精神論だけでなく

私大連盟FD研究会に参加して

                   経済学部教授 寺尾 格   

日本の夏は暑い。ほとんど亜熱帯ではないかと思われる7月と8月のはざまの二泊三日、浜松のホテルに缶詰になったのが、私大連盟主催のFD研究会であった。全国の私立大学から100名近くの教員が集まり、FDの現状と課題について話し合うという趣旨である。本学からは私と、ネットワーク情報学部の佐藤創氏が出席した。

もっとも「FD研究会」と言われても、つい先ごろまで何のことかわからず、「フロッピーディスクのことか?情報教育推進の研究会か?」と思うほどだったので、とても適任とも思えなかったのだが、今回のテーマが「大学における教養教育」と聞けば、興味半分、役目柄半分で参加した私大、いや次第である。

最初に国際基督教大学の学長の基調講演があり、続いてそれぞれのテーマの分科会で話し合う。私の選んだテーマは「新しい教養教育とは何か?」。それぞれの大学の現状や課題を述べつつ、グループとしての一応の報告をまとめる。分科会の合間に幾つかの実践報告も行われる。のべ10時間近くを膝突き合わせてアレコレと意見交換するし、食事も分科会単位なので、三日も付き合えば、それなりに親しくもなるのだが、やはり「教養」という言葉のあいまいさのゆえに、短時間で建設的な議論となりにくいのはいたし方がなかろう。むしろ専修大学の取り組みが、どこの大学と比べても遜色ないどころか、むしろ一歩も二歩も進んでいるように見えたのは、決して自己満足の故ではないと思われる。

総じて、いわゆるFDのあり方が曲がり角にきている印象が強かった。上述の基調講演が象徴的で、専修大学にも講演に見えられたはずだが、説明の口調は慣れたもので、最新データの提示にパワーポイントを用いて説得力を増そうという努力は参考になる。しかし肝心の内容は要するに「大学の教員は研究だけでなくて、もっと学生の教育にエネルギーを注ぐべきだ」という当然過ぎる主張を繰り返しているだけにすぎない。主張自体は誤っていないし、そのように主張しつづけることによって、悪しきアカデミズムの硬直を改善するべきなのだが、終始一貫、精神論から一歩も出ていない。

実践報告も同様で、東海大学の某先生が「毎回の講義の感想メモにコメントを付して返す。」実はポート・フォリオと呼ばれる学生との交換メモの類は、昨年のLL教室ワークショップで英文の田辺先生に教わってから私も実践しており、その教育効果は驚くほどである。しかし最初の試みということもあり、私自身は一クラスだけでしか実施していない。ところがその先生は十コマ近い全ての講義、延べ千名を超える全ての学生を対象にしていると得々と述べる。信じられぬとばかりに思わず質問すると、「土日はすべてつぶれます。」

大学教育に対する誠実な思いは感じられるのだが、それが個人的で超人的な努力に支えられるしかないとすれば、ひどく一方的と言わざるを得ない。誠実に学生と向き合おうと悩む多くの教員にとっての問題は、そのような努力を支える教育システムの欠如であって、具体的システムの開発と改善によって初めて、研究会で提案されているような精神論も生きてくるのである。精神論だけが声高に主張されるだけでは、「滅私奉公」「なせばなる」「撃ちてし止まん」だけで突っ走った日本軍隊の愚かさと何も変わらない。単なる精神論を超えて、大学の教育システムの改善に対する冷静な議論と具体的な提案こそが肝要な段階に来ているのではないだろうか。

 専修大学FD委員会広報誌 第5号