恐竜の涙は空を見上げていたか?
            教員組合懇談会に寄せて
                  
                  経済学部所属教員  寺尾 格
 
 寺尾です。今回の集まりは、ここ十年ほどの間に、教員組合の委員長やら書記長やらの執行部の三役を経験した者を中心に、ある程度自由に討議をしようという趣旨の場だろうと思っています。そのための第一回目の試みであると、そういう理解でよろしいですね?ですから、この前、学長選を控えた時期に開かれた学長選討論集会で、石塚さんや高橋さんがなされたような、非常に首尾一貫した提言というものではなく、あくまでも自由な論議を行うための口火、きっかけを提供する、まあ、前座のようなものです。
 私が書記長をやったのは1991年ですから、ちょうど十年前で、その頃から比べると、もちろん大きく変わった事もありますが、全体としては相も変わらず・・・といった印象が強いのです。ただ、十年前に執行委員会をフーフー言いながら、いわば「内側から」組合と関わっていた頃と比べると、その後十年たって相も変わらずに別な意味でフーフー言ってますけれども、最近は「外側から」組合を見る事も多い。例えば、組合のお昼の集会にも、このところ火曜日は会議続きで、ほとんど物理的に出席できていない。「内側」とか「外側」とか私が言っているのは、あくまでもその程度の意味ですが、いずれにせよ、ある種の物理的距離感が強制された結果、自ずと「組合」に対する「内と外」との落差にも気づく訳です。
 執行委員をやっていると、十年前も現在も、とにかく組合の日常業務に追いまくられます。これらの活動は、当然、教員としての研究・教育活動に上乗せですから、例えば次の団交等々の処理にせっつかれながら、ひたすら一日一日が過ぎてゆく。そのような執行委員の内側の実体というのは、たぶん、今でもあまり変わっていないのではないでしょうか。
 これに対して、組合に対する外側からの期待のようなものは、どうでしょうか?「ミーイズム」とか、「組合離れ」とか言われ続けながらも、しかし90何パーセントもの組織率のしからしめるところで、組合の重要性は十年前よりも、むしろ強まっているのではないかと思えてならないのです。というのも、言い古されたことですが、専修大学の宿痾とも言える欠陥、すなわち全学的な問題に対する反応と対応の鈍さという中生代恐竜神経的症候群に対抗しうる唯一の組織が教員組合だからです。その意味での「外側から」の組合に対する重要性と期待は、ここ十年で増えこそすれ、決して減ってはいない。少子化に対抗するべく、各学部、大学院等々で、様々な改革の動きがなされていながら、あるいはなされているが故に、全体状況の見通しがたさ、不明朗さもまた、以前の比ではないほどに混迷を深めています。交通整理をしながら一歩一歩、確認しながら進むのではなく、何かが突然に、否応もなく、考える暇もなく、何の準備もなしに、既成の事実だけが積み上げられてゆく。各部分の神経が、中枢神経の統御を得ることなく、個別にバラバラに動く迷走状態に現場が振り回され続けているのが専修大学の常態であり、教員であれ、職員であれ、現場における無展望のフラストレーションは増大する一方ではないでしょうか。
 つい愚痴っぽくなってテンションが上がりましたので、反省して、話を戻します。従来の組合活動のメインは、待遇改善ですね。給料も手当も低い、研究室も無い、という状況に対する外側からの期待に対して、団交を中心とした執行委員会の内側の活動が答えてゆく・・・そういう図式に支えられて、ベアを要求する、一時金を獲得する、研究費の増額を勝ち取るという活動スタイルであったろうと思われます。
 そのような待遇改善の要求図式そのものは、もちろん今後とも変わりません。時折語られる「昔はヒドカッタ」風の懐旧的カタルシスの「今はよくなった」現状全面肯定的思い出話は、一見消耗にすら思える些細な改善要求、5円、10円のベア交渉の営々とした積み重ねの「内的」努力の継続ポテンツを低下させるだけであって、無責任に、評論家的に結果だけを「外側から」かすめとるのと同じ性質の行為です。
 しかし待遇改善というモノ的要求は、組合も経営もお互いにわかりやすかったのですが、専修大学の根本的欠陥であるフラストレーションには、ほとんど手をつけないまま、目先の待遇改善にお茶を濁していたのではないか・・・というのは、自分自身への批判を込めて言っているつもりです。一言でまとめれば「経営側の教学無視から来る中枢神経系の不在」ということです。「教学」とは大学の実質的な「内容」であり、「理念」であり、「頭脳」でもあります。大学教育そのものが混迷を深めているにしても、その混迷からの出口もまた「内側」にしか見つけられないのです。「頭脳」が時として「理念」に走りすぎるのを、事務サイドが身体システムのバランス維持という活動面からチェックし、経営が財政というエネルギー面からチェックする。それが大学における「教学」と「経営」の健全なあり方だと思うのですが、肝心の中枢神経系である「教学」を無視すること久しい専修大学の体制から来るダッチロール現象というあたりが、繰り返しますが、現状のフラストレーションの拠って来たる原因だろうと思われます。本来チェック機能である「経営」サイドに、大学の今後の「展望」や「理念」を期待しても原理的に無理なのです。しかし教学無視が体質と化している専修大学では、中枢神経系そのものが未発達なまま放置されていた結果、少子化等々で現れる外圧に対抗するためのシステムができあがっていません。環境の変化に適応できずに図体だけが大きくなってしまったのですから、やはりジュラ紀の恐竜のイメージでしょう。象徴的なのが、学長や教務理事といった「教学」トップのあり方が、他大学に例をみない「独自性」を誇っている(?)という事実です。ここに由来するダッチロール的マイナスの自己増殖は、大学全体の将来に関わるが故に、実は教員サイドに限ったことではなく、事務サイドも、あるいは経営側にとってすら、大きな負債となっています。健全な教学の確立無しには、健全な経営もまた、本来ありえないからです。
 ところで私はドイツ語を主として教えています。最近は専門の諸先生方も、一年生から教える機会が増えているようになっていますが、重点は3年生以上の100人、200人以上という講義形式が普通ではないでしょうか。それに比べると、私は毎年必ず一年生を相手にしますし、しかも多くても50名ほどの演習授業で、ひとりひとりの顔と名前を確認しながら、まっさらの状態にドイツ語のABCから教えてゆくわけです。ドイツ語の初級などの基本的な内容自体は、十年前も今もそれほど変わることがありません。ですから、学生の反応は、あるいは嫌みな言い方ですが、いわゆる学生のレベルというものは、少人数で、しかも全くの白紙の状態から教え始めるが故に、直接に、具体的に、経験としてよく体感できるのです。率直に言えば、十年前とは比較になりません。とりわけ、ここ二・三年の落ち込みには思わずウナルものがあります。十年前の内容レベルは、今や全くあきらめていますし、当然、十年前の講義スタイルもまた、今や完全に放棄しています。以前であれば、サラッと流していた導入レベルに重点を移し、ここまでやるのか、というぐらいに繰り返し繰り返し導入を丁寧すぎるほどに行います。従って全体の項目も、十年前の半分あたりまでしか進まない場合も覚悟しています。幸いなことに、専修大学レベルの学生諸君であれば、教える側が導入を丁寧に行いさえすれば、ややこしいドイツ語の文法にも、きちんと誠実についてきてくれます。しかし逆に言えば、十年前のスタイルのまま、駄目な奴は置いて行く的な一方向スタイルの講義を無反省に続けている限り、一種の「授業崩壊」現象は避けられないだろうと思えますし、私の綱渡り的工夫も、この先どれだけ有効であり続けるのかどうか、決して楽観はできないのです。
 そういった非常に危機的な状況が目前に迫っています。これは経営側が問題にし続ける受験生の減少→定員割れといった量的側面以上に深刻な事態なのです。それにもかかわらず教員の側にも、経営の側にも、もうひとつ危機意識が薄いように感じられるのは、私の思い過ごしなのでしょうか?少子化と大量消費に甘やかされた学生集団を相手に、我々は無力で消耗な後退戦を強いられているのです。しかもそのあたりを理解しない(できない)経営の側からは、例によって無展望で一方的な、その場しのぎの労働強化だけが要求され続けるでしょう。
 どうも、どんどん暗くなる一方のようですが、しかし、そのような危機というのは、個人的には、大学全体を変えてゆく良いチャンスでもあるだろうと思っています。あるいは良いチャンスにするべきだとせめて言わなければ、あまりにも悲しすぎます。そこで、先ほどから繰り返しているように、全学的組織である教員組合の存在が、今まで以上に重要になってきます。ひとつには、労働強化に対応すること、そして何よりも大学のダッチロール状態に対応すること。前者の課題は従来のスタイルを弱めないことで対処できます。しかし後者は、ただ漠然と「民主化要求」というよりも、むしろ組合の側から積極的に、十年後を目指した政策論議を起こしてゆく必要があると思われます。
 先ほど触れたように、執行委員はベアなり、研究教育なりの団交等々の日常業務で、ほとんど手一杯で、目先の課題に対応するのに追われています。その意味では、経営の教学無視体質とは異なった形ですが、やはり一種の中枢神経失調症にかかっていると言えないこともありません。しかし政策提言というのは、一年交代の執行委員会レベルで対応できるような性質のものではありません。ですから今の特別委員会のようなものを、もう少し強化した形で、一種のシャドー・キャビネットとまで言うと言い過ぎかもしれませんが、継続的なスタンスに立った組織が必要ではないかと思うのです。具体的な展望と政策提言を行い、大学の頭脳として、さまざまなブレーン団体や教授会等々の情報整理、交通整理、問題点の指摘、改善提案等々。
 何年か前に、特別委員会として大学財政検討委員会を立ち上げて、かなり細かな分析を依頼しましたね。ああいう委員会組織が、その場限りではなく継続的に活動して、要所要所で執行委員会を支えるデータを出し、あるいは大学当局に提言なり勧告なりを行う。大体そういうイメージです。
 そのためのベースとして必要なのは、大学全体の一種の総合対話を促進するための組織です。あ、また委員会が増えると思われるかもしれませんが、具体的な広報活動の充実が肝心だろうと言いたいのです。現在、組合ニュースが精力的に出されていますね。ただ、あれは日常業務の広報です。それとの連携を行いつつ、しかしニュースとは異なった次元で、教員、職員、学生等々の意見を集約し、発表し、大学の世論形成の場があれば良いなと思います。大学の各分野、セクション等々には様々な問題や不満が、形を与えられずに渦巻いています。それらを恒常的に吸い上げつつ、ちゃんと署名記事による批判や提言、反論等々で形を与えたい。そしてそれらをベースにした具体的な提言、あるいは公開質問を特別委員会の方からどんどん出してゆく。理事なり学長なりに公開質問第1号、第2号・・・とね。返事がなければ「なぜ返事がないのか?」第1号、第2号という具合に波状攻撃を行います。
 提言なり質問は、経営サイドに対するものだけではありません。同様に教員サイドに対しても行われるべきです。もちろん個人攻撃という趣旨ではなくて、政策論議に関わるレベルでの提言、質問等々です。例えば大学院教員の任期制などについては、単に学長への質問にとどまる問題では無いでしょう。
 重要なのは、今、議論されている事項は何であるのか、どこまで議論されているのか、何が問題であって、どう対処するべきなのか、等々の様々に交錯する声を、単純なその場しのぎ的なトップダウンによるのではなく、作業経過も含めて、なるべくリアルタイムで共有するチャンネルを大学内に確保することでしょう。それによって大学そのものが活性化できないだろうか。そういう趣旨に基づく広報組織を提案した次第です。教学無視の中枢神経系不在という専修大学的ダッチロール恐竜が生き延びるためには、相互の神経系が互いに連絡を取り合ってネットワークを形成し、中枢神経系の不在の代替をせざるをえないのです。もしかしたら、ありもしない中枢神経系などに過剰な期待を寄せるよりも、ネットワーク型の神経伝達を工夫する方が、21世紀を生き延びる確実な道なのかもしれません。 
 
 専修大学教員組合シンポジウム報告 2002年