乾いた「声」のブレヒト演出

 

寺尾 格(ドイツ現代演劇研究)

 

 舞台における「声」の存在感には、ほとんど官能的とすら言える魅力がないだろうか。

しかし、ただウットリと美しさに酔いしれるような、音楽的な情緒や感傷とは全く異なった使い方もあるし、むしろその方が、より演劇的な刺激に満ちているように思える。あえて不協和音を使うかのように、意味と響きとを相互にズレさせて、意識的に身体化させた「声」に「異物」としての手応えを感じさせる・・・それが高山明演出のブレヒトの基調であるだろう。

 

内容としては、ブレヒトの初期の『家庭用説教集』から十幾つかの詩を選び出して、それらを独自に構成したパフォーマンス舞台で、ブレヒトの詩は幾つにも分割され、断片が様々に絡まり合いながら進行する。途中から別の詩がかぶさったり、フーガのように進行したり、あるいは宙に投げ出されて、突然、消えてしまうこともある。

 

このような断片化による「意味」との距離感を強調するのが、多様に変奏する独特なイントネーションである。泡のようにプツプツと語られたり、意識的に単調なメロディーを繰り返したりもしていたのだが、特筆するべきは「赤ん坊殺しのマリー・ファラー」の詩に最も特徴的に現れた「語り」のトーンであろう。

 

  マリー・・・/ファラー・・・、/生ま・・・/れた・・・/月・・・/は・・・/春・・・/ 四月・・・/だが・・・/

 

短く、不自然に区切られた音節の最後に軽くアクセントを置いて、それを伸ばしぎみに単調に繰り返す。寄せては引く波のようなリズムで語られる「子殺し」の物語は、語られる内容の三面記事的酷薄さに対して、つかず離れずの微妙な距離感を生み出す。それは、言葉の内容的な意味レベルでの反応に優先する性質のもので、「声」の直接的な「響き」から、感覚的な、ほとんど身体的な違和感として立ち現れるものである。そのような距離感が「観」客に生み出す緊張は、単に「声」のみならず、空間処理や音楽、身体行動等の舞台アンサンブルにも常に一貫して保たれていた。

 

安易な「意味」付与を宙づりにするような、不自然に単調な、しかし独特の魅力に満ちたイントネーションを時間をかけて練り上げた努力は、日本(語)の宿命とも思えるウェットな同化作用を、ブレヒト的な、時に冷酷にすら思える乾いた視線へと転換しようとの思いからであろう。

 

感傷性とは対極にあるブレヒトを舞台化するという点で、ポルト・ビーによる乾いた「声」の舞台は、非常に興味深い、貴重な試みであったと思える。

                                                         (40字×27行)