ドイツ演劇 2002年   

予算削減と民営化・合併の嵐

                             寺尾 格

 昨年のドイツ演劇界で最もしばしば飛び交ったのは、おそらく「ワイマール」と「ver.di」という言葉であろう。人口6万人強の小都市ながら、民主憲法の名前の冠された「ワイマール」の名前は文豪ゲーテの地としても有名だろうが、「ver.di」とはドイツ経済用語で、演劇人にはなじみが薄いかもしれない。一昨年の3月に、マスコミも含んだ公務員中心のドイツ基幹労働組合の五つが統合を行った。総評や連合といった個別企業労働組合の連絡組織ではなくて、合わせて300万人を抱える産別労働組合が完全に一つの組織になったのである。ドイツ語で書くと Vereinigte Dienstleistungsgewerkschaftで、つづりの頭を取った略語がver.diとなる。ドイツ統一とヨーロッパ統合、およびいわゆるグローバリゼーションの中で苦しむドイツ経済の編成替え圧力に対する、労働組合の側からの新たな対抗措置である。というのも、ここ二年ほどのドイツ経済の低迷ぶりは日本同様に深刻なもので、2000年までは2~3%を保っていた成長率も、昨年はついに0.1%という有様で、赤字に苦しむ各自治体の文化予算も、のきなみ前年度比5%から10%の減少、昨年並みの演劇予算を確保したニーダーザクセン州がニュースになってしまうような状況である。

 予算削減に対応する方法は、まずは補助金のカットで、続いて最悪の場合には閉鎖も視野に入れられて、ドイツ各地域の公的劇場が経済的苦境の嵐の中、独自のアンサンブルと専属スタッフを守るべく迫られているのが、民営化と合併である。それがver.diという言葉の意味である。しかしドイツの各自治体が教育や道路や図書館のみならず、オペラや劇場にも豊富な予算を支出していたのは、文化活動こそが各地域固有のアイデンティティを左右するという共通認識からであった。それがドイツ国民劇場(むしろ「市民」劇場と言うほうが実態に合っているだろう)として象徴的な「ワイマール・モデル」なのだが、実は30キロ離れたエルフルトの劇場との合併案が市当局から出されていた。そして「ワイマールか、ver.diか」の激しい内外の論議の結果、提案は市議会で拒否されてしまい、関係者は頭を抱えている。同様に300万ユーロの劇場赤字に苦しむチューリヒは、昨年の批評家ベスト劇場の総監督であると同時に、演出でも評価の高いマルターラーの打ち切りを一度は宣告したものの、各方面からの強い批判で撤回せざるをえなくなった。ハンブルクでは107年の歴史を持つハンザ劇場等への補助金の完全打ち切り、あるいはベルリンでは複数のオペラ劇場のバレエ部門の統合。また、先鋭な実験劇の中心でもあったフランクフルトのTAT劇場は閉鎖が決定。フランクフルト・バレエ団の総監督で振り付け家のウィリアム・フォーサイスも、大幅な補助金削減を受け入れたものの、今期末での辞任を表明。夏の洪水で大被害を受けたドレスデンは、オペラ座が12月にやっと再開の一方で、9月早々から活動していたオペレッタ部門を廃止するらしい等々。   

しかし劇場の経費削減が重要な社会問題となり、関係者の豊富なインタビューや、演劇・芸術・文化の本質論にまでさかのぼって、相当にケンケンガクガクと論議し合うところが、国立大学の場合ですら経済効率論から先に進まないような日本の民営化論議とは、かなり様相が異なっているように思えるのだが。

戦後の民衆劇再発見の契機ともなった劇作家のマルティン・シュペルが57歳で亡くなった。シェイクスピア学者として著名なヤン・コット、不条理演劇という表現を定着させたマーティン・エスリン、それぞれ東欧圏出身で西側に亡命した二人の演劇学者も亡くなっている。また、グリュントゲンスとの公私の関係、ハイナー・ミュラー作品やトーマス・ベルンハルトの『英雄広場』まで、ドイツ現代演劇史の要所を押さえた女優のマリアンネ・ホッペも、10月に93歳で鬼籍に入った。

 昨年前半までのシーズンの批評家ベスト作品とされたのが、ルネ・ポレシュ作・演出の『プラーター三部作』。プラーターとはベルリン・フォルクスビューネ劇場のバラック風実験劇場のことで、例えば『セックス』では、三人の女性が時折「クソッタレ!」とか叫びながら、ほとんど脈絡なく、引用と思われる台詞をわめき合い続けるもので、非日常的言語と身体表現の可能性ということになるのであろう、たぶん。次のベスト作品がアルベルト・オスターマイヤーの『最終アナウンス』(ウィーン・ブルク劇場4月初演)は、空港ホテルに寝泊りしながら、最終フライトのアナウンスが流れると出没する男が、たまたま空港にいる様々な男女と、かりそめの触れ合いを繰り返すというもので、空港という永遠の途上の場所と、現代風ビジネスマンの空虚さとを絡めた作品。少々ボート・シュトラウス的でもある。三番目のベストは、昨年急死したアイナー・シュレーフの『ニーチェ三部作』で、妹や母と絡む独我的なシュレーフ=ニーチェを、ひどく難解なテクストで織り上げる。

 昨シーズン外国作品ベストになったノルウェーの作家ヨン・フォッセ『秋の夢』(ベルリン・シャウビューネ劇場200110月初演)、および『冬』(チューリヒ・シャウシュピールハウス3月初演)は、男と女、家族の心の屈折をしみじみとリアルに描く。多用する間投詞や言いよどみ、反復や中断が、あたかも詩のような沈黙の凝縮を生み出しており、演劇固有の言語表現領域への思いを新たにさせてくれる。

 夏のザルツブルク演劇祭は観客数増加で、昨年比130万ユーロのプラス。そこでのペーター・トゥリーニの新作『サンタ・フェのダ・ポンテ』初演は、モーツァルトの有名オペラの台本作者ダ・ポンテが晩年にアメリカで自己主張する楽屋裏的な話だが、昨年評判の『ワタシハコノ国ヲ愛シテマス』のような強い社会的な皮肉が薄く、底の浅いエンターテインメントと不評。演出のクラウス・パイマンは「観客の無能」を罵倒しつつも、ベルリーナー・アンサンブルの方は2007年まで総監督を継続。フランク・カストルフも2007年までベルリン・フォルクスビューネを続けるが、1994年以来コンビを組んでいたバレエのヨハン・クレスニクはボンに移るらしい。ライン川沿いのボン、ケルン、デュッセルドルフ、デューイスブルクと、100キロ近く離れた四都市共同開催の世界演劇祭は、規模の大きさに反比例した観客不足に苦しんだ。

 ベルリン演劇賞、ハイネ賞、ミュルハイマー劇作家賞と今年も次々に受賞して、相変わらず人気の高いエルフリーデ・イェリネクの新作『アルプスにて』(ミュンヘン・カンマーシュピーレ10月初演)は、2000年にチロルのスキー場での登山電車火災による155名もの死者が出た事件を取り上げ、利益追求の観光主義と、その背後にある反ユダヤ主義を、彼女固有の何ページにもわたる非ドラマ的モノローグで告発する。演出はマルターラーで、本拠チューリヒでの『美しき水車小屋の娘』の演出に続いて、時に音楽的な枠組みを取り入れて相当に評判が良い。

 ボート・シュトラウス『思いがけぬ帰還』(ベルリーナー・アンサンブル3月初演)は、中年夫婦のそれぞれに、昔の不倫相手の男と今の不倫相手の養女とが絡み、最後が寓意的な話だが、起承転結が明瞭で、これを創作力の衰えと見るか、新たな予感と見るかで評価が分かれる。というのも、批評家好みの挑発的実験劇風テクスト破壊の作品群とは別に、一種の歴史回帰とも言えるような方向も強いからで、例えばビュヒナー賞受賞で、昨年翻訳作品集『本当の望み』(三修社)の出たフォルカー・ブラウン新作『辺境防壁 マルクス・アウレリウス』(カッセル3月初演)は、ローマ皇帝の即位から死までの物語を凝縮したテクストで硬質に描くし、またモーリッツ・リンケ『ニーベルンゲン』(ヴォルムス野外演劇祭8月初演)は、現代風のアレンジを軽やかに行いながらも、有名な中世叙事詩の物語自体にはきわめて忠実である。同じアレンジでも、ヘルムート・クラウサー『我らの歌』の方は、ニーベルンゲン素材の中に隠されている当時の政治状況をリアルに捉え返し、「死」を「詩」に曲解して永遠化させる吟遊詩人の虚構性を前面に押し出す。

 ジビレ・ベルク『ミスター・マウツ』(オーバーハウゼン3月初演)は、他人との関係性を構築できない男が、東南アジアの安ホテルで自らの一生を語るモノローグを主にして、そこに語り手が説明的に絡み、更にゴキブリがコメントを加えるという重層構造に、奇妙な説得力を感じさせる佳品。フリッツ・カーター『生きる時、死ぬ時』も、旧東独の若者の閉塞を描いていると、そのように言ってしまえば月並みに聞こえるが、ドイツ語の通常の表記法を無視した語り口と、コロスと対話を音楽的に構成しようとするところに、ポップな工夫が見られる。最後に一言、昨年秋に翻訳の出たハンス・ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』(谷川道子他訳 同学社)は、ドイツ語圏の同時代演劇をメインに扱うのみならず、現代演劇関係者には必読の書であろう。       

 

 国際演劇年鑑2003 諸外国の演劇事情 
    発行:国際演劇協会(ITI/UNESCO)日本センター