伝説的演出家」がペーター・シュタインであった。また、

劇場の立ち上げに関与しながら、その後、シュツッツガルト、ボーフム、ウィ

ーン、ベルリーナー・アンサンブルと、次々に芸術監督を歴任しているのが 

「騒動屋」クラウス・パイマンなのである。

 シュタインとパイマンの両者が、日本公演でともにシェイクスピアを取り上

げたのは、おそらく興行的な思惑もあったのであろうか。とはいえ、シェイク

スピア作品はドイツの劇場の定番お決まり不可欠レパートリーであって、演出

家やアンサンブルの力量が一目瞭然となるので、嫌でも様々な工夫に意を尽く

さざるを得ない。演出の相違を見る良い機会となった。

 シュタインの『ハムレット』は、皆目理解できないロシア語の台詞が、ほと

んど気にならないほどに徹底した「見せる」演出で、本人の言う「職人仕事」

の水準の高さは、リングを取り巻くような観客席という舞台設定や、劇中劇の

扱いなどの空間処理の軽やかなリズム感覚にも明瞭に現われていた。これをど

のように思うかが、評価の分かれ目だろう。つまり徹底してテクストにこだわ

るシュタイン演出のリアリズム処理が産み出す、恐ろしく完成度の高い舞台を

評価しつつも、しかし、そのような完成度を支えたはずの、かつての70年代に

アクチュアルな刺激を産み出した挑発という毒を欠いているとも見える。あえ

て悪口に徹すれば、「良くできた西洋歌舞伎」といった印象が禁じ得なかった。

事実、ドイツ本国における統一以後の演劇状況の中では、「演出家演劇の博物館

化」とか、「シュタイン以後」とかが声高に語られてもいる。シュタインは「ド

イツの」演出家から離れて、すでに「世界」に羽ばたいてしまったのだと、そん

な皮肉な思いにも駆られるほどであった。

 というのもパイマン演出の『リチャード2世』の方が、シュタインとは対照

的なほどに、往年のテクスト解釈の冴えを見せたからである。「往年の」とい

うところがミソで、シュタインと同様、この点に評価の軽重が現われるだろう。

シュタイン・ハムレットが父子のラインを基礎にした解釈を示しながら、舞台

をそこに収斂させることなく、むしろ「解釈」を音楽や競技試合の「パフォー

マンス」に溶け込ませて「見せて」いたのに対して、パイマン演出の前半は、

トーマス・ブラッシュ訳の簡潔なドイツ語を美しく響かせる以外には実に坦々

と進み、演出のポイントは、ひたすら後半の「没落」とその結果を際だたせる

ことに焦点を当てていた。特筆するべきは後半早々に現われる泥の処理で、日

本の新聞等の劇評では、退位したリチャードに泥つぶてが投げつけられる場面

ばかりが注目されていたが、むしろ最終場面に演出の冴えを見るべきと思われ

る。

 最終場面。簒奪者ボリングブルックが、壁に書かれた「リチャード万歳」と

の落書きを消そうとアクセクしている。しかし一生懸命に水をかけて、こすれ

ばこするほど、壁はますます泥で汚れて行く。幕が開いた時には白一色であっ

た舞台は、今や、至る所、足の踏み場もないほどの泥濘の汚物に覆われて、そ

の中で新しい王は、まさに途方に暮れて佇むばかりとなる。これ以後、イギリ

スでは陰惨な内乱状況の歴史ドラマが幕を開けるわけで、権力を握り、権力の

座に座るとは一体どういうことなのか。そのことをパイマン演出は、「汚物にま

みれることだ!」と明瞭に言い放っている。そこには、「自分は1968年世代の

子供だ!」と堂々と公言するパイマンの、70年代的な政治意識が美的に凝縮し

ているとも言えるだろう。

 既に紙数も尽きたので、大急ぎでまとめる。1970年代に「演出家演劇」で活

性化したドイツ演劇は、その後の統一の激動を経て、1990年代に入ってからは、

また新たな展開を示している。合い言葉は既に述べた「シュタイン以後」で、

これは要するに1968年世代をどのように乗り越えるかという一言に尽きる。幸

い、この秋に現代演劇の名著の翻訳が出たので、それを紹介することで今後の

展望に代えたい。ピーター・ブルック『何もない空間』以来の、現代演劇に関

する20年に一度の名著の翻訳である。どうか、お読みあれ。

  ハンス・ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』谷川道子他訳

 発行:同学社 3500円