三者三様『三人姉妹』イン・ベルリン

 

ペーター・シュタイン、クリストフ・マルターラー、ミヒャエル・タールハイマーの演出について

 

寺尾 格

 

0 「演出」について

 

 「演出」とは何かと問われると、これがなかなか難しい。例えば手近の独々辞書 Dudenの Universalを覗くと、「舞台上演の技術的、芸術的な準備、形成および指導」と載っているのだが、あまりよくわからない説明だろう。「演劇」が「戯曲」という「文学」の一ジャンルにとどまらずに、独自のダイナミズムを持つことが意識され始めて、「演出」が決定的な概念となるのは、先駆的な試みを別とすれば、ようやく20世紀に入ってからにすぎない。そもそもドイツ語の「演出 Inszenierung」という言葉自体が「場面の Szene」+「中 In」であり、これはフランス語の「演出、上演」mise-en-scene を逐語的にドイツ語にした言葉で、19世紀初めに作られた造語なのである。[1]

  ところで「日本におけるドイツ年」に対応して、2005年の春から2006年にかけて、ベルリンを代表する四つの劇場の日本公演が連続して行われた。「今・現在」を示す同時代的な舞台はなかなか刺激的であったが、いずれも内容の大幅な「改作」に「演出」の手際が問われる性質の作り方をしていた。そこからは「現代」および「ドイツ」の演劇の抱える問題意識が明瞭に看取できるのだが、「演出」というパフォーマティヴなあり方への分析的なアプローチの試みは、いまだ始まったばかりである。

「演出」について語ることは、単に言語「作品」を舞台へと「具体化」するテクニックではない。つまり舞台化の無数の作業を統御する「準備、形成および指導」行為であるという技術的なレベルにとどまるものではなく、むしろ舞台を構成するそれぞれのレベルでの「今」との対決を意識する「問題性」全体が「演出」の核であろう。従って、「今」を意識した問題意識の解析こそが「芸術的な」という形容詞の「命」である。にもかかわらず「演出」という演劇の最も重要な、いわば「旬」にあたる部分こそが、実は最も捉えがたく、最も説明しがたい特有のダイナミックな魅力である。本稿の基本的な主旨は、ドイツ演劇の、特に「演出」に関わる一回限りのパフォーマンスに関して、ある程度理論的な論究 を準備するためにも、チェーホフの『三人姉妹』という、日本において周知とも言える具体例を素材とした舞台の有り様を通して、「ドイツ」の、そして「現代」の演劇が時代と切り結ぶ刺激的なうごめきについて、「演出」という側面から検討してみようということである。

 

  正調リアリズムの伝説的舞台:ペーター・シュタイン演出<1984年のシャウビューネ劇場>   

 

  演出家ペーター・シュタインは、2002年の夏、ロシアの俳優による『ハムレット』を新国立劇場で上演したので、日本でもようやく一定の認識がなされるようになったが、[2]ドイツおよびヨーロッパでは、戦後演劇の一時代を画した演出家としての評価はすでに定着していると言えるだろう。ベルリンの壁崩壊以前、戦後の分水嶺と見なされていた1968年の学生反乱以降の時代を反映した演劇活動の中心が、1970年代から1980年代のベルリン・シャウビューネ劇場と、ペーター・シュタインの演出であった。とりわけ評価の高い舞台が、1969年のブレーメンでのゲーテ『タッソー』、1971年のイプセン『ペール・ギュント』、1980年のエウリピデス『オレステス』、および一連のペーター・ハントケやボート・シュトラウスの作品など、枚挙に暇がない。いずれも作品の新しい解釈が、シャウビューネの個性的俳優たちによる舞台表現の斬新さと一体となって、ほとんど伝説的となるほどの人気を沸騰させ、ベルリンの演劇のみならず、作品面におけるその後のドイツの劇作家たちの豊富な創作活動を支える基盤を提供し続けた。[3]

  シャウビューネ劇場は、1970年にペーター・シュタインを中心に、チューリッヒ時代の俳優達(ブルーノ・ガンツ、エーディット・クレーファー、ユッタ・ランペ等)と共に新結成されたアンサンブルで、正確には「レーニン広場のシャウビューネ劇場」と言う。

 ベルリンの繁華街クーダム通りの中心に、第二次大戦の戦災の姿をそのままに残すヴィルヘルム皇帝記念教会が立っている。そこから西に30分ほど歩くと、大きな並木のある広いクーダム通りは歩行者も閑散とし始め、「レーニン広場」に至る。普通はバスを使う距離だろう。劇場は丸く、特徴のある現代風の建物で、元は映画館であったらしい。「レーニン広場」と言っても、ロシア革命の「レーニン」とはつづりが違う。最初は「ハレ河畔」にあった劇場からアンサンブルが移転したので、それ以前の時代と区別するために、わざわざ「レーニン広場の」と呼ぶ。現在は、2000年から若手の演出家トーマス・オスターマイヤーが総監督となっていて、振付家のザーシャ・ヴァルツと組んでコンテンポラリー・ダンスにも力を注ぎ、ベルリン演劇の新しい流れを示す劇場でもあるが、削減される一方の補助金配分を巡って二人の仲がギクシャクし、2004年の後半からはコンビを解消したとのことである。[4]

  さて、1984年の『三人姉妹』は、シュタインとシャウビューネ劇場アンサンブルとが、それまで長く築き挙げてきた密接な関係の解消を告げる舞台でもあった。これ以後、シュタインはシャウビューネ劇場の専属総監督をやめて、フリーを宣言したからである。ちょうど同じ時期に、1970年代以降のドイツ演劇をシュタインと同様に代表する演出家のクラウス・パイマンが、ボーフムからウィーンに移ると発表した。これ以後、1970年代から一貫してドイツ演劇の中心であったベルリン・シャウビューネ劇場に対して、1990年代はむしろウィーン・ブルク劇場が新たな自己主張をすることとなる。[5]  

   従ってシュタイン演出の『三人姉妹』の舞台は、それまでのシャウビューネ風の演劇を集約した側面と、シュタインが新たな可能性を求めた模索の始まりとの二面性を体現している。そのために、この舞台に対する非常に高い評価と、同様に非常に厳しい評価との二面性が顕在化し、「シュタイン以後」という批判的視点も強くなり、従来の「演出家演劇」から「ポストドラマ演劇」への流れが徐々に明らかになる契機となった舞台のひとつである。[6]とはいえ、まずはどのような舞台であったかを、具体的に説明していきたい。

  第一幕は周知のように、プローゾロフ家の客間、次女イリーナの「名の日」の祝いの場面から始まる。ところでドイツの「舞台」は、日本の公的な文化会館などとは対照的なほどに広い。それに対して「観客席」は、日本と対照的に狭く感じる。そしてドイツでは日常の家屋自体がひどく高い天井を持っているように、しばしば無意味に舞台天井の高いセットが目に付く。しかしシュタインの舞台(ほとんどのシュタイン演出の舞台美術はカール・エルンスツ・ヘルマン)では、上部は押さえられており、もちろん一定の奥行きと広さはあるのだが、むしろ横に広く長い空間が印象的な舞台構成となっている。「奥行き」ではなく、横長の「並列」を強調する舞台と言える。

  横長の舞台空間は大きく三つに分かれる。舞台左手はたっぷりと広い出窓に、大きくガラス窓が斜め奥に続き、ガラス越しに木々の枝が見え、五月の陽光が窓辺の床一面に差し込んでいる。窓の直下には棚風に作りつけたベンチがある。左手前の前舞台にはグランドピアノ。舞台の右手奥には大きな二本の太い円柱があり、柱の更に奥には食堂の長いテーブルが見える。白いテーブルクロスが広げられ、豪華な燭台や食器セットが用意され、円柱の手前には花を飾ったミニ・テーブルとシンプルな椅子。そして舞台の中央、正面は重厚なデザインの壁で、父親らしい軍服姿の肖像画が掛かり、その左横に隣室へのドア。ドアの右脇に長椅子、手前に寝椅子、ドアの左脇の、出窓との境目あたりにも優雅な籐のテーブルと椅子。全体にぜいたくな絨毯が敷き詰められ、あちこちに沢山の花が飾られて、部屋のたたずまいも調度品も、完璧にロシアの明るい春の雰囲気を、実に豊かな室内空間としてリアルに具体化している。

  出窓から居間、そして食堂へとつながる一連の舞台構成は、あたかもシネマスコープの画面のように、横長の並列的な空間を作り出す。舞台の前や奥や、至る所に座る場所がしつらえられていて、『三人姉妹』の物語を途切れなく進行させるリアリズム空間を、自然に、効果的に作り出すための工夫となっている。[7]

  特に一幕の冒頭、ドラマの提示部に於いて顕著なのだが、長女のオーリガ、次女マーシャ、三女イリーナの「三人」姉妹を巡る大勢の人々のアンサンブルが、あたかも並列舞台であるかのように複数の場面で、各自の台詞がほとんど同時並行的に進行する。今、こちらで誰かが話していたかと思うと、今度はあちらで別の人物が別のことを話している。その度に観客は、舞台のあちらやこちらが気になる。観客の視線は右や左、あるいは前や奥と、常に大きく移動せざるを得ない。いわゆる第四の壁から、観客席から舞台への一方向だけの視点であるにもかかわらず、つまり舞台上の現実を一方的に「のぞき見」しているだけであるにもかかわらず、これらの視線の「移動」は、見ている自分がその部屋の中にいるかのような錯覚効果を生じさせる。

ところで『三人姉妹』とは、一体、誰が「主人公」なのであろうか?『三人姉妹』とは、そもそも特定の主人公を拒否している劇であり、三人姉妹だけに限らず、それぞれの登場人物が、それぞれの思いを常に複雑に絡み合わせ、それによって、一種の閉塞「状況」の進行を多面的に、リアルに畳みかけてゆくドラマではなかっただろうか。

  そのような舞台を作り上げるためにシュタインの参考にしたのが、かのスタニスラフスキーによる初演時の演出ノートであるようだ。というのも、この時代のシャウビューネの公演には、「シャウビューネ・ゼミナール」と陰口をたたかれるほど、詳細で分厚い資料が常にパンフレットとして準備されているからで、『三人姉妹』上演に際しても、チェーホフのポートレートやヤルタ旅行の写真と書簡の束のみならず、更にスタニスラフスキーによるロシア初演時の詳細な演出ノートが「本邦初訳」され、パンフレット資料として提供されている。[8]

  ペーター・シュタインが同様に詳細な演出ノートを用意したかどうかはともかく、大部なスタニスラフスキーの演出ノートをわざわざ資料としてパンフレットにしていることが示すように、シュタインの『三人姉妹』は、初演時のスタニスラフスキー演出を強く意識したものとなっている。

  例えば、舞台の幕が開くと、明るい春の光の中で鳥の声がうるさいぐらいに響いている。オーリガの最初の台詞が始まると十二時の時計が鳴る。これはト書きの通りだが、続いて隣の部屋の時計も鈍く響く。こちらの方はチェーホフの原作にではなくて、スタニスラフスキーの演出指示に示唆されている。続いて三人の軍人が入ってきて、挨拶するかのように、しばらく三人をみつめた後、オーリガの長い台詞の間に食堂の奥に座り込んで、何事かを語らい合う。オーリガの「春が来ると嬉しくて、モスクワに帰りたくなる云々」という台詞を遮断するかのように、舞台奥からは「ばかばかしい・・・」との声が断片的に聞こえる。原作を丁寧に、一分の隙もなく舞台化する様は、ほとんど職人芸とも言えよう。

  明るい一幕に対して、二幕は一転して暗い雰囲気の冬の夜で、舞台は一幕と同じだが、明るかった大きな窓は厚いカーテンで覆われ、ひどく暗く寒く、圧迫感のある中で、それぞれの登場人物の鬱屈が少しずつ明らかになる。そして火事騒ぎの三幕は、明るい春の一幕から、二幕の冬の夜を経て、とうとう真夜中の場面となる。一幕、二幕の居間から、姉妹の過ごす狭い寝室に舞台が移り、幾つものついたてが閉ざされた部屋の狭苦しさを強調する。心理劇としての造形という点では、とりわけ三幕が唖然とするほどにみごとで、登場人物のほとんど全ての内面的な閉塞感が、息つく暇もなく、次々と説得的に展開される。

   しかしリアリズム舞台の極致は四幕だろう。プローゾロフ家の庭の場面で、大人の手に余るほどに太い幹の木々の列が舞台全体を圧倒する。森に囲まれた庭は、正面だけがわずかに途切れて、遙か遠くまでロシアの平原と空が続いている。左手にペンキのはげた家の外観、一階が入り口で、二階が出窓になっている。左手の手前から、半分崩れた垣根が舞台中央まで続く。舞台中央にはイリーナの引っ越し荷物の山。重苦しく狭い「出口無し」の三幕から、明るく広々とした戸外の四幕への変化の中で、何度も繰り返される別れの挨拶、そこで醸し出されるバクゼンたる不安を確かめるように響く銃声・・・

  原作を丁寧に、忠実に舞台化するシュタインの演出は、おそらくはリアリズム舞台の模範ともなるような完璧さを示しており、「私の世代で、これほど洗練され、確かで、美しく、総合芸術として完成されたチェーホフは見たことがない」[9]とまで絶賛され、このシーズンの劇評家アンケートでは、35人中9票でシーズン・ベスト演出を獲得している。

  しかし他方では、スタニスラフスキーを彷彿とさせるような、しかも恐るべきゼイタクなシュタイン・リアリズムの舞台は、あたかも「ドクトル・ジバゴ」のような文芸大作の映画を見ているかのような印象すら受けるほどで、「センチメンタルで、リアリティのかけらもない」、「三文オペラ」ならぬ「三人姉妹オペラ」[10]とのレッテルが貼られるほどに酷評も多く、主要な新聞や雑誌のほとんど全てにおいて、批判と擁護とが乱れ飛ぶ有様となった。

  それは、完璧なリアリズムのお手本のように、すみずみまで隙のない完成度の高い舞台となっているが故に、古典作品を現代風の斬新な解釈で提示し続けてきた従来のシュタイン演出からは、大きく軌道修正しているようにも見えたからである。そして シュタイン自身もインタビューの中で、「どこに進むのかは自分でも分からない」と述べながら、先述の伝説的舞台である過去の「タッソー」や「ペール・ギュント」における自分の新演出をほぼ全否定して、「演劇伝統への回帰」「テクスト中心」を宣言している。[11]これ以後、シュタインは「博物館化」との批判にもかかわらず、オペラの演出、夏のザルツブルク・フェスティヴァル、あるいは「ファウスト」の完全上演と、いわゆる現代演劇の「ポスト・ドラマ」化に対抗する姿勢を鮮明に打ち出している。

  シュタインのこのような態度は、その後のドイツの激動、すなわち再統一と右翼の活発化などから判断して、当時46歳という年齢から来る個人的な保守化」傾向による変節」と理解するのでは、あまり生産的な議論にはならないだろう。問題を大きく捉えれば、「学生反乱」世代、いわゆる「1968年世代」的な社会批判の言説の空疎化ということに関連するだろうし、あるいは演劇美学的に見ても、『三人姉妹』のシュタイン演出の基盤には、実は1974年のゴーリキー『避暑地の人々』の演出の影響が明らかだからである。

  『三人姉妹』のちょうど10年前にあたる1974年という年は、1972年に施行された「過激派条例」の結果、逆に左翼過激派のテロリズムが先鋭化して、1977年の赤軍派テロをピークとする『秋のドイツ』に到る途上で、社会全体が一種騒然としていた時期であった。「1968年世代」の性急な社会改革の要求と戦後へのラディカルな批判が、学生反乱から過激派テロへと暴走する中で、新たな内面化傾向を示す「新主観主義」への「転換(ヴェンデ)」が顕著になるのが1974年頃である。[12]それがボート・シュトラウスを筆頭とする新たな世代の劇作に反映し、あるいはファスビンダーやクレッツ、トゥリーニなどの「新民衆劇」や、一連のフェミニズム運動、更には「ポスト・モダン」という言い回しが目につき始めるのも、この時期である。

  そのような背景を持つシュタイン演出の『避暑地の人々』は、テロにまで追いつめられつつある学生反乱世代のドイツ知識人の「絶望」という雰囲気を色濃く持っていた。そもそも1904年に初演されたゴーリキーの『避暑地の人々』自体が、革命前のロシア知識人を批判的に描いた作品という点で、1901年初演の『三人姉妹』と時代状況を共にしている。作品と時代との双方に関わる過去と現在との二重の共通性からも、あるいはその徹底したリアリズム描写からも、1984年のシュタイン演出の『三人姉妹』は、単にスタニスラフスキーの初演のみならず、1974年のシュタイン演出の『避暑地の人々』の延長上にも位置づけられるはずである。

  シュタインの『三人姉妹』が徹底してテクストにこだわった演出であるのに対して、その10年前の『避暑地の人々』のテクストは、ボート・シュトラウスによる改作を基礎にしている。この改作においては、ドラマの「筋」に重点をおかず、各自の「おしゃべり」が同時並行的に絡み合う方向を強く打ち出して、社会全体の縮図としての「複線的・並列的・同時的な言説状況」を浮かび上がらせるという趣旨の下で、登場人物や台詞構成の刈り込みを、かなり思い切って行なっている。[13]シュタイン演出は、ボート・シュトラウスによるその改作テクストを更にまた一段と解体して、それぞれの台詞の絡み合いを一層複雑にしている。その結果、知識人「批判」という原作の視点は、むしろ知識人の無能さや無力さの「自覚」に、つまりは絶望感の強調へと大きく重心が変化している。

   『避暑地の人々』に関するディスカッションの中で、シュタインはこう述べている。「演じられる役柄の状況と、役者自身の状況との一致が存在する・・・歴史的条件の相違にもかかわらず、階級的に規定された、知的な、心理的な前提が一致するということで、つまりは小市民的ということなのだ。」[14]

  『避暑地の人々』で練り上げられた、徹底してリアルな、複雑に絡み合う同時並行的な言説による知識人の絶望感という舞台世界は、10年後の『三人姉妹』においては、一層洗練された形で繰り返される事になる。演出や美術のみならず、主要な登場人物のほとんどが重なり合う『避暑地の人々』と『三人姉妹』の二つの舞台は、10年の歳月が何であったのか、何処に向かおうとしているのか、それを改めて認識させる素材となっているのだ。つまり『三人姉妹』の徹底したリアリズム舞台は、単なる『三人姉妹オペラ』にとどまらず、伝説的ともなったシャウビューネ劇場とペーター・シュタインの過去を、すなわち「戦後」をラディカルに批判した1968年世代の知識人の有り様を、革命前のロシア知識人の状況と対応させながら、自分自身の土台を徹底的に描き出そうという意図が明瞭に見て取れるのである。

  1984年のペーター・シュタイン演出は、そのわずか5年後にドイツ統一の激動を迎える事になった。それは、体制崩壊という点から見れば、チェーホフの『三人姉妹』初演のわずか4年後にロシア革命が勃発したのとも対応している。後知恵にすぎないのではあるだろうが、現状変革などが全く信じられないような、閉塞感の最も極まったような時こそが、最も変革の可能性が高かったのだということになる。従って、現実の閉塞から目を逸らさず、それを見据えようとするチェーホフの芝居と、テクストに固執して、初演時の演出を彷彿とさせる徹底リアルなシュタインの演出と、それぞれの同時代感覚が、何十年もの時を隔てて共鳴を起こしたのである。そのような問題意識を見据えさせる舞台を作り出したところに、シュタイン演出の最も重要な核を見なければならないように思える。[15]

   

2 乾いたスラプスティックの舞台:

クリストフ・マルターラー演出<1997年のフォルクスビューネ劇場>

 

  1989年の東西ドイツの「統一」後、ドイツの演劇状況は大きく変貌することとなった。例えば旧西ベルリンでは、統一に伴う経済的負担に耐えかねたベルリン市当局による、老舗のシラー劇場への補助金廃止のスキャンダルが1993年であった。1997年には、シャウビューネ劇場の総監督アンドレア・ブレートが主要俳優とのスケジュール調整に苦労したあげくに辞表を叩きつけ、従来の劇団制度(ドイツではアンサンブルと言う)の終焉を宣言する有様で、[16]シャウビューネ劇場のかつての華やかさは明らかに色あせてしまった。あるいは旧東ベルリンの、ブレヒト以来の伝統を持つベルリーナー・アンサンブルでは、期待されたハイナー・ミュラーが1995年に急死して以来、長い総監督不在が続く。両劇場の復活は、シャウビューネ劇場の総監督としてトーマス・オスターマイヤーが2000年に、ベルリーナー・アンサンブルにクラウス・パイマンが1999年に登場するまで待たねばならない。

   1990年代は、統一後の政治的・経済的混乱の中で、ドイツ演劇を代表する劇場の多くが混迷せざるをえなかった。補助金削減の傾向は現在まで続いているのだが、そのような中にあって、むしろ牽引力にますます迫力の出てきた劇場がウィーンのブルク劇場であり、もう一つがベルリンのフォルクスビューネ劇場である。

  フォルクスビューネ劇場は、旧東ベルリンのローザ・ルクセンブルク広場に立つ劇場で、右翼に虐殺された女性革命家に由来する広場の名前からも、あるいは直訳すれば「民衆舞台」となる名称からも、1920年代のエルヴィン・ピスカートア以来の「政治演劇」の雰囲気を今なお色濃く残している。地下鉄が便利だが、アレクサンダー・プラッツ駅から歩いても、カール・マルクス通りからルクセンブルク通りに入ると、劇場の正面に向かってまっすぐ歩くことになる。大した距離ではない。

一般的にドイツおよびヨーロッパの劇場の多くは宮廷劇場の伝統を引きずっているために、ゴテゴテとしたネオ・ロココ風の過剰な装飾が目立つ。それに比べると、フォルクスビューネ劇場は外観こそシンプルながら立派だが、内装はひどく質素である。もちろん桟敷も見あたらずに、横一列の座席が、高い天井の下にだだっ広く階段状に並ぶだけの素っ気ない劇場であるが、西による東の「吸収」にすぎない「統一」後の現在も、一貫して「オスト(東)」というネオンを、高々と夜空に輝かせ続けるという、そのような根性を示している劇場でもある。[17]

   フォルクスビューネが特に刺激的な舞台を作り出すようになったのは、1992年に総監督に就任した「若き野生児」と呼ばれるフランク・カストルフの登場以来である。シュールとダダと不条理と言われる彼の舞台のグロテスクなテクスト破壊のハチャメチャぶりは、1990年代のドイツ演劇をポストドラマへと特徴づける核ともなって、シュタインのテクスト重視とは全く対極に位置する舞台を量産している。

  『三人姉妹』演出のクリストフ・マルターラーは、チューリヒで音楽を専攻した変わり種の演出家兼作曲家で、有名なのは1993年の『ヨーロッパ人をブチ殺せ!』や1995年の『零時間あるいはサービスの芸術』などで、いずれもフォルクスビューネ劇場のアンサンブルによる。何ら特定の筋はなく、ドイツ人の自意識に関わる様々な語りや演説や引用の断片を、しばしば美しい合唱を効果的に用いながら、独特な身体パフォーマンスの舞台にまとめあげている。[18]1997年からチューリヒのシャウシュピールハウスの総監督になり、2003年初めに演出したシューベルトの『美しき水車小屋の娘』の音楽パフォーマンスも評判になったが、チューリヒ当局とのトラブルの結果、2005年からはフリーになっている。

   そのようなマルターラー演出による『三人姉妹』は、ペーター・シュタインのリアリズムとは対照的に作られているにもかかわらず、チェーホフの世界の深部を明確に突いた、印象的ですぐれた舞台となっている。舞台美術と衣装は、マルターラーの舞台のほとんどを手がけるアンナ・ヴィーブロックによる。[19]

   客席に座ると、幕の手前、舞台前面のオーケストラ・ピットにあたる部分が一段低くなっており、そこが下舞台になっている。その左手にはオルガンとピアノ、右手には長いテーブルと椅子が十脚ほどあり、テーブルの上には何本ものウォツカの瓶と、菓子が入っているらしい大きな皿。これがシュタイン演出では奥にあった食堂兼居間ということになるようだ。

  ところがブザーの後、幕が左右に開いて、まず目を見張らされた。ドイツの劇場の天井の高さはすでに指摘したが、その高さを目いっぱいに利用して、階段がしつらえてある。チェーホフの指定では、各幕の舞台設定は「柱のあるサロン」「オルガとイリーナの部屋」「プロゾーロフ家の古い庭」である。しかしそれらは全く無視され、場面転換も一切行われず、4時間あまりの舞台は全て、この窓もない、ただ階段と手すりと殺風景な壁だけの閉じた空間で行われる。

  ところで階段舞台そのものは珍しくはない。1910年頃に「三次元的舞台」を提唱したアドルフ・アッピア以来、現代の我々はしばしば階段を利用している。ただし、そのような場合の階段は、観客席から奥に向かっている場合が多く、いわゆるレヴューのフィナーレ風の使い方が基本であろう。しかし、そのような単純に「見せる」階段とは全くコンセプトが異なる。[20]

  客席から見て、まず舞台右手に13段の階段が奥に向かって登っている。その階段は正面背景の壁にぶつかったところで小さな踊り場となり、続いて壁に沿って左に、横向きに斜めに登って行く。階段は凝った渦巻き模様の鉄の手すりを見せながら舞台左手の壁にぶつかり、今度は客席に向かって更に登るが、観客には階段の裏側の斜めの漆喰壁しか見えない。ほぼ天井まで届いたあたりで右に曲がる。その最上段では、手摺り越しに数十センチの高さしか見えない。右手に突き当たってから少し下がる。また階段の裏側しか見えないが、すぐに背景の壁に沿って、今度は中段で、水平に左手に進む手摺りが見える。

  いささかわかりにくい説明で恐縮だが、階段は直角に曲がりながら、渦巻きのようにぐるりと回りながら続き、舞台の奥半分を上から押さえつけるように全体を圧倒している。更に主舞台の奥正面から左手に手摺りで囲った大きな穴のようなものがあり、地下室へ降りる階段の吹き抜けとなっている。主舞台の床は凝った模様のタイルで覆われて、デザインのモデルはポーランドのお屋敷の廃墟であるらしい。

  要するにマルターラー演出の『三人姉妹』では、延々と長く、ぐるりと回り続ける階段が上から、舞台全体を押さえつけるように支配している。主舞台として一階のやや広い程度の踊り場ホールを使うのだが、明らかに奥行きはほとんど無視して、上方へ幾つも重なる階段と、主舞台の手前にしつらえた一段低い下舞台とで、幾つもの高さの並列(縦列と書くべきか)を強調した多次元的な舞台空間を構築している。シュタインの舞台が横に並列的な構成をしていたのに対して、ここでは縦方向の舞台の重層性が強調されている。

   さて、幕が左右に引かれると、すぐに男性がひとり、客席からよろよろと登場する。しかしこれは伴奏者で、そそくさと左手のオルガンの前に座り、ロシア風のメロディーをしっとりと弾き始める。世紀末ロシアの、いかにもチェーホフ的な雰囲気を醸し出したところに、いきなり三人姉妹が上から降りてくる。それも足をそろえて高らかに、ザッザッと足音を響かせながら一列に並んで歩くのである。ここで上述の階段のぐるぐる廻る距離感が生きてくる。

  まず最初に、右向きに並んで進む三人姉妹が中段上の方に見える。次にやや登って逆の左向きになる。この最上部の位置では三人の脚しか見えない。それから裏の壁しか見えない階段を降り、右斜めに下がる階段に姿を現した後に、やっと観客と向き合って主舞台に降りてくる。このグルグル廻る登場にはかなり長い「間」が必要であるが、それは意表を突くと同時に、演劇的にはかなり効果的である。というのも、ドイツ語では一列行進を「アヒルの行進 Gänsemarsch」という言い回しをするのだが、ただ一列になって歩くのではなくて、手と足をそろえて歩く。例えば舞台左手の階段を降りるときには、姿は見えずに、ただ足音だけがザッザッと異様に響くのであるから、それはアヒルと言うよりも、むしろ軍隊行進のイメージと重なる。観客には何事が起こったかと期待させる効果を持つと共に、『三人姉妹』に即して見れば、亡くなった父親が将軍であったという設定と、軍隊が街を去る結末との呼応がすぐに思い起こされるし、更に言えば、ベルリンという場所における「軍隊行進」のイメージが、自ずとナチへの連想を引き起こすことは言うまでもない。

   しかし、この登場の異様さの本当の意味に気づくのはその後である。

   三人姉妹は地下室への吹き抜けの手摺りの手前の椅子に、同様に一列に座る。ところが一番右にいるオルガは観客に向かって座っているのだが、アーニャとイリーナの二人は舞台左手を見つめて横向きに座ったままである。「お父様がお亡くなりになってからもう一年が立ったわ・・・」と始まるオルガの最初の長い台詞の間、アーニャとイリーナはただ背筋を伸ばしてジッと壁を見つめ、ソヨとも動かない。反応もしない。またオルガの台詞も、本来ならば思い出にひたる、しっとりとした語り口であるべき筈なのに、あたかも急行列車のような早口で、激しく一気に語られる。この不自然な語り口は、以後も随所で、各人の長台詞の度にしばしば繰り返される。

  もちろんそのような語りが続くだけであれば、観客はたまったものではないので、通常の対話はごくナチュラルに語られるのだが、その場合も相手はしばしば無反応になったり、あるいは台詞が終わったとたんに、壁をジッと見つめて、相手を無視しているかのように佇む。

  このような反リアルな演技のあり方は、単純に言えば一種の「人形ぶり」と理解することができる。江戸時代、歌舞伎が人形浄瑠璃に人気をさらわれた際に、役者が人形の真似をすることで観客を取り戻そうとしたように、人間が機械人形を真似た動きをするおもしろさは、演技の基本の一つと言えるだろう。従って、いかにも不自然な俳優たちの動きは、当然、観客の笑いを誘うことになる。あるいは三人姉妹にしても、三女のイリーナはそれなりに若いのだが、長女のオルガは悪趣味なビーズの帽子をかぶる中年女性(ハイデ・キップ)で、次女のマーシャ(ズザンネ・デュルマン)にいたっては、どう見ても60歳近い老婦人である。

  そのような不自然さや、時に漫画的にすら見える不自然な動きは、最初は意表を突かれたおもしろさだけで見ているわけだが、しかし自分の台詞が終わる度に壁を向いたり、あるいは地下室への吹き抜けの横に立ってジッと下を見つめて動かない登場人物が増えてくる度に、観客の意識が徐々に変化し始めてくる。ただの「人形ぶり」ではなく、これがチェーホフの芝居なのだと気づき始めるのである。笑いを醸し出すような奇妙な動きの背後に、それぞれの登場人物の「状況」が、舞台全体の「絵」として、はっきりと見え始めてくるのである。[21]

  例えばイリーナに向かって、恋心を込めて未来を語るトゥーゼンバッハ中尉の大げさな身振りは、あたかもナチ党大会の演説を思わせる。そのコミカルな動きと口振りは、観客には笑いを引き出すのだが、イリーナには不審なまなざしを呼び起こし、中尉とイリーナとの関係の齟齬を、疑問の余地無く効果的に示すことになる。

  あるいは変人のソリョーニイ大尉の一幕の登場の仕方や、三幕でのレコードとのパ・ドゥ・ドゥなどは、クラシック・バレーの動きのようなスラプスティックな動きで、個人的には赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」に出てきた「イヤミ」というキザな人物の硬直ぶりを思い出してしまったほどである。当然、そのような漫画的な動きに対して、観客はドッと笑ってしまう。笑ってしまうのだが、ソリョーニイ大尉の独特なニヒルな渋面と、周囲の無反応から醸し出される「おかしさ」が、同時に彼の「浮き上がった」状況を、これ以上無いほどの説得力を持って我々に提示することにもなる。

  つまり各自のコミカルな動き、あるいは不自然な反応や「無」反応の一つひとつが、単なる人形ぶりやコミックという表層的な効果を意図したのではなく、あるひとつの原則から引き出されていることに、観客が自ずから気がつくし、その原則を引き出した根拠となっている「読み」が、決して思いつきではなく、むしろ十分に納得できるチェーホフ理解ではないのかと思えてくるのである。

  『三人姉妹』は、彼女たちの合い言葉である「モスクワへ」という言葉に集約される未来への希望が、劇展開と共に少しずつ色あせ、現実の中で最後には決定的に押しつぶされるという内容のドラマである。結末のオルガの台詞、「わたしたちが何のために生きているのか、それがわかりさえすれば・・・それがわかりさえすれば!」との叫びが、彼女たちを見捨てて街を去って行く軍楽隊の明るい音楽に重なって、うつろに響く・・・そういう芝居である。

  問題はこの「うつろに」響くという部分の理解であろう。『三人姉妹』が「対話の不可能」をテーマとした、最初期の「現代」戯曲のひとつであると指摘したのは、ペーター・ションディの『現代戯曲の理論』だが、[22]マルターラー演出は、この「対話の不可能性」を、文字通りに、忠実に舞台に表現しようとしている。そのためには、「ドラマ」が暗黙の前提としている人間関係への「センチメンタルさ」を徹底的に排除しているようである。[23]

  モスクワ芸術座でのスタニスラフスキー演出による初演以来、『三人姉妹』を含めたチェーホフの芝居は、「ロシア・リアリズム」の傑作戯曲として、どこの劇場でもいわば定番の人気出し物となっている。ヨーロッパはもちろん、日本でもこれまで繰り返し演じられてきたが、一貫して初演時の「リアリズム」的発想が強く影響を与えてきたように思える。つまりロシア革命前の沈滞した社会状況を背景に、世紀末の知識人の閉塞から来た無力感を描いた心理劇という理解である。そこでは「リアリズム」という発想の下に、微細な心理のアンニュイを印象主義的に描写すること、つまりはロシア的な風俗の一種抒情的な表現の巧拙にのみ心を砕いていたと書くと、いささか言い過ぎになるであろうか。[24]

  もちろん非リアリズム的発想に立つチェーホフ演出も幾つもある。古いところでは1960年代、当時の「実存主義」演劇の風潮の中で、ルドルフ・ネルテ演出は彼女たちの「出口無し」を「ベケット風」に描いたとのことであり、[25]新しいところでは1991年に、イタリアのロベルト・キウリが「チェーホフの内面化されたスタイルを欠いた」「パロディーとファルス」の演出を見せたとのことである。[26]残念ながら両方とも未見だが、毎年のように繰り広げられるチェーホフの「新しい」舞台に於ける基本的発想は、相変わらず「リアリズム」的発想が依然として揺るぎ無いように思える。

   従来の『三人姉妹』演出が、100年も昔のリアリズム的発想をほとんどトラウマとしている結果、悪しき抒情的センチメンタリズムに流れるあまり、作品理解の最も中心となるはずの対話の「うつろな無意味さ」と、表現上の矛盾を引き起こしているのではないのか?この矛盾を解消するためには、徹底して「センチメンタル」な要素を排除してみよう・・・これがおそらくマルターラーによる『三人姉妹』演出の発想の核心にあるように思える。そして表現としては、「対照」の強調による「外し」と、「反復」を具体的方法としている。

  冒頭の伴奏者の登場も、「さあ、これから芝居が始まるぞ・・・」との観客の期待をみごとに外している。折々に流れるロシア風のオルガンの響きにしても、あるいはショパンのピアノ曲にしても、いかにもセンチメンタルな曲想の故に、逆に三人姉妹の非センチメンタルな演技と状況が「対照的に」強調されることとなる。

  俳優の登場に関しても同じことである。どの俳優もほとんど例外なく、一番上の階から、階段を延々と降りて登場するのだが、その間、しばしば主舞台での演技は完全に中断する。黙って降りてくる俳優と、うつろに宙を見据えたまま凝固している俳優たちとの両方を観客はジッと見つめ、ほとんど「無意味」に「待ち続ける」こととなる。その「間」は、しかし演劇的には決して無意味ではなく、かえって対話者の「沈黙」を強調することができるし、何よりもチェーホフとは、そもそもそういう芝居ではなかったのだろうか?「ただ見ている」だけの観客の内部に、否応もなく「内省」が生じてくる。

  人物の出入りは、判で押したように全て、上から登場して最下層で退場となる。上から下への動きの流れは、取り戻せない過去を未来への空しい希望に結びつけようとするドラマの内容と対応する。きどった言い回しをすれば、時間の不可逆性の空間的表現となる。あるいは「モスクワへ」という未来への希望を、地下室への吹き抜けを無反応に、首をうなだれて見下ろす「まなざし」が拒否する。語られる「言葉」の空虚さを、「身振り」が無言に告発しているのである。

  特に最終幕では、舞台空間のあちこちに、何人もの登場人物が、あたかも樹木のように真っ直ぐに立ちすくんだままで語り合う。ほとんど抑揚も無く、身振りも極力そぎ落として、お互いにあらぬ方向を見つめ、ただただ延々と語られ続けるだけの言葉は、受け取り手の欠落した空虚な響きでしかない。その場合、階段を使った上下の重層的な舞台空間が驚くほど生きてくる。それぞれの人物が互いに触れ合うことなく、別々の方向を見つめながら、別々の高さに立つ。別々の世界に、別々の価値観に、別々の次元に位置しながら、互いに語り合う言葉は全く噛み合うことがない。そのような「状況」が、言葉でなく、理屈でなく、舞台空間の中での「絵」として、すなわち身体感覚を伴った「演出」として、我々観客の目に直接に入りこんでくるのだ。

  そうなると不自然な動きも、冒頭の軍隊行進のような三人姉妹の登場も、ただの「人形ぶり」とは全く異なって、実は隠されたテクストの「読み」を瞬間的にかいま見せるためであったと納得できてしまう。事実、マルターラー演出の『三人姉妹』を見た後では、これまでの全てのチェーホフ作品の舞台が、あまりにもセンチメンタルに過ぎていたように思えてならない。すぐれた舞台の印象はいつまでも後に残るだけでなく、過去に見た舞台の理解さえも根本から変えてしまうことがある。それがマルターラー演出の『三人姉妹』の舞台なのである。

 

3 沈黙の回転舞台:

ミヒャエル・タールハイマー演出<2003年のドイツ座>

 

  ペーター・シュタインの舞台が、まるで教科書のように完璧なリアリズムであったのに対して、クリストフ・マルターラーの場合は、全く場面転換を行なわず、不自然な対話と人形ぶりの動きを繰り返す奇妙な反リアリズム舞台であった。しかし台詞という点では、マルターラーの『三人姉妹』は、彼の他の一連の音楽パフォーマンス舞台とは異なり、不自然ではありながらも、原作の台詞に沿った対話を行なっていた。ところがミヒャエル・タールハイマーの舞台では、テクストそのものが徹底的にそぎ落とされ、改編され、全く異なった新しい舞台造形が産み出されつつ、しかし、まぎれもなくチェーホフの世界を見せるという離れ業を行なった演出なのである。[27]

  演出家のタールハイマーは1965年生まれで、1951年生まれのマルターラーや、1937年生まれのシュタインと比べるまでもなく、文字通りの「若手」である。それにもかかわらず、2001年以来、連続で演劇批評家アンケート・ベスト演出のラインナップに必ず顔を出す常連となっている。

  旧東ベルリンを代表する劇場であったドイツ座に赴くためには、フリードリッヒ通り駅を降りて、ベルリーナー・アンサンブル劇場を左に見ながらシュプレー川を渡る。左に曲がってラインハルト通りに入ると、すぐに上品なクリーム色の楚々とした姿が見えてくる。向かいに大学の食堂の建物もある。1989年の統一直後しばらくは、まだ荒れ果てた東ベルリンの裏通りの雰囲気が残り、街灯もひどく暗かったのだが、今ではずいぶんと明るく、きれいに整備された。ベルリンで最も古い劇場であるドイツ座は、シラーなどの古典や、イプセン、ストリンドベリなどの現代古典を伝統としており、フォルクスビューネ劇場やシャウビューネ劇場に比べると、着飾った正装の観客がかなり目立つような雰囲気ではある。

  さて、タールハイマーの『三人姉妹』は、マルターラーの反リアリズムを更に一歩進めて洗練させたような舞台である。シュタイン演出が横の並列空間で、マルターラーが縦の重層空間であったのに対して、タールハイマーの舞台は「円形」の空間舞台である。つまり「廻り舞台」ということで、そこでは回転し続ける「壁」が、常に存在感を伴って自己主張をする。舞台美術はオラフ・アルトマン。角材のような出っ張りを数十センチ間隔に縦に並べた白い壁が、まずは舞台の真ん中にデーンと鎮座しており、他には大道具も小道具もほとんど無く、ただ壁だけが、廻り舞台の上でゆっくりと回転している。回転するにつれて、壁は位置を変えるのみならず、その姿も変える。というのも、壁は更に幾つもの壁を従えて、刻々とその姿を変えるからであり、奥と左右とコの字になった壁が舞台中央を取り囲むのが通常の舞台だろうが、奥に向かって二つの壁が鋭角に交わって三角形の空間を作ったり、三つの壁が奇妙に交差したり、真ん中にひとつだけが現れたり、壁が前方にせり出して狭い通路のようになったり、あるいは小さな壁を幾つも付け加えて迷路のようになったり、演技空間は、緩慢に回転しながら様々な組み合わせで姿を変える壁と共に、幾何学的に多様に変化し続ける。その度に舞台は様々な表情を見せながら、登場人物の台詞と呼応して、チェーホフの世界を台詞とは別の次元で効果的に提示する。

  例えば冒頭場面、まだ誰かを同定されることのないままで、ただ佇んでいるだけの登場人物が、舞台の回転と共に一人ずつ現れる。そして新しい人物が現れると、まるで互いの接触を避けるかのように、前の人物は回転する壁の向こうに消えて行く。登場人物達が次々とめまぐるしく現れては消えてゆく舞台には、静かな雨だれのように単調な音楽(作曲ベルト・ヴレーデ)が流れ、時折、メロディーと音量にヴァリエーションをつける。また、壁の移動による空間の変化を、照明(トーマス・ラングート)によるシルエットや長い影の表現力が強調している。ドイツの舞台は、例えばフランスの舞台と比べた場合、総じてあまり照明にエネルギーを注がないような印象も強いので、これは舞台美術と並んで特筆に値するだろう。台詞も動きも、まだ何も具体的に始まってはいない。それにもかかわらず、音楽と回転する舞台と照明とが一体となって、緩慢に流れゆく「時間」がヒタヒタと押し寄せて、静かに観客の心に浸み込んで来るのだ。[28]

  回転し、次々と様相を変える壁の使用に対応した俳優の演技は、変化する空間の全体を使って、互いに離れて「立ちつくす」ことが基本形となる。沈黙のまま佇む。そういう形象を随所に効果的に使用する。例えば三幕、医者のチェブトゥイキンが「全て忘れてしまった・・・」と己の無能力を嘆く場面。誰もいない広い舞台の奥に向かって壁の二面が斜めに交差している、その交差している舞台の奥に、だらしなくガウンを羽織った医者が、身体半分だけで姿を現すのだが、沈黙が長く、不自然に長く続く。そして上述の台詞は、しみじみと、あるいは投げやりに語られるのではなく、舞台奥から劇場空間全体に響くような大声で語られるのである。「本当は誰も存在なんかしていない・・・」という、ほとんどつぶやきのようであるはずの言葉が、大声でどなられることによって、それを語る医者の酩酊と絶望感とが、声の響きという肉体的な説得力を持って提示される。

  二幕では、それまで常に壁によって分断されていた狭い舞台空間が一転して、壁が左右と後ろに退き、照明も明るく、本来の広く見慣れた舞台空間となる。登場人物も一堂に会して、それまで断片的に示されていた各自の絶望感が、それぞれに語られる。例えばモスクワには大学が一つあるのか、二つあるのか、という実にささいな事実が、互いに興奮し、怒鳴りあうほどのエキセントリックな話題になる。一見コミカルなやりとりは次第にエスカレートして、強迫的なまでに増幅された相互の違和感は、先述の『避暑地の人々』の改作を行ったボート・シュトラウスの諸作品の造形を想起させもする。

  あるいは三幕の終わり近くに、長男アンドレイの長い台詞がある。三人姉妹に対する彼の劣等感が反転して、日頃の憤懣を一気に開示するのだが、姉妹への要求の言葉を繰り出せば繰り出すほど、アンドレイ自身の内面の欺瞞が明らかになる場面である。「第一に、僕の妻ナターシャへの尊敬を・・・」で三人姉妹の一人が去り、「第二に僕が市会議員であることへの尊重・・・」でまた一人が去り、「第三に・・・」で最後の一人も去る。自分の作った莫大な借金の言い訳を、すでに誰もいない空間に向かってアンドレイが語り続けるうちに、またもや舞台は回転し、離ればなれに並んで一列に壁に立つ三人が現れる。彼女らが消耗し、絶望して寄りかかる壁の向こうから、かつては三人の希望であったはずのアンドレイの悲痛な叫びが聞こえてくる。アンドレイという、三人姉妹の拠り所であったはずの未来への希望は、すでに決定的に「壁の向こう」へと去って行き、ただ無内容な嘆きだけが遠くから響いて来る。沈黙の中で疲れて佇む三人の後ろには、巨大な「壁」が、舞台全体を圧倒して抑圧するようにそびえている。 

  本来のテクストを大幅にカットしたり、異なった形式で表現することも多い。例えば一幕で医師のチェブトゥイキンがイリーナへのプレゼントのサモワールを持ってくるのだが、イリーナの素っ気ない対応に、チェブトゥイキンは高価なプレゼントを床に投げ捨てて、それを踏みにじりながらヒステリーを起こす。同様なヒステリーは、トゥーゼンバッハ中尉がイリーナに誕生日の贈り物を渡す場面でも現れる。プレゼントの包み紙がうまく開けられず、偏執狂的に包み紙と格闘する中尉の姿は、ほとんどスラプスティックなドタバタだが、その間、マーシャはあらぬ方向を見つめたままである。リアルな対話ではなく、しばしば不自然なほどの早口でまくしたてられる台詞が、それを語る側の一種の強迫観念にとらわれたような孤独感につながる。しかもリアルな動きはできるだけ廃して、立ちつくし、目を合わさず、互いに離れたままなので、余計に言葉だけが宙に浮いたような効果を持つ。これらは先述のマルターラーとも共通する。

  登場人物の全てに、端役も含めて存在感があるのは、役柄を性格のように固定化しないことで、全体の孤独感と「語れない」状況とが浮き彫りにされるためだろう。例えば役所からの知らせを持ってくるだけの老人フェラポントは、周りに佇む登場人物たちの不審な視線を浴びながら、奥から斜めに舞台空間の中央をゆっくりと横切り、口を開く前に、ノドの調子を確かめるかのように軽い咳払いを繰り返す。何度も何度も繰り返す。その間、舞台上の全ての動きは凝固して、その結果、舞台の広い空間は重量感を持ち初め、これまでに積み重ねられた空疎な時間の重さとして表現される。

   そのような細かな表現上の工夫は枚挙のいとまもないのだが、何よりも圧倒的なのは最後の四幕である。極度に切りつめた台詞が、ここでは極端な形で示されるからである。つまり、全く台詞というものの存在しない事態が出現するのだ。

  三幕から切れ目無く続く四幕の冒頭、舞台前面に壁が現れて、いかにも素人くさい映像で、白黒の8ミリフィルムが映写される。内容は四人の小さな子供達の誕生日の様子、公園での遊び、そして寝る前の枕の投げ合い・・・それらの映像が映されている間に、舞台はまたも回転し、映写されていた壁が舞台奥に移動する。それと共に、その映像を見つめる登場人物たちが、後ろ向きで舞台前面に並び、観客と共に、昔の楽しかった子供時代の思い出の映像を見つめる。ここでは登場人物の視線と、観客の視線とが完全に一致する。従って、舞台奥のなつかしい素朴なフィルム映像と、それを舞台前面で見つめる登場人物たちの後ろ姿のシルエットとの対比が、観客の側には、まるで息をのむような哀切感を呼び起こすこととなる。

  映写が終わり、明るくなると、それまで奥を見つめていた人物たちが客席の方に向きを変える。それと同時に、奥の壁が突然、一気にバーンと大きな音を立てて、観客席に向かって倒れ込む。その勢いで激しく風が舞い、舞台上の人物たちの髪や服を背後からはためかす。この一瞬は、観客の意表を突くのみならず、四幕と、そして『三人姉妹』の演出のコンセプトが、何の台詞や仕草の説明が無くとも、観客の側に一挙に、感覚的に入ってくる印象的な名場面となる。

ベルリンという場所における「壁崩壊」のインパクトは、あえて説明の必要も無いぐらいだろう。「モスクワへ!」という希望が突然に崩壊したのは、もちろん舞台上の三人姉妹にとってのみではない。そもそも「ドイツ」座という劇場は、「旧」東ベルリンに位置してもいるのだ。「モスクワ」という三人姉妹の希望の言葉は、旧東ドイツにおける社会主義の未来という希望と重ね合わされて、「壁」と共に崩壊するのであるから、ゆっくりと回転し、最後に沈黙の中で倒れる「壁」の存在感の圧倒的な力によって表現される『三人姉妹』は、作者チェーホフのイメージをすら完全に超えて、より具体的で、より痛切な歴史的な「現在」の意味合いを伴いつつ、ベルリンの舞台では、全く新たな意味合いで立ち現れるのである。

  三人姉妹は「倒れた壁」に座る。そして、そのまま静かに、黙って客席を見つめる。あたかも「壁」の意味を問いかけるかのように・・・他の人物達は、それぞれ舞台の前や奥を、ゆっくりと脈絡無く横切る。全ては一切の言葉を欠いたまま、沈黙の中で行なわれる。それらのパントマイムは、しかし説明的ではなく、むしろ暗示的な雰囲気を醸し出すのみで、もはや言葉が機能しないかのようでもある。

 沈黙の舞台が続くに連れて、やがて観客席にとまどいが広がり、ささやき声が起こり、ざわつき、ついにシビレを切らせて出ていってしまう客さえ現れ始める。このように言葉も説明も全てを省いて、ただ緩慢な動作のみが持続する舞台は、日本人ならば能楽の舞台などで、それなりに鍛えられているのだろうが、ドイツの観客にはひどく難解に感じるのかもしれない。少なくとも初心者向きとは言えないだろう。やがて誰かが次女のイリーナに近づき、何事かをささやく。それを耳にしたイリーナは、ゆっくりと、静かに両手で顔を覆う。そして幕が静かに下りる・・・[29]

  もしも『三人姉妹』を初めて見る観客がいるとすれば、何のことだかサッパリわからないにちがいない。タールハイマーの演出は、観客の側の内容への了解を完全に前提としている。しかし全てのテクストと説明を投げ捨てて、観客の知識と理解力に全面的に依拠した無言の舞台の作り出す哀切感は、かつて経験した事の無いほどに圧倒的なものであった。こんなチェーホフがあるものか、これこそがチェーホフだ、との相反する思いがグルグルと頭の中を駆けめぐるのである。

  『三人姉妹』とは、「モスクワへ」という希望の「喪失」の物語である。そしてその喪失の「意味」を問いかける戯曲でもある。絶望と希望の振幅が、チェーホフ固有の深みを産み出し、答えも希望も必ずしも明示されず、あくまでも観客の側にゆだねられている。従って「壁崩壊」後の、「言葉」を喪失した四幕のタールハイマーの『三人姉妹』は、まさにその「喪失」を、これ以上ないほどの説得力を持って我々の前に提示し得ていることになる。タールハイマー演出においては、「言葉」に寄りかかった従来のドラマトゥルギーが解体されつつ、しかしそのパフォーマンスは、テクストそのものの説得力を決して放棄したわけではないだろう。「言葉」は単に否定されるのではなくて、むしろ別の可能性を求めてさまよう途上にあるとも言える。つまり、言葉の限界と沈黙の限界とがスパークを起こす、その瞬間を提示する場所、それがタールハイマーの舞台ということになるであろう。[30]

  ペーター・シュタインからタールハイマーまで、様々な「読み」と「表現」との試行錯誤の演出を支えているのは、もちろん観客であり、その観客を生み出すベルリンという都市である。例えば統一後に全面改築となったフリードリッヒ通りは、一見、いかにも無機的な大都会のビル街となってしまったように見える。しかし地下街であるフリードリッヒシュタット・パッサージュなどは、現代美術をブロック単位で斬新に取り入れ、歩みを進めるにつれて次々と雰囲気の変わるおもしろさがある。同じフリードリッヒ通りが、北にシュプレー川を超えると、瓦礫や廃墟のビルが目立って様相が一変する。自主的な現代美術の展示に利用された廃虚ビルに集約されるような、都会の「変化」に対する敏感さは、同時に、その都会の「記憶」と不可分である。「記憶」への自覚的な態度を積極的に評価するかどうか、それが、いわゆる「現代」を、あるいは「文化」を、つまりは「都市」を、単なる一過的で消費的な「場」と見るのか、それとも持続的な「可能性」と見るのかの分かれ道となるだろう。多様な人々が出会い、別れ、反発しあい、吸引しあい、喜びと苦しみにうごめく都市空間のエネルギーは、演劇という媒体に同調して、劇場という「場」を作り出し、「演出」というパフォーマンスに凝縮する。ドイツ現代演劇の「演出」に現れる「記憶」との対決のあり方は、ベルリンのみならず、東京という都市の「記憶」のあり方を考える際にも、よい刺激となるかもしれないのである。

 

 付記:本稿は平成16年度専修大学個人研究助成の成果である。

                                                

注釈



[] フランス語の直訳としての< In die Szene setzen = Inszenierung >が、演劇においてドイツで使用された初出は188年であり、それ以前には絵画についての表現に過ぎなかった点に関しては、以下を参照。Erika Fischer-Lichte: Ästhetik des Performativen, edition suhrkampf 2373. 2004. S.318ff. Auch: Metzler Lexikon Theatertheorie. Hrg.v.Erika Fischer-Lichte, Doris Kolesch, Matthias Warstat. Metzler. 2005. S.146. ちなみに英語ではproduction, stagingとなり、独仏とのニュアンスの差が興味深い。

[] 最初に来日したのは1990年の秋で、オペラ『ファルスタッフ』の演出のためであったが、当時の日本では全く知られていなかったために、ほとんど完全に無視された形になった。例えば以下の記事を参照。岩淵達治「ペーター・シュタイン」特集・世界の演出家 『悲劇喜劇』(1991年7月号)24頁以下。

[] ペーター・シュタインについては、谷川道子『ドイツ現代演劇の構図』論創社 2005年 44頁以下。新野守広『演劇都市ベルリン』れんが書房新社 2005年 129頁以下。

[] Vgl. Wolfgang Höbel. Zerfleischung beim Affentanz. Der Spiegel. Nr.46/2005. S.162.

[] Vgl. 寺尾格 「ウィーン/ベルリン二都物語 1990年代のドイツ演劇」 日本独文学会研究叢書002 『<戦後文学>を越えて 1989年以降のドイツ文学』 初見基編 2001年。67頁以下。

[] 日本でも新野守広の次のような発言がある。「ひたすらチェーホフの世界を美しく飾り立てるような・・・(中略)、これがかつてアヴァンギャルドといわれた人の舞台かと、非常に違和感を覚えました。」 鼎談ベルリン演劇の「いま」 谷川道子『ドイツ現代演劇の構図』114頁。

[] これを単なるリアリズムとのみ理解するべきではないだろう。「ネオ古典主義とも称すべきあの有名なシャウビューネ・美学」と批判的に見るレーマン自身が、例えばロバート・ウィルソンなどと並んでペーター・シュタインの名前を挙げて、新たな舞台「空間」の可能性を「絵画舞台=タブロー=イメージ空間」として言及してもいる。ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』(2002年 れんが書房)71頁および216頁参照。

[] 寺尾の手元にあるプログラム資料は、チェーホフの写真と生涯に関する資料の厚さが約1センチで、更にスタニスラフスキーの初演時の演出ノートを独訳した205頁もの冊子が加わる。「新野:観客も、ただボーッと見ているだけではなく、シャウビューネの分厚いプログラムが示すように、お客さんも勉強せい!という姿勢でした。」(鼎談 ベルリン演劇の「いま」 谷川道子 前掲書所収、112頁。)

[] Theater 1984. Jahrbuch der Zeitschrift Theater heute. S.39.

[10] Benjamin Henrichs: In: a.a.O. S.41.;19世紀の装飾芸術の再現Ruth Waltz: Museum der Sentimentalität. Aus: Theater heute. Nr.3/1984.

[11] Interview mit Peter Stein. Wohin das führen wird, weiss ich noch nicht. In:Theater heute. Nr.4/1984.S.2.ff.

[12] “Tendenzwende – Literatur zwischen Innerlichkeit und alternativen Lebensformen(1969-77)  In: Deutsche Literaturgeschichte.Vierte überarbeitete Auflage. Metzler. 1992. S.582.ff.

[13] Boto Strauß: Sommergäste nach Maxim Gorkij. Fassung der Schaubühne am Halleschen Ufer von Peter Stein und Botho Strauß. In: Theaterstücke 1. Carl Hanser. 1991. S. 221ff.

[14] Volker Canaris: Sommergäste, Regie Peter Stein. In: Theater 1975. Sonderheft der Zeitschrift Theter heute. S. 52.なお、ボート・シュトラウスとの関連は以下の論考に詳しい。

大塚直「ボートー・シュトラウスと劇団シャウビューネ ゴーリキー『避暑に訪れた人びと(Sommergäste)』改作をてがかりに」明治薬科大学研究紀要第33号 平成15年 1頁〜22頁。

[15]  ペーター・シュタイン演出の『三人姉妹』、『避暑地の人々』は、どちらも青山のドイツ文化センターの二階にある図書室でビデオ視聴が可能である。貸し出しもしているが、ただしヨーロッパ標準のパル方式なので、通常の家庭用ビデオ機では見ることができない。

[16] Siehe: Theater heute. Nr.10/1997. S.1.

[17] もともとの設立が1890年、社会主義者のブルーノ・ヴィレのイニシャティヴで、労働者のための演劇を提供する劇場であった。新野守広『演劇都市ベルリン』156頁以下参照。ちなみに設立当時のチケット代は1マルク。定期会員になると、月一回のチケット代金が10月から3月まで50ペニヒ、4月から9月だと25ペニヒの安さであった。Erika Fischer-Lichte, Kurze Geschichte des deutschen Theaters. 2.Auflage. 1999. Francke Verlag (Tübingen) S.256f.

[18] 「マルターラーは、ドイツ語圏を遙かに越えて、90年代のヨーロッパ演劇全体の発見なのである。」 Peter von Becker. Das Jahrhundert des Theaters. Hrsg. v. Wolfgang Bergmann. DuMont Literatur und Kunst Verlag(Köln). 2002. S.235.

[19] Vgl. Anna Viebrock. Bühnen / Räume. Hrsg.v. Bettina Masuch. Theater der Zeit.Berlin 2000.

[20] 集合住宅の「階段吹き抜け」の空間(Treppenhaus)である。上演のパンフレットによれば、「テーブルの代わりに登場するのが階段吹き抜けである。人生とは、もはや待合室などではなく、上と下との間にある短く滞在するだけのトランジット(通過)空間にすぎない。」Aus Programmpapier von der Volksbühne am Rosa-Luxemburg-Platz.

[21] 「日常を支配する無気力 Lethargie」との劇評もある。Franz Wille: Vielleicht existiere ich ja gar nicht? In: Theater heute. Nr.10/1997. S.19.

[22] Peter Szondi: Theorie des modernen Dramas. Edition suhkamp 27. 1978. 13.Auflage. S.32 ff. 市村仁・丸山匠訳『現代戯曲の理論』法政大学出版 1979年 33頁以下。

[23] 70年代的な解釈の涙もろさ(Larmoyanz)から解放すること」Aus Programmpapier von der Volksbühne am Rosa-Luxemburg-Platz. また、マルターラー自身もこう言っている。「登場人物は決して彼等の内面を示すことがない・・・」Klaus Dermutz: Christoph Marthaler. Residenz. 2.Auflage, 2001. S.159..

[24] 日本における白眉としては、以下を参照。宇野重吉『チェーホフの桜の園について』麦秋社 1978年。

[25] 「この作品が投げかけている、実に根元的にロシア的である問いかけは、同時にヨーロッパの世紀末の問いでもあり、シンプルで、重苦しく、不可避の問いかけなのである・・・」Henning Rischbieter. Die Wahrheit, leise und unerträglich. In: Theater heute. Heft 3. 1965. S. 25.  Auch vgl. S. 30.

[26] Gerhard Preußer. Rückwärts Träumen in die Zukunft. In: Theater heute. Heft 7. 1991. S.20f.

[27] タールハイマー自身は「すべてを削り落とし、核だけを残すレダクション(削減)の手法」と述べている。『現代ドイツのパフォーミングアーツ』堤広志編 三元社 2006年 76頁参照。

[28] 舞台空間をリアルな「意味」から解放して、幾何学的抽象的な可能性、特に照明の表現力の発見は、アドルフ・アッピアの先駆的な仕事の具体的な成果である。Vgl. Peter Simhandl. Theatergeschichte in einem Band. Henschel Verlag (Berlin) 1996. S.541.

[29] ドイツの観客には、この種の「沈黙」の説得力というのは、いまひとつピンと来ないようで、劇評も歯切れが悪い。例えば、Detelev Bauer: Spieldosenschwestern, In: Die Bühne.4/2003. S.61.  Thomas Irmer: Durchgelüftet bis zur Vergeblichkeit. In: Theater der Zeit. 4/2003. S.51f.

[30] 「作品に忠実であることは、テクストに忠実であることと同じではない。」とタールハイマーは述べている。Christina Tilmann:  Michael Thalheimer. Liebe in Zeiten der Beziehungslosigkeit. In: Werk-Stück. Regisseure im Porträt. Arbeitsbuch 2003. Theater der Zeit. S.165.

 

専修大学人文科学研究所月報 第226号 2006年11月30日 23頁〜42頁