演劇する都市ウィーンあるいはブルク劇場 秋の巻
        エルフリーデ・イェリネク『棒、杖そしてナチ野郎』 
                             寺尾 格
シュトルムとシュトゥルム(嵐)は長月の段
  「秋の一日」と書けば、おそらく我々の多くは、秋晴れの澄んだ空を思い浮かべるだろう。「天高く」晴れ渡っているのが、日本における「秋」のイメージである。しかし「秋の長雨」とも言うように、実際にはかなり雨も多く、統計的に見れば、秋の降水量は梅雨の頃を上回っている。もっともその数字は台風のためでもあるのだろうが、イメージと実態とのこのようなズレには、春霞の桜に対して、澄み渡った秋の名月という日本人の美意識が関わるのだろう。夏と冬という明確な季節感よりも、春と秋の方に価値を置きたがる我々の心の中には、季節の「移行」の微妙な色合いへの偏愛があり、移り行きの微細な変化へのこだわりが、かえって決まり切ったイメージの型を作り上げてしまっている。微妙な差違と典型とに等しくこだわるのは、論理的には相反するように見えるのだが、心理的にはバランスの問題ということになるのであろうか。ひとたび作り上げられた枠組みから脱却するのは容易なことではない。
 ところでウィーンの秋は必ずしも明確ではない。春の巻でも触れたように1、前日まで雪混じりの空が、突然、ドーンと30度の暑さになるのが「春(夏?)」であり、その逆が「秋」ということになる。午前と午後との気温差が20度以上になることも珍しくなく、油断すると外出先で寒さに震える手ひどい目に会ってしまう。ちなみに8月29日の私のメモを見ると、「朝から雨と風。外の寒暖計は12度」、同日の夜には「寒さで息が白い」と愚痴混じりである。
 とはいえ9月のウィーンは、まだ冬の本格的な寒さからはほど遠く、トゥホルスキーの「五番目の季節」という短いが美しいエッセイを思い出す。 「一年でどの季節が好きか?」と問われて、「五番目だ!」と答える内容で、「五番目の季節なんて無いよ?」と、いぶかしがる相手に向かって、夏と秋の端境の「ほんの四日か五日」、全ての安らぐ季節が説明される。その短い時が過ぎると、「ある朝、秋の匂いがする。まだ寒くはない。風も無い。そもそも何も変わっていない。でももう全てが、実は変わってしまっているのだ。」そんな、夏の終わりと秋の初めの間にある「ほんの短い季節、それが五番目の、一年で最も美しい季節なのさ。」
 トゥホルスキーの言う「五番目の季節」の頃、ウィーンの人々の心待ちにしている飲み物が登場する。日本でもワインの新酒をありがたがって、なぜかボージョレーなどと怪しげなフランス語で呼び交わしているが、ワインの新酒をウィーンでは「ホイリゲ」と呼ぶ。もちろん出来たてのワインのフレッシュな香りは、これはこれで楽しみなのだが、新酒のホイリゲは時期的にはまだ少し早い。楽しみにしていると言うのは、新酒ホイリゲではなくて、実はホイリゲの出来上がる更に前の段階のワインなのである。
 葡萄を絞った汁を「モスト」と言う。要するに葡萄ジュースなのだが、このモストがワインになりかかって、しかしまだ完全なワインではないという半発酵状態のワイン、これこそが、この季節にだけしか飲めない「シュトルムStorm」、すなわち「半発酵どぶろくワイン」である。
 発酵途中の作りかけワインであるから、アルコール発酵後の酸味と、発酵前の甘味と、そこに発酵中のアルコールの泡がかすかな刺激を与える。酸味と甘味と炭酸との三つの味のバランスが絶妙と言える。発酵を抑えるために冷蔵庫に保管するが、風味が変わってしまうので、もちろん長期保存などはできない。夏にはまだできていないし、秋の終わりになると完全にワインになってしまうので、夏と冬との合間の「ほんの短い季節」にしか飲めない。ワイン畑に囲まれたウィーンならではの、完全季節限定、地域限定の飲み物こそが「シュトルム」なのである。
 これが出回り始めると、心待ちにしているウィーンの老若男女のために、街角のワイン酒場(これも「ホイリゲ」と言う。)はもちろん、レストランやカフェーの壁にも、手書きで「シュトルム 24シリング」などと張り出される。
 ただし飲兵衛には、発酵途中の葡萄の糖分が少々甘すぎるだろう。通常はミネラルウォーター(炭酸入り!)で割って飲む。ほんのりとした葡萄の甘さと、ワインの香りと、ミネラルウォーターで強化された炭酸とが舌の上で渾然となる。さわやかな味と後口の良さに思わず茫然となり、アルコールはしっかり含まれているので、杯を重ねるほどに陶然となり、軽やかなおしゃべりも当然となる。
 観光客向けの酒場だと、シュランメルンと呼ばれるヘタクソな楽隊が、テーブルを回りながらセンチメンタルな曲を奏でてチップをせびるが、地元民の集まる所ならば、静かな良い雰囲気が充分に保たれている。夕暮れの空の下、ワイン酒場の木陰では、子供も含めた大勢の家族連れがシュトルムやモストを飲みながら、おしゃべりを楽しみつつ去り行く夏を惜しむ。おしゃべりのざわめきすらもが夕空に吸い込まれるような、そんな折には、しばしば仲間同士で歌う民謡のメロディーが耳に入ってくる。歌声がドイツ風の騒がしい放歌高吟ではなく、澄んだきれいな二重唱で、あくまでも控えめに控えめに響くのが、いかにもオーストリアらしいと言えるだろう。
 ところで良質のワインとなると、本当はウィーン周辺の畑よりも、むしろドナウ川沿いのヴァッハウ渓谷の方が評価は高い。そしてそれ以上に質の高いワインとされているのが、ハンガリー沿いのブルゲンラント州のワインである。ところが、そんな良いワインを産出するブルゲンラント州の寒村で、1995年に小さな爆弾テロ事件が起こった。テロの犠牲者はロマの人たちであった。そしてその事件を素材にした芝居が、例年のごとくシュトルムの売られ始めた9月のウィーンに、時ならぬ嵐(シュトゥルム Sturm)を巻き起こしたのである。
 
1997年9月26日
エルフリーデ・イェリネク『棒、杖そしてナチ野郎』3 
演出:ジョージ・タボーリ 初演:1997年9月20日 カジノ・ホール
 
 ウィーンの中心と言えば、地元で「シュテッフル Steffl」と呼ばれるシュテファン大寺院と決っている。シュテッフルの尖塔を見上げる広場から、観光客で夜も昼もにぎわうケルントナー通りが南に延びて、オペラ座の所で、通称「リング(指輪)」と呼ばれる環状通りに交差する。このリング通りは、中世以来の城壁を撤去した後に整備された広々とした通りで、ウィーン旧市街の1区をぐるりと囲んでいるので、観光客ならば、まずは最初に路面電車で一回りするのが、ウィーン観光の初心者入門コースである。というのも、リング通りに面した建物の数々は、ブルク劇場を始めとして、いずれもウィーンの観光名所となっているからで、1865年にリング通りが開通した前後から世紀末にかけて建てられている。いわゆる「泡沫会社乱立時代」で、普仏戦争勝利で獲得した賠償金による19世紀バブルの結果ということになる。
 ケルントナー通りからオペラ座を右に行くのがオペラ座リングで、これは王宮を右に見ながら、ぐるっと回ってブルク劇場へと至る。逆に左へ向かうのがケルントナー・リングで、200メートルほど進むと、インペリアル・ホテルとANAグランド・ホテルと、いかにも高そうなホテルが通りをへだてて向かい合っている。その更に先で、リング通りは左(北)に大きく迂回して、シューベルト・リングとなる。この曲がり角に「シュヴァルツェンベルク広場」がある。ちなみに広場を見晴るかす「カフェー・シュヴァルツェンベルク」はコンサート・カフェーとしても有名で、夜はピアノの生演奏を聞かせてくれるのだが、リング通りで最初にできたカフェーであり、豪華なシャンデリアと内装の雰囲気に、19世紀の香りが強く漂っている。
 さて、私が通いつめた「アカデミー劇場」は、この「シュヴァルツェンベルク広場」から三・四分ほど歩いた外側にある。通常は地下鉄のU4に乗って「シュタットパルク(市立公園)」で下りるのが一番速く到着するのだが、時間のあるときには、38番の路面電車でリングに出るか、あるいはバスでハイリゲンシュタット近くまで行き、そこから路面電車のD路線に乗る。D路線はドナウ川沿いのヌスドルフを始発として、北西のショッテン・リングに入り、ぐるっと半周してから、この「シュヴァルツェンベルク広場」でリングを離れ、ベルヴェデーレ宮殿の横を通って終点は南駅になる。ウィーンをほぼ南北に延々と走る便利な路線である。
 実はこの「シュヴァルツェンベルク広場」のリング沿い外側の角に、常設の「アカデミー劇場」よりも更に小規模で、非常設のこじんまりとした舞台がある。「カジノ・ホール」と言われる。もともとはハプスブルク軍将校の舞踏会用ホールのあった建物ということで、本来の劇場ではない。前の総監督アヒム・ベニングの時代、1981年から使い始め、特に常設劇場の固定観客席とは異なった舞台の試みに使えるように、1994年に総監督パイマンの強い希望で改装された。新装こけら落としは、1994年の12月に『ジャングルブック』を子供用にミュージカル化した『私の中のジャングル野獣』。本来の劇場とは違った、普通の建物、普通のホールである。とは言っても、カフェー・シュヴァルツェンベルクと同様、19世紀歴史主義の立派なお屋敷で、重い木の扉を開けると、そこは広いロビー。石造りの優雅な階段を登ると広いホール(とわかったのは大分後になってから)の半分に仮設の椅子を段々に据え付け、残り半分を舞台として使用する。観客席とは薄手の引き幕で区別している。
 作品タイトルは、ドイツ語で「シュテッケン、シュタープ ウント シュタングル Stecken、Stab und Stangl」。いかにもイェリネクらしい「ひねり」のぎっしりとつまった内容に、我ながら怪しげな「迷訳」のタイトルとならざるをえない。ドイツ初演は前年の1996年4月のハンブルクであり、劇評家によるシーズンベスト戯曲に選ばれている作品である。*4ハンブルク初演(ティルツァ・ブルンケン演出)は作者のト書きを生かした舞台であったようだが、ウィーンのタボーリ演出では、ト書きはほとんど無視され、完全にタボーリの舞台形象となっている。もともとがオーストリア批判の内容であったので、ハンブルク初演時から、ウィーンでの上演が待ち望まれていたわけで、その舞台を初演直後に見ることができた。
 まずタイトルの最初にある二つの単語「シュテッケン」と「シュタ−プ」は、共に「杖、ステッキ、棒」というような意味で、最後の「シュタングル」も、シュタンゲ(棒)という単語に、オーストリア方言特有の縮小語尾エルル -erlを更に縮めた言い回しであって、「小さな棒きれ」となる。羅列の最後にund (and)を付けるのはヨーロッパ語の常套表現であるから、従ってタイトルを最も単純に読めば、要するに「棒きれ」の類の意味の三つの単語を並べただけにすぎない。 
 「棒きれ」の直接的な含意は、作品冒頭のト書きで明らかにされている。ウィーン初演の二年ほど前の1995年2月4日、先述の通り、ハンガリーとの国境沿いのブルゲンラント州オーバーヴァルトという寒村で、仕掛け爆弾のために四名の男性が死亡する事件が起こった。被害にあった四名は、いずれもロマ人であった。「ロマ」は、日本ではいわゆる「ジプシー」という名称の方が通りやすそうであるけれども、これは差別語であって、通常は「ロマ」という呼称が用いられる。四名のロマ人のうち一人は40歳で、残りの三名はまだ20代の青年たちであった。爆弾は、彼らの居留地近くの道端に刺さっていた棒杭を抜くと爆発するように仕掛けられており、棒にはわざわざ挑発的に「ロマなんか、インドに帰れ!Roma, zurück nach Indien!」と書いてあった。「流浪の民」ロマ人の祖先が、遠い昔のインドを起源とするらしいことは、言語学その他の研究から、今日、ほぼ定説となっているようだ。*5 爆弾テロという形を取ったロマ人に対する敵意と、そのやり口の卑劣さについては、あえて言うまでも無いだろう。
 イェリネクがこの陰湿な反ロマ爆弾テロに強い衝撃を受けたことは、彼女が初めて現実の事件そのものを劇作の直接の素材としたことからも読み取れる。インタビューの中でも彼女自身が「戦後オーストリアの最も破局的な出来事」と述べているほどである。*6タイトルの多義的な凝縮には、彼女の衝撃の強さと共に、「最も破局的」と言わせるほどに錯綜した問題の複雑さが反映されている。
  この爆弾テロに対して彼女が強い衝撃を受けたのは、もちろん事件そのものの排外的で卑劣な暴力が、自分の出自であるユダヤに対する差別と虐殺の過去の記憶と重ね合わされたためでもあっただろうが、実はその後の経過が更に問題だったのである。事件の後、20台のパトロールカーに便乗した80名の警官が、当の犠牲者たちの家宅捜索を徹底的に行ってしまったのである。つまり警察は仲間同士の私闘と勘違いしたわけで、犠牲者が犯罪者扱いされたことによって、初期捜査が決定的に遅れてしまった。警察はその後もなかなかテロと認めようとはせず、犯人はいまだに判明していない。
 数日後にブルク劇場総監督のクラウス・パイマンが新聞インタビューを行った。そしてその席で誤った捜査指揮の責任が全く問われていない「オーストリア的無責任さ」を痛烈に批判したことで、テロ事件に新たな局面が生じた。つまりまたまた「パイマンをオーストリアから追い出せ!」の合唱であり、七年前のツァイト紙インタビューの時ほどではないものの、新聞等でも「批判するならば出てゆけ!」との短絡的な主張が繰り返され、時の労働大臣が同様な趣旨を明らかにする。対抗してパイマンの方でも、「武器や車やドラッグの密輸がらみかもしれないではないか」と公言する、かのイェルク・ハイダーのコメントを引合いに出したり、あるいは自分宛に無署名で届いたパイマン罵倒の手紙を公表したりして、批判のレベルの低さを印象づけている。8
ヨーロッパ中に右翼スキャンダルとしてオーストリア排除の政治問題を呼び起こしたハイダー現象に典型的に現われているような、右翼ファシズムの可能性へのオーストリアの寛容さ・鈍感さは、パイマンを中心にブルク劇場に集まる現代オーストリアの劇作家たちの最大の批判点である。それら劇作家たちの先頭に立っているのが、かつてはベルンハルトであり、現在ではトゥリーニやイェリネクである。作家たちの批判の執拗さは、彼らに向けられた罵倒の激しさ、執拗さをも示している。その結果、爆弾テロへの怒りを契機に書かれたこの作品のウィーン初演後の観客対話の中で、例えば彼女は次のような感想を述べている。
 
この何年かずっと、私の名前を聞くだけで、まるでもうパブロフの犬のような決まり切った反応が起こるばかりです。人々はもう私の言葉に耳を傾けようとはしません。何しろ私にはもう烙印が押されているのですから・・・
 
 つまり事件そのもの以上に、事件を巡る状況も根深いのであって、作品タイトルが示すのは、ロマ人に向けられた爆弾テロの道具として使われた「棒」のみならず、パイマンやイェリネクたちを叩き続けて止まない「棒」や「杖」でもあり、それらを執拗に振り上げる者たちこそ、イェリネクに言わせれば「ナチ野郎」なのである。タイトルの三つ目の「棒」を「ナチ野郎」と意訳した「シュタングルStangl(小さな棒)」は、作者イェリネクによるインタビューでの詳細なコメントに基づけば、「ナチの強制収容所トレブリンカの司令官の名前」でもある*10
 またタイトルの最初の二文字「シュテッケンとシュタ−プ」は旧約聖書詩編の第23編「主は私の牧者であって」の第三節、「あなたのムチ(シュテッケン)と、あなたの杖(シュタープ)は私を慰めます。」からも来ている。聖書のこの一節は葬式の際にしばしば使われる言い回しだそうで、その意味では四人の死者を悼む気持ちが託されているのだろうが、同時に聖書の原義に遡れば、「棒」は現在の苦しみと悲しみを示すと共に、その苦しみこそが神へと至る信仰の道を指し示す「杖」ということにもなるだろう。
 また更に二番目の「シュタープ」は、「クローネン新聞のコラムニスト」で、「イェリネック批判の空気をオーストリアに広めている中心人物のひとり」の名前「シュターベルル」をも示すとのことである。*11また、そもそも「シュテッケン」を動詞と取れば、爆弾テロに使われた「棒(シュタープ)」が地面に「差し込んで立って(シュテッケン)」いたことをも連想させる。
 以上、タイトルに示された含意をながながと説明したのは、それらが舞台の背景を説明すると共に、この作品本文の基本的な特徴とも重なり合うからである。つまりわずか三語のタイトルに託されたような様々な含意の凝縮が、この劇では本文全体にわたって同様に、特定の「筋」も無いままで、モノローグとして展開し続けるというトンデモナイ作品なのである。12しかも登場人物は一応「男」「女」「肉屋」「客」というあたりが中心ということになりそうだが、それ以外に「もう一人の客」「女の客」「別の男」「マルギット夫人」「別の女性」「待っている女」「二人目の客」「最初の客」「二番目の客」「バニー女」「二人の若い女性たち」「三人の別の女性客たち」という具合であり、そもそも冒頭に長い台詞を始めるのが「誰であっても良い一人の男 Einer, EGAL WER」と指示されている。「誰が」「誰を」という個別特定を無化しようとの作者の意図は明瞭で、しかも特定のキャラクターの拒否は、現代の疎外とか、実存の不安とかの、口当たりの良い一般的な決まり文句であるよりも、むしろ個別オーストリアの具体的なファシズム的政治思想状況への無感覚さに対する、彼女の苛立ちと危機意識の現われとも言えるだろう。
 作者のト書きは、本文の難解なモノローグとは対照的に、冒頭から、かなり詳細な指示に満ちているのだが、演出家タボーリは作者のト書きを全く無視することで、逆にウィーンらしい舞台を作り出している。つまり音楽的な心地よい雰囲気と、その中に漂う不安との共存である。それがハンブルク初演とウィーン初演との相違を生み出している。13
  さて、それでは舞台の中身について触れよう。仮設席の前にある真っ赤な引き幕にはオーストリア・ハプスブルク家の紋章、双頭の鷲が黒く無数にプリントされている。若い女(アーニャ・キルヒレヒナー)がひとり、ゆっくりと舞台を横切りながら幕を引いて行く。舞台は奥に向かって白い布の覆った段々が六つほどあり、一番上の段の端に黒いグランドピアノ。目の前に黒い棺が四つ、頭を奥の一段に立てかけた状態で、縦四列に並ぶ。棺の周りには、頭大の石がいくつも転がっている。観客数100名ほどの仮設舞台なので、客席との距離はほとんど無視できるほどの近さである。
  激しい雷鳴と雨の音、そこに傘を差した中年女(ヒルケ・ルートナー)が一人登場して、赤いバラを一輪、棺桶のひとつに置く。白と黒の舞台にバラの赤が目を刺す。バラを捧げた女は、続いて舞台奥のピアノに座り、非常に荘重な曲(たぶんリスト)を弾き始める。すると突然、棺桶の蓋が荒々しく開き、死人が寝苦しそうに反転する。二つ目の棺の蓋も開き、横たわっていた死人がムックリと起きあがる。彼は、白骨の手の飛び出ている三つ目の棺の蓋を外し、中の白骨をいとおしそうになでた後、白骨に添い寝する形で中に入って蓋を閉める。
 ピアノ曲はあたかもリサイタルのように響き続ける。やがて激しいリズムの舞踏曲が演奏され始めると、男たちが棺から出てきて、手を鳴らし、足を鳴らしながらハンガリー風の踊りを始める。舞台奥では、ピアノの脇で、黒服のユダヤ人女性が一人、せっせと床磨きをしている。これはもちろんファシズム期のユダヤ迫害(道路磨きの強制)の情景と重なるわけで、このユダヤ女性は演出家タボーリの発想である。ジプシー音楽の激しい調子と、ユダヤ女性の床磨きの疲れた様子とが対照的に際だたせられる。音楽と踊りが最高潮に達したと思われる時、ピアノの鍵盤が乱暴に叩きつけられ、四つ目の棺から黒い帽子、黒いサングラス、全身黒ずくめの男(マンフレード・カルゲ)が現われて、台詞が始まる。最初はブツブツと口の中で語られて、良く聞こえないのだが、突然声が張り上げられる。
 
  注意せよ、EU、オーストリアたちがやってくる!
                      Achtung, EU, die Österreichen kommen!
  注意せよ、EU、最もオーストリア的な奴らがやってくる!
Achtung, EU, die Österreichsten kommen!
 
 冒頭のこの台詞は、原作ではト書きの中で映写スライドするように指定されているのだが、タボーリ演出では役者の口から高らかに響かせている。目で見るよりも、役者の口から響かせた方が、表現の奇妙さが直接に、生々しく体の中に押し入ってくるような効果を持つだろう。イェリネクのテクストには、曰く言い難いような、この種の言葉遊びが随所に出てくるので、本当に翻訳者泣かせなのだが、ここでも最初の「オーストリアたち Oesterreichen」と、それと対をなしている 「最もオーストリア的な奴らOesterreichsten」の両方の言葉に、もちろんそんな言葉はそもそも存在していないにもかかわらず、あるいはまさにその故に、実に様々な連想が違和感と共に呼び起こされるのである。
 国名の「オーストリア Oesterreich」は、ドイツ語では「エスター・ライヒ」、すなわち「東の+帝国」と言う。語尾に付けられた -en は、おそらく複数形なのだろうが、地名は固有名詞であるから、その複数形は文法論理の外である。しかし名詞「帝国(ライヒ)」は、形容詞「豊かな(ライヒ)」と語源的にも全く同一の言葉であるために、その「豊かな」という形容詞に定冠詞を付けて名詞化し「オーストリアたち」、あるいは形容詞を「最も豊かな」という最高級にして、「最もオーストリア的な・豊かな人々」とのイメージが浮かぶ。もちろんそのような言い回しは完全に破格で奇妙な表現であるのだが、漠然と「最も豊かなオーストリアの人々 die reichsten Oesterreicher / die oesterreichischen Reichsten」という言語連想がおのずと出てくるのである。
 実際にオーストリアは、EUの中でも豊かさでは上位に位置しており、例えば人口800万人の小国でありながら、EU分担金の絶対額が独、英、蘭、スウェーデンにつぐ五番目というのは、大国フランスよりも多い。ちなみに初演の1997年段階で、EUの分担金を支払っているのは8カ国、逆に受け取っているのが7カ国であった。14
  しかしそのような単語レベルでの「最も豊かなオーストリア」への連想は、EUに対して注意を呼びかけるという全体の文脈からは別の、むしろ逆の側面が現われる。前半の「東の」に重心を置けば、「最も豊かな」のは、単純に経済的実力を示すのみならず、「東の」すなわち「東欧圏」が豊かだということになる。この場合の豊かさとは、もちろん経済的実力ではなくて、社会的な人口構成や歴史的経緯のことであり、周知のごとく旧ハプスブルク帝国時代のオーストリアは、現在のハンガリー、チェコ、スロヴァキアの全てと、旧ユーゴ、ルーマニア、ポーランド、イタリアのそれぞれ一部を含む広大な中部ヨーロッパの大国であった。従ってオーストリアは歴史的に東とのつながりが強く、いわゆる西欧が東のスラヴ圏、トルコ圏と境を接する「東の帝国」であり、おのずと「豊かな東」が至る所で見られる。
 従って現在でも、例えばオーストリアの外務大臣は、「オーストリアは東欧諸国にとっての西への入り口(Tor zum Westen)である」と機会あるごとに明言し、東欧諸国のEUやNATOへの加盟を最も強く主張してきた経緯がある。15その意味では、上述の台詞は、「東が最大限に豊かになること」、すなわち西欧中心のEUが拡大し、「東欧」が入り込んでくることのリスクに対して注意を促していると理解できる。
  EUの東欧への拡大がリスクを伴うのは、ひとつにはもちろん東欧圏の貧しさのためであるのだが16、それだけではない。「西への入り口」としてのオーストリアを光の側面とすれば、複雑な歴史的経緯に伴う民族的な混交の生み出す陰の側面も存在する。前述の旧ハプスブルク帝国時代の所属に由来する様々な民族的な出自の人々が、オーストリアには広範に存在し、それが一方ではウィーンの独特なエキゾチックとも言える雰囲気を生み出すと共に、表面には現われにくい軋轢も生み出さざるをえない。17 
 冒頭の奇妙な対句によるEUへの警告表現に対する違和感は、ともあれ連想の方向が漠然と了解されうる。しかしながら、それに続いて行われる「語り」には、また別の不安定感が満ちている。    
 
  誰であっても良い一人の男:どうか、ここの平べったい景色を見てください、その中 に埋め込まれて、肥だめやレンガの池、こんもりとした丘が安らいでいて、平原は穏や かに向こうへと続いています。それは空虚ですが、ところがそうでもないのです。見え ますか?それとも見えない?普通、空虚というのは何ごとかの欠落です、そして空虚と は示されえるはずであった何かの欠落でもあるのです。ただし、私たちが見るべき時に きちんと注意を払っていればですけれども。(17f.)
 
 この冒頭部分は、一見さりげない情景説明として読み飛ばしてしまいがちであるけれども、子細に検討すれば、テクスト全体の状況と戦略とが実に凝縮して示されている。まず「平べったい景色」「平原」は、事件の起こったブルゲンラント州のイメージをなぞっている。ブルゲンラント州はハンガリー国境沿いの小さな州で、全体がそのままハンガリー平原に続いている。例えばハンガリーとの国境にノイ・ジートラー湖があるが、この湖は南北おおむね30km〜35km、東西5km ~ 15kmの広大さにもかかわらず、水深が平均4mしか無い。おおむね、というのはそれほど浅い湖であるために渇水期と雨期とで大幅に湖面の面積が変動するからで、ほとんど消滅に近くなる年もあるらしい。ブルゲンラント州というのは、そういう地形である。
 しかしその何の起伏も無い一見穏やかな「平原」には、「肥だめ」と「レンガの池」が隠されている。もちろん爆弾テロを念頭に置いていることはすぐに理解できる。「肥だめJauchegruben」は問題ないだろうが、「レンガの池Ziegelteiche」には少々説明が必要だろう。文字通りにはレンガで囲った人工的な貯水池の類を指すのだが、まず「レンガZiegel」は、オーストリアの俗語では「頼もしい好男子」の意味がある。これは1960年代以降の現象で、どうやら英語の俗語としてのbrickがポップ・ミュージックなどの影響で使われるようになったらしい。18またユダヤ・ヘブライの伝統では「レンガ」は出エジプト以前の生活、つまり「流浪」と「囚われ」「過酷さ」を現わす。19 連想の方向の説明は不要だろう。
 次に「池」だが、日本語では蛙がポチャンと飛び込むような、のどかなイメージになってしまう。それに対してドイツ語の「タイヒ」には「流れていない」という印象が前面に出て来る。それは「大きな水溜まり」であり、俗語で「池の中に入る in den Teich gehen」は「失敗する」、「池を越えてゆく über den Teich gehen」は「兵士が死ぬ」という意味で、つまり「流れない水溜まり」である「タイヒ」には、流れている川の澄んだイメージに対して、暗くよどんだイメージが強く、そこから三途の川の「死」のイメージが重なって来るのである。
 更に言えばブルゲンラント州はコウノトリでも有名で、特にルストという町では、家々の煙突に営巣する多数のコウノトリが観光名所になっているほどである。「まだ大きな池の中にいる noch im großen Teich sein」とは「まだ生まれていない」という意味であり、これはコウノトリは池から子供を運んでくるという民間伝承に基づくのだが、この場合でも「池」は「誕生」と対比的に「死」と関連づけられている。
 さて、いささか恣意的とも思える深読みを羅列してしまったが、「肥だめ」と並列した「レンガの池」の連想の数々が向けられている焦点は明らかである。すなわち爆弾テロで殺されたロマの壮年と青年の四名であって、一見すると何も無い平和な景色に隠された、「肥だめ」のような「流浪」の人々の「死」と「暴力」の「よどみ」である。
 ここまで来ると、同様に言及された「こんもりとした丘 Erdhügel」の何でもない一語すらもが、何か禍々しく聞こえて仕方がない。あたかも死体が埋められた塚のような連想すら浮かんでしまう。というのも、日本語ではうまく表現できないのだが、ここでイェリネクは奇妙な破格の文体を使用しているからである。冒頭の「どうか、ここの平べったい景色を見てください、その中に埋め込まれて、肥だめやレンガの池、こんもりとした丘が安らいでいて」と訳した原文はこうである。
   Bitte, sehen Sie hier eine flache Landschaft, in die versenkt Jauchegruben, Ziegelteiche,    Erdhügel ruhen,
問題は後半の関係文にある。先行詞「景色 Landschaft」 を受けた関係代名詞 dieに前置詞 in が付いている。関係文の主語は Jauchegruben 以下の三つの名詞で、それに対応する動詞は「安らぐ、憩う、休憩する」のruhen であるが、これは自動詞であって、そうなると通常の文法では関係代名詞は3格の der でなければならない。「景色の中で(3格)」安らぐのであって、「景色の中へ(4格)」ではない。初級文法である。
 ただし意味の流れから言うと、この4格は動詞ruhenにではなく、直後の副詞的規定詞 versenkt に掛かっているようにも読める。「その景色の中に埋め込まれて」と、分詞構文風の流れの中に関係文がはめ込まれた結果、自動詞に他動詞的な使用がなされていると一応の説明はできるかもしれない。その結果、唐突な単語 versenkt(埋め込む、沈み込む)が関係文の全体を下方へと引きずり下ろすベクトルの効果を生み出している。そして「肥だめ Jauchegrube」の「穴 Grube」は「墓 Grab」の意味をも持つし、次の「レンガの池」が「死」につながるのは既に指摘した通りであるから、そうなると、ここまでの関係文の流れに沿えば、「丘 Erdhügel」の「大地 Erd」が「安らぐ」とは「地面の下で安らぐ unter der Erde ruhen」こと、すなわち「地下世界=死の世界で眠っている」となり、「丘(Erdhügel)」とはすなわち「墓(Grabhügel)」のことではないのかという連想もまた、自然に出てくるのである。「墓に憩う」のは、もちろん四名のロマ人たちであり、更に言えば、アウシュヴィッツのユダヤ人たちでもありうるだろう。
 そして引用の後半は、何も無いような景色の「何も無さ」をこそ問題にするべきであって、「空虚」とは欠落に他ならないことに注意を致さねばならない・・・という趣旨につながる。「空虚」に関するいかにもきどった言い回しは、もしかしたら引用かもしれず、あるいはハイデガーのパロディーなのかもしれない。
 以後、モノローグはまだ最初の8行が終わったばかりであり、この調子で残り127行が延々と続いてゆく。一瞬に消えてゆくさりげない言葉の流れの中に、不必要なほどの連想と引用を凝縮させるイェリネクの文体は、表層に現われない「欠落」への意識を集中させるための表現であろう。ロマに対する爆弾テロを契機に始められた彼女のモノローグは、やがて彼女本来のテーマである死とアウシュヴィッツとに絡められてゆくが、それは単純な告発ではない。
 
   別の女性:あまり文明化していない国で行われる殺人の裁判で問題になるのは、被 告が罪となる行為を行ったかどうかであって、犠牲者の首を絞めたのか、撃ち殺したの か、叩き殺したのか、それとも刺し殺したのか、そういうことはあまり重要視されま  せん。でもご立派な政治の場合には明らかにそうではありません。半世紀前に比較的裕 福でないユダヤ人に対して行われたヒトラー政権の犯罪に関しては、-----裕福な者は  たいがい移民で助かっていますし、お金でナチの手を逃れるのも稀ではありませんでし た ----- 犯罪が行われたかどうかはどうやら問題ではありません。そうではなくて、 むしろナチによって行われた殺害の方法こそが大問題なのです。  32
    
   二人目の客:以前から多くの専門家が証明してきました。そんなに大勢の人間をガ スで殺すのは、純粋に技術的に、全く不可能なんだそうです。それで多くの年寄りの、 ケッ!ナチにとっては、そういう主張からあのナンセンスな主張まではほんの一歩です。 つまりナチはそもそも一人のユダヤ人も殺してはいないというような、ケッ、ケッ、ケ ッ!真実は全く簡単だ。ただ相対的に少数のユダヤ人だけがガスの犠牲になったのだ。 別の人たちは餓死したり叩き殺されて、それと発疹チフスや赤痢やナントカチフスで殺 されたのだ。何しろ医者の治療なんか彼らには拒否されていたのだから。それと凍死と か衰弱死。以上、詳細な立場表明の文章をありがとうございました。シュタープさん!                                   41f.
 
  女性客:ナチの強制収容所やロシアの戦争捕虜収容所では、どちらのグループの生き 残りの証言でも、事態は絶望的に似通っていました。私が1944年6月28日にロシ ア のタンボフで捕虜になった時も、次の冬を生き延びるのに必死でした。タンボフの収  容所には約7000名ほどの捕虜がいましたが、2000名以上が飢えや疫病で死にました。 ナチがユダヤの収容者を絶滅させるのに、全部をガスで処理するなんて、どうしてそん な面倒なことをやったたでしょうか。だって別のやり方でもっと簡単に殺せるのですか ら!ありがとう、シュタープさん、大事なことを忘却から掘り起こしてくれて!44  
 
 いわゆる「アウシュヴィッツの嘘」に関する告発だが、ひとつは犠牲者たるユダヤ内部にある貧富の差による犠牲のあり方への皮肉を重ね、残りの二つは、共にシュタープさん(先述のコラムニストの名前)の引用という形式を取っている。
 言うまでも無いことだが、600万人と言われるユダヤ人が、ナチの指導に従ったドイツ人によって、組織的に整然(!)と強制収容所に送られて殺されたという「全体」が問題なのであって、いわゆる「ガス室」というのは、その象徴的な表現にすぎない。「アウシュヴィッツの嘘」でしばしば取り上げられる反論、すなわち「何名が正確にガス室で」、また「どのようなガスで」殺されたのかは、本質的には全くどうでも良い些事にすぎない20。ところで意図を持ったプロパガンダの不毛な議論では、常に相手方の些細な論点を過大に取り上げて相手の誠実さを取り込むことで疑念を誘い、そしておもむろに全体の趣旨を一気に否定するのが常套手段である。いわば「部分」で「全体」を代表させる方法で、レトリック用語では「換喩」と呼ぶ。要するに「悪しき個別化」である。
 無数の「事実」に拘泥するあまり、「全体」に対して盲目となることにつけこむそのような方法と、ちょうど裏腹になるのが、「全体」を「個別」の隠蔽に使用することで、「悪しき個別化」に対する「悪しき一般化」の方法と言えるだろう。それは例えば、以下のような台詞に明らかである。
 
    肉屋:私が思うに、思考はわたしたちに死の内側を観察させてくれる。そう いうやり方で自明で確実と思われることを問題にすることができる。私は更に進ん で、こう主張する。すなわち何百万人プラスあの四つ、実につまらぬ些細なことだ、だか らたったの四つなど安んじて無視できるし、実際上、数にも入らないし、そもそも死者 ですらない!他の所では、もっと驚くべき多数の死者が存在するのだ!例えばアメリカ では当然、ここよりもっと多くの生きている人間があり、従ってもっと多くの死者がい るのだ。                       45
 
 確かに「世界全体」では毎日何万もの人が死に、何万もの人が生まれている。この種の一般化あるいは先の換喩的方法を駆使すれば、その場だけの議論に勝つことは難しくない。しかし、それは結局短絡的な勝ち負けでしか無いだろう。「共感」を基盤とした真に建設的な対話と本来の説得を行うのは、そのようなプロパガンダ的方法では不可能なのである。 イェリネクのテクストは、地の文と引用とが分かちがたく編み合わされることによって、単純な告発のスタイルは明らかに拒否されており、1960年代の政治演劇・記録演劇のように、告発の事実やデータそのものを突きつけるというジャーナリスティックな方法を取らない。それというのも、その場だけのセンセーショナルな効果を求めるために、「悪しき一般化」と「悪しき個別化」を巧妙に操るのが大衆ジャーナリズムの発想であり、そのような危険を感覚的に提示すること、それがイェリネクによる過剰なまでのモノローグの積み重ねを生み出し、従来のドラマを無化するような挑発的なテクストを作り出すのである。しかも「アウシュヴィッツの嘘」すらもが「ユダヤの嘘」を通して、また自分自身と社会の「空虚」とも向き合うことを通して扱われている。日常の反復の中でパターン化し、表層化する意識と言葉では、自己と歴史の無意識から作り出された「空虚」をすくい上げることはできない。「事実」に過剰に拘泥するマス・メディアの限界への苛立ちこそが、イェリネクをオーストリア批判と、更なる言語実験的な演劇テクスト2121へと駆り立てているのであろう。
 

1 拙稿:演劇する都市ウィーンあるいはブルク劇場 春の巻 専修大学人文科学研究所月
報 第190号 1999年 1頁ー22頁。なお以下に挙げるホームページ上に掲載してあります。Homepage:www.senshu-u.ac.jp/~the0372
2 Kurt Tucholsky. Gesammelte Werke. Bd.7. Rowohlt. Sonderausgabe. 1995. 223f. 翻訳は クルト・トゥホルスキー選集 第1巻『ヒトラーとゲーテ』ありな書房 1984年 199頁以下。
3 Elfriede Jelinek. Stecken, Stab und Stangl. 1997. Rowohlt (Hamburg) 引用は本文中に頁数で示す。なおイェリネクに関しては、次の拙稿を参照。コロスとモノローグ エルフリーデ・イェリネック『スポーツだんぺん劇』のブルク劇場初演をめぐって 専修大学人文論集第64号 1999年 33頁ー64頁。
*4 Theater heute. Das Jahrbuch. 1996. S.95.
*5ジュール・ブロック 『ジプシー』 木内信敬訳 1973年 白水社 文庫クセジュ 5頁。           
*6 Das katastrophalste Ereignis der Zweiten Republik. In:Theater der Zeit. Mai/Juni 1996. S.90.
7 拙稿:クラウス・パイマンとブルク劇場 専修大学人文科学研究所月報 第142号
1991年 1頁ー20頁。       
8 Weltkomödie Österreich. 13 Jahre Burgtheater 1986-1999 Band2. Chronik. Hrsg. v. Hermann Beil, Jutta Ferbers, Claus Peymann, Rita Thiele. Wien 1999. S.320f.
9 Weltkomödie. S.400.
*10 Das katastrophalste Ereignis der Zweiten Republik. Theater der Zeit. Mai/Juni 1996. S.90.
*11 a.a.O. S.90.
12 「イェリネクの劇作品は言語パズルである。」 Corina Caduff. Elfriede Jelinek. In: Deutsche Dramatiker des 20.Jahrhunderts. Hrsg. von Alo Allkemper u. Norbert Otto Eke. Berlin 2000. S.770.
13 「タボーリの英国的、ユダヤ的なウィットとイェリネクの噛みつくような皮肉・嘲笑との出会い」 Wolfgang Kralicek. Verlorenes Heimspiel. In:Falter. Nr.39. 1997. S.65.
14 Neue Kronen Zeitung. 3.9.1997. S.2.
15 Margaretha Kopeinig. Das halboffene Tor zum Westen. Außenminister Wolfgang Schüssel nennt im KURIE-Gespräch Bedingungen für die Ost-Erweiterung und verteidigt NATO-Beitritt und Euro. In: KURIE. 25.8.1997. S.3.
16 1995年の統計では、EU加盟国の国内生産高は一人あたり約20,000エキュ弱で、最低のギリシャやポルトガルでも10,000エキュを越えているのに対して、ハンガリー、ポーランドが半分の5000エキュ強であり、ブルガリア、バルト三国は5000エキュ以下である。 Die Zeit. Nr.51. 12.12.1997.
17 例えば、劇作家のペーター・トゥリーニは、ケルンテン州の田舎町で育ったが、イタリア系の家具職人であった自分の父親が、町の人たちとそれなりにつきあっていたにもかかわらず、飲み屋で楽しく語らうようなことは全く無かったと述べている。Aus: Programmheft vom Burgtheater. Nr.105. Peter Turrini. Alpenglühen. 1993. S.123.
18 Heinz Küpper: Illustrierte Lexikon der deutschen Umgangssprache. Stuttgart. 1984. Bd.8. S.3162.
19 アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』大修館書店 1984年 84頁。
20「ユダヤ人の大量虐殺は無かった」「ガス室は無かった」「青酸ガスは使われていなかった」という類の「反論」の欺瞞性については、例えば、ティル・バスティアン『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』 白水社(1995年)参照。
21 拙稿:コロスとモノローグ エルフリーデ・イェリネク『スポーツだんぺん劇』のブルク劇場初演をめぐって 専修人文論集第64号 33頁ー64頁 1999年3月。
 
専修大学人文論集 第70号 2002年 133頁〜153頁