発声とウォームアップ

外国語の導入教育のために                 

                                                寺尾 格

1 はじめに

 毎春の最初の講義、新しい学生諸君と顔を合わせる瞬間の思いには、実に独特なものがある。うまくドイツ語の世界に入ってくれるだろうか?そのような快い緊張と軽い不安は、これから一年間にわたるドイツ語講義の成否のかなりの部分が、実は最初の第一回でほぼ固まってしまうことを経験的に知っているからである。

 10年程前までは、最初にドイツ語の背景説明と数詞、あるいはアルファベートの発音練習を最初の導入とした後、二週目には早くも動詞の人称変化語尾の説明をしていた。以後、定冠詞の格変化、不定冠詞の格変化等々、毎時間新しいテーマで坦々と進んで、一年間で初級文法を一通り仕上げた・・・ような気になっていた。

 それが教える側の単なる自己満足にすぎないと了解するためには、特別な感受性を必要とするわけではない。例えば、中学・高校で身に付ける英語の勉強は、発音と綴りとが不規則的であるため、「綴り」の修得に異常なエネルギーが必要なのと比べると、ドイツ語は幾つかの発音の基本を身に付けさえすれば、厳密な発音はともかく、一応の実用レベルで「声を出して読む」ことに、それほどの困難は無い・・・はずなのだが、しかし二年次の中級の講義を受け持てば、ごく当たり前の単語すら正しく発音できない学生が、決して一人や二人ではない。

 そのような学生に対して、「過去と完了の相違」とか、「接続法の用法の相違」を得々と自己満足的に説明し続けることに何の意味があるのか?何年も前だが、某ベテランの先生に「実は格変化すら理解できていない」と愚痴ると、某先生曰く、「それは頭が悪いのです」と一刀両断のあげく、後は涼しい顔で我関せずの風情であった。以後、その先生相手に愚痴るのはやめて、「導入」の重要さを自覚・工夫するようになった次第である。その際の指針となったのは、同僚田辺氏の主張する「教える内容にばかりエネルギーを集中させず、むしろ導入・モチベーションと、後のフォローとに等しく労力配分を行うこと」。必然的に「教える内容」それ自体は、10年前に比べて、ほぼ半減することとなった。

 

2 発声とウォームアップの目的

 基本的なモットーをまず明らかにすると、「語学はスポーツだ!」ということになる。モットーの趣旨は、「わかる」と「できる」は違うという当然の事実で、「身体訓練」を欠いた語学教育は砂上の楼閣にすぎないにもかかわらず、これまでの語学教育には、そのような意識があまりにも希薄に過ぎたのではないかとの自己反省がある。

 実際、文法だけをガチガチと詰め込むような教え方への反省から、communication とか、あるいはcommunicabilityを標榜するのは良いのだが、この「コミュニケーション能力」を「会話力」と単純化してしまったあげく、コトバの原理的なあり方への了解を欠いたまま、目先の会話知識をひたすら詰め込むだけの「言語道具論」に堕している感が無いではない。重要なのは、従来の外国語教育が扱っていた「語彙」と「文法」の土台となる「パフォーマンス能力」へ意識を向けることにある。この基礎的土台への認識を欠いたままの外国語教育は、単なる羅列的知識の「詰め込み」にしかならず、必然的に、かなり浅薄な「効用主義」から先へは進めなくなる。

 ここで「パフォーマンス」と言っているのは、個々の「知識」を具体的な「使用」において再編成することであり、そのためには、知識を支える「身体能力」、すなわち自らの「身体感覚」の自覚が前提となる。それこそが「コミュニケーション能力」の最も重要な核心であろう。

そもそもコトバには、「語彙」と「文法」といったロゴス的側面が概念的レベルとして存在する一方で、他方にパトス的側面として、例えばコトバの「響き」のように、直接的に相手の感覚それ自体に訴えかけるレベルも無視し得ない重要さを持つ。ロゴス的側面から見れば、外国語も数学も全く共通の土台に立っており、黙々とプリント問題を解いてゆくような方法で、知識を頭に刻み付けてゆくことになる。

しかしコトバは、具体的なイメージを喚起する側面と、直接的に相手の感覚に訴えかける側面を持つという点で、数学とはそもそもその様態を異にする。これを一言で示せば、「コトバは身体感覚を持つ」ということで、この身体感覚への意識の故に、コトバとは、何よりも「ワタシ」が「アナタ」に、「今、ここ」で「語る」ものとなる。言い換えれば、相互の「身体」を支える「場」に関わらざるをえない。自分が「今、ここ」に存在する実感、すなわち自らの身体感覚への意識こそが、自己の実存を支える根拠であるのだが、実はこの根拠そのものが、他者が「今、ここ」に存在する実感、すなわち他者の実存への意識と切り離せないのである。「アナタ」無しには、「ワタシ」も成立しえない。

そもそもcommunicationという言葉自体が、 communeに由来し、更に commonにまで遡ることができるらしい。自己と他者とを媒介するという行為こそがコトバであるにもかかわらず、そのような媒介を支えるはずの「身体感覚」を欠如したままでは、「コミュニケーション能力」の主張に実質が伴わなくなるのも当然であろう。

 従ってコトバとは、何よりも相手と「語る」ためにある。「語る」ためには「声」を出さなければならない。しかしそれを「自分」のみならず、「相手」にも要求するとなると、これがなかなか大変であるのは、言うまでも無い。「何でそんなカッタルイことをしなければならないのだ?」との学生諸君の不信のまなざしに取り囲まれるのは必至だからである。

対応策としては、コトバとはそもそも・・・という本質論と、具体的な発声についての指導とを、如何に効果的に組み合わせるかということになる。外国語教育において「声を出す」ことの効果は既に常識的な主張であると思われる割には、単なる精神論を超えた具体的な発声指導が充分に行われているとは思えない。発声という具体的なメカニズムの練習を通じて、コトバがココロとつながっていることを自覚する一助となれば、まことに喜ばしいのであるが。

 

3 発声とウォームアップの実際

 以下のステップは、その全てを行うのではなく、毎時間のはじめに15分ほど、ポイントを押さえつつ、少しずつ先に進んでゆくと良い。

 

1ステップ:発声以前の前提作業。

 

@:まずはリラックスすること。

具体的には、「首と肩の緊張を取る」。しかし実は、これは非常に難しいことなのだが、手や首を脱力する作業には、軽く振る、回す、力を入れてから脱力する等々、様々なやり方がある。

 

A:正しく立つこと。

これも実はひどく難しいのだ。具体的には「背筋を伸ばす」。イメージとしては、地球の中心と天頂を結ぶ軸上に自分が立っているという意識を持つと良い。あるいは、天頂に頭が引っ張られるような感じとも言える。

 

B:胸を開くこと。

具体的には「肩を軽くやや後ろに引く」。あくまでも「感じ」であって、無理に突っ張ってはいけない。日本人の多くは猫背で、「胸を張る」と言われると、しばしば不自然に緊張した旧日本軍隊風の姿勢になるが、常にリラックスが大切。もちろん、「出っ腹」も禁物。

 

C:呼吸と支え

 これは、いわゆる「腹式呼吸」で、きちんとした声の出ない原因の多くが、この呼吸法のできないところにある。ただし腹式呼吸そのもの以上に重要なのが、横隔膜による「支え」で、こればかりは口だけではうまく説明しがたいコツがある。

 

1ステップの補足:以上の四つの前提で重要なのは、いわゆる「腰が入る」ということで、声とは、もちろんノドの声帯を震わせるのだが、その音を効果的に響かせるための上記諸前提の土台が「腰」である。従って最近の学生に多い、座席の先っちょにチョコンと座って、半分寝そべったように大あぐらをかいたり、あるいは机に突っ伏したように頬杖を突いているのは、そもそも「腰が入っていない」ことになる。

あるいは逆に、いきなり大勢の前で話さなければならない時など、いわゆる「あがった」状態では下半身に力が入らずに膝も震える。そういう際には、当然、声も上ずってしまう。「臍下丹田に力を入れる」とは、腰を据わらせるということであって、声とは、実は「腰で出す」というのが、「腹で支える」ということのポイントなのである。

「支え」を練習するためには、吸った息を、最初に五つで吐ききる、次に十で、十五で、二十・・・と進むと感じがつかみやすい。吐く息をコントロールする訓練が、最初の二・三回は中心となる。

 

第2ステップ:母音

 

@鼻母音:ン〜〜ア〜〜

 口ではなくて、ノドを開くことを理解するためには、最初に唇を閉じたままの「ン〜」という響きを感じさせる。唇と鼻の先に「響きを集める」。その際に、口内の空間を舌が閉じていないようにする。「卵が口の中に入っているように」。

 「ン〜」という鼻母音の「響き」を維持したままで、口を開く。「ン〜 → ア〜」

「口を開く」ことよりも「ノドを開くこと」の方が重要。 

 

A基本の母音:A E I O U

 「ノドの開き」から、今度は「口の形」に移ると、基本の母音の発音となる。一音ずつ明瞭に「ア、エ、イ、オ、ウ」と発音するが、日本語で示すよりも、アルファベートで示す方が、発音に意識を集中させ易いような印象がある。

 

B練習:あめんぼ赤いなアイウエオ 浮き藻に小エビも泳いでる。 (北原白秋)

非常に有名な発音練習用の詩の一節。まずは日本語によって、改めて自分の発声と発音に意識を向けてもらう。母語では、ばくぜんと、不明瞭な発音であっても、それなりに意味が通るのだが、外国語学習では、その無意識なところを意識化しなければ、先に進むことができない。

 

C留意点1:「分節」を意識する。

  []めんぼ []かいな []イウエオ []きもに []エビも []よいでる

まずは「最初の音節」が意識されることだけで、全体がクリアに聞こえるようになる。最初に何回か、何も言わずに発音させ、次にこの留意点を確認した上で、同じ学生に繰り返させる。すると周りで聴いている他の者に納得させる効果がある。

 

D留意点2:第二音節の母音に軽くアクセントを置く。

んぼ あいな アウエオ うもに コビも おいでる

 これは日本の伝統演劇の基本的な語り方である。以上の留意点の1と2とだけでも意識しさえすれば、誰であっても、通常の日本語での「語り」が相当にクリアになるはずである。

 

E改めて確認練習:おアヤや、母親にお謝り!

なるべく耳だけで繰り返させた方が効果的である。無理なく発音できればOKなのだが、ほとんどの学生は、いきなり言われたためでもあるが、できない。何故か?実は「ア」が、きちんと開いていないのである。ここでバクゼンと発音した「ア」を、もう一度意識することとなる。「ア」が明確に開いていないから、「オ」と差別化できずに、「おヤや」が、「おヤや」になってしまうのである。

ここまでのところで、すでにコツがつかめている学生と、全然できない学生との差が開いてくる。改めて「わかる」と「できる」は違うこと、外国語学習とは、まずは筋肉訓練であり、凝り固まった口を十分にほぐすためには、それなりの時間が必要であること、これらを確認して、もう一度おさらいを繰り返す。

 

F再度挑戦:「ア〜」

 「ノドを開く」こと。「ア」という音は、全ての音の根源であり、これを十分に「響く」音にすることが、良い発声の第一歩となる。但し日本語の「ア」に比べて、ドイツ語の「A」は、もう少し口の奥である。これが@における「口の中に卵が入っている」ことのポイントと言える。同じ「ア」を、口の前、中、奥と変化させて発声練習をさせると納得され易い。

 

G再び母音: A E I O U

これらは、そのままで、すでにドイツ語のアルファベートとなる。母音の全体が、日本語よりも奥で発音するのがドイツ語であって、AOの区別がすでに了解できていれば、Uを意識させる。Uは、Oよりも更に明確な唇の形が必要で、UOで唇が突き出ていれば完璧である。

 

第3ステップ:子音 F L M N S

 これらも、そのままで、すでにドイツ語のアルファベートとなるのだが、子音となると、母音以上に、これまでの6年間の英語知識の実態が暴露される。最後のSから、順番に練習すると良い。

 

@ S

 多くの学生が「エス」と読む。子音ということがわかっていない。もちろん後ろに「ゥ」という母音をつけないのだと、これは指摘さえすれば、ほとんどの学生はすぐに直せるのだが、全く直せない者も何人かは出てくる。「できない」ことをあげつらうのではなくて、これまでの英語の勉強に対する訓練不在を自覚する契機として利用したい。

 

A N

 これもSと同様、「エヌゥ」ではないことを確かめてから、もう一歩進める。第1ステップの@およびFの「ノドを開く」とは、舌を口内で上に密着させないということでもあった。その状態での「N」は、日本語の「ヌ」とは、全く異なった響きとなる。舌の中央部は開いたままで、舌先だけが上の歯の根元につく。これも実際にやってみせて、響きの相違を自覚させるしかないのだが、このあたりは、中学・高校での発音指導の良し悪しが如実に現れ、もちろん「良い」場合は少ない。

 

B 以下、同様にM L Fと進んでゆく

いずれも日本語とは異なる発音の練習であり、多くの学生が響きの相違を明確に発音できない。特にFHと区別できない。繰り返すが、「できない」ことを、むしろ今後の外国語の勉強への積極的なステップとしたい。6年間もの英語の勉強は、実は何だったのか?机の上で黙々と鉛筆を動かすような外国語の勉強とは、何か、根本が間違っていたのではないのか?そこに「気づく」ことができれば、今後のための重要な一歩となりうるだろう。

 

4 最後に

「人は何故スポーツをするのか?」と問われれば、ヒラリー卿のように「そこにスポーツがあるからだ」と答えるしかない。スポーツとは、まさに自己の身体をフルに活動させる喜びによって、「生きている」意味を直接に身体感覚として獲得する場であろう。同様に、「人は何故語るのか?」と問われれば、「そこに人がいるからだ」ということになる。「他者」と共に「生きる」しかない「自己」を支えるのが「コトバ」であり、コトバとは、単なる道具的な記号を越えて、人間が生きる場としての「身体感覚」を欠いては成立し得ない。外国語を学ぶとは、そのような人間の本質的な有り様を取り戻すための重要な契機となりうる筈であろう。最後に結論のモットーを繰り返したい。語学はスポーツなのだ!

とのモットーを繰り返す所以である。

 

補注

 本稿の内容を補うために、具体的な授業内容を録画し、キャプションをつけてウェブ上に載せる作業に取り掛かっている。現在は試行的に一部分だけしか出来上がっていないが、平成15年度中には、ドイツ語の発音導入の二・三回分を作成する予定である。

 なお、入門書としてお勧めできるのが、鴻上尚史『発声と身体のレッスン 魅力的な「こえ」と「からだ」を作るために』白水社 2002年