ドイツ演劇 2001年

シュレーフとブラッシュの死に続く日常のサバイバル

                            寺尾 格

 2001年は、911日のニューヨーク・テロ事件で記憶される年になることはおそらく確実だろうが、奇しくもその前後に、同じような経歴で、共に東ドイツと深く関わった二人の演劇人が亡くなっている。

 まず演出家・劇作家のアイナー・シュレーフの突然死が721日であった。新聞等に発表されたのは何日も後であり、病院での心臓発作とのことだが、直後のザルツブルク演劇祭において、シュレーフの夕べ『ニーチェ・この人を見よ・シュレーフ』が予告されていたのであるから、持病に過労が重なったのは明らかであろう。シュレーフは1944年に東ドイツで生まれ、ベルリーナー・アンサンブルで頭角を現わし、かのビーアマン追放事件の1976年に西ドイツに移った後、とりわけ90年代以降に活躍が著しい。彼の演出は、時に「ファシスト的」とも言われるほど、集団のアンサンブルにこだわった特異な身体提示を特徴とする。また、自らの言語障害を逆手に取ったようなテクストの組み替えは、1970年代の「演出家演劇」のテクスト解釈中心主義に真っ向から挑戦状を叩きつけるような斬新なものであっただけに、彼の死は、昨年のドイツ演劇界最大のニュースであると共に、非常に惜しまれるものでもあった。

 7月のシュレーフの死に続いて、113日に劇作家トーマス・ブラッシュが亡くなっている。シュレーフとほぼ同時期の1945年に東ドイツで生まれ、国家反逆罪で投獄されたりした後に、1976年に西ドイツに移るのもシュレーフと重なる。ドイツの歴史を崩壊感と共に見つめるような彼の劇作は、自らのユダヤ的出自と、父親が東ドイツ文化大臣であったことなどから来る体制批判という二重の屈折から作り出されており、ビュヒナーからブレヒト、ハイナー・ミュラーへと直接つながる性質の劇作と言えるものだろう。

 上述の二名に、1991年から続けていたベルリン・ドイツ劇場の総監督を辞めたトーマス・ラングホフの名前を付け加えれば、東ドイツそのものの消滅からすでに10年以上が過ぎ、「体制」の意味内容が変わりつつあることが実感できる。新たな21世紀に、我々は過去の「記憶」とどのように関わるべきなのだろうか。「東ドイツ」を前提とした劇作家や演出家たちの名前は、同時多発テロの示す現在の対立の新しさを印象付けると共に、それにもかかわらず相変わらずの人間の愚かさを想起させる契機ともなるだろう。というのも、昨年話題となった劇作品の全体的な印象は、いずれもひどく日常にこだわった形での舞台形象を作り出しているからで、個人的な「記憶」が歴史と「対峙」して絡み合うといった、従来のドイツの現代演劇の特徴が、必ずしも明確でなくなっているようなのである。

 6月までの作シーズンにおける演劇批評家41名の投票によるベスト戯曲(9票)に選ばれたモーリッツ・リンケ『ヴィネータ共和国』が典型で、バルト海上の伝説の島にテーマ・パークをつくるべく、その基本プロジェクトを相談する5名の男たちの挫折の物語ということになる。「没落した夢の数々」という企画テーマが傑作で、ロシアからレーニン像を運び、パリの博物館のギロチンに秋波を送る。一種の反ポストモダンのユートピアを目指しつつ、それが同時に壮大なマーケットの開発でもある。ビジネスライクなはずの企画会議は、夢見がちな饒舌や突発的な事件に中断され、妨害され、ひたすら錯綜して行く手法は随所で笑いを産み出す。混乱の果てに、どうやら全体が心理療法らしいことが明らかになるのだが、そのようなシミュレーションはカタルシスを産まず、逆に深刻な殺人と自殺が、ひたすら憂鬱な終わりとなってしまう。

 ローラント・シンメルプフェニッヒ『アラビアの夜』が6票で二位。勘違いによる嫉妬の殺人という単純な筋に、覗き=観察による夢と現実の交錯する非常に凝った構成と語りでまとめあげている。特筆するべきは一種の内的モノローグ風の語り口で、それぞれの人物の夢や思いのみならず、目にする光景や個々の行動すらもがわざわざ言葉にされて、いわば必要以上に詳細なト書きが、全てそのまま台詞となって語られて、しかもそれが断片的に同時進行で幾つも重ねられるという舞台なのだ。現実にはあり得ない語り方が、ひどく映画的なショットを思わせて、サスペンスの雰囲気を盛り上げもする。従って現実的な描写が、同時に千夜一夜的な荒唐無稽さとも絡みあって、奇妙な酩酊感を誘うのである。

 同じく6票の同数二位が、ベテランのボート・シュトラウスによる『道化とその妻 今夜は汎喜劇』。この作品は、ペーター・シュタイン(2002年9月に新国立劇場で『ハムレット』演出が予定されている)が、『ファウスト』21時間全幕上演の俳優たちの練習のためにシュトラウスに依頼したもので、題名からも内容からも、一種のバロック風世界劇場」ということになろうか。ただし舞台は宮廷ならぬホテル・コンフィデンスのロビーで、主筋は、第一作が評判になったばかりの若い女性作家と、彼女の第二作を出版しようと奔走する小さな出版社の編集長の物語なのだが、そこに脇筋として、二人に関わる人々やホテルの従業員、客たちなど、100名近くの様々な人物たちが次々に現われて、おなじみとなっているシュトラウス風の凝ったすれ違いの会話の数々が、主筋に華麗に、あるいは過剰にまつわりついて、知的な社会パノラマ劇を展開している。『ふくれあがる山羊の歌』や『イタカ』のような挑発は影を潜め、『再会の三部作』のような、現代社会の皮肉なカレイドスコープである。

 2票のイゴール・バウアジーマ『ノルウェイ、今日』は、インターネットのチャット・ルームで知り合った自殺願望のハイティーンの男女が、ノルウェイのフィヨルドに出かけて投身自殺を試みる。世界は一切がフェイクだとして、舌足らずに自殺の決意を前提に語り合うふたりの前に、全天を覆うオーロラが現われ、それがきっかけとなって、最後は二人で手を取りあってフィヨルドを去る。このように書いてしまうと、単なるセンチメンタル劇でしかないが、若者感覚のデジタル風対話の見事な疾走感と、互いを撮し合うビデオ画像をめぐる対話などからも、演劇の虚構性を言語化しようとの作者の意図は伝わる。

 実はルネ・ポレシュ『ワールド・ワイド・ウェッブ スラム』が4票で三位で、ミュルハイム劇作家賞も受けた作品なのだが、ポレシュは演劇のテクスト性、文学性の類を徹底して否定するパフォーマーで、自分の作品を印刷することすらしぶる有様なので、「グロテスクでヒステリックなポレシュ・テクストによるポスト・ドラマ」と言われる彼の舞台も、残念ながら今ひとつ明確でなく、名前を挙げるにとどめる。         

 作シーズンのベスト劇場に14票で選ばれたのが、新たにクリストフ・マルターラーの指揮するチューリッヒ・シャウシュピールハウスで、二位が一票差のウィーン・ブルク劇場はクラウス・バッハラーが二年目と、それぞれ新監督で好調な滑り出しを見せている。

1976年から25年をかけてミュンヘン・カンマーシュピーレを超一級に育て上げたディーター・ドルンがバイエルン州立劇場に移って、代わりにハンブルクのシャウシュピールハウスのフランク・バウムバウアーがカンマーシュピーレの総監督になった。

 通常の劇場の夏休み期間に開催されるザルツブルク演劇祭では、1989年から芸術監督で「新しいザルツブルク」を印象付けたジェラール・モルチェによる最後のシーズンは、お定まりのホーフマンスタールやシェイクスピアの他に、オーストリアの作家ランスマイヤーの初めての戯曲『見えない女』が、クラウス・パイマンの演出で話題となった。主役のキルステン・デーネの、デーネによる、デーネのための劇で、プロンプターの中年女による演劇への愛憎の長台詞の迫力が好評だったとのことである。

9月からの後期のシーズンで重要と思われる作品は、まず、生誕100年にあたるマリー・ルイーズ・フライサーを記念して、インゴルシュタット市からの依頼で書かれたのが、ケルスティン・シュペヒト『マリールイーズ』。60年代に民衆劇再評価と共に光の当てられたフライサーの酷薄な生涯を、いかにもシュペヒトらしい叙情的な文体で描いている。

 油の乗り切っている感もあるローラント・シンメルプフェニッヒの『出世競争(Push Up)1-3』は、巨大企業内部での上昇志向の日常的サバイバルの葛藤を三つの場面を中心に段階的に描く。一見ありきたりの対話場面はゲーム感覚で構成され、長いモノローグでしばしば中断される様子が、単なる企業告発ドラマとは一線を画す説得力を産んでいるだろう。ジビレ・ベルク『ヘルゲの人生』も、平凡すぎるような人生を日常的に描くが、これは設定が少々凝っていて、女神が世界をよりエンターテインメントに再創造しようと試み、バクや鹿、ハムスターなどの動物たちと一緒に、既に死に絶えた人間の一生をビデオで見直すという、いわば寓意的な枠からの日常で、一人の人間の挫折の様をあれこれと皮肉なコメントで覆う。

 ウィーン生まれの29歳、ベルンハルト・シュトゥットラー『遙かなるドナウの夢』はハイデルベルク戯曲賞受賞作で、これもウィーンの森のワイン酒場(モデルは私もよく足を運んだホイリゲらしい。)を舞台にした全くの日常世界で、ウィーン方言を効果的に使いながら、さりげなくトルコ人差別に焦点を当てている。同様に外国人差別を扱っているのが、テレージア・ヴァルザー『ポツダムの女英雄』。外国人労働者を攻撃する右翼に抵抗してケガを負わされたために、マスコミから英雄視される女性の話だが、実はそれは嘘であったという落ちがある。出来事のドキュメントによる現状告発というよりも、むしろ生活破綻の女性の危うさと自己欺瞞のメカニズムの描写に重点が置かれ、どちらも社会の下層への目の向け方が、ドイツの民衆劇の伝統の強さを印象付ける。  

                   

       (11枚弱)

 国際演劇年鑑2002年 諸外国の演劇事情 96頁〜100頁

           2002年3月発行:国際演劇協会(ITI/UNESCO)