外国語・異質さと新しい自分と

 

  ドイツ語担当 経済学部教員 寺尾格

 

 専修大学でドイツ語を教え始めたのは平成が始まった年だったので、学生諸君はまだ小学生になったぐらいだろうか。十五年近くの間に、愛らしい子供たちは生意気盛りの大学生となったし、当方は白髪が増えたし、バブルははじけるし、ドイツどころか欧州は統合されるし・・・この十数年の変化の激しさは、単なる懐古趣味だけではすまされないものがあるだろう。

 

 なかでも大きな変化は、いわゆる情報化の進展で、グ−テンベルク以来という言い回しのように、紙情報から電子情報への変化は、我々の知のあり方、認識の仕方、存在の仕方に対して、奥のほうからの変化を迫っているようだ。実はこの原稿も、ウィ−ン大学そばのインタ−ネットカフェで書いている。最初は日本語の入力がわからなくてウロウロしてしまったのだが、受付の若者が親切に教えてくれて、原稿を送ることができた。ちなみにベルリンの中心、ク−ダム通りにも100台近くを備えた大きなインタ−ネットカフェがあって、ダンキンド−ナツと提携していた。ただし、ベルリンでは日本語入力の装備がなくて、読むだけならば問題はなかったのだが、書くことができなかったのだから、欧州の古都ウィ−ンも、なかなか捨てたものではない。

 

 情報化の光には、当然ながら影もある。日がな一日電子画面のみを見つめていて、情報だけが肥大した頭でっかちになるということと、自ずから他人に対する許容性が欠落してくるという危険である。そして外国語とは、まさに他者への許容性が鍵となる能力だろう。

 

 というわけで、この数年の私のドイツ語の授業は、十年前とは様変わりしている。

第一にホ−ムページの活用で、これは工夫次第で様々な可能性があるだろう。興味のある方は、私のHPを覗いてみてください。

 

 第二は教える内容で、もちろん基本文法と基本語彙を教えることには変わりがないのだが、実際に声を出すレベルに対する訓練が、十年前とは比較にならないほどの重みを増している。読むという受身ではなく、話す・書くという、より積極的なレベルでの勉強が現実味を増しているからだが、事は単なる外国語の知識だけのことではない。

 

 新しい21世紀が、良い意味でのグロ−バリズムに向けて進んでゆくとすれば、閉塞した悪しきナショナリズムに対抗するだけの、真に開かれた態度が形成できるかが我々に問われている。外国語を学ぶとは、見知らぬ相手に語りかける態度を身につけることであって、たとえば数学を勉強しているのとは全く異なった姿勢が要求される。

 

 なぜならば言葉とは、それを語り、聞く人間自身の相互の、具体的なまなざしを欠いては存在しえないからだ。そして言葉を学ぶとは、異なった文化に対して開かれた態度を学ぶことでもある。異質な社会・文化・あり方に対して、それを単純に拒否せず、しかし同化することもなく、一定の距離を保ちながら、しかし興味を持って、その異質な存在との関係を保ち続ける姿勢を学ぶことでもある。実は異質なものこそが、真に興味深い、学ぶべき対象ではないだろうか。なぜならば、その異質さは、新しい自分を見出す核となるはずのものだからである。異質さに対して頑迷に目を閉ざすことは、自己の可能性をひとつ捨てることになってしまう。新しい時代とは、そういう新しい自分を形成しようとする姿勢から作られていくだろう。

 

  38字×40行 1520字

 

    専修大学LLだより 第23号 2004年4月