ヨーロッパ言語地図

あるいはドイツ語の勧め

経済学部所属 ドイツ語担当 寺尾 格

 ドイツ語一年生の授業では、最初にちょっとした言語地図遊びをする。学生諸君の名前と顔を一致させながら、順番にヨーロッパの言語名をあげてもらう。英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語と快調に続くが、オランダ語、ロシア語、ギリシャ語あたりからパスをする人が出てくる。必ず中国語と答える学生も出て来るので、「ヨーロッパ!」と繰り返すと、デンマーク語、スウェーデン語、ポーランド語、チェコ語のあたりで自信無さげになり、苦し紛れにラテン語(これはイタリア古語)やスイス語(そんなものは無い!)なども出てくる。

 彼らにとっての「ヨーロッパ」とは、何よりも圧倒的に「西欧」であって、「北欧」はひどく印象が薄く、「東欧」に至っては殆ど存在しないがごとくである。ヨーロッパ=西欧という学生諸君および大部分の日本人の強固な図式と思い込みは、情報というものの危うさを十分に示すものだろう。対してアメリカについては、ヒットチャート等々、殆ど過剰なほど直接に入ってくる。要するに我々の情報は、圧倒的にアメリカ経由であるという一面性の自覚は常に持っておいた方が良い。

そこで簡単なシミュレーションである。仮に英語を全く知らないとしよう。日本語だけで作られた世界とはどのようなものだろうか?続いてこうも考えてみよう。日本の中で、日本語の知識無しに、英語だけで暮らしてみたらどうだろうか?

 どちらの場合も、それなりに楽しく暮らすことはできるかもしれない。しかしその日常生活が、ひどく限られた表面的なものでしかないことは、たやすく理解できると思う。外国=アメリカと思うほどナイーヴな学生も少ないと思われるが、言葉を学ぶと世界が広がるというのは、単なる知識がやみくもに増えるというよりも、むしろ学ぶにつれて、それまでの自分の世界の狭さと限界がおのずと自覚されて来るところに含蓄があり、それが学問の深さ、果てしなさ、おもしろさにもつながって行くのだ。ドイツ語を学ぶことは、ヨーロッパを理解するためのきっかけとなるのみならず、自分自身の偏見へのより深い反省を産み出すのでなければ、肝心な所を捕らえ損ねてしまうのである。

 

  (本文 40字×24行=960字)

 
専修大学LLだより 第15号 2002年